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泉浄院の多宝塔

(泉浄院多宝塔)

犬山城から高速に乗る前に、泉浄院の多宝塔を見てくることにした。住所はわかっていたが、カーナビの検索に引っ掛からない。多分このあたりだろうとカーナビの画面を移動させてみると、山中に「泉浄院」の文字を発見した。県道27号線を進む途中に、息子が参道の入り口の石柱を見つけた。所々にある標識をたよりに登って行くと、尾根に出た所に紅く彩色された泉浄院多宝塔があった。その尾根から先に通じる道は通行止めになっていて、登ってきた道が唯一、車で登れる道であったようだ。

泉浄院多宝塔は昭和三十七年(1962)建造で、石山寺多宝塔を模した和様の、一辺が5.47mある大きな多宝塔であった。参道の途中に無造作に建てられたという感じで、建築から50年弱の期間に、早くも紅い塗料もはげ掛けていた。

これより北東の方角には、灌漑用の池として香川県の満濃池と一二を争う灌漑用の入鹿池がある。江戸時代の初期、後に「入鹿六人衆」と称される男たちが犬山成瀬家を経由し、尾張藩に入鹿池の開発届けを出し、入鹿村の住民を移住させ、1633年に完成させた灌漑用の池である。

その西岸の池畔には博物館明治村があることで有名である。明治村の背後に北から南へ尾張富士、本宮山、さらに泉浄院がある信貴山と続いている。辺りにはハイキングコースも通っていて、泉浄院もその通過地点になっているようだ。信貴山山頂は、小牧山合戦の時、豊臣勢の陣地であったところで、陣ヶ峰とも呼ばれている。

泉浄院本堂は多宝塔より100mほど登った所にあり、そこから南の名古屋市街地方面、北の犬山城方面と、展望が大変良いとあとで知った。我々は多宝塔を見たあと、本堂は端折ってしまった。

昭和のはじめ、名古屋の有力資産家と楽田の有力者とが協議した結果、「商」と「戦」に関係が深い毘沙門天を本尊に迎えることにし、毘沙門天の総本山といわれる大和の信貴山の毘沙門天を勧請した。そして尾張信貴山として、昭和7年(1931)に創建されたお寺である。泉浄院の寺名も「戦」と「商」から付けたのかも知れない。

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旅から帰った土曜日の夕方、ムサシの散歩から帰った女房が呼ぶ。出ると駐車場の入口の小さいU字溝にタヌキが入って死んでいるという。確かに隙間から背中が見えて、虫も湧き始めている。息子に手伝わせ、溝蓋を外して見ると、狭い空間に無理やり入って、動けなくなってしまったらしい。前足を前へいっぱいに伸ばして、哀れである。鍬を持ってきて溝から出してみると、お腹が膨らんでいたから、子供がいたのかもしれない。普通なら頭さえ入れば抜けられるはずが、計算に入っていなかったのだろう。ムサシに吠えられて慌てていたのだろうか。可哀想なことをした。肥料の空き袋に入れ、口を縄でしっかり縛り、ダンボール箱に入れ、表に「たぬきの死体」と書いて、ごみステーションに置いてきた。土日は役所も休みだから、今朝、市役所に電話して引き取ってもらった。家の周囲にはまだタヌキがいるらしく、今日の昼間も女房は見かけたという。
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「大杉様」は語らず-犬山城

(犬山城-毛虫の生垣そばから撮影)

26日、午前8時前に車で出掛けた。車のメーターは「131030」を示していた。帰宅したときは「132069」だったから、走行距離1000kmを越す旅になった。その間、終始息子の運転で、自分はナビゲーターの役割に徹した。朝からわずかに小雨で傘を車に乗せていたが、二人とも雨の心配はしていなかった。降っても知れていると思っていた。

