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勝草焼を探して、不動峡に至る

(勝草橋)

昨日の文学講座で勝草焼の話が出た。なんとしても食べてみたいと思った。お店の名前も場所も判らない。藤枝市をヒントに、ネットで調べたが手掛かり無しである。たしか旧東海道の勝草橋のそばだと、講師の話を女房が聞き覚えていた。地図で調べると、旧藤枝宿の南西の外れで、旧東海道は瀬戸ノ谷川を渡るが、そこに架かった橋が勝草橋と呼ばれている。俄然ファイトが沸いてきた。ついでに不動峡の紅葉も見て来ようと、女房と出かけた。

昨日までとはうって変わって、妙に暖かい。車でセーターを1枚脱いだ。勝草焼のお店は、勝草橋の周りを探したが、結局、見つけることは出来なかった。女房が地元の人に聞いてみたが知らないという。一軒、老夫婦で営んでいた和菓子屋さんがあったけれども、おばあさんが亡くなってから仕事をしていないという。講師から聞いた、夫婦で旅行に行ってあいにく休みだったという情報とは一致しない。

やがて探索を諦めた。地元の話と講師の話、食い違いを埋めるストーリーが出来ないわけではないが止めておこう。女房は、去年だったか、同じ文学講座で勝草焼を頂いたような記憶があるという。自分には全くない。こと食べ物に関しての記憶力では女房にはかなわない。帰宅後、「かさぶた日録」で過去の文学講座の書き込みを読み返してみたが、和菓子の記録を毎回取っているわけではなく、勝草焼も見当たらなかった。

国1谷稲葉ICから北へ進んだ滝ノ谷に、不動峡という紅葉の名所がある。この2、3年、季節に通うけれども、紅葉祭りが済んでから思い立つわけで、ほとんど紅葉も終りかけであった。今年も先の日曜日に紅葉祭りがあった。お祭りの当日は、狭い峡谷に車を停める場所も無く、毎日が日曜日の我々が出かける所ではない。


(不動峡の紅葉)

今日は、お祭りの後で、近在農家が出しているお店もお休み。観光客も少なかった。それでも何組かの老夫婦が紅葉の下を散策したり、ベンチでお弁当を広げたりしていた。紅葉は早いような遅いような、ちょうど良い時期のような、もう一つ冴えないのは、秋の台風で葉がかなり傷んで、きれいな紅葉になれないようだ。帰りに立寄った農家の庭先に開くお店で、おしるこを頂きながら、そのように聞いた。

帰りは島田の蕎麦屋へ寄ったが、定休日で、そのまま帰宅し、乾麺の蕎麦を茹でていただいた。今は乾麺でも、中の上くらいの蕎麦が出来る。田舎の蕎麦で歯ごたえのない蕎麦に出くわすことがよくあるが、我が家で茹でた蕎麦の方が何ぼか増しである。
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平家物語の武将たち-島田図書館文学講座

(左から「とらとら焼」「旅まくら」「二人静」)

島田図書館文学講座も3週目、最終回のテーマは「『平家物語』に登場するさまざまな武将たち」である。講師の水島雅久氏は大の和菓子好きで、高校の教師時代から和菓子の同好会を作って、全国から和菓子を取り寄せて楽しんでいる。茶道も師範格なのだろう、お弟子を取っているという。聞いていると、銘菓といわれる和菓子には、それぞれに優雅な名前がついている。その謂れなどをたどって行くのが、堪らなく楽しいようで、和菓子の話になると次から次へと話が出て、止まらなくなってしまう。

さて、本日の和菓子は、テーマにちなんで、「勝ちいくさ」をもじった藤枝の勝ち草焼を準備しようと思ったが、和菓子屋の老夫婦が旅行に出ていて入手出来ずに断念。石川県小松市、松葉屋の「月よみ山路」を靜岡のデパートで求めようと出かけたが、量が足らず、これも断念した。「月よみ山路」は、良寛和尚の和歌、

