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「おらが春」の解読 2

(去年の暮れの紅白シクラメン)

去年の暮れに買った紅白シクラメンが、一年経って、形は崩れたけれども、花を咲かせている。

今年のブログより選んだ、個人的な10大ニュースは、コロナ禍の影響を受けて、以下のようになった。

一月     「長屋門の見て回り」に参加。
一月     夫婦で高齢者自動車講習を受ける。
一月     コロナ禍の始まり。
三月     コロナ禍で、名古屋のかなくん、掛川まーくん宅へ疎開。
四月     はりはら塾講座初回を実施後、関わる講座がすべて中止となる。
六月     金谷宿大学の2講座、2ヶ月遅れで開始。はりはら塾の講座再開。
九月     佐束紙の話で、当ブログが掛川の「ふるさと さづか」に取り上げられる。
十月     駿河古文書会、半年休んで再開する。
十月~十一月 掛川の孫、まーくん、少年野球で大活躍。
十二月    岡部英一氏から依頼の、戦国の遠州の古文書、1年2ヶ月掛かり、解読を終える。
  
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「おらが春」の解読を続ける。

この上人、自ら工(たく)み、拵(こしら)えたる悲しみに、自ら歎きつゝ、初春の浄衣(じょうえ)を絞りて、滴(したた)る泪(なみだ)を見て、祝(いわ)うとは、物に狂うさまながら、俗人に対して、無常を演(えん)じるを礼とすると、聞(き)くからに、仏門においては、祝いの骨張(こっちょう)なるべけれ。
※ 浄衣(じょうえ)➜ 僧が着る白い衣服。
※ 骨張(こっちょう)➜ 程度がこれ以上ないこと。骨頂。


それとはいさゝか替りて、おのれらは、俗塵(ぞくじん)に埋れて、世渡る境界(きょうがい)ながら、鶴亀に(たぐ)ての祝い尽くしも、厄払いの口上めきて、そらぞらしく思うからに、からっ風の吹けば飛ぶ屑家(くずや)は、くず屋のあるべきように、門松立てず、煤(すす)はかず。雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになん、迎えける。
※ 俗塵(ぞくじん)➜ 浮世のちり。俗世間の煩わしい事柄。 
※ 境界(きょうがい)➜ 各人をとりまく境遇。境涯。
※ 類える(たぐえる)➜ 並べ比べる。なぞらえる。
※ 屑家(くずや)➜ ぼろ家。


   目出たさも 中くらいなり おらが春      一茶

去年(こぞ)の五月、生(うま)れたる娘に、一人前の雑煮膳(ぞうにぜん)を居(す)へて、

   (は)え笑え 二つになるぞ 今朝からは

 文政二年(1819)正月一日

(「おらが春」の解読、つづく)
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「おらが春」の解読 1

(「おらが春」の中表紙)

大代の山にヘリコプターが落ちたと、夕方のテレビが報じていた。今日は昼頃から晴れて、強風が吹きまくっていた。風が禍いしたのであろうか。家から数キロと離れていない。山中で、人家の被害がなかったのが幸いであった。新東名に近い我家は上空をヘリコプターがよく通る。有視界飛行には、新東名が絶好の目標物だと想像する。

さて、「渡天の説」も読み終わり、次に何を読もうかと考えた。新春にふさわしいものを考えて、秋に、古文書会で、最初の部分だけ読んだ、一茶の「おらが春」に思い至った。続きを読もうと、原本のコピーが手に入れてあった。俳句は文字数が少なくて、中々読むには難解と思われるが、チャレンジしてみよう。くせのある字であるが、しっかりと書かれていて、慣れれば何とか読めるだろう。最初は古文書会でも読んだ部分である。

写真は「おらが春」の中表紙。「我春集」とあり、右側に「俳諧寺一茶翁著并(ならび)図」とある。左側には「信陽ノ有明菴蔵梓」とある。「信陽」は信濃国の異称。

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「おらが春」の解読をはじめる。

昔、丹後の国、普甲寺という所に、深く浄土を願う上人(しょうにん)ありけり。としの始めは、世間祝いごとして、ざざめけば、我もせんとて、大丗日(おおつごもり)の夜、ひとり遣う(こぼうし)に、手紙を認め渡して、翌の暁(あかつき)に、しかじかせよと、きと言い教えて、本堂へ泊まりにやりぬ。
※ 上人(しょうにん)➜ 仏教における高僧への敬称であり称号。
※ (こぼうし)➜ 若い僧侶のこと。
※ きと ➜ しっかりと。確かに。


