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駿府城跡の見学 - 駿河古文書会見学会

(駿府城跡の見学)

昨日、近所の果物屋さんから電話があり、渋柿が入ったがいらないかという。今年は値段も安くて、一箱1200円だという。一箱取っておいてもらい、夕方請取に行った。ちょうど手頃な大きさで43個あった。一個30円なら安い。今朝、半日がかりで干柿に加工して干した。今年はこれで194個加工したことになる。

20日の駿河古文書会見学会の続きである。

「合巻本」の閲覧のあと、静岡県歴史研究会会長の篠原旭氏の案内で、駿府城跡で、日頃誰も注目しない場所を見て回った。


(二の丸堀と本丸堀へ通じる水路入口)

まずは社会福祉会館から二の丸堀端に出たところに、堀がやや広くなったところがあり、内へ通じる水門が開いている。発掘調査によると、その水路はクランク形になっていて、舟は通せないように作られたいた。しかしその先の本丸堀沿いには、駿府城の米倉があったことが解っていて、米を運ぶにはこの水路が使われたことは間違いないと推測され、舟以外の何かを使って運び込んだのだろうと思われる。ただ、現在のところ、その方法は解っていない。


(発掘された本丸堀)

東御門から駿府城跡に入る。東御門とその南の巽櫓は近年再建された。東御門には大きな桝形があり、桝形の出と入に二つの門があるなど、駿府城にとって、大手門より重要視されていた。本丸堀は、南東隅、巽櫓のすぐそばの角の部分が一部発掘されて、石垣の底の部分が出土したままに保存されていた。二の丸堀より内側は、明治29年、陸軍の歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められ、城郭施設は凡て取り壊された。したがって、その時に、この石垣の上部は削られたものである。

二の丸堀の西に架かる橋は、現在は恒久橋だが、往時は刎ね橋だったことが解っている。そのすぐ南に、どの駿府城の絵図面にも描かれている、真っ直ぐな道のようなものがある。東西に三の丸堀、二の丸堀、本丸堀と渡って本丸御殿の庭園まで延びている。これは本丸泉水路で、鯨ヶ池に湧き出した水を聖水としてここまで引いたものと言われている。もともと今川氏の居宅に引かれていたものを、駿府城にもそのまま利用したとされる。これはあまり知られていない事実である。

基本的に、現在の駿府城跡の発掘調査では、家康の駿府城の発掘に留め、その下にあるであろう、今川期の遺構までは発掘はされていない。ただ、一部今川期の遺構も見つかっており、それによると、今川家の居館もほぼ駿府城のあたりにあったらしいこと、また、家康が駿府九十六ヶ町を整備したと言われるが、その町割りの元は今川時代にすでに出来ていたらしいこと、などが解ってきた。

お昼を過ぎて現地で解散になった。会員の方に誘われて、蕎麦屋で昼食をとって帰った。
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‟直虎”文学散歩(4) - 掛川文学鑑賞講座

(龍潭寺の前庭のキミノセンリョウ)

‟直虎”文学散歩の続きである。

龍潭寺はずいぶんと賑わっていた。放映まえから、すでに直虎のブームが始まっている。我々のグループに付いた老僧の、本殿前での説明が随分長くて、集中が続かない。どうやら、庭園鑑賞で先が混んでいるので、ここの説明を長くしているのだろうと思った。龍潭寺には何度か来ているので、割愛する。


(井伊家の墓地、左側の5基の五輪塔)

バスは井伊谷宮の駐車場で待っている。順路として、龍潭寺の本殿左手から井伊家の墓地の前を通って、井伊谷宮へ回る道を教わった。井伊家の墓地は、正面に初代井伊共保(右)、22代井伊直盛の墓が並び、左右に5基づつ、五輪塔が並んで、コの字型になっていた。左側の5基の五輪塔は、奥より、直盛夫人、井伊直虎(次郎法師)、23代井伊直親、直親夫人、24代井伊直政の墓だと、案内板にあった。

山道を少し行くと、井伊谷宮の真裏に、宗良親王の墓が土塁に囲まれてあった。宮内庁の管理地で、土塁の中には入れない。


(井伊谷宮)