    月よみの 光を待ちて 帰りませ 山路は 栗のいがの多きに

から、銘をとった栗蒸し羊羹である。夜道で栗のいがを踏むと、わらじの足を痛めると危ぶんで、月が出てから帰るようにと客を留めた歌である。そろそろ帰るという客人を、もう少し留めてお話しを続けたい良寛さんが気持がうかがえる。

こんなふうに講師の脱線は止むことを知らない。今日の和菓子「とらとら焼」「旅まくら」「二人静」の3種の和菓子に話が及ぶまでに、さらに脱線が続いた。

本題に戻って、源義経、木曽義仲、那須与一、宇治川先陣争いの梶原源太景季と佐々木四郎高綱、薩摩守忠度、能登守教経など、平家物語には多くの武将たちが出てくる。読み進めると、武将たちには二つのタイプがあることが分かる。武芸ばかりか、和歌にもすぐれた文武両道の武将と、それまでの王朝物語には見られない行動主義的な武将である。

従来タイプの武将として講師が取り上げたのは、都落ちをする薩摩守忠度で、歌の師匠の藤原俊成に、もし勅撰集が出るときには、自分の歌を一首なりとも加えて欲しいと、自分の歌を託した場面が紹介された。

行動主義的な武将の例としては、南都へ落ちていく高倉宮を追う平家側の武将たちと、高倉宮を守って迎え撃つ源氏側の武将と僧兵たちが、橋板の一分が外された宇治橋をはさんで戦う、「橋合戦」と呼ばれる戦いに出てくる武将たちのように、目の前の敵に理屈なく命を張って戦う武将たちが紹介された。これらの武将たちは、この後、鎌倉、室町、戦国と戦に明け暮れする武士の時代の到来を予見するものである。

3回の講座で聞いた話は、平家物語の中では、極々わずかな部分である。平家物語自体、語る琵琶法師たちが観客の反応を見ながら膨らませて行った、虚実入り混じった物語で、諸行無常とは言うけれども、一人の作者が意図をもって書き上げたものではなく、色々な思想が入り混じっている物語である。
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干し柿が出来た

(干し柿の出来映え)

今の季節、故郷で食べた干し柿が懐かしく、マーケットで探すが、自分が目指す黒くて中は柔らかく、甘い干し柿が見つからない。マーケットで売っているのは、市田柿とかあんぽ柿といった柿色そのままに仕上げたもので、けっこう値段が高い。これは自分の価値判断では、干し柿とは違うものである。この何年か、黒くて甘い干し柿を見つけることが出来なかった。一度、安くてそれらしいものを見つけて、意気揚々と買って帰ったが、家族のものに「中国製」であることを指摘され、誰も手を出すものが無く、一人で恐る恐る食べたことがあった。産直の店でも見かけないし、作っても流通に乗せることが難しいのだろうか。

こうなったら自分で作るしかないと、柿の生り年と聞いた今年、チャレンジした。最初に買ってきた細くて小さい渋柿は、陽に当て過ぎたのか、カチカチになって、そのままでは歯が立たない。冷蔵庫に入れてあるが、切って料理にでも入れるぐらいであろうか。シチュウなどに入れると面白い味に出来るかもしれない。後で2ヶ所から頂いた60個ほどの渋柿は、皮をむいて日向で干して良い色になり、今は密封できるビニール袋に入れて冷蔵庫に入っている。カビが出たものやら、下へ落ちてしまったものやら、途中で試食してしまったものやら、どんどん目減りして、今では20個ほどになってしまった。

自分で作ってみて判ったことがある。寒い風に当てることが必要で、温暖な靜岡で干し柿を作るのは無理なのかと考えていたが、そんなことはなく、十分美味しいものが出来る。散歩の途中で、干し柿をつるしているお宅が案外多いことに気付いた。日に干して渋が抜けるのが思ったより早いことも知った。ほんの数日で、もう甘くなっていると、試食をした女房が話していた。表面が乾いたと思っても、中が柔らかければ、冷蔵庫に入れておけばしっとり感が表面にも戻ってくるようだ。雨の日に家の中に入れて置いたら、幾つかにカビが出て、少しあわてた。そういう意味では寒いところがよいのだろう。

