goo

ブログとともに還暦の一年

(プリントした「かさぶた日録」半年分)

還暦の年も終わろうとしている。今年はブログ「かさぶた日録」と共に始まった。話題は幾らでもあるなどと豪語してはじめたのだが、途中何度か中断の危機もあった。書き込み回数346回、何とかここまで続けられたのは、ブログが公開されていて、読んでくれている人がいるという張りがあったからだと思う。今までパソコンで日記を書こうとしたことも何度かあり、何度も挫折しているのがその証明である。現在、毎日平均50人の人が「かさぶた日録」に訪れてくれている。

書き込み回数、345回に及び、個人的には色々なことがあった一年であった。ここに「かさぶた日録」的、我が家の5大ニュースを上げてみよう。

   1.還暦と「かさぶた日録」
   2.帰郷と「バルトの楽園」の旅
   3.マイリーフカップの商品化
   4.地震対策のため自宅リフォーム
   5.女房と日帰り温泉16湯、入湯

どんなことに興味を持って書込みしたかをみると、カテゴリーでは、ベスト4を挙げると、街道漫歩32回、お茶談義31回、山行記録25回、故郷礼讃23回である。

「街道漫歩」ではNHKの東海道、中山道のてくてく旅の放送もあり、中山道歩きにも一度行った。現在、気持は四国遍路へと飛んでいる。「お茶談義」ではマイリーフカップの話が大半であるが、ベニフウキやレンジ茶の話題もあった。「山行記録」では春から低山の山歩きを再開した。夏には夏山の思い出を何日か書いた。「故郷礼讃」では話題に困ると故郷の思い出話を数多く入れた。

その他にも、ネタが尽きると愛犬ムサシを何度も話題にした。このブログで唯一実名で出ているキャラである。意外な人から「ムサシ君は元気ですか」と声を掛けられる。「友人来信」が5回と最低であった。故郷から遠く離れて、仕事以外の友人との交流が少ないのは気になることである。新しい年にはこれを何とか増やしたい。

2年目に突入するが、あと3年を目標にブログを続けようと思う。その間に、我々の後に続いてリタイアを迎える団塊の世代に対して、定年後の生き方の一つの見本になればなどと、大それた事を考えている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

故郷からお餅が届いた

(今年も届いた故郷のお餅-すでに目減り!)

二日ほど前、故郷(くに)からお餅が届いた。親が丈夫な時代から毎年暮れに故郷から届くお餅は年末年始の楽しみであり、年中行事のようになっていた。次兄の時代になっても引継がれて、毎年送られてくる。

故郷でお餅といえば、切り餅のことをいう。丸餅は神仏へのお供え用につくるだけである。搗いたばかりのお餅を餅とり粉をたっぷり振りかけた枠付ののし板(故郷では何と言ったか、木製のしっかりしたものがあった)に載せる。枠一杯にお餅を伸し、5cm位の厚みにする。2日ほどおき、菜切り包丁で、幅8cm前後のなまこ状に切る。それを厚み1.5cmほどに切っていけば切り餅の出来上がりである。寸法は今現物を測った数字で、その辺はアバウトでよい。

静岡では最初に薄く1.5cmほどに伸ばしてしまい、あとはそれを方形に切って切り餅にする。最初見たときは広い面が凸凹で餅とり粉がいっぱい付いていて、変なお餅だと思った。

故郷のお餅は臼に杵で搗いた本物のお餅である。女房が故郷にお礼の電話をしたところ、今年は近くに所帯を持った娘婿たちが来てくれて、23日に餅つきをしたという。子供5人のうち4人が所帯を持ち、送らねばならないところも増えて大変なのに、送ってくれる次兄夫婦に感謝である。

写真で黒い粒々のあるものは黒豆で搗き上がったお餅に軽く混ぜるように搗きこんでつくる。焼いて醤油を付けて海苔を巻いて食べると最高にうまい。

故郷からのお餅はうちの子供たちにもお裾分けされて、黴の生える暇もなく、食されてしまうに違いない。正月前だというのにすでにかなり目減りしている。何とかお正月まではもたせねばと思っている。

うちの子供たちも、聞けばお餅は買わなければ食べられないという。来年からは餅つき機を買って餅を搗き、変り餅も作り、子供たちに分けるのも名案かもしれないと女房と話した。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