宗良親王の墓と背を接した形の井伊谷宮に参拝する。御祭神は宗良親王である。由緒によると、宗良親王は後醍醐天皇の第4皇子で、南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地、井伊谷を本拠に50年余にわたって、吉野朝(南朝)のために活躍した。その間、遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃などに軍を進められた。晩年、再びこの地を訪れ、元中2年、75歳で亡くなられた。なお、お墓は一見、山に向いているが、西に向かってたてられたとあり、思いを残す都に向けて墓を作ったものと納得した。

宗良親王は武のみならず和歌に秀で、その一種が歌碑になっていた。

   君が代を 絶えせず照らせ 五十鈴川
     われは水屑(みくず)と 沈み果つとも


井伊谷は来年にかけていよいよ賑わいを見せるであろう。自分が井伊谷を初めて訪れたのは、2年前のことである。同じ文学講座で、「女(おなご)にこそあれ次郎法師」梓澤要著、を紹介されて、読んだあと、息子に同行を頼み、個人的に訪れた。(その帰り、車の中で御嶽山の噴火の速報に接し、驚かされたのは、まだ記憶に新しい。)

2年前には、次郎法師直虎が大河ドラマに扱われるとは、夢にも思わず、それをテーマに選んだ、講師の和久田氏の先見の明には脱帽である。
(‟直虎”文学散歩の項、以上で終り)

読書:「十津川警部 愛と絶望の台湾新幹線」西村京太郎著
「台湾新幹線」に引かれて読んだ。著者も高齢となり、昔のような切れ味が無くなったと思う。台湾をうろうろする十津川警部の行動に、必要性が感じられないし、謎の解明が中途半端で、がっかりさせられる。
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‟直虎”文学散歩(3) - 掛川文学鑑賞講座

(井殿の塚)

朝一番で、当班が地区の宮掃除の当番に当り、出向いた。秋のお祭りの終わった後で、もっぱら、落ちた枯れ葉の掃除をした。落葉樹ではないけれども、照葉樹もけっこう葉を落す。新陳代謝しなければならないから当然なのだが、竹ぼうきで玉砂利の上を掃きながら、そうなんだと改めて思う。

一昨日、駿河古文書会で通った、城北公園では、風が吹くわけでもないのに、ケヤキの枯れ葉が、雪でも降るように、下を歩く身体に降り注いでいたのを思い出す。もちろん地面は枯れ葉で敷き詰められていた。すでに掃除の作業車が入っていたが、これを掃くのは大変だろうと同情した。

宮掃除は一時間は掛かると思い、皆さんより少し早めに仕舞わなければと考えていたが、存外に早く終わってしまった。そのあと、予定の駿河古文書会の見学会に、静岡へ出掛けた。会場の社会福祉会館には、10時の集合より随分早く着いた。(見学会の話は後日)

‟直虎”文学散歩の続きである。

井伊谷城跡から下る。登りと違って下りは楽である。会員のY氏と元気よく下った。途中の分かれ道で来た道とは別の、二宮神社へ通じる道を下った。講師の和久田氏より、分かれ道を下り、二宮神社へ訪れることを勧められていたので、行ってみた。


(二宮神社)

下った所に二宮神社はあった。かつては、井伊郷の荘司、三宅氏の始祖多道間守(たじまもり)を祭神とし、三宅神社と呼ばれていた。井伊城を拠点に、中部、関東の諸国に活躍した、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が当地で亡くなったあと、その尊霊をこの三宅神社に合祀し、以後、この二柱を祭神として、二宮神社と呼ばれるようになったと、神社の由緒にあった。

地元の方に尋ねながら、集合場所の図書館に戻る途中、「井殿の塚」に寄った。玉垣に囲まれた狭い矩形の地に、タブノキの大樹と、小さな2基の宝篋印塔が立っていた。「井殿の塚」は、直虎の祖父21代直宗の弟、直満(直政の祖父)と直義を供養したもので、井伊氏居館の一画にあったという。直満、直義兄弟は、井伊家の家老、小野和泉守の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で今川義元によって殺害された。井伊氏一族の苦難の歴史、その始まりの事件であった。


(共保出生の井戸の橘)

