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砂防の神様、赤木正雄 - 墓参に帰郷の三日間

(赤木正雄銅像、いつも登山家の服装にリュック姿だった)

七日、アクアで帰郷し、円山川の土手から市街地に入る右手に、水防小屋の裏に隠れるように、昔の山歩きの姿の銅像が円山川に向いて立っていた。「あんなところに銅像が!」実家で次兄に聞くと、故郷が生んだ砂防の神様と言われた赤木正雄氏の銅像だという。赤木正雄という名は、どこかで聞いたことがあるが、その人生に付いては全く知らなかった。


(円山川改修碑と赤木像)

初盆に参ったあと、そこへ立ち寄り写真を撮ってきた。土手下で、銅像の回りは小さな公園になっているが、水防小屋が出来て、道路からは陰になって目立たなくなってしまったと次兄が話す。公園も夏草に覆われて、足を踏み入れるのが躊躇われるほどで、郷土の偉人もこんな風に段々忘れ去られるのだろうと思った。

その台座の碑文によれば、
豊岡市の生んだ赤木正雄農学博士は、我が国砂防の神とまでいわれていることは、ひとり博士の名誉と栄光にとどまらず、但馬の誇りでもある。博士は長い内務省生活を通じ、また貴族院及び参議院議員としての政治的立場からも、自ら全国各地に赴いて、治水砂防事業の必要性を説かれ、県下では六甲をはじめ円山川、矢田川水系の砂防並に円山川改修等に残された業績はまことに大であり、住民ひとしくその恩恵に浴し、永久にその功績を讃えるものである。(以下略)


(赤木正雄生誕地碑、背後に見えるのが、赤木氏の実家)

翌日、丹後半島一周のドライブに出かける途中で、赤木氏の実家の手前の道沿いに「赤木正雄生誕の地」の碑があることを次兄が教えてくれた。

その碑の略歴によると、
博士は碑の南の地に、明治二十年三月二十四日、赤木家十一代甚太夫次男に生まれ、旧制第一高等学校、東京大学卒業、大正三年内務省に入り、治水工事に従事、令兄の勧めにより、大正十二年より二ヶ年間、西欧諸国に渡り、ウヰーン工科大学等にて研究、帰国後内務省にて、全国各地の砂防治水に関与、全国治水砂防協会を創設し、昭和十七年貴族院議員に勅選、同二十二年参議院議員に当選、建設次官任命、昭和四十六年豊岡名誉市民に推さる、同年文化勲章受章、昭和四十七年九月八十五才にて逝去、従三位勲一等瑞宝章に叙さる。

この碑には書いてないが、赤木氏は豊岡中学校(旧制)の卒業生である。豊岡中学は我が母校の豊岡高校の前身でもある。つまり、赤木氏は自分の大先輩に当たる。

実家へ戻ると、次兄が「赤木正雄先生追想録」という本を貸してくれた。赤木正雄氏が亡くなった後に出版された、縁(ゆかり)の人々の思い出を集撰した本であった。もう昔に亡くなった伯父の蔵書から頂いた本だと言い、赤木氏の小伝も付いていた。

パラパラ見ていくと、紙が挟まれたページに伯父の思い出文が載っていた。貴族院議員が、戦後民主主義になって、参議院議員の選挙の洗礼を受けることになったとき、伯父はどうやら但馬赤木会の事務局長をしていて、選挙運動で、演説の露払いの役割を果たしていたらしい。飾らない人柄を紹介している。どこへ行くにも、登山家のような服装だった。いつでも、治水砂防の現場に出向くことが出来るようにという理由であった。
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丹後半島一周の車旅 - 墓参に帰郷の三日間



(伊根の舟屋)

七日に初盆参りも、墓参も済ませて、八日は車でどこかへ周ろうと次兄が誘う。本当は竹田城跡に行ってみたいと思った。竹田城跡は、今、日本のマチュピチと呼ばれて脚光を浴びている。雲海に浮ぶ島のように見える石垣群は、確かに一見に値する。霧の中では町からは、あの有名な写真のようには見えないのは勿論、城跡に登っても、雲海が見えても石垣の全貌は見えない。どこか近くの山に登ってみるのだろうか。出来たらそんな事も良く調べた後に、登りたいと思った。とにかく、この暑さでは例え低山とは言え、山に登るのは無理である。また登っても雲海がないとつまらない。雲海が出るのは秋だから、またの機会にするしかないと思った。