今年最後のお遍路本


今年の終りに、またお遍路の本を購入し、今朝読み終えた。
      「歩き遍路   辰濃和男 著  海竜社」
辰濃和男氏のお遍路の本としては、岩波新書の「四国遍路」に次ぐ2冊目の本である。

今年、お遍路本を何冊読んだだろうか。1月に過去に読んだ本として7冊の本を紹介した(1月30日書込)。そしてその後、
   2月16日書込 「ひょいと四国のお遍路へ」 吉田正孝 著
   3月6日書込 「四国お遍路旅物語」    金子正彦 著
   3月11日書込 「還暦お遍路旅日記」    尾上昭  著
   11月30日書込 「感動の四国遍路」     大坪忠義 著
の4冊の本を読んだ。「歩き遍路」は今年読んだ5冊目のお遍路の本である。

著者の辰濃和男氏は元朝日新聞の記者で、天声人語を13年にわたって担当した。「天声人語」といえば、大学入試に際して国語の問題に「天声人語」から出題されることが多いから読んでおくように言われたことがある。それほど模範的な日本語の文章が書かれていたのであろう。

辰濃和男氏は2003年から2005年にかけて、五回に分けて3周目の四国遍路を歩いている。過去に40代に1周目、60代に2周目、そして今度70代で3周目を歩いた。「歩き遍路」はその記録である。

辰濃氏の文章は気持に直接響いて心を振るわせる名文である。名文は高級料理に通じるところがあって、一級の素材を集めて来て、最高の技術で料理をすれば、まずい料理が出来るわけがない。

最高の料理を食べることで人は食通になる。若い頃、ある人に文章が上手くなりたければ、名文をたくさん読むことだと教えられた。当時、名文家として教えられたのは「小泉信三」であった。慶応義塾大学学長で経済学者、随筆家として多くの著作を残している。さっそく当時出版し始めた「小泉信三全集28巻」を買い揃えて少しは読んだ。文章が上手くなったかどうかは、このブログの読者の皆さんの知る所である。つまり食通必ずしも名料理人にはなれない。

「歩き遍路」を一気に読み終えた。著者が言いたいことがすんなり伝わってくる。心を打つところも多くあった。しかし読み終えて、お袋の料理や我流の男の料理が懐かしくなるのはどういうわけであろうか。「歩き遍路」の前に読んだ4冊のお遍路本は、文章のプロの書いた本ではない。文章も無骨で、喜怒哀楽の気持も露骨に出て、反省もない。そんな荒削りの文章に魅力を感じてしまうのはどういう訳か。

自分はいったい何のためにお遍路へ出たいのか。それを何時決行するのか。そんなことを書くつもりで始めたが、話がまたも横へずれてしまった。本題はいづれじっくりと書き込みたい。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

年賀状を出してきた

(今年の年賀状-来年のものではありません)

夕方、K園の忘年会に出かける途中に、島田の郵便局に寄って年賀状を出してきた。昔から年賀状のデザインには苦労して、年末が来ると憂鬱になっていた。10年位前から巨木を見て回ることを始めたのを機会に、観て回った巨木の中から一本を選び、年賀状の図柄にすることにした。1999年から始めて今日出してきた来年の分で9年、9回目になる。今はルンルンで、パソコンで「筆まめ」を使い、二、三日で100枚ほどの年賀状を仕上げてしまう。おかげで年末の憂いも無くなった。

これまでに扱った巨木を書き記してみると、
  1999年 静岡県 伊豆      「シラヌタの大杉」
  2000年 岐阜県 加子母     「加子母の杉」
  2001年 長野県 根羽村     「月瀬の大杉」
  2002年 岐阜県 白鳥町     「石徹白の浄安杉」
  2003年 徳島県 三加茂町    「加茂の大クス」
  2004年 岡山県 湯原町     「佐波良大杉」
  2005年 岐阜県 中山道 大湫宿 「神明神社の大杉」
  2006年 徳島県 つるぎ町一宇  「赤羽根大師のえのき」
  2007年 来年の分は1月1日に書き込む予定