東名を走る間に雨も止んだ。カーナビの威力か、10時20分には犬山城の駐車場に到着した。雨の心配をすることも無く、犬山城に登城した。研修生が切符のもぎりをしていた。中学生ぐらいの子供たちがもぎり以外にも園内の清掃などについている。就職をひかえてというには若すぎる。おそらく社会科の課外授業のなのであろうと思った。三層四階の犬山城天守閣は桜の若葉に隠れるように建っていた。


(大杉様)

天守閣右側に「大杉様」と呼ばれる、枯れた巨杉の幹が櫓で保護されて立っていた。その幹にノウゼンカヅラが巻きついて、まるで杉が生きていて青葉を出しているように見える。花時期にさきがけて朱色の花を数輪付けていた。「大杉様」は生きていれば樹齢は約650年、犬山城築城の頃からの老木で、天守閣と高さを競っていた。犬山城の盛衰の歴史をつぶさに見てきた生き証人であったに違いない。この杉に語らせれば、犬山城にまつわる歴史物語が出来るであろう。残念ながら1965年頃に枯れてしまい、今は何も語れない。

犬山城は1537年、信長の叔父の織田信康が現在の地に天守を造営し、城主となったのが始まりである。その後、何回か城主が替り、関が原の戦いの頃に城郭は整備されていった。江戸時代になって、1617年に成瀬隼人正正成が城主となり、成瀬氏が代々継いで明治に至った。明治四年(1871年)、9代目正肥のとき、廃藩置県で廃城となり、天守を除くほかはほとんど取り壊された。


(天守から木曽川)

天守閣に登った。残存する日本最古の天守閣である。桃山風で望楼風天守と呼ばれている。最上部から四方の見晴らしはすばらしい。北側には木曽川が石垣を洗うように流れている。下流すぐのところに堰が出来て、木曽川の幅いっぱいに水が湛えられ、対岸から見る犬山城は大変美しいにちがいない。

犬山城は別名「白帝城」と呼ばれている。江戸時代の儒学者、荻生徂徠が犬山城の景色を見て、李白の詩からとって「白帝城」と命名したことによる。李白の詩は以下の通り。

      早発白帝城     早に白帝城を発す  李白

    朝辞白帝彩雲間     朝に辞す白帝彩雲の間
    千里江陵一日還     千里の江陵一日にして還る
    両岸猿声啼不住     両岸の猿声啼きやまず
    軽舟己過万重山     軽舟すでに過ぐ万重の山


ちなみに「白帝城」は中国長江三峡に三国時代あった地名で日本で言う「城」を意味するものではなかった。

最上部の係員の話では、南へまっすぐの道が名古屋城に通じていたという。犬山城は自然の要塞である木曽川の南側に建てられ、名古屋城の北の守りを固めた出城であったことが判る。係員に犬山城の撮影ポイントを聞く。正面の石垣の上だが、サザンカの生垣に毛虫がいっぱいいて、剪定していた人が毛虫に刺されて大変だったと、注意するように言った。
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息子と巡る “城” の旅

(国宝 松本城)

今日、夕方2泊3日の旅から帰って来た。

熊本城を見学した話をしていた時、息子が昔からの天守閣が残っているお城は全国でわずか12ヶ所だけだという。息子は室町時代から戦国時代、織豊時代、江戸時代辺りまでの歴史などに大変詳しい。自分も一目置いているから、耳を傾けると、北から12の城を挙げる。

  弘前城(重要文化財)-青森県弘前市
  松本城(国宝)-長野県松本市
  丸岡城(重要文化財)-福井県坂井市
  犬山城(国宝)-愛知県犬山市
  彦根城(国宝)-滋賀県彦根市
  姫路城(国宝・世界遺産)-兵庫県姫路市
  備中松山城(重要文化財)-岡山県高梁市
  松江城(重要文化財)-島根県松江市
  丸亀城(重要文化財)-香川県丸亀市
  松山城(重要文化財)-愛媛県松山市
  宇和島城(重要文化財)-愛媛県宇和島市
  高知城(重要文化財)-高知県高知市

