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再びの巨木巡礼余話 2 生垣の山門(本勝寺)

本勝寺のマキ、ナギの門



生垣の山門の二つ目は、9月20日、第6回目の「再びの巨木巡礼」で訪れた、掛川市川久保1169 の「本勝寺(ほんしょうじ)のマキ、ナギの門」である。昭和49年4月18日指定、静岡県の天然記念物となっている。半分より左で、樹種の違う2本の木の分かれ目が確認できる。左側がマキ、右側がナギの木である。

本勝寺の縁起によれば(今瀧寺HPより)
当山は、西暦1345年に創建され、真言宗より日蓮宗へ改宗し、京都山科 本圀寺の末寺にあたります。地元、高天神城とも深いご縁があり、1574年、戦乱により落城と共に焼失、現在の場所に建立され、今の本堂(江戸後期)は三度目の本堂になります。
山門は天然樹によるもの。正面右は千人引きの梛、左は槙の異なる木が重なってできており、樹齢は400年弱となっており、これは、草木一切悉有仏性という言葉からできています。(後略)

奥がマキ、手前がナギ

マキ、根回り3.3メートル、目通り1.6メートル、樹高4.7メートル。
ナギ、根回り2.5メートル、目通り1.7メートル、樹高4.7メートル。
樹齢は、いずれも300年以上。生垣のように剪定され続けると、太さはそれほど太くならないのだろうか。

門の屋根部分は棒状で、屋根の形には剪定されていない

樹形は屋根状には造られておらず、一直線の棒状で、あるいは冠木門を意図したのかもしれない。一見、凱旋門のようにも見える。人の通る所はわずかにアーチ形に刈り込まれている。傍らに、立派な句碑があった。

   梛槙の 門の涼しき 法の庭   南潮子

本勝寺はアジサイの寺で、季節に訪れたことがある。

読書:「埋み火 秋山久蔵御用控 4」 藤井邦夫 著
読書:「捜査一課OB ぼくの愛したオクトパス」 富樫倫太郎 著
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再びの巨木巡礼余話 1 生垣の山門(今瀧寺)


今瀧寺、イヌマキ二本の門
 
掛川市に、生垣を剪定して門の形に成型した、山門を有しているお寺が三つある。それぞれの樹木は巨木とはいえないが、造形が面白く、各々天然記念物に指定されている。「再びの巨木巡礼」で廻ってみたので、余話として、三回に分けて記す。



三つのお寺は、いずれも掛川市の南部で、割合狭い場所に固まっているので、それぞれが影響しあって、造られたのではないかと思う。


今瀧寺、イヌマキ二本の門

一つ目は、8月27日、第2回目の「再びの巨木巡礼」で訪れた。掛川市今滝213「今瀧寺イヌマキ二本の門」、平成2年4月6日指定、掛川市天然記念物である。推定樹齢400年という。鴟尾(しび) を模してか、棟の両端が剪定し残されている。猫の耳のようで、今時の言葉で「かわいい」。

今瀧寺の縁起によれば(今瀧寺HPより)、
奈良時代の初めの729年、天平元年聖武天王勅願、行基による創建です。(中略)小笠山を挟み法多山と背中合わせで山深く泉湧くこの地を霊場に見立て、一宇の精舎を建て説法をされたのが始めだったと、遠江風土記に伝えられています。
今瀧寺は古くは正瀧寺と称していました。元久元年(1204)今瀧寺の前身、正瀧寺十二坊観音堂が建立され、元和元年(1615)現在の今瀧寺と改称されました。(後略)

江戸時代、真言宗から曹洞宗に変わった寺の多い中で、今瀧寺は真言密教の法灯を守っている。


屋根部分の下側は竹で支えられている

イヌマキ門の向うに見えているソテツは、生垣門の後ろの左右にあって、「今瀧寺のソテツ2本」として、掛川市の天然記念物に指定されているが、訪れた時、庫裏の解体中で、境内に業者のトラックなどが入り落ち着かないので、巡礼はまたの機会にした。

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自民党総裁に岸田文雄氏は選出された。安定はあるが冒険はないと云われる岸田政権、さて何が始まるやら。

