平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
故郷豊岡 ー 伊勢への旅(中)
我が家の鉄火寿司
伊勢の夜にホテルのレストランで頂いた伊勢名物「てこね寿司」
今一つ味にパンチ力が感じられなかったので
帰宅後、マグロを買ってきて
我が家名物鉄火寿司を作った
わさび醤油が効いて、やっぱりうまい。
(伊勢の旅の続き)
今夜、泊りの伊勢駅前ホテルにチェックイン。夜は、ホテル内のレストランで、長兄及び姪(長兄の長女)と四人で会食した。下戸の会所は時間がかからずに終わった。客が外に一組しか居なかったので、ゆっくりとお話が出来た。自分は姪と、女房は長兄と二組に別れて、話が弾んだ。
60歳を越した姪は、何年か前に連れ合いを亡くし、子供二人も巣立って、独り暮らし。トールペイントの講師をしていると聞いていたが、今はギターを弾いてグループで老人ホームなどを廻り、ボランティアで演奏会をしているとか。直近では、友人と二人で、お菓子を作って販売しているらしい。真珠の乗った、あこや貝のお菓子を焼いて、無店舗でいろいろなところへ出して販売するのだという。儲けが出るところまでは行かず、無給だというが、今日も雑誌の取材を受けていたというから、中々本格的である。
亡くなった連れ合いは税務官で、調査畑だったらしい。おそらく仕事の話は聞いたことがなかっただろうから、企業と税務官がどんな対応をしていたのか、その一端を話してやった。自分は会社で会計担当だったから、毎年のように税務調査を受けてきた。その経験から話したのだが、日本の税務制度は申告制である。申告に元づいて税額を計算し納付する。税務署が調査して不備や間違いを見付ければ、修正申告して追加の税を払う。
税務官と会社の会計担当は決して敵対関係という訳ではない。会社で日々発生する事柄がすべて税法に規定されているわけではない。不明な部分がたくさんある。それを税法に照らして、一つ一つ判断して行くのが税務調査である。敵対して裁判になるのは、もっとも下手くそな調査である。だからお互いに妥協して落とし込む位置を決めるのが、上手な調査になる。
とは言え、税務官は一歩税務署を出れば、すべて敵であるから、日々の緊張感は想像を絶するものであろう。お付き合いして来た税務官の多くが定年を待たずに、あるいは定年を待っていたように亡くなって行くのに出会ってきた。姪の連れ合いは元々身体も弱かったというが、定年まで何年も残して、早くなくなっている。
久しぶりに、そんな話を思い出しながら話していた。(つづく)
読書:「佐平次落とし 三人佐平次捕物帳」 小杉健治 著
読書:「さよならの夏 南アルプス山岳救助隊K-9」 樋口明雄 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
故郷豊岡 ー 伊勢への旅(前)
伊勢神宮内宮の五十鈴川
10月30日、31日、11月1日と、故郷但馬の豊岡へ久しぶりに帰って来た。伊勢の長兄(88歳)と、豊岡の実家で待ち合わせる。実家を継いだ次兄(82歳)は病を得てから2年立ち、その見舞と両親の墓参りを兼ねた旅であった。
静岡から車で高速道路を乗り継いで、約6時間掛かった。明石在住の「本町の伯父」の孫のT君から、唯一碁を打つからと、伯父の残した碁盤を頂き、長く実家に預かってもらっていたが、それを受取るために、おそらく最後の長距離の車運転になると思い、今回、愛車アクアで女房と行くことにした。小さい車のハイブリッドで、ガソリンを気にしなくてよいから助かる。碁盤は伯父さんが往昔世話をした、静岡で開業した医者から頂いた碁盤で、高価なものである。その開業医には大学入学時に下宿を世話して頂くなど、随分世話になった。
豊岡では、甥(長男)夫婦、家を継ぐ甥(三男9夫婦と子供たち、それに、嫁に行った姪(長女)と姪(次女)が集まり、にぎやかであった。墓参りの後、ホテルにチェックイン。夜は料理屋で食事をした。歩くもままならなかった次兄も、少しづゝ歩けるようになり、元気を取り戻したようで、大慶である。食事の席で、正式に甥(三男)を後継ぎとする旨、次兄より話があった。