今回見よう見真似で作って、70点ほどの出来映えだった。色とか中の甘みとかは合格点だが、出来れば表面に糖分の白い粉をふかせたい。来年以降の研究課題である。

農家に行けば昔は渋柿の木がたくさんあった。柿渋は防水、防腐の効果があって、色々と使い道が多く、どの農家でも柿渋を作り、領主へ年貢の一部として上納したという記録も残っている。今でも渋柿の木はたくさん見られ、秋にたわわのまま放置されている渋柿を見る。取ってくればこんなに簡単に干し柿が出来るのだから、無駄にしないようにしたい。家にも渋柿を1本植えようかとも思うが、実が生るまでに8年も掛かるのでは躊躇する。
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山口源の作品について - 島田博物館講座


(「能役者」の木片と作品)

第6回島田博物館講座に午後出席した。毎日が日曜日となった今月は、合わせて12日、講座や講演会があり、今日までに11日を済ます勘定になった。それぞれは2時間程度であるが、靜岡まで足を伸ばす場合もあり、古文書講座では予習、復習もしなければならず、思いの外忙しい一ヶ月であった。

今月2度目の博物館講座は、島田市博物館分館で開催されている企画展「山口源の世界」に合わせた講座である。講師は静岡県立美術館の上席学芸員の泰井良氏である。

浮世絵版画という伝統を持つ、日本の版画であるが、明治になって印刷技術が導入されると、急速に衰退した。1904年(明治37)、山本鼎が「漁夫」という作品を雑誌に発表して、自画・自刻・自摺の創作版画として、その技法も雑誌に連載、創作版画という芸術表現が広まった。版画雑誌もたくさん出版され、中でも静岡県では創作版画の先駆者が多い。1911年(明治44)には白樺が主催する西洋版画展が催され、展示品は複製版画が多かったものの、版画がブームになった。

その後下火になったりしたけれども、戦後になって、日本人版画家たちが、国際版画展に積極的に参加するようになって、浮世絵と結びついた日本の版画家は、海外で高い評価を得た。版画に対する国際的な賞を受賞する版画家も多く出るようになった。棟方志功、長谷川潔、駒井哲郎、池田万寿夫などとともに、山口源も国際版画展で大賞を受賞した。

山口源は1896年(明治29)富士市に生まれ、1914年(大正10)精神修養道場「一燈園」で生活、版画家恩地孝四郎と出会い、版画の道に進んだ。1958年(昭和33)、第5回ルガノ国際版画ビエンナーレ展で「能役者」が、日本人初のグランプリを受賞した。1976年(昭和51)年、沼津市で死去した。

恩地孝四郎が始めたマルチブロック(物体版画)という手法を発展させて、作品に仕上げた。版木の代わりに、木片や落ち葉、ひもなどを使って独特の作品を作り上げている。木目や葉脈などがそのまま作品に生かされて、当時としては斬新な版画作品であった。

講義のあと、場所を分館に移して、山口源の作品を鑑賞した。晩年沼津に住んだらしく、アジの開きの干物を版木代わりに使った作品などは笑ってしまった。「能役者」のモチーフは海岸で拾った木片の木目が能役者の横顔に見えたことによる。山口源の言葉を借りると、

民族の必然的露出、特定のモデルはない。私の私だけのイメージにすぎません。イメージが作家の側に発酵しつつあるとも、その外部の世界に“材料”を発見し、その両者の交合によって作品が結晶していく。

山口源の作品を鑑賞するのは初めてのはずであったが、作品の色使いなどに既視感があった。展示品の中に、松本清張や井上靖の新書版の本が数点並んでいた。本のカバーデザインを手掛けたこともあったようだ。なるほど既視感はこれであったかと納得した。
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平家物語の女性たち-島田図書館文学講座