読書:「計略の猫 新大江戸定年組 1」 風野真智雄 著
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再びの巨木巡礼 30 春日神社クスノキ

「春日神社クスノキ」と春日神社

9月20日、五本目の巨木は、掛川市中方(なかほう)の「春日神社クスノキ」である。東名菊川インターから南進、すぐの「菊川インター南」交差点を右折、県道79号吉田大東線を南東へ進む。掛川市に入ってすぐの、小貫交差点を左折、1キロほど先、右手佐束川の対岸に春日神社の杜が見える。すぐ手前で右折し、橋を渡ってすぐ左折、土手を行くと春日神社に行き着く。それが判らずに、杜が見えていながらぐるりと一回りしてしまった。




春日神社クスノキ

まずは春日神社に参拝する。拝殿脇に、春日神社を紹介した「ふるさと さづか」という広報誌が張ってあった。「ふるさと さづか」といえば、「佐束紙」を取材したこのブログが、転載されたことがあった。(「かさぶた日録」2012.9.2327) 

「ふるさと さづか」によれば、藤原鎌足の子孫で関東各地で活躍した俵藤太秀郷から、26代後の後藤民部少輔家長が、応永23年(1416年)、中方の地に後藤氏一族の氏神として当神社を建立という。平成27年、創建600年であった。

春日神社のクスノキには、初めての巡礼であったが、
想像以上に歴史のある立派なクスノキであった。


まだまだ太くなるだろうと想像される

幹周囲4.9メートル、樹高25メートル、樹齢400年以上、平成2年4月6日指定、掛川市天然記念物。クスノキは成長が早いから、すでに5メートルは越しているであろう。

この後、「如意庵のソテツ」と「小笠神社参道スギ」を探したが、情報が不十分で、しっかり調査後、後日巡礼することにして、第6回目の巡礼を終えて帰路に付いた。

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全国に出ていた緊急事態宣言と蔓延防止措置がこの30日ですべて全面解除となることが、今日正式に発表された。これで最後になってくれれば良いのだが。
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再びの巨木巡礼 29 満勝寺イチョウ





9月20日、四本目の巨木は、掛川市、中(なか)の「満勝寺イチョウ」である。中は旧大東町中で、村の発展段階で四方に夫々、「東村」「西村」「南村」「北村」のように発展して独立して行き、中心の元の村が「中」あるいは「中村」と呼ばれるようになった。これはNHKのお名前番組の受け売りである。

とにかく、県道69号相良大須賀線を南西に向かって、大東中の交差点の西に、満勝寺はある。駐車場から、少し坂を登って境内の脇から入る。眼前にイチョウの大木が見えた。満勝寺正面の山門から入れば、石段を登ったすぐ左に、満勝寺イチョウはある。


イチョウは雌株で、周囲にぎんなんがたくさん落ちていて臭った

地上から2メートル辺りまで、幹が白く塗られていた。かつて中国に行ったとき、街道の両側の並木がこんな風に塗られていたのを思い出した。現地の人に聞けば、夜間に道を外れて車が並木にぶつからないように、白く塗って置けばヘッドライトを反射してよく目立つからと説明を受けた。納得したけれども、このイチョウは車の通る所ではないから、そんな理由ではないはずと思った。

判らない時はネットで調べる。判ったことは、一つは防虫効果、一つは樹皮の日焼けを防ぐ、あるいは小動物(齧歯類)除け、などとあったが、同じ白でもいくつかあって用途も違うようだ。巨木巡礼者としては、あまり人の手を加えてほしくないと思った。手当てするならば、できるだけ目立たないように行ってほしい。


乳垂れも出来はじめている

「満勝寺イチョウ」は、幹回り2.8メートル、樹高25メートル、樹齢は300年以上という。幹回りは少し足らないが、計測からすでに30年、もう十分巨木に数えてよいと思う。平成2年4月6日指定、掛川市天然記念物。

読書:「迷子石 秋山久蔵御用控」 藤井邦夫 著
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「雲渓庵日記」の解読 60


