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「徳川記 巻四」の解読 3

(裏の畑のボタンクサギ、6月27日撮影)

午前中、掛塚の磐田文書館のN先生から電話があり、掛塚の元廻船問屋の主人の日記を、吉田のT古書店から購入したと聞いた。コピーを提供した所、明治後期の掛塚の様子を知れる貴重な資料で、その日記の続きが掛塚に残っていたこともあって、合わせて明治後期から昭和の初めの掛塚の様子が分かる貴重な資料として、最終的には文書館で保管することになるという。コピーを提供したときに、いずれこんな結果になれば、紹介した意味があると考えていたが、思い描いた結果になって、良かったと思った。解読して、全貌を文書館で発表されるというから、今から楽しみである。

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「徳川記 巻四」の解読を続ける。

  竹千代殿(家康公)元服、付(つけた)り、大炊助討ち死
弘治二年(1556)正月十五日、竹千代殿、十五歳にて、義元の前にて御元服。一字を賜わり号す。
  徳川次郎三郎元信(後年、義元の妹聟、関口刑部少輔親永の女(むすめ)を嫁す。追って松平蔵人元康公と改めらる。)
四月、三州吉良(きら)義安、駿州に在(ま)す今川に降(くだ)る。薮田(舎弟)東条義照(昭)、西尾に在り。今川に反し織田に属し、また東條に移る。西尾の城には牛久保の牧野新次郎を呼び入れ、岡崎を襲わんとして、度々合戦に及ぶ。
※ 義照 ➜ 吉良義安の弟に義昭(よしあき)がいる。義昭の間違いと思われる。

(ここ)に、上野の城には酒井将監居(きょ)す。然るに富永に命じ、瀬戸河上、大河内これを攻める。ここに依って、中嶋の城主、松平大炊介、同主殿介、酒井援兵として、先立ちて主殿助、上野城に入る。大炊介は未だ中嶋を発せず。敵、これを聞き、未明に忍びて、中嶋に乱れ入る。大炊介、粉骨を砕き、防戦す。大炊介舎弟、松平十郎右衛門、同太郎左衛門、同久太夫、同新八郎、同孫十郎等、丗余人討ち死にす。義照(昭)、中嶋に兵を入れ置き、上野の囲みを解いて、軍を引き取ると云々。(主殿介は長篠に於いて討死す。その子主殿介は慶長の比(頃)、伏見に於いて討死す。)
※ 粉骨を砕き(ふんこつをくだき)➜ 粉骨をさらに砕くことはできないから、矛盾の表現。「粉骨砕身」の意味であろう。

  東條合戦
同年(弘治二年、1556)の夏、荒川甲斐守(吉良族なり)義照(昭)と不和に依り反逆して、岡崎に密通し、酒井雅樂助を荒川に引き入れ、却って西尾の城を囲い攻める。牧野新二郎、防戦すといえども協(かな)わず。城を開き奔(はし)る。牛久保、此(ここ)に於いて、雅樂介、西尾に移り、また東條に向い城を構え、小牧砦に本多豊後守を入れ、供国の砦に松平左近、加須塚砦に小笠原三九郎を入れ置き、荒川(甲斐守)(かい)となす。岡崎勢を以って、東條を囲む。
※ 魁(かい)➜ かしら。おさ。

(「徳川記 巻四」の解読つづく)

読書:「わるじい秘剣帖 4 ないないば」 風野真知雄 著
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「徳川記 巻四」の解読 2

(大代川のカモ飛び立つ、27日撮影)

