goo

「竹下村誌稿」を読む 245 駅路 16

(散歩道のハナシュクシャ)

葉を見ると想像付くが、これはショウガ科の花である。英名、ジンジャーリリー、あるいはホワイトジンジャー。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

十三日、宗行、浮島を過ぎ、死の免れざるを悟り、黄瀬川に至り、和歌を詠じて自ら慰(い)す。

  今日過ぐる 身を浮島の 原にても 終(つい)の道をば 聞き定めつる

明日、藍沢原に至り、終に白刃の露と消ゆ。年四十七、この藍沢、或るは遇沢に作る。そは海道記に、黄瀬川を立ちて、遇沢と云う野原を過ぐ云々。宗行卿、この原にて、長く日の光に分れ、冥土(くらきみち)にたちかえりけり。

  都をば いかに花人 春たえて あずまの秋の 木の葉とは散る

とあり。今は駿州御殿場新橋に碑あり。

  思えばな うかりし世にも 遇沢の 水のあわとや 人の消ゆらん

と云う海道記の歌を刻せり。菊川にて宗行卿の書きたる筆の痕をも見してふ(という)、同記に伝えしも、親行の東関紀行を書かれし頃には、最早その筆の痕、焼けて見ること得ざりしとあり。遺憾なりし事どもなり。

承久の難より百十年後、元弘の役あり。回天の業(わざ)成らず、勤王惟幄謀臣、右中辯俊基、北条氏に捕えられ、東送の途次、この地を過ぎ往時を追懐し、(うた)感慨に堪えず、旅亭の柱に和歌を詠ぜしことは、太平記、俊基朝臣鎌倉下向の文に、
※ 回天(かいてん)- 時勢を一変させること。衰えた勢いを盛り返すこと。
※ 惟幄(いあく)- 作戦をねる場所。大将の陣営。
※ 謀臣(ぼうしん)- はかりごとをめぐらす臣。計略に巧みな家来。
※ 転た(うたた)- いよいよ。ますます。


さやの中山越しへ行けば、白雲、道を埋み来て、そことも知らぬ夕暮れに、家郷の天を望みても、昔西行法師が「命なりけり」と詠じつゝ、二度越えし跡までも、うらやましくぞ思われける。隙(げき)行く駒の足早み、日すでに亭午にのぼれば、餉(かれいい)(まい)らするほどとて、輿を庭前に舁(か)け留む。轅(ながえ)を叩きて、警固の武士を近づけて、宿の名を聞き給うに、菊川と申すなりと答えければ、承久合戦の時、院宣書きたりし咎に因って、光親卿を関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、
※ 家郷(かきょう)- ふるさと。故郷。
※ 亭午(ていご)- 日が南中すること。転じて、正午。まひる。
※ 院宣(いんぜん)- 上皇または法皇の命により、院庁の役人の出す公文書。 天皇の詔勅に相当する。


  昔、南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ。今、東海道の菊川、西岸に宿して命を失う

と書きたりし。遠き昔の筆の跡、今は吾身の上になり。哀しみやいとゞ増さりけん。一首の和歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。

  古えも かゝるためしを 菊川の 同じ流れに 身をやしずめん


上記太平記の記述には、気付かれたことと思うが、幾つか情報の混乱がある。この後、誌稿でも説明があるが、以下へ簡単に触れて置く。
  1.菊川の宿に漢詩を残したのは、光親卿ではなくて、宗行卿である。
  2.院宣を書いたのは光親卿で、宗行卿ではない。
  3.この宿では誰も誅せられてはいない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 244 駅路 15

(散歩道のハナトラノオ)

午前中、約束してあった、吉田のT古書店へ行く。無店舗だから、倉庫として借りている元印刷所で待ち合わす。暑さが気になっていたが、クーラーを稼働していてくれて助かった。古文書にまつわる様々な話題を話し、色々と学ぶことが多かった。アラサーの青年と、このように話し込むことは、最近では唯一の機会である。たちまち二時間経ち、気付いたらお昼を過ぎていた。講座に使う新たな古文書を借りて、辞去した。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この菊川は名に負う東海道の古駅として、鎌倉以前より繁栄したるものゝ如し。されど、源平盛衰記、治承四年(1180)十月、平氏、頼朝追討のため清見ヶ関に下る条には、掛川より波津倉(初倉)に着くとありて、菊川の事見えず。さて、世は無常にして、奢るもの久しからず。ただ春夜の夢の如し。二十年の栄花、一朝にして壇の浦に落ち、盛衰忽ち地を換え、頼朝すでに平氏を僵(たお)し、府を東国に開き、始めて上洛し、この地に宿泊したる時には、前駆後乗三百三十三騎と、東鑑に註されたるを以って見るも、当時すでに京鎌間主要の宿駅なりしを推思し得らるゝなり。頼朝がこの地に宿したる記事は、同書建久元年(1190)十月の条に、
※ 前駆後乗(ぜんくこうじょう)-先頭の騎馬から、最後尾の騎馬まで。
※ 推思(すいし)- 推しはかり思うこと。


(十月)十三日甲午、遠江国菊川宿に於いて、佐々木三郎盛綱、小刀を鮭の楚割折敷に居(お)く)に相添え、子息小童(こわっぱ)を以って、御宿に送り進(まいら)す。申して云わく、只今これを削り食せしむの処、気味頗る懇切なり。早く聞こし食すべきかと。殊に御自愛し、かの折敷に御筆を染められて曰く、
※ 楚割(すわやり)- 昔、魚肉を細長く切って干した保存食。削って食べる。
※ 折敷(おしき)- 檜のへぎで作った縁つきの盆。多く方形で、食器などをのせる。
※ 聞こし食す(きこしおす)-「聞く」と「食べる」の尊敬語。お聞きになって、お食べになる。
※ 自愛(じあい)- 珍重すること。


  待えたる 人の情も すわやりの わりなく見ゆる 心ざしかな
※ わりなし - この上なくすぐれている。何ともすばらしい。

とあり。これ菊川の名の史に見えたる始めなりとす。

菊川と云えば、何人も先ず宗行黄門を連想するなるべし。これより三十二年目に、有名なる承久の難あり。王室の柱石、中納言宗行討幕の主謀なりとして捕えられ、悲惨なる運命に遭遇し、東国護送の途次、この地に泊し、感想胸に満ち、時世を題せし事も、同書承久三年(1221)七月の条に、

十日、中御門、前中納言宗行卿、相伴う小山左衛門尉朝長、下向し、今日、遠江国菊川駅に宿す。終夜、眠り能わず、独り閑窓に向い、法花(華)経を読誦す。また、旅店の柱に書付く事有り。

  昔、南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ。今、東海道の菊川、西岸に宿して命を失う
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 243 駅路 14

(散歩道のノアズキ)


「竹下村誌稿」の解読を続ける。

因って云う、前記海道記に「山口と云う今宿云々」とあり、またこの紀行にも、「岡部の今宿云々」とあり。この頃は政権已に鎌倉に移り、東海道は京都、鎌倉間、枢要なる官道となりしより、幕府はしばしば沿道守護に命じて、要所々々に新宿の建立を奨励せしことも見えたれば、諸所に今宿の発展せしものなるべし。

この後、東鑑、十六夜日記などには初倉のこと見えず。按ずるに、当時大井川氾濫のため、初倉の宿より前島の辺りまで、皆な川荒れとなりて、公私の通行不便なれば、建久の頃(1190~1198)には島田に駅を置かれ、懸川、菊川、島田と連絡せる新道開け、新旧両道便宜通行したるものゝ如くにして、駅の公道も新道によりしと見えたり。嘉禎四年(1238)正月、将軍頼経上洛の時は往復とも懸川、島田に宿泊し、初倉にはかゝらざりし。
※ 将軍頼経(よりつね)- 藤原頼経。鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。

さて、この菊川は古えより東海道の要駅にして、東に牧野原あり。西に小夜中山を控え、山谷の間にある故に、旅客の必ず休泊する所なり。宗祇、方角抄に、「菊川は小夜中山の東の麓なり。宿在の川は、北より東に流れたる細き川なり」とあり。今は宿駅に非ざるも、千古悲惨なる史譚を留め、古来幾多の征人をして、この地の如く、懐旧の感想を深からしむるもの、他にその類例を見ざるべし。鎌倉以来の史上を装う吟詠哀譚、最も多し。その一班を掲ぐべし。
※ 千古(せんこ)- 遠い昔。おおむかし。
※ 史譚(れい)- 歴史物語。
※ 征人(せいじん)- 旅人。


十六夜日記
 小夜の中山の麓の里、菊川と云う所に留まる。
  越え暮らす 麓の里の 夕闇に 松風おくる さやの中山
 暁に起きて見れば、月も出でにけり。
  雲隠る 小夜の中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月
 川音いとすごし。
  渡らんと 思いやかけし 東路に ありとばかりは 菊川の水

夫木集
 菊川の里、民部卿為家
  神無月 まだ移ろわぬ 菊川に 里は枯れこず 秋は残れり
 参議為相
  波に今 うつして見ばや 菊川の 名も便りある 星合の空
 勝間田の里を同(為相)
  (いと)うなと 菊川わたる 道をよきて 訪(と)わんとぞ思う 勝間田の里
 菊川宿、会山納涼、為道
  (やす)らわで 道行く人も 進むなり 松吹く風の 小夜の中山

※ 星合(ほしあい)- 陰暦七月七日の夜、牽牛・織女の二つの星が出合うこと。たなばた。

家集
 菊川の宿にて、参議雅経
  うつりゆく わが影のみや 替るらん 老いせぬものと 菊川の水

富士紀行
 菊川と申す所にて、藤原雅世
  汲みてみる 君が八千代も 末遠き 名に菊川の 花の下水

名所方角抄
 宗祇
  わすれめや 軒の茅間に 雨もりて 袖ひきかねる 菊川の宿

天文紀行
 菊川の宿を通るとて、仁和寺尊海僧正、
  冬枯れの 山路の草も うつろえる 霜の下行く 菊川の水

東海道名所記
 浅井了意
  問いよれば かなしきかなや 名どころの あとはこゝぞと 菊川の宿

丁未旅行記
 菊川にて、池田綱政
  山あいの 里のしるべの 煙さえ 立つも続かず 荒れはてにけり
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 242 駅路 13

(散歩道のヤブラン)


「竹下村誌稿」の解読を続ける。

かの藤原為家の百首歌に、

  打ち渡す 河瀬あまたの 大井川 見えてぞ速き はつくらの山

と詠みたるも、その頃のことなり。それより十八年を経て、仁治三年(1242)八月、光行の子、親行のものとせられたる、東関紀行に、

小夜の中山は、古今集の歌に「横ほりふせる」と詠まれたれば、名高き名所なりと聞き置きたれども、見るにいよいよ心細し。北は深山にて、松杉嵐烈しく、南は野山にて、秋の花露しげし。谷より嶺に移る道、雲に分け入る心地して、鹿の音、涙を催し、虫の恨み、哀れ深し。
※ 横ほりふせる - 横たわり伏せる。

  踏み通う 峰の梯(かけはし) とだえして 雲に跡とう 佐夜の中山

この山をも越えて、なお過ぎ行く程に、菊川と云う所あり。(い)にし、承久三年(1221)の秋の頃、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、この宿にとまりけるが、

※ 去にし(いにし)- 過ぎ去った。

  昔は南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失う

「全命」か「失命」か。海道記は「全命」、東関紀行は「失命」となっている。どちらが正しいのか。海道記の源光行は柱に書かれた文字を実際見ており、東関紀行では焼けてしまい、見ることが叶わなかった。ここは実際に見た方に軍配を上げたい。菊水で「齡を延ぶ」のだから、菊川でも「命を全う」出来るのでは、との淡い期待を漢詩にしたのであろう。菊川で命を失ったと語るのは、後の人の語り口だと思う。実際には、この先、駿河の藍沢で処刑されてしまうのだが、鎌倉で弁明して、何とか助かりたいという願望を持っていたと考える方が、人間らしい。

と、ある家の柱に書かれたりけりと聞き置きたれば、いと哀れにて、その家を尋ぬるに、火のために焼けて、かの言の葉も残らずと申すものあり。今は限りとて、残し置きけん形見さえ、跡なくなりにけるこそ、果敢(はか)なき世の習い、いとゞあはれに悲しけれ。

  書きつくる 形見も今は なかりけり 跡は千歳と 誰か云いけん


菊川を渡りて、幾程もなく一村の里あり。こまば(駒場?)とぞ云うなる。この里の東のはてに、すこし打ち登るようなる奧より、大井川を見渡しければ、遥々と広き河原の中に一すじならず、流れ分れたる川瀬ども、とかく入り違いたる樣にて、すながしという物をしたるに似たり。中々渡りて見んよりは、よそ目面白く覚ゆれば、かの紅葉、乱れて流れけん、龍田川ならねども、しばし安らわる。
※ すながし(洲流し)- 砂浜の波跡や水の流れを連想させる文様。州流れ。

  日数ふる 旅の哀れは 大井川 渉らぬ水も 深き色かな

前島の宿を立ちて、岡部の今宿をうち過ぐる云々。

とあり。この時も同じく、初倉より前島に移りたる事は、自(おの)ずから知らるゝものゝ如し。されば、前島は宿として、藤枝は市として、小川に代わりて街道たりしなり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 241 駅路 12

(焼津市 林叟院の経蔵)

昨日、下見した林叟院の経蔵。観音扉を開けると、中に八角形の経棚があり、手で押すと簡単に回るように作られていた。これを廻すことで、中に納まる御経を読んだと同じ御利益が得られるのであろう。酷暑の中で、この経蔵からひんやりとした空気が出てくる。観音扉を開けたまま、涼しい空気の中で、コンビニで購入した昼食を摂った。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。「源光行海道記」引用の続き。

時に胡馬ひづめ疲れて、日烏翅下がりぬれば、草命を養わんがため、菊川の宿に泊りぬ。或る家の柱に故中納言宗行卿、かく書付けられたり。
※ 胡馬(こば)-古代中国の胡の国に産した馬。
※ 烏翅(うし)- カラスの羽。「日烏翅下がる」で、日が暮れること。
※ 草命(そうめい)- はかない命。露命


  かの南陽縣の菊水、下流を汲んで齢(よはい)をのベ
  この東海道の菊河、西涯にやどりて命を全くせん

※ 命を全くせん - この部分は「命を失う」と読んでいる例が多い。「全命」「失命」と、筆文字でそんなに似ているように思えないが。意味は真逆になる。

ことを殊に哀れとこそ覚ゆれ。身は累葉賢枝に生まれ、その官は黄門のたかき階にのぼる。雲の上の月の前には、冠の光をまじえ、仙洞の花の下には、錦の袖の色を争う身たり。栄え、分に余りて、時々花と匂いしかば、人それをかざして、近きも従い、遠きも靡(なび)きしも、かゝる憂き目見んとは、思いやはよるベき。
※ 累葉(るいよう)- 一族。
※ 賢枝(けんし)- すぐれた子孫。
※ 黄門(こうもん)- 中納言の唐名。
※ 仙洞(せんどう)- 上皇の御所。転じて、上皇。


  心あらば さぞなあはれと 水茎の 跡かきわくる 宿の旅人
※ 水茎(みずくき)- 筆跡。また、書かれた文字。

妙井渡と云う所の野原を直(す)ぐ、中呂の節にあたりて、小暑の気、よう/\催せども、いまだ納凉のころならねば、手に掬(むす)ばず。
※ 中呂(ちゅうろ)- 陰暦四月の異名。
※ 小暑(しょうしょ)- 二十四節気の一つ。七夕の頃。


  夏深き 清水なりせば 駒とめて 暫し涼(すず)まば 日は暮れぬべし

播豆藏(初倉)の宿を過ぎて、大堰河(大井川)を渡る。この川は川中に渡り多く、また水さかし。流れを越え、島をへだてゝ、瀨々潟々に別れたり。この道を二、三里行かば、四望かすかにして、遠情抑え難し。時に水風例よりも烈しくて、白砂霧の如くにたつ。笠をかたぶけて駿河国にうつりぬ。前嶋を過るに、浪は立たゝねども、藤枝の市を通れば、花はさきかゝりたり。
※ さかし - 盛んである。
※ 四望(しぼう)- 四方の眺め。
※ 遠情(えんじょう)- 遠く思いをはせること。
※ 水風(すいふう)- 水上に吹きわたる風。


  前嶋の 市には浪の 跡もなし 皆な藤枝の 花にかえつゝ

岡部の里邑(さとむら)を過ぎて、遥かに行けば、宇都の山にかゝる云々。

とあれば、菊川より初倉に出て、大井川を渡りて、前島にかかり、所謂(いわゆる)色尾越しにして、沿道の光景、面(まのあ)たり覧(み)るが如し。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 240 駅路 11

(岡部の正応院の多宝塔)

朝、防災訓練。熱中症になることを恐れ、町内集合の訓練は中止となった。確かに、今日は日差しが強く、一日、強烈な暑さであった。

訓練参加後、NTさんと「志太の社」見学会の下見に行く。一日掛かりで、バスで巡る時の所要時間を計り、トイレの有無、駐車場の確認などをして来た。巡る寺社には結構トイレがあった。30分置きくらいにはトイレが使えそうだ。バスの停められる駐車場はなかなかなくて、路駐を御願いしなくてはならない所もありそうであった。巡る場所が10ヶ所は、計算では時間内に回れそうであったが、お年寄りが多く、長い距離を歩いたり、急な坂を上るようなところはないけれども、乗り降りや移動など、予想以上に時間が掛かることは覚悟して置かねばならない。押して来たら、何ヶ所か飛ばすことも必要になると思った。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

承久の難より三年目なる、貞応二年(1223)四月、源光行海道記に、

十二日、池田を立ちて、くれぐれ行けば、林野同じさまなれども、所々道となれば、見るに従いてめずらしく、天の中川を渡れば大河にて、水面三町ばかりあれば、舟にて渡る。早く浪さかしくて棹もさしえねば、大なる(えぶり)をもちて横さまに水を掻きてわたる。(中略)山口と云う今宿を過れば、道は旧に依って通ぜり。野原を跡にし里村をさきにして、打ちかえ/\過ぎ行けば、事のままと申す社に参詣す。云々。
※ くれぐれ(暗々)- 難渋して行くさま。苦労して。
※ 林野(りんや)- 森林と野原。
※ 朳(えぶり)-農具の一。長い柄の先に横板のついたくわのような形のもの。土をならしたり、穀物の実などをかき集めたりするのに用いる。えんぶり。ここでは、櫂(かい)を示す。


(やしろ)の後ろの小川(逆川)を渡れば、佐夜の中山にかかる。この山をしばらく登れば、左に深谷、右も深谷、一峰長き道は、堤の上に似たり。両谷の梢(こずえ)を眼下に見て,群鳥の囀(さえず)りを足の下に聞く。谷の両岸は高く、また山の間を過ぐれば、中山とは見えたり。山は昔の九折の道、古きが如し。梢は新たなる梢、千条のみどり、皆な浅し。この処は、その名、殊に聞こえつる処なれば、一時(いっとき)の程に百般立ち留りて、うち眺め行けば、秦のの雨の音は、濡れずして耳を洗い、商(殷)の風の響きは、色あらずして身にしむ。
※ 群鳥(むらどり)- 群がり集まった鳥。
※ 九折(きゅうせつ)- 坂道などで、曲折が多いこと。つづらおり。
※ 千条(せんじょう)- 糸状をなした物がたくさんあること。
※ 百般(ひゃっぱん)- いろいろな方面。さまざまな事柄。
※ 蓋(がい)- かさ(傘)。
※ 絃(げん)- 弦楽器のこと。


  わけ登る さよの中山 なか/\に 越えて名残りぞ 苦しかりける
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 239 駅路 10

(散歩道の黄色のカンナ)

午前中に、NTさんが来宅、「志太の社」見学会の打ち合わせをする。結果、正式申し込みをする前に、明日、二人で下見をし、時間やバス駐車場所などのチェックをしてくることにした。

午後、雨も止み、少し散歩をする。早い田圃はもう稲穂が出て、垂れ始めていた。その上を、赤とんぼがいっぱい飛んでいた。畦道には早くもヒガンバナが咲いている所があった。幾らなんでも、8月中ではフライングであろう。更に、赤いジャンボタニシの卵が、稲の茎や畦のコンクリ部分のあちこち張り付いていた。夜には、東から丸い月が昇って来た。月齢を調べると13.7、今夜は満月の前夜であった。秋はもうそこまで来ているのを実感する。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この初倉と掛川の間、路も稍々(やや)遠く、加うるに「横ほりふせる小夜の中山」と云う羊腸たる険坂ありしが、何時とはなしに菊川の宿も建ちて、菊川より初倉に至りて、大井川を渡り、駿河に移りしものなるべし。この菊川は東海道の古駅にして、建久元年(1190)十月、源右西上の時は、この地に宿し、十二月下向の際は、掛川より島田に泊せり。承久の難(1221)藤黄門東下の時は、何れを通過せしか定かならずといえども、駅の公道もすでに島田に通じたる如くにて、この時は金谷も未だならざる前ならば、菊川より質侶(質侶のこと下に述ぶべし)、若しくは、鎌塚にて、島田を越したるものならん。
※ 横ほりふせる - 横たわり伏せる。
  甲斐がねを さやにも見しか けけれ(心)なく 横ほりふせる 小夜の中山(古今和歌集)
 (意訳)甲斐の山をはっきりと見たいものだが、心無くその前に横たわって見せてくれない、小夜の中山であることよ。
※ 羊腸(ようちょう)- 羊の腸のように、山道がいく重にもくねり曲がっているさま。
※ 源右(げんゆう)- 源頼朝のこと。
※ 承久の難(じょうきゅうのなん)- 承久の変。承久の乱。
※ 藤黄門(とうこうもん)- 藤原宗行卿。黄門は中納言の唐名。


この時代には、初倉より小川に通ずる道は廃して、初倉より前島に移りたるものなるべし。この前島は、鎌倉の頃より置かれたるものと見えて、駿河雑志に、

前島駅 止駄(志太)郡にあり。今廃せり。延喜式、和名抄、風土記ともに所見なし。

とあり。


読書:「梅安蟻地獄 仕掛人・藤枝梅安」 池波正太郎 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 238 駅路 9

(険悪な雲の穴/静岡市の夕刻、西の空)

台風20号は未明に日本海に去ったが、南から湿った大気の流入止まず、当地は断続的に大雨が降る。

午後、そんな中、静岡南部生涯学習センターに「天澤寺殿三百年記録」解読の講座に出掛けた。残す所あと二回、今日はメインの献立の部分である。二ヶ所ほど、解読出来なかったところは残したが、まずは無事に終えた。

帰り、信号で止まった上空の空に、雲の切れ目が見えた。「険悪な雲の穴」と名付けた。間もなく激しい雨に突入した。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

兎に角、この初倉に正倉ありしと云い、続後紀、承和十四年(847)八月、榛原郡人、秦黒成女、正六位上、秦忌寸福用、云々の記事もありて、秦氏の本郡に居住せしと云い、現にこの地に式内敬満神社ありて、秦氏の祖神(功満王)を祭ると云い、しかも古えは秦氏の広く全国に亘りて居住し、郡名、郷名などにも「はた」の名を留むる所あるのみならず、その族人も蕃衍し、頗る羽翼を張りたるものにて、
※ 秦黒成女(れい)- 「続日本後記」の記事。「遠江国蓁原郡人秦黒成女一たびに二男一女を産む。正税三百束及乳母一人を賜ふ。」
※ 忌寸(いみき)- 天武天皇十三年(684)に制定された、八色の姓で新たに作られた姓(かばね)で、上から4番目。
※ 蕃衍(はんえん)- しげりはびこること。ふえひろがること。
※ 羽翼(うよく)- はねとつばさ。


秦大津父の如きは、欽明天皇の朝(ちょう)には、大蔵の官吏となりて、七千五十三戸の秦人を統(す)ぶべき、秦伴造に任ぜられしこと、国史にも見ゆる程なれば、或るはこの初倉にも、地方官として簡派せられし、同族の蔵部の職を司(つかさど)りて、居住せしやも知るべからず。現に郡内秦姓を冒(おか)すもの少からざれば、これらその末裔ならんか。
※ 伴造(とものみやつこ)- 大化前代、職能をもって朝廷に仕えた伴(とも)を統率・管理した者。のちに部(べ)の制度が成立すると、部の管理者と考えられるようになる。
※ 簡派(かんぱ)- えらび派遣すること。


かれこれ綜考すれば、この地は、往昔、小府を置れし地たるを、推定せしむるに足るべく、されば置駅以前より、すでに郡の中心たりしなるべし。
※ 綜考(そうこう)- すべてを考察すること。

因って云う、今、五和村の大字に福用あり。古えは相応の家格を有せし部民の住居せし如き、大なる古墳あるのみならず、現に郡内福用の字を用いて姓とする家多しといえば、この福用は、或るは前記秦忌寸福用に縁由ある部局の居住せしより、起こりたる名なりしやも知るべからず。
※ 縁由(えんゆ)- 物事がそうなった訳やきっかけ。原因・理由・由来など。えんゆう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 237 駅路 8

(敷地縁のサフランモドキ)

コンクリート、ブロック、砂利で固められた、我が家の敷地へりで、この酷暑で、花の極端に少ない時に、健気に咲く、サフランモドキである。(撮影は8月20日)

今夜、台風20号が四国に上陸、兵庫県と京都府あたりを横断するようだ。故郷の様子は気になるが、スピードが速いので、雨も一時で済むと思う。明日は静岡南部センターの講座の日で、台風が直撃したら講座がどうなるのか心配したが、そちらも影響なく開催されると思う。就寝前に、もう一度、明日の分を読んで置こう。

図書館に行った所、貸出カードが摩耗しているから交換すると言われた。その際、図書館を大変よく利用して頂き、有難うございますと、礼を言われた。使用頻度が特に高いので、摩耗してしまったようだ。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

しかも、小府の跡、詳らかならずといえども、按ずるに、続紀、宝亀二年(771)の條に、「遠江国榛原郡、主帳無位赤染長浜」云々の記事あり。主帳は即ち小府に奉職する官吏なるを以って見るも、榛原小府のありしことを認めしむるのみならず、郡志、初倉の名の起りを書きし条に、
※ 主帳(しゅちょう)- 律令制で、諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職。
※ 無位(むい)- 位階をもたないこと。また、その人。


大化(645)以後、屯倉を廃して国郡に秋税倉を置きしより、秦(はた)氏の族出でて蔵部の職に任じ、自然、小府のありしと云う。この初倉辺りに、地方官として居住したりしより、遂に地名となりたるものゝ、(秦の)「た」を「つ」と、通音によりて転ぜしには非ざるかと思わる。兎に角、この地に往昔正倉のありしこと、及び秦氏に因縁ありしことは、現在の地勢より見るも、將(は)た史蹟に散見する所に徴するも、思い半ばに過ぐるものあるを信ずるなり。
※ 屯倉(みやけ)- 大化以前の大和朝廷の直轄領。官家,屯家,屯宅,三宅などとも書く。収穫物をたくわえる倉庫から出た語。
※ 税倉(ちからぐら)- 上代、租税としての稲米を納めた倉。
※ 通音(つうおん)- 江戸時代の学説で、五十音図のうち、同じ行の音が相通じることをいう。「さねかづら」を「さなかづら」、「うつせみ」を「うつそみ」というなど。
※ 正倉(しょうそう)- 律令時代、中央・地方の諸官司や寺院などに設置され、正税稲・宝物などを保管した倉庫。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「竹下村誌稿」を読む 236 駅路 7

(散歩道のタマスダレ)

午前中、NTさんと市の社会教育課に出向く。金谷宿大学の「古文書に親しむ(初心者)」「古文書に親しむ(経験者)」の両講座共催で、「志太の社」見学会を挙行するについて、市のバスを借りる制度について、相談のためである。結果、金谷宿大学の講座であれば、利用条件に該当するようで、続いて、資産活用課に相談に行き、日程を詰めて、借りられる話となった。

おそらく、金谷宿大学の講座主催のイベントに貸し出すのは初めてのようで、ある意味、道を開いたと言える。9月、10月、11月、正式の申し込みは終っているが、バスが空いている日なら、柔軟に対応してくれるらしく、急な思い付きでも、実行できそうなのが有り難い。

「志太の社」見学会は志太、榛原近郊の式内社6社を見学する。式内社は延喜式に載っている古い神社で、文化財の建築に詳しいNTさんより、見どころなどを含めて説明してくれるという。今から、楽しみである。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

本郡内に於ける駅路の変遷の概要、左の如し。

さて、前引、延喜式の、「初倉より駿河に移りて、小川、横田」と続けり。小川は焼津の西にして、横田は今の静岡なり。されば古え、駅置の制の定まりしより、初倉にて大井川を越し、小川に通ぜしものなり。今の東海道とは全く道筋を異にせり。掛川誌に、

駅家 矢口の下に初倉あり。延喜式の初倉駅なり。或るは播豆倉または波津倉に作る。この初倉は源平盛衰記、源光行海道記にその名見えたる外、東鑑、東関紀行、十六夜日記などには見えず。古え,掛川より初倉に通じ、初倉より駿州小川に通ず、云々。

また、駿国雑誌に、

小川駅、延喜式、兵部省式云う、小川駅云々今廃せり。和名抄云う、益津郡小川郷云々今存せり。この駅は遠江国榛原郡初倉駅より通ず。

とあるにて知るべし。また同書(駿国雑誌)に、

村老伝え云う、往昔の海道は、まず遠江国榛原郡初倉駅より、海上を当国益津郡(今、志太郡)小川に着岸し、日本坂にかかり、大和田浦を過ぎて、手越駅に出て、国府に至る。

とあり。これ、何れの時代を指したるものなるや、明かならずといえども、大宝令に、「凡そ水駅、馬を配さざる処、閑繁を量り、駅別、船四艘以下、二隻以上を置く」とあれば、当時初倉はこの制によりて置かれたる水駅なりしにや。その後、延喜式には、水駅その他船に関すること、所見なしといえども、榛原小府もこの地にありし如くなれば、或いは(大宝)令の時代には水駅として置かれたりしやも知るべからず。
※ 水駅(すいえき、みずうまや)- 古代律令制における駅伝制度において船や水夫を配備して河川や湖沼の横断に便宜を図った駅のこと。
※ 閑繁(かんはん)- 繁閑。忙しいことと暇なこと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