これを周ってみたいというから、それなら自分と周ろうかと水を向ける。二泊三日の時間が取れて、手始めに、近回りを行くことにした。コースは犬山城 → 彦根城 → 丸岡城 → 松本城と回ってくる大まかな計画が出来た。あとは途中にどんな旅になるか、巡ってみてのお楽しみである。天気予報は梅雨の中休みの予報が出ているから、天候さえ持てば、どこも空いていて絶好の旅となるだろうと思った。

息子はこの4箇所のお城の中に、国宝が三つあり、もう一つ国宝になっているのは世界遺産の姫路城だけだという。それがこのコースの自慢であろう。

全国に城と名付けられているものが歴史上で25,000ヶ所あるという。敵の攻撃を防ぐための防御施設で、古代の城(き)、中世の領主の居館・山城・砦、環濠で囲まれた寺内町、さらには江戸末期の砲台まで含めた数である。現在はほとんどは城跡として場所が特定されたりされなかったりである。

城郭と呼ぶ最も城らしい城は戦国末期から江戸初期にいたる半世紀ほどの間に築かれたという。その数が3000ほど知られている。しかし徳川幕府の一国一城令で、170城に整理された。明治維新当時には、城郭180、陣屋などが130ほどあった。それも、明治新政府による廃城令で、3分の2の城が破却された。その後も戦争や火災で減り続け、現在昔の形を残す城は12城となってしまった。

息子は明治新政府の暴挙が無ければ、たくさんの城が残っていただろうと残念がる。自分も同感ではあるが、しかし、城は軍事施設であるから、戦争が終結すれば勝者から解体される運命を持っていたのであろう。

昭和から平成にかけて、天守閣を再建したお城が約30くらいある。昭和初期には、郡上八幡城(昭和8年再建)、伊賀上野城(昭和10年築造)が木造による再建だったが、その後、鉄筋コンクリート製でたくさんのお城が再建された。平成になって、掛川城(平成5年復元)、白石城(平成7年復元)、大洲城(平成16年復元)はいずれも木造による復元となっている。観光施設としてのお城の再建から、より本物志向の復元へと取り組み方が変わったことが知れる。

さて、明日から「息子と巡る“城”の旅」の記録を始めよう。 
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博物館と撮影禁止

(撮影禁止と言われる直前に撮った、     
東鎌塚原遺跡の珍しい六角形の住居跡)

先週土曜日、午前中、島田市博物館に出かけた。その前の週に金谷宿大学の「島田金谷の考古学と歴史」を受講し、その中で島田市博物館で「収蔵品に見る島田・金谷・川根地方の文化」という収蔵品展が行われていて、その日学んだ埋蔵文化財が展示されていると聞いたので見に行ったわけである。

展示物の説明の部分を後でしっかり読みたかったので、デジカメを撮っていたところ、「ここは撮影禁止です」と注意を受けた。「撮影禁止か」と恐れ入ろうとしたところ、「あの人たちは研究者だから特別に許可している」と弁解した。入ったときから作業服を来た3、4人の人たちが主に石器時代の展示品あたりにいて、デジカメで撮っていた。注意した青年もその人たちの案内で展示室にいたわけである。文句を言ったわけではないのに、先回りして言い訳をしたことに、持ち前の天邪鬼がむらむらと起き出した。

博物館などで撮影禁止とされているところは多い。社会主義国家でもあるまいし、目で見えるものを撮影禁止にするには、それなりの合理的な理由があるべきだと常々思っていた。この機会にいろいろと調べてみた。

かつて大英博物館やルーブル美術館を見学したとき、撮影禁止になっているところなど無かったと記憶している。ルーブル博物館では入り口で肩に下げていたバッグを預かると身振りで示され、そっくり渡すと貴重品は持って行けと言っているらしく、一緒に出したカメラは戻して寄越した。展示品の中には小物もあり、バッグに入れて持って行かれては困るから、手荷物を預かるというのだとは後で判った。この事実からもカメラの持ち込み及び撮影を禁止されたような覚えはない。