2日目、朝、伊勢へ帰る長兄を乗せて5時間、くたびれたが何とか運転した。夕方の伊勢神宮の内宮は参拝者も減って、気分良く、やや薄暗い杜の中を歩いた。久しぶりの内宮の森は、木々が一段と太くなって、杉や楠の巨木(幹回り3m以上)の杜であった。中に巨樹(幹回り5m以上)もたくさんあった。巨木ファンには垂涎の杜であった。(つづく)
読書:「餓狼剣 八丁堀「鬼彦組」組激闘篇」 鳥羽亮 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
お袋七回忌の法事に帰郷(5)
「天澤寺殿三百年記録」ようやく献立を記した8ページ分の解読が最後まで来た。但し、まだ十数ヶ所、解読できない部分が残っている。幕末頃の精進料理を知らないから解読も出来ない理屈で、明日から図書館に出向いて、その勉強を仕直して、不明な部分を解明するつもりでいる。なお、手付かずの残りは5ページで、会計報告と締めの文言である。もう少しまで来た。
*****************
3月26日は、城崎温泉の「花まんだら」という旅館に泊まる。城崎温泉の老舗旅館であった、まんだらやの経営者が代わったらしく、宿の名前も変わった。すぐ隣に、外湯の「まんだら湯」がある。知り合いが支配人をしているとかで、次兄が予約してくれた。兄弟3人で、こんな旅館に泊まるのは初めてのような気がする。
食事前に、外湯まんだら湯に行く。夕方の時間で、思いの外、混み合っていた。これだけ混み合う温泉には、ついぞ、入ったことがない。脱衣所で隣りの人と肌が当るほどの混み合い方で、ゆっくり入っている気分になれず、早々に出て来た。
聞けば、「まんだら湯」は七つある外湯で、最も規模が小さいのだという。外へ出てよく観察すると、外に入湯者がたむろしていて、係の人が度々、中の込み具合を見てきて、入場を促している。事実上の入場制限をしているようであった。春休みのせいか、学生らしい若い人たちが多い。外国人はそれほど目立たなかった。
案内板によると、まんだら湯は、西暦717年頃、温泉寺の開祖、道智上人が、この地を訪れ、千日祈願したことで、湧き出したといわれる。城崎温泉の始まりとされる外湯である。正面に唐破風の付いた重厚な作りの外湯である。
かにを食べたいとの長兄のリクエストで実現したが、松葉がにはもう季節の終りのようであった。口さがない情報通の仲居さんは、色々な地元情報を知っていた。長兄、次兄とは話が通じたが、三男の自分は知らない話ばかりであった。
食後、次兄に誘われて、夜の城崎の街を歩く。まんだら湯の前に大谿川が流れ、しばらく街の裏側を流れに沿って歩いた。この裏道には、川に沿い桜が植えられ、赤い提灯が連なり灯っているが、桜はまだ蕾であった。人もほとんど通らなくて、浴衣に丹前では、少し寒かった。
メインの道路に出ると、さすがに多くの宿泊客が、外湯を巡るのか、下駄音も高く歩いている。下駄がからんころんと鳴るのを、久し振りに聞いた。スマートボールや射的など、ネット時代に懐かしいアナログな遊びに、たくさんの観光客が興じている。
通りで、MM氏の営むうどん屋に入った。息子さんに話して、呼び出した。MM氏はまだ仕事着で出て来て、しばらく話す。自分の同級生で、そのつながりと思っていたが、長兄は大学の後輩、次兄は地元のつながりで、それぞれ話題を持っていて、しばらく話題の外に置かれてしまった。
その後、少し歩いて、長兄も疲れた様子に、宿へ下駄を遠慮なく鳴らして、戻った。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
お袋七回忌の法事に帰郷(4)
一昨日から、名古屋のかなくん母子が泊っている。正月からまだ3ヶ月しか経っていないのに、かなくんの背がまた一段と伸びたように見える。
午前中から、駿河古文書会の現地見学会で、由比に出掛けた。参加者は20名であった。昼食はサクラエビ尽しの食事。