散歩の途中、遠くから大代川のカモをカメラで覗いていたところ、何に驚いたのか、急に飛び立った。反射的に、シャッターを押した。ギリギリフレーム内に収まった。

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「徳川記 巻四」の解読を続ける。

  安祥合戦、付(つけた)り、広忠卿卒去(そつきょ)
天文十八年(1549)三月三日、織田備後守信秀死去。また、信孝(松平信孝)戦死。参州偏(ひとえ)に広忠卿に属す。然るといえども、岡、安祥両城、未だ屈せず。ここに依りて、義元、説斎雪斎和尚を軍将として、兵を差し向け、岡崎、安祥を攻められ、岡崎より、大久保新八郎、阿部太蔵、本多平八郎(後、肥後と号す)、三百余輩を率(ひき)い加わる。城主織田三郎五郎信広(後、大隅守と号す、信長卿兄)、岡の城を捨て、安祥に引き篭る。堅く矢石(しせき)を放ち防戦。これを聞き、尾州より援兵として、平手監物駈け来たり。説斎(雪斎)曰く、城をは駿兵切(せま)るべし。岡崎勢は援兵に向わらるべし、云々。
※ 織田信秀(おだのぶひで)➜ 戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。
※ 雪斎和尚(せっさいおしょう)➜ 太原崇孚(たいげんそうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶で今川家の家臣。
※ 矢石(しせき)➜ 矢と、弩(いしゆみ)の石。


これに依りて、岡崎勢、平手が陣へ夜討して、悉(ことごと)く打ち散らし、この競(きそ)いに乗り、駿参勢合(がっ)し、二、三の丸を攻め破り、これに於いて、神原藤兵衛、本多平八郎、武勇に励む。信広防ぐこと能わず。降(くだ)るを欲し、平手、和田に請う。速やかに囲いを解きて、軍を引かれるに於いては、竹千代殿を反(かえ)し渡すべし、云々。惣軍これに応じ、竹千代殿を迎え捕り、岡崎に皈(かえ)る。然るに、広忠卿、天野三郎兵衛を差し副(そ)え、駿府に送らる。義元憐(あわ)れみて、新たに居所(きょしょ)を構え、服部土佐守を付け置く。然る所に、広忠卿発病を。天文十八年三月六日に卒去(そつきょ)、御年廿四(慶長年中贈、従三位大納言)
  大樹寺殿贈悪相府應政道幹大居士
誠に義元の威光を以って、参州を固め、打ち従え、武威東海に振うといえども、拙(つたな)果報(かほう)、皆これを嘆く、云々。
※ 卒去(そっきょ)➜ 身分のある人が死ぬこと。
※ 果報(かほう)➜ よい運を授かって幸福なこと。また、そのさま。

(「徳川記 巻四」の解読つづく)

読書:「わるじい秘剣帖 3 しっこかい」 風野真知雄 著
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「徳川記 巻四」の解読 1

(白花のアガパンサス)

6月22日に載せた「ムラサキクンシラン」の白花のものである。白花のムラサキクンシランは矛盾しているので、ムラサキクンシランの別名、「アガパンサス」と呼ぶ。

今日より解読を始める「徳川記」は、原本では「得川記」となっている。「徳川」と記すことを憚ったのであろうか。いずれにしても「得川」ではややこしくなるので、ここではすべて「徳川」と表記するように、統一する。

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「徳川記 巻四」の解読を始める。

    徳川記 巻第四目録
  明大寺表合戦、付(つけた)り、信孝戦死
  安祥合戦、付り、広忠卿卒去
  竹千代殿(家康公)元服、付り、大炊助討ち死
  東條合戦
  元康卿初陣(ういじん)
  科野合戦、付り、一信夜討ち、並び竹千代殿(信康)御誕生
  元康卿大高兵粮入れ
  桶迫(おけはざま)合戦、付り、義元討ち死
  岡部開城、付り、水野討たる