この後、龍潭寺へ移動、最初に井伊氏初代共保出生の井戸を訪れた。訪れるのは3度目だろうか。そばに橘(ミカン)の木があり、キンカンより少し大きいくらいの、小さい実をたくさん付けていた。訳知りの会員が、この実は江戸時代には収穫して、彦根城の家臣たちに、縁起物として配られたと説明があった。もっとも橘の根元にはライオンズクラブ植樹との表示杭があり、もちろんこれがその橘というわけではない。(つづく)
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‟直虎”文学散歩(2) - 掛川文学鑑賞講座

(天白磐座遺跡)

午後、駿河古文書会に出席する。

‟直虎”文学散歩の話を続ける。

直親の墓の見学の後、気賀関所に寄った。関所自体、江戸時代に設けられたものであり、ここで直虎の関連する何を見ればよいのか不明だったが、時間がたくさん取ってあったから、隣の図書館に見るべき展示が何かあったのかもしれない。しかし、あいにく図書館は図書整理か何かで休館であった。気賀関所は何度か来たことがあるが、70歳以上は無料であった。年を取ることの利点をここにも見た。


(渭伊神社の天生杉)

続いて、渭伊神社に向かう。引佐町井伊谷字天白に位置する。往昔より渭伊二十七郷の大産神であった。井伊家の産神としても尊崇されていた。昔は龍潭寺境内にあったというが、南北の兵乱の時、この地に移された。本殿前には御神木「天生杉」が、枯れて倒れた古杉をつっかい棒のようにして立っていた。樹齢は300年位であろうか。

渭伊神社の背後の小山には、天白磐座(いわくら)遺跡があった。こんな巨大な岩々がこの地にどうして存在するのか。古代の人々が神の依代とした気持が、現代でもなお感じられる磐座であった。発掘調査では古墳時代から平安時代まで、連綿と続いた祭祀場であったことが、遺物によって解明されたという。渭伊神社がこの地に遷されたのも納得される。

天白磐座遺跡のあと、井伊谷城跡に向かう。バスを図書館のそばに止め、15分ほどの山登りである。久し振りの山登りに、かなりきつい。途中設けられた2ヶ所の休憩処で休み、息を整えながら行く。2度目の休憩で、この講座の講師の和久田氏と少し話した。お遍路で1500キロ歩いて、その時は毎日この位の山を幾つも越えて来たのだが、久し振りの山登りでけっこうつらいと話す。和久田氏には前に自分のお遍路の本を差し上げてあるのだが、そこへ話題が及ばなかった。忙しくて目を通している暇が無かったのだろうと、少しがっかりした。


(井伊谷城跡)

皆んなあちこちで昼食をとる。自分も和久田氏と同じベンチで持参おにぎりを食べた。井伊谷城跡は前に来た時と何も変わらず、何も無かった。ただ、展望デッキが出来、案内板が新しくなっていた。

参加者の一人が和久田氏に質問をしていた。日常は下の居館に住んでいて、戦時は三岳城を本城としていたとすれば、この井伊谷城はどんな時に使われたのだろうか。少しニュアンスは違うが、そんな質問だったのだろう。なかなか答えにくい問題で、明確な答えは無かった。おそらく、日常、井伊谷城と下の居館は併用されていたのであろう。例えば、プライベートは居館で、公式の時は井伊谷城でというように。まあ、来年の大河ドラマでどう描かれるのか、注目してみよう。(つづく)

読書:「夜行」森見登美彦著
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‟直虎”文学散歩(1) - 掛川文学鑑賞講座

(三の丸広場にある瓦のシャチホコと掛川城)

朝から、掛川文学鑑賞講座の“直虎”文学散歩に参加した。駅まで息子の出勤の車に同乗したので、駅からゆっくり歩いて来たけれども、8時30分集合の所、8時前には集合場所の三の丸広場に着いてしまった。さすがに誰も姿がない。お天気が良いので何とも気分は良い。紅葉を入れた掛川城などを、デジカメで撮ったりして、時間をつぶした。参加者が集まり出したのが8時15分ごろで、市のバスも図書館の担当も集った。そして30人の参加者を乗せて、予定通り8時40分に出発した。

最初に訪れたのは、浜松市祝田の鉢前神社である。ここには既視感があった。「遠州濱松軍記」をこのブログに解読掲載していた時、三方ヶ原の根洗松から細江方面に下る旧道、祝田坂を訪れていた。この祝田坂で、信玄と家康は三方ヶ原の戦いの火蓋を切った。その麓に蜂前神社があり、おそらく当時、戦いのただ中にあっただろう。その時、この神社にも訪れていた。