*****************
翌日、3月26日、お袋の七回忌当日、午前中にお年忌を終え、お墓に参ってから、近所の、懐石料亭「とゞ兵理玖」で、参列者で会食をした。この「とゞ兵」は古くからの店の名前で、箸袋に次のように書かれている。
明治の初年、山陰の沖合にて捕獲したる、三メートルにも及ぶ胡獱(とど)という怪魚、弊亭初代兵助、これを求めて、店頭に囲いしところ、その珍らしさに日々多くの見物人集まり、何時の程にか「とゞ兵」の渾名を得、爾来屋号として今日に至る。
この「とゞ兵」の経営者が変り、「理玖」の名が付け足された。なお「理玖」は豊岡藩家老の娘で、大石良雄(内蔵助)に嫁いだりくさんに因んだ名前である。(大石りくは豊岡の有名人である)
広間の南側には円山川の廃川が見える。今から100年近くまえに始まった円山川の流れを変える大工事は、17年ほど掛かって完成した。それまで豊岡市街の方へ大きく蛇行していた円山川は、郊外を真っ直ぐ流れる川に付け替えられ、蛇行した部分は廃川となった。
その結果、毎年のように水害に襲われていた円山川は、漸く水害も収まった。ただ、昭和34年の伊勢湾台風と、平成16年の台風23号だけは例外で、旧市街全域が水没した。幸い、どちらも我が家のある町内は、水没した中に島のように残って、水害を免れている。
「とゞ兵理玖」の窓から見える廃川は道路や駐車場などになり、水の流れる部分が細く残るだけになっているが、かつては幅いっぱいに、ほとんど流れない川で、若者たちがボートで遊び、子供たちには格好の釣り場になっていた。夕方遅くまで、釣り糸を垂れて、鯉、鮒、鯰などがよく釣れた。当時は外来魚も居らず、夏にはヤンマ類が飛び交う、静かな河辺であった。今ならウォーターフロントと呼ばれ、市民の憩いの場として大切にされたと思うが、戦後、さらに高度成長期、そんな配慮は誰もする余裕がなかった。
会食で、阪神在住の自分の従兄弟の息子、KH氏席が隣りになり、食事の間、ずっとお話をしていた。自分のお遍路の話に興味を持たれたようで、専らこちらが話す方になった。KH氏は母親を伴って、西国三十三観音を車で廻ったというので、話がよく通じた。
話は二度のお遍路で巡り合った人々とのふれあいや、四国の人々の弘法大師やお遍路さんへの思いの話になり、自分のお遍路の本を二冊、送らせていただくことを約束した。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
砂防の神様、赤木正雄 - 墓参に帰郷の三日間
七日、アクアで帰郷し、円山川の土手から市街地に入る右手に、水防小屋の裏に隠れるように、昔の山歩きの姿の銅像が円山川に向いて立っていた。「あんなところに銅像が!」実家で次兄に聞くと、故郷が生んだ砂防の神様と言われた赤木正雄氏の銅像だという。赤木正雄という名は、どこかで聞いたことがあるが、その人生に付いては全く知らなかった。
(円山川改修碑と赤木像)
初盆に参ったあと、そこへ立ち寄り写真を撮ってきた。土手下で、銅像の回りは小さな公園になっているが、水防小屋が出来て、道路からは陰になって目立たなくなってしまったと次兄が話す。公園も夏草に覆われて、足を踏み入れるのが躊躇われるほどで、郷土の偉人もこんな風に段々忘れ去られるのだろうと思った。
その台座の碑文によれば、
豊岡市の生んだ赤木正雄農学博士は、我が国砂防の神とまでいわれていることは、ひとり博士の名誉と栄光にとどまらず、但馬の誇りでもある。博士は長い内務省生活を通じ、また貴族院及び参議院議員としての政治的立場からも、自ら全国各地に赴いて、治水砂防事業の必要性を説かれ、県下では六甲をはじめ円山川、矢田川水系の砂防並に円山川改修等に残された業績はまことに大であり、住民ひとしくその恩恵に浴し、永久にその功績を讃えるものである。(以下略)
(赤木正雄生誕地碑、背後に見えるのが、赤木氏の実家)
翌日、丹後半島一周のドライブに出かける途中で、赤木氏の実家の手前の道沿いに「赤木正雄生誕の地」の碑があることを次兄が教えてくれた。
その碑の略歴によると、