は元日の旦(あした)、未だ、隅々は小闇(こぐら)きに、初鳥の声と同じく、がばと起きて、教えのごとく、表門を丁々(ちょうちょう)と敲(たた)けば、内より、いずこよりと問う時、西方阿弥陀より、年始の使僧(しそう)に候と、答うるより早く、上人裸足(はだし)にて躍り出て、門の扉を左右へさっと開きて、を上座に称(招)じて、昨日の手帋(てがみ)を取りて、うや/\しく頂きて、読んで曰く、「その世界は衆苦(しゅうく)充満に候間、早く吾が国に来たるべし。聖衆(しょうじゅ)出迎いして待ち入り候。」と読み終りて、おゝ/\と泣かれけるとかや。
※ 丁々(ちょうちょう)➜ 物が打ち当たる音を表す語。
※ 使僧(しそう)➜ 使者として遣わす僧。
※ 衆苦(しゅうく)➜ 多くの苦しみ。多くの人の苦しみ。
※ 聖衆(しょうじゅ)➜ 極楽浄土の諸菩薩。また、菩薩や声聞・縁覚、あるいは比丘など、多くの聖者の集まり。

(「おらが春」の解読、つづく)
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「渡天の説」の解読 10

(散歩道のナンテンの実)

ナンテンの赤い実は赤サンゴのようである。「渡天の説」に出てくるサンゴ珠はこんなものだったのだろうか。

今日、掛川のえまちゃん、七五三の祝いで、大井神社に行った。その途中に我が家へ寄ってくれた。もう七つで、孫の七五三もこれが最後である。コロナの影響で、七五三も密を避けて、この時期まで受け付けてくれたという。えまちゃん、いつも男の中で育ってきたためか、女の子の自覚が薄く、着飾られた自分に戸惑いがあるのか、少し不機嫌のまま、カメラに収まった。

「渡天の説」の解読、今日で終わる。年内に終わってしまった。次に読む正月らしい古文書を探さねばならない。

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「渡天の説」の解読を続ける。

一 日本より天竺へ渡り候水主(すいしゅ)、八拾人にて御座候えども、右記し申し候海陸、南京、北京、漢唐、南蛮、阿蘭陀(オランダ)じゃ、多分に人、筋案内、言う通りを吟味仕る、功者(こうしゃ)成る人、道々にて雇い参り候故、段々乗り申し候。それ故、天竺着船の節は、人数三百九拾八人に渡り申し候。
※ 水主(すいしゅ)➜ ふなのり。かこ。船頭。
※ 功者(こうしゃ)➜ 手慣れていてたくみなこと。


天竺通(つう)じ言葉、但し船方の分
一 たいあん  梶取りの人      一 あわん    帆上(ほあ)げ人
一 たこん   帆手縄配り人     一 みょうてん  錠(いかり)の役人
一 三てん   三縄三筋を遣う人   一 てつこう   荷物積み人
一 きんてん  船目付へ近き役    一 かさ付    物書き役
この通りにて御座候。かうちかまえに記し申し候通り。

一 前々申し上げ候通り、外にひさう(秘草?)にて、霊感山清立(青龍)寺と申す寺、空海弘法大師、渡天の時より御座候御寺なり。その外、祖師達磨大師、渡天の時、中天竺の内へ御着御座なられ候。

私義、渡天仕り候節は、大坂惣年寄は、浜屋小安、大塚屋心斎、塩屋道薫、この三人なり。長崎御奉行は竹中釆女正様。

今年(元禄十三年、1700)より寛永四年(1627)まで、七拾四年に罷り成り申し候、以上。

右の一件、元禄十三年の頃、宗心申し上げ候様に相聞き候。
    享保二十乙卯年(1735)五月      大坂上塩町 徳兵衛事 宗心

               明和二乙酉年(1765)写之      染五

(「渡天の説」の解読、終り)

読書:「地の業火 勘定吟味役異聞 5」 上田秀人 著
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「渡天の説」の解読 9

(散歩道のヒイラギナンテン)