 徳川記巻第四
  明大寺表合戦、付り、信孝戦死

天文十七年(1548)松平蔵人信孝、尾州負け軍(いくさ)を聞き、刀を失い、自分勢を以って、岡崎を攻め敗(やぶ)らんと欲す。四月十五日、五百余騎を帥(ひき)い、明大寺表に出張す。酒井雅樂介、石川安芸守、駆け向かい対陣す。大久保五郎左衛門、石川新九郎、射手(いて)七拾人選び、薮陰(やぶかげ)、小塚(こづか)に伏せ置く。信孝、明大寺に出で、兜(かぶと)山に到る。伏兵起き立ち、矢を放つ。敵、馬の足を立て兼ね、明大寺郷に入る。味方続き、追い懸け、相戦う。菅生川に切り抜け、またこれを追い、敵取って返し攻戦す。岡崎番兵ら二手に成り、駆け付け、前後より矢を放ち、信孝に中(あた)りて顛倒(てんとう)(転倒)す。残兵、刀を失い、悉く敗北す。これに於いて、信孝が首を取りて、広忠卿に献ず。広忠卿の曰く、この人、日来(にちらい)、我が命に背(そむ)かず。今度の不義、聊(いささ)かその心より起るべからず。嘆惜(たんせき)せらると云々。
※ 松平信孝(まつだいらのぶたか)➜ 戦国時代の武将。三河国松平氏六代当主・松平信忠の子。広忠の叔父。広忠の後見役であったが、後に、尾張の織田氏に寝返って山崎城に拠り、同じく織田方に寝返っていた上和田城の松平忠倫や上野城の酒井忠尚らと共に広忠と対峙した。
※ 刀を失う(かたなをうしなう)➜ 戦力を喪失する。
※ 日来(にちらい)➜ ふだん。ひごろ。
※ 嘆惜(たんせき)➜ なげき惜しむこと。

(「徳川記 巻四」の解読つづく)

読書:「月の満ち欠け」 佐藤正午 著
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「松平記 巻七」の解読 18

(散歩道のネムノキ)

今日で、「松平記」を読み終える。明日からは「徳川記」こちらは漢文まがいの文書で、やや手間取るかもしれない。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

その比(頃)、酒井とも、大久保とも、三良殿、不快にて御座候時分なりし間、信長御腹立て、かようの悪人にて家康の家を何として相続あらん。後には必ず家の大事とならんと、怒り給う。両人の者ども、ここにて申し分けを致し、何様にも陳尽(ちんじん)に及ぶならば、これほどの大事に及ぶまじきに、日頃三良殿と中(仲)悪しくて、両人ながら飽き果て(あきはて)、もっとも御意の通り、大悪逆(あくぎゃく)人にて御座候。御前の御恨みもっともなりと申し、家康も御腹立ち有り。然らば生害(しょうがい)の及ぶべきとのことにて、天正七年(1579)八月朔日、信長へこの由、仰せ上げられ、信長も内々御腹立ちのことなれば、如何様にも存分次第と御返事有りて、家康、岡崎へ御越し有り。三良殿を大浜へ出し申され、岡崎へは本多作左衛門移し給う。三良殿は当座の御勘気(かんき)と思し召しけるに、家康は西尾の城へ御座候て、三良殿をば遠州堀江へ移し奉り、同九月十五日、遠州二股にて生害し給う。
※ 陳尽(ちんじん)➜ 述べ尽すこと。
※ 飽き果てる(あきはてる)➜ すっかりいやになる。
※ 悪逆(あくぎゃく)➜ 人道に外れた、ひどい悪事・悪行。
※ 生害(しょうがい)➜ 自殺すること。自害。自刃。
※ 勘気(かんき)➜ 主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。


御母、築山殿も日頃の御悪逆(あくぎゃく)ありしとて、同じく生害に及ぶ。然るに、御介錯申したる岡本平左衛門、石河太良左衛門、皆な御罰あたり、或いはかったいに成り、或いは子孫皆な切られなどして、一人も素直(すなお)なるはなし。後に築山殿の怨霊とて恐ろしきこと限りなし。平左衛門子、岡本大八は、家康小性(小姓)なりしが、盗みをして機物にあがり、彼らが兄弟、女子までも築山殿の怨霊とて、色々不思議のことども有りて、皆な罰(ばつ)し殺し給うと聞こえし。
※ かったい ➜ 古く、ハンセン病を言った語。
※ 素直(すなお)➜ 物事が抵抗なくすんなりいくさま。また、平穏無事なさま。
※ 機物にあがる(はたものにあがる)➜ 磔になる。


