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元公安調査庁長官の詐欺事件

(庭のウキツリボク-ブラジル産)

最近最も訳の判らない事件に、元公安調査庁長官が起した詐欺事件がある。最初はてっきり朝鮮総連中央本部の土地と建物がこのまま置くと差し押さえになるとために、登記上売却したことにして差し押さえ逃れを計った事件だと思っていた。事件が明らかになるとともに、元公安調査庁長官が詐欺事件の加害者になり、朝鮮総連側が被害者になってしまった。

事件の詳細は報道で詳しく報じられているから内容は省くが、どんなに詳しく説明を受けても、この事件は理解出来ないというのが実感である。ここでは少し切り口を変えて感想を述べてみたいと思う。

緒方元長官は、長い間検事を勤め、その後公安調査庁に移り、1993年に公安調査庁長官に就任。再び検察庁に戻って、仙台、広島各高検検事長を歴任して97年に退官している。ここまでは素晴らしい経歴の持ち主であった。そんな男がそれから10年経って、どうして今回のような事件に関わってしまったのだろう。

人間歳を取ると、視野がどんどん狭くなって大所高所から物が見れなくなる。発想が自己中心的になり、若い人に嫌われることにもなる。だからと言って普通の人はどうと言うことはないが、社会的に認められてきた人がそこに陥ると厄介なことになる。昔の人はその辺をよく理解して、隠居という制度があり、生臭い世界から早々と足を洗った。

歳を取ってまでも生臭い世界に身を置き、若いときなら広い視野で正しい判断ができていたのに、世の中が自分中心に動くと勘違いした結果、世の中から糾弾を受け、それまでの華々しい経歴をすべてぶち壊してしまう。そういう老人のニュースに幾度となく接する。その度に、人間引き際が如何に大切であるか痛感する。

この事件の緒方氏も今後名前を聞けば、「ああ、朝鮮総連の詐欺の欲ボケの爺さんか」と言われるであろう。それまでの輝かしい経歴は詐欺事件を際立てる背景に過ぎなくなる。

彼に正しい判断が出来なくなっていることを示す一つの報道があった。詐欺事件で逮捕される前に、緒方氏は東京地検に「売買契約を白紙にするので、捜査を中止してほしい」と要請していたというニュースがあった。かつて高検検事長だった時に、こんな要請を受ければ、かえって詐欺の容疑を強め、証拠の隠滅を計ろうとしていると判断して逮捕を早めることを指示したはずである。子供ではないのだから、ごめんなさいといえば勘弁してくれると思ったとすれば、それこそ正しい判断が出来なくなっている証拠である。
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九州でスコールに遭う

(雨で前が見えなくなる-宮崎自動車道のえびの高原手前)

先週、18日から20日の3日間で九州を一回りするという忙しい出張をした。梅雨に入っていてお天気は期待していなかったが、案の定、雨模様の天気が続いた。福岡の羽犬塚駅は駅舎が九州新幹線を通すための改装中であった。着いた直後、仮駅舎から迎えの車まで行けないほどの土砂降りになった。屋根の雨水が瀧のように流れ落ちて、その下を通るだけでびしょぬれになりそうで、しばらく待った。さしもの降りも小降りになって、車に乗れた。

次の日、宮崎から鹿児島に向かう高速道路の、えびの高原手前で豪雨になった。高速道路の制限速度の標識が一斉に50キロになった。どういう仕掛になっているのだろう。また、カーナビを見るとその地図上の高速道路の制限速度表示も50キロとなっていた。どこからか電波で情報を得ているのであろうが、からくりが理解出来ない。

雨がはげしくフロントガラスを打つ。あたりは暗くなって反対車線の車は皆ライトを点けてくる。スピードは無意識に50キロに落ちてくる。「この位降れば素っ裸になってシャボンを持って飛び出せば、シャワーの変わりになりそうだ。」そんな冗談が冗談に聞こえないほどの降りである。一頻り降って雨は嘘のように小降りになり、やがて止んだ。高速道路の制限速度は80キロに変わり、もちろんカーナビも80キロになった。九州の雨の降り方はまるで熱帯のスコールであった。これも地球温暖化の影響であろうか。