午後、散歩に出た。午前中まで雨が降っていたが、午後は快晴になった。久し振りのまとまった雨に、涸れていた大代川に流れが戻っていた。やはり川には水の流れが必須である。植物が皆、生き生きしていると感じた。途中で、ヒイラギナンテンの黄色い花を見付けた。小さな株が我庭にもあって、毎年花を咲かせていたが、いつの間にか枯れて、根元から切られてしまった。

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「渡天の説」の解読を続ける。

天竺にて、諸事の織物類、鮫、さんご珠、様々のもの出申し候。繻子(しゅす)一巻にて、代銀拾六匁(もんめ)、十一匁位、伽羅(きゃら)は出し申す所、沢山御座候間、下直(げじき)に御座候。紫檀(したん)、白檀(びゃくだん)、黒檀(こくたん)などは、日本の槙木(まきもく)のごとく、沢山御座候。
※ さんご珠(さんごじゅ)➜ サンゴを磨いて作った玉。
※ 繻子(しゅす)➜ 繻子織りにした織物。帯地・半襟・洋服地などに用いられる。サテン。
※ 伽羅(きゃら)➜ 香木の一種。沈香、白檀などとともに珍重された。
※ 下直(げじき)➜ 値段の安いこと。
※ 槙木(まきもく)➜ マキノキ。


一 海魚、川魚、沢山に御座候。日本に替り申さず候。諸鳥も多く御座候。料理にいたし候には、大方生靏(いきづる)にて、尾羽つつしめ、売り仕り候。壱羽に付、代銀三匁弐分くらい仕り候。日本の庭鳥(鶏)のごとく、家々に飼い置き申し候。孔雀は、家々にて、庭に飼い置き申し候。鳳凰、空を通り候えば、孔雀、早速家の内へ逃げ込み申し候。孔雀も大鳥に候えども、鳳凰はまた勝(すぐ)れる大鳥ゆえ、孔雀を取り、喰い申し候。鳶(とび)、雁(かり)も多く御座候。雁は格別違い、白く御座候。鳶は日本に同じ事にて御座候。
※ 尾羽つつしめ(おばつつしめ)➜ 尾や羽を切って飛べないようにする。

日本より船積みに仕り、天竺へ参り候は、蚊帳(かや)、扇子(せんす)、唐傘(からかさ)塗り物(ぬりもの)類、鉄炮などにて御座候。刀、脇差、別して尋ね候えども、それぞれの持ち道具ばかり、外は持参仕らず候。天竺より買い取り参り候は、糸類、織物類、薬種、鮫、さんご珠、伽羅(きゃら)、紫檀、白檀、黒檀、万(よろ)ず皮類、その外の売買物、面々心次第に調(ととの)え申し候て、船積み仕り候。
※ 塗り物(ぬりもの)➜ 漆を塗って仕上げられた工芸品、特に漆器を指す。

(「渡天の説」の解読、つづく)
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「渡天の説」の解読 8

(植えたばかりのビオラ、その2)

今朝、電話があり、出ると、明石在住の、高校の同級生、IS氏からであった。片付けをしていたら、名刺が出て来て、懐かしくて電話したという。IS氏に会ったのはもう10数年前になるかと思う。大阪のKY氏に同行して、明石で会ったような記憶がある。名刺を見て電話したというが、当時の会社の名刺では、個人の電話番号は入れてなかったような気がする。IS氏は長く農業高校で教鞭を取り、リタイア後は播州で果樹(主に梨)園を経営すると、はっきりした目標を持っていた。今度、自分の書いた本を送ると聞いた。農業の専門書なのだろうか。年賀状を書いていたときだったので、早速、KY氏に電話して住所を確認し、賀状を一枚追加した。

KY氏とも久し振りに電話で話した。年相応なのだろうか、少し元気がない気がした。これからも、時々電話をして見ようと思う。

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「渡天の説」の解読を続ける。

一 馬は日本より小さく御座候。

一 麝香犬(じゃこういぬ)は鉄炮にて打ち申し候。間を置かず壺へ入れ、土に埋め申し候。程過ぎて、掘り出し、売り申し候。もっとも、むさき物にて、所にても嫌い申し候、麝香犬に似たるひろうと申す獣これ有り。これを見違え打ち候えば、直ちに捨て申し候。
※ 麝香犬(じゃこういぬ)➜ 麝香猫、麝香鹿の異名。
※ むさい ➜ きたならしい。むさくるしい。