巨木は樹齢が数百年から千年を越すものもある。長寿にも繋がり、縁起のいい題材だと思う。だから年賀状の題材としては悪くない。巨木は身の回りにたくさん存在するのに、気付く人が少ない。その画像を見せると雄大さに驚く人が多い。巨木の大きさを皆さんに実感してもらうために、必ず人を入れて撮ることにしている。そのほとんどは女房だが、物の大きさを示すために置くタバコの箱と同じで、人物が判別できる大きさには写していない。

写真は今年の年賀状である。ちょっとややこしいが、今日出してきた来年のものではなく、今年の1月に皆さんに送ったものである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

職場の忘年会


今年、会社の最終日、午後大掃除のあと、職場の忘年会を掛川グランドホテルの「さびすけ」で行った。無国籍料理、バイキング、飲み放題、時間制限1時間半、今風のシステムで、やや難は椅子席で狭く、10人の参加者のうち、お話できたのは隣と向いの3人ほどで少し残念であった。

向いのK君、隣のK嬢いずれも健啖家で脱帽であった。K嬢は両手に白ワインと赤ワインを持って、交互に飲み比べている。二人とも散々飲み食いした後、デザートをいくつも食べる。これはまた別腹だという。帰りの車で「ケンタンカとは何か」と質問があった。言葉の意味は「たくさん食べる人、大食らい」といってしまえば身も蓋もない。「健啖家」という言葉にはそんなに悪い意味は無い。むしろ気持良く物を食べ、見る人に爽快感を与えるような食べっぷりの人をいう(たぶん)。食べ放題、飲み放題の場には最も有利な人たちに囲まれて、ただただ唖然と眺めているばかりのぼくだった。

話がブログ「かさぶた日録」の話になった。K君、「もうじき一年になりますね。毎日続けるだけでも大変なのに、あれだけの量を書いて、しかも内容がまとまっている。」「そう、大変だよ、読むのさえ毎日続けるのは難しいのに、書くんだからね。」本当は他人の文を読むより、自分のことを書くほうが楽なんだがね。お褒めの言葉に調子に乗って「毎日800字を目標に書いてきたから、300日で400字詰原稿用紙600枚、長編小説一編の量ぐらいありそうだ。」「今日のことを書くんでしょうね。」「だれも傷つけないように書くと決めてきたから、イニシャルでね」「大晦日には一年の総まとめを書くことになるんでしょう。」言い当てられて、答えなかったが、実は大晦日の分は書きかけてある。

9時前には帰って来て、帰宅後に100枚余の年賀状を仕上げた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

座敷の地震対策

(座敷の地震対策)

当家のリフォームがダイニングキッチンから座敷の地震対策に移って10日ほど経つ。

当家の座敷は八畳と六畳の部屋で、人寄りするときは、ふすまを外せば一体で使えるようになっていて、その南側の縁側との間は二間と一間半の全面雪見障子がはまっていた。縁側の外側には全面ガラスのサッシが入り、冬など日光を燦々と受けて、日向ぼっこに絶好な縁側になっている。しかし、この南面に壁がない構造が地震対策上問題となった。元々座敷は平屋だったところ、数年前に二階を載せたため、余計問題を大きくしていた。しかも、夜はこの座敷に寝ているのだから、これを対策しないわけにはいかなかった。

この南側の雪見障子になっている面、それぞれ三分の一ほどを柱で区切り、筋交いを×状に入れて壁にしなければ、強度上の問題が解決しないと大工さんがいう。しかしそれではせっかくの明るい座敷が台無しになってしまう。何とか工夫を出来ないかと相談した。ここも台所と同じように、強度は筋交いで確保されているから、壁は必要条件ではないという。それならば壁を作らずに、×状の筋交いをそのまま見せて、内側に障子をはめて明るさを維持できないかと大工さんに提案した。筋交いの見える部分がおしゃれに見えるか、ぶしょったく見えるかはこれも見る人の感性に任せよう。

このままでは、障子は今までのものは使えなくなってしまう。それももったいないから、八畳間に六畳間の障子を移し、六畳間には八畳間の障子半分を使うというように入れ替えて、無駄の無いように工夫してもらった。

その結果、現場合わせで柱に少しずつノミを当てて合わせるような仕事で、まことに手間がかかることになってしまった。このままで正月までに出来るのかなぁ。最近、大工さんは少しづつ焦ってきた。