日本の博物館ではどうなっているのだろうと、東京国立博物館のホームページを見てみた。写真撮影について注意書きがあった。まず、平成館2階(多分薬師寺展)は撮影禁止と書かれている。それ以外も所蔵者の意向で撮影禁止の場合がある。撮影可能な展示室でもフラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できない。カメラは手で持って撮影する。シャッター音が出るときは他のお客様の迷惑とならないようにと、きめ細かい。つまりは撮影禁止は限定的にして、それ以外はマナーを守って写真撮影は自由とする発想が基本になっていると思った。

島田市博物館で撮影禁止にする理由が未だもって判らない。島田市内で発掘され、島田市博物館に収蔵されている文物の展示である。それを島田市民(納税者)に観てもらおうという特別展示ではないのか。「島田市博物館条例」もあるが、写真撮影禁止の根拠になるような条文は見当たらない。どの博物館も市民に開かれた博物館を目指している現在にあって、理由無き禁止はいかにもお役所的だと言われても仕方がないところであろう。ちなみに自分のデジカメはフラッシュを焚かなくても明るく写るし、シャッター音はほとんどしない。

百歩譲って、写真撮影禁止とするならば必ず図録(有料でよい)を用意しておいてほしい。

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明日より二泊三日の旅に出るため、書き込みが二日間休みになる。
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梅雨とアマガエルと

(裏の畑のキュウリの花)

今朝、雨は止んでいた。出勤の車を走らせていると国1日坂バイパスでフロントガラスに雨粒が付いてきたので、ワイパーを一回動かした。おっと、アマガエルがワイパーにくっ付いて視界を過ぎった。収まったワイパーにアマガエルの足が挟まって見える。もう一度ワイパーを動かしたら、アマガエルは思い切り跳び上がって視界から消えた。

家から10キロも離れたところまで旅をして、途中下車したアマガエルのこの後の運命や如何に? 後続の車に轢かれずに脇に逃げられたとして、彼(もしくは彼女)には全く新しい世界が待っている。宿敵のヘビも多かろうし、餌の虫もたくさんいるだろう。果たしてアマガエルの仲間がいるだろうか。

家に住み着いたアマガエルは出自がはっきりしている。家は造成した新しい土地の上に建てた。だから元々は地元のアマガエルがいたわけではない。入居してまだ何年も経たないうちに、息子がアマガエルのおたまじゃくしをたくさん取ってきて飼っていたことがある。おたまじゃくしはやがて足が出て手が出て尾が無くなりアマガエルになった。そしてアマガエルは我が家の玄関などに縄張りを決めて虫を取って暮らすようになった。故郷では夏の夜にヤモリが灯火のそばに張り付き虫をねらう姿を良く見たが、我が家のアマガエルはその代わりである。

冬は畑や庭のどこかで冬眠しているのであろう。春になるとまた出てくる。一時ニワトリを飼っていて、捕らえてその餌に鳥小屋の放り込んだこともある。モズの贄(にえ)になって庭のコブシの木に刺さっていたこともある。あれから20数年、あのアマガエルの子孫が今でも家の周りに住み着いている。雨が降り始める前には一斉に鳴き出す。あの小さな身体のどこからあんなに大きな声が出せるのか不思議なほどである。

今朝、10キロの旅をしたアマガエルは今どうしているであろうか。

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まーくんは昨日は一週間健診で産院へ行く。泣き騒ぐ赤ん坊の中で、一人すやすやとずっと寝ていたという。帰りは夫君の里へ寄って、半日の初めてのお出掛けであった。終始おとなしく寝ていて、娘と付き添った女房は助かったと話していた。