一 天川、垣河川、流沙川に、種々の川魚多く御座候。蛇多く御座候。この川にて、子供水遊び仕り候。筏を懸け、その内にて、水遊び仕り候。然れども、時々子供、蛇に取られ申し候。

流沙川の深さ、七拾五、六尋これ有る由、端(はた)も殊の外広く、岸は白砂河原にて、日和(ひより)の時は、蛇河原へ上り、昼寝仕り候。殊の外。鼾(いびき)高き寝懸かり候と、大躰(たいてい)の事にては起き申さず候。
※ 日和(ひより)➜ 晴れたよい天気。晴天。

蛇の寝たるを見出し候えば、所の者、大勢集り、大きなる丸太を持参仕り、丸太を当て、縄にて、そろ/\と巻き付け、棒しばりに生け捕りにして、蛇の大きさにより、弐十人、三十人、あるいは五、六十人して、荷ない通り、日本の鯨の様に切り売り仕り候。料理給い申し候、殊の外、鹿臭き物にて御座候。

この蛇の鱗を、他国へ慎み、出し申さず候。謂れ御座候なり。鱗三枚、懐中に仕り候て、帰国の節、流沙川の川口を出船仕り候えば、一向に船出申さず候。その時、船頭乗り衆の内に、蛇の鱗、所持の方御座候なり。左候えば、船出申さずと詮義仕り候間、取り出し捨て申し候えば、その侭、船出申し候。鱗は小判ほどにて、黒青(こくしょう)なり。
※ 黒青(こくしょう)➜ 黒みがかった青色。

(「渡天の説」の解読、つづく)

読書:「謹慎 隠密船頭 3」 稲葉稔 著
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「渡天の説」の解読 7

(苗を植えたばかりなのに、こんなに花盛りのビオラ)

朝から年賀状書き、といってもほとんどプリンターまかせなのだが、早く仕上げようと思いながら、中々年末にならないと、その気にならない。

朝、OA氏から電話があった。解読文の確認が2点ばかり。電話の後、頼まれていた解読をUSBで送った。ついでに、今まで頼まれて解読してきた、すべての解読文を同時にUSBへ入れて送った。これで一段落といった所である。色々な所から、古文書の解読を頼まれて応えてきたが、現在の所、年を越すものはない。来年はどんなものが飛び出すか、楽しみである。

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「渡天の説」の解読を続ける。

惣て天竺の人柄は、日本の人より長く☐☐☐いに御座候。男は耳より上を剃り、頭の上に髪を置き申し候。南京の風も同じ事。女は伽羅の油を用い申し候。日本の油とは違い、真の伽羅の木より油を締め出し申し候。水油と申す。身にも塗り申し候。髪はから分けに仕り候。衣類は一重物のよう。襦袢(じばん)を着し、前を取り拵(こしら)え申し候。則ち、はめとも申し候。男は十徳(じっとく)の様なる物を着し、ひつてくとも申し候。鎌、庖丁の様なる物を腰に差す。日本の脇指同前に御座候。
※ 襦袢(じばん)➜ 和服用の下着。ひとえの短い衣。肌着。
※ 十徳(じっとく)➜ 室町時代、下級武士の着た、脇を縫った素襖のこと。江戸時代には腰から下にひだをつけ、医師・儒者・絵師などの礼服となった。


一 上下男女ともに、天冠と申すもの、かぶり申し候。上官はいんず、下々はしんちうを用い申し候。
※ 天冠(てんかん)➜ 仏や天人がつける宝冠。葬式のときに、近親者または死者が額に当てる三角形の白紙。

一 出家は、途中を通り懸かり、女通り候えば、その跡通り申さず候て、その侭、道の片隅に寄り、扣(ひか)え申し候。男の通り候を待ち請け、男通り候えば、その跡へ出向き、「しゃか」と言いて、十念を唱へ、その跡、男の通りたる所を行き申し候。「しゃか」とは、釈迦如来と申す事の由。
※ 十念(じゅうねん)➜ 阿彌陀仏の相好を十遍つづけて観想すること。またはその御名を十遍唱えること。

