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鳴門市ドイツ館からドイツ橋へ

(鳴門市ドイツ館)

まだ、徳島県の板東にいる。鳴門市ドイツ館は板東谷川を渡って500mほど南へ下った所にあった。平成5年、2代目のドイツ館として、姉妹都市のリューネブルクの市役所を模して建設された。ロケ用の収容所が公開されるまでは、板東俘虜収容所の様子を伝える唯一の施設であった。館内では当時の遺物や模型、ジオラマ、写真、画像などを使って、往時の収容所を再現し、その後の日独の交流も合わせて展示してあった。

ドイツ人捕虜たちの自由な日常として、紹介されている一端を記すと、遠足と称して海まで20km以上の遠出を半年で40回も実施した。海では汗を洗うとして海水浴まで許されていた。スポーツも、サッカー、テニス、鉄棒、ボーリングなど用具を工夫して実施していた。また、地元の住民も、交流の中で、先進国ドイツから多くのことを学んだ。パンや菓子作り、音楽活動、土木技術など多岐に渡り、大きな影響を受けた。

特にパン作りは、今もなお、当時の製法を引継ぐパン屋の「ドイツ軒」が市内に残っている。売店にドイツパンが売られていたので買って食べてみたが、食べると後を引く美味しさであった。

そして戦争が終結し、帰国が決まってベートーベンの「第九交響曲」の演奏となる。ただし女性がいなかったので、女性抜きの楽曲に直して演奏されている。

これだけ交流が盛んだと帰国が決まっても日本に留まった捕虜も多かったと思う。記録では61名の捕虜が就職したり、自営業で日本に残ったとある。女房がロケ地の案内嬢に、日本人女性と結婚して日本に残った人もいたのかと聞いたとき、何人もいたようですが、その話には触れないように言われていますとの答えが返ってきた。


(ドイツ橋)

ドイツ館を後にして、天候を気遣いながら、捕虜が作った二つの石橋を見に行った。二つとも大麻比古神社の奥にあった。まず「めがね橋」は日本庭園の池の橋として架けられた小さなものであった。さらにその奥に涸れ沢に渡す「ドイツ橋」があった。これは少し規模が大きい。いずれもどうしてもそこに橋が必要という訳ではなく、時間のある捕虜がお礼の意味で築造したという話も納得できる。


(ドイツ兵慰霊碑-右は合同慰霊碑)

実際の板東俘虜収容所はドイツ館の南側にあった。現在その一部がドイツ村公園として残されている。元プロ野球で活躍し、現在タレントの板東英二氏は板東が故郷で、戦後間も無しに、この収容所跡に住んでいたと、ロケ地の案内嬢に聞いた。このドイツ村公園に残る当時のものはコンクリートの給水塔と慰霊碑である。捕虜千人のうち、9名が収容所で無くなっている。この兵士たちの慰霊碑が捕虜たちによって築造され残っている。その隣には同型で一回り大きい慰霊碑が立つが、こちらの方は昭和51年に日独合同で建てられたもので、当時全国14ヶ所の収容所で無くなった85名の兵士を慰霊する「ドイツ兵士合同慰霊碑」である。

見学を終えて、今夜の泊まりの御所温泉観光ホテルへ向う道で、我慢しきれずに雨が降り出した。台風は歩くほどのスピードで、まだ九州の真ん中をゆっくり北上している。(8月28日~30日、中国出張で書き込みを休んだ)
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板東俘虜収容所は風強し

(美形の案内嬢が‥‥)

鳴門大橋を後にして、「板東俘虜収容所」に向う。徳島側の強風による霧状の潮を嫌って、戻りは香川側に進路を取った。スカイラインからは道の左右のはるか下に海が見える。この道は今は無料であった。スカイラインを降りて瀬戸内海側の海岸は予想したように風は少なかった。昼食を採るつもりが適当なところが見当たらず、山越えで徳島に戻ろうとしたが、この道が大変な道であった。右へ左へ道路の上方に道路を重ねるような登りが続いて山を越えた。

県道12号線を西進すると「バルトの楽園」のロケ村の案内幟が道路に立ち並び始めた。四国霊場八十八ヶ所の第一番札所、霊山寺の門前脇から、北へ1km余り行った大麻比古神社前に駐車し、右手の山道を数分歩いた先に「バルトの楽園」の撮影に使われた板東俘虜収容所のセットがあった。


(収容所の門外には往時の民家のセットもある)

新しい建物に絵の具を使って汚れを入れて、見事に古さを出している。収容所の門外にも一般の民家やお店が何軒か作られていた。門の左側にはこれもセットの警備警察官出張所の建物がある。そこに待機していた美形の案内嬢が10数人の客を集めて案内してくれた。

映画「バルトの楽園」の元になった板東俘虜収容所については、8月13日の書き込みで案内済で、ここでは繰り返さないが、捕虜をいかに人道的に処遇したかという証拠がセットの中に沢山あった。捕虜のほとんどが職業軍人ではなくて、徴兵された一般人だったこともそんな処遇が出来た要因の1つであった。

収容棟は兵舎のように左右に二段ベッドが並んでいるが、そのベッドごとに壁を築いてプライバシーを確保するようになっていて、そのわずかな空間を収容者が思い思いにレイアウトして楽しんでいた。パン工房、印刷所、捕虜が経営する風呂屋、酒場などなども収容所内にあり、鶏も飼っていた。お金のある捕虜は山手の方に別荘を建て、昼間はそちらで過ごすことも出来た。捕虜たちがいかに生活をエンジョイしていたかが窺われる。

捕虜には階級に応じて給料が日本国が立て替えて払われていた。また捕虜は技術を生かしたり農家を手伝ったりしてお金を稼ぐことも許されていた。そんなお金で楽器を買い、所内音楽会を催し、案内ポスターも印刷されて、日本人も大勢聞きに来たのだという。そして最後の第九の演奏へと繋がって行く。

見学する間に、台風の影響で風が強まり、所内に土埃を巻き上げ、今にも雨が降りそうになってきた。案内嬢は台風にこのセットが持つかどうか心配して、再三十分気を付けて見学するように念を押した。
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強風と恐怖の「渦の道」

(「渦の道」から飛島)

お茶園展望台から鳴門海峡と大鳴門橋を遠望した後、観光客の流れて行く方に付いて行くと、大鳴門橋に続く高架の自動車道を潜って橋の方に続いていた。帰ってくる人もあったので、何があるのか聞いてみると。渦潮の上まで歩いて行ける。真下に見えてすごいですよという。事前に見た案内書にあった「徳島県立渦の道」で床のガラスから渦を覗いている写真を思い出した。

高いところは苦手だと思うがここまで来ては引き返せない。聞くとY輔君も高いところは苦手だという。飛行機も嫌いで、遊園地のジェットコースターなどもっての他だともいう。地に足がついていれば高い山でも平気な点まで自分と同じであった。急に親近感を感じる。要は感受性とか想像力が高い低いの違いだと言ってみても、蓬莱橋の高さですら足の竦む身であっては所詮負け惜しみである。

入口で500円払って、どのくらい掛かるかと案内嬢に聞くと、約1kmで30分ぐらい掛かると答える。往復での距離だろうから、500mほど先の海上に行くのだと覚悟した。早く片付けよう。

通路は自動車道の下の橋の構造物の中に作られていて、幅は3mほど、膝までガラス張りでそこから上は粗い丈夫な金網が張られている。落ちる心配は無いが、おりから南西から台風の強風が吹いて、身体が取られそうで余計恐ろしい。とにかく一心に先をめざした。同行者を視界に入れている余裕は無い。途中何ヶ所か広くなって上までガラス張りのところがあり、風が遮られベンチもあるので一休みして同行者を待った。その間に何とかデジカメを出して海に向けた。海は波立ち、ぽつんと飛島が鳴門海峡の流れに逆らう船のように見える。

先端まで行き、床のガラス張りの個所から下を覗いて見たが、肝心の渦潮は残念ながら見れなかった。満潮は14時20分で中潮と掲示されていて、一時間ほど待てば満潮で渦が見られるようだ。しかしこんな所に長居は出来ない。さっさと引返した。岸近くの岩場の浅瀬ではすでに流れが始まって広い幅を持つ渓流のように見えた。


(渓流の流れに見える-「渦の道」より)

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蜂須賀侯の眺めた鳴門海峡

18日の朝、故郷を後にして、下の娘夫婦と徳島の旅に出発する。台風10号がゆっくりとした速度で九州に近づいていて、旅する辺りは台風の影響の有る無しの境である。運が良ければ雨は避けられるかもしれない。

播但道路から山陽自動車道路に出て、神戸淡路鳴門自動車道を南へ下る。明石海峡大橋を渡り淡路サービスエリアで休憩、橋を遠望する。台風の影響はほとんど感じない。雲が出ているけれども暑い。

自動車道は淡路島の尾根の辺りを突きぬいて通したように出来ている。40分ほどで一気に縦断してしまう。大鳴門橋を渡って、やはりここまで来たなら鳴門の渦潮を見ていこうと、鳴門北インターチェンジで降りた。先端の鳴門公園を目指して紀伊水道側の海岸に出ると、台風の影響の東風が海からまともに吹き、潮混じりの風が霧のように見える。車にも良く無さそうで、ひやひやもので進んだ。

駐車場から公園には少し登りになる。登ったところが、「お茶園展望台」であった。近くに茶園があるような場所でもないしと思い、案内板を見ると「昔、阿波藩主蜂須賀侯が茶屋を設けて観潮した所で、当時はお茶屋と呼んでいた。今のお茶園の名もそれにちなんだものである」とあった。

なるほどと思うとともに、昔の殿様はいい場所を知っていたと思った。今は強風でデジカメを向けるのも困難な状況だが、穏やかな日はひねもす海を眺めてもあきなかっただろう。往時は、もちろん景色から大鳴門橋を消し去らねばならないが、時間を追って海流の方向が変り、渦が生じては消え、消えては生じる。行き交う小舟は流れや渦に翻弄され、眺める殿様の気をもませたことであろう。

今も鳴門側からの観潮船が出て大鳴門橋の南側で流れに舳先を向けて停止状態でいる。エンジンを廻して停止状態を維持しているというべきか。やがて鳴門側に逸れて戻って行った。続いて淡路側からの観潮船が近付いて来る。咸臨丸を模した観潮船で、先ほどの船とほぼ同じ位置で同じように舳先を流れに向けて停止する。ビューポイントが決まっているのであろう。
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強運の達徳会館

(強運の達徳会館)

18日の朝、故郷の家の近くを下の娘夫婦と散歩した。自分のかつての縄張りを案内する気持であった。朝7時、まだ涼しさが残っている。散歩したのは、家の回り、せいぜい500mほどの範囲内で、次の経路となった。

大石りくの生家跡 - 豊岡高校と達徳会館 - 和魂の石碑 - 簡易裁判所 -旧豊岡県庁正門- 京極家邸宅 - 豊岡市立図書館 - 豊岡小学校と二本松 - めぐみ幼稚園跡とシイの古木 - 神武山遠望 - 豊岡小学校プールと弥栄園

それぞれの場所が一回の書き込みになるほど、自分には思い出深い所である。その中で今日は「達徳会館」を取り上げよう。

達徳会館は豊岡高校正門右手にある。明治期の擬洋風官公庁建築で、豊岡高校の前身の豊岡中学の本館として、明治29年に建てられた。昭和16年の校舎改築の時に、消滅を惜しんだ卒業生たちの手によって現在地に移築され、同窓会の名称をとって「達徳会館」と呼ばれるようになった。震災や戦災も逃れ、昭和47年の豊岡高校を全焼する大火事のときも、高校の建物群の中で、少し焼け焦げが出来ただけで、類焼をまぬがれた唯一の建物であった。創立より残る唯一の建物で、齢110年、強運の建物である。

高校時代にもほとんど使われることはなかったが、文化祭の時には本部事務所に使われていた。高校2年の文化祭は2年生が中心になって運営した。自分も演劇実行委員として右往左往していたのを思い出す。演劇サークルと幾つかのクラスが文化祭で演劇を公演するのである。その面倒をみる係りであった。

副として少し派手目な女性が付いていた。達徳会館を出入りしながら、事務的な打ち合わせで話すことも多かったと思うが、ある時、3年生の男子に呼び止められて、「俺の女に手を出すな」に近いことを言われたのには驚いた。そんな気は全くないのに、何を勘違いしたのか、今もって判らない。

散歩の時には、下の娘夫婦にそんな想い出を話すことはしなかった。
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大江山の「日本の鬼の交流博物館」

(巨大な鬼瓦)

大江山のふもとにいる。大江山に行きたいとリクエストを出したのには訳がある。子供の頃、家族で取った百人一首で、数少ない知っている札の一つが次の歌であった。

  大江山 いくのの道のとほければ まだふみもみず あまのはしだて

詠み人は有名な歌人の和泉式部の娘、小式部内侍である。ある歌会で歌を母から教わっているのではないかと揶揄され、その返答として即座に詠んだ歌である。当時、和泉式部は丹後の国府に下っていたので、このように読んだ。母親譲りのその才能に、一同脱帽であったことであろう。

天の橋立とくれば、どうしても大江山が出てくる理由である。そして大江山はなんと言っても酒呑童子の住んでいた山である。何か酒呑童子に縁のものを探していると、鬼の博物館があることが知れた。

「日本の鬼の交流博物館」は大江山の麓の山あいにあった。建物全体が鬼の頭を思わせる建物である。入口に巨大な鬼瓦が設置されていた。全国の瓦職人が各パーツを焼いて集め、巨大鬼瓦に組み上げたものだと案内板に書かれていた。

博物館に入ると日本や世界から集めた鬼と名付けられる様々な物が展示されていた。各地で神楽等に使われている鬼の面、ナマハゲの面、般若の面、天狗面、鬼瓦、海外の悪魔の仮面等々が良くこれだけ集めたものだと感心するほど沢山の鬼関連グッズが並んでいた。また鬼の絵や写真も色々あった。有名な大津絵の鬼もある。1つテーマで色々なものが集められるものである。

見学の手引きによると、大江山の鬼退治の伝説は三つも残っている。その最も新しいものが、源頼光によって退治された酒呑童子の話である。

騙されて毒酒を飲まされ、自由を奪われて殺される時、酒呑童子は「鬼に横道なきものを!」と叫んで頼光のかぶとに噛みついたという。この「横道」は広辞苑によると「正しい道にはずれたこと」で、意訳すれば「何も悪いことをしていないのに」というような意味のであろう。現代に至るまで、鬼の苦難は続いている。外見だけで悪と判断されて、数々の迫害を受けているようにみえる。   

夜、兄貴が孫たちに携帯で写してきたナマハゲの写真を見せて、いい子にしていないとナマハゲが来るとおどかしていた。自分もデジカメで撮った鬼の写真を、デジカメ画面いっぱいに拡大して見せておどしたが、上の子がデジカメを取って縮小し、お面を撮った物だとばらしてしまった。可愛げのない子供だ。

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丹後の元伊勢、3神社を巡る

(鎌倉時代作の重文「籠神社の狛犬」)

まだ天の橋立にいる。正面に橋立を見ながら傘松公園からリフトで降りてきた。傘松公園へは上りはケーブルカー、下りはリフトが良い。リフトからずーと橋立が見える。降りたふもとに丹後国一之宮、元伊勢と言われる籠(この)神社がある。籠神社の脇に駐車して、傘松公園に登る前に参拝してきた。

籠神社本殿両脇の狛犬は鎌倉時代作の重要文化財である。どっしりとした胴や脚はたいへん力強い。こんな狛犬からも、この神社の古さが知れる。

日本書紀には、元々大和朝廷の氏神であった天照大神が伊勢神宮の現在の地に鎮座されるまでに、理想的な鎮座地を求めて各地を転々と遷ったことが記されている。その地は20数ヶ所にのぼる。この鎮座地を求めて転々としたのは、一種の軍事行進だったのではないかという説もある。

その第一の鎮座地は大和国の笠縫邑で、山辺の道の大神神社に近いところに小さな祠が残っている。40年前の学生時代、大和を巡ったときに参拝した記憶がある。そして2番目が 丹波乃国 吉佐宮だという。日本書紀の通りだと2000年以上前の話である。この吉佐宮とされる神社が近辺に3箇所あって、その1つがここ籠神社である。

籠神社を出て、昼食に「丹後の手こね寿司」というちらし寿司を食べた。その後、大江山に行きたいとリクエストすると、大江山の周辺に元伊勢と言われる神社が二つあるから参っていこうと逆提案があった。3箇所ある内の残り2ヶ所も巡ろうという提案であった。

宮津市から綾部宮津道路を少し南下して、山の中に入る。最初、元伊勢の外宮と言われる神社に詣でる。おそらく丹後町宮の竹野神社であろう。山を少し登った所に朽ちかけた神社があった。規模は意外に大きい。間口の広い神楽殿も立派である。しかし、それは過去のこと、現在では地域で維持するのはなかなか難しくなっているのであろう。

さらにそこから3kmほど入った大江町内宮に元伊勢の内宮といわれる皇大神社があった。近くを流れる川は五十鈴川と名付けられていた。奥には天の岩戸神社もあるようだ。暑い昼下り、参道の山登りがきつかった。大きな神社であったが、宗教法人が運営しているようで、まずまず参拝者もあるらしく、整備もされていた。
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股から覗いた天の橋立

(天の橋立を股から覗く、こんなことを誰が始めたのであろう)

コウノトリを見てから、下の娘夫婦も一緒だったので、久しぶりに天の橋立に行くことになった。久美浜海岸、箱石海岸と懐かしい名前が出てくる。温泉の看板が現在はたいへん気になる。

天の橋立ではケーブルカーに乗った。30年ぶりかもしれない。戦後、レールが供出されていて、レールのない軌道を歩いて登ったと兄貴が語る。

橋立は見る限り何も変わっていないように見えたが、一昨年の23号台風で松並木がかなりやられたと聞いた。しかし、松は傷んだらどんどん補植すればよい。松くい虫にやられたと大騒ぎするのもよいが、枯れたら苗を植えて補う方法で、昔から松並木は維持されてきた。沼津の千本松原も植えては枯れ、植えては枯れを繰り返して、徐々に今の広大な松林が築かれてきたのである。

橋立もご多分に漏れず砂洲が浸蝕を受けて、護岸に苦慮しているとも聞いた。しかし自然の脅威よりも、問題なのは手前の海岸が観光開発か道路拡張で海のほうへ埋め立てられていることだと思う。自らの観光資源を、施設を造って壊してしまい、観光客の足が遠のいて、結局ゴーストタウンを造ってしまったという例をいくつも見ている。

傘松公園からのパノラマはさすが日本三景である。傘松公園といえば股覗きである。みんな必ず試す。最近は女性も大胆に股覗きをする。確かに違った風景に見えるから不思議だ。一体いつの時代に誰が股覗きを始めたのか。それよりもそれを見た誰が股覗きを観光資源として取り込んだのか。

ネットを見てビックリ。股覗きをしたところ、橋立が空の上にあり天に架かっているように見えたから、天の橋立と呼ばれるようになったと書かれていた。そうか、股覗きより天の橋立の名前の方があとなのだ。それならば天の橋立とネーミングしたのは誰なのか。こちらの方は何か文献が残っているだろう。調べてみよう。

写真は股から覗いて撮ったのではなくて、デジカメを天地逆にして撮ったものである。グッドアイディアと自慢であったが、何のことはない、普通に撮って画像処理で180度回転させればよかったと、今、気が付いた。
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コウノトリ、故郷の空を飛ぶ

(餌を啄むコウノトリ)

二日目は兄貴の運転でドライブに出かけた。豊岡といえば、まずは何をおいてもコウノトリである。郊外のコウノトリの郷公園にコウノトリに会いに行った。ここを訪れるのは3度目であろうか。しかし今回は今までとは少し違った。昨年の秋にコウノトリを自然に帰すべく放鳥して、はじめて訪れるコウノトリの郷公園である。

市立のコウノトリ文化館に入り、兄貴が受付で声をかけると女性館員が案内してくれた。この女性は兄貴が校長として最後の赴任校であった、市内の中学校のPTAの役員だった人で、特別に案内してくれた。

懐かしい但馬の訛りのある案内だった。大方は何度も聞いたり読んだりした話だった。その中の新情報の1つに、天井のない柵の中に入れているコウノトリは羽が切ってあるが、この羽根は一ヶ月ほどで生え変わるため、繰り返し切っておく必要がある。いわば散髪するようなものと説明があった。

さらに、足にはめた複数の輪っかで個体の識別をしており、ペアリングの際に血が濃くならないようにコントロールをしている。現在日本で動物園に飼われているすべてのコウノトリにもこの輪っかがはめてあって、個々のコウノトリの血統が判るという。

今、コウノトリの郷公園近くには、自然に飛んでいるコウノトリが9羽いる。昨年放鳥された5羽に、今年羽根を切られた番いから生まれた2羽、さらに他から飛んできてすみついた八五郎と、8月初めに新たに飛んできた一羽の計9羽である。

公園の悩みは放鳥したコウノトリ(中でも幼鳥の2羽)がいつまでも公園内の餌場を離れず、幼鳥はゲージの中の親鳥から餌を貰ったりしていて、せっかく放鳥しても自立をしていかない点であるという。餌場を閉鎖したり、親鳥を引き離したり、色々対策を考えているようだ。

最後に、外に原寸大に作られたコウノトリの巣があり、乗れるようになっているから自由に乗って、コウノトリの気持になってみて下さいと結んだ。外へ出て、下の娘夫婦はさっそく巣に乗って、写真を撮ってもらっている。コウノトリ文化館脇の公開餌場には10羽近くのコウノトリが、アオサギやシロサギと一緒に餌をつついていた。

その時、一羽コウノトリが飛立った。低空非行で飛んで300mほど離れた田圃の中に降り立った。遠めに見るとそこには他にも1、2羽いるように見えた。近い将来、自然に舞い飛ぶコウノトリが増え、飛ぶ姿が普通に見れるようになるだろう。
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下の娘夫婦と故郷を訪う

(日本海の内海の水辺-すぐそばまで田圃がある)

今回の帰郷は下の娘夫婦との旅になった。お盆の時期は故郷では子供や孫で満員となるからお盆の後にしてほしいとの話で、この3年ほどはお盆が終わった後に帰郷している。いわば時差帰郷である。今年も同じ時期に計画し、昨年結婚した下の娘夫婦に話したところ、予定が合わせられるから一緒に行ってくれるという。

自分の生まれ故郷を一度は見せておきたいと思っていたから、さっそく二タ夫婦で帰郷するように計画した。帰りには徳島に回り、「バルトの楽園」の映画セットを見学する予定も立てた。

愛犬ムサシをペットホテルに預けて出発する。運転は娘の亭主のY輔君が引き受けてくれた。長距離を自分で運転することを思うと大名旅行である。Y輔君の運転は若いのに似合わずゆったりとした余裕を感じる運転である。スピードを出していないわけではないが、制動が緩やかで身体を振られるようなことがない。交通違反で捕まったこともないというのもむべなるかなである。結局3泊4日中、1日故郷の兄が案内がてら運転してくれたのを除いて、Y輔君の運転に甘えてしまった。ご苦労様でした。

旅の1日目は一直線に故郷を目指し、午後4時半には着いた。お袋はデイサービスでお風呂に入れてもらい、さっぱりして顔色も良く元気そうであった。いつものことながら、面倒を見てくれている兄貴の嫁さんには頭が下がる。墓参りのあと、寿司屋の二階で歓迎会を開いてくれた。

次の日は兄貴の運転で、一日ドライブをした。故郷の山や海が懐かしい。日本海のリアス式海岸は、潮の満ち引きが少なく、内海では道路や家が水際まで迫っていても波を被ることがない。有名な伊根の舟小屋はその良い例である。海すれすれに道路が続く。山陰の山々は優しい。中部地方に比べて、故郷の山々は古く浸蝕が進んで、穏やかな山々が連なっている。一日そんな景色を楽しんだ。

その夜、甥っ子のA生君が神戸からオートバイで帰ってきて、近くに住む姪っ子夫婦も加わって遅くまで話がはずんだ。
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