次兄の提案で、丹後半島を一周、兄弟3夫婦揃って、2台の車に分乗して出掛けた。外は酷暑だけれども、車の中はクーラーが効いて快適である。自分が運転したアクアは燃料が高騰していることが全く気にならないほど燃費が良い。一方、次兄の車はアクアの2.5倍ほどガソリンが掛かって大変だと思った。

幾度も訪れたことのある天の橋立はそばを通過しただけで、今日のメインの伊根に急いだ。伊根の舟屋は何時からだったか、急に有名になった。絵を描くのを趣味にしている長兄が一度行って見たいと話していたところである。丹後半島の東岸を北上した先に入江や島の囲まれた伊根の町が見えてきた。

伊根の舟屋のある町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、保存が図られていると案内板にあった。

若狭湾に面した伊根浦は、日本海には珍しく南に開けた静かな入り江であり、東、西、北の三方を山に囲まれている。伊根湾と日本海の接するほぼ中ほどに、自然の築いた防波堤のように緑深い青島が浮かんでおり、伊根湾の入口を二分している。

しかも伊根湾の三方を囲んでいる急斜面の硬い岩山は、そのまま海に落ちて深い淵をつくっており、波を起こしにくい地勢を形成している。また、伊根湾においては潮の干満差は極めて小さく(年間50cm程度)、静穏度の高い天然の良港といえる。

およそ350世帯で構成される伊根浦の集落は、延長約5kmにおよぶ伊根湾の海岸沿いに連続して細長く形成されている。


大変解りやすい説明だったので、長々と引用させてもらった。湾に沿って建てられた家は、2階建ての一階が海に向かって開き、舟でそのまま家へ入る造りになっている。まるで住居の下がガレージになっているような造りである。海側から見ると家が半分海に沈んでいるように見える。

湖のように静かで、水位が変わらない湾だから出来た特殊な町並みで、おそらく日本には外に例のない地形条件であると思う。若狭湾には年縞で世界に知られた水月湖もあり、何か不思議な魅力を持っている。

この後、灯台のある経ヶ岬、間人皇后ゆかりの間人、鳴き砂の琴ヶ浜、小天橋などを通って実家へ帰った。ほとんどが素通りだったが、日本でもっとも目立たない半島の丹後半島にも、なかなか見所が多そうである。

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「かさぶた日録」のことなど - 墓参に帰郷の三日間

(三日留守にしたら、裏の畑のキュウリが巨大化した
- 小さいのが採り頃のキュウリ)

7、8、9日の三日間、故郷に墓参で帰郷した。

故郷の次兄との話で、「かさぶた日録」はもう何年になると聞く。2006年元旦から始めたから、もう7年と8ヶ月目に入った。ほぼ毎日の書き込みがそれだけ続いているのは誉められてよいのだろうと思う。生まれてこの方、毎日のことで、これほど長く続けたことはない。始めた当初、59歳でまだ現役だったけれども、67歳にも齢を重ねた今は、まったく仕事はしていない。あと2年半で「かさぶた日録」開設から10年になる。そこまでは何とか続けたい。60代が終ったら、70代をどう生きるかと考える中で、ブログをどうするかを考えよう。

ブログを毎日続けていることを誉められることがあるが、自分の意思さえしっかりしていれば、続けられるなどと、今は大言はしない。病気でもすればたちまちストップするし、家族に心配事があれば、ブログなど書いておれなくなるだろう。これだけ続けられたのは、何と言っても、家族に大きな心配事がなく、自分もまずまず健康に過せたからであろう。周りの皆さんに感謝々々である。

最近は古文書の解読の勉強に一生懸命で、ブログを休みたいくらいであるが、両立させるために、今勉強していることをブログに書こうと思った。そうすれば両立できる。皆さんには興味のないことを書き綴って、大変迷惑なことと思う。自覚はしているけれども、勘弁してもらうしかない。古文書以外の関心事も、せいぜい、書くように心掛けたいとは思っている。ただ、古文書の解読に熱中していると、世の中の日々の動きなどに興味が湧かなくなることも事実である。

七日の夕方、嫂の実家へ、嫂の母親の初盆のお参りに、兄弟三人揃って行き、少しお話をしてきた。嫂の兄さんは高校の一年先輩で、文化祭の時に、その先、親戚になるとも知らないで、少しお話をしたことがあった。家業の不動産業をまだ続けているのだが、近年は身体にも色々いう事があって、と話される。それでも、次男が継いでくれることになって、勉強を終って、今徐々に仕事を任せ始めていると聞いた。