一 天竺の俗、日本の人を見候えば、両の手を合わせ、「ちゃか」と申して、殊の外、敬い申し候。

一 米の事、春植え置き候えば、三月、六月、十月と、以上に三度出来申し候。三月、十月は中米にて、六月に出来申し候は上米ゆえ、納米に仕り候。藁は取り申さず候。何(いず)れも穂は首苅り仕り候て、捨て置き申し候。二度目の米も首苅り。またその藁より穂出で候えば、十月、米を取り申し候。壱ヶ年に、春植えたるばかりにて、三度づつ取り、藁は、壱処に出来、長さ五尋程有り。俵は籐(とう)にて、かますの様に拵え申し候。米四、五斗づつ入り申し候。
※ 五尋(ごひろ)➜ 「五尋」では10メートル近くなるので、精々その10分の1位と思うが、間違い?
※ かます(叺)➜ わらむしろを二つ折りにし、縁を縫いとじた袋。穀類・塩・石炭・肥料などの貯蔵・運搬に用いる。

(「渡天の説」の解読、つづく)

読書:「烈火の剣 はぐれ長屋の用心棒」 鳥羽亮 著
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「渡天の説」の解読 6

(散歩道のビワの花)

明日から帰郷する予定だった名古屋のかなくん親子、子供たちが電話でやり取りして、今年は正月の帰郷を取りやめることになったという。孫の顔を見せに行くのも親孝行だが、敢えて帰郷しないのも親孝行とは、コロナは人間の営みを根底から覆してしまう、恐ろしい流行り病である。さて、帰郷はワクチンが出回ってからにするというが、来年はどんな年になるのだろう。

10年続いたNHKの心旅が終ってしまうようだ。今日、最終回の挨拶らしきものが、正平さんの口からあった。近頃は、自転車をこぐのもつらそうな時があったから、やむを得ないとは思うものの、楽しみにしていたのに、残念である。昨年で終わった「大和尼寺‥‥」に続いて、二度目のショックである。

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「渡天の説」の解読を続ける。

南京、東京の境、万里ヶ瀬と申し候。万里ヶ瀬の東は、釈迦堂の口にて御座候。摩訶陀国、やしおと申す菓(くだもの)御座候。日本の梨子(なし)のごとくにて、大きさも梨子ほど御座候。諸毒を消し、その外、功能多く、天竺の者も調(ととの)給い申し候。このやしおの皮半分に、水三合ほどずつ入れ申候。常の水呑みに用い申し候。やしおの水は天竺にて売買仕り候。銀壱匁(もんめ)に、壱斗七、八升ずつ仕り候。
※ 調う(ととのう)➜ 調達する。

一 伽羅(きゃら)は多く御座候。山な中天竺の内、ちや六こん山より出で申し候。天竺にても、摩訶陀国にても、伽羅と申し候。またか国☐☐伽羅と申す村御座候。八月に伐り、来三月の頃まで、上皮を切り、悪しき所をぢんまなばんと申し、能(よ)き所を、伽羅と申し候。
※ 伽羅(きゃら)➜ 香木の一種。沈香、白檀などとともに珍重された。

一 珊瑚珠は、流沙川の川口、垣河川の口、南京川口、天川などに、大分御座候。兎角(とにかく)、川と海との境、至極深き所に御座候。
※ 珊瑚珠(さんごじゅ)➜ サンゴを磨いて作った玉。

一 天竺にも、種々の樹木多く御座候えども、松は御座なく候。竹は大分御座候。殊の外、太く、大きさ四尺ほど候えども、筒は漸く小指の通り候ほど御座候。それゆえ、家作の柱、梁、引物(ひきもの)などに仕り候。畳は籐莚(とうむしろ)にて御座候。
※ 引物(ひきもの)➜ 家の梁。
※ 籐莚(とうむしろ)➜ 籐で編んだむしろ。

(「渡天の説」の解読、つづく)
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「渡天の説」の解読 5

(庭のシノブの紅葉)

どこから来たのか、我が庭のシノブが知らない中に勢力を伸ばして、今紅葉し、その存在感を示している。

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「渡天の説」の解読を続ける。

摩訶陀(まかだ)国の都より、四拾弐里川上に、異就鳥山有り。山の高さ壱里程、幅八町、長さ拾六町。この山、岩の上にて、釈迦如来、御説法遊ばされ候由、申し候。この岩の高き所に釈迦の像有り。御手洗(おてあらい)水も有り。都より四拾弐里、町続きにて、毎年三月末より四月中頃まで、市町(いちまち)立ち、諸人参り申し候。
※ 市町(いちまち)➜ 店舗を構えて商品を販売する場所。