ところが、夜にむずかり出した。眠たいのに寝られないというような泣き方である。娘が子育て相談窓口に電話してみたが要領を得ない。夕方から鼻くそがつかえてぺこぺこしているのは見ていた。珍しく口を開けて息をしている。多分それが気になって母乳が飲みきれていないし、また寝られないのではないかと話した。しかし鼻の穴が小さくて細い綿棒を使っても取れない。

最後は娘が一晩付き合うと覚悟を述べた。翌朝、聞いてみるとあの後母乳を飲んで寝てくれて、夜中に一度目を覚ましただけで良く寝てくれたという。若夫婦と年寄り夫婦がただおたおたしただけで、最後は母親の決断で解決した事件であった。まーくんにしてみれば鼻がつかえ、口で息をするのは生まれて始めてのことで、泣いて訴えるしか方法はなかったのであろう。しかし、そんなに騒ぐことではないとまーくんも悟ったのであろう。

本日無事に両の鼻の穴の清掃が終わり貫通した。今日はスースーと鼻で気持良さそうに息をしている。
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母方祖母の最期の真実

(いただいたホタルブクロの花が咲いた)

20日の書き込みに、案の定さっそく間違いの指摘があった。しかも女房からである。自分の母方の祖母が「自分が生まれる前に、出産を控えた娘の家に手伝いに来ていて、出産を待たずに亡くなった」と書いた。

祖母が娘の家にやってきたのは出産の2ヶ月も前の話であったという。手伝いというには早過ぎる。来た本当の理由は全く違っていた。

祖母は病気でもう命も永くないと悟って、最後は自分の娘に面倒を見てもらって死にたいと思った。母の兄弟は、農家の跡取り息子の兄の下に3人の妹がいて、長女は遠い阪神地区の都会に嫁いでおり、三女はさらに山奥の農家に嫁いでいた。次女の母は男8人兄弟の末子の父と結婚して、この地方で最も大きい町に家を持った。だから母の所に来やすかった。加えて、祖母は父がお気に入りで「たねさん、たねさん」と呼んで頼りにしていた。「最期は娘の家で迎えたい」という願いを父も受け入れた。しかし、祖母が娘の看病を受けて過ごせたのはわずかな期間であった。

戦後、数ヶ月しか経たない時期に、死期を悟ったような重病人をどのようにして運んだのだろう。距離にして25kmは離れている。鉄道を使ったとしても、5km以上歩かねばならない。タクシーなど無かっただろうし、車すら無かったに違いない。リヤカーに乗せて行ったのであろうか。

言われてみれば、そんな話を自分も聞いたような気がする。でもどうして女房が知っているんだろう。両親は何度も静岡へ来てしばらく滞在していたが、女房はその折に茶飲み話としてそんな思い出を聞いたのだという。女房は自分さえ知らない昔の話をもっとたくさん聞いておりそうだ。

そこまで書いて、長兄がお袋の回想記をワープロで打った小冊子があったことを思い出した。題は「私の人生を省みて」 探し出してきて、祖母の話の部分を読んだ。

要約すると、5月に病気見舞いに行くと大変喜んで「たねさんの家へ連れて行ってくれ」と頼むので、自動車を頼んで連れてきた。母を見て祖母は「男の子が生まれるなあ」と言った。家に来てからは、母の兄や姉も来ているなかで、「たねさん、たねさん」と父だけに「一寸起こしておくれ」「お便所につれて行っておくれ」「水を飲ませておくれ」と頼んだ。そして一週間目に帰らぬ人となった。

実際に家に来たのは一ヶ月前で、家に居たのは一週間に過ぎなかった。当時も乗せて来る自動車は頼めばあったようだ。母に面倒を頼まなかったのは、臨月の母を気遣ってだったのだろう。しかし本当に父がお気に入りだったことは確かである。父も短い期間だったがよく世話をしたようだ。本人もそんなに早く亡くなるとは思っていなかったように思う。たぶんの孫の顔は見れると思っていたような気がする。この話はほぼ正しいのだろうと納得した。
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梅雨とガクアジサイと

