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「甲陽軍鑑」を読む 76

(庭のモクレン)

また今日も二つほど行事がなくなり、三月前半がぽっかりと空いてしまった。さてこの二週間を人混みに出ることなく、どう過ごそうか。まあ、溜まった古文書でも読み進もうかと思うが。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。

(信玄公御一代、敵合作法三ヶ条)
   信玄公御一代敵合(てきあい)の作法、三ヶ条は、
一 敵の強き、弱きの穿鑿(せんさく)あり。又はその国の大河、大坂、或いは分限(ぶんげん)の模様。その家中、諸人の行儀作法。剛の武士、大身小身ともに多少の事。味方、物頭衆によくその様子を知らせなさる事。
※ 分限(ぶんげん)➜ 持っている身分・才能などの程度。 身のほど。

一 信玄公、仰せらるは、弓箭(ゆみや)の儀、勝負の事。十分(じゅうぶ)と、六分七分の、勝ちは十分の勝ちなりと、御定め成され候。中にも、大合戦は、殊更(ことさら)、右の通り肝要なり。子細は、八分の勝ちは危うし。九分、十分の勝ち、味方大負けの下作りなりとの儀なり。

一 信玄公、仰せらるは、弓矢の儀、取り様の事。四十歳より内は勝つように、四十歳より後(のち)は負けざる様にと、ある儀なり。但し二十歳の内外にても、我より小身なる敵には負けぬようにして、勝ち過ごすべからず。大敵には猶もって右の通りなり。押し詰めてよく思案工夫を以って、位詰(くらいづめ)に仕り、心長く有りて、後途(ごど)の勝ちを肝要に仕るべきとの儀なり。
※ 位詰(くらいづめ)➜ 戦で、敵を制圧する備えを立て、敵の動きに応じながら徐々に追い詰めて行くこと。敵を身動きできないようにすること。
※ 後途(ごど)➜ のち。後日。

(「信玄公御一代、敵合作法三ヶ条」の項、終り)

(信玄公、人の御仕成され様)

   信玄公、人の御遣いなされ様
一 第一に、後ろ暗く無き様にとの儀なり。諸人、後ろ暗きは、御恩を下され様、上中下の穿鑿もなく、忠切(忠節)、忠功の走り廻りもなき人々に、所領を下され候えば、手柄なき人は、必ず軽薄を以って繕いて、立身仕る故、忠節、忠功の人を嫉(そね)み、悪口して、己(おのれ)々が党の者を誉(ほ)め、憶意(おくい)は主君の御為も思わず、後ろ暗く候て、意地(いじ)むさぼりて、へつらい回りたる心故、後ろ暗きなり。
※ 後ろ暗い(うしろぐらい)➜ 行動に裏表があって疑わしい。
※ 憶意(おくい)➜ 心に思っている考え。
※ 意地(いじ)➜ 物をむやみにほしがる気持ち。特に、食べ物に執着する心。


一 信玄公、忠節忠功の武士には、大身小身によらず、尊き卑しきにもよらず、その身の手柄次第に、御感(ぎょかん)も下され候故、人の贔屓(ひいき)、とりなしも、少しとして叶わざる故、諸人後ろ暗きこと、少しもなく候なり。
※ 御感(ぎょかん)➜ 貴人が感心なさること。おほめ。

(「信玄公、人の御仕成され様」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 75

(散歩道の緋寒桜)

今日、新たに、3月前半の掛川古文書講座と、駿河古文書会の講座が中止となり、駿河古文書会の2回分は、三月の末に2回分まとめて行われると連絡があった。三月前半の予定がどんどん消えて行く。ひまになる分、学校が休みになって、孫たちが押し寄せてくるかもしれない。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

輝虎皆と、一つになり、四郎に小目(こめ)を見する事有るまじく候。信玄死してより、弓箭は謙信なり。天下を持ちたる信長果報の末、輝虎が武勇、両人の末を待ち受け申すべく候。信玄萬(よろず)工夫思案、遠慮十双倍気遣い致し候えと仰せらる。但し、その方を敵、あなづり(侮り)候わば、甲斐国までも入り立て、堪忍仕りて後、合戦を遂(と)ぐると存じ候わば、大きなる勝ちになるべく候。卒爾(そつじ)なる働き、さすべからずと、馬場美濃、内藤、山縣に詳しく仰せ付けらる。
※ 小目(こめ)➜ 苦しいめ。つらいめ。
※ 遠慮(えんりょ)➜ 遠い将来のことを思慮に入れて、考えをめぐらすこと。遠謀。
※ 十双倍(じっそうばい)➜ 十層倍。もとになる数量の一〇倍の数量。また、物事の程度がはなはだしいこと。
※ あなづり(侮り)➜ 軽べつすること。あなどること。
※ 卒爾(そつじ)➜ 軽率なこと。かるはずみ。


その次に、信玄生きたる間は、我らに国を取られぬようにと、氏康父子も、謙信も、信長、家康ともに、用心候えども、北条方は、深沢、足柄。家康方は、二俣、三河、宮崎、野田。信長方は岩村、かんの大寺、瀬戸。信濃までとる謙信ばかり、越後の内をこの方へ少しも取るなけれども、高坂弾正人数ばかりをもって、越後へ働き、輝虎居城、春日山へ、東道六十里、近所へ焼き詰め、濫妨(らんぼう)女童部(めわらべ)を取って、子細なく帰るなれば、これとても、我らに肩を並ぶる、弓矢とは申し難し。
※ 女童部(めわらべ)➜ 女の子供。めのわらわ。童女。
※ 子細なし(しさいなし)➜ これといった問題もない。


信玄煩(わずら)いなりというとも、生きて居りたる間は、我が持ちの国々へ、手差す者は有るまじく候。三年の間、深く慎めとありて、御目をふさぎ給うが、また山縣三郎兵衛を召し、明日はその方籏をば、瀬田に立て候えと、仰せらるゝは、御心乱れて、かくの如く。然れども少し有りて、御目を開き仰せらるゝは、「大底は他の肌骨の好きに還す。紅粉を塗らず、自ずから風流」とありて、御年五十三歳にて、惜しむべし。惜しかるべし。朝(あした)の露と消え失せ給う。各々御遺言のごとく仕り候えども、家老衆談合の上、諏訪の海へ沈め申す事ばかり仕らず。三年目、四月十二日、長篠合戦一と月前に、七仏事の御弔い仕り候。信玄公、御一代の御武勇、御勝利、三十八年の間、一度も敵に押し付け見せ給う事なし。よってくだんの如し。
※ 手差す(てざす)➜ 手出しをすること。
※「大底は他の肌骨の~」➜ 色々な解釈があるようだが、「死後のことについて、色々指示してきたが、もう、大方のことは、現役の諸将のよろしきように、判断を任せよう。繕わなくとも、充分にすばらしいものだ。後は、任せた。この解釈が気に入っている。

(「信玄公、御他界の事」の項、終り)
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「甲陽軍鑑」を読む 74

(散歩道のツルコザクラ)

名前は一年前に覚えた花で、「鶴子桜」ではなく「蔓小桜」である。一年前にも同じことを記した記憶がある。

世の中、騒々しくなってきた。これは特効薬が見つかるまで続くのだろうか。症状としてはインフルエンザと変わらないのに、薬がないことに不安が募るようだ。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

次に信長とは切所(せつしょ)を構え対陣を長く張り候わば、彼方(あなた)は大軍、遠き陣ならば、五畿内、近江、伊勢人数、草臥れ、無理なる働き仕る時分、一入(ひとしお)の気候わば、立て直す事有りまじく候。家康は信玄死したると聞き候わば、駿河までも働き申すべく候間、駿河国中へ入り立て、討ち取り申すべく候。小田原をば無理に掛かって押しつぶし候とも、手間は取るまじく候。氏政定めて信玄死したると聞き候わば、人質をも捨て振りを仕るべく候間、その心得候えと、各御一家衆、侍大将衆へ仰せ渡せらる。
※ 切所(せつしょ)➜ 峠などの難所。また、要害の場所。
※ 一入(ひとしお)➜ ほかの場合より程度が一段と増すこと。多く副詞的に用いる。いっそう。ひときわ。


舎弟逍遥軒、今夜甲府へ使いに行くと申し、心安き小者四人連れ、出るふりにて、ものどもをば、土屋右衛門尉所に預け、この暁、籠輿(かごこし)に逍遥軒をのせ、信玄公御煩いに付いて、甲府へ御帰陣なりと申し候わば、我らと逍遥軒と、見分くる者有るまじく候。累年(るいねん)見るに、信玄が面(おもて)を各(おのおの)を始め、しかと見るものなく候と、相見え候へば、逍遥軒を見て、信玄は存命なりと申すべきは必定なり。構えて四郎、合戦数奇(すうき)、仕るべからず。並び、信長、家康、果報の過(すぐ)るを、相待つ事肝要なり。果報に年を寄らするものは、身を飾り、栄耀(えよう)にふけり、驕(おご)り、この三ヶ条なり。
※ 籠輿(かごこし)➜ 粗末な、竹製の駕籠。山駕籠。
※ 累年(るいねん)➜ 長年。
※ 数奇(すうき)➜ 運命のめぐりあわせが悪いこと。また、そのさま。不運。
※ 栄耀(えよう)➜ 高い地位に就き、富んで、勢力の強いこと。


初め申し候、信玄が信長、家康、果報の過るを待つべきものをと云いつるは、勝頼に心を付けと云う事なり。その理(ことわり)は、信玄に信長は十三の年劣(おと)りなり。家康は二十一劣る。謙信は九つ、氏政は十七劣りなれば、彼方(あなた)が信玄末を待ちうけたり。また勝頼は謙信に十六、信長に十二、氏政に八つ、家康に四つ、いずれも年増しの者どもに負けぬように仕り、今信玄獲りて渡したる国々、危なげもなきように、仕置を慎(つつし)み候所に、各(おのおの)より無理なる働き仕り候わば、持ちの内へ入り立て、有無の一戦仕るべく候。その時は我が遣い入りたる、大身、小身、下々まで、一精出し候わば、信長、家康、氏政三人、一つになりても、この方勝利は疑い有るまじく候。
※ 有無(うむ)➜ 生死、勝敗、黒白など対立する二つの概念。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 73

(裏の畑の柿の木に、野良猫が二匹登る)

我が家の周りには野良猫が住み着いている。どうやら茶畑が住処らしい。車で戻って来ると慌てて茶畑に逃げ込む。畑は冬場は家の陰になるので、柿の木に登って日向ぼっこという所であろうか。それにしても、我が家の周りは動物に満ちている。

午前中、金谷宿大学事務局よりお呼びがかかり、来月初めの成果発表会について意見を聞かれた。事態がこのように推移して来た以上、中止にせざるを得ないのだろう。どうしても強行しなければならないほど、重大な会ではないから、中止ということで衆議が一致した。ぎりぎりまで決定を延ばさず、早く決断出来たことをよしとしよう。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

信玄望みは、天下に籏を立つべきとの儀なれども、かように死する上は、結句、天下へ上(のぼ)り、仕置(しおき)し残し、汎々(はんぱん)なる時分に、相果てたるより、只今死して、信玄存命ならば、都へ上り申すべきものをと、諸人批判(ひはん)大慶(たいけい)なり。就中(なかんずく)、弓箭の事、信長、家康、果報(かほう)の強き者どもと取り合いを始め候故、信玄一人、早く命縮まると覚えたり。その子細は縦(たと)えをとるに、矢勢盛んには射貫くものなり。矢勢過ぎ時分には浅く立ち、矢勢過ぎては己(おのれ)と落つる。その如く、人の果報も久しくこれ無く候。果報の過ぎ時分を待たずして、盛んに取り合いを始め、天道より押し落さるゝなり。
※ 汎々(はんぱん)➜ 河水などが満ち満ちて流れるさま。
※ 批判(ひはん)➜ 民間の噂話。
※ 大慶(たいけい)➜ 大きなよろこび。この上なくめでたいこと。
※ 果報(かほう)➜ 報いがよいこと。幸福なさま。幸運。


信玄が信長、家康と、武篇対々(たいたい)ならず。これ程早く命は縮まりまじけれども、弓箭には、信長、家康、両人かかりても、信玄には更になり難き故、天道、果報を引きし給えば、天より信玄を殺し給う。その印には、輝虎三年の間に、病死仕るべく候。
※ 対々(たいたい)➜ 双方に優劣のないこと。

信玄、次には輝虎より外、信長を踏み付くる者有りまじく候と仰せられ、次に勝頼、弓箭の取り様、輝虎と無事を仕り候え。謙信は猛(たけ)き武士なれば、四郎若き者に、小目(こめ)見する事有りまじく候。その上、申し合いてより、頼むとさえ言えば、首尾(しゅび)違うまじく候。信玄大人げなく、輝虎を頼むと云うこと申さず候故、終に無事になる事なし。必ず勝頼、謙信を執(しつ)して頼むと申すべく候。さように申し、苦しからざる謙信なり。
※ 小目(こめ)➜ 苦しいめ。つらいめ。
※ 首尾(しゅび)➜ 物事の成り行きや結果。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 72

(裏の畑のクロッカス)

畑に植えた筈もないのに、クロッカスの花が二輪。昔、鉢があったが捨てられた土に球根でも混じっていたのであろう。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

さて、信玄武勇の事は、人を頼(たよ)らず、只今に至りても、氏政加勢に罷り出でべくと、申され候えども、無用と申し候。武篇の手柄は、かくの如くなり。

また信玄分別のことは、惣別五年已来より、この煩い大事と思い、判を据え置く、紙八百枚に余り、これ有るべくと仰せられ、御長櫃(ながびつ)より取り出させ、各(おのおの)へ渡し給いて仰せらるゝは、諸方より使札くれ候わば、返礼をこの紙に書き、信玄は煩いなれども、未だ存生(ぞんじょう)と聞きたらば、他国より当家の国々へ手をかくる者有るまじく候。某(それがし)の国取るべきとは夢にも存ぜず、信玄に国取られぬ用心ばかりと、何れも仕り候えば、三年の間、我れ死したるを隠して、国を鎮め候え。
※ 惣別(そうべつ)➜ およそ。だいたい。
※ 長櫃(ながびつ)➜ 衣類や調度品などを納める、長方形の蓋(ふた)のある箱。
※ 存生(ぞんじょう)➜ この世に生きていること。存命。


跡の儀は四郎息子、信勝十六歳の時、家督(かとく)なり。その間は陣代(じんだい)を四郎勝頼と、申し付け候。但し、武田の籏は持たする事、無用なり。まして、我が存じの籏、将軍地蔵の籏、八幡大菩薩の小籏、何れも一切持たすべからず。太郎信勝、十六歳にて、家督初陣の時、尊師の籏ばかり残し、余の籏は、何れも出すべきなり。勝頼は前の如く大文字の小籏にて、勝頼差し物、法花経の幌(ほろ)をば、典厩に譲り候え。諏訪法性の甲(かぶと)は勝頼着候て、その後これを信勝に譲り候え。典厩、穴山、両人頼み候間、四郎を屋形のごとく執してくれられ候え。勝頼がせがれ(忰)、信勝、當年七才になるを、信玄如くに馳走(ちそう)候て、十六歳の時、家督に直し候え。また某(それがし)(とぶら)いは無用にて、諏訪の海へ具足を着せて、今より三年目の亥の四月五日に沈め候え。
※ 家督(かとく)➜ 中世、一門・一族の長。棟梁。
※ 陣代(じんだい)➜ 室町時代以後、主君の代理として戦陣に赴いた役。また、主君が幼少のとき、一族または老臣などで軍務や政務を統轄した者。
※ 馳走(ちそう)➜ 世話をすること。面倒をみること。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 71

(新東名沿い、牛尾山のカワヅザクラ)

午後女房と散歩。牛尾山のカワヅザクラを見に行った。金谷商工会の看板があったが、こんな所に桜が植えられていたことを始めて知る。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

さて信長・家康は互いに、あなたを助(す)け、こなたを助け、利運に互いに仕る。すでにもって、信長は巻きたる城を巻きほぐし、味方を捨て、退口(のきくち)荒き事数度有り。然も、一向坊主などを敵にして、家康なくば成るまじく候。本(もと)より家康は小身なる若気(わかげ)なり。また奥両国にも、輝虎ほどなる大将なし。四国、九国にも毛利元就ほどなるはなし。日本国中に、右の大将衆程の、誉れの侍、今は大唐にもなきと聞こゆる。
※〔城を〕巻く(まく)➜ 取り囲む。包囲する。
※ 退口(のきくち)➜ 戦国時代における、撤退戦(退却戦)の方法、あるいはその戦いそのものを意味する。
※ 一向坊主(いっこうぼうず)➜ 一向宗の僧侶。
※ 若気(わかげ)➜ 若くて血気にはやり思慮分別を忘れがちな心。
※ 大唐(だいとう)➜ 中国の美称。


然る所に信玄手柄は、若き時分より他国の大将を頼み、馬を出させ、両籏をもって弓箭を取りたる事、一度もなし。巻きたる城を巻きほぐしたる事、一度もなし。味方の城を一つと、敵に取り領(し)かれたる事なし。甲州のうちに城郭を構え、用心することもなく、屋敷構えにて罷り在るを、人の云う、信玄公御歌に、

   人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、(あだ)は敵なり

※ 讎(あだ)➜ 恨みに思って仕返しをすること。また、その恨み。

敵の国へ働き、五十日に及び、味方の地へ、人の通路もなく、焼き廻り、小田原まで押し入り、戻りに一戦を遂げ、しかも勝利を得て候。去年味方ヶ原の砌(みぎ)りも、信長、家康申し合わせ、十四ヶ国に取り続きたる所へ、押しかけ、二、三里近くの二俣を攻め取り、その上合戦に勝ち、遠州、三州の間、刑部(おさかべ)に極月廿四日より、正月七日まで、十四日の間、罷り在るに、天下のぬし、信長様々降参のうえ、我ら被官、秋山伯耆守を信長をば聟にして、それにことよせ、末子の御坊と云う子を、甲府まで差し越し候に、信玄方より破りて、信長居城の六里ちかくまで、焼き詰め、壱萬余りの人数にて、信長出たるに、馬場美濃守、千に足らぬ備えをもって、上道一里あまり押し付き候えば、跡も見ず、岐阜へ逃げ込みて、岩村の城をこなたへ攻め落す。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)

読書:「老人初心者の覚悟」 阿川佐和子 著
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「甲陽軍鑑」を読む 70

(散歩道のキズイセン/20日撮影)

午後、はりはら塾発表会を見に行く。はりはら塾での古文書講座が開けるかどうか、受講人数がどうなっているのか、確認したくて出かけたのだが、事務局の話では、数件応募があったのは見ているが、結果は今日までの応募者を集計して見ないと判らないという。まあ、何とか講座を開けるのではないかと思った。HT先生の歴史講座の展示場に行くと、あちこちで出会うKH氏と会う。歴史講座の展示の手伝いに来たのだという。最近の活動の話を聞いた。その場で、古文書講座も受講してくれると、受講カードを書いてくれたのは、何とも嬉しいことであった。

発表会では、コロナウイルスの影響で、体験コーナーが中止になり、人出がいつもより少ないと感じた。金谷宿大学の発表会もどうなるのか心配である。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「信玄公、御他界の事」の項の続き。

先ず北条氏康は太田三楽、上杉則政、輝虎、各敵にして、敵(かな)わざれば、某(それがし)信玄を頼み、松山陣、その外一両度、我が馬を引き出し申され候。今川義元も氏康と取り合いの時、某(それがし)罷り出で富士の志もかたに置いて、北条家を鎮め、その後、今川義元、北条氏康無事になるは、悉皆(しっかい)信玄が助(すけ)たる故なり。毛利元就、中国を大形(おおかた)おさめ、四国、九国(九州)まで威をふるい、元就に怖(お)じて下端(したは)のように仕るといえども、信長を聞き及び、四郎と云う子を信長へ奉公にやるべきと、支度仕りたると聞く。
※ 無事(ぶじ)➜ 平穏であること。平和であること。
※ 悉皆(しっかい)➜ 残らず。すっかり。全部。
※ 下端(したは)➜ 下っ端。身分や地位が低いこと。また、その者。


さて又、長尾謙信輝虎は、武勇を以って日本へ名を発(おこ)し、上杉管領(かんれい)に経(へ)上り候処に、某(それがし)信玄に負け、すでに、我ら家の侍大将、高坂弾正に申付、信玄、馬の出ざるに、弾正ばかりをもって、越後の内へ度々(どど)働き候えば、越後より甲州の内へ働くべき事は、夢にも存ぜず、この頃は信州の内さえ然々(しかじか)と出たる事なし。その上、越中において、大将なき者どもに相逢うて、後れを取り、敵に押し付けを見せ、もっとも翌年に仕り返(かえ)し、加賀の尾山まで、押し付けたるとあれども、先ず謙信も負けたる事、数度あり。
※ 管領(かんれい)➜ 将軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。
※ 然々(しかじか)➜ かようかよう。かくかく。うんぬん。。
※ 押し付け(おしつけ)➜ 鎧の背の上部で,綿上(わたがみ)に続く所。つまり、背中を見せて逃げるという意味。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 69

(散歩道のカラシナ/一昨日撮影)

今年も土手にカラシナの群落を見た。今日は一日家にいた。こういう時は出来るだけ家を出ない方が良さそうだ。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「東美濃へ御出馬の事」の項の続き。

かく有りて、三河の吉田へ取り詰めらるべきとある時、各(おのおの)侍大将衆申し上ぐるは、小田原御人数壱万、御呼び成され、浜松おもてに差し置かれ、家康を押えられ、吉田を御攻め有るようにとの儀なり。信玄公仰せらるゝ、左様にありては、肝要の事、極(きわ)まる所、北条家を語らいたると、沙汰あれば、少しは弓箭の手柄、不手際に候間、家康手宛(てあて)には、四郎、穴山、典厩三人、鬮(くじ)取りにさせ、取り当たりたる者を大将にして、人数一万預けて家康を押え、相残る人数をもって、吉田の城を無理攻めに申し付く。

籏本組どもに、吉田の在郷山に備えを立て、馬場美濃守、内藤修理、小山田兵衛尉、三頭(みかしら)を籏本の先に相定め、山縣三郎兵衛を警固して、上野、信濃、駿河にて、五十騎、百騎の備えどもに、山縣組どもに、合わせて八千余をもって、吉田を後攻(ごぜ)にと仰せ付けらる。馬場美濃申すは、只今、夏に罷り成り、越後(謙信)の押え御座候により、冬の御陣よりは、御人数四千あまり、これに引け申し候えども、敵去(さんぬ)る極月、遅れ(を取り)申し候間、大事御座有るまじきと存じ候。ちと怪しき儀は各(おのおの)人、精出し候わば、やがて御利運(りうん)なりと、馬場美濃申し上ぐるなり。以上。
※ 後攻め(ごぜめ)➜ 敵の後ろへまわって攻める軍隊。後詰め。
※ 利運(りうん)➜ よいめぐり合わせ。

(「東美濃へ御出馬の事」の項、終り)

(信玄公、御他界の事)
一 四月十一日未(ひつじ)の刻より、信玄公、御気相悪しく御座候て、御脈、殊の外速く候。また十二日の夜、亥の刻に口中に歯くさ出来(いでき)、御歯五つ六つ抜け、それより次第に弱り給う。既に死脈打ち申し候につき、信玄公、御分別あり。各譜代の侍大将衆、御一家にも、人数を持ち給いぬ。人々悉(ことごと)く召し寄せられ、信玄公仰せらるは、六年先、駿河出陣まえ、板坂法印申し候は、(かく)と云う煩(わずら)いなりと云いつる。この煩いは工夫(くふう)積りて、心草臥(くたびれ)候えば、かくの如くの煩い有りと聞く。
※ 歯くさ(はくさ)➜ 歯にできたはれものの意か。歯肉炎などの類か。
※ 死脈(しみゃく)➜ 死期が近づいたときの弱い脈拍。
※ 膈(かく)➜ 胃が物を受けつけず吐き戻す病気。膈の病。
※ 工夫(くふう)➜ よい方法や手段をみつけようとして、考えをめぐらすこと。
※ 心草臥(しんくたびれ)➜ 気草臥れ。精神的な疲労のこと。

(「信玄公、御他界の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 68

(散歩道の、アオサギ大接近/昨日撮影)

サギは大変警戒感が強いので、近寄ると飛び立ってしまうのだが、この時は鉢合わせして、歩いて遠ざかって行ったので、安物のデジカメでも十分アップで撮れた。アオサギと名付けられているが、羽色は灰色である。昔、赤、黒、白以外の色は総て「青」と呼ばれていた頃、アオサギは名付けられたのであろうか。

午後、駿河古文書会で静岡へ行く。この会も入会してから、多くの人の出入りがあって、様変わりして来たように思う。会員が高齢者が多い中でも、世代交代が進んでいるように思う。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「東美濃へ御出馬の事」の項の続き。

天正元年癸酉三月十五日、辰の刻に、美濃国岩村へ取り詰め、攻め給う。信長一万あまりの人数を連れ、大物見(おおものみ)の如く出らるゝ。馬場美濃守雑兵どもに、八百あまり人数をもって掛かるを見て、信長引き散らし、悪しくに引き取らるゝ。馬場美濃守組、先備え、越中衆三十騎、飛騨衆三十騎、岡部次郎右衛門五十騎、この百十騎の内より、筋(すじ)を引く若者ども、丗四、五人引き散らして、追っ懸け、信長の人数、徒士(かち)者ども、草臥(くたびれ)て下りたるを、三十七人首を獲りて帰る。これにも構わず、足並み(あしなみ)にて、岐阜へ逃げ込まるゝなり。
※ 大物見(おおものみ)➜ 多くの兵を率いて敵の状況をさぐりに出ること。
※ 引き散らす(ひきちらす)➜ 引いて散らばらす。
※ 筋(すじ)➜ 家系。家柄。
※ 足並み(あしなみ)➜ 人や馬が列をなして進む時の、足の運び具合。歩調。


その後、岩村の城落ちて、岩村地衆は降参申し候。信長直参、加勢に遅れたる。丗五騎の武者、皆、頸を獲られ候。さありて、秋山伯耆組衆ともに岩村在城なり。土岐遠山の御仕置なされ、三月末に、三州寶来寺(鳳来寺)おもてへ御馬を移され、牛窪、長沢まで、御手遣いの御働きあり。岡崎筋へ向いて、上道(かみみち)四里こなた、宮崎に砦(とりで)を仰せ付けられ、東美濃、降参の侍衆、山家三方衆、家中の者、三十騎に、信州浦野を仰せ付けられ、宮崎の砦に置き給う。足助の下條伯耆組衆、岩村へ参り、その跡へ伊奈はるちが五人衆、平屋玄番、波相備前、駒場(こまんば)丹波、ぎと山路、高尾孕石主水、由井市之丞、由井弥兵衛、小林正琳、郡内の安左衛門、上下合わせて、七十六騎。この警固、御旗本足軽大将、小幡又兵衛差し置かるゝなり。
※ 土岐遠山(ときとおやま)➜ 美濃の土岐氏と東濃の遠山氏。
※ 仕置(しおき)➜ 戦国時代、封建領主が領民を支配すること。

(「東美濃へ御出馬の事」の項、つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 67

(御近所の河津桜)

午後、女房と散歩。大代川の土手に出た所で、満開の桜を見付けた。Tさん御夫婦を見付けて、桜の品種を確認したところ、「河津桜」だと聞いた。数年前に鉢で買ったものが、地に下したところ、こんなに大きくなったと話す。Tさんが三本植え、隣りの人が一本植えて、四本の並木となっている。

夜、金谷宿大学の教授会。理事を今年度で終えることになった。次年度は講座がはりはら塾の一講座を加えて、一気に三つに増えて、思った以上に忙しくなっていたので、有難い人事であった。成果発表会が最後の御勤めになる。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「東美濃へ御出馬の事」の項の続き。

家康は味方ヶ原合戦に負けて、その夜、また夜合戦に出るべき支度を専ら仕りたるに、家老の酒井左衛門尉、石川伯耆、両人すっぱ(透波)を出だし見せつれば、当方(こなた)脇備えを先へ繰り、跡備えを脇へ繰り廻し、合戦仕りたる。先衆を両方へ押しのけ、一手ごとに籏本両篝(かがり)を用い、二度めの軍(いくさ)持ちたるを見て、夜軍(よいくさ)に出さず候。
※ すっぱ(透波)➜ 戦国時代、武家が野武士や野盗であった者を取りたてて使った間者。乱波(らっぱ)。忍びの者。
※ 当方(こなた)➜ 武田側。
※ 篝(かがり)➜ 照明のために燃す火のこと。


されども、大久保七郎右衛門と云う者、鉄炮衆を連れて出で、射ちかけたると申し候。石川伯耆は信長へ加勢として近江の国まで行きつるが、帰りて味方ヶ原へ、すぐにきて、首尾(しゅび)にあう時、土岐殿家の侍、浅岡と云う者に、弓法知りたる人あり。これに向い、信玄と軍(いくさ)ありて、討ち死にしたる時、穿鑿、強き敵なれば、尸(かばね)の上まで見られ候わんずるに、軍陣(ゆがけ)の緒留め様はいかがと申し候。これほど弓箭に念を入るゝは、家康が武道を穿鑿するにつき、かくの如くなり。後れを取って後も、家康武士は、命さえあらば、一合戦も二合戦も、手強(てづよ)に仕るべく候。上方武士の初めて合うより、今とても、家康者どもに、油断仕るべからず候と、仰せられ定め候なり、以上。
※ 首尾(しゅび)➜ 機会。折り。
※ 韘(ゆがけ)➜ 弓を射るときに、手指が痛まないように用いる革製の手袋。
※ 手強(てづよ)➜ 手ごわいと同じ。

(「東美濃へ御出馬の事」の項、つづく)

読書:「火付けの槍 口入屋用心棒45」 鈴木英治 著
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