(祝田の鉢前神社)

三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1573)のことで、それよりわずか20年足らず前の、弘治元年(1555)、直虎の許婚だったと伝わる、亀之丞(後の直親)が、身を隠していた信州から帰還し、井伊家の領地だったこの地、刑部郷に住み、桶狭間で主君・今川義元と同時に戦死した直盛のあと、井伊家の家督を継いだ。奥山因幡守の娘を娶り、後に徳川四天王に数えられる井伊直政が生まれている。

それから、直親は10年足らず後の、永禄5年(1563)、家老小野但馬守の讒言を、弁明に向かう途中の掛川で、今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年28。その時、20人の一行であったが、全員殺され、直親の身だけが当地に運ばれて、家臣たち19人は現地で葬られた。それが、今に掛川に残る十九首塚(平将門の首塚と伝わる)だという新説が出ている。

この鉢前神社には、還俗して直親の跡、家督を継いだ直虎に対して、今川氏真から迫られた徳政令(拒み続けるも、2年後実施)に関係する直虎が出した書状がその花押とともに残っており、現存する直虎唯一の花押とされている。(この書状は先週の「駿遠の考古学と歴史」講座でも話があったが、鉢前神社の所蔵とは認識していなかった。)


(井伊直親の墓)

鉢前神社を後にして、それほど離れていない、井伊直親の墓に行った。直親の墓は、都田川の土手下にあった。直親の屋敷跡と墓地は都田川添いにあったが、川の改修で無くなり、墓のみ、この地に移されたという。その小さな墓は当時の井伊家の置かれた位置を示している。墓前の2基の石灯籠は、桜田門外の変時の大老・井伊直弼が、井伊家の御先祖の墓参に訪れた時に、寄進されたものという。(つづく)
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掛川花鳥園に行く

(オニオオハシ)

午前中、女房がかなくん母子に約束していた掛川花鳥園に、体調を壊した女房の代理で出かけた。同行する掛川のまーくん、あっくんを、掛川の家に寄って乗せて、総勢5人で出掛けた。

長屋門を模した入場口で、60歳以上は割引になると聞く。証明するものがありますかと聞くので、顔を見れば判るだろう(60歳以上かどうかは)というと、決まりですからと返って来る。運転免許証を見せてOKとなる。80を越すような人にも同じ扱いなのだろうか。

長屋門風の建物には、世界の様々なフクロウたちがいた。オシドリの池ではたくさんの水鳥たちがいて、入場者が餌を買って、鳥たちに与えるので、臆病なカモなどの水鳥が、人を全く恐れずに、くっ付かんばかりのそばまで寄ってくる。こんなに無警戒になられると、人間の方が戸惑ってしまう。

鳥たちとの記念撮影のコーナーを過ぎて、インコとスイレンプールのコーナーに入る。ここでも餌につられてインコが警戒することなく、肩や手にとまる。プールには色とりどりのメダカのような小魚がいっぱい泳いでいた。次がエボシドリとヘラサギのコーナーを通って、オオハシとトキの水辺ではフラミンゴやトキが観客と混ぜこぜになっていた。この中で、子供たちに最も人気があったのは、オオハシという身体の大きさに匹敵するほどの大きな黄色いくちばしが特徴で、子供たちはバナナドリだといって喜んだ。


(卵を抱く黒鳥)

屋外には広場と池があって、ハクチョウの池、ペリカンの池などがあり、黒鳥が卵を抱いていた。またエミュー牧場でも、柵の中にダチョウを一回り小さくしたエミューがいて、観客も柵の中に入って、中には餌を持った子供がエミューに追いかけられたりしていた。


(蛇を蹴るヘビクイワシ)

天井からペゴニアなどの花がいっぱい下がった休憩所で、娘が作ってきたおむすびやサンドイッチなどで昼食を取った。昼食後、バードショーを見た。タカとフクロウと、ヘビクイワシが出演した。タカは一度顔見世をしたが、その後は森に飛んで行って戻ってこなかった。フクロウは羽音を立てないということを始めて知った。ヘビクイワシがゴム製の蛇の頭を長い丈夫な足で蹴りつけるさまがユーモラスであった。鎌首を上げると、跳びけりをくらわした。

