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掛川市立図書館文学講座、蒲原・由比文学散歩

(旧五十嵐歯科医院)

恒例の掛川市立図書館文学講座の、「蒲原・由比文学散歩」があった。くじに外れていたが、欠席者がたくさん出て出席することになったことは書いたが、今日、朝から早くから掛川市のバスで出かけた。補助席が空いていて、満車というわけではなかった。蒲原・由比は何度も訪れたことがあり、珍しくもなかったが、何か新しい情報が得られるのではと期待した。

最初に訪れたのは蒲原宿の旧五十嵐歯科医院であった。二階の診察室などには歯医者らしい道具が色々置かれていたように記憶するが、今は診察治療用の椅子が一脚置かれたいるだけで、がらんとしていた。現在、建物を管理しているNPO法人の女性が案内してくれた。近江八景や富士と松原を透かし彫りにした欄間や、花鳥風月で四季を描いた襖、金箔に花を描いた天袋など、中々贅を尽したものに見えた。

裏庭の井戸には、大きな旧式の電動ポンプが乗っており、その奥に御蔵が二棟建ち、その向こうにはやゝ高い所に、患者のための宿泊施設まで備えられていたという。かなり遠方より治療にやって来て、日帰り出来ない患者のためだという。


(木屋の文書蔵)

ぽつぽつ来た天気模様に中、蒲原の古い街並みを歩き、広重の「夜之雪」記念碑や、なまこ壁の商家などを見ながら、木屋の文書蔵の見学をした。雨の中、蔵の外で、長い時間説明があり、蔵の中に入ってからも、熱心に案内して頂いたが、最高齢89才までいる年寄グループにとっては、ずっと立ったままでの見学は、中々の苦行であった。ほとんど限界だったとの声も聞こえた。

しかし、自分にはいくつかの発見があった。珍しい三階蔵で、四方転(しほうころび)という耐震工法で建てられ、安政の大地震にも耐えたという。四方転は23本の通し柱が中心に向けて少し傾けられた工法だと聞いた。

木屋は材木問屋で、富士川流域の天領の材木を一手に扱っていて、富士川から蒲原の港へ材木用の運河や堤を造ったと聞き、話が終ってから、二つの質問をしてみた。

富士川の渡しに舟橋があったのかどうかという質問には、朝鮮通信使などの特殊な通行に作られたことはあったが、何れも一時的なものであった。通常は渡し船が利用されたとの答えだった。

甲州の年貢米は富士川を舟で運ばれ、岩淵で陸へ上げられ、蒲原の港まで陸送、小舟で清水まで運ばれ、千石船などに載せ替え、江戸へ運ばれたというが、この運河を使えば速やかな搬送が出来たと思う。当時、そういう願いが出たことはなかったのだろうか。この質問には、確かにそのような願いが出たことはあるが、許可されなかったという。同じ天領の年貢米と材木、どうして使わせなかったのかという疑問は残るが、船と材木を通すとための、技術的な問題があったのかもしれない。


(東海道広重美術館の門)

昼食の後、東海道広重美術館を見学して、由比の街歩きの後、すっかり空の雲が払われた、夕日の中、帰路についた。
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「徳さんのお遍路さん」と「杏が歩く!恋する東海道」

(庭の沈丁花のつぼみ)

いずれもBSの番組で、「徳さんのお遍路さん」(BSTBS)と「杏が歩く!恋する東海道」(BSJAPAN)という番組が昨日、今日と放映された。

「徳さんのお遍路さん」は運だけでアナウンサー業を渡り歩いてきたと自ら話す、徳光和夫さんが、四国遍路をするという、10月から始まった毎週日曜朝30分の番組である。アナウンサーの中で、もっともお遍路には遠いと思われる徳さんが、ビシッと遍路衣装に決めて、お遍路をする。そのミスマッチが面白くて、毎週録画して見ている。