博士は碑の南の地に、明治二十年三月二十四日、赤木家十一代甚太夫次男に生まれ、旧制第一高等学校、東京大学卒業、大正三年内務省に入り、治水工事に従事、令兄の勧めにより、大正十二年より二ヶ年間、西欧諸国に渡り、ウヰーン工科大学等にて研究、帰国後内務省にて、全国各地の砂防治水に関与、全国治水砂防協会を創設し、昭和十七年貴族院議員に勅選、同二十二年参議院議員に当選、建設次官任命、昭和四十六年豊岡名誉市民に推さる、同年文化勲章受章、昭和四十七年九月八十五才にて逝去、従三位勲一等瑞宝章に叙さる。
この碑には書いてないが、赤木氏は豊岡中学校(旧制)の卒業生である。豊岡中学は我が母校の豊岡高校の前身でもある。つまり、赤木氏は自分の大先輩に当たる。
実家へ戻ると、次兄が「赤木正雄先生追想録」という本を貸してくれた。赤木正雄氏が亡くなった後に出版された、縁(ゆかり)の人々の思い出を集撰した本であった。もう昔に亡くなった伯父の蔵書から頂いた本だと言い、赤木氏の小伝も付いていた。
パラパラ見ていくと、紙が挟まれたページに伯父の思い出文が載っていた。貴族院議員が、戦後民主主義になって、参議院議員の選挙の洗礼を受けることになったとき、伯父はどうやら但馬赤木会の事務局長をしていて、選挙運動で、演説の露払いの役割を果たしていたらしい。飾らない人柄を紹介している。どこへ行くにも、登山家のような服装だった。いつでも、治水砂防の現場に出向くことが出来るようにという理由であった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
丹後半島一周の車旅 - 墓参に帰郷の三日間
(伊根の舟屋)
七日に初盆参りも、墓参も済ませて、八日は車でどこかへ周ろうと次兄が誘う。本当は竹田城跡に行ってみたいと思った。竹田城跡は、今、日本のマチュピチと呼ばれて脚光を浴びている。雲海に浮ぶ島のように見える石垣群は、確かに一見に値する。霧の中では町からは、あの有名な写真のようには見えないのは勿論、城跡に登っても、雲海が見えても石垣の全貌は見えない。どこか近くの山に登ってみるのだろうか。出来たらそんな事も良く調べた後に、登りたいと思った。とにかく、この暑さでは例え低山とは言え、山に登るのは無理である。また登っても雲海がないとつまらない。雲海が出るのは秋だから、またの機会にするしかないと思った。
次兄の提案で、丹後半島を一周、兄弟3夫婦揃って、2台の車に分乗して出掛けた。外は酷暑だけれども、車の中はクーラーが効いて快適である。自分が運転したアクアは燃料が高騰していることが全く気にならないほど燃費が良い。一方、次兄の車はアクアの2.5倍ほどガソリンが掛かって大変だと思った。
幾度も訪れたことのある天の橋立はそばを通過しただけで、今日のメインの伊根に急いだ。伊根の舟屋は何時からだったか、急に有名になった。絵を描くのを趣味にしている長兄が一度行って見たいと話していたところである。丹後半島の東岸を北上した先に入江や島の囲まれた伊根の町が見えてきた。
伊根の舟屋のある町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、保存が図られていると案内板にあった。
若狭湾に面した伊根浦は、日本海には珍しく南に開けた静かな入り江であり、東、西、北の三方を山に囲まれている。伊根湾と日本海の接するほぼ中ほどに、自然の築いた防波堤のように緑深い青島が浮かんでおり、伊根湾の入口を二分している。
しかも伊根湾の三方を囲んでいる急斜面の硬い岩山は、そのまま海に落ちて深い淵をつくっており、波を起こしにくい地勢を形成している。また、伊根湾においては潮の干満差は極めて小さく(年間50cm程度)、静穏度の高い天然の良港といえる。
およそ350世帯で構成される伊根浦の集落は、延長約5kmにおよぶ伊根湾の海岸沿いに連続して細長く形成されている。
大変解りやすい説明だったので、長々と引用させてもらった。湾に沿って建てられた家は、2階建ての一階が海に向かって開き、舟でそのまま家へ入る造りになっている。まるで住居の下がガレージになっているような造りである。海側から見ると家が半分海に沈んでいるように見える。