(雨に濡れる庭のガクアジサイ)

朝から雨、いよいよ梅雨も本番で、昨日あたりから気合を入れて降り始めた。一日中暗くて、雨が断続的に強弱をくり返している。誰もが家の中で過ごすしかない日曜日である。この季節はアジサイの季節で、家の庭のガクアジサイの花も雨に打たれている。

日本原産のガクアジサイは一度ヨーロッパに渡り、品種改良されて西洋アジサイとして日本に逆輸入されてきた。多数の日本人がこれこそアジサイだと思っているのは、紫、青、赤、白と変幻自在に、玉状にびっしりと花が咲く西洋アジサイである。ガクアジサイは細かい花の周りを大きな花が額縁で縁取ったように咲く、あのアジサイである。

ヨーロッパ大陸はかつては植生も豊かな大陸だったが、古くから人の手が入り、牧畜や畑作でかつての植生を失ってしまった。そこで大航海時代以降、プラントハンターといわれる人たちが世界に冒険旅行に出かけて、有用な植物をたくさん採集して、ヨーロッパにもたらした。現在、ヨーロッパには世界から集まった植物が元からあった植物のように育っている。アジサイもそういった植物の一つであった。

自分の好みで言えば、ガクアジサイの方が日本の梅雨には合っているように思う。満艦飾は日本の梅雨には似合わない。

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今日はまーくんに会いに色々な人が来た。昨日から名古屋の上の娘夫婦が来ていた。昨夜は島田の夫君の実家に泊まって、今朝、夫君のお母さんとともにまーくんを見にきた。ビワのお土産もいただき、お祝いも頂いた。その折、ちょっとしたハプニングがあったのだが、それはまた別の話である。

午後には、まーくんの曾祖父(ひいおじいさん)が、同居している女房の弟夫婦とともにやって来た。この半年ばかりは、曾孫(ひまご)が出来るのを励みに頑張って来た。いま94歳になる。

生まれたと聞いてから、しきりに会いたがって、多いときには30分置きに電話を寄越した。今はまだ外出が出来ないから連れて行けないと話すと納得するのだが、たぶんすぐに電話をしたことを忘れてしまうのであろう。写真を大きくしたものを部屋の壁に貼ってあげて、ようやく電話も止んだ。まるでストーカーみたいだねと女房が話した。

雨の降りしきる中、女房の弟夫婦の介添えで、車に乗ってやってきた。今日はショートステイからの帰りだという。今はもう子供のようになっていて、歩くのも介助がないと覚束ない。曾祖父と曾孫は一緒に写真に写った。お話をしながら、曾祖父は感極まっておいおいと泣き出した。最近は涙もろくなってと弟の嫁さんがいう。悲しくて泣くのではない。初曾孫に会えて嬉しくて泣くのである。
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「古文書に親しむ」に出席

(金谷宿大学、河村泰子教授)

午後、金谷宿大学の「古文書に親しむ」という講座に出席した。毎月一回、年間10回の講座である。講習費用年4,000円を支払った。会社の先輩のMM氏がいて挨拶をした。講師は金谷在住の河村泰子氏。この講座では実際の古文書を皆んなで読み解いていくことを続けている。たくさんの人の目で見て行くと、判読できない文字が分かることもあるという。今年は新入生も入っていただいたが、特別に入門編というものもない。実戦の中で覚えて行くしかないようだ。

ただ、古文書を読み解く上での早見表の役割として、暦年表(年号と西暦の対照表)、変体仮名一覧表、返って読む字など(慣用漢字の読み方)の三つの表を頂いた。そして今日はウォーミングアップとして、漢字混じりの和歌4首と往来手形を教材として頂き、読み解きが始まった。とてもウォーミングアップどころの騒ぎではなく、いきなり難しいところへ飛び込んでしまった。