(北側から見る桜島-ポツンと噴火の煙が見え、この後大きく広がる)

鹿児島に近付いて空はすっかり上がり、桜島が見えた。北側からみると桜島は随分スリムに見えた。チャンスと車の中からデジカメで数枚撮った。後で見るとそのとき桜島は小噴火した直後て、煙がポツンと揚がり始めた様子が写っていた。次の日、地元の人が昨日の噴火の話をしていた。「最近の噴火は、南岳の火口ではなくて、この辺から噴火している」と後頭部を示した。

ネットで確かめると、「2006(平成18)年6月4日に南岳山頂火口とは異なる南岳東斜面の昭和火口で新たな噴火が始まった」とあった。たしかに、一年前から噴火の場所が変わったようだ。
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油山寺の失われた巨木

(油山寺天狗杉の根っ子)

このブログのカテゴリーの「滝・塔・巨木」、そのいずれも決して永遠に存在するものではない。滝も壁が壊れたり、流れの供給が断たれれば無くなる。塔は地震には強くても火事に遭えば一溜まりも無い。巨木に至っては、命あるもので、何千年生きてもいつか枯れ朽ちる。

油山寺にかつて天然記念物に指定を受けていた巨木が2本あった。三重塔の一段上の薬師本堂の左手に、かつて「天狗杉」と呼ばれた杉の巨木と、槙の巨木があった。ところが平成2年に台風による崖崩れが発生し、本堂左の崖が倒壊し、2本の巨木共、生きたまま谷底へ崩れ落ちてしまった。

10年前に巨木巡礼で知らずに油山寺を訪れた時、その報に接して、「巨木巡礼」に次のように書いた。

音信の途絶えていた知人にはるばる会いに来たら、すでに亡くなっていた、そんな気分であった。せめてかれらが生きていた場所をみようと、奥の院まで上がる。崩れた崖はかなり危ういところで、今はしっかり防災工事がされていた。出来れば事故になる前に措置がして欲しかったと思う。


2本の巨木の在りし日の樹様を書きとめて偲ぶことにしよう。

「天狗杉」 県指定天然記念物、樹種-スギ(すぎ科)、幹周囲-5.8m、樹高-23m。
「マキ」   市指定天然記念物、樹種-イヌマキ(まき科)、幹周囲-4m、樹高-20m。

今、「天狗杉」は方丈のある静山閣へ行く石段下、「天狗杉堂」の屋根下に、その巨大な根が保存展示されていた。「巨木巡礼」のとき賽銭のつもりか、根の割れ目に一円玉がびっしりと挿んであった。天狗杉がいかにも辛そうに見えたのであったが、現在は一円玉はすべて外されて、天狗杉も穏やかに見えた。


(マキノキの大念珠)

天狗杉と運命をともにした「マキ」は、枕状のソフトボール大の大念珠に加工されて、静山閣から続く回廊の鴨居に延々と掛けら保存されていた。「世界一の大念珠」と書かれていた。3年に一度8月に、この大念珠で大念珠祭が行われるという。
 
2本の巨木も命は終えたが、それぞれにの役割をもらい、現在も油山寺で生きていると思った。帰りに油山寺名物「ごりやくまんじゅう」という、あざとい饅頭を買って帰った。
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油山寺の三重塔

(油山寺の山門)

この日曜日、小雨模様であったが、朝、阿吽の呼吸で女房と出かけた。

ブログのカテゴリーの「巨木巡礼」を、先日「滝・塔・巨木」と変えた。「滝」に興味が及び、幾つか見に行ったから、カテゴリーの中に入れたかった。もう一つ「塔」を入れた。自然の滝、人工物の塔、生き物の巨木とカテゴリーの違うものであるが、いずれも人が見上げるもので、神霊の依代(よりしろ)になっているものが多いという共通点がある。