湖のように静かで、水位が変わらない湾だから出来た特殊な町並みで、おそらく日本には外に例のない地形条件であると思う。若狭湾には年縞で世界に知られた水月湖もあり、何か不思議な魅力を持っている。
この後、灯台のある経ヶ岬、間人皇后ゆかりの間人、鳴き砂の琴ヶ浜、小天橋などを通って実家へ帰った。ほとんどが素通りだったが、日本でもっとも目立たない半島の丹後半島にも、なかなか見所が多そうである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
「かさぶた日録」のことなど - 墓参に帰郷の三日間
- 小さいのが採り頃のキュウリ)
7、8、9日の三日間、故郷に墓参で帰郷した。
故郷の次兄との話で、「かさぶた日録」はもう何年になると聞く。2006年元旦から始めたから、もう7年と8ヶ月目に入った。ほぼ毎日の書き込みがそれだけ続いているのは誉められてよいのだろうと思う。生まれてこの方、毎日のことで、これほど長く続けたことはない。始めた当初、59歳でまだ現役だったけれども、67歳にも齢を重ねた今は、まったく仕事はしていない。あと2年半で「かさぶた日録」開設から10年になる。そこまでは何とか続けたい。60代が終ったら、70代をどう生きるかと考える中で、ブログをどうするかを考えよう。
ブログを毎日続けていることを誉められることがあるが、自分の意思さえしっかりしていれば、続けられるなどと、今は大言はしない。病気でもすればたちまちストップするし、家族に心配事があれば、ブログなど書いておれなくなるだろう。これだけ続けられたのは、何と言っても、家族に大きな心配事がなく、自分もまずまず健康に過せたからであろう。周りの皆さんに感謝々々である。
最近は古文書の解読の勉強に一生懸命で、ブログを休みたいくらいであるが、両立させるために、今勉強していることをブログに書こうと思った。そうすれば両立できる。皆さんには興味のないことを書き綴って、大変迷惑なことと思う。自覚はしているけれども、勘弁してもらうしかない。古文書以外の関心事も、せいぜい、書くように心掛けたいとは思っている。ただ、古文書の解読に熱中していると、世の中の日々の動きなどに興味が湧かなくなることも事実である。
七日の夕方、嫂の実家へ、嫂の母親の初盆のお参りに、兄弟三人揃って行き、少しお話をしてきた。嫂の兄さんは高校の一年先輩で、文化祭の時に、その先、親戚になるとも知らないで、少しお話をしたことがあった。家業の不動産業をまだ続けているのだが、近年は身体にも色々いう事があって、と話される。それでも、次男が継いでくれることになって、勉強を終って、今徐々に仕事を任せ始めていると聞いた。
お遍路に行ったときに聞いた話で、人生で一番良い頃は、何と言っても60代、仕事も子育ても終えて、しかもまだ体力が残っている。何かするなら60代だと言われたことを話した。だから自分は仕事はすべて止めた。今は古文書の解読の勉強に頑張っている。嫂の兄さんは68歳、早く仕事を息子さんに任せて、何時までも仕事にかまけている時ではないと話したかったが、言葉を呑んだ。人それぞれのライフスタイルで、他人がとやかくいう事ではないからである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
法事に帰郷 - 懐石料亭 とゞ兵理玖
昨日、故郷の来迎寺で法事を終え、会食は在所の近所の「懐石料亭 とゞ兵理玖」で行った。
かつて、とゞ兵は町でも一、二を争う高級料亭であった。円山川の川沿い(河川改修で廃川となる)にあって、川を見下ろす料亭であった。子供の頃、その石垣の下で、よく釣りをして、鯉、鮒、鯰などを釣った、と兄たちが話す。自分にも鮒釣りの思い出がある。夕方滑って護岸の岩の角で左掌を切り、血だらけになって家へ帰ったことがある。医者など行かずに済ましたが、その時の傷跡が今でもうっすらと残っている。