一見、すべてを歩いて回っているように見えるが、遍路経験者から見ると、ほとんどを車で回っているのが分かる。先週、鶴林寺で次の太龍寺に向かうと言って下山し始めたのは駐車場への道で、遍路道はお寺からすぐに険しい下りの山道となる。今日はロープウェイに乗っている映像があったから、すべてを歩いているわけではないことは判ったが、言葉の端々に歩いて回っているらしく見せているのは、覚悟が悪い。もちろん、お遍路はどんな形でもよいと言われるから、それにはそれほど目くじらを立てるわけではない。

地元の方と立ち話するシーンが多く出てくるが、会話がどこかぎこちない。徳さんにお遍路の自覚がまだないからだろうか。あれだけお遍路姿にビシッと決めていながら、今御遍路で回っているという説明はいらない。お遍路姿を見れば判る。日頃身に付いたバラエティ的な悪ふざけを、サービス精神からか、会話の端々に入れる。相手がタレントであれば、突っ込みも貰えるが、一般の人ではするりと滑る。言葉が馬鹿丁寧なのは、一般の人には、親しみが持てない。その点、鶴べえさんの家族に乾杯は、一見乱暴な言葉遣いに感じるが、見事に一般人の心をとらえている。

「杏が歩く!恋する東海道」は、歴女として知られる女優の杏さんが、念願であった東海道の踏破に挑む番組で、しばらく前に、初回を見ていて、大井川を徒歩渡りするといって、杖一本持って本当に渡ってしまった。これにはびっくりであった。前回が丸子宿から袋井宿まで2泊3日の踏破で、ファッションモデルでもある大股な歩きっぷりには、すべてを歩くという意思が感じられた。

2回目の今回は、吉原宿から丸子宿までである。今回は流れの速い富士川を一人で手漕ぎのボートで渡ってしまった。蒲原宿では古文書を前に目を輝かし、何時間でも居たいと語った。そんな女性を始めてみた。古文書を読む勉強もしているという。「歴女」が流行語大賞でトップテン入りしたときに、その受賞者になったというのも頷ける。ちなみに、尊敬する歴史上の人物が新選組の永倉新八だという。永倉新八は、新撰組の中で、唯一明治まで生き延びて、天寿を全うした男である。彼が残した書物で、敵役でしかなかった新撰組が見直された。しかし、何とも渋い選択である。
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塩の道を行く① 相良-小笠 その2

(塩買坂を下ると正林寺)

(昨日の続きである)
塩の道相良起点から歩き始めて、すぐに一段高い大きな道路(国道473号線バイパス)に行く手を阻まれた。この後、園坂を原に向けて登って行くことになる。行く手の小山に見当をつけて、左手へ少し歩き、ガードで道路を横切り、山の端まで歩いて、茶園の消毒の準備をしているおばさんに道を聞いた。塩の道はバイパスの左側に沿って登る道だと、その方向を指し示した。さらに正林寺に降りる塩買坂は、今は荒れて通れなくなっていると、問わず語りに情報をくれた。


(塩の道共通サインとウォーキング姿の男性)

園坂の登り口に塩の道の標識を見つけた。そこへ下ってきたお爺さんが原に登るとT字路が在るから、それを右へ行くと教えてくれた。右手に池、左手にバイパスを見ながら農道のような道を登って行く。やがて前上方の山中にガードレールが見えた。そこからこちらを覗く人影が見えた。その道に出るのかと思ったが、並行するように登って行って、原に登り切ったところで合流した。その鋭角の角に馬頭観音の祠があり、ウォーキング姿の中年男性がストレッチをしながら、どうやら自分が着くのを待っていてくれたようだ。先ほど上から覗いていたのはその男性であった。塩の道の確認すると、お堂の向こうにある塩の道の共通サインを指差した。東海道の共通サインと同じような道しるべである。これから道中で幾度も見るようになるだろう。