ところで「塔」であるが、神霊の依代としての塔だから、電波塔には興味がない。五重塔、三重塔などが対象になる。近回りにどんな塔があるか調べてみた。静岡県には東から富士宮の大石寺の五重塔、袋井の油山寺の三重塔、引佐の方広寺の三重塔の三基あることは分かった。意外と少ない。そこで、日曜日に小雨をついて一番近い油山寺の三重塔を見に行くことにした。

油山寺の山門はお寺の門としては少し変わっている。そのはずで明治になって掛川城の廃城に際して大手門を壊すことになったとき、譲り受けて移設したものである。現在、掛川城の大手門は再建されているが、再建にはこの門が何よりも参考になったことだろう。


(瑠璃の瀧)

参道の途中に滝行をするための小さな滝がある。「瑠璃の瀧」という。その名は御本尊の薬師瑠璃光如来に由来する。その滝水は油分を含んでいて、眼病の人がこの滝に打たれ、目を洗うと全治するといわれた。油山寺は目の病気の人のお参りで賑わった。油分と目の病気が結びつかないが、目の病に良いとされた水がホウ酸を含んでいたというのは良く聞く話で、ここの水もその類ではないかと思う。


(油山寺三重塔)

上り詰めた本堂の直下に重要文化財の「油山寺三重塔」があった。長命寺三重塔(滋賀県)、宝積寺三重塔(京都府)とともに、桃山時代の三名塔の一つに数えられている。「日本三××」と呼ばれるものが無数にあるが、三つの中の二つは全国的に有名なもの、残りの一つはオラが町の××となる。例えば、日本三大仏といえば「奈良の大仏」「鎌倉の大仏」とオラが町の大仏というわけだ。この油山寺三重塔がその類でなければよいが。

油山寺三重塔は天正二年(1574)に着工したが、二重まで進んで中断し、慶長十六年(1611)江戸時代になってようやく完成した。初層は約4m四方、塔高18.25m、相輪まで含めて23.88mと案内板にあった。
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孫権の故郷、龍門古鎮

(龍門古鎮の路地)

千島湖から杭州に戻る途中、富陽市の「龍門古鎮」に寄る。「鎮」は行政単位としては「村」のようなものだろう。龍門古鎮は三国志で、劉備、曹操と並び称される孫権の故郷と言われる。

高速道路を富陽で下りて、観光バスで10分ほど進めたところに龍門古鎮はあった。日本では古い町並みを重要伝統的建物群保存地区に指定して保存を図っている。龍門古鎮は、明や清の時代の建物群が保存されていて、差し詰め、中国版の「重要伝統的建物群保存地区」で、政府からも予算が出て、町並みの整備がされている。


(古い壁にクーラーの室外機)

入村料は35元、日本円で560円ぐらい、ガイドがまとめて払う。ゲートを入ってしまえば、中は人々が今も住む町である。川を渡った対岸の、町並み保存されている古い街は2平方キロメートルほどである。車も入れない細い道が無秩序に迷路のように付いていて、その両側を白い壁と「うだつ」のような袖壁が目立つ建物が塞いでいる。知らない人が入ると出て来れなくなるという。ただコツがあって、道の脇にはきれいな水が速い流れを作っている用水路がある。その流れる方向に沿って歩いていけば、迷路から抜けられると日本語ガイドは言う。そんな道だから、観光客には必ず地元の女性ガイドが一人付く。我々には真っ赤なジャージを来た女性が付いた。

この村の7000人の村民の内、90%が「孫」さんといい、孫権の80何代目かの子孫で、この女性ガイドも子孫の一人だと日本語ガイドが説明する。兵法の孫子や孫文もその一統だという。「それでは孫正義(ソフトバンク社長)もおそらく子孫だというんだろうね」と誰かが茶化す。


(バトミントンネット編みの内職)

道には卵を平べったくしたような河原石が敷き詰められて、さながら足裏健康路みたいだ。同じ石が壁や塀の材料にもなっている。煉瓦を焼いて積む工法以前の建築方法なのだろうか。道路なのか家の中なのか区別できないような道で、住民の生活の場の中まで入っていく。庭先でバトミントンのネットを編む内職があちこちで行われていた。ガイド無しではこんな中までとても入れなかっただろう。