風景の中には存在したが、そんな料亭に入ることなど、今まで考えたこともなかった。だから、今日は、初体験である。表に海獣の親子の剥製がガラスの中に飾られている。ずいぶん古くなって体毛の色が褪せてしまっている。店名「とゞ兵」の由来が記してあった。明治の初年、山陰沖合にて捕獲した三メートルにも及ぶ胡獱(とど)という怪魚(北海道産アシカ科)を、初代兵助が求めて店頭に囲ったところ、その珍しさに日々多くの見物人が集り、いつの程にか「とゞ兵」の渾名を得て、以来屋号として今日に至る、と書かれていた。
とど兵は、江戸末期の弘化四年(1847)に創業で、建物は築80年というから、昭和初期の頃のものだという。近年になって、高級料亭ではやって行けなくなったのであろう。経営主体が変わって、リーズナブルになった。その頃に、現店名に変更されたようだ。つけ加わった「理玖(りく)」については、赤穂浪士の大石内蔵助の妻りくが豊岡藩の家老の娘から嫁いで、内蔵助の妻となった。そのりくはとゞ兵から200メートルほどのご近所で生れている。町ではりくを顕彰して観光資源としているが、それに因んで、店名に加えたもののようだ。
懐石料理らしく、料理の初めに抹茶が立てられ、全員に饗せられた。法事の跡だから、床の間には観音像が祀られ、最初に線香が焚かれ、いっぷくの抹茶が亡き人に供えられた。お袋は自らお茶を立てたから、何よりのお供えだったと思う。店の気遣いに感謝した。食前酒は「香住鶴」、隣りの母方の従兄弟は「香住鶴」は評判の御酒だと誉める。それでいて、今日は車で来たからと、ノンアルコールビールを飲んでいた。
(ノドクロの黒い喉)
「のどくろの焼物」と聞いて、喉を覗くと確かに黒い。昔、こんな魚は食卓に載ることはなかった。昔であれば雑魚だったのだろう。今はそんな魚たちが立派な料理として出てくる。
特別に高級食材が使ってあるわけではないけれども、懐石料理として、料理方法を工夫して、口を飽きさせないのはさすがである。その辺りが料理人の腕の見せ所なのであろう。こういう料理でいつも思うのは、最後の方に出てくる料理(今回は天麩羅)は割を食ってしまうことである。手さえつけられないで終わってしまう場合もある。自分は隣りに合わせて、ノンアルコールビールにしたため、最後の料理まで完食できた。
(廃川の風景)
川側に開いた縁側に出ると、下から見上げてきた風景が眼下に見える。しかし、旧円山川(廃川)は道路や建物で川幅を狭められて、川としては見る影もなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
お袋の初盆に帰省した3日間(その2)
8月8日、花火を見た後、次兄の案内でカラオケのあるスナックへ行く。そこから力餅さんへ電話して呼び出した。このスナックは力餅さんの行き付けだとか、昨晩も来ていたと聞く。力餅さんに次兄夫婦、長兄夫婦を紹介する。次兄はこのスナックで、弟の友人と聞いて、一度力餅さんとは逢いたいと思っていたようだ。終わり近くになって、力餅さんと長兄とは同じ大学同じ学部の先輩後輩の関係だったことが判明して、改めて挨拶していた。
力餅さんのうどん屋は仕込みを本人が午前中に行い、営業は息子に任しているから、店は開けていても、基本的に自分には用がないのだという。夜は自分の部屋で星を眺めたり、音楽を聞いたりしている。またこのスナックへは足繁くくると話す。
高校の英語教師だったY先生の「我が半生 -忘れ得ぬことども-」と題した本を、力餅さんから借りた。6年前に80歳で他界されたと言い、その遺品の中からこの原稿束を見付け、奥さんが出版されたものだという。教室で、片手にリーダーの教科書を開いて持ち、読みながら解釈を付けている姿を、おぼろげながら思い出す。どんな思いで原稿束を残されたのだろう。原稿を書き残した気持ち。あえて自費出版に及ばなかった考え。それが死後、陽の目を見ることになった感慨。自分には何となく想像できるような気がする。
