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真夏の中国で思う(35℃)

(西湖の夕景、岸辺にはすでに多くの人たちが出ている)

中国の話がさらに続く。

中国に来て、「青空」に次いで驚いたのは暑さである。現地テレビの天気予報では杭州の最高気温が37℃と報道している。中国人通訳は街中では40℃を越しているだろうと言う。ヒートアイランド現象であろうか、とにかく暑い。しかし35℃を越えたという発表は中国ではほとんどない。

中国の法律では35℃を越すと冷房設備のない工場は休みにしなければならない。皆んなが法律を守るためには気温の発表を35℃以上には出来ないのである。嘘のような話だが、中国人の口から聞くと本当に聞こえる。法律が“たてまえ”となってしまうとこうなる。

暑さは夜になっても下がらない。食事後、車に乗って車外の気温標示をみると、夜9時ごろの気温が33℃であった。杭州でも西湖(しーふー)の周りは少しは涼しい。人々は夜になると西湖の周りに涼みに出て来る。家にいても暑いだけである。

冷房が設備されてる部屋はまだ少ない。どれだけチャンネルがあっても、政府が統制しているテレビが楽しいはずはない。(これは中国人から聞いたことではなく、夜たくさんのチャンネルを回して見ての自分の感想)

西湖の周りには奇跡的に緑が残り、明るいうちは散策し、ピンからキリまである食事処で、夕食を済ませる。そのあとは屋外カラオケ大会が始まる。良くしたもので、設備は屋外で貸してくれる商売がある。人々がどんどん集り、日本人には入れない輪が岸辺にいくつも出来る。

西湖の周りだけではなく、町のあちこちに何時寝るのかわからないほど遅くまで人々が出ている。

50年前には日本でも夏の夜、屋外に縁台を持ち出し、ご近所皆んなで涼んだ。涼しくなるまで縁台で過ごす。縁台将棋が始まるのもこんなときだ。行水で汗を流した子供たちは走り回って汗だくになり、元の木阿弥だ。

(本日は発熱、腹痛で休む。夜になって少し楽になり書き込みだけは行なった。)
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真夏の中国で思う(青空)

(上海浦東空港の青空)

昨夕、中国から帰ってきた。真夏に中国を訪問するのは初めてであった。

上海から杭州へ移動する中で、まず驚いたのは中国の青い空であった。現地スタッフからは年に何回か青空の時もありますよと聞いていたが、今まで10数回訪中のなかで、青い空を見たことがなかった。いつも黄砂やスモッグにかかった状態で、大きく息をするのがはばかられる気がしてきた。

最近の台風や雨で黄砂やスモッグが洗われ、吹き飛ばされて、青い空になったようである。黄砂はともかく、このところ工場が郊外へ出て行き、しかも排煙規制も少しづつ進んで、スモッグは目に見えて減ってきたようである。

すべてにおいて戦後50年、日本がたどって来たことがお手本になり、取るべき対策に迷いがない。公害規制にしても、放って置けば人体に影響が及ぶ深刻な状況になることは日本で実証済みである。また対策を取ればすぐに効果が出ることも判っているし、その技術も金さえ掛ければすぐに実施できる。だから一年経てば大きく変わる。

しかし、簡単に変えられないのは人々の生活習慣である。日本には江戸300年間に江戸の町でつちかわれた生活習慣がある。往時世界一の過密都市であった江戸で、人々が平和に生活していくための知恵である。一例を挙げると、狭い路地で人と人とがすれ違うとき、お互いに右肩を引いて肩が当らないようにすれ違う。そんな行動が日本人には身に着いている。肩が当ってけんかになるのはヤクザやチンピラだけであった。

中国では都市が過密になってきたのは最近のことだからそんな習慣がない。最近は日本でも乗ったことのない満員の地下鉄に乗った。皆がわれ先に乗車しようとする。日本のように列を作らないで、昇降口に殺到する。降りる人へ道を開ける配慮がない。降りる人が済んでいないのに乗り込もうとするから、もみ合いになり、かえって時間がかかる。

広い国で大きな声を出さなければ隣の人に伝わらない生活が4000年続いてきた。だから満員電車の中でも大声でわめきあう。周囲がやかましいから余計に声が大きくなるのであろう。日本の電車は色々案内や注意などが放送されてうるさいというが、中国の電車内は客の会話でうるさい。それに輪を掛けるのが携帯電話である。満員電車で鼻つき合わせている状態で、大声で電話相手と言い合っている。本人は気付いていないが、周りの人は自分が罵られているようでたまらない。携帯電話禁止にしないのだろうかと現地スタッフに聞くと、多分禁止は無理だろうという。

こういうのを「民度」というのであろうか。この民度を上げて“青空”に戻すには長い年月がかかる。しかし、このまま世界とお付き合いがはじまると世界の鼻つまみものになる。為政者はその事に気付いてやっきになっている。しかし人民は生活に懸命で、気付いている人はまれである。
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カブトムシは我らがヒーロー

(カブトムシのメスとオス)

昆虫少年だったのは小学校3年から4年の頃だった。当時は仮面ライダーもウルトラマンもまだいない。テレビのヒーローは月光仮面、でも家にはテレビが無い。紙芝居のヒーローは黄金バット、しかし紙芝居ももう回ってこない。中で我らがヒーローは虫の王様、カブトムシ。だがカブトムシは当時は地方都市では売られてはいなかった。多分、都会ではカブトムシがデパートで売られているのがニュースになっていた気がする。

それならば野山に出て探すしかない。さいわい自然はいっぱい残っている。しかし地方といえども街中にはカブトムシはいない。野山に遠征しても街の子には居場所がわからない。夜行性のカブトムシは昼間出かけてもなかなか見つからない。ミヤマクワガタ、ノコギリクワガタ、コクワガタなどクワガタムシは取れてもカブトムシは取れなかった。

ある夏の日中、郊外の古い屋敷を改造したキリスト教会の庭に入りこんで、白い塀のそばのクヌギ類の古木の根元にカブトムシを見つけた。それも雌雄一つがいである。今でもゲットしたときの喜びを覚えている。今までは手に入っても自分で取ってきたものではなかった。友達から分けてもらったり、大人からプレゼントされたり、夜、灯を求めて飛んでくるのを捕らえたものであった。自然の状態で捕らえて来たのは初めてであった。

家に持ち帰り砂糖水をくれても、長くは生きない。いい香りのする防腐・殺虫液(エーテルかホルマリンか)の注射を打って殺し、硬くならないうちに標本を作る。足を整え針で止める。少し置けばその状態で固まる。チョウやトンボやセミやバッタと共に空箱に虫ピンで止める。セロファン紙で、中が見えるように細工して標本箱が出来る。それが夏休みの宿題であった。中で雌雄一つがいのカブトムシが何と誇らしげに並んでいたことか。(中国出張前に本日の書き込みをした)
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夏山でソーメン、ハチミツレモン

(夏のソーメンは平地でも食欲をそそる)

山行の仲間の中には山に入ると食欲旺盛になり、人が残した分まで食べて、山行を終えるまでに何キロ太ったとか自慢する男もいた。また山行中水分以外ほとんど口にしていないのに、びっくりするほどの強さを見せる女性もいた。

自分は疲れすぎると食欲がなくなり、縦走中の山小屋で出された食事に手が出ないことが度々あった。食事を取らないとガス欠でパワーが急速に落ちることが判っていたから、お茶で流し込むようにして食べるのが常であった。

そういう縦走の途中に、人が採っている食事でうらやましくて仕方がなかったものが珍しくあった。南アルプスの縦走中の沢で、雪解けの流れに冷やしながら、ソーメンを食べているのに出会ったときであった。ああー、ソーメン食いたい。ソーメンなら喉を通りそうであった。次に来るときはソーメンを用意してきて、作って冷やして食べるぞと、ひそかに思ったものであった。しかし、その後の山行でソーメンを食べた記憶がない。おそらく下山してしまえばきれいに忘れて、次の山行の際に思い出さなかったのであろう。

山で数少ない旨かったものをあげよう。割れないように専用ケースに入れて卵を持って登り、雑炊の素に卵を入れて食べた。これはけっこう良かった。傷むことをいとわずに牛肉を持って登り、山小屋の屋外の流れのそばで、すき焼もどきを作って食べた。山頂で仲間のリュックからスイカが出てきて思わぬ相伴にあずかれた。

飲み物にも想いではある。山行の旅に蜂蜜とレモンで作った飲み物を持ってきてふるまってくれる女性もいた。蜂蜜レモンは彼女のテレードマークになった。ハチミツレモンそのままのペットボトルが発売されたのはしばらく経ってからであった。ポカリスエットの粉末が売られていて、山で水に溶かして作り、みんなで山行中ずっと回し飲みした。しかし二日目になるとポカリスエットも鼻についてきて、水のほうが美味しく感じられるようになった。

山で飲んだり食ったりは大きな楽しみであるはずが、自分では難行苦行の一つになってしまうのはなんとも残念なことであった。

   ※      ※      ※      ※

明日から3日間中国出張で、書き込みが休みになる。夏の中国は初めてである。また土産話を書き込もう。
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新調した眼鏡の話

(新調した眼鏡)

眼鏡を新調した。人生2個目の眼鏡である。先週月曜日、女房に付き合ってもらって、眼鏡を新調しに“めがねプラザ”に行った。その眼鏡が日曜日に出来てきた。

1個目の眼鏡は7年ほど前に作った。車に乗るとだんだん標識や案内板が見えにくくなって、思い腰を上げて眼鏡屋さんに行った。目の検査をしてもらいながら、「この歳で近視でしょうか」と聞いたら、「立派な老眼ですよ」と言われて、ギャフンとした。

近視のような症状になったのは、老眼になりかかる年齢でパソコンに熱中したためである。会社ではパソコンが仕事相手だったし、家に帰っても自分でホームページを持っていて、その更新をしていた。そのため、近視と老眼が同時進行してしまったようだ。目の筋肉が老化して近くが見えにくくなる所を、近くを見る状態で固まってしまったため、遠くが見えにくくなった。

近視の人が老眼になるのとは少し違うように思われる。近視のコンタクトを入れていた人が老眼になったら、コンタクトをした上に老眼鏡をかけることになるのだろうか。マイナスとプラスで両方外すことが出来る訳でもなさそうである。近くも遠くも両方見えなくなって、遠近両用眼鏡が必要になるのであろう。私の場合は遠くが見えにくいからその対処のためだけに眼鏡を掛けることになる。これを「老近眼」と勝手に名付けよう。

生活の中で本を読んだり、パソコンを見たり、テレビを見たりでは眼鏡はいらない。しかし遠くから来る人は眼鏡がないと誰だか判らない。会議ではホワイトボードに書かれたことは眼鏡をしないと読めない。普通の老眼と「老近眼」ではどちらが便利であろうか。眼鏡の必要度数からいうと「老近眼」の方がはるかに便利であると思う。

度はそんなに進んでいなかった。少し度を強くしてもらうと細かい点まで良く見えるようになった。今度の眼鏡は汚れないように表面をコーティングをしてあり、汚れたら流水で洗い、ティッシュで拭くだけでよいらしい。眼鏡のつるは形状記憶合金で出来ていて、調整を湯に漬けてやってくれた。7年も経つといろんな新技術が実用化されている。

歳を取ることで色々な経験が出来る。けっこう歳を取ることも面白いかもしれない。
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田原は崋山の町だった

(田原市博物館)

昨日書き込みの続きである。まだ愛知県田原市(渥美半島の中央)にいる。

田原市博物館は田原城址の二の丸跡にある。駐車場からのアプローチがすばらしい。両側を咲き残ったアジサイに挟まれて、すのこ状の通路に導かれ、石段を登った上に立派な博物館があった。


(辱めを受けた幼少の渡辺崋山像)

この博物館のメインテーマは渡辺崋山という人物であった。入館したすぐに、12歳の崋山が日本橋で備前岡山の池田侯から散々な辱めを受けた姿の銅像があった。自分が貧乏武士の倅だから泣き寝入りをするしかない。偉くなって対等に物が言えるようになりたいと学問の志を立てた時の像である。

さらにその後ろでビデオで崋山の生涯を流していた。財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、田原藩の家老の息子として江戸で生まれた崋山も例外ではなく、困窮の中で、幼い頃から好きな絵を描いて家計の足しにしていた。

藩の家老になって、義倉「報民倉」を建設し備えてきたことが功を奏して、天保の飢饉の時にも、一人の餓死流亡者も出すことなく、幕府から全国で唯一田原藩が表彰された。うる覚えで、晩年崋山が田原藩で過ごしたことは承知していたが、崋山が田原藩の出身で、この藩の家老職までしていたことは初めて知った。

渡辺崋山は今流に言えばマルチタレントであった。本職の家老(有能な行政官)はともかく、画家、文章家、学者(儒学・蘭学)、外事研究家、教育者など、それぞれが一流の域にあった。

幕政批判を弾圧した「蛮社の獄」では著書「慎機論」が幕政批判とされ、高野長英らと共に捕らえられ、田原へ蟄居となった。

蟄居中、作画に専念した。門人らが崋山一家の生活を助けるため、絵を売る算段をした。そのことが「罪人身を慎まず」と咎められ、藩主に迷惑をかけてはならないと、「不忠不孝渡邉登」と大書し切腹して果てた。

享年49歳、明治維新はそれから26年後であった。崋山はいつか世の中が変わったときには、自分が理解されるときが来るであろうと、言い残して死んだ。今、田原の町はこの渡辺崋山一人で町興しをしているように見える。この様子を崋山は草葉の陰で何と見ているであろうか。もし崋山が20歳若かったら明治維新で何らかの役割を果たしたに違いない。

帰りに国道23号線、国道1号線、東名高速道路と戻り、牧の原インターで降りて、相良の子生れ温泉に入湯して帰った。
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霧がすべての発端で

(朝起きたら霧が-自宅前)


土曜日の朝、「霧がすごい!」という女房の声に起されて、デジカメを持って外へ出た。確かにこの辺りでは見かけない霧で、視界が100mくらいであろうか。デジカメに収めてもう一度寝た。2度目に起きた時はすっかり明るくなっていた。

11時ごろ、どこかの温泉に行こうと、女房と車で出かけた。静岡県東部方面と考えて出たが、資料を持って出なかったので、バイパスに乗る前に愛知県に行く先を変えた。鳳来寺に日帰り温泉があったのを、前回本宮の湯に行ったとき確認している。

霧は自分の故郷では珍しいものではなく、秋の天気の良い日は毎朝霧に閉ざされて、明けるのは10時ごろだったと話す。あれは円山川の川霧だった。今朝の霧は増水した大井川から出たものだろうか。

掛川バイパスがスムースに走れたので、久しぶりに国道1号線を通って愛知県に入ってみようと気が変わった。さらに潮見バイパスの先で伊良湖への道が別れるのを見て、渥美半島に温泉があったらそれに入ろうと、考えもなく左折してしまった。

何とも計画性のない旅である。しかし計画性がなくても、終わりには一日納得できる旅になっていることが多いから、あんまり気にはしていない。

昼食を伊良湖岬でと思ったが、途中の赤羽根で摂った。食堂で聞いたJA直売所で、農家産直の600円の格安メロンを買い求めた。食堂で得た情報では、この先進んでも温泉はない。伊良湖岬へ行くのは止めて、田原市の田原市博物館に行くことにし、田原市役所へカーナビを設定した。

誰かに田原市博物館の場所を聞こうと市役所前で車を止めた。そばに立っていた中年夫婦が居た。車の中から博物館の場所を尋ねると、道がややこしいから地図を貰って来てやると旦那の方が市役所に入って行った。待つ間に奥さんから説明を受けるが、城下町ゆえに古い道が入り組んでいて、一言では説明できなかった。

たくさん地図やパンフレットを持った旦那が出てきて、説明を引継いだが、とうとう奥さんが、今から家に帰る、途中だから車で先導すると、博物館の駐車場まで先導してくれた。確かに口では説明できないほど、右へ左へと進んだ。

気まぐれにここまで来て、行き着いた田原市で見ず知らずの人にこんな親切を受けるとは、思いもよらなかった。人生は、どんなに計算していても、こんなハプニングの連続で過ぎていくのであろうと思った。

あの旦那は、市役所にどんどん入って行ったし、奥さんには置いていかれたし、案外市役所の職員だったのかもしれない。それならこの親切がうなずける。
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梅雨末期、大雨雑感

(南九州では降り始めからの雨量が1000ミリを越す)

梅雨の末期、全国あちこちで大雨の被害が伝えられている。九州でも山陰でも長野県でも、今年の梅雨末期は一気に降らなくても長い時間雨が続いて、地盤が耐えられなくなって土砂崩れや山津波が起こり、また増水で堤防の決壊が起こっている。また今日は南九州でこの数日間で1mの降雨量があったと聞くと、これも温暖化の影響かと思わざるを得ない。

死者の出る災害で最近多いことは、行政が迅速な避難の呼びかけを怠ったため、死ななくてもよい人が災害に巻き込まれて死んでいることである。もう一時間早く避難していたら、こんな災害には巻き込まれることはなかった、という声も聞いた。

行政の言い訳を聞くと、人の命を預かっているという緊張感が欠如していると感じる。他の行政が、過去の災害時の失敗を教訓として、避難の呼びかけの際には判り難い専門用語は避けて、状況を具体的に説明して避難を呼びかけると言っていた。そんな情報にも接しているはずである。過去の災害を他山の石として、自分たちの行動を律することがどうして出来なかったのであろうか。

大雨の農業に対する被害が何百億になったという報道もあった。しかし、この雨が農業に与えたプラス影響は報道されることはない。かつて紀州では一雨千両といわれ、一雨降ると山々の森林が成長し、それを金に換算すれば千両に匹敵するいわれた。ちょっと見方を変えてみると、日本の気候では夏の暑さの前に、たっぷりと雨が降り、夏の水不足も日照りの被害も無い。世界の乾燥地帯からみると信じられない素晴らしい自然の恩恵である。

過去に空梅雨だった年はダムが干上がり、取水制限をしたこともある。いたずらに被害ばかりの報道に偏するのでは無く、この雨がもたらした恩恵や、生活用水のためのダムの貯水状況なども、報道の対象にすべきだと思う。

そんなことを考えていたが、この雨は、そんな思いを吹き飛ばしてしまうような、とんでもない降り方である。
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天上のお花畑

(高山植物の女王 コマクサ)

またまた、夏山の話である。2500mから3000mの天上のお花畑は7月がもっとも美しい。それも7月半ばの梅雨が明けたかどうかの時期である。7月後半になれば登山者がどっと入って、荒らされないまでも、人々の視線にさらされて輝きを失ってしまうように思う。

山を登ると疲れる。どこかで休みたい。だけど、先を行く仲間に弱さは見せたくない。先に行っててくれ、ちょっとお花の写真を撮って行くから。これが一服する口実になった。結果、たくさんの高山植物の花の写真が現像されてくる。植物図鑑でその花々の名前を調べる。何度も図鑑を行ったり来たりしているうちに、花の名前をたくさん覚えた。

少し花の名前を覚えると、山の仲間に花の名前が教えられる。そうなったらしめたもので、知らない花でもそれらしく名前を言えば、誰も異を唱える人はいない。しかしあまりにもいい加減に言っていたら、どこまで本当かと疑われるようになってしまった。