ヤブミョウガ/善勝寺の楠のそばで、9月20日撮影

「雲渓庵日記」の解読を続ける。

勤番組、家族の者引き連れ、製塩相願い候者へ、焚(た)き小屋へ付属の、凡そ五斗入り塩焚き釜一口を、一軒、或いは弐軒組合にて相渡し、右釜にて焚き上げ候程の、潮水製し方、並び、薪、その外諸入用とも、出来(しゅったい)の塩にて引き取り、右銭の取り方、釜一口に付、晴雨とも塩壱升ずつの積り、是を十日目、毎月暮れに出し納め、その余分は銘々の所得に候事。
 但し、塩田、並び付属諸道具類、御貸し渡し相成り候。もっとも修復は別にて致すべき事。

一 次三男、厄介、その外家族これ無く、一己にて製相願い候者へは、御長屋内一ト間、両三人ずつ組合相立て、小屋附釜一口、御貸し渡し相成り、諸事前同断の事。
 但し、右同断。
※ 一己(いっこ)➜ 自分一人。自分だけ。

右は有渡郡用宗村へ、塩製所御取り扱い相成り、前書の通り、仮に仕法相立て候に付、勤番組の内、有志の者は、申し立て候様、致さるべく候事。
   午九月

学校宿、宿御長屋、追々御取り建て相成り候に付ては、宿寄り入り相願いたき
者は、吟味の上において、業別の次第により、御聞き届け相成り候儀に付、有志の者これ有り候わば、当人並び惣領、次三男、厄介に拘らず、名前書、早々学校頭へ差し出し候様、同掛りより達し候に付、有志の御方は早々名前書御差し出し成さるべく候。
   十月

今般、清水湊箕輪町脇、元小揚長屋、会計方より御請け取り相成り、御長屋願いの者へ、御渡し成らるべく、分内、御建て増し、御修覆にも相成り候間、右願いの者のあり候わば、取り調べ差し出し申すべき旨、藤十郎殿御達し候事。
   十月十日
※ 分内(ぶんない)➜ 境界の内。
(「雲渓庵日記」の解読つづく)
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再びの巨木巡礼 28 善勝寺の楠

善勝寺(左手遠景)とクスノキ

9月20日、三本目の巨木は、菊川市目木(もっき)の「善勝寺の楠」である。

東名菊川インターから南へ進んですぐに、「菊川インター南」の交差点がある。それを左折、県道245号川上菊川線を南東へ進む。菊川市立総合病院を左手丘の上に見て過ぎ、3キロ余り、左から丹野池から下って来る県道244号大東菊川線と合流する辺りの、右手の山中に善勝寺はある。善勝寺のある菊川市目木(もっき)は狭い地区である。

善勝寺本堂前の、門柱だけの門前から振り返ると、すぐ後ろの、やや小高いところに、「善勝寺の楠」はそびえ立っていた。



善勝寺の楠(静岡県の巨木153/№134)


平成8年10月6日「巨木巡礼」時の善勝寺の楠

「巨木巡礼」(1999 .5.2)には次のように記している

小笠町の丹野池の谷から出てすぐの岡を上った所に善勝寺はあった。
善勝寺門前の木立の中にそのクスはあった。幹は粗削りの石柱のような質感があった。回りを木立が取り囲み写真が撮り辛かった。

今は周りの薮を少し整理したようで、クスの根元まで登ることが出来て、大変見学しやすくなっている。そのどっしりとした太さが余計に際立っている。

善勝寺の楠(静岡県の巨木153/№134)


見る角度を変えると、根元の太さがさらに際立つ

案内板は「巨木巡礼」当時の記録と同じで、幹回り5.3メートル、樹高25メートル、樹齢400年とあった。さらに太くなっているように見えるが、ともあれ、菊川市で最も太いクスノキである。昭和47年8月1日指定、菊川市の天然記念物。

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夜、9月班長会に出席する。コロナの影響、まだまだ続く。お茶まつりは来年も中止、再来年に伸びた。ただ、駿河古文書会の再開は朗報であった。10月1日、会場は静岡中央図書館に戻る。
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再びの巨木巡礼 27 大頭龍神社のクスノキ


大頭龍神社とクスノキ(右手前)


大頭龍神社のクスノキ



大頭龍神社鳥居の、右手前にクスノキの巨木がある。これも無指定だが、巨樹巨木林調査では、当時の菊川町最大のクスノキで、幹周囲3.5メートル、樹高8メートルとある。今では幹周囲4メートル近いのではないか。予定外だが、巨木にカウントしよう。