右松平記全部七巻は、祖父政賢、延宝年間、伯父岡本次正家に行きて、豊府に在るの日、城主松平昭重(侯)(対馬守)の蔵本、謄写(とうしゃ)の所なり。爾来(じらい)、家蔵に伝えるものなり。(維(この)時、政賢廿二、三歳比(頃)なり)
  延享萬年四丁卯十月吉    嫡孫(ちゃくそん)   正光記焉 ㊞

  寛延四年辛未三月二十一日       谷丹四郎垣守
※ 豊府(ほうふ)➜ 大分市古国府。豊後国の国府にあったところ。
※ 松平昭重(まつだいらあきしげ)➜ 松平近陳(ちかのぶ)。江戸時代前期から中期にかけての大名。豊後国府内藩二代藩主。
※ 謄写(とうしゃ)➜ 書き写すこと。写し取ること。
※ 爾来(じらい)➜ それからのち。それ以来。
※ 嫡孫(ちゃくそん)➜ 嫡子とその正妻の間に生まれた男子。家督を継ぐ孫。
※ 谷丹四郎垣守(たにたんしろうかきもり)➜ 土佐南学派の祖である谷秦山の長子として、元禄十一(一六九八)年に、城下北部の秦泉寺村に生まれ、儒学や国学など幅広く学問を修めた。

(「松平記 巻七」の解読を終わる)

読書:「わるじい秘剣帖 2 ねんねしな」 風野真知雄 著
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「松平記 巻七」の解読 17

(散歩道のハンゲショウ)

夕方、女房と散歩に出る。途中でハンゲショウの花を見た。どれが花で、どれが葉っぱなのか。どくだみの仲間だという。北の空が真っ黒で、あの雲の下は夕立だと思った。また西の空も雲が出て、ここも間もなく雨が来ると、散歩を端折って帰宅した。間もなく雷鳴、ただ雨はお湿り程度しか降らなかった。

松平記の解読も明日で終わる。続いて「徳川記」を読もうと思う。これも一応、遠州に関する部分、元亀元年(1570年)家康が浜松に入るころから、天正10年(1582年)武田を倒して駿府へ入るまでとする。どこで読み終えるかは、読みながら考えることになる。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

その比(頃)、三良殿御前(ごぜん)(徳姫)、御子をもうけ給う。女子にて御座候間、三良殿も、築山殿も、さのみ御悦びなし。その後また御子出来、これまた女子にて御座候間、三良殿も、築山殿も御立腹有り。これに依りて、御前と三良殿と、御中(仲)、不和に成り給う。その時分、三良殿、物荒れ御振舞(ふるまい)、一方(ひとかた)ならず。さてまた、御母築山殿も、後にはめつけい(減敬?)と申す唐人の医師を近付けて、不行儀の由、沙汰有り。剰(あまつさ)え家康へ恨み有りて、甲州敵の方より、秘かに使いを越し、御内通有り。縁に付くべきとて、築山殿を後には迎え取り申すべきの由、風聞す。誠に不行儀、不大形、剰え御子の三良殿をもそゝのかし、逆心をすゝめ給わんと聞こえし。
※ 縁に付く(えんにつく)➜ つてを頼る。てづるを求める。
※ 不大形(ふおおぎょう)➜ おおげさでないこと。