(お菓子は松山のタルトと京都のユーモチ-
ユズ味つながりだという)

しばらく前だが、火曜日午後、島田図書館文学講座の第2回に女房と出かけた。今日の演題は「平家物語の女性たち」である。平家物語では男性が活躍する部分と、女性がメインの部分では、文体が違うという。男性が活躍する、特に戦の場面などは、七五調でたたみかけるようにトントンと語る漢文調だけれども、女性が活躍する愛憎の場面では、優雅に情感豊かな和文調で描かれているという。今日は和文調の文体で描かれた部分が主になる。

学生時代に、3日ほど掛けてトルストイの「戦争と平和」を集中して読んだことを思い出す。「戦争と平和」も戦争の場面と平和の部分が交互に出てきて、翻訳文だからよくは判らないが、おそらく両者は文体も違っていたのだろうと思う。後半になると読むほうも疲れてきて、地名の知識がないから戦争場面はよく理解が出来ずに、飛ばし読みして、平和の部分をしっかりと読んだような記憶がある。

平家物語も、おそらく似ているのだろうと思った。講師が取り上げたのは、清盛に寵愛された白拍子「祇王」や「仏御前」、高倉上皇に愛された「小督局」、重衡を慰めた「千手の前」、滝口入道の恋人「横笛」、孫の安徳天皇を抱いて壇の浦に散った「二位の尼」、安徳天皇の母「建礼門院」などである。

一人一人について描かれている原文と訳文を交えながら読み進めて行った。彼女らに多い境遇としては、それほど身分が高くないけれども、栄華の絶頂に至り、やがて転落していく。まさに女性の生涯においても、諸行無常であり、盛者必衰を表わしているのであろう。その多くが出家しているのも象徴的である。

運命に流されていくだけの弱い女性が多数を占める中で、清盛の妻時子の「二位の尼」に見る、きっぱりとした言動と意思的な姿が印象的である。

講師は第1回で平清盛を語り、第2回では清盛の妻「二位の尼」を語りたかったのだろうと思った。清盛が物語の始まりを飾るとすれば、一族の終焉を飾るのが「二位の尼」と言いたいのであろう。ちなみに、「二位の尼」の最期は、孫の安徳天皇を抱いて、「浪のしたにも都のさぶらうぞ」と言い、壇の浦に入水する。

平家物語は、注釈つきの原文の本も、現代語訳の本も蔵書しているが、実はまだ読んでいない。吉川英治の新・平家物語も読もうとしたことはあるが、これも最初の部分だけしか読んでいない。これを機会に読んでみようかと思う。文の調子までも味わいたければ原文、筋を追いたければ現代語訳、新・平家物語はまた違う作品と思うべきなのだろう。
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古文書の扱われ方-駿河古文書会現地見学会

(今川氏親墓地方面から見下ろす増善寺)

(続き)
増善寺書院に上げてもらい、黒澤脩氏から色々話を聞く。本堂では法事があるらしく、読経の声が聞こえている。増善寺に保管している古文書は、現在研究のため駒澤大学に貸し出してあり、皆さんにお見せすることが出来ない。そんな断りを入れながら、長年市役所に勤め、文化財の管理などの仕事に携わってきた立場から、市役所の古文書に対する管理の仕方が余りに杜撰なことを嘆かれる。靜岡市は合併して大きくなり、歴史的な文書が今まで以上にたくさんになり、市の教育委員会に集ってくる。

相続で受け継いだ子孫は骨董的価値のあるものは処分して、お金に換えることが出来るが、古文書の類いは売れるものではないから、建物を潰す際に大方はゴミとして処分されるのが実情である。捨てるには忍びない、しかるべきところに寄附したいと思えば、最初に思いつくのが市の教育委員会であろう。そこへ寄附すればしっかりと保存されて、いつか研究者によって解読され、世の中の役に立つに違いない。寄附する人たちはそんな風に思い、御先祖さんも喜んでくれるだろうと安心する。