ジャージの男性は登山をやっていて、主に南アルプス最南の山々に冬期に登っていると話す。自分の仲間以外に誰にも会わない静かな山で、テントを担いで薮漕ぎをしていく。今はトレーニングで負荷をかけるため山道を駆けたりしている。昨日は花沢の里から花沢山、満観峰、更に高草山に登り返して、あのコースでは最長に山を歩いてきた、などと話す。沢口山の遭難の話を向けると、沢口山は標識が少なくて、板取から大札へ抜ける縦走路の方に入ってしまったのだろう。間違ったと気付いたらひき返せば良かったのに、沢へ向かって降りる最悪の選択をしてしまった。

この後、原を西へほぼまっすぐにひたすら歩いた。分かれ道に小さな「秋葉道・塩の道」という標識が立っている。その矢印をたどり本の地図と照合しながら歩いた。途中ですれ違ったおばあさんが、寒くなったねぇという。歩くにはちょうど良い温度です、というと納得して過ぎた。

やがて塩買坂の下りに入るが、もちろん現代の自動車道である。途中、右側を振り返ると草生した古い小祠に行く参道の脇に「塩買坂・車坂」という表示があった。祠まで登ってみたが、塩買坂の古道につながりそうな道は見出せなかった。おそらく古道はこの辺りから正林寺へ下って行ったのであろう。所々に残っているというから、出来れば古道を復活してもらいたいものである。

標識に従って自動車道から右手に逸れて、農道を下って行った。谷の底を自動車道があって、そこへ出たところに小さな祠が見えた。地図に徳本堂とあるのがそれであった。標識のない農道をその徳本堂を目指して下って行った。徳本堂から右手へ入ったところに正林寺がある。ここには昔、遠江三十三観音巡礼で立寄った記憶があった。正林寺で、お寺らしく清潔に保たれたトイレを借りて、気分をすっきりさせた。(次回へ)
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塩の道を行く① 相良-小笠 その1

(塩の道相良起点、小田宮明神)

秋の超散歩を始めて色々とコースを考えた。自宅から歩ける所は四方八方に向けて歩いているから、新しいコース取りを考えるのが難しくなっていた。同じところを何度も歩くのは気に入らない。電車で行った駅から歩き始めることにすれば、いくらでもコース取りができるのだが、それならば、近隣の旧街道を歩いてみようと思った。

本棚に参考資料を探したところ、目に付いたのが「塩の道ウォーキング」という本であった。塩の道は全国にたくさんあるが、相良の塩田で出来た塩を信州へ運ぶ塩の道は、かつての秋葉街道と重なって、盛んに利用された。今も各所に歴史をまとった古い道が残っているという。

本書は、秋葉道・塩の道踏査研究会と掛川歩こう会が歩いて調査したもので、2000年に出版された本である。すでに買ってから10年経っている。国土地理院の地図にコースが記されていて、実際に歩くには使えそうだと思い買ってあった。靜岡空港や第二東名などの工事で、変わっていなければ良いがと思う。変わってしまっていれば、色々な人に大いに道を聞こうと思う。それもまた街道歩きの楽しみである。

スタートは相良の町の大原(おわら)というバス停である。今朝を初日とした。天気は快晴、雨の心配は無い。金谷駅から相良へ静鉄ジャストラインのバスが出ている。地域の小学校の通学用に出ているバスのようであった。朝7時30分に乗車、途中、牧之原小学校の児童が乗ってきて賑やかになったが、他は客は数人居ただけであった。


(塩の道相良起点スタンプ)

終点二つ手前の大原バス停でバスを降りた。新しく出来た街中で、大型店舗がいくつもあるが、自分がどちらを向いているのか、どちらへ進んでいいやら、方向感覚を全く失ってしまった。どこかに塩の道のスタート地点があるはずだと、20分ほど行ったり来たりした。国道473号線大沢IC入口の交差点に立って、西の方向に公園らしきものが見えたので、行ってみたところ、そこが起点だった。塩の道相良案内所の小屋があって、スタンプなども置いてある。たぶん、後へ続く人も苦労するだろうから少し詳しく書いた。