大工さんにはこんな風な地震対策工事はおそらく初めてなのだろう。写真を撮らせてもらって、今後お客さんに工事例として紹介したいと言っていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

50年前の朝日新聞

(昭和29年の朝日新聞)

土曜日、柳行李のガラクタを処理していて、50年前の朝日新聞を見つけた。お皿の緩衝材に使われていた、昭和29年3月4日の新聞で、自分の7歳のときの新聞である。スポーツ欄と文芸欄である。古い新聞を読むと面白い。その後どうなったかがわかっているから、まるで未来を知っているタイムトラベラーになったような気持である。

はじめに「エベレストに続くもの」という囲み記事が目に飛び込んだ。エベレストの初登頂は1953年5月29日にヒラリーとテンジンが、ネパール側からエベレスト登頂を果たしたのが最初といわれている。この新聞はその7ヵ月後で、そのエベレスト登頂のあとどの山がターゲットになるかという内容であった。

実は初登頂の29年前、1924年6月8日にマロリーとアーヴィンがチベット側からエベレストの頂上に向かった。しかし2人は戻らず、登頂をはたしたかどうかは不明のままであった。 遭難から75年後、1999年5月1日、「マロリー/アーヴィン調査遠征隊」により、マロリーの遺体が発見されている。遺体は白骨化せず、象牙のような肌であったという。こんな話は当時の新聞社も知る由もないことである。

新聞小説は大佛次郎の「その人」であった。大佛は(おさらぎ)と読む。大佛次郎はデビュー当時、鎌倉大仏の裏手に住んでいてペンネームを「大佛」とした。「鞍馬天狗」で流行作家となり、この後、「パリ燃ゆ」「ドレフュス事件」「天皇の世紀」などの作品を書き、1973年に亡くなった。

1967年、大佛次郎の「その人」などを原作として、NHKの大河ドラマ「三姉妹」が放映された。幕末の動乱から明治維新を迎えるまでを、旗本の三姉妹、おむら、おるい、お雪の視点から描いたものである。そんなことも当時の新聞社は知る由もない。

その他、100mの短距離世界記録が10秒2だったこと、プロ野球オープン戦で国鉄の金田が投げ、完封勝利をあげている。ラジオ番組では、午後4時40分から「尋ね人」、午後6時30分より「新諸国物語『紅孔雀』」、午後8時30分「君の名は」、子供の頃に聞いた記憶がある。文芸欄に、平野謙、荻原井泉水、長谷川如是閑、広津和郎が書いている。昔の新聞を見ると興味が尽きない。

昔の新聞を見ていると鼻がむずむずしてきた。埃っぽいから早く捨てよというシグナルである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

クリスマス電飾


今夜はクリスマスイブ、うちの家族には関係ないようなものだが、夕方、女房がクリスマス電飾を見に行こうという。気が進まないけれど、ブログの材料にはなりそうなので車で出かけた。女房はこのところ毎夕のように、ムサシの散歩のたびに見物していて、どこが見どころなのか心得ている。自宅を満艦飾にしているお宅が何軒かあり、順々に見て回る。年々買い足して行くので年を追ってにぎやかになるようだ。


クリスマス電飾も星空と一緒で、あたりに灯りが無いほど映える。住宅地で子供のいる家に多いようだ。車で電飾を見て回っている「クリスマス電飾ツアー」の車にも会う。車の窓に子供たちの顔があった。近くの老人ホームからお年寄が数人、付き添いが付いて電飾見物に来ていた。

こんな電飾が始まったのは、発光ダイオードが安く出回るようになってからである。発光ダイオードは豆電球より桁違いに省電力で明るい光を出す。しかも半永久的に電球が切れることが無い。クリスマス電飾に使われるようになり、一般家庭にも入ってきた。発光ダイオードでは出来ないとされた青色発光ダイオードが発明されて、電飾が一層にぎやかになった。この青色発光ダイオードは特に値段が高いのだという。

省電力だとはいっても、これだけ満艦飾にすると、電気使用量も馬鹿にならない。だから家の人は雨戸を閉めて暖房も切り、テレビも電気も消してひっそりしていると、まことしやかな噂が聞こえる。