家康よりも色々異見有りしを、用い給わず、後には御中(仲)悪しく成り給う。三良殿の御前(徳姫)、その比、三良殿御中悪しくおわしければ、この由、一書に成され、御父信長へ遣わさるゝ。先ず第一は御鷹野場にて出家を縛り殺し給うこと。また踊り悪しきとて、弓にて町の踊子を射給うこと。その外、荒い御振舞。家康と御不信のこと。人の申すより抜きて仰せ遣わさるゝ。御母儀の不行儀または甲州方より唐人を召し寄せ、御謀叛の沙汰有ること。色々細(こまか)に遊ばし、岐阜へ御越し有り。信長驚き給い、浜松へ御使有りて、酒井左衛門尉、大久保七郎衛門を呼びて、三良殿へ内々酒井を初めて皆々、家老衆、数度異見有りしかども、用い給わず。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)

読書:「わるじい秘剣帖 1 じいじだよ」 風野真知雄 著
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「松平記 巻七」の解読 16

(庭のデュランタ・タカラヅカ)

「二十四の瞳」をNHKラジオのらじるらじるの聞き逃しを利用して聴いた。本を読んだのは半世紀ほど昔で、随分新鮮に感じた。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

一 天正五年の比(頃)より、岡崎三良殿と御前(ごぜん)と御中(仲)不和に成り給う。この御前は信長の御女(むすめ)なり。その由来は、三良殿、ただ大方ならぬ荒人(あらびと)にて、武篇(ぶへん)はすぐれ給う事、父、家康にも劣(おと)り給わず。然れども、余りに荒人にて、仮にも慈悲と云う事を知らず。ある時、鷹野(たかの)に御出ありしに、一円(いちえん)、鳥を取り給わず。腹立て帰り給う。然るに、出家一人、道に行き逢い申す。或る人申すは、御狩場にて出家に逢い候えば、必ず殺生ならずと申す間、三良殿、かの出家を成敗有りとて、首に差し縄を付けて、馬の脇へ結び付け、馬を駆けに乗りて、引きずり殺し給う。
※ 御前(ごぜん)➜ 貴人や高位の人の敬称。また、その妻の敬称。ここでは信康の正室、徳姫。
※ 荒人(あらびと)➜ 野蛮な人。言動が荒っぽくて洗練されていない人。
※ 武篇(ぶへん)➜ 武道・武術に関する事柄。武事。
※ 鷹野(たかの)➜ 鷹狩り。
※ 一円(いちえん)➜ 少しも。まったく。
※ 差し縄(さしなわ)➜ 馬具の引き綱の一種。馬の頭から轡(くつわ)にかけてつけるもので、手綱に添えて用いる。


一 三郎殿御母儀は、関口刑部殿御女(むすめ)、今河家にて、家康御若輩の時分よりの本御台(みだい)なり。然るに、駿河に人質として久しく御座候間に、家康御妾(めかけ)あまた出来、御子たち多く御座候間、御台、三河へ御座候て後は、築山(つきやま)と申す処に置き申されて、内々御中(仲)、不和に成り給う。この御前(ごぜん)、常に仰せらるは、我こそ本の妻にて、三良殿御母なり。その上、我が父は家康のために命を失いし人なれば、方々(かたがた)我こそ賞翫(しょうがん)に預かりなんと思いしに、かく(すさ)られ、無念なるとて、常には色々恐ろしきこと仰せられて、御腹立て有りしとかや。
※ 御台(みだい)➜ 御台所の略。大臣・大将・将軍などの妻を敬っていう語。
※ 我が父(わがちち)➜ 築山御前の父は今川家の有力家臣、関口親永。娘婿である家康が、織田信長と同盟を結んだ事で、今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。
※ 賞翫(しょうがん)➜ 尊重すること。
※ 荒む(すさめる)➜ 嫌って遠ざける。うとんじる。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)

NHKラジオ、朗読:「二十四の瞳」 壺井栄 著(朗読 藤澤恵麻)
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「松平記 巻七」の解読 15

(散歩道のアジサイ その8)