異就鳥山より四拾三里川上に、流沙川の中場へ覆(おお)い懸かり、座禅石有り。この岩の高さ三拾弐町有り。則(すなわ)ち、座禅石と申し候。諸仏御在世の時、座禅の着し地なり。この岩に諸仏の像有り。

弐里川下に、垣河川の川口と申すにて、則ちここより中天竺のかほくちやと申し候。垣河川、長サ千弐百里ほどこれ在り候、ここの者申し候。日本の弐百里にて御座候。流沙川上、七拾里行き、大海と申す都有り。ここまで唐船通し、ここを関所として、唐船通し申さず候。天竺の小☐☐川上へ通し申し候。川下よりは河上へ通る道法(みちのり)、行戻り八年程にて上下仕り候。かの川上にこれ有り候たんちくせんまでは参り申さず候。川上の奥、何程(いかほど)と申す事、知れ申さず候。
※ 唐船(からぶね)➜ 近世、中国式や西洋式など、外国船に模した日本製の船をいう。


ちやろくこんひつひると申す所へ、摩訶陀国より八百里。ここより、色々皮類、鮫類など、出で申し候。これまで、摩訶陀国の内なり。ここより、未申(ひつじさる)角に当る、なんはん国なり。いぬひ城と記す。すいきりすつわんらりたつけん国、阿蘭陀(おらんだ)国、何れも国続きにて御座候。

異就鳥山の廻りに多羅の葉有り。釈迦仏御在世御説法の時、この葉に色々の文字をすえ、テイヒヤタヒの長者、この葉を一枚申し請け、日本へ持参して、則ち、播州高砂、重輪寺に納め申し候。
※ 多羅之葉(たらのは)➜ モチノキ科の常緑高木。葉は長楕円形で大きい。葉面に傷をつけて文字を書くことができるので、経文を書くタラジュにちなんで名をつけられた。
※ 重輪寺(じゅうりんじ)➜ 十輪寺。兵庫県高砂市にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。

(「渡天の説」の解読、つづく)

読書:「大名絵師写楽」 野口卓 著
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「渡天の説」の解読 4

(散歩道のアブチロン、一昨日撮影)

提灯のような花で、季節を問わず良く見かける。なじみの花である。

午後、掛川の孫三人来る。少年野球をまーくん卒業で、その雄姿を音楽にのせて、まーくんのパパが編集してくれたと言って、女房とスマホで見ている。たくさんの結婚式で、画像編集を頼まれて、経験を積み、今やプロも顔負けだとか。お正月にはテレビ画面で皆んなに見せてくれるらしい。

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「渡天の説」の解読を続ける。

右のハンテイヤより、弐拾七里川上に、カリササと申す所有り。ここ、空海と文殊の参会の所にて御座候。これより弐拾五里。川上に、大海と申す都有り。ここより流沙川へ七拾五里、シャム国の端にヒヤタイと申す寺有り。須達長者の屋敷の跡有り。シャム国の長者なり。
※ 須達長者(すだつちょうじゃ)➜ 釈迦の時代、中インド舎衛城の長者。釈迦に帰依し、祇園精舎を献じた。スダッタ。

一 摩訶陀国の内、テイヒヤタイより七里過ぎて、長さ弐拾里ずつ続きたる、堂三つ有り。但し、日本の道法(みちのり)、壱つにて、百弐拾町ずつなり。本尊、何(いず)れも、釈迦如来なり。東面-立像、南面-座像、北面-寝釈迦像なり。則ち、土仏、御自作の由。仏体の大きさ計り難し。自然の山を彫り、尊像に成し、その上へ堂を覆い作り申し候。仏の御手の大きさ、厚さ三間余、この堂の程の大きさ、拾五人、手と手を引合い、拾五廻り余。釈迦堂の軒の下、八拾五間余有り。何れも、通り筋の町屋にて、釈迦堂町と申し候。