孫文の辛亥革命があり、共産中国の人民公社や紅衛兵の破壊運動があったり、時代は揺れ動いても、どんな波風もこの街には入り込めなかったのではないかと思った。しかし、自由化の中国になって、一人っ子政策の子供たちはより快適な都会に出て行き、夕暮れの迫った路地に子供の声は激減して、龍門古鎮は急速に老人の街と化していくのだろう。
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千島湖の島巡り(後)

(蜜山島の蜜山禅寺)

千島湖の島々は水没するまではそれぞれが山の頂上だった。千島湖の深さは平均34mという。水深以上に高い部分が水没せずに残ったわけである。湖上を随分長い時間進んで、船上で魚中心の昼食を取りながら、三つの島を巡った。一つはお寺、一つは石切り場跡地、一つはロープウェイで登る展望台である。

最初に着いたのはお寺の島の「蜜山島」であった。お寺は「蜜山禅寺」といい、石段の上に屋根の反り返った弥勒殿があった。黄色い袈裟の僧侶から長い線香を受け取り、弥勒像に供えてひざを付いて礼拝するらしい。この弥勒像がまるで布袋さんのようで、礼拝は遠慮した。ここは何百年も前に開山した仏教寺院で、もちろん水没前からあった山寺だという。昔は下から登ってきたのであろうが、今は舟着き場からすぐにお寺に入る。石を敷いた参道の途中に「仏手」像があった。その手はぷっくりと太って、どう見ても糖尿系の手だねえと話す。本殿の「大雄寶殿」から右手へ進むと千島湖を見晴らす茶亭があって、お茶を商う老夫婦がいた。すぐ足元から茶園が斜面に広がり、ここで出来たお茶を出してくれるのであろう。


(天池)

二つ目は、かつて石切り場であった跡地を観光化とした「天池島」である。島の中央の石を切り出した跡が池になって「天池」と朱文字で書かれていた。池には観光客が購入して撒く餌で生きている鯉がたくさんいた。かつて、ここから切り出した石は、船で運ばれ、銭塘江で陸揚げされ、杭州の街に建築材料として供給されたという。


(「天下為公」の島々)

三つ目のロープウェイで登る展望台のある山であった。6人乗りの小さなゴンドラが三つずつセットで上り下りするロープウェイに乗る。展望台から直下に見える島々が湖面に描かれた文字に見えるとガイドから説明があった。そんな目で見ると、左に「公」の字が見え、右に「為」の字の中国の簡略体の文字が見える。「天下為公」という言葉は、近代中国の父と言われる孫文が、よく色紙などに書いた言葉である。島までも漢字に見立てる、漢字の国、中国の本領発揮である。この島々が孫文の思想を表現しているというわけである。それを見せるためにこの山にロープウェイで登ってきたわけである。

ちなみに、孫文は中国人は砂のようなもので握っても固まらない。「公」という粘土質に欠けていると歎いたのであった。まさに、これからオリンピック、万博と世界が注目するイベントを控えて、公衆道徳を植えつけるのに躍起になっている中国政府が同じ苛立ちの中にいるのではないかと思う。
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千島湖の島巡り(前)

(千島湖の遊覧船「可興号」)

千島湖のホテルに1泊した15日朝、雨が止んだ。会議は昨日終わり、今日は千島湖の観光に出る。少し早いが8時、ホテルチェックアウト。千島湖遊覧船乗り場へ行く。乗った遊覧船は「可興号」。我々ガイドも含めて10人のグループが乗り込んだが、遊覧船は出発する気配が無い。

20分ほど待たされて、女性と子供の20人位の中国人グループが乗ってきた。やっと出発かと思いきや、係の男がやって来て女性のグループと何やら揉めている。どうやら乗ってきた子供の一人が、子供料金かどうかで揉めているようだ。遊覧船の入口に「1.4」と「1.0」の高さに印が付けられている。その高さで料金が異なるのであろう。子供がその印に背を当てて主張している。係員と子供、女性の何人かが船を降りて行った。女性と子供がようやく戻ってきて出航するのにさらに20分掛かった。