先日、山芋会で豆電球製造会社を退職したAさん、車には40個ぐらいの電球が使われているが、発光ダイオードに変わってしまわないのは、豆電球のほうが桁違いに安いからで、日本製の豆電球は車が潰れるまで切れることが無いほど性能がいいから、海外との競争にも勝てると話す。また発光ダイオードの開発時期に、海外に出ていて、技術的に抜けてしまったのが今でも残念だと話していた。Aさんはこのようなクリスマス電飾をどんな思いで見ているのであろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

指物師の仕事

(指物師の仕事-桐の箱)

家のリフォームをしていて、出て来た古い柳行李を女房に片付けるように迫られた。この古い柳行李は、10年以上前、故郷の亡くなった父方の伯父の家を壊すということになり、すべて処分すると聞いて、帰郷したときに捨てるならと貰ってきたものである。必要なものは取った後だから、中からは茶道具の半端物やら絵皿、香炉など、がらくたに近いものが出て来た。壊れているものは処分することにし、残したいものは洗ったり拭いたりして整理した。

中に香炉が入れられた桐の箱に注意を引かれた。こういう箱を作るのは指物師というのであろう。いい仕事がされている。扉裏に「東京 市屋漆器店 日本橋」と、右から左へ書かれたラベルが貼られている。そのラベルからすると、戦前に作られたものであろうから、少なくとも60年以上経っている。桐の板を組み込んで作ったもので、金属の釘は使わずに、要所要所は木釘で止められている。だから60年経っても錆びることもない。組み合わされた板に隙間一つ出来ず、小さいけれど立派な箱であった。入っていた香炉は漆器ではないから、元は違ったものが入っていたと思う。この箱からするとかなり高価なものが入っていたのであろう。しかし今となっては判らない。

この桐の箱の作り、どこかで見たことがあると思ったら、故郷の麻雀牌の箱と同じ作りであった。あの麻雀牌の箱は材料は桐ではなく、もっと固い材料だった。上京して指物師になった父方の伯父が作ってくれたものだと聞いていた。指物師の伯父は先の伯父とは別の伯父である。何しろ親父は男ばかり8人兄弟の末子だった。今でもこんな仕事ができる指物師は何人もいるのであろうが、往時からは随分少なくなっただろうと思う。だからこんな箱も今では作ってもらえばずいぶん高いものになるのだろうと思った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

10年前のたぬきの話(後)

(玄関マットで待つたぬき-10年前)

(前編から続く)
金谷宿のたぬき(後)

平成8年6月×日 たぬきが出るのはなぜか午前中に限られる。夕方には近所の飼い犬が散歩の途中に寄って餌をもらって帰るので、午後は来ないようにしているのか。

平成8年7月×日 しばらく来ないと思っていたら、お腹が弛んだように見える。お産をしたのではないかと女房。

平成8年7月×日 今までと違って、その場で全部を食べないで、パンなどを口一杯にくわえてどこかへ運んで行く。運びきれないものもすぐに取りに戻る。巣穴もそんな遠い所ではないようだ。しばらく見ないうちに、腹が垂れ、お尻の方から毛が抜け始めて、姿が随分みすぼらしくなった。

平成8年8月×日 近頃は朝玄関マットの上で寝そべって待っているようになった。確実に見つけてもらえる場所である。「おいおい、そんなに人間様を信用してよいのかい」と注意したくなるほど。しかし、手元に置いていたパンを無断で失敬するこすっからさも出てきたから、まあよいか。

※ うちではペットは飼っていない。しかし毎日のように近所の飼い犬は来るし、冬にはゴイサギが2~3羽、うちの生け垣をねぐらにする。野良猫やイタチ、姿は見ないがハクビシンなども出没する。天井ではネズミまで駆け回る。その外、飛んで来る野鳥も多くにぎやかなことである。

※ うちのたぬきが子供を連れて出てくれたらというのが、当面の当家の望みである。けれども相手は野生のこと、これっきり来なくなってしまうかもしれない。きっとその方がたぬきのためでもある。


我が家の期待を察知したように、その年の秋のある夜、食堂の外の漏れた灯りの中に、あのたぬきが姿を現した。何と周りに3、4匹の子だぬきがちょろちょろしているではないか。そしてその夜を最後に、たぬきの親子はぷっつりと姿を見せなくなった。我が家では、子育てが終って大きく育った子だぬきを見せに来てくれたのだと考えた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