日蝕の時もそうであったが、このごろ、何かに付けて、そういえば四国で見た、あったと、四国へんろの2度、合わせて100日近くの中の体験を思い出す。今後、気付いたら書き出してみよう。

今日の解読で、「佐橋甚五郎」のことが出てくるが、この男に付いては、森鴎外がその作品名も「佐橋甚五郎」と名付けた小説を書いている。ネットの青空文庫で読むことが出来るので、佐橋甚五郎興味を持たれる方は、読んで見られるとよい。(青空文庫「佐橋甚五郎」へとぶ)A4で四枚ほどの短編小説である。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

一 天正四年九月、岡崎三良殿、小姓佐橋甚五良、傍輩(ぼうばい)の、金熨斗(のし)付けの大小(刀)を盗み取り、欠落(かけおち)し、甲州方へ行きて、勝頼へ罷り出ず。この佐橋、甘利二良三良と云う若衆に恋暮(れんぼ)し、甘利と、同小山の加勢に来たり。また甘利が寝首を切り、かの甘利が刀を差し、己が刀をば置きて、家康へ甘利が首を持って参り候間、これをば、家康御存知なく、召し置かれし処に、三良殿、聞し召し、大いに悪(にく)み、序(つい)でもあらば、御成敗有るべくと思し召し候間、佐橋また欠落いたす。その後、三良殿御死去の後、家康へ何とぞ皈参(きさん)いたしたきとて、甲州若みこ(勝頼)御陣の時、水野藤十良手に付き、黒駒の競り合いに比類なき高名致し、隠れなき射手(いて)にて、敵を射払いしかども、終に御免(ゆる)しなく成敗なされけると聞こえし。
※ 傍輩(ほうばい)➜ 同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。
※ 熨斗(のし)➜ 紋所の名。熨斗鮑の形を図案化したもの。
※ 欠落(かけおち)➜ 戦国時代において、軍役、貢租の負担や戦禍から逃れるため、他領に流亡すること。
※ 恋暮(れんぼ)➜ 恋い慕うこと。
※ 皈参(きさん)➜ 帰参。
※ 射手(いて)➜ 弓をたくみに射る人。弓の名手。


一 天正五年五月、遠州今切へ、兵粮積みたる大船、武士あまた乗りて寄る。何方(いずかた)より来ける、風待ちて居たりしを、浜松衆劣るべきとて、小船五、六艘出し攻めらるゝ処に、この船に鉄炮あまた有りて、中々この方の船を寄せず。散々打ち立てて、船を漕ぎ出し走る。追い掛けて止めんと、追い行くとて、その日の物頭、寺嶋斧之丞と云う者、鉄炮に当り死する。かの大船は漕ぎ出して走り申し候。
※ 物頭(ものがしら)➜ 武家時代、弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)
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「松平記 巻七」の解読 14

(散歩道のノウゼンカズラ)

午後、女房と散歩。ノウゼンカズラの花があちこちに咲いていた。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

一 天正四年の春、家康、浜松より遠州乾の城主天野宮内左衛門を御攻め成られ候。城中よりも突いて出、競り合いを初め、味方の先陣を追い立て申し候。大原大助、大浜平左衛門討ち死に致し、鵜殿善六と申す者、敵に追い立てられ、引き兼ね候処を、大久保七良右衛門、同治右衛門、水野惣兵衛も引き返し、敵を追い込み候。それより鵜殿、ほうつきの指物出だし、追い立てられしとて、浜松にて逃げほうつきと申す。
※ 指物(さしもの)➜ 旗指物。戦国時代に戦場で用いられた小旗または飾物。具足の背の受筒に差し込み、所属や任務を示す目印とした。