読み解いてもらった内容を復習の意味で書いておこう。

【和歌4首】
    けはひ坂といふ所にて
  遊女のけはひは坂の名となりてひとまつ風の声のみぞきく
    鎌倉にて
  かりそけて殿つくりする人もなし木草あれゆく鎌倉の里
    土肥椙山にて
  ほど遠く土肥の椙山過し世の面影みえて鳩の飛かふ
  うつぼ木も今はあとなくくちはてて名のみ残れる土肥の椙山


「けはひ坂」は、遊女虎御前の伝説にちなみ、東海道の大磯に実際にある坂である。「けはひ」は化粧のこと。「かりそけて」は刈り除いてという意味。「殿つくり」は御殿を造ること。「椙」は「杉」の異体字でスギのこと。

変体仮名がたくさん使われて判読を難しくしている。しかしそれをある程度覚えれば読む手がかりは出来そうである。

【往来手形】
    往来手形の一札
一 此の同行三人共に西国四国上方の神社仏閣参詣の為往来致し候 若し此の者共の内万一病死等仕り候はば御慈悲の為その所の御作法を以って御取置下さるべく候 念の為よって往来件(くだん)の如し
一 国々御関所相違無く御通し下さるべく候 さて又行き暮れの一宿も願い上げ奉り候 以上
  文化三寅春二月
     駿河丸子在有渡郡廣野村
       禅宗大徳寺
   御関所御番の衆中
    御寺院方丈様方
    所々御名主中


これが往来手形の一般的な形式らしい。書状の形の古文書は候文で語尾に「候(そうろう)」が付く。これは様々な形式で書かれ、簡略化が進み、点一つで候と読ます場合もあるから難しい。また漢文のように返って読む字がたくさん出てくるのでややこしい。ここでも、為(ため)、以(をもって)、可(べし)、被(らる)、如(ごとし)が出てきた。また「等」を「ホ」と省略して書いたりするから注意を要する。筆の文字で、かなり個性的に、言い方を変えればいいかげんに書いているため判読が難しい場合がある。

講義の一部分しかここには書けなかったが、第1回目で、こんなにも色々新しい知識を得た。参加者はお年寄りばかりだが、驚くほど真剣に取り組んでいた。
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生まれた時間と「Y」

(佐藤正午著「Y」)

実家の次兄から電話があった。自分の生まれた時間についての訂正である。6月17日の書込みで、伊勢の長兄の話として、午後4時近くだったらしいと書いた。それが正確には午後1時45分だということが判ったというのである。証拠が出たからこれほど確かなことはない。「出産祝いの到来もの控え」というような綴りが出てきた。半紙を束ねて紅白の水引で綴じて、親父が筆で書いたもので、出産祝いで頂いた金品が控えてある。自分が生まれたときのものは知らなかったが、何度か似たものを作っているのを見たことがある。そこにしっかりと生まれた時間が記載されていた。次兄は長兄の「4時近く」という記憶をこのブログで知って、自分の記憶では幼稚園から帰って間もなくだったと思ったから、わざわざ綴りを探して確認してくれたようだ。人の記憶はあまり当てにならない。証拠が出ては長兄も有無は言えないだろう。

ちなみに、まーくんの生まれた時間は公式表示で午後3時59分であった。実は出産に皆んな気をとられていて、時間を見ている人がいなかった。気付いたときはもう4時を何分か廻っていたという。だから、衆議の結果、たぶんその頃だったとして、その時間に落ち着いた。

初めて爺さんになったわけだが、自分は4人いるはずの祖父母を写真でしか知らない。最後に残っていた母方の祖母は、自分が生まれる前に、出産を控えた娘の家に手伝いに来ていて、出産を待たずに亡くなった。自分はその祖母の生まれ変わりだとも言われた。こんな話を書くと、また間違いの指摘があるかもしれない。何しろ自分の生まれる前のことだから。