今、諸人、年忌(ねんき)の志これ有るには、尊像にも堂にも、(はく)を塗り申し候ゆえ、金仏の様に相見え申し候。この三つの堂の大きさ夥(おびただ)しく、高さ弐拾里なり。天竺に大山も数多(あまた)御座候えども、海上より山の方、遠所へ相見へ申さず候。この三つの堂ばかり見え申し候故、目当てに致し、船を乗り申し候。
※ 箔(はく)➜ 金属をごく薄く打ち延ばしたもの。ここでは、金箔。
※ 高さ(たかさ)➜ 釈迦堂のある土地の高さ海抜。


一 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の堂は、右の三つの堂より、劣り申し候。大きさも、日本の京の大仏の堂、四つ合わせ申したる大きさにて御座候。
※ 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)➜インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、にあった寺院である。釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎の一つである。
※ 日本の京の大仏 ➜ 京の方広寺にかつて存在した日本の大仏。 豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧三代の大仏が知られ、江戸時代には、日本三大大仏の一つに数えられた。

(「渡天の説」の解読、つづく)
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「渡天の説」の解読 3

(散歩道で電柱の影、昨日撮影)

何の変哲もない電柱の影だが、このように映るのは、いくつかの条件が重ならなければならない。そんな条件を数えてみると、なかなか面白い。

「渡天の説」には、多くの外国の地名や名前が出てくる。それをどう読み、どの辺りを指しているのか、調べながら解読していると、けっこう時間が掛かり、答えが見つからないものも多い。

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「渡天の説」の解読を続ける。

これより六百五十里、西の方へ走り、津唐の大口、天川と申す処。この天川は深さ九百八、九ほど御座候。大明へ続き申し候。ここまでは、日本の地より、北斗星を目当てに、磁石を以って方角をば窺い、走り申し候。これより、北斗星見え兼ね申し候。南天竺に、大く願、小く願と申す星、二つ御座候。これを目当てに走り申し候。
※ 尋(ひろ)➜ 水深を表すのに用いる、長さの単位。1尋は6尺、約1.8メートル。

天川より三百里、南へ走り、ひろう鼻と申す所御座候。ここは南京の都、境目にて、三百里西へ走り、かうちとろんヶ獄(ひとや)と申す所。これより、西へ続き、大山御座候。この所、達磨大師誕生の地なり。これより四百里走り、かほうちやほるこんとうろうと申す嶋を過ぎて、これより八百里、北西の方へ走り候えば、摩訶陀国の入口なり。
※ 境目(さかいめ)➜ 境となる所。

これまで長崎より船路、三千八百里これ有り候。但し、異国は六町を壱里と申し候。これに依り、日本の三拾六町、壱里にして、大方、六百三拾里程にて御座候。かの流沙川はシャム国の境にて、日本の御朱印を改め申し候。摩訶陀国の都、城主へ早船を立て、手形を呼び、通り申し候。
※ シャム国(しゃむこく)➜ タイ王国の旧名。

右のシャム国、テヒヤの城主ナヤカラホンと申し候。その国の侍大将にて、位はオフウと申し候て、右大臣の位にて御座候。このナヤカラホンは、生国は日本、伊勢山田の御師(おんし)の手代にて、国々相廻り申し候。何方(いずかた)にてか、日本より長崎へ欠落(かけおち)仕り候。日本の御尋ね者に罷り成り、折節(おりふし)、シャム国の船、出船ゆえ、便船仕り、シャム国に渡り、国主の下知によって、所々の軍陣に高名仕り候故、国主の聟に罷り成り、その上、シャム国一国の譲りを請け、大将に成り罷り在り候。日本にては、山田の仁左衛門と申し候。天竺にては、ナヤカラホンと申し候。侍をば相衆(あいし)でも、ナマンテウとも申し候。何(いずれ)も、帝王の御番に出で申し候。
※ 御師(おんし)➜ 特定の社寺に属し、信者のために祈祷を行い、参詣のために宿泊・案内などの世話をする下級の神職。伊勢神宮のものは「おんし」と呼ぶ。(他は「おし」)
※ 欠落(かけおち)➜ 戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。
※ 便船(びんせん)➜ 都合よく出る船。また、 それに乗ること。
※ 山田の仁左衛門 ➜ 山田長政。
※ 相衆(あいし)➜ 一緒に仕事をする者。

(「渡天の説」の解読、つづく)
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