一 その後、乾御働き、大久保七良右衛門一組、嶽山へ上り城中見下ろし、相戦い候間、天野宮内左衛門叶わず、城を明けて山中へ引き篭り候。

一 去年、天正四年中、三河、遠江に踊り流行(はや)り、中々冬までも止まらず。これは岡崎三良好き給う故なり。先年、駿河にて踊り流行り、氏真亡び給う、不吉なることなりと、諸人申し、岡崎三良殿、唯大方(おおかた)ならぬ荒人(あらびと)にて、悪しき踊りをば弓にて射殺し給う故に、随分踊りを結構(けっこう)に致す。その比(頃)、大浜より躍りを掛け申し候、その踊子の中に、太皷を打ちし童(わらわ)、十四、五ばかりに見えて、容顔美麗(ようがんびれい)なりしかば、三良殿呼びて、誰が子なると尋ね給う。大浜名主、長田平右衛門子なり。この平右衛門も(つわもの)なり。この子も、その比(頃)、かくれなき太皷の名人なりと申す。則ち、岡崎三良殿、召し仕(つか)わるべきとて、召し出さる。長田伝八とて、三良殿に出頭し、三良殿の後は、家康へ罷り出、天正十二年、長久手合戦の時、上田の大将池田正入(勝入)を討ち取る、無双(むそう)の高名したりし。永井右近太由(太夫)、これなり。
※ 大方ならぬ(おおかたならぬ)➜ 野蛮な人。言動が荒っぽくて洗練されていない人。
※ 荒人(あらびと)➜ 野蛮な人。言動が荒っぽくて洗練されていない人。
※ 結構(けっこう)➜ すぐれていて欠点がないさま。
※ 容顔美麗(ようがんびれい)➜ 容貌がすばらしく美しいこと。
※ 兵(つわもの)➜ 勇ましく強い武人。勇敢な軍人。勇士。猛者(もさ)。
※ 池田正入 ➜ 池田恒興(信輝 入道勝入)のこと。
※ 無双(むそう)➜ 二つとないこと。並ぶものがないほどすぐれていること。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)

読書:「武士の流儀 3」 稲葉稔 著
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「松平記 巻七」の解読 13

(庭のムラサキクンシラン)

梅雨真っ最中、庭にムラサキクンシランが咲き出した。よく見ると花に雨粒がいっぱい付いている。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

一 遠山城、今度食物に疲れ、色々の道具をひそかに送り、近郷にて塩噌(えんそ)の類に換えける時、尾州刈屋小河の者ども、程近かりし程に、かの道具あまた買い取りし由、聞こえしかば、佐久間右衛門、内に水野下野守と中(仲)悪かりしかば、次而(ついで)(序で)よしと悦び、水野下野守、秋山と一味致し、食物を城中へ続き申したると讒言(ざんげん)しける間、信長大いに怒り、下野守方へ、この段いかにと御使あり。
※ 疲れる(つかれる)➜ 飢える。
※ 塩噌(えんそ)➜ 塩と味噌。日常の食べ物。
※ 次而(ついで)➜ 序で。あることを行う時、あわせて別のことを行う、よい機会。
※ 讒言(ざんげん)➜ 事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。


下野守驚き、この段々申し分けのため、家老一人登せらるゝ。この家老と信長の御使、道にて酒に呑み酔い、喧𠵅(けんか)いたし、互いに討ち果し死にけるが、下野守殿、弥(いよいよ)申し分ならず。佐久間父子しきりに讒言いたし候間、水野下野守を家康へ申し付け、同年十二月廿七日に切腹あり。無残の次第なり。

下野守には女子二人あり。下腹(かふく)に男子一人あり。去年生まれたりしを容人と云う。女房、才覚ある者にて、潜(ひそか)に隠し置き、我子と名付け、後に家康へ奉る。この子、器量(きりょう)有りし程に、成人の後、家康外様の侍、土井と云う者に養子として、今の土井甚三良これなり。
※ 下腹(かふく)➜ 正妻以外の女から生まれること。また、その人。妾腹。
※ 器量(きりょう)➜ ある事をするのにふさわしい能力や人徳。