3人の孫たちを外で観察するのは、初めてのことであった。名古屋のかなくんは、すべてにおいて大胆で、1人でずんずん行ってしまい、放って置くと迷子になりそうで、常に視界に入れて置かねばならない。一方、掛川のまーくんは何事にも慎重で、人ごみでは大人の手を離さない用心深さがあり、1人で行動するかなくんを逆に心配している。あっくんは覚束ない足取りながら、二人に付いて行くが、どちらかというと、かなくんの後を追っていることが多い。

鳥の観察ならぬ、孫の観察をしてきた掛川花鳥園であった。
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掛川古文書講座史跡めぐり(2)

(雨桜神社本殿)

(昨日の続きである)
馬場から、バスで北へ2キロほど入った所に雨桜神社がある。社殿下に谷川が流れていて、石橋を渡り、石段を登って社殿に詣でた。谷川は昔は水垢離(禊)をした場所なのかもしれない。水辺まで降りる石段があった。社地全体に神聖な雰囲気のある神社であった。

雨桜神社は応永27年(1420)の銘のある金鼓があり、そのことから、応永年中の草創と考えられている。祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫尊、八王子命で、神仏習合によれば、牛頭天王と素戔嗚尊は習合されているから、(牛頭)天王社と呼ばれた。

境内に桜木があり、桜彦と呼ばれて、その桜木の元に雨乞いの祈願をすると、霊験があったという。地元の方の話で、桜の木をあまり叩いき過ぎたので枯れてしまったという。雨乞い神事の中で、桜の木を叩いて雨を呼んだのであろうか。いずれにしても昔の事ゆえ、どのような神事であったのかは不明である。もちろん、用水が発達して、現代では雨乞い神事も廃れてしまった。

天王社は桜の字を頂いて、天桜(てんのう→あめざくら)社となり、雨乞いの御利益から、さらに雨桜(あめざくら)神社となった。


拝殿に上り、講師が戸塚家から借用してきた、雨桜神社や馬場、大杉、六所神社一帯の絵図面を、広げて見せていただいた。また、長々と書かれた訴詔文書や戸塚家が頂いた風折烏帽子着用の許可状などの現物を見せていただいた。


(雨桜神社の御神輿)

境内の倉庫内に、3基の御神輿が仕舞われていた。現代のキンキラの神輿ではなく黒っぽい神輿で、江戸時代から伝わるものらしい。今はお祭りには馬場まで車で運ばれ、流鏑馬の奉納のあと、六所神社まで渡られるのだそうだ。


(見納めの平尾家の長屋門)

雨桜神社を後にして、歩いて旧家の二つの長屋門を見学に行った。最初に訪れたのが、平尾家の長屋門である。平尾家は代々雨桜神社の神官を務め、上垂木の上の宮の名主を務めていた。平尾家の長屋門は、桁行12.3メートル、梁間3.7メートル、屋根は桟瓦葺の入母屋造りである。建築年代は江戸時代の後期といわれる。かなり老朽化が進み。四方の軒が崩れそうで、下からの支えでようやく保たれている。手を入れる時期が来ているが、現代では無用の長物の長屋門に、うん百万といわれる修理費が捻出できず、近いうちに解体されると聞いた。


(美しい中山家の長屋門)

もう一つは、中山家の長屋門である。中山家も江戸時代、上垂木村の庄屋を勤めた。桁行14.0メートル、梁間4.5メートル、ここも、桟瓦葺の入母屋造りで、建築年代は江戸時代の後期といわれる。きれいに修理されたばかりのようで、長屋門の存在が、屋敷全体のフォルムを何とも美しく見せていた。長屋門にはそんな役割があったのだと、改めて知らされた。
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掛川古文書講座史跡めぐり(1)

(六所神社)

午後、掛川古文書講座で、年1回の史跡めぐりに出席した。この一年間、講座では掛川市の上垂木地区の古文書を読んできた。今日はその中に出てくるゆかりの地を巡る。掛川市のバスを出してもらったが、参加者が多くて乗り切れずに、マイカーも3台ほど付いて出掛けた。