この間、まったく遅延の説明は無かった。それどころか、この遊覧船の出発時間が果たして決まっていたかどうかも疑わしい。こんなことなら、ホテルでもう一時間ゆっくりして来ればよかった。

遊覧船が出ると船室内で女性と子供のグループの女性ガイドがハンドマイクのボリュームを最高にしてまくし立て始めた。千島湖の案内をしているのだろうが、何とうるさい言葉なのだろう。この狭い船室内ではこの声にマイクなどいらない。たまらずデッキに出た。空は晴れてきたが湖を渡る風は冷たく感じた。


(千島湖畔に建つ別荘)

千島湖に面して斜面を削って幾棟もの別荘が建設中であった。80種類もの魚が生息するという、今はまだ奇麗な千島湖の水質も、今後、悪化の一途をたどるのではないかと心配になった。


(トランプ「双扣」に興じる)

このやかましい船室の中で、独資会社の中国人スタッフたちは遊覧船に乗ってからずうっとトランプに興じている。トランプを二セット混ぜて使った「双扣(さんこう)」というトランプゲームで、中国で今流行しているのであろうか、若い人たちが4人そろうと延々と遊び興じている。他の場所でも、野外でもよく見かけた。彼らのゲームを見物している間に、どんなゲームだか、すっかり覚えてしまった。

さて、島巡りの観光に入る前に、悪口と愚痴で終ってしまった。続きは明日としよう。
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千島湖の「度假(リゾート)」

(千島湖のホテルからの風景)

独資会社の幹部会を千島湖のほとりのホテルで行った。

浙江省、杭州市の南西へ約150km、高速道路を2時間走った山中に千島湖がある。杭州の南側を流れる銭塘江を遡った上流に、38年前、新安江水力発電所建設のために造られた人造湖である。湖面に水没した山々の山頂が島となって、総面積が982平方キロに実に1078個の島がある。だから千島湖。貯水量は杭州西湖の実に三千倍という。この湖畔が現在さかんにリゾート開発されている。ホテル、別荘、リゾートマンション、どこかの国のいつかの時代を思わせる様相である。

千島湖のほとりには千島湖ビールの工場があった。日本語ガイドの説明によると、最近、キリンビールが千島湖ビールの株式の25%を取得し、資本参加したという。千島湖付近にいる間、ビールはずっと千島湖ビールであった。千島湖ビールは日本のビールよりも色がうすく、アルコール度数も低い。キリンビールの資本参加で千島湖ビールが変わるのであろうか。ただ中国人はビールの苦味はあまり好きでないらしい。

ホテルは杭州千島湖開元度假村という、この地唯一の五つ星のホテルである。「度假」は「リゾート」の意味である。敷地内にはホテルとともに一戸建ての別荘が立ち並び、そのすべてが完売だと聞いた。新しいホテルの部屋はゆったりとして、千島湖の風景が素晴らしく、バスタブは深くて、NHKのBSが出るし、今まで泊まったホテルで最も満足できるものであった。ホテル代もそれほど高いものではないと聞いた。

何年か前に中国人に連れられて千島湖に観光に来たことがある。その頃はまだ寂しげな舟着き場がポツンとあったぐらいで、それぞれ工夫を凝らした島々を遊覧船で周るのが唯一の観光だった。その何年か前、遊覧船が海賊に遭い、台湾からの観光客24名と乗員6名の全員が殺害され、船は放火されるという大事件が起こった。中国当局の対応が緩慢で報道管制を取ったことから、台湾との関係が悪化する事態に発展した。そんな話を後から聞き、ぞっとした記憶がある。
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中国式宴会事情

(嵐の前の中国宴会場)

下戸の自分にとって、中国に行って一番つらいのが夜の宴会である。

昼間の打ち合わせに参加したのは2、3人でも、夜の宴会となるとどういう連絡になっているのか、様々な人たちが集まってくる。中華料理は銘々に分かれていないから、何人来ても取り皿だけ増やせばいい。たちまち5人、10人と集まってくる。この人は誰々と紹介はされるが、自分たち日本人とどういう関係があるのだろうか。