一 下野守跡をば、佐久間申し受け、知行しけるが、程なく報い、大欲心にふけり、刈屋の古侍水野右近以下追われ、その跡を皆なこれが蔵入(くらいり)にしなど、不作法ばかり致し、金銀を貯え、その後、大坂城の討手(うって)に下り、天王寺に数月対陣し、一度も勝利なくして、信長より改易(かいえき)せられける。因果の程こそ不思議なれ。さて天正八年の比(ころ)、佐久間改易の後、下野守弟、家康の所に御座候、水野惣兵衛を呼び出し、小河刈屋一跡を給わる。これは遥か後の事なれども、これに書く。
※ 蔵入(くらいり)➜ 蔵入地。戦国・江戸時代、領主の直轄地のこと。
※ 改易(かいえき)➜ 中世、罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。
※ 一跡(いっせき)➜ 後継者に譲るすべてのもの。跡目一式。全財産。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)
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「松平記 巻七」の解読 12

(散歩道のアジサイ その7、6月14日撮影)

夕方、今日の日暮れは早いなあ、と曇り空を眺めていた。夕方のニュースで日蝕を知る。夕食後、雨戸を閉めに出ると、夕焼けで雲が赤かった。まさに今、西の空から晴れて、日蝕後の太陽が沈もうとしていた。

そういえば、お遍路の松山の朝、日蝕に出会ったことを思い出した。

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「松平記 巻七」の解読を続ける。

一 同年六月、二股の城主芦田、同心(どうしん)被官(ひかん)、随分の者あまた有り、度々大久保衆と競り合いこれ有り。然れども終に叶わず。同年冬に二股の城を大久保七良右衛門に渡し、芦田は甲州へ皈(かえ)るなり。則ち、阿倍四良五郎と大久保七良右衛門、城代に成りて篭(こも)るなり。
※ 同心(どうしん)➜ 戦国・安土桃山時代、侍大将などに率いられる下級の兵卒。
※ 被官(ひかん)➜ 中世,守護大名や戦国大名に仕える武士で給分をもらう下級武士をいう。


一 家康は小山の城へ御馬を寄らるゝ。その後、御馬入り。

一 美濃国遠山城に、秋山伯耆守、座光寺と云う信濃侍大将にて、二千余騎備え篭る。織田城助殿大将にて押し寄せ、数月合戦あり。然る間に、勝頼後詰(ごづめ)として、信州伊奈まで出でけれども、長篠にて能き侍、あまた討たれ、中々(なかなか)信長に落ちて、後詰叶わず。その間、城中兵粮尽き、数月に及ぶ間、鎧、馬具、刀、脇指まで、忍々(しのびしのび)に出し、近郷にて食物に替え候て続けしかども、後詰引き返したる由、聞きて叶わず、三大将ども城之助殿へ降参す。則ち、城を受け取り、信長へ進上申されけるに、信長大いに悦び、三人を機物(はたもの)に懸け給う。これは奥平九八良が内義(内儀)を、甲州にて機物にせられし返し事と聞こえし。秋山が妻は岩村(この間、損ず)後家にて、信長の叔母なれども子なくして、信長の末子(ばっし)御坊と申すを申し受け、養子にしてありしを、秋山、妻にして、かの子をも甲州へやりし故に、かの妻をも信長殺し給う道理なり。
※ 織田城助(おだじょうのすけ)➜ 信長長男、織田信忠。
※ 中々(なかなか)➜ 思っていた以上に。かなり。ずいぶん。
※ 忍々(しのびしのび)➜ 他人に知られないようにこっそりと何かをする。
※ 機物に懸ける(はたものにかける)➜ 磔にする。
※ 返し事(かえしごと)➜ しかえし。

(「松平記 巻七」の解読、つづく)

読書:「母子剣法 剣客春秋親子草 2」 鳥羽亮 著
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