コースは神社の神職をめぐる出入で出てくる、雨桜神社や六所神社をはじめ、垂木の大杉、馬場、平尾長門家、中山家、大雲院、十二社神社と盛り沢山である。


(垂木の大スギ)

最初に訪れたのは六所神社、その参道に「垂木の大スギ」が立っていた。巨木巡礼で、かつて来た記憶があった。案内板によれば、「垂木の大スギ」は、樹高18メートル、幹周り4.5メートル、根周り6.7メートルで、天明8年(1788)の古文書「六所大明神御境内絵図」に、この大スギが村境の標識として描かれている。

言い伝えでは、幹に当時から大人が立って入れるくらいの洞があったという。現在は塞がれているというが、確かに穴を塞いでしまうほどの、自然の治癒力はあるけれども、洞が出来て塞がったとすれば、もっと太くてよいはずである。200年も経てば幼スギでも幹周り4.5メートルくらいには十分に育つから、「垂木の大スギ」は当時のスギとは別のものだろうと思った。


(鞘殿が掛けられた六所神社本殿)

歩いて数分の石段の上に六所神社の境内があった。拝殿は最近出来たものといい、奥の本殿は鞘殿の中に納まっていた。訴詔の相手方になっていた釣鐘銘文を主張した戸塚家、中村家は、六所神社の北側に、現在も子孫が住んでいると聞いた。六所神社略記の案内板によれば、応永年間(1394~1428)に天王社(現、雨桜神社、上の宮)造営について、今川氏より下の宮(六所神社)の修理の寄進があったと記載されている。創立は雨桜神社より古いようである。元は「尾崎宮」あるいは「真草天王」などと称されていたが、雨桜神社の造営にともない、近郷五社を合祀して六所神社と称するようになった。


(流鏑馬神事が行われる馬場)

六所神社を後にして、往還まで出たところに、馬場と呼ばれるところがあり、道路に沿って200メートル足らずの馬場になっていた。その北の端に、お祭りのときに、雨桜神社の三基の神輿が仮安置される、石畳状の台があった。その台に何人か乗っていたけれども、説明を聞いてあわてて下りた。そこより南に馬を走らせ、流鏑馬が奉納されるという。地元の方の説明によれば、馬はサラブレッドでは駄目で、木曽馬を借りてくる。五頭借りて、一頭で15万円ほど掛かる。費用は村の有力者たちが費用はしてくれることになっている。近年は市からも補助があると話す。ちなみに流鏑馬の射手も頼むのだという。ちなみに今年は七月十四日に挙行される。
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サンドバイパスシステムと「平成の命山」の工事現場

(「平成の命山」工事現場)

1月8日の書き込みで、袋井に出来る「平成の命山」について書いた。日曜日、バルーンダムを見学して、お昼にはまだ余裕があったので、「平成の命山」を見て来ようと話し、吉田インターから東名に乗り、掛川で下りて、エコパの脇を通り、小笠山をトンネルで抜けて行く。目指す「平成の命山」は袋井市の海岸寄りだろうと見当をつけて、国道150号線よりも海寄りの道を行った。工事が進んでいるなら、目に飛び込んでくるはずと考えていたが、袋井市を抜けて磐田市に入ってしまい、福田港に出てしまった。

福田漁港の東に、高さ10メートル足らずの高台が海に向けて延びて、公園化されていた。辺りの地形から見て人工的に土盛りして造られたもののようで、車を下に停めて登ってみた。少々の津浪ならこの高台に避難すれば避けられるだろうが、予想される最大値の津浪ではどうであろうか。公園の海側に、漁港の埋没と海岸浸食の状況を示した案内板と、工事が進んでいるサンドバイパスシステムの説明板があった。

福田港周辺の遠州海岸は東から浅羽海岸、福田漁港、太田川河口、磐田海岸、竜洋海岸、天竜川河口、遠州浜海岸、馬込川、中田島砂丘と連なっている。元々天竜川という砂の大供給元があって、海岸には広い砂丘が連なっていた。ところが近代化に伴い、ダムが出来、水利が進んで、天竜川の流れも弱まり、川砂の採取が進み、海岸に供給される砂が減って、砂丘が浸食される傾向が続いていた。