「乾杯!」今夜もまた、多勢の中国人と少数の日本人の間で、お酒を巡って攻防が続く。この戦い、中国人の通訳も中国側だから手に負えない。ドクターストップだからとか、下戸だからとか理由を言っても、通訳してくれなければ伝わらない。結局、ジェスチャーで拒否するしかない。「ダメ!」などという日本語だけを覚えている。ひたすら断われば無理強いするわけではないが、少しでも飲めることを示すと集中砲火を浴びる。向かい側から「乾杯!」とグラスを円テーブルに打ちつける。

お互いに乾杯なのだからフィフティ、フィフティと思うが、彼らは30代~40代、日本人は50代~60代である。しかも良く見ていると、彼らはワインをたくみにミネラルウォーターで割っていて、ワインの色がやや薄い。要注意は女性が相手の場合である。ついつい男気でコップを空けてしまう。しかし中国の女性が男性より強い場合が時々ある。

2時から打ち合わせの昼食でも酒が進み、打ち合わせる状態でなくなり、急遽時間を4時に延ばすことになった。これには少しむっとした。この中国人、何を考えているのだ。

中国人は酔いつぶれるまで飲んでくれた相手には心を許すという。だから集中砲火で飲みつぶれてしまった者に対しては、ホテルの部屋までしっかり送ってくれる礼儀は忘れない。

しかし我々は日本人である。日本流で通そうと言っていた仲間が今夜も集中砲火にあえなく玉砕した。合掌。
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中国のお年寄の今

(水で字を書く老人-西湖のほとり)

中国杭州西湖のほとり、土曜日の朝、碁盤の目に仕切られたコンクリート面に、大筆にバケツの水を含ませて、文字を書いている老人がいた。碁盤の目、一コマ一コマに一文字ずつ書く。漢詩であろうか、右から左へ適時に行を移しながら、ひたすら書いている。それをすぐそばに寄って見物している人もいる。水で書いただけだから右の方から文字が乾き始めている。端まで書き終わったら、その頃にはすっかり乾いている初めに戻って書き続けるのであろう。賽の河原の石積みのようで空しい作業に思えるが、手慣れて字はどんどん上手になるのであろう。こんな姿は何年か前、上海の魯迅記念館のある魯迅公園でも見た。暇なお年寄りの時間つぶしの一つである。

独資会社の董事会に行く貸切バスの中で日本語ガイドの男性が中国のお年寄り事情を話してくれた。

中国ではお金を持っているのは若い人たちで、会社勤めなどでどんどんお金を稼いでいる。一方、お年寄りは60歳になったら、若い人たちの仕事を奪ってしまうので、たとえボランティアでも一切働いてはいけないことになっている。だから街で見かけるのは若者ばかり、お年寄りの姿を見ることはほとんどない。

もともとお年寄り達の若い時代は共産中国で、生活し子育てするのがぎりぎりで、将来のために蓄える余裕など全くなかった。お金を持っていた人たちも紅衛兵の時代に根こそぎにされている。現在は年金暮らしであるが、年金は生きていくのがやっとほどの額でしかない。街にお年寄りの姿は見ないけれど、お年寄りはどこへいるのかと若い人たちに聞けば家にいますと答えが返って来る。どこにも出るお金がなくて家にいてひたすら時間をつぶしているのである。

公園に行くとたくさんのお年寄りが時間を無為に過ごしているのを見る。太極拳や野外で麻雀やトランプなどに興じたり、冒頭の水文字を書く老人は高尚な方である。日本に多いウォーキングをする元気なお年寄りなど探してもいない。カルチャースクール、ドライブ、旅行、買い物など、日本のお年寄りがあちこちに出没しているのとは大きな違いである。

若者たちは現在をエンジョイするに忙しく、孔子の国でお年寄りを大事にする気風が感じられないのが不思議である。
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