しかし実態はそんな風になっていないと黒澤氏は語る。明治の元勲の一人、井上馨は蒲原に別荘を持って居て、そこに大量の古文書があり、黒澤氏が現役の時に、子孫から靜岡市に寄贈されたという。明治の歴史を知る上で大変貴重な史料だと思われるが、聞いたところ、その古文書が現在どこにあるのか把握している人がいないという。首長が変わる度に機構改革があり、組織が変わり担当が変わって行く間に、大切な資料が転々として散逸していく。だから問い合わせると、現在その資料は所在がわからないという答えが返ってくる。

昔のつてを頼って確認していくと、どうやら埋蔵文化財の管理小屋に段ボールに積まれているらしいという。ただし、埋蔵文化財の担当に聞いても、自分たちは発掘された物は管理するが、それらは管理外だからわからないと答える。それを聞いて寄附した井上馨の子孫の方は、返還してもらって、井上馨の生まれ故郷の山口へ移した方がしっかり管理してくれるのではないかという。

蒲原の関係では、同じく別荘があった、西園寺公望関連の古文書もたくさんあって、黒澤氏が現役のころに目録を作り保管しておいたが、今、見せてもらうと散逸して目録どおりにない物がたくさんあったという。古文書会の人も古文書を見せてもらおうと依頼すると、市ではまずそんな古文書は無いという返事が帰って来る。管理が最も悪いのが市であると話す。黒澤氏は要は首長の意識一つで、どうにでもなる。一言、古文書の管理に言及するだけで、管理は改善すると話す。

歴史ある靜岡市で、貴重な古文書もたくさんある。ここは一つ、古文書館のようなものを整備して、しっかり管理し、後世へ残すようにすべきである。古文書が失われるということは、歴史を失うに等しい。そんな風に思った。


(増善寺の本「慈悲尾 増善寺への誘い」)

東海軒の幕の内の昼食後、本堂を見せてもらい、「慈悲尾 増善寺への誘い」という立派な本、2,800円を購入して、お寺を後にした。
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今川氏親の墓-駿河古文書会現地見学会

(今川氏親の墓)

(11月20日の続き)
バスの中で参加者の一人が、自分はどちらかというと家康の駿府よりも、今川支配の駿府の方が好きなのだと話した。古文書を読むような人は意外と今川好きの人が多いかもしれない。今川の中でも氏親は近年見直されて、研究が活発に行われている。氏親は守護大名から戦国大名として脱皮した最初の大名だと評価されている。氏親が最晩年に制定した「今川仮名目録」は、領国支配のあり方や検地などについて定めており、戦国大名として、領国支配の独立宣言であった。その後の戦国大名たちに手本となった。


(氏親歌碑)

氏親は文武両道にすぐれた武将であった。山門から入った右手に、今川氏親の歌碑があった。何と読むと聞かれて、碑面に刻まれた歌を読む声が聞かれない。紙に書かれた文字なら読めるはずなのに、石碑をいきなり読めと言われると言葉にならない。ベテラン会員からも声が出ない前に、説明があった。

  いかゞえむ 四十あまりの 年のをに とかぬ所の 法のまことを

辰応正寅禅師を崇敬して、和尚から禅理を学んでいた氏親は、家臣たちと駿府の館から馬に乗って、増善寺に座禅に通っていた。四十にもなっていまだに仏の教えの真髄が理解できないと悩む心を詠んでいる。

今川氏親の墓は本堂左手の斜面を少し登ったところにあった。戦国武将の習いで五輪塔の墓は小さく、江戸時代になって出来た墓と比べると見劣りがする。立派な墓を作ると、戦いに敗れたときに墓が暴かれて辱めを受ける。これを避けるために、目立たない形に作ったものである。江戸時代になって、世の中が安定し、墓は大きくなった。
(福知山城の石垣に墓石がたくさん使われており、破った敵方墓だと聞いたことを思い出した)