ダムの運用方法の変更、川砂の採取の制限など、砂の供給を増やす努力が続けられる一方で、福田漁港が整備されると、その防波堤に遮られて、砂が太田川河口や福田漁港を埋めるように溜まり、浚渫に多額の予算を費やすようになった。反対に、福田漁港の東側の浅羽海岸には、砂の供給が無くなって、侵食が激しさを増すようになった。

サンドバイパスシステムは太田川河口に溜まる砂をジェットポンプにより、海水とともに吸い込み、パイプで運んで、浅羽海岸に放出するシステムである。事業期間平成14~27年、目標土砂移動量、年8万立方メートル、総工費40億円だと記されていた。昨年には試験可動も行ったらしいが、見たところ、どこで工事がされているのか、景色の中には見えない。このようにほとんど知られることがなく進んでいる事業が、まだまだたくさんあるのだろうと思った。


(津浪避難タワー、そばに幼稚園がある)

帰りは国道150線を通ってみた。東へ向かって間もなく、南側の国道端で「平成の命山」の工事現場を見つけた。土盛りを始めたばかりのようで、完成までには、まだしばらくは掛かりそうであった。この地域には高台が全く無く、すでに所々に避難タワーが建っていた。タワーの強度は計算されていると思うが、土盛りと比べると、何となく頼りなさそうに感じる。潮風の地域だから、頻繁に塗装をしなければ錆が早いから、維持費もかかるだろうと思った。
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農業用水施設、円筒分水とバルーンダム

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日曜日の午前中、息子が変わった土木構築物を見に行くが、一緒に来るかと聞く。どんなものだと聞けば、農業用水用の、円筒分水設備とゴム引布製起伏堰(バルーンダム)だという。いずれも近くにあるというので、車に同乗した。

近頃、息子はダム見学を趣味にしていて、週末に車で近県のダムを走り巡っている。昔から、ダムを訪れると、ダムの姿を入れた絵葉書などを頂けたものであるが、平成19年度の「森と湖に親しむ旬間」中より、ダムカードをダムを訪問した人に配布するようになった。デザインは統一され、カードの表にダムの写真、裏にはダムのスペックなどが書かれている。

当初は配布されるダムはわずかであったが、八ッ場ダムの工事中止騒動のあった頃から、一気に配布ダムが増えて、現在、全国で261のダムで配布するようになった。ダムは悪といわんばかりの風潮に対して、ダムの有効性の宣伝活動の一環とされたものであろう。収集家の一アイテムとなっている。

ダム巡りの途上で、様々な水利関連の構築物にも興味を持つようになったようで、そんな情報も、ネットで探せば訳なく情報が得られる時代である。

最初に、市内阿知ケ谷にある円筒分水設備を見に行った。はなみずき通りを東へ進み、最近、工場跡地にできた大型商業施設に出る直前、大津谷川の左岸側にある。靜岡県では外には三方ヶ原に一ヶ所あるだけといわれる、大変珍しい構築物である。

農業にとって水を確保することは大変重要なことで、江戸時代以降、各地に用水路がたくさん作られた。教科書で学んだ箱根用水や愛知用水を思い浮かべるが、ここ大井川にも大井川用水があって、東は焼津市から西は袋井市まで、8市1町に及ぶ広い地域に農業用水を供給している。

水を如何に平等に各村々に配るかは、大変難しい問題で、往古から水の多少をめぐって、幾多の水争いが起きてきた。円筒分水設備は、円筒の中央にサイフォンなどで水を湧き出させ、円形の堰を越させて、決められた割合で水を分ける装置である。これも大井川用水の一部なのだろうか。どこから水が来ているかは、少し調べたけれども解らなかった。


(湯日川のバルーンダム)

円筒分水の次に、ゴム引布製起伏堰(バルーンダム)を見に行った。東名吉田インターにすぐ近くの、湯日川に設置されている、農業用水の取水のため、湯日川を塞き止める堰である。可動堰の一種で、ゴム引布製の本体に水を注入、排出により、堰を起こしたり伏せたりさせる。このように起伏するゲートを持つものを起伏堰という。通常は水を注入して、ゲートを起こし水をせきとめているが、増水時は水を抜き、ゲートを倒して放流する。

バルーンダムは10年前に全国で2400例を数えたというから、それほど珍しいものではないようだ。日本で設置が始まってから50年足らずで、耐用年数は30年だという。
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