そばに小田宮明神という小さな祠があった。その由来を書いたパンフレットも置いてあった。400年昔、園村には水が無くて旱に苦しむことが多かった。次郎右衛門という百姓が水路を作って水を引くことを思い立ち、役人に願い出たが許可が出なかった。次郎右衛門は命を賭して、隣村の一軒一軒に承諾を取り、工事を強行した。結果、次郎右衛門は命令に逆らい流れを変えたとして死罪になった。しかし水路は役人が中に入って隣村と分水できるようになった。小田宮明神は村人が義人次郎右衛門を祀ったお宮だという。

まだ歩き始めない内であるが、続きは明日以降とする。
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東海道分間絵図の世界

(「東海道分間絵図」の金谷宿辺り)

午後、「島田金谷の考古学と歴史」第8回に出席した。今日のテーマは「近世東海道を歩く-東海道分間絵図の世界-」である。「分間絵図」とは、辞書によると「街道などの距離・高低などを測量して、その結果を縮尺して書き表した図。地図。」とある。

分間絵図の歴史を追ってみる中で、最初に注目されるのは、江戸幕府が諸大名に命じて調進せしめた国ごとの地図の「国絵図」である。1644年、1696年、1835年の3回作られている。縮尺は1里=6寸、つまり21,600分の1の縮尺であった。全国をそれぞれ74枚、84枚、83枚と例外を除いて1国1枚にまとめたものであった。

次に「江戸図」は北条氏長の「万治年間江戸測量図」に始まるが、やがて遠近道印の各種「江戸図」が発行され、一般庶民にも手に入るようになって、評判を呼んだ。

勢い付いた遠近道印(おちこちどういん)と版元は1690年に「東海道分間絵図」を出版した。縮尺は三分=一町、つまり12,000分の1の縮尺で、菱川師宣が絵を描き、折本5帖で、巻1-日本橋から小田原、巻2-小田原から府中(靜岡)、巻3-府中から吉田(豊橋)、巻4-吉田から亀山、巻5-亀山から京の構成になっている。

今日はその内の巻3のコピーが準備されていて、解読して言った。初めに分間絵図に書き込んだことが箇条書きされている。
   一 宿々において方角付の事
   一 宿々板屋くすや書分事
   一 村々名所旧跡付の事
   一 橋々間数付の事
   一 道中寺社の書付の事
   一 宿々名物をしるす事
   一 遠近山成り、所々において富士山見所事
   一 馬継駄賃問屋名付事
   一 並木松杉書分の事
   一 一里塚に何木何本有事
などが挙げられ、実際に地図に克明に記されている。現代の地図にも通じるものがあって面白い。

清書をするのに、浮世絵の創始者といわれる画師菱川師宣に依頼し、わかりやすくするために風俗なども加えて描きたいという画師の意見も入れて、「東海道分間絵図」は板行された。コピーを解読しながら見ていったが、実際に旅をしているように絵図が楽しめる。よく売れたようで、内容を改定したものがその後何版か出版されている。

東海道を扱った出版物としては、浅井了意作の旅日記仕立てのガイドブック「東海道名所記」や、秋里籬島作・竹原春泉斎絵の名所案内である「東海道名所図会」がある。その後、東海道物としては、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」へと発展し、地図という面では、内陸部には1807年に「東海道分間延絵図」が作成され、海岸部は伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」へと発展していく。

今日の講義では既知のことが多かったが、それらを江戸時代における一つの系譜として捕えた点は勉強になった。また分間絵図が、描かれた絵の部分と、測量に基いた地図の部分を兼ね備えたものであることを初めて知った。デフォルメされて実際の距離とは関係の無い絵なんだろうと思っていたが、意外と正確に実測されたものだと知った。
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「妙井渡」と「こはま」実地踏査 その3

(湧き水から牧之原台地に上がる-「こはま」はこの辺りにあったのではないか?)
(茶園の開墾時に土器や瓦が出たと伝わる)