現在は、五輪塔の3基の墓石を、斜面の最上部の祠の中に移されている。この3基の内2基は氏親夫妻であることは知られるが、もう1基が誰の墓なのか不明である。一説には早世した息子氏輝のものだという。元の墓地には小さい五輪塔が印に置かれているだけであった。地下には埋められた副葬品などもあると思われるけれども、まだ手が付けられていない。

今川氏親の墓の手前下には、駿府初代城代の松平豊前守勝政の墓、駿府町奉行柘植平右衛門正俊の墓、駿府町奉行与力の力石荻之進の墓がある。松平豊前守勝政は、うしろだてを失って荒廃した増善寺に対して、寺社奉行と交渉し、寺領十二石を拝領するように奔走した。他の2家も増善寺とは深い関係にあった。

我々が説明を聞いている間に、掛川市の高天神城跡観光ボランティア団体がバスでやってきた。高天神城所縁の史跡を巡っているという。何人か、我々のグループに混じって説明を聞いていたが、そのうち一人が我々に紛れて、バスの出る時間になっても戻らないと、探しに来た添乗員に叱られていた。(続く)
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第4回ほほえみウォークに参加

(新東名の上を歩く)

第4回ほほえみウォークに参加した。新東名の大井川橋を歩いて渡る、最初で最後のチャンスで、是非とも参加して見たかった。来年開通してしまえば歩いて渡ることは叶わない。天気予報は、午前中は天気が持つが午後は雨になると報じていた。新東名の大井川橋を渡り、対岸を遡って水路橋を渡って戻ってくる、およそ9.6キロのウォークである。

集合場所の金谷北交流センターへ行くと、大変な人出であった。あとで知ったが、600人を越す参加者で、主催者の予想を遥かに上回るものであったという。新東名を歩けるというのが、参加者の琴線に響いたのであろうか。10時に先頭が出発した。

横岡インターチェンジから入ったが、ランプウェイではなくて、管理棟へ入る道のようで、料金所の内側へ通じている。料金所は建設中であった。上り車線が幅が30メートルもあろうか。3車線プラス緊急車両が通る部分が出来るらしい。舗装は仕上がっていると思ったが、聞けばこの上にさらに数センチの仕上げ舗装が乗るらしい。今は障害物が何もなくて、小型飛行機なら十分降りられそうなほど広い。その上を600人の参加者が帯になって自由に歩いている。


(防音壁を通して見る大井川 -
透けた山と映った山が重なる)

透明な防音壁が橋の上には無い。仮設の頼りない手すりがあったが、工事事務所の係員が付いていて、橋の端へより過ぎないように、手すりに手を掛けないようにと、注意を呼びかけていた。水面までは30メートルあるからと、危険を呼びかけている。参加者に子供も多いので、かなり気を使っている。高所恐怖症には関係の無い話である。

自分はお遍路の訓練を兼ねていたから、新東名を降りてから、スピードを上げた。前を行く人を次々に抜いて、先頭の小旗の直ぐ後ろまで追いついた。神座にある、島田市北部ふれあいセンターには先頭で着いて、混み合わない内にトイレを借りた。


(振る舞われた島田汁 - 食べかけで失礼)

そこで昼食となったが、何しろ600人の人である。駐車場にブルーシートを敷いてくれたが、とても間に合わない。島田汁という、豚汁から豚肉を抜いた、島田産の野菜がたっぷり入った味噌仕立ての汁が皆んなに振る舞われた。皆さんにたっぷりありますなどと言っていたが、次々にやってくる参加者が行列を作るうちに、途中で用意した分が終ってしまった。