上の写真右下隅に「売物件」の看板が見える。大頭龍神社右手に結婚式のホールがあったのだが、それが売りに出ていた。少子化やコロナの影響なのだろうか。清々しい神社の隣りに、荒れ果てた建物があるのは、何とも見苦しい。用が無くなったのなら更地にした方が良い気がする。


拝殿には「金的中」と書かれた奉納額が沢山掛っていた

社務所の神主さんに、沢山掛っている「金的中」の額は何かときけば、「金の的に矢を当てる、一種の博奕だよ」とおっしゃる。「?」を付けたまま、帰宅後でネットで、大頭龍神社のHPを見ると、

金的とは直径3寸(約9cm)の金の紙を貼った的で、この金の紙の裏には鬼の絵が描いてあり、当てれば鬼を射殺すことになり、厄病を防ぐことができるという神事です。見事金的中されると拝殿にてご祈祷の上、拝殿内に額を掲げることができます。

博奕とは書かれていないが、その神事を賭け事にする輩がいるのであろうか。ともあれ、「金的中」の額の意味は分かった。



「敬老の日」の祝日。境内にはゆっくりお参りする家族の姿があった。

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朝、女房と第七回目の「再びの巨木巡礼」に出掛ける。今日はこの何回かの巡礼の落穂拾い的な巡礼である。

読書:「鬼神の叫び はぐれ長屋の用心棒 51」 鳥羽亮 著
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再びの巨木巡礼 26 大頭龍神社のスダジイ



9月20日、第6回目の、「再びの巨木巡礼」に女房と出かけた。しばらく見なかった快晴で、原からは雪の無い富士山が見えた。今日は、菊川市と掛川市南部の巨木巡礼の予定である。最初に選んだ行き先は、菊川市白岩段の大頭龍神社で、菊川では有名な神社である。

カーナビに行き先を設定し、お任せで原を進んでいて気が付いた。カーナビは東名牧之原インターを目指している。菊川インターまでの一区間、東名を使おうとしている。わざわざ高速を使うまでもないので、高速に沿った道を菊川へ下った。東名菊川インターから西へ1キロ弱、住宅地の中を右へ左へ、まっすぐに行ける道はないようだ。山の端に大頭龍神社の杜がある。



大頭龍神社のスダジイ

平成11年5月2日「巨木巡礼」時のスダジイ
 
「巨木巡礼」(1999 .5.2)には次のように記している。静岡県の巨木153には入っていないが、番外として巡礼した。

社殿の背後には山を背負い、その森が神域となって、一部参拝者の進入が禁止されている。社殿左手に進むと、2本スダジイの巨木が見られた。いずれも甲乙付け難い立派な巨木に見えた。どちらが目的のスダジイなのか、判断が付かなかった。とにかく椎の木は根元近くからひこばえの枝がはびこって主幹が隠れてしまい、カメラマン泣かせの樹種でもある。

社務所の神主さんにスダジイの場所を聞いて、参拝後、社殿左手に行くと、こんな好天でも、昼なお暗き場所に、スダジイはあった。それでも、デジカメの威力で、何とか束になったような幹も写せた。「巨木巡礼」時と同じスダジイである。もう一本あるという奥には立ち入らなかった。

スダジイの根元

写真を写しにくい、もう一つの理由は、「巨木巡礼」でも記したが、スダジイの根元からひこばえが沢山出て、幹を隠しているからである。出来ればひこばえを少し切ってもらえれば、幹が良く見えて、巨木巡礼には有難いと思うのだが。

昭和63年、環境庁の巨樹巨木林調査では、大頭龍神社には、スダジイの巨木が、幹周囲9メートル、5メートル、3.1メートルの三本、上げられている。このスダジイがはたして9メートルの最大木だったのだろうか。9メートルには足らないような気もする。しかしまあ、社務所の神主さんも、このスダジイを示しくれたことだし、最大木と判断しよう。幹周囲9メートル、樹高20メートル、無指定の巨木である。
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再びの巨木巡礼 25 賀茂神社のスダジイ