(前回の続き)
色尾道を実地に踏査して、「妙井渡」と「こはま」がおおよそ推定できた。その結果を論拠とともにまとめておこう。

鎌倉時代に実際に旅をした人の気持になって踏査してみると、机上で考えていたのとはまた違うことが分かる。まずは「海道記」のメインの文は「妙井渡という処の野原を過ぐ」の短いものである。「妙井渡」に湧き水があることはその後の文と和歌で分かる。「妙井渡」は「妙井戸」だとすれば、まさに水場を表わす地名である。「野原」は牧之原台地上であり、そこに湧き水が出る可能性はほとんどない。湧き水が出るのは台地から少し下ったところであろう。

「靜岡県歴史の道 東海道」の説のうち、巌室神社元境内説は色尾道から外れてしまうし、馬道に近い沼伏の鶴ヶ池や、色尾道の終りの大楠神社は、下りにあって「妙井渡という処の野原を過ぐ」という表現にそぐわない。菊川宿方面からの色尾道の登りで、歩いて見つけた牧之原台地の直下にある、この湧き水は「妙井渡」の有力な候補になってくるだろう。

今は湧き出す量も激減し、水質も茶畑の肥料が溶け込んで優良とはいえず、飲料水に使われることはないが、昔からどんな日照りでも枯れることがない湧き水として大事にされてきた。土地の人の話では、この湧き水の近くに「いど沢」と呼ばれる沢があり、この湧き水はどうやら「いど沢」に流れ込んでいるらしい。この湧き水が「妙井渡」の有力な候補と云える理由である。

もう一方の「こはま」については、「東関紀行」のメインの文に「いくほども無く一むらの里あり。こはまとぞいふなる。」とある。「靜岡県歴史の道 東海道」の説によると、「こはま」は「こまは」で「駒場」の意味だろうとする。

「牧之原」にはもともと馬を生産する牧場があった。名前がそこから出ているという。現在、牧之原は南北に拡がる広大な土地を指しているが、往時はおそらく色尾道に沿った台地を示す地名だったと思う。馬の生産は交通の便利な街道沿いに設けるほうが何かと便利だったはずである。

「こはま(駒場)」の一むらの里は、牧之原台地上のどこかにあり、馬の生産を生業としていた。牧之原直下の湧き水を利用できるところと考えれば、「駒場」は牧之原台地に登った辺りにあったと考えたい。その辺りで茶畑の開墾時に土器や瓦などが出たと土地の人が話していた。その辺に村があれば、湧き水も利用できる。

大井川が「すながし」に見えるには、大井川を直下に見下ろすような場所が必要だが、駒場の東のはて、二軒屋原まで行くとそんな風に見下ろせそうである。つまり、「こはま」については歩いてみた結果、有力説でほぼ間違いないだろうと思った。

最後に、鎌倉時代の旅人になって、この色尾道を旅してみよう。

菊川宿を出て菊川を渡り、色尾に通じる街道はやがて牧之原に登っていく。牧之原台地に登りつく直前に、草の斜面の根元から、滾々と清水が湧き出してところがあり、旅人の喉を潤すとともに、すぐ上の集落の飲み水になり、牧之原で飼われる馬たちの水呑場となっている。土地の人は「妙井渡」と呼んで、どんな日照りでも涸れることがないこの水場を大切に守っている。

牧之原台地に登るとすぐに「駒場」という集落があり、馬の生産を生業としている。駒場を抜けると延々と台地上に野原が続き、所々で放牧された馬たちが草を食んでいる。この台地を横切った東の果て(二軒屋原)から、すぐ直下を流れる大井川が眺望できて、さながら「すながし」を見るようであった。

色尾道は少し下って、権現原、谷口原と過ぎ、台地が尽きるところから色尾の集落に下る。その後、街道は初倉驛を過ぎて大井川を渡る。
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「妙井渡」と「こはま」実地踏査 その2

(二軒屋原から垣間見える大井川)

(昨日の続き)
菊川の里から地元で色尾道と呼ばれる山道をたどり、原に登って茶畑の間を東に向かって歩いた。途中、金谷から大井川を挟んで島田方面も見晴らせる、牧之原公園に立寄った。ここから見る大井川は