小川の土手で、我が家製の握り飯を食べ終わり、遅れて着いた参加者に場所を譲った。ふれあいセンター内を見学したりしてみたが、時間を持て余す。子供連れのグループなどがまだまだ遅れて着く。あとでゲームなどをやるらしいが、天候も気になってきた。せっかちなグループが帰途につき始めた。そうなると次々に続くグループが出てきた。ここからの帰路はよく判っている道である。主催者側からも、特に足止めも無いようだったので、自分もその列に加わった。

水路橋を渡って出発点まで3.6キロ、早足で歩く訓練と思って歩き、次々に前を行く人を追い越して、交流センターへは先頭で到着した。雨が降り出したのは、家へ帰って1時間後くらいで、最後になった人たちは少し雨に降られたかもしれない。
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脾肝薬王圓用い法 - 古文書に親しむ

(脾肝薬王圓用い法)

先週土曜日の午後、「古文書に親しむ」講座に出席した。その日、解読した古文書の一つに「脾肝薬王圓用い法」という文書があった。薬の効能書き、あるいは使用法を書いたものである。これもれっきとした古文書である。この古文書にはすべての漢字に振り仮名が付いている。その振り仮名には変体仮名が多用されており、振り仮名の解読も勉強になる。また振り仮名が翻字のヒントになるから、解読が楽だと講師は言うけれども、この振り仮名がなかなか曲者で、現代の読み方のルールからすると、いい加減極まりない。ともあれ、読み下し文で示そう。

  脾肝薬王圓用い法
一 小児出生より五才までは、一日に一ずつ、好む品に随い何度にも用ゆべし
※ 貼(ふく)- 調合して包んだ薬などを数えるのに用いる。服。
一 小児六才より十才までは、一日に一貼半ずつ、三度に白湯にて用ゆべし
一 小児十一才より十五才までは、一日に二貼ずつ、四度に白湯にて用ゆべし
一 十六才より惣て大人は、一日に二貼ずつ、四度に白湯にて用ゆべし
 大人小児とも七日の内に心下をすべし、乳食をよく治め、小便をよく
 通ずを薬効と知るべし、また少しも効験なくば用ゆる事なかれ
右は凡そ用い方の大略にて、また病の軽重に継うべし、平安の節、養生の為に
用ゆるには心に任すべし、重病の節、用ゆるには一日に弐貼ずつというを三貼ずつも用ゆべし、一日に一貼ずつというを弐貼ずつも用ゆべし、大病にても何程多量に用ゆるとも、過量の害ある事なし、ただ軽量を緩に用いる節は、効くべき功も効きがたし、心得べし


振り仮名がいかにいい加減か、いくつか示してみよう。

  「出生」-「むまれて」、「うまれて」の意味だろう。
  「品」-「もの」
  「大人」-「たいしん」
  「心」-「むね」
  「乳食」-「ちちしょくもつ」
  「薬効」も「効験」-「ききめ」
  「大略」-「あらあら」
  「平安」-「つねづね」
  「節」-「とき」
  「過量」-「つよすぎる」
  「害」-「うれい」
  「軽量」-「すこしばかり」
  「緩」-「ゆるゆる」
  「功」-「やまい」

思うに、まだ漢字の読み方がしっかりと決められていない昔は、意味が通じればよいと、案外いい加減に読んでいた。おそらく人によって読み方は同じではなかったと思われる。古文書を読むときに、そういう前提で読まないと、誤読する可能性がある。読み方はどうであれ、意味が間違いなく伝わらないと文書の意味がない。普通の古文書には振り仮名が振られていない。たまにこういう文書を読むと、読み方について色々考えさせられる。
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浜御庭へ御成りの節勤め方 その6 - 駿河古文書会

(江戸城から浜御庭への順路)

朝から快晴で午後からは北風が吹いて、急速に寒さを感じるようになり、夜は石油ストーブを焚いた。先週の金曜日の駿河古文書会で解読した「浜御庭へ御成りの節勤め方」も、いよいよ江戸城への還御の道程となる。