城崎温泉では、今、都会に出ていた息子たち若い世代が次々に戻ってきて、若い力が起爆になって、賑わいを取り戻して来ていると聞いた。不景気でリストラなども多く、それが帰郷の一因なのかもしれない。社員旅行など団体旅行も減り、城崎温泉でも家族客のリピーターをどのように増やして行くかが、課題になっているようで、湯けむり太鼓を始め、子供向けの温泉レンジャーショーを日曜日に催したり(ちなみに力餅さんの息子はこの温泉レンジャーを演じているという)、川蟹レースを開催したりと、滞在客を楽しませることに一生懸命であるように感じられた。(この川蟹は各旅館で飼われて、生きの良い間はレースに出し、弱ってくると、コウノトリの餌になるのだという)
大きなホテルなどが少なく、小さい旅館が大谷川沿いにたくさんある温泉の形態が顧客のニーズに合っているのであろう。オリンピックやスカイツリーに客を取られて、今は割合客が少ないといいながら、花火見物に出て来た宿泊客(浴衣姿でそれと分かる)で、けっこう賑わっていた。
兄貴たちのカラオケを聞きながら、歌が古いなあと思う。長兄が歌った灰田勝彦の「野球小僧」、かなり歌い慣れている。阪神タイガースの別当薫は長兄が子供の頃の神様だった。ファンレターを出したら返事が帰ってきて、その葉書を貼った壁に、毎朝、拍手を打ってから、学校に行ったという話は度々聞いた。
軍歌も次々に出てくる。時々カラオケのボリュームに途切れながら、力餅さんと話し続けた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
お袋の初盆に帰省した3日間(その1)
8月8日から今日まで、お袋の初盆で帰省していた。いつもは次兄が住む在所に、長兄夫婦と4人で二タ晩泊めてもらうのだが、今回はその一泊を城崎温泉に泊ろうと提案した。3夫婦の意見が一致して、宿は次兄の知り合いの、城崎温泉森津屋旅館に手配してくれた。8日夕方、在所に集合して、2台の車に分乗して城崎温泉に向かった。
お袋の介護で次兄夫婦はこの数年間は夫婦揃ってゆっくり外泊もできなかった。また一時入院していた長兄の義姉さんの病が癒えて、元気を取り戻した。色々な意味を込めて、今回、3夫婦で温泉に一泊してゆっくりしようと提案したのである。兄弟3夫婦が温泉に泊るなど、初めてのことである。子育てを終えてからも、介護があって、遠く離れた3夫婦がそういう時を持つことなど思いも浮ばなかった。
在所の豊岡市は日本の夏の酷暑ランキングで10指に入る土地柄で、海風が吹いてしのぎやすい金谷からは5℃くらい高いのではないかと思う。しかももっとも過酷な節電の夏の関西電力管内である。そんな中に出かけたわけで、暑さを心配したが、前日ぐらいから、一時的に暑さが和らいで、夜には涼しく感じるほどの気温になり、この三日間はしのぎ易くて助かった。
森津屋旅館は城崎温泉の温泉街の中にあって、外湯「一の湯」のそばである。内風呂は露天岩風呂と洞窟風呂の二つがあり、さらに外湯のフリーパスが準備されていて、自由に何度でも入れると聞く。とりあえず内風呂に入った。
城崎温泉では旅館やホテルの内風呂の大きさが制限されていて、大きな内風呂は許されない。また、遊興施設や売店も許されず、温泉客はその分、外湯や温泉街の遊興施設に繰出して行くようなシステムになっている。温泉客を囲い込みをせずに、町全体が潤うようなシステムになっている。だから、旅館やホテルは宿泊と食事に専業するようになる。昔、長い温泉訴訟があって、そういう取り決めが作られた。
食事は一番大きい長兄夫婦の部屋に用意してもらい、ゆっくりと話しながら摂った。今夜は御所神社で地元の「湯けむり太鼓」が演奏されると聞いた。週一回の演奏日に当っていた。さらに夏休みの平日には花火が、大谷川の川下、円山川方面から上げられると聞いた。
(大谷川の花火)
まずは皆んなで湯けむり太鼓を御所神社に見に行った。まるでお祭りのようであった。旅館の若主人も太鼓を叩いているという。力強い太鼓ではなく、気が浮き立つような軽快なリズムの太鼓であった。温泉街をぶらぶらしながら、花火見物に向かった。大谷川には石橋がいくつも掛かり、川の両岸にしだれ柳の並木が続いていた。川端には明かりが灯り、川下からあがった花火が川面に映り、2倍楽しめた。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ |