goo

はまつゝ羅抄 安倍紀行 11 内牧、かなとの城跡

(かなとの城跡-新東名の橋脚のある小山の辺り)

内牧の結成寺を出て、かなとの(狩野殿)城跡を見たいと思ったが、ネットでは新東名の工事で城跡そのものが無くなった。それまでにも、茶畑になって、城跡の痕跡はなかったという。それらしい小山をデジカメに納めて済ませた。

「安倍紀行」の解読を進める。

・かなとの城跡、内牧の村山にあり。今その所に五輪の塔あり。里人、地蔵と唱う。誰人のことにや、古伝も失せて知るものなしと云う。按ずるにかなとのとは狩野殿といえることなん。


(狩野介貞長の墓、宝篋印塔)

現在、狩野介貞長の墓が、駿府学園の隣りの丘の上にあると、ネットで知った。案内標識一つ無かったけれども、角から高台に付いている段を登ったところに、宝篋印塔があった。脇に「贈正四位狩野貞長」と刻まれた石柱が建っていた。

狩野貞長は楠木正成と同様に、後醍醐天皇の建武の親政で、武者所に名を連ね、その後南朝方へ力を尽くした。明治になって、過去に、天皇親政に忠義を尽くし、不遇のまま死んだ昔の武将たちを、顕彰した時代があって、確証はないが、狩野貞長もその一人として、正四位の位を追贈された。この宝篋印塔も、その際に整備されたのではないかと思った。

「安倍紀行」の記事では五輪塔であったようだ。後で気付いたことだが、かなとの城跡(内牧城跡)の近くに、新しく作られた狩野貞長の五輪塔があるらしい。機会があったら見に行こうと思う。

むかし建武年中、駿河国安倍に、狩野介貞長といえる武士ありて、南朝の御方となりたること、南方紀伝に見えたり。この人の居城にやありけん。伊豆国の狩野氏の子孫にて、この所に居住なるべし。南朝おとろえて後は、是非なく足利氏に従いて、国守今川氏の幕下に属しけることなるべし。
※ 南方紀伝(なんぽうきでん)- 南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者不詳。

宗長の旅記を案ずるに、遠江国に狩野が一統、狩野宮内少輔と云うものあり。この者、はじめ今川氏に睦みける時に、駿河の狩野介謀叛の聞、ありけるまゝ、今川氏より征伐を加えらるべかりしが、安倍山中は甲斐につづき攻め入りがたきとて、三ヶ年を打ち過ぎけるを、遠江の狩野氏、彼の国の軍(いくさ)立ちを率いて、遠江より安倍の山中に打ち入りて、案内をばして駿河の狩野氏を攻め滅ぼしける。これ応仁年前のことなり。これによって、安倍の狩野氏は断絶に及びけるならん。

この谷の奥なる十五相といえる古社に賽(もう)でける。宮守某、扉を押し開けて、古鰐口を取出して見せける。経五寸ばかり、延文二丁酉年五月吉日とあり。今年に至り、四百六十年のものなり。文字摩滅して詳らかならず。また古鏡形の古仏像あり。


(宇知乃宮神社、石碑に「安倍城主狩野貞長公ゆかりのおやしろ」とある)

ここより村落を南に出て、稲荷の社あり。これは風土記に云う、宇知の宮、所祭天照大神、忍穂瓊尊の地なりとあるは、極めてこの社地なるべし。すべてこの里の地理を案ずるに、馬牧の地なること疑いなし。風土記によく合いたる地なり。
※ 馬牧(うまき)- 馬などを放し飼いにする場所。牧場。まきば。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 10 内牧、結成寺

(内牧、結成寺山門)

「安倍紀行」の前回までの分は文化十年の旅で取材したもので、今回からは文化十一年(1814)の旅となる。記録の方式が「大井河源紀行」に似てきた。旅らしい記述が加わり、紀行文らしくなる。ちなみに「大井河源紀行」は藤泰さんが文化九年に旅した記録である。

9月27日、自分も、靜岡市葵区の慈悲尾、内牧、足久保を車で回ってきた。往時から200年経過して、当然、現在も存在しているものもあれば、探したけれども、見出せなかったものもある。合わせて報告していきたい。

〇 文化十一戌、こゝに卯月の中の六日、新間時連子(島田人、新間平太夫、俳号壷月)を誘い、安倍の谷におもむきける。この谷は安倍川の川上に入るなれば、川瀬を幾瀬となく渉り、殊に嶮岨の避(へき)地なれば、案内なくして叶うまじくと、かつて期したることなれば、一人に荷負わせ、導道者と共に、四人して未明に蝸廬を立ち出でける。
※ 僕(ぼく)- 下僕。男の召使い。下男。

・安倍口の里、自在庵とて無本寺の小庵あり。ある人伝に云わんべし。当国の守、今川範政朝臣、嘉吉年終焉(?)。この里に葬送して、今林寺といえる菩提寺を建立ありしが、後世川成して、その後庵地となりぬ。今の自在庵の地はかの寺の跡といえり。
※ 今川範政(いまがわのりまさ)- 駿河今川氏第4代当主。死没は永享5年(1433)。
※ 今林寺 - 廃寺。今川範政は臨済寺に墓所を移されている。
※ 川成(かわなり)- 洪水のために土砂が流出し田畑が川原になることをいうが、こゝではお寺が洪水で流されて河原になったことを示す。大きな川は平野部では、治水がなるまでは、洪水の度に川筋を変えていた。



(内牧、結成寺閻王堂)

・内牧の里、亀谷山結成寺、済家法幢地なり。朱符寺田五石。府の臨濟寺の末なり。むかしは鎌倉派なり。本尊地蔵、運慶作。開山、南寂豊公元始と云う。慶長元年遷化の僧なり。当寺鎮守八幡宮、山門の前にあり。神体唐金円鏡の如し。左右に鐶あり。正中に阿弥陀の像を鋳揚げたり。裏に正応五年二月十九日と記し、片仮名にて書彫り付けあれど、文字詳らかに読みがたし。こゝに寺僧の伝に云う。当寺はむかし開基、天徳寺法輪大禅定門にて、工藤左衛門尉祐経なり。既に寺後の山に祐経が五輪の塔ありと云う。閻王堂、鐘楼、山門あり。また、一徳寺、観法院とて、当寺の末院あり。
※ 済家(ざいけ)- 禅宗の臨済宗のこと。また、臨済宗の寺。

結成寺は雰囲気のあるお寺で、閻王堂、鐘楼、山門など揃っていたが、山門の前にあるという鎮守八幡宮は見つからなかった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

マントル掘削 - 静大、読売市民講座

(超深部掘削船「ちきゅう」)

今日の午後、靜岡大学・読売新聞連続市民講座2013に出席した。市民講座は今年度3回目である。「マントル掘削 ~地球規模の物質循環を探る~」と題して、講師は靜岡大学大学院 理学研究科 地球科学専攻 道林克禎教授の講演である。

地球の構造は鶏卵に例えられる。極表面で我々が住んでいる地殻はさしずめ卵の殻である。その内側に卵白にあたるマントルがあり、真ん中に卵黄にあたる核がある。簡略に言ってしまえば、そんな構造である。

昔から漠然と、地球は中心に行くほど温度が高いにも関わらず、核は固相で、それより外側の、温度の低いマントルはどうして液相なのだろうと疑問に思っていた。いままでそれを糾明しようと思わないで過してきた。講師の説明で、液体、固体の分かれ目は温度だけではなく、圧力にも関係していると聞いて、今ようやくその理由が判った。地球の核の部分は温度は高く、液相になってよいはずなのだが、それ以上に高圧で、液化できない。マントルの部分は圧力も下がり、温度もある程度高いので、液化する。地殻では温度が低くて、圧力は表面が1気圧と、低くなるので、硬い岩石に、固化しているのである。

ロシアのモホロビッチッチという学者が、地震波の測定で、海洋底から約6~7kmの所に強い反射面(まぶしい面)を見付け、地殻とマントルの境目ではないかと注目し、「モホ面」と名付けた。「モホ面」は地球上のすべてに存在し、海洋では「モホ面」までの距離が約6~7kmと薄く、大陸では約30kmと厚いことも判った。卵の殻のように、厚みがほぼ均一ということではなかった。

2005年、当時、ロケットの打ち上げに何度か失敗していたこともあり、汚名挽回というわけではないが、マントルまで掘削できる超深部掘削船「ちきゅう」に予算が付き、掘削船が完成した。まだ誰も見たことがない地球の深部、マントルまで掘削し、調査することが大きな目標であった。掘削船の中央に立つやぐらが高くて、レインボーブリッジを潜ることが出来ず、掘削船「ちきゅう」の母港は静岡県清水港の興津埠頭となった。

現在、道林教授らが中心になって、超深部掘削船「ちきゅう」を使って、マントルまで掘削する、国際科学者のチームを平成25年度内に編成し、10年計画で進めようとしている。300億円から1000億円の予算を要する。掘削の場所は太平洋でモホ面までの深さが浅い、3地点が候補に挙がっている。有望なのはハワイ沖の候補地点である。

そもそも、マントル掘削(モホール計画)の最初は、アポロ計画が進んでいたケネディ大統領の時代に始まり、1961年4月、水深3558m、170mの堆積物を貫通し、その下の玄武岩13mまで貫入したところで、技術レベルの限界で終焉を迎えた。引続いて、深海の掘削はたくさん行われたが200mに達する掘削はわずかなもので、今までに海洋地殻で行われた最深の掘削は1.8kmとなっている。

7年後の東京オリンピックの頃にはマントル掘削が始まっているかもしれない。注目していきたいテーマである。(写真はマントル掘削情報サイトから借用した。サイトを管理している道林教授が自ら撮影されたという。問題があるようでしたら削除します。)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 9 慈悲尾、増善寺

(椎之尾神社)

藁科川沿いから安倍川沿いに戻って、葵区慈悲尾に入る。「安倍紀行」の解読を続けよう。

・慈悲尾(しいのお)村川原中に一小丘あり足中山という。右の山崎に繁りたる杜あり。里人、市の郷の森という。これなん風土記に云う、椎の尾の神社、所祭、事代主神なりと書きたり。古社地なるべし。今は社もなし。

200年前の往昔、「今は社もなし」と書かれた、椎の尾の神社が、平成の現代に存在した。後述の増善寺の近く、伸びた小尾根の先に、小さな社があった。安倍城跡の登山道を少し登ったところにあった。

慈悲尾山増善寺、本尊行基大師の作、千手観音、山上に安置す。洞家法幢地にて、遠江国高尾山の末院なり。元は法相宗、朱符の寺田十二石、開山勧請、崇芝岱和尚なり。伝言う。当山草創、天武天皇白鳳二十一年、道照法師なり。四十二年の後、養老七年亥、行基僧正この国に下り、足久保、法明寺において七尊の観音を彫りたまう。当山も第二刻なり。御丈五尺有余なりければ、秘仏にて開闢(開帳)せず。この院星霜ふりて破壊に及びけりを、文明十二庚子辰應和尚再興す。

行基が足久保の法明寺で、七尊の観音を彫ったことは、安倍紀行の少し後に出てくる。


(増善寺のヒガンバナ)

明応未年(明応八年、1499)今川氏親朝臣、禅師の道徳を慕いてこれに帰依し、伽藍、法堂を建立す。また今川氏の時代は塔頭も五ヶ院あり。菩提寺長富院、外三院ありし。菩提寺は、もと増善寺と同じく、道照和尚の開基といえり。この精舎の跡を今呼びて土俗、ホダンギと地名す。その頃は繁昌にて、寺領も今川氏より多く付与せられける。今川修理大夫氏親朝臣、大永六年丙戌(1526)六月二十三日みまかり給いて、この地内に葬し奉る故に、開基にて増谷寺殿喬山紹貴大禅定門と贈り名しける。今に御墓、並び朝臣の肖像を安置せり。その外今川氏代々の位牌を建たり。

増善寺は、2年前の駿河古文書会の現地見学会で訪れて、由緒など詳しく説明を聞いた。当ブログ、2011.11.20、24、25の書き込みを参照のこと。

この谷に椎田の池といえる地ありやと問わば、男は古の池と云う小池ありと答う。これなん風土記に云う椎田の池の古説なるべし。和銅元年戊申三月より五月に経し、池の底鳴ること、昼夜百余度、恰も地震のごとく、五月の夕に望みて、一つの黒牛、池の底より出て、一顆の玉を負いたり。その玉の光、四辺を照す。のち、その牛を以って、京に献じのぼせけるに、路の程、暑気に堪へずして、白須賀の渡りに至りて、弊死しける。その処を号して牛の瀬と云う。今なお存せりと出でたり。
※ 一顆(いっか)-(玉の数え方)1個。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 8 建穂、建穂寺、建穂神社

(建穂寺)

羽鳥の東隣に葵区建穂(たきょう)というという地区がある。古文書会で建穂寺というお寺のことが度々出てくるので、どれだけ大きなお寺だろうと、期待して訪れたが、あるべきポイントまで来ても、それらしいお寺が無くて素通りし、再び戻ってきた。地区の公民館の隣に、山の端にくっ付くように、山門のような建物があり、それが建穂寺であった。

公民館に車を止めて、案内板を読んでみて初めて、建穂寺が明治初めの廃仏毀釈をまともに食らって、廃寺に追い込まれたことを知った。古文書をいくら読んでも、廃仏毀釈のことは、当然だが、一切出て来ない。

江戸時代には、家康から480石もの朱印を受けて、栄えていたが、その庇護も失い、廃仏毀釈の嵐に、多くの堂宇が壊され、追い討ちをかけるような、明治三年の火災で、すべてが失われた。現在は、小さな観音堂が再建され、避難していた仏像群が中に収蔵されている。


(建穂寺仏像群)

お堂に貼紙がしてあった。この観音堂は町内会の管理に任されており、60躰におよぶ仏像群の保全、修復が、町内会ではとても賄いきれるものではなく、寄付を呼びかける趣旨であった。こういうものこそ、市が予算を付けて保存措置を取るべきだと思うが、市指定の文化財(5躰)以外は、政教分離の原則から、予算をつけるのは難しいのかもしれない。最近話しに聞いた、函南桑原薬師堂(24躰)を「かんなみ仏の里美術館」として蘇らせた知恵から学び、何とか保全の手を差し延べないと、たくさんの仏たちは朽ちるに任せられてしまうであろう。

前説が長くなったが、安倍紀行の解読を続ける。

・建穂村、瑞祥山建穂寺菩提樹院、この寺、真言新義、山城上の醍醐報恩院の末、武蔵真福寺の末なり。学頭坊外に二十坊あり。この院、本(もと)は建穂神社の社僧寺なり。今は府の浅間神社の社僧を兼ねたり。当山草創は白鳳十三年甲申の歳、道照和尚開基、養老七年行基大士中興という。また丙辰紀行には役行者の草創せしよし、云い伝えたりと書きたる。
※ 丙辰紀行 - 林羅山が元和2(1616)年著した、江戸から京都までの東海道紀行。

当寺の境相を見れは、前に藁科川の流れあり。後山は松樹生え繁りたり。仁王門に向へば、左に筒井あり。石に彫りて行基水と注す。門に入れば、左右、石垣高さ一間ばかり、両側に桜を数樹植ならべ、坊中の衛門並べり。左に閻王堂、稲荷祠、舞楽の衣裳入れたる蔵あり。右に愛宕地蔵堂、妙喜堂あり。一丁ばかりして高処に、馬鳴明神の社あり。祭神は天照皇大神宮、保倉神なり。これ延喜式内の建穂神社なり。類聚小史に聖武天皇天平七年、右大臣武智麿、私田五町を以って御帳田とし給う。また神位階を授けたまう事見えたり。


(建穂神社)

建穂神社は昨日出てきた、馬鳴明神の社である。そこへも詣でた。

金玉集
摂政良経公の家にまかりしに、大弐といえる女の、久しく相知る人なりけり。駿河国手越という処に誘う人ありて、まかりけるに、つとめての年、千本の桜をわけて、かれが朝夕の詠にもせよかしと、根ながら贈りけるに、かの里ちかき建穂寺というに、その花を植えて仏に手向けけるよし。消息のついでにいいおこせければ、

   我玉の ひかりとつまに むすびてよ ちもと(千本)のさくら こゝに咲なば
                             藤原朝臣定家

といでたり。かゝる由縁にやよりけむ、今も山桜を数百本植え連ねて、花月のとき、思いやられて偲ばれける。

※ 金玉集 - 平安中期の歌集。一巻。藤原公任私撰。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 7 羽鳥、龍津寺、洞慶院

(洞慶院の四本杉)

藁科川を対岸に渡ると靜岡市葵区羽鳥である。羽鳥は服織とも書き、地名は古代、渡来人秦氏率いる服部が移住して、養蚕業や機織りをしたことに由来する。養蚕業の守護神として、馬鳴(まなり)大明神を祀っていた。羽鳥に馬鳴神社の跡と思われる処に、神社を示す地名が残っているという。実は隣村の建穂にある建穂神社は江戸時代には馬鳴(まなり)大明神と呼ばれていた。村が違うから別の神社だと思うが。

さて、安倍紀行の解読を続ける。

・馬鳴の神社の古宮地なり。田の小地名に大鳥居、あるは鳥居址、あるはしゃりこ田、笛吹き田など呼ぶ地名あり。

・萬年山龍津寺といえる洞家の法幢地あり。開山烏道鯨和尚、天文十二卯十二月十日遷化。開基龍津寺殿仁栄齢保大姉、この開基の伝書、失いて未詳、愚按ずるに龍津寺殿は武田信玄入道の姉にて、今川義元朝臣の室家なるべし。



(龍津寺の仁齢栄保大姉の墓)

龍津寺に参詣した。境内に新しい開基龍津寺殿仁齢栄保大姉の墓が建てられていた。墓に刻まれた文字から、「仁齢栄保大姉」が正しいと知れた。

地内に弁財天堂あり。この本尊は寛文二年壬寅三月十八日、駿東の郡、千本浦の村長八木氏、一夜夢に端荘たる婦人来たりて、告げて云う。我は海中にありと。村長覚めて明旦、漁網をこの浦に卸すに、はたして天女の霊像を得たり。後、僧某持ち来たりて、この里神宮寺に安置す。近郷の里民、出世弁天とこれを称し、偈(渇)仰して、群参しける。この寺の松蕈(茸)、他産のものとかわりて、香気深く、甚だ美味なり。
※ 端荘(たんそう)- 端正で荘厳なこと。威儀正しく重々しいこと。
※ 明旦(みょうたん)- 翌朝。


突然、松茸の話が出てくる。藤泰さんはこの寺で精進料理を頂いたのであろうか。

・久住村、久住山洞慶院、洞家の法幢輪番寺なり。開山石叟圓柱和尚、長禄元年丁丑(1457)七月八日遷化の僧なり。開基洞慶院節叟善忠大居士、應仁二年子に没せし人なり。俗称福島伊賀守と申せし武人なり。客殿の額に覚場額と記す。この書は伊賀守自筆という。石叟は元河内国の人なり。洞慶院の嶺より椎の尾山の際に古城跡あり。かの福島氏の所縁なり。

この里正石上氏は旧家にて、先祖は石上藤左衛門宗顕とて、鎌倉北条高時入道に仕えし。北条氏、元弘の乱に東勝寺において、入道を始め、諸氏自害の時、宗顕が父右馬亮某も死に従いける。その時宗顕は幼少なり。この里に祖父の源左衛門友則といえるありけるとて、それをたよりに、この里へ落ち下りて、ここに終に居住す。今の里正善玖まで十七代なり。旧き家系を所持せり。また縁家に石上藤兵衛は福島伊賀守の子孫とかや。今川義元の判形一個所持なり。



(馬鳴大明神の祠)

洞慶院は春は梅園で賑わい、また洞慶院の開山忌に「おかんじゃけ」と呼ばれる、竹で作った厄除け玩具は有名である。案内板に「洞慶院ははじめ馬鳴大明神の社僧寺であった」と書かれていた。神社は無くなり、社僧寺の洞慶院が発展したようだ。それならば境内に馬鳴大明神を祀った社があるはずと、境内案内図を見ると、馬鳴大明神の祠を見付けた。行って見ると小さな祠に、馬の埴輪のミニチュア像が置かれていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 6 羽鳥、木枯の森

(木枯の森)

木枯の森は舟山から藁科川へ遡ってすぐの河原にある小さな島で、枕草子に「森は‥‥こがらしの森‥」として記されている、有名な歌枕である。「安倍紀行」は木枯の森について、書き載せた文は意外と少ない。解読を行う。

・羽鳥村の河原中に木枯の森とて、囲い百余間ばかり、松、椎、桂、雑樹繁茂せり。近頃、碑石を建てたり。本居宣長の文章にて、東渕左澗(とうえんさかん)が書なり。この森は名高き名所にて、世々の歌人の詠歌多し。

新古今
   消えわびぬ うつろう人の 秋の色に 身をこがらしの 森の下露
                            定家卿

 碑文は、原文をネットで見ることが出来た。国文学者らしく、万葉仮名を用いた難解な文だが、なんとか、自分に解るように、読んでみる。(かなり意訳した)

駿河国安倍郡、木枯の森、八幡社前碑の詞
木枯の森は、駿河国にあることは、古今六帖の歌をもって知られ、安倍郡にあることも、風土記に見えて、架空の所ではない。そもそもこの森は、かの六帖にあるを始めとなして、後撰集に歎きの歌あり。また定家卿の、下露の言の葉(前述の歌)など、いにしえより、世に名高く聞こえて、今も定かに、服部村と云う村の地に在りて、いと神さびたる処になもありける。祀る祭神は、かけまくもかしこき、広幡の八旗大神。しかばかりなる名所にし、鎮坐すは、これもいと久しなる社にこそは、坐ますのであろう。この社、近き年ごろ、ゆゆしく荒れまししを、村長なる、石上長隣、勤(いそ)しみ有る人にて、畏く歎き愁いて、心を起こし、力を致して、また美麗しく造り祭れる。神祭りの神々しさは、更にも言わず。いにしえ偲ぶ雅びごころをも、世の人の心あらむ、聞き喜び、見喜びて、森の木の葉の、年の葉に繁み栄えて、絶ゆる世なき如き事、万代に伝えて、偲ばざるめや、仰がざるめや。かくの如く言う者、天明七年と云う年の五月のついたち、伊勢人、本居宣長


碑が建てられたのは、天明七年(1787)、安倍紀行は文化十年(1813)で、その間に26年の差があるが、碑が建ったときを「近頃」と表現している。現代よりも時代がゆっくりと流れていたことが解る。

木枯の森の後に、次の一文が入る。風土記に書かれていたことであるが、「山中」がどこの話なのか、はっきりしないまま、こゝへ書き込んだように思える。

文和風土記に云う。廣野姫天皇庚寅十月、府官吏生史部役を奉じて、山中に入りけり時、この辺にて暴風陣々として、樹木ころび倒る。皆人荒忽とす。酒に酔いたるが如し。時に風雨一行の後、すでに日暮にいたる。月清朗と晴れ渡る。こゝに一大男あり。巖頭に居りたり。その威風身の毛よだつばかり、暫時も顔眉を対しがたし。こゝに吏生泰助石という者、腰劔を解きて是に当り、手を下すに、不覚目睡りて四辺にものなし、酔夢の覚えたる如し。吏部(りぶ、役人)その其余の人々、皆かくのごとし。その辺蹤(あしあと)をしらずということを載せたり。案にこの一大男といえる、今の山神あるは山夫の類いなるべし。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 5 産女、正信院

(産女山正信院)

向敷地から藁科川を少し遡ったところに、産女(うぶめ)という集落がある。「産女」は、日本の妊婦の妖怪で、「姑獲鳥」あるいは「憂婦女鳥」などとも表記される。死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるといわれ、妊婦が生まない前に死亡した際は、胎児を取り出し、母親に抱かせて葬るという、ちょっと恐ろしげな慣わしがあったという。そんな産女を地名とした謂れが「はまつゝ羅抄 安倍紀行」に載っている。解読を続けよう。

・産女新田、氏神、木枯神社なり。
・寺ヶ谷山神祠あり。伝えて云う。祭神は清乗と云う武人の妻女の霊なり。洞家の小院に正信院といえるあり。本尊子安観音、春日作、丈弐寸五分とかや。当院縁起に、永禄のむかし今川氏真主、没落の時、家臣牧野喜藤兵衛清乗という者、浪牢(ろうろう、浪々)して、この山里に蟄居し、運世(運勢)傾けるに、召し供(ぐ)したる妻女、難産のために、終にみまかりぬ。この里の奥、寺ヶ谷に葬しける。清乗は後、本国信濃国榊村と云う処に帰りける。

※ 今川氏真(うじざね)- 駿河今川氏10代当主。戦国大名今川氏の最後の当主である。

ここにかの妻女の亡霊、土人(土地の人)夢相を告げて云う。我在るは慳貪邪見にして、牧野家に伝来せし守り本尊、子安観音の霊仏を持ちながら、常に念ずる心もなく、不敬不尊の罪にかゝり、難産を得て、終に終りける。今この霊像あり。一宇に蔵(おさ)め、我霊を山神と斎らば、永く末世の人の難産をすくい、その功徳によりて、過去の罪障を滅しなんと。里人驚きさめて、かの墓所にいたりて、本尊をひろい得て、一宇を結び、安置し、妻女が霊を山神と斎りける。しかりしより、この里難産のものは、祠堂に立願すれば、平産してその禍なしとかや。
※ 夢相(むそう)- 夢の吉凶をみること。また、それを業とする人。
※ 慳貪(けんどん)- 物惜しみすること。けちで欲深いこと。
※ 邪見(じゃけん)- よこしまな見方・考え方。不正な心。


現在、産女の集落に産女山正信院というお寺があり、御本尊に産女子安観音を祀って、子授け、安産、子育てにご利益があるといい、近在の人々のお参りが絶えないという。自分は、残念ながら、そのご利益のいずれにも該当しないから、簡単なお参りで済ましたけれども、少子化の日本において、大いに働いてもらいたい観音様である。

現代の人々が「産女」の意味をどこまで理解しているのか解らないが、昭和の終わり頃、靜岡市産女の県道で、朝、小学生の列に、車が突っ込み、ガードレールに激突するという事故が起きた。運転していた女性の話では、三叉路に変な老婆がいて、避けようとして事故になったと話した。その老婆を運転手以外に見たものはなく、目撃者はオートバイを避けようとして起きた事故だと証言した。事実は別にして、当時、現代に現れた「産女」として評判になったという。時代が平成になって、もはや、産女が現れる余地もなくなったかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

はまつゝ羅抄 安倍紀行 4 向敷地、舟山、得願寺

(円山花木園の見晴台より、安倍川、藁科川合流地点
右手奥に富士山、手前の河中に舟山)


(徳願寺)

向敷地の西の山中に得願寺というお寺がある。現在は徳願寺という。9月19日朝、手児の呼坂で一汗かいたのち、細い道を車で登って行った。台風18号の後、天気の良い日が続いている。今日も雲一つ無い。境内の庭園にいたガチョウの声に驚かされ、北川殿の五輪塔の墓所にも参り、山門で、下から登ってくるおじさんに逢って、少しお話した。

所用とお天気次第で、日課として登ってくる。下から登ってくると1時間かゝる、と汗を拭く。お寺で見晴らしの一番良いところはどこだろうか、と聞けば、お寺の中ではないけれども、この先に地元の人が土地を提供して造った見晴台があるという。五、六分で行けると聞いて、歩いて行く気になった。

舗装道路を登って行くが、なかなかそこへ行き着かない。中程で農作業のおじさんに再度聞き直した。都合、倍ぐらいの時間を要して、円山花木園という見晴台に付いた。後で距離を確認したら600メートルあった。上り坂で五、六分では少し無理がある。しかし、見晴らしは最高であった。こんな山中に、これほど景色のよい展望台があるとは、知らなかった。眼下に藁科川が合流する地点から、海に至るまで、安倍川が一望に見張らせる。遠くは富士山から伊豆半島まで見え、近くは安倍川の河原に浮ぶ舟山が確認できた。安倍川下流域でこれほど見晴らしの良い所を、自分は知らない。

「はまつゝ羅抄 安倍紀行」では、その得願寺と舟山のことが記されている。

・安倍川原の中に舟山とて、周廻り三、四町ばかりなる、一小丘あり。松樹生い繁りたる森なり。中津の神社とて、小社あり。延喜式内の社にて、風土記には所祭住吉神なり、天平神護元年巳(765)三月造社奉ると書きたり。しかれども、今は瀬織津姫を斎ると云う。


(舟山)

山を降りて、すぐの安倍川の河原にぽつんと取り残されたように舟山がある。土手に出る道があるはずなのだが、入り口が見つからず、街道脇のコンビニに駐車して、河原へ降りた。台風18号では井川方面に豪雨が降り、河川敷にも水が流れたようで、渇いた泥で靴を汚した。舟山は横長の島で、確かに舟を浮かべたように見える。

濁った水が勢い良く流れ、舟山への渡河を妨げている。徳願寺で逢ったおじさんは水が少なければ舟山へも渡ることが出来ると話していた。もちろん今日は無理である。


(五輪塔の北川殿墓所)

大窪山得願寺、曹洞宗、朱符の寺田、三拾石、法憧地なり。開山興國玄辰、文明四年壬辰(1472)八月九日遷化。本尊千手観音は行基の作。当国の札所なり。開基、徳願寺殿慈雲妙愛大姉と云う。今川義忠朝臣の室にて、北川殿と申せし御方なり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

横内川通船一件控え帳 10 - 駿河古文書会

(ヒガンバナとモンキアゲハ/手児の呼坂にて)

昨日午後、駿河古文書会で靜岡へ行く。今日の課題は引続き「横内川通船一件控え帳」である。少し長いが、切るところが見付け難いので、一気に書き込む。

横内川通船の工事が見切り発車的に始まる。当初、田地への引水が変わることを恐れた農民たちは反対の意向であったが、こゝまで来ては反対の声が消えてしまった。まずは、深さを確保する工事の開始に際して、工事の概要の一部がメモされている。

横内下の木戸際七番の杭より堀込み、八番より弐尺七寸、九番より弐尺壱寸、拾番より三尺、拾壱番より三尺七寸、拾弐番より三尺四寸、拾三番より三尺六寸、拾四番より三尺六寸、拾五番より八尺、何れも 水盛杭よりの勘定に御座候。
追って手順の分は、その村々より申す通り、差し支えこれ無き様、取り計らうべく候。


廻状を以って申し達し候。その村々地先、横内川通り御普請所、両縁竹木の分、早々伐り払い申すべし。もっとも家居なども差し障り候分は、篤と勘弁の上、御普請仕立て方、差し支えに相成らざる様、取り計らうべく候。この廻状早々順達、留めより相返すべく候、以上
  卯閏九月十五日        御普請役   大嶋東一郎
                        大塚唯一郎


池田岩之丞様御代官、御白州において、御勘定直井倉之助様御代官御出席にて、仰せ渡され候に付、横内川両縁村々、左の通り請け證文。

       差し上げ申す御請け書の事
今般、東海道府中宿、通船路、その外御普請、御仕立てのため、御越し成られ、私ども村々地先、横内川通り、御堀割り御普請の儀、駿州安倍郡井宮村、名主庄左衛門外弐人へ、仕立て方仰せ渡され、この節より御場所御取り掛りに付、私ども地所、御丁□の上、道敷、土居敷、その外、田畑、居屋敷地へ相掛り、潰地の分、最寄質入れ、上中下平均直段を以って、地代金下し置かるべく候事。


一 右御普請仕立中、御遣り方遊ばされ候。人足、石工、その外職人ども、所々より大勢入り込み候に付、権威がましき儀は勿論、すべて不作法の義、これ無き様、引請人どもへ、取締方仰せ渡され候に付、私ども村々においても、右の者どもへ対し、不作法の義これ無き様、小前末々まで、厚く申し聞き置き候様、仕るべし。かつ右引請人どもより、御普請の儀、かれこれ申し聞き候とも、私ども限り、言うに及ばず、伺いの上、申し達し候様、仕るべき候事。

一 右御仕立中御場所、御小屋場の儀、弁利(便利)の場所へ御取り建て、所々へ、御水盛杭印、御付け置かれ候間、最寄住居の者心付け、火の元は勿論、すべて不取締の義、これ無き様仕り、人家これ無き処は、折々見廻り、心付け候様、仕るべく候事。右、仰せ渡され候趣、逸々承知畏まり奉り候。これにより村々連印御請け、印形差し上げ申し候処、くだんの如し。
※ 逸々(いちいち)- ひとつひとつ。

   天保十四年閏九月十日
戸田寛十郎支配所、駿州安部郡傳馬町、名主      久右衛門
右同断、同州同郡横内町、丁頭            伊兵衛
池田岩之丞御代官所、駿州安部郡明屋敷、名主     四郎兵衛
右同断、同州同郡上土新田、名主           平兵衛
右同断、同州同(有渡)郡南安東村、名主       与兵衛
右同断、同州同郡上足洗村、名主           久左衛門
松平丹後守領分、同州同郡同村、名主         権右衛門
右同断、同州同(安倍)郡川合新田、名主       与五右衛門
岡野出羽守知行所、同州同(有渡)郡下足洗村、名主  彦作
右同断、同州同郡同村新田、名主           庄右衛門
曽我伊豫守知行所、同州同郡沓谷村、名主       卯兵衛
 通船路御普請御掛り
     御役人中様



    恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
池田岩之丞御代官所、松平丹後守領分、上足洗村、岡野出羽守知行所、下足洗村、曽我伊予守知行所、沓谷村、右三ヶ村一同、願い上げ奉り候御儀は、今般横内川通船路、御出来の上は、御収納米運送、並び村方用弁のため、上足洗村にて船弐艘、下足洗村にて四艘、沓谷村にて四艘、仕立て仕りたく、右に付いては、拾四番杭の下、上足洗村地面にて、巾弐間、長さ五間、弐拾四番杭の下、下足洗村地面にて、巾三間、長さ拾間の船溜り、北側へ補理仕りたく、もっとも御用御荷物、御繁多の節は、仰せ付け候わば、罷り出御運送仕るべく候。格別の御慈悲を以って、右願いの通り、仰せ付けられ下し置かれ候様、一同願い上げ奉り候、以上

※ 補理(ほり)- 補い修理すること。

  天保十四年卯閏九月
                 上足洗村御料、私領
                  下足洗村
                  沓谷村
                  右三ヶ村
                   名主、組頭、百姓代、三判
                               連印
    通船路御普請御掛り
         御役人中様


反対から一転、工事をするならば、自分たちにも舟と舟溜りを工事に加えるように要求している。中々したたかな農民たちである。始まった工事がこの後どうなるのか。この一件は次回で終わりを迎える。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