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この一年に何をしたか、& 謹賀新年

大晦日はあっという間にやってきた。昼間には雪が降りしきる場面もあった寒い日であった。昨日、西原でまた熊が目撃され、足跡さえ見つかったと、公報無線が注意を呼びかけていた。いつもは初日の出を見に登る人がある西原だが、今年は交通止めだという。

大晦日だから、今年の自分及び家族の五大ニュースを挙げる。

1.2月に、二人目の孫、かなくんが誕生した。
 暮れも名古屋からかなくん、掛川からまーくんがやって来て、我が家は大騒ぎである。
2.5月に、お遍路春編、第1番~第30番巡る。
 13日で350km、徳島から高知まで歩いた。
3.10月より、年金をもらい始める。
 63歳より年金がもらえるようになった。目減りしているというけれども、年金をいただけるのは大変ありがたい。
4.11月に、お遍路秋編、第31番~第88番巡り結願
 28日で850km、高知から愛媛を越え香川まで歩いた。
5.通して、古文書解読の勉強進む
 古文書を勉強し始めて2年目、金谷、掛川、靜岡の3ヶ所で受講して、古文書がだいぶ読めるようになった。

何といっても、お遍路の結願が今年最大のニュースであった。

たちまち、紅白も北島三郎の「祭り」がトリで、白組の勝利で終った。紅白も60回目を迎え、「歌の力∞」をテーマに行われた。そして除夜の鐘が聞こえ新年となった。

ネットがつながり難くなり、書き込み更新がしにくくなったので、そのまま新年の書き込みに突入する。


(2010年 年賀状)

2010年、新年明けましておめでとうございます。いつも「かさぶた日録」をご覧いただきありがとうございます。今年も引き続きお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。写真は弘法大師誕生の寺とされる、第75番札所の善導寺の大クスです。弘法大師が生れたときにはすでに大きく育っていたクスノキといわれています。

行く年来る年の中継地が今年は雪が降っている場所が多い。それほど寒い年末年始になった。

今、「年の初めはさだまさし」を背中で聞きながら書いている。何と国技館で一万人を前にやっている。不思議なディスクジョッキー番組である。

今朝は地区の神社に8時集合だから、夜更かしが出来ない。早く寝なければならないのでこれくらいとする。
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12月1ヶ月に何をしたか

(12月17日朝、雪の福岡羽犬塚駅前)

お遍路話を続けていて、漸く結願まで到達した。気付いてみれば、今日はもう12月30日、残すところ今年も1日となっていた。

遍路をしながら書き込んだ28日間と、帰ってからの31日の遍路話を比べてみると、随分トーンが変っていると感じる。当日に書き込んだ方が臨場感があっていい。パソコンを持参して、毎日書くことを自分に課して来たが、それが正解だったと思う。

この2ヶ月で書き込んだ分量は400字詰原稿用紙にして150枚を越えている。春の50枚を加えると、本一冊分くらいの分量は十分にある。誰かが自費出版で本にされるとよいと話していた。本にすることは難しくないが、それを誰が読んでくれるかとなると、首を傾げてしまう。資源の無駄遣いになりかねない。だから、自費出版は無駄として、一冊だけの手作りの本くらいなら作ってもいいかなと思っている。

12月は何をしていたのだろう。遍路話をまとめるのに気持の半分ぐらいは取られていた。そんな中にも、前からの約束だったとはいえ、福岡、佐賀の二泊三日の出張もこなした。季節がら忘年会も三つ、近所の芋汁会にも出席した。どこへ行っても話題はお遍路の話である。皆んなびっくりするのは一日平均30kmの歩行距離である。時間4kmにして、7時間半、皆さんが8時出勤して5時退社するとして、昼食や休憩を別にして、仕事をしている間、ずっと歩いていると考えてくれればよいと話すと、皆んな理解したようなしないような、どちらにしても大変だという話になる。

環境講座1回、歴史講座1回、文学講座2回、古文書講座2回と各種講座にも、都合6回出席した。10日間は半日会社へ出勤している。12月1ヶ月の行動を振り返ってみて、なかなか忙しく予定をこなしていたことが判ってもらえると思う。

今夜は我が家の年に一度のすき焼きパーティであった。二組の娘夫婦がそれぞれ子供を一人ずつ連れて集まり、総勢9人でダイニングルームは一杯であった。鍋奉行は自分で、他の誰も手を出さない。いつも味が濃すぎるといわれるから少し薄めにした。関西風のスキヤキだから、味は投入する砂糖と醤油だけできまる。その量を少し減らしてみただけである。ところが、いつもより味が薄いといわれて、今度は増やした。味の濃さにムラはあっても、肉は国産牛肉の上物を奮発しているから、旨くないわけはない。

明日は大晦日、元旦は我が家の所属する隣保班が地区の宮当番で、朝9時から新年拝賀式に出席する。喪中の班長さん、後長さんの代行で、司会を勤めなければならず、いつもの寝正月とはいかない。年頭からそんな風で、来年も慌ただしく始まることになる。

書き終えて風呂に入ってきた。立ち上がる時に両膝が悲鳴を上げるような痛みを感じた。直に痛みはおさまり、その後は普通に歩けるが、一ヶ月経って少しはよくなっていると思うが直らない。一日30kmで一ヶ月歩くということは、つまりそういうことなのだ。ザックの重量の8kgがもろに両膝にかかり、歩みに合わせて一日4、5万回の衝撃が膝を襲うのである。全治にはまだ日数を要するであろう。
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第八十七番長尾寺~第八十八番 大窪寺

(当願堂)

(11月27日の続き)
志度寺から長尾寺まではまっすぐ南、山の方へ進む7kmである。県道3号線を一時間をほど歩いた右側に当願堂というお堂があった。そばの休憩所で一休みした。

脇の案内板によると、延暦(約1200年前)の昔、当地に当願、暮当という仲のよい猟師がいた。志度寺の修築法要の日、暮当は狩に出たが、当願は志度寺に参拝し法席にいながら「暮当は大きい獲物を捕らえただろう」と殺生心を起した。たちまち、当願の下半身は蛇となった。迎えにきた暮当が当願を背負って帰る途中、「体が熱いので池に入れてくれ」というので、幸田の池に入れた。この時当願は片目をくり抜いて「この目玉を壺に入れておくと汲めども尽きぬ美酒が出来る」と教えた。暮当は美酒を売って家は栄えた。当願の体は次第に大きくなり、幸田池から満濃池、その後大槌小槌の海に入って竜神になったという。志度寺の海女にも竜神が出てきて、この辺りの人々が昔から海との関わりが深かったことが解る。

遍路道はこれより里道に入るが、その道は地図には記されていない。しかし緩やかな起伏で歩きやすい道であった。一度県道を渡って遍路道は旧道を行く。左側に「お大師さんの休み場」と呼ばれた玉泉寺があった。かつては門前に「お茶堂」があって、お接待で賑わうミニ札所であった。もう一度県道を渡って、遍路道は鴨部川の土手を行く。その名も「へんろ橋」と呼ばれる橋を渡ると長尾寺までは残り1kmである。へんろ橋のたもとに遍路休憩所があり、本日最後の休憩をとった。



(長尾寺本堂・大師堂)

第八十七番補陀落山長尾寺の真ん前に、宿のあづまや旅館はあった。旅館にザックを預けた。女将さんはすぐ前だから金剛杖も置いていけばよいという。ご夫婦のお遍路さんに会わなかったかと聞くから、志度寺で会った。泊りはあずまや旅館と言っていたと答えた。それなら間違いはなかろうと女将さんは頷いた。


(長尾寺のクスノキ)

長尾寺の境内は広く、門の右手にクスノキの巨木があった。境内では近所の親子がサッカーボールを蹴っていた。間もなく夕闇が迫ってくるつかの間の時間である。打ち終えたころ、ご夫婦のお遍路が長尾寺に到着した。


(一心庵)

お遍路28日目、11月28日(土)、今日はいよいよ結願の日である。県道3号線を、引き続き真南に、山中へ入っていく。1,8km歩いて、旧道の遍路道に入った。この沿道には一心庵、高地蔵、馬の墓などが点在している。お遍路さんは見物するついでに、その度に腰を伸ばしたり小休止が出来る。

一心庵では18世紀の終わりごろ、小豆島肥土山の接待講が「常接待」するなど、かなり広い地域からの出張接待があった。現存する手水鉢に「寛政三年(1791)御料小豆島肥土山邑 万人講 施主太田氏妻」とある。遠方からわざわざ接待をするためにやってくる接待講があったことは初めて知る。


(路傍の「馬の墓」)

高地蔵は高い台座に座り、4メートル余の高さで、そのように呼ばれる。そばに、自然巨岩に大師像を彫った上を堂で覆った大師堂ある。また四国霊場を百三十六回巡拝した忠左衛門の墓碑がある。道中の何ヶ所かに馬の墓もある。陸上輸送の重要な手段であった馬が道中で亡くなるとその場で葬った。東海道などでは馬頭観音を祀るところだが、この辺りではストレートに「馬の墓」というようだ。



(大窪寺本堂・大師堂)

この後、前山ダム湖の畔のおへんろ交流サロンに立ち寄り、最後の難所、女体山を越えた次第はすでに詳しく書き込んだ。大窪寺を打ち終えて、28日間宿以外で脱ぐことのなかった白衣を脱いでザックにしまった。そこで自分のお遍路は終ったと思った。


(名物 打ち込みうどん)

門前の野田屋で、宿のあずまや旅館の女将さん推奨の打ち込みうどんを食べた。自分の感じでは、かす汁にうどんを入れたもののようで、うまいと思った。特に日差しがなくて冷え込んできたから、身体の芯から温まる気がした。宿の紹介だといえば何かお接待をいただけると聞いていたが、白衣を脱いだ以上、お接待を受ける資格は無いだろうと思い、特に名前は出さなかった。野田屋にはたくさんお土産ものが並んでいたが、全く触手が動かなかった。

帰りのコミュニティーバスで、この足で高野山に向かうという愛知の男性と隣り合わせになった。自分も一緒に行こうと一言いえば高野山に行くことが出来たが、すでに白衣を脱いだ時点で自分のお遍路は終っていた。だから、そんなことは思いにも浮かばなかった。
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第八十四番屋島寺~第八十六番志度寺



(屋島寺本堂・大師堂)

お遍路から帰ってきて一ヶ月経った。その間、延々とお遍路話を書いてきて、中にはまだお遍路を続けていて、何時帰ってくるのかと質問を受けた人もいるらしい。書く方もいささか草臥れて、いい加減に終わりにしたいと思う。書いている当人がそんな風だから、もし読んでくれる人がいれば、大変にご迷惑をお掛けしていることになる。恐縮であるが、お遍路話も結願までにあと2日となった。年明けからは平常営業に戻るつもりなので、もうしばらくご辛抱願いたい。

    *    *    *    *    *    *    *

お遍路27日目、11月27日(金)、本日、4ヶ寺を打てば、あと第八十八番大窪寺を残して、明日めでたく結願を迎えることになる。

源平合戦の舞台となった屋島は、富士山のようなピラミダルな山の上部三分の二程を水平にすっぽりと切り取ったような、特異なシルエットの山である。だから標高292メートルの山頂と言っても、同程度の標高が広く存在している。第八十四番南面山屋島寺はその中にあって境内もゆったりと広い。まだ団体客も見えず、静かに気分よく打ち終わった。境内には宝物館もあり、源平合戦の遺物なども陳列されているというが、入館はしなかった。

台地の東縁まで行くと、壇の浦と呼ばれる湾を挟んで対峙している、八栗山一帯が一望できる絶景であった。次の八栗寺は八栗山の中腹にある。かつてこの絶景を見下ろす観光ホテルがあったが、今は営業しておらず、大きな廃ビルが姿を晒していた。


(洲崎寺境内)

湾の一番奥に架かった橋を渡り、八栗山に登り返す5.4kmの遍路道を屋島寺で出会ったご夫婦の歩き遍路とあとさきになりながら歩いた。橋を渡った先に、洲崎寺というお寺があった。源平合戦のとき、義経の身代わりになって討ち死にした佐藤継信の亡骸を、焼け落ちた洲崎寺の本堂の扉に乗せて、源氏本陣まで運んだと伝わり、継信の菩提寺となっている。境内のイチョウが黄葉して見事であった。



(八栗寺本堂・大師堂)

第八十五番五剣山八栗寺は八栗山の岩壁を背景に建っている。本堂、大師堂の並びに、昭和五十九年建立の、朱に塗られた多宝塔があった。


(八栗寺多宝塔)

八栗寺を打ち終えて、次の志度寺に向けて県道を下ろうと歩き出したところに、八栗寺でもちらりと見た、三脚の男性が登ってくるのに出会った。ケーブルカーの駅へ行く道を間違えたと、問わず語りに話す。足が痛くて歩けないのだともいう。八栗寺に登るケーブルカーがあるのは上り道で見ていた。三脚の男性は電車で次の志度寺へ向かうのであろう。


(平賀源内邸)

県道を下って志度湾に向かって歩き、国道11号線に出て、昼食に念願の讃岐うどんを食べた。さぬき市志度へ入り古い町並みの残る新町を歩いた。そこにエレキテルの平賀源内邸があった。案内板には、源内は高松藩の軽輩御蔵番の子として生まれ、長崎留学後、江戸の昌平校でも学び、江戸で活躍した。ふとしたことから人を傷つけ、伝馬町の獄で52歳で亡くなった。源内先生二百年祭にあたり、旧邸を修復したとあった。


(志度寺山門と五重塔)

志度寺の手前で再び三脚の男性に出会った。お互いに笑いあって、よくあいますねえと言葉を交わした。志度寺を打ち終えて駅に戻るという。次の長岡寺へ電車で向かうのであろう。



(八栗寺本堂・大師堂)

第八十六番補陀落山志度寺の山門の左には高く五重塔が建っていた。総高33メートル、昭和五十年に建設されたものである。木立の中に古い堂宇があった。歴史を感じさせるお寺であった。本堂前で荷を降ろしていると、少年にお接待ですとスポーツ缶飲料を頂いた。誰か接待をしてくれた大人がいるはずと気付いて見回したが、すでに少年も見当たらなかった。

   盆に来て 海女をとむらふ 心あり   高浜年尾

句碑があった。志度寺には海女の墓といわれる古い墓がある。案内板によれば、天武の昔、藤原不比等は竜神に奪われた面向不背の玉を取り返すために、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、海女と恋仲になり一子房前が生れた。その後、事情を聞いて、海女は瀬戸の海にもぐり竜神から玉を取り返したが、傷ついて死んだ。後年大臣となった藤原房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。今もなお供養が続けられている。


(柵の中に海女の墓がある)

伝説は荒唐無稽と思われるものが多いが、部分的には重要な事実も伝えていることも多い。この伝説では1300年前からこの地では海に潜って漁る海女が多く存在していたこと、海女の多くが志度寺に葬られたことなどが知れる。
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第八十一番 白峯寺~第八十三番一宮寺

(五色台-名前の由来が一目で判る)

お遍路26日目、11月26日(木)、この日に三ヶ寺を打って最後の難所も越え、いよいよ結願が現実のものになってきた。

えびすや旅館の泊りに姫路の逆打ちの男性がいたことは書いた。長いものが嫌いなので、この時期から年を越した冬場に毎年のようにお遍路をしているという。長いものはヘビのことである。西日本は東日本に比べてヘビが多い。だが、さすがにこの11月にはヘビは少なく、自分も最初の頃に一度だけ歩道を塞いでいたのを見かけただけである。

姫路の男性は明日のコースの話をしてくれた。白峯寺へは五色台の上の県道を進む方法もあるが、県道を突っ切って十九丁(白峯寺と根香寺を結ぶ山道と出合う三叉路)を通って山道を行けば、高低差の少ない気持ちよい道で、一日天気だったからぬかるみも乾いただろう。県道は近くの自衛隊基地の車両が我が物顔に通るからから勧められないという。

その勧めで山道を歩いた。最初は平坦で快適な山道かと思ったが、ぬかるみもあちこちに残り、十九丁の三叉路以降はかなりのアップダウンがあって、思った以上に時間が掛かった。その結果、白峯寺で同宿の愛知の男性が打ち終えて来るのに出会った。自分よりも遅く宿を出たはずなのにと、聞けば県道は高低差も無く樂々だったという。距離も1kmは短い。しかも山道は同じ道の往復になる。何の考えもなしに姫路の男性の言葉に従ったが、彼は余程自動車道を歩くのが嫌いだったのであろう。

結果、30分位の遅れで済んだが、同じ宿の浜松の女性は足が弱くて、明日どこまで行けるか心配していたのに、山道を選んでしまい、自分よりも1時間以上遅れて、その往復する山道ですれ違った。姫路の男性は自分のペースで山道を勧めて、罪なことをしたと思う。浜松の女性とはその後逢うことはなかった。無事結願出来たのであろうか。


(摩尼輪塔)

白峯寺の直前の山道に、珍しい摩尼輪塔(香川県指定建造物)があった。塔身下部に「下乗」と刻まれているから、下乗石と呼ばれ、ここから先、乗り物を禁ずる標識になっている。塔身上部には大日如来のしるしの入った円盤がはめ込まれている。写真の左の五輪塔と比較すれば特徴がわかる。



(白峯寺本堂・大師堂)

第八十一番綾松山白峯寺へは少し山を下った。打ち終えてその道を登りなおす。向かいからやってくるお遍路さんやハイキング客とたくさんすれ違った。また、白峯寺から根香寺までに限った歩き遍路をしている集団を一気に追い抜いた。根香寺ではバスが彼らを待っているはずである。



(根香寺本堂・大師堂)

第八十二番青峰山根香寺はこのシーズン最後の紅葉を見る参拝客で溢れていた。参道は一度石段を下りてもう一度上がる変った構造になっていて、その辺りが紅葉の絶好地で、カメラを構える人がたくさんいた。行楽客を縫うようにして打ち終え、駐車場まで戻ってくると、初めて見る牛鬼の像をみた。


(牛鬼の像)

案内板によると、400年ほど昔、この辺りに牛鬼と呼ばれる怪獣が住んでいて人々を困らせていた。殿様は山田蔵人高清という弓の名人に牛鬼の退治を命じた。高清は根香寺の千手観音にお願いして、牛鬼を見つけ出し、見事退治した。そして、牛鬼の角を根香寺に奉納して、菩提をとむらったという。



(一宮寺本堂・大師堂)

第八十三番神毫山一宮寺までは山を下って、鬼無の里を歩き、香東川の左岸を溯った、約12kmの行程で、一宮寺は高松市の南の郊外にあった。一宮寺を打ち終えて、予約したビジネスホテルサンシャイン高松までは、さらに6kmほど歩いた。
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第七十六番 金倉寺~第八十番 国分寺



(金倉寺本堂・大師堂)

お遍路25日目、11月25日、昨夜の宿で同宿だった歩き遍路は、夕方金比羅山に出かけ女将さんを心配させた千葉のKさんと、区切り打ちで今回は今日から歩き始める愛知の男性と自分の3人であった。朝、愛知の男性からわずかに遅れて、七時半に宿を出た。

昨日の六ヶ寺に続いて、今日は五ヶ寺を廻り、一気にゴールに近付くことになる。雨上がりで、裏通りにカーブを描いている遍路道は濡れていた。第七十六番鶏足山金倉寺までは3.7kmである。本通りを歩いた愛知の男性が一歩先へ着いていた。広い境内を掃除していた女性から、お菓子のお接待を頂いた。歩き遍路の到着を待って、お接待してくれる。本堂で勤行をしようとお線香の台を見ると、きれいにならされた灰の上に一本も線香が立っていなかった。ど真ん中に線香を立てた。



(道隆寺本堂・大師堂)

第七十七番桑多山道隆寺へは3.9km、一時間足らずの歩きである。途中、葛原正八幡神社脇を通る。この神社には巨木が何本かあり、社叢として県の指定自然記念物になっている。道隆寺では、打ち終えて出てくる愛知の男性と会った。自分より少し先を進んでいる。道隆寺には昭和五十五年建立の多宝塔があった。


(道隆寺多宝塔)

勤行を終えてお寺を出るときに、ひょこひょこと歩くおじさんに会った。声を掛けてみると、交通機関を利用したお遍路で、次の郷照寺へはJR予讃線が平行して走っているから、電車に乗っていくという。歩くのと電車に乗るのでは時間的にそんなに変らないようで、この後、幾つかのお寺で出会い、顔見知りになった。三脚を持っていて、勤行をしたお堂の前で自分を入れて必ずデジカメで撮っている。三脚の男性と呼ぼう。昨日の善通寺で写した写真にも写っていた。


(丸亀城が見える)

第七十八番仏光山郷照寺へは丸亀市の市街地を西から東へ横切っていく7.2kmの道のりである。街を歩いていて、暑くてジャンバーを脱いだ。市の中央部でビルが道路で切れた南方に、高台にある丸亀城が見えた。また土器川に掛かった蓬莱橋からは、南東の方向に形のよい讃岐富士が見えた。



(郷照寺本堂・大師堂)

郷照寺にあと2kmという辺りで、トイレに行きたくなり、急ぎに急いだ。郷照寺の直前で宇多津町に入る。門前の町は古い町並みが残り、優しい舗装がされて、散策に絶好の道に整備されていた。郷照寺は石段を少し登った高台にあり、遠くに瀬戸大橋が見えた。

郷照寺で若い女性の歩き遍路を見た。多くのお遍路さんに混じって、その荷物の大きさでわかる。さらに、うどんを食べた後、横切った瀬戸中央道下の公園で、その女性が休んでいるのを見かけた。宿で、若い女性の歩き遍路を見かけなかったかと聞かれ、多分その女性だろうと話すと、それなら間違いなく来るだろうと宿の女将さんも安心したようであった。予約客が若い女性だと宿では到着まで心配するようだ。



(高照院天皇寺本堂・大師堂)

第七十九番金華山高照院天皇寺まで5.9km、境内が白峰神社と複雑に入り組んで判りづらく、すでに書き込んだように、うっかり通り過ぎてしまうことも起きる。さらに第八十番白牛山国分寺まで6.6kmである。さすがに最後の国道11号線では、わずかな角度の登りに足が前に行かなくなった。

天皇寺で千葉のKさんと逢った。Kさんは白峰寺に近い坂出簡保保養センターに泊まるという。自分は国分寺のそばのえびすや旅館である。あとで地図で確かめる、国分寺を打ってから行くのでは、相当遅くなりそうである。多分最後の6.6kmを電車で行って、時間短縮したのだろうと思った。



(国分寺本堂・大師堂)

国分寺は宿に荷物を預けてから打ちに出かけた。元は讃岐国分寺である。境内の各所に讃岐国分寺の礎石があった。その礎石の大きさから創建当時の国分寺の規模が知れた。大師堂は二重塔で、くっ付いて納経所があり、勤行も納経所の中で行う。
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第七十番本山寺~第七十五番善通寺



(本山寺の本堂と大師堂)

お遍路24日目、11月24日、7時前に若松屋別館を出た。財田川の左岸を約一時間、朝靄がかかって風景の輪郭が滲んでいる。土手を歩き始めて六つ目の橋を渡った。渡ってすぐに第七十番七宝山本山寺があることは、ずっと手前から五重塔が見えていて、確認するまでも無かった。



(本山寺の仁王門と五重塔)

本山寺の仁王門は、円柱の八脚門で鎌倉時代のもの、国指定重要文化財である。また、五重塔は明治43年に建立、本瓦葺で高さ35メートルという。細くてスリムな五重塔を見ていると、巨大な卒塔婆というよりも天を突く蝋燭立てだと思った。



(弥谷寺の本堂と大師堂)

本山寺から次の第七十一番剣五山弥谷寺までは11.3km、3時間近く掛かる。途中でサークルKに立ち寄り、昼食にパンやお握りを買った。休憩所が見当たらずなかなか休憩が取れなかった。ようやくコスモスを植えた田んぼの中の休憩所を見つけ、休みながらパンを食べた。お天気は曇り、何とか雨は降らないでもっている。地図では弥谷寺に標高が記されていなかったから、何の覚悟も無く弥谷寺の登りにかかった。坂をしばらく登った先から石段が始まった。行けども行けどもその先その先と石段が続き、本堂はその一番上にあった。上からの見晴らしで随分登ってきたものだと思った。大師堂は本堂から少し下りたところにあり、靴を脱いで堂内に入り勤行する。納経所も大師堂内にあった。



(曼荼羅寺の本堂と大師堂)

弥谷寺の石段を降りたところから山道に入り、第七十二番我拝師山曼荼羅寺へ、山の中腹を回って下って行く。高松自動車道のガードを潜り、大池の畔を通って緩やかな斜面を登って行くと、曼荼羅寺は次の出釈迦寺とともに、我拝師山の山域を背後に背負う斜面に建っていた。



(出釈迦寺の本堂と大師堂)

曼荼羅寺を打ち、0.6km斜面を登って、第七十三番我拝師山出釈迦寺に向かった。出釈迦寺の奥之院である捨身ヶ嶽禅定が背後の我拝師山の中央コルにある。標高350メートル、出釈迦寺から1400メートルほど登るが、今回は足を延ばさない。


(我拝師山の捨身ヶ嶽禅定)

捨身ヶ嶽禅定は、七歳の弘法大師が一切衆生の済度の成就を念じて、その絶壁より身を投げ、天降りた天女に抱き止められたと伝わる、捨身誓願の霊場である。



(甲山寺の本堂と大師堂)

第七十四番医王山甲山寺は、斜面を下って2.2km歩いた、真新しい山門と外塀が目立つお寺であった。ベンチに荷を下ろし身軽になって勤行に行こうとすると、側にいた老夫婦のうちのお爺さんが、「荷物を置いておくと盗まれるよ。香川県は今悪いから」という。お寺では今まで気にせずにザックを置き、お参りしていて気にもしなかった。お寺参りに来て悪心をおこす人もいないと信じてきて、何も事故無く回って来た。香川県に入って、納経帳が盗まれることがあったといわれ、変に気を回したりした。狙われるのが納経帳なら常に手元に持っている。わざわざ重いザックに手を出す人もいないだろうと、せっかくの御忠告だったが、そのままにして勤行に向かった。それにしてもお年寄りをして、香川県は最近物騒だからといわせるものは何なのだろう。



(善通寺の本堂と御影堂)

ここまで来れば、第七十五番五岳山善通寺はすぐ近くであった。広い境内へ入る頃からとうとう雨が降り始めた。宿に荷を置いて善通寺を打つ。さすがに弘法大師生誕のお寺といわれ、境内も広大で団体の参拝客が参道を列なって歩いている。本堂で勤行の後、御影堂(大師堂)までの長い参道を雨がパラパラ降る中歩いた。

ふと、自分が今、長野の善光寺を歩いているような錯覚にとらわれた。似ているのは境内の広さぐらいだろうから、どうしてそんな風に感じたのかよく判らない。お寺の名前が善光寺と善通寺が似てはいるが。


(善通寺の五重塔)

善通寺にお参りするのは2度目であった。前回は真夏の猛暑の中で、本堂にお参りし、クスノキの巨木2本と五重塔を見て帰った。クスノキはお大師さん誕生の頃からあったという古木である。五重塔は明治十七年建立で、総高45.5メートル、一辺6.2メートル。夜はライトアップされて、宿の食堂の窓からよく見えた。女将さんは日本で3番目に大きい五重塔だという。一番は京都の東寺、二番は奈良の興福寺だという。

山本屋本館の女将さんは、遍路宿はどうあるべきかを常に考えて、お客様のことをしっかり見ているという。お客様から教わることが多いともいう。食事のときも付いていて世話を焼いてくれる。お賽銭の10円玉が底をつき、お寺で聞いてみたが両替してもらえず、朝、宿に両替出来ないか聞いてみた。先代からの引継ぎで、10円玉は常に準備しているから何枚でも両替しますとの返事が帰ってきた。さすがだと思うとともに、大変有り難かった。

桃李庵の主人の話が出て、お遍路客で何度か泊まっていて、よく知っており、宿を始めるに当ってノウハウを教しえたりしたという。
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第六十六番 雲辺寺~第六十九番 観音寺

(雲辺寺の五百羅漢)

お遍路23日目、11月23日、民宿岡田出立の時、逆打ちの人が歩き始め、何も考えずにその後を追おうとして、見送りの御主人に反対だよと注意された。2時間半かかって第六十六番巨鼇山雲辺寺まで登った。さすがに標高910メートルの尾根にあるお寺である。四国八十八ヶ所の札所の中で標高が最も高いのみならず、遍路道の中でもこれより高いところはない。見晴らす下界は雲海に覆われていた。本堂は一昨日の11月21日に落慶法要が営まれたばかりだと係の女性から聞いた。幕に落慶の日付が染めこまれている。



(雲辺寺本堂・大師堂)

雲辺寺を打ち終えて下山路に向かう。ロープウェイ駅の表示があった。雲辺寺にはロープウェイがあって、それを利用して登ってくる人も多い。参道脇に五百羅漢の石像がびっしりと並んでいた。中国の兵馬俑のように並んでいる。最近のものであるが、作者に力が入っているのが解った。

雲辺寺を打ち終えて、気持に余裕が出たため、下山への分岐に向かう前に雲辺寺山(標高927メートル)まで登ってみた。近くに電波塔が立ち、それを迂回して立った山頂には、三角点があったけれども、見晴らしはほとんど利かなかった。下山路は落葉が降り敷く快適な道もあったが、うんざりするほど下りが続き、標高172mまで一気に降りて車道に出た。

大興寺までの里道歩きはけっこう応えた。足もそうだが、腰にも来て、休憩を取る場所もなくて、道端に荷を下ろして腰を回してみたりした。



(大興寺本堂・大師堂)

第六十七番小松尾山大興寺は石段で登った森の中にあった。石段沿いにカヤやクスノキの巨木があった。

高松自動車道のガードをくぐる手前に大喜多うどんの店がある。民宿岡田の御主人にも勧められ、多くのお遍路さんが立寄るうどん屋だという。入ると千葉のKさんと、唯一50代の男性の、民宿岡田で同宿だった二人がいた。千葉のKさんとはうどん屋を出てから少し後方を歩き、迷って遅れた観音寺では打ち終えて来るのに出会った。今夜の泊りは自分より1コマ進んで、70番の本山寺のそばだという。



(神恵院本堂・大師堂)



(観音寺本堂・大師堂)

少し迷った次第は書き込んだが、最後には少々あせった。第六十八番七宝山神恵院、第六十九番七宝山観音寺、一つの敷地に二つのお寺があり、納経を終えれば、一ヶ所の納経所で同時に二つのお寺分の納経印をいただける。この仕組をやっと理解した。見ていると一人の人が納経帳に二つのお寺の印を押すのだが、間違えてしまうことは無いのだろうかと余分な心配をする。二ヶ寺を同時に打ち終えて、財田川の琴弾公園方面に沈む夕陽を見ながら、今夜の宿の若松屋別館に向かった。

若松屋別館の宿泊は自分一人であった。女将さんは山好きで、山の話題に話が弾んで、食事が終ってからもずいぶん長くお話をした。自分はもっぱら夏山の一般登山道で、小屋泊まりの山行をしてきたが、女将さんは冬山もやれば、沢登りや岩登りにもチャレンジしているという。自分よりも随分レベルが上の登山をしていると思った。それでも話題に出てくる山のほとんどを自分も登っているので、話がよく合った。

冬山では、西穂でホワイトアウトを経験し、もう少しで遭難しかけた話を聞いた。たまたま、西穂山荘に冬山登山のエキスパートがいて、仲間の一人が持っていたGPSと携帯電話を活用して、自分たちの居場所を突き止めてくれ、救助してもらったという。女将さんの穏やかな印象からは、そんな過酷な登山をしていることが想像出来なかった。

観音寺への道に迷い、遠回りした話をすると、民宿岡田で地図をもらったでしょう?その通りに来ればよかったのにという。あの地図は岡田さんに頼まれて自分が書いた地図である。間違えた角は、大平正芳記念館の方に来れば正解だった。確かに大平正芳記念館の標識は見ていて、大平元総理はこちらが地元であったかと意外に思った。なぜか東北の方の人だと思いこんでいた。そんなことを思いながら、道なりに右手の広い道を進んでしまった。
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涅槃の道場へ、民宿岡田の夜

(霧に霞む雲辺寺方面の山々-民宿岡田を出た所より)

11月22日の宿は民宿岡田である。涅槃の道場、香川県へ進む関門のような宿で、歩く遍路は宿が空いている限りここへ泊る。

雨の中、ようやくたどり着いた。予約した時、狭い部屋しか空いていないといわれたが、狭くても泊れるだけありがたい。掛川のSさんは予定したのが昨日で、予約が一杯で泊れず、別の宿を紹介されたが、その宿だと車で送り迎えを頼まねばならない。結局、車に乗るのは潔しとせずに、予定より余分に歩いて、1日前にここに泊ったと聞いた。

合羽は軒下に干し、靴には新聞紙を、洗濯は出しておけばやっておくといわれた。部屋は狭いがさすがに歩き遍路専用の宿である。階段の片側にお遍路の本がうずたかく積まれていた。いずれもここに泊った人たちから頂いたものだという。風呂に入ってから、パソコンで本日の記録を書き込んでいると、宿の主人が戸を叩く。戸をあけて用を済ませながら、パソコンを目ざとく見つけた。ブログの話をすると、自分も読ましてもらいたいから、ブログのアドレスを教えてほしいという。夕食時に特製名刺を渡した。

食事に本日の泊り客が7人全員集まった。狭い食堂が一杯である。宿帳が廻ってきたのを見ると、6人までが60代の男性で、一人だけ50代の男性がいた。ところがまるで一つの団体のようにわいわいと話が弾んでいる。食事がある程度進んだ頃、宿の主人から明日のコースの説明があった。雲辺寺までは2時間半で大概の人は着くという。手書きの地図を元に、雲辺寺から観音寺に至るまで、行程を詳しく教えてくれた。言葉だけでは実感が湧かない。歩いていけば分からないことは無いだろうと、ほとんど聞き流していた。

二日前の事件を宿の主人が話した。韓国の若い女性が片言で予約をしてきた。ところが夕方になっても彼女だけやってこない。近くに宿泊できるところも無い山の中である。心配して、歩いてくる道に車を走らせて探してみたがどこにもいない。午後7時ごろになって電話があり、民宿岡田に泊るという女性を車で連れて行くという。聞けば、道を間違えて雲辺寺まで尾根を歩いて行ってしまい、お寺の人が民宿まで連れてきてくるという。言葉が不自由だと聞けないし、山の中に入ってしまえば聞きたくても人がいない。彼女が間違えて踏み入れたのは雲辺寺へ直接向かう遍路道であった。遍路標識あったから間違いに気付かなかったのだろう。遍路宿では予約を受けた以上到着するまで心配するから、遅くなるとか、行けないとか、しっかり連絡しておかねばならないと改めて思った。

宿の主人は70代で、娘が帰ってきて手伝ってくれている。いま考えると、人生で一番良い時代は60代だったと思う。責任から解放されて、しかも体力はまだまだある。好きなことが思い切ってできる年代であると話す。なるほど言われる通りかもしれない。妙に納得した。

今夜の宿泊者は、この民宿は常連だという練達の逆打ちの人、ビジネス旅館小松で同宿だった時々交通機関利用の歩き遍路(千葉のKさん)、区切り打ちの50代の人、細かく何度にも分けて廻って8年掛かっている人、明日の出立を躊躇して主人に明日のお天気を保証され励まされている人、歩き遍路とは言っても人それぞれで、お遍路スタイルも様々である。

翌朝朝食時、主人が私がお遍路しながらブログを書いていることをばらしてしまった。みんなアドレスをもらうと良いとまで紹介してしまった。皆んなに配るだけ名刺も無かったが、一人だけ欲しいという神戸の人に名刺を渡した。
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第六十四番 前神寺・第六十五番 三角寺

(芝之井)

お遍路21日目、11月21日、ビジネス旅館小松から国道11号線には出ないで、旧讃岐街道を東へ行く。昨日最後に打った吉祥寺は国道沿いだから当然前を通ることもない。旧道の吉祥寺の真南辺りに芝之井というお大師さんの霊跡があった。地域の人々には「水大師さん」「お加持水」などと呼ばれ、古くから、野菜を洗ったり、洗濯したり、また井戸端会議の場所になってきたという。側にお大師さんが祀られている。

第六十四番石鈇山前神寺へは約5km、手前に立派な石鎚神社がある。前神寺も広い境内のお寺であった。元は石鎚神社と一体のものだったのだろう。「石鈇山」は「いしづちさん」と読む。石鎚山の北側にあって、瀬戸内海から見れば前面にあるお寺で、前神寺の名前も頷ける。修験の山、石鎚を取り囲んで、西の横峰寺、東の前神寺がそれぞれ石鎚山の遥拝所になっている。

ただ、どちらのお寺からも石鎚山は見えない。横峰寺の納経所で、石鎚山はどこへ行けば見えるかと聞いたら、500メートルほど登った星ヶ森まで行けば見えるという。そこが西の遥拝所であった。一方、石鎚山山頂近くの海抜1300メートルのピークに奥前神寺があって、そこが前神寺の出先で東の遥拝所となっている。



(前神寺本堂・大師堂)

前神寺では、打つ前に、きれいに清掃されたばかりのトイレを借りて、体調を整えた。おかげで清々しい気持で勤行が出来た。大師堂は本堂よりさらに石段を登った奥にあった。次の三角寺までは45.2kmあって、途中で一泊しなければ行き着けない距離である。

里道を歩いて伊曽の橋という歩行者専用の橋で加茂川を渡った。土曜日で散歩をする人が多い。渡った下の河川敷に車がたくさん停まって、人が集まっていた。交通整理の若者に何かイベントがあるのかと聞くと、会社のウォーキング大会があるのだという。


(地蔵庵)

地蔵原に地蔵庵というお堂がある。弘法大師が四国巡錫の砌、当地において一夜で地蔵尊を石刻し安置されたと伝わっている。四国にはいたるところに同様のお堂があり、お大師さんとの所縁の話が残っている。

この日は33kmほど歩いて、四国中央市の土居駅そばの松屋旅館に泊まった。洗濯はご主人がやってくれるとの事で、早く出すようにせかされたように覚えているが、お遍路の宿泊は自分一人だったように思う。

お遍路22日目、11月22日、この日は6時に朝食で、6時半には宿を出られた。後で、もう一軒の宿は朝食が遅かったと聞いて、この宿を偶然に選んで正解だったと思った。

掛川のSさんも2日前にこの宿に泊まり、朝、同じように三角寺への道を教えてもらい、その通りに行って迷ってしまったと話していた。自分が地図と遍路標識をたどって歩いたのは正解であった。



(三角寺本堂・大師堂)

第六十五番由霊山三角寺は山深い地のお寺の雰囲気が漂っていた。境内の落葉樹が紅葉して秋深しを感じさせる。


(椿堂)

今日宿泊の民宿岡田へは残り13km、天候が気になって三角寺も早々に出立する。三角寺から3.5km下った平山に半田休憩処があって一休み、さらに国道まで下る直前に、番外霊場の椿堂があった。ゆっくりお参りしたかったが、雨がポツリと来てトイレを借りるだけで先を急ぐことになった。途中で合羽に身を固め、国道に出たがすっかり方向感覚が狂って、その道で正解なのかどうか、心もとなくなった。ようやくお店のおじさんに県境のトンネルへはこの道でよいのかと聞く。これを4kmほど行けば境目トンネルだという答えを聞いて、県境のトンネルは境目トンネルということを思い出してほっとした。


(ヘンロ小屋の干し柿)

雨脚がせわしくなったころ、国道脇に白木の柱も新しいヘンロ小屋を見つけた。この雨は止むことは無いが、一休みしようと思った。お接待にと干し柿がつるしてあった。12月に美味しくなると表示されていた。まだ柔らかそうだが一つ頂いた。もうすでに十分甘かった。自分にはこれくらいの柔らかさが一番よい。境目トンネルを抜けて雨が篠突く中を民宿岡田に入った。
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