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佐藤正午著「Y」という小説を読んだ。人生であの時ああしていたら、全く違った人生があったかもしれない。誰もそんなことを考えたことが一度はあるに違いない。この小説はそんな思いを持つ中年男性が、15年前にタイムスリップして人生をやり直すという話なのだが、やり直すということは直線に進む人生をY型に分けて別の道を進むことである。全く違う世界が開けるわけで、本人だけでなくその世界の住人たちにとっても、もう一つ別の世界が存在することになる。そんな風に話がややこしくなって進んで行く。

自分も山陰に生まれて、靜岡に来る確率は非常に低いものであった。一つ判断が違えば、自分だけでなく周りが全く違う世界になっただろう。当然、まーくんもいない訳で、そんな風に考えると現在あることが全く奇跡のように感じられる。そんな不思議な思いを味わわせてくれる小説であった。

自分の生まれた時間がもし4時近くであったら、まあ、世界はそんなに変わることはないか。
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熊本城、大工の遊び

(数奇屋丸二階櫓から飯田丸五階櫓方面を見る-かつては回廊状の櫓で歩いて通えた)

(昨日の続き)
修学旅行の高校生が騒がしい天守閣を降りて、宇土櫓に登った。自分は前回に見ているから同行者の案内役になる。宇土櫓の出口で、中が公開されている建物を係りのおじさんに尋ねた。観て来た以外に、数奇屋丸二階櫓と飯田丸五階櫓が公開されているという。

数奇屋丸二階櫓は前回見逃していた。案内板によると、二階には御広間や書院造の座敷があり、熊本城における文化的遊興の空間であったとされる。茶会・能・連歌の会などが催され、御広間もそのような用途に使われていたと考えられている。平成元年に、書院造の建物・城内の櫓・絵図等の資料を参考にして、残っていた礎石をそのまま使用し、柱等の主要材は九州山地から伐り出した栂を、梁には松、土台には栗を使って復元した。

南西の窓から飯田丸五階櫓に至る、石垣上に連なる建物土台が見えた。かつてはそこに回廊のように建物が連なり、それを通って飯田丸まで行けたのだと、係りのおじさんが説明する。話したくてしようがないようで、我々についてきて色々と説明してくれる。


(板敷に月とひょうたん)

出口に近い板敷は能舞台の一部としても使われていて、釘が一切使われていない。また、板敷の節が出ている部分は放って置けばすり足に引っかかるようになるため、職人さんが節を抜いて別の木を目立たないように埋めてある。係りのおじさんが指摘する部分を見ると、職人さんの遊びであろう、節の部分が、瓢箪や銀杏の葉や三日月の形に造形されて埋め込まれていた。昔そうであったという訳ではなく、単に大工さんの遊びであるという。


(梁にふくろうの彫刻)

大工さんの遊びといえば、前回も登った飯田丸五階櫓でガイドが説明をしていた梁のフクロウの彫刻も、やはり同じ様なものであろう。数奇屋丸二階櫓を見学したのち、飯田丸五階櫓に回ってしっかりと写真に撮ってきた。


(平櫓群-右から田子櫓、七間櫓、十四間櫓)

続いて、前回廻れなかった本丸東側の平櫓群を見て歩いた。南から田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓、少し間が空いて、東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓と続く。いずれも明治10年に天守閣が焼けたときに焼け残った江戸時代の建物で、これに宇土櫓、長塀を含めて国の重要文化財に指定されている。これらの平櫓は通常は武器・武具の倉庫として使われ、戦時には兵の駐屯地として使用された。不開門(開かずの門)は城の丑寅の方角にあり、不浄の門とされた。通常は閉じられて使われること無く、死人や不浄物の搬出時にだけ使用された。十八箇所あった櫓門で唯一焼け残ったものである。


(不開門)

熊本城見学に同行者とずいぶん沢山歩いた。最後に長塀を見て、熊本城を後にした。
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