天気の良い日は花の写真は撮りにくい。日なたと日陰のコントラストが強くていい写真にならない。だから、曇りや雨の日は天気の日よりいい花の写真が撮れる。雨粒の着いた花もいい味が出る。尾根筋では風で花が揺れると写真がぶれてしまう。吹き続ける風も息をしているから、すっと止まるときがある。それをじっと待ってシャッターを切る。

どうして高山植物は平地の雑草よりも美しい花を付けるのであろうか。山の環境は厳しい。短い夏に子孫を残すために、いっせいに花を咲かせる。その緊張感が花を美しくするのであろう。

高山植物を盗掘する人が絶えない。盗掘はしなくても販売しているとつい買ってしまう。買う人がいるから盗掘が絶えない。山の厳しい環境で育つ高山植物は平地では育たない。買っても枯らしてしまうのだから買わないことである。

夏山を飾る高山植物の花々を思いつくままに書き出そう。

アオノツガザクラ、イワギキョウ、イワベンケイ、ウスユキソウ、ウツボグサ、ウルップソウ、エンレイソウ、オトギリソウ、カラマツソウ、グンナイフウロ、コイワカガミ、コオニユリ、コケモモ、ゴゼンタチバナ、コバイケソウ、コマクサ、サンカヨウ、シナノキンバイ、シラネアオイ、タカネスミレ、チシマギキョウ、チングルマ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ハクサンコザクラ、ハクサンチドリ、ハハコグサ、マイヅルソウ、ミズバショウ、ミヤマオダマキ、ミヤマキンバイ、ヨツバシオガマなど。
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山頂から山々を眺望する

(中央アルプス空木岳より南アルプスを遠望)

夏山の山頂に立って、お天気が良ければ360度展望が開ける。未知の山々、山頂を極めた山々こもごもに、眺望される。目の前の景色の中の山々を地図と見比べながら、山々の名前を上げていくのは山頂での大きな楽しみである。隣りに自分より詳しい人がいれば耳を傾ける。自分が一番詳しいなら、推定も含めて思い切って口に出してみる。

目の前の山の名前が決まれば、登ったことのある山なら、その体験がよみがえり、話題が尽きることが無い。登ったことのない山なら仲間の話に耳を傾ける。そしてその山が次の山行のターゲットになる。

中央アルプス木曽駒ヶ岳で、地元の学校の先生が生徒たちに見渡す限りの山名を説明しているのを横で聞いたいたことがある。特に南アルプス方面の山々の案内は圧巻であった。甲斐駒ケ岳の北側の鋸岳から始まって、甲斐駒ケ岳、仙丈ヶ岳、北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳、千枚岳、悪沢岳、赤石岳、聖岳、茶臼岳、光岳と3000m級の山々が先生の口から飛び出す。南アルプスの上に一段突き抜けて、富士山も顔を出している。今名前を書き出していて、この順序だったかどうか心もとないが、この14座のうち10座の山頂を踏んでいる。

北アルプスでどこから見てもそれと判る山は槍の穂先のように尖った槍ヶ岳である。逆にその槍ヶ岳からどんな山々が見えるのか、山頂を踏んだときは残念ながら霧の中で眺望が無かった。恐らく東に燕岳、大天井岳、常念岳、蝶ヶ岳の山々が衝立のように迫り、南には尾根つながりで穂高連峰の山々、西には笠ヶ岳、北方には立山連峰、後立山連峰の山々が連なるはずで、目に浮かぶようである。天気の良いときに槍ヶ岳山頂にもう一度立ちたい。

平地から山々を眺めて山名を当てるのは大変難しい。手前の低い山に背後の高い山が隠れてしまうことも多く、間違えやすいのである。その点山頂からは高い山は高く、低い山は低く見えるので、山名を決めやすい。同じ山でも見る方向によって全く違う山の形に見えて、見間違えることもある。お馴染みになれば、どこから見て形がどんなに変っても、山名を間違えることは無くなる。
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