一 昼時前、奥坊主衆を以って、根来内膳正申し越され候由、還御の節、御跡附けの岡持載せ候釣台、御先へ陰時計へ早く相回り候。先だっても懸け合いこれ有り候ところ、跡の御城の節は坂下御門より拮橋へ相回り候ゆえ、御跡に相成り、遅く相成り候、今日も右の通り候ては宜しからず候間、還御は坂下御門より拮橋に候えども、御跡付きの岡持は直ちに内桜田御門より入り、陰時計へ早く相回り候様、申し付くべき旨、申し越され候間、承知仕り候、相御供式部へも申し談じ、間違いなき様、申し付く旨、答え申し遣し候、且つ坊主衆、御奥之坊主衆に候やと承り候ところ、奥坊主衆の由、長栄と申し候由、申し聞け候、拙者名前承り候ゆえ、鳥居権之助と答え申し遣し候

行列の中で「岡持載せ候釣台」は行列に付いていくと坂下御門より拮橋へ遠回りするため、遅くなるので、行列より少し先へ出発して、近回りして内桜田門から入るようにするという連絡が来た。ここで「陰時計」と読める3文字の意味が理解できない。その場では保留になった。「少しばかり早く」出発するというような意味だとおもうが、古文書会でも読めない部分も時に出てくる。

一 早速、御徒目付小田切彦兵衛、武藤長左衛門を呼び候て申し付け候、もっとも式部殿へも申し通し候様にと申し付け候

一 昼時過ぎ、御徒目付林餘四郎参り、小桶躰のもの服紗(袱紗)に包み、西丸と札付け、平岡美濃守殿、根来内膳正、戸川藤十郎とこれ有る封状、只今西丸へ早々持遣させ候様にと申し出で候由、申し聞け候間、早々御使の者に申し付け差し出し候様申し渡し候、もっとも払い前に候わば、御返事浜へ早々持参候様、若し払い出し候わば、直ぐ御本丸へ持参致し候様との事に付、その趣も申し付け遣し候、もっとも式部殿へも右の趣申し達し候

一 昼頃、御酒、御肴、御賄いより廻り、頂戴致し候

一 七つ時頃 還御御色めきの由、御徒目付知らさせ候間、早速御庭口御門前へ罷り越し候、式部殿にも出でられ候、式部殿にも御庭御門際へ参られ、御駕籠の注進出でられ候て、拙者罷り出で候ところへ参られ候、通御の節、御目見え仕り、直ちに還御御供仕り候、もっとも式部殿御左の方、拙者義は御右の方に相立ち御供仕り候

(中略)

一 還御馬場先御門内、松平下総守屋敷前の辺より、御歩行遊ばされ候に付、御先留まり御駕籠据え候に付、参り懸りに下に居(い)、制し、おじぎ仕り、御歩行御供仕り候、馬場先御門内より坂下御門外までの内にて、御供弓の御番方御跡へ下げ申し候

(中略)

右御供相仕廻(しまい)、式部殿一同それぞれへ挨拶に及び、今朝の道筋、中之口まで、式部殿同道罷り越し、刀は直ちに部屋へ遣し、躑躅(つつじ)の間へ罷り越し候ところ、最早御供備前守殿御退出も、只今相済み候由に付、御目付部屋口にて式部殿へ逢い、今日の挨拶など申し述べ、最早御用もこれ無く候て、退出致すべきやと承り候ところ、勝手次第退出致し候様申され候間、則退出致し候


6回にわたる文書で、興味深く読んだのは大名行列の始まりと終り方である。近代の行列であれば、スタート時も終了時も一同が集って上から訓示があり、順序良くスタートして行くのであろうが、この時代はまずお殿様の御駕籠が出てきて、その様子を伝令が伝え、それに次々に随うように行列が出来ていく。終り方も同じように流れ解散的に行列が終っていく。上位下達ではなくて、行列の参加者が自分の役割を理解し、横の連絡を密に行いながら、役割をはたしていくわけである。だから、次回のためにこのような記録が必要となったものであろう。
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