お遍路に行ったときに聞いた話で、人生で一番良い頃は、何と言っても60代、仕事も子育ても終えて、しかもまだ体力が残っている。何かするなら60代だと言われたことを話した。だから自分は仕事はすべて止めた。今は古文書の解読の勉強に頑張っている。嫂の兄さんは68歳、早く仕事を息子さんに任せて、何時までも仕事にかまけている時ではないと話したかったが、言葉を呑んだ。人それぞれのライフスタイルで、他人がとやかくいう事ではないからである。
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法事に帰郷 - 懐石料亭 とゞ兵理玖

(トドの親子の剥製)

昨日、故郷の来迎寺で法事を終え、会食は在所の近所の「懐石料亭 とゞ兵理玖」で行った。

かつて、とゞ兵は町でも一、二を争う高級料亭であった。円山川の川沿い(河川改修で廃川となる)にあって、川を見下ろす料亭であった。子供の頃、その石垣の下で、よく釣りをして、鯉、鮒、鯰などを釣った、と兄たちが話す。自分にも鮒釣りの思い出がある。夕方滑って護岸の岩の角で左掌を切り、血だらけになって家へ帰ったことがある。医者など行かずに済ましたが、その時の傷跡が今でもうっすらと残っている。

風景の中には存在したが、そんな料亭に入ることなど、今まで考えたこともなかった。だから、今日は、初体験である。表に海獣の親子の剥製がガラスの中に飾られている。ずいぶん古くなって体毛の色が褪せてしまっている。店名「とゞ兵」の由来が記してあった。明治の初年、山陰沖合にて捕獲した三メートルにも及ぶ胡獱(とど)という怪魚(北海道産アシカ科)を、初代兵助が求めて店頭に囲ったところ、その珍しさに日々多くの見物人が集り、いつの程にか「とゞ兵」の渾名を得て、以来屋号として今日に至る、と書かれていた。

とど兵は、江戸末期の弘化四年(1847)に創業で、建物は築80年というから、昭和初期の頃のものだという。近年になって、高級料亭ではやって行けなくなったのであろう。経営主体が変わって、リーズナブルになった。その頃に、現店名に変更されたようだ。つけ加わった「理玖(りく)」については、赤穂浪士の大石内蔵助の妻りくが豊岡藩の家老の娘から嫁いで、内蔵助の妻となった。そのりくはとゞ兵から200メートルほどのご近所で生れている。町ではりくを顕彰して観光資源としているが、それに因んで、店名に加えたもののようだ。

懐石料理らしく、料理の初めに抹茶が立てられ、全員に饗せられた。法事の跡だから、床の間には観音像が祀られ、最初に線香が焚かれ、いっぷくの抹茶が亡き人に供えられた。お袋は自らお茶を立てたから、何よりのお供えだったと思う。店の気遣いに感謝した。食前酒は「香住鶴」、隣りの母方の従兄弟は「香住鶴」は評判の御酒だと誉める。それでいて、今日は車で来たからと、ノンアルコールビールを飲んでいた。


(ノドクロの黒い喉)

「のどくろの焼物」と聞いて、喉を覗くと確かに黒い。昔、こんな魚は食卓に載ることはなかった。昔であれば雑魚だったのだろう。今はそんな魚たちが立派な料理として出てくる。

特別に高級食材が使ってあるわけではないけれども、懐石料理として、料理方法を工夫して、口を飽きさせないのはさすがである。その辺りが料理人の腕の見せ所なのであろう。こういう料理でいつも思うのは、最後の方に出てくる料理(今回は天麩羅)は割を食ってしまうことである。手さえつけられないで終わってしまう場合もある。自分は隣りに合わせて、ノンアルコールビールにしたため、最後の料理まで完食できた。


(廃川の風景)

川側に開いた縁側に出ると、下から見上げてきた風景が眼下に見える。しかし、旧円山川(廃川)は道路や建物で川幅を狭められて、川としては見る影もなかった。
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お袋の初盆に帰省した3日間(その2)

(城崎温泉街)

8月8日、花火を見た後、次兄の案内でカラオケのあるスナックへ行く。そこから力餅さんへ電話して呼び出した。このスナックは力餅さんの行き付けだとか、昨晩も来ていたと聞く。力餅さんに次兄夫婦、長兄夫婦を紹介する。次兄はこのスナックで、弟の友人と聞いて、一度力餅さんとは逢いたいと思っていたようだ。終わり近くになって、力餅さんと長兄とは同じ大学同じ学部の先輩後輩の関係だったことが判明して、改めて挨拶していた。

力餅さんのうどん屋は仕込みを本人が午前中に行い、営業は息子に任しているから、店は開けていても、基本的に自分には用がないのだという。夜は自分の部屋で星を眺めたり、音楽を聞いたりしている。またこのスナックへは足繁くくると話す。

高校の英語教師だったY先生の「我が半生 -忘れ得ぬことども-」と題した本を、力餅さんから借りた。6年前に80歳で他界されたと言い、その遺品の中からこの原稿束を見付け、奥さんが出版されたものだという。教室で、片手にリーダーの教科書を開いて持ち、読みながら解釈を付けている姿を、おぼろげながら思い出す。どんな思いで原稿束を残されたのだろう。原稿を書き残した気持ち。あえて自費出版に及ばなかった考え。それが死後、陽の目を見ることになった感慨。自分には何となく想像できるような気がする。

城崎温泉では、今、都会に出ていた息子たち若い世代が次々に戻ってきて、若い力が起爆になって、賑わいを取り戻して来ていると聞いた。不景気でリストラなども多く、それが帰郷の一因なのかもしれない。社員旅行など団体旅行も減り、城崎温泉でも家族客のリピーターをどのように増やして行くかが、課題になっているようで、湯けむり太鼓を始め、子供向けの温泉レンジャーショーを日曜日に催したり(ちなみに力餅さんの息子はこの温泉レンジャーを演じているという)、川蟹レースを開催したりと、滞在客を楽しませることに一生懸命であるように感じられた。(この川蟹は各旅館で飼われて、生きの良い間はレースに出し、弱ってくると、コウノトリの餌になるのだという)

大きなホテルなどが少なく、小さい旅館が大谷川沿いにたくさんある温泉の形態が顧客のニーズに合っているのであろう。オリンピックやスカイツリーに客を取られて、今は割合客が少ないといいながら、花火見物に出て来た宿泊客(浴衣姿でそれと分かる)で、けっこう賑わっていた。

兄貴たちのカラオケを聞きながら、歌が古いなあと思う。長兄が歌った灰田勝彦の「野球小僧」、かなり歌い慣れている。阪神タイガースの別当薫は長兄が子供の頃の神様だった。ファンレターを出したら返事が帰ってきて、その葉書を貼った壁に、毎朝、拍手を打ってから、学校に行ったという話は度々聞いた。

軍歌も次々に出てくる。時々カラオケのボリュームに途切れながら、力餅さんと話し続けた。
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お袋の初盆に帰省した3日間(その1)

(城崎温泉の湯けむり太鼓)

8月8日から今日まで、お袋の初盆で帰省していた。いつもは次兄が住む在所に、長兄夫婦と4人で二タ晩泊めてもらうのだが、今回はその一泊を城崎温泉に泊ろうと提案した。3夫婦の意見が一致して、宿は次兄の知り合いの、城崎温泉森津屋旅館に手配してくれた。8日夕方、在所に集合して、2台の車に分乗して城崎温泉に向かった。

お袋の介護で次兄夫婦はこの数年間は夫婦揃ってゆっくり外泊もできなかった。また一時入院していた長兄の義姉さんの病が癒えて、元気を取り戻した。色々な意味を込めて、今回、3夫婦で温泉に一泊してゆっくりしようと提案したのである。兄弟3夫婦が温泉に泊るなど、初めてのことである。子育てを終えてからも、介護があって、遠く離れた3夫婦がそういう時を持つことなど思いも浮ばなかった。

在所の豊岡市は日本の夏の酷暑ランキングで10指に入る土地柄で、海風が吹いてしのぎやすい金谷からは5℃くらい高いのではないかと思う。しかももっとも過酷な節電の夏の関西電力管内である。そんな中に出かけたわけで、暑さを心配したが、前日ぐらいから、一時的に暑さが和らいで、夜には涼しく感じるほどの気温になり、この三日間はしのぎ易くて助かった。

森津屋旅館は城崎温泉の温泉街の中にあって、外湯「一の湯」のそばである。内風呂は露天岩風呂と洞窟風呂の二つがあり、さらに外湯のフリーパスが準備されていて、自由に何度でも入れると聞く。とりあえず内風呂に入った。

城崎温泉では旅館やホテルの内風呂の大きさが制限されていて、大きな内風呂は許されない。また、遊興施設や売店も許されず、温泉客はその分、外湯や温泉街の遊興施設に繰出して行くようなシステムになっている。温泉客を囲い込みをせずに、町全体が潤うようなシステムになっている。だから、旅館やホテルは宿泊と食事に専業するようになる。昔、長い温泉訴訟があって、そういう取り決めが作られた。

食事は一番大きい長兄夫婦の部屋に用意してもらい、ゆっくりと話しながら摂った。今夜は御所神社で地元の「湯けむり太鼓」が演奏されると聞いた。週一回の演奏日に当っていた。さらに夏休みの平日には花火が、大谷川の川下、円山川方面から上げられると聞いた。


(大谷川の花火)

まずは皆んなで湯けむり太鼓を御所神社に見に行った。まるでお祭りのようであった。旅館の若主人も太鼓を叩いているという。力強い太鼓ではなく、気が浮き立つような軽快なリズムの太鼓であった。温泉街をぶらぶらしながら、花火見物に向かった。大谷川には石橋がいくつも掛かり、川の両岸にしだれ柳の並木が続いていた。川端には明かりが灯り、川下からあがった花火が川面に映り、2倍楽しめた。(つづく)
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城崎温泉御所の湯

(城崎温泉御所の湯)

お袋の四十九日の法要に出席のため故郷に帰った。

女房と新幹線に乗り、京都で伊勢から来る長兄と待ち合わせて、きのさき5号に乗る。きのさき5号は城崎温泉が終着駅だが、きのさき号の中には、城崎温泉まで行かない、福知山行も混ざっている。福知山で福知山線を経由してくる、こうのとり号へリレーして城崎温泉へ行けるから、便利になったのだけれども、命名には何とも納得しかねる。

長兄と女房は雪のまだ残る豊岡で降りて、自分だけそのまま乗り越して城崎温泉まで行った。お地蔵さんのお人形を友人の力餅氏へ届けるためである。駅頭には力餅氏が出迎えてくれて、人形の包みを渡した。城崎の町を歩いて喫茶店に入り、同級生たちの音信をいろいろと聞いた。残念ながら話題に出てくる固有名詞に一つ一つにすぐには反応できない。40年というギャップは、思い出も記憶のかなたへ追いやってしまうのであろうか。

力餅氏のお店に寄ると、旅館の主人という男性が、一人うどんを食べながら、一杯やっていた。旅館が忙しい時間も、主人は用がないのであろうか。城崎温泉の景気を聞くと、今はお客さんは多いが、それも3月までで、その後はばったりと客が減るという。お客は雪の城崎の風情と、何と言っても味覚の王様である松葉ガニが目当てでやってくるため、そのシーズンが終わると静かになるということらしい。

外は街を通る観光客であふれているが、最近の傾向では日帰りバスツアーが盛況で、ちょっと観光して、カニを食べ、温泉の外湯に入って、そのまま帰ってしまう。賑やかでお金が落ちないわけではないのだけれども、宿泊客ほどには街にお金を落としてくれない。

その後、力餅氏と一番最近に建ったという御所の湯へ入った。混んでますよという入り口の係員の声を背に入場すると、人人人で脱衣場に入れないほどの客に、しばし入り口で空くのを待つ。中に入ると脱衣場ほどの混みあい方ではなかった。どうやら脱衣場が広く取れていないのがネックらしい。透明なお湯はかなり熱めであった。効能書きには高温の温泉の温度を下げるために加水していると書かれていた。ナトリウム・カリウム塩泉で、舐めるとしょっぱい。

しばらくもっぱら力餅氏の話を聞きながら、湯に浸かったり上がったりして、十分にあたたまって温泉を出た。夕方になって日帰りの観光客は帰り、旅館の浴衣や丹前を来た人たちが目に付くようになった。城崎温泉の特徴は、旅館に宿泊しても、必ず外湯へ入りに出かけるのが楽しみになっていることである。旅館ではそのために入湯券を出してくれる。夕食前の今の時間がもっとも外湯が混みあう時間だという。

温泉を出てから、力餅氏に在所まで車で送ってもらった。
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雪中通学の記憶

(大雨で出来た水田のさざ波を見るムサシ)

昨日からの雨は夜半には大雨になり、今日の午前中まで続いた。気温は上昇し、四月初旬の陽気だと聞く。午後ムサシの散歩に出る頃には、ようやく雨も上がり、寒い西風が戻ってきた。久し振りの大雨に、大代川に流れが戻ってきた。この暖かさで、各地に雪崩が起きている。週後半には再び寒さが戻ってくるようだ。

故郷の豊岡も積雪は1メートルを越えて、近年に無い大雪のように聞いている。昨日今日の緩みで一気に積雪が解けて、町全体がぐしょぐしょになって、歩くにもつらい状況ではないかと思う。ゴム長が必需品になる。道の雪が溶けると、家のそばに積まれた雪を早く溶かしてしまおうと、アスファルトの出た道へ雪を出すので、ぐしょぐしょ状態は雪が路上になくなるまで続く。

屋根に積った雪は一日に20センチも溶けるだろう。軒に雪がせり出し、樋に収まらないから、雨だれが屋根から大粒にぼたぼたと落ちてくる。何ともうっとうしい日々であろう。雪は降るときよりも溶けるときの方が嫌だったように記憶している。

今は積雪1メートルで、学校が休校になると聞く。学校が統合されて、スクールバスが走らないと、休校にせざるを得ないのであろう。子供の頃は今よりもはるかに雪が多く降った。けれども、雪で休校になったという記憶は余りない。今と昔、どちらが便利なのか分からなくなるときが時々ある。

昔は道をブルで開けるようなことは無く、道の真ん中に出来た、雪を踏み固めた跡をたどって通学した。踏み跡を外すとずぶりと雪の中に足が腿まで入ってしまい、抜くのに大変であった。ようやく抜けても長靴が雪の中に残ったりして、掘り出すのに大苦労する。だから踏み跡を外さないように注意して歩いた。

学校のグラウンドは真っ白で、必要最小限の踏み後が校舎へ通じている。子供たちは時に踏み跡を無視して、白い平原に踏み出したり、雪上に大の字に倒れたり、雪玉を投げ合ったり、雪と遊びながら行くから、教室に入る頃には衣服も靴下も濡れて、手足もかじかんでいる。学校には石炭ストーブに火が付いて、暖かくなるまでストーブの周りに集り、身体を温める。衣類や靴下からはすぐに湯気が立ち昇ってくる。

雪の無い当地は雨が止めばたちまち地面は乾く。雪が降っても日が昇るとみるみる溶けてしまう。日が差す部屋にいれば、ストーブすら要らない。そんな静岡県なのに、日本一住みたい県にはもう一歩である。上位には入るがベストスリーには届かない。予想される東海地震が影響しているかもしれないが、一番の原因は刺激が少ないことなのだろう。
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志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木。

(志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木)

一昨日から、北の冷気が列島に入り、全国的に10度近く気温が下がった。早くも列島は秋雨前線の空模様で、今も外は雨である。電気不足の列島ではありがたい天気である。

   *    *    *    *    *    *    *

城崎から竹野へ向かう途中、大谿川を遡ったところで、力餅氏が車を停めるようにいう。右側の大谿川岸に、桑の木があるのが判るかと聞く。昔であれば多くの農家で養蚕をしていたから、桑の葉もお馴染みものであったが、今は忘れられた木である。パッと見た広葉樹が桑の木だと思ったが、大きな葉の形がスペード型で自分の認識と違う。その木しかないから指し示した。

道路の上流側から見ると、大きな看板に「志賀直哉(城の崎にて)ゆかりの桑の木」と書かれ、矢印があった。幹が直径20cmもあっただろうか。樹叢の緑に溶け込んでいた。桑の葉はアサガオの葉を大きくしたような葉っぱと認識していたが、大きくなるとくびれがなくなるようだ。木の上部を探すとくびれた葉っぱも見えた。

志賀直哉の「城の崎にて」という短編小説は小学校の国語の教科書に出てくるほど有名な小説である。そばの案内板に「城の崎にて」の桑の木が出てくる一節が紹介されていた。

‥‥大きな葉の桑の木が路傍にある。彼方の、道へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラ/\ヒラ/\。同じリズムで動いてゐる。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラ/\ヒラ/\と忙しく動くのが見えた。

作家は立ち止まってどのくらいの時間、桑の葉を見ていたのだろうか。ゆっくりした時間が流れていることが、この一節だけ読んでも解る。この桑の木は二代目と書かれていたが、道の方へ大きな枝が差し出した樹相には人為的なものが感じられた。

作家は大正2年10月、電車にはねられて、怪我の養生に3週間、城崎温泉に滞在した。その時の体験が「城の崎にて」の小説となった。旅館から大谿川の清流を遡るのが作家の散歩コースであった。

蜂の死骸、首を串刺しにされた鼠、石に当って死んだイモリなどの小動物を描きながら、その運命を電車にはねられて命拾いした自分と引き比べ、生と死は両極ではなく、隣り合わせだという感慨を抱いている。

力餅氏の作品案内を聞きながら、昔、一度読んだ切りの小説の雰囲気を思い出そうとしたが、ほとんど覚えていなかった。もう一度読んでみなくてはなるまい。

車を進めた先にあった鋳物師戻トンネルはその上にある鋳物師戻峠が元になっているのであろう。力餅氏はかつて鍋釜の修理屋(鋳掛屋のことだろう)が峠を越えられなくて戻ったことから、その名が付いたと案内してくれた。しかし鋳物師(いもじ)は、銅や鉄を使って生活用品を作る人で、鋳掛屋とは違う。おそらく近辺に鋳物師の仕事場があったのではないだろうか。

鋳物師の製作する最大のものは、お寺の梵鐘である。古刹の梵鐘の銘や古文書などを見ていけば、そのような事実が解るかもしれない。あるいは町史などに研究結果が記されていることも考えられる。近くにいれば調べてみたいテーマである。
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城崎、極楽寺と、加藤美代三画伯

(萬年山極楽禅寺)

Y氏墓参のお寺は、萬年山極楽禅寺という。墓参の後、お寺に寄ってみた。山門にあった由緒書きを読むと、中興の祖として沢庵禅師の名があった。力餅氏と会話の中で、沢庵禅師と家康の関係と話したが、家康ではなくて、三代将軍家光の間違いであった。有名な紫衣事件で出羽に流され、二代将軍秀忠の死で恩赦され、その後、三代将軍家光の帰依を受け、品川に東海寺を創建、住職となった。

家光との親交も深く、ある時、お寺で漬けた「たくわえ漬け」を家光に出したところ、美味を誉め、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したという話が残っている。また二人には、
  「海近くして何がこれ東(遠)海寺?」(家光)
  「大軍を指揮して将(小)軍というが如し」(沢庵)
という問答が語り伝えられている。この二人けっこう親父ギャグをとばす間柄だったようだ。

その真偽のほどはともかく、世に「沢庵漬け」とともに、沢庵和尚の名前が残った。沢庵和尚は出石の出身であるが、この「出石そば」で有名な出石も、今は豊岡市出石町となっている。

もう一つ、由緒書きに名前の出ている人物に、加藤美代三画伯がある。極楽寺本堂が大正10年に再建されたとき、襖の全面には加藤美代三画伯により、水墨画、四季の図が描かれているという。

加藤美代三画伯は1912年、現在の兵庫県豊岡市に生まれ、京都日本画壇で活躍、ネットで見る限り、まだ健在で京都日本画壇でも最長老になるのであろう。風景画を得意とし、作家がとらえた自然の真実の相を描いている。年譜によると、極楽寺へ襖絵を収めたのは1988年で、しっかり記録されている。

力餅氏のお店には父が購入した加藤美代三画伯の四季の絵が有り、四季折々に店に展示しているという。お店に飾られていることを本人が聞き及び、大変喜んでくれ、わざわざお店に来てくれたこともあったという。自分の絵が死蔵されたり、人目の触れないところに置かれているよりも、誰もが見られる場所に展示されている方が嬉しいのは、画家に共通する思いではないだろうか。かの岡本太郎も自分の作品は皆んなに見られたい、それで絵を損なうならば、いくらでも自分が補修してやると語ったという。本人が直すならば作品の価値を損なうことはない。

今年の10月14~16日、豊岡市立総合体育館において、「加藤美代三画伯 白寿記念展」が開催されるといい、力餅氏のお店にも出品依頼の打診があったと聞く。近くであれば見に行きたい絵画展である。しかし、故郷の生んだ、日本画の大家、加藤美代三画伯の事は、今の今まで全く知らなかったのだから、なさけない。

加藤美代三画伯を含む、豊岡市のバーチャル美術館がネットで見ることが出来る。
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