賀茂神社のスダジイ



9月13日、十本目は、御前崎市比木の「賀茂神社のスダジイ」である。「平場の大ソテツ」から出て、国道150号を横切り、まっすぐ北へ2.5キロほど進み、県道239号を右折する。御前崎市比木を2キロほど進むと、左手の山際に、賀茂神社の鳥居が見えてくる。目的のスダジイは、石段を登った社殿左側に立っている、賀茂神社の御神木である。

「巨木巡礼」(1999 .5.2)には、次のように記している。

県道239号相良浜岡線を浜岡町(現、御前崎市池新田)から相良町(現、牧之原市須々木)へ向う。途中、浜岡町比木で左手にJA遠州夢咲の裏手の山に賀茂神社がある。
この賀茂神社の社叢が7~800年以上も自然のまま保護されたため、ここの環境条件に合った安定した森(極相林)となった珍しい存在として、県の天然記念物に指定されている。
 社叢には遊歩道が作られている。少し歩いてみた結果、森の中で最も太いと思われる木が、社殿右にある御神木のスダジイの巨木である。地上4mほどで幹が二又に分かれていて樹勢は良好のようである。

平成11年5月2日「巨木巡礼」時の賀茂神社のスダジイ

賀茂神社のスダジイ(現在)

上の写真と比べると、枝が無くなっていたり、太くなったり、20年の経過が感じられる。「巨木巡礼」時の記録で、幹周囲5メートル、 樹高20メートル。平成9年3月17日、静岡県の天然記念物に指定されている。但し、指定は「比木賀茂神社社叢」で、スダジイはその代表木といったところである。

この後、旧朝比奈小学校の黒松 を見て、五回目の「再びの巨木巡礼」を終え、
 帰路に着いた。

読書:「道連れ彦輔居直り道中」 逢坂剛 著
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再びの巨木巡礼 24 平場の大ソテツ

平場の大ソテツ (静岡県の巨木153/№1) 



平成8年10月6日「巨木巡礼」時の平場の大ソテツ

9月13日、九本目の巨木は「平場の大ソテツ」である。新神子から国道150号線に出て西進、上ノ原の交差点を左折する。この道はほどなく海岸に出て、海辺を御前崎灯台の直下へ導く道である。上ノ原交差点から、右手広い敷地の農家の二軒目、その個人のお宅の庭に「平場の大ソテツ」はある。

「巨木巡礼」(1996 .10.6)には次のように記している。

浜岡に入り国道150線を南に横切った民家の庭に、平場の大ソテツはあった。庭のソテツを見せて頂きたいと声を掛ける。何かスケールが小さいと思ったら、説明板を見ると6mもあった主幹が、台風で折れたと書かれていた。今日は散々である。

「散々」のわけは、その日の巨木巡礼で、「油山寺の大福スギ」(崖崩れ倒壊滅失)、「油山寺のマキ」(崖崩れ倒壊滅失)、「豊受のマツ」(松枯れ滅失)と、静岡県の巨木153の中で、失われた巨木が三本も続いたからであった。


萱葺屋根に鉄板葺きのSさん宅に声を掛けると、奥さんが出て来て、案内をしていただいた。このお宅は本家ではなく、分家だったのだが、350年ほど以前、菩提寺の敷地にかかって、ここへ移転した。その時にお寺から頂いて植えたのが、このソテツだという。菩提寺のソテツは代替わりして、ここのソテツの方が古い。

背の高い幹が倒れて、荒れていたが、脇の県道が改修されるときに、少し高い処に植え替えて、今のようになったと話す。


ソテツの雌花

ソテツは雌雄異株で、ここのソテツは雌株である。ちなみに、吉田の能満寺のソテツは雄株という。一つ、雌花は出ていた。これは蕾というのか、咲いているというべきか。

巨木巡礼では、幹周囲10メートル、株根本直径1メートル、樹高6メートルと記しているが、6メートルの幹は巨木巡礼の時にすでに無く、現在はこじんまりとした株に収まっている。往時、静岡県の天然記念物に指定されていたが、植え替えの時に外されたのであろう、今は無指定である。当時あった案内板も撤去されていた。

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女房と2ヶ月に一回の、定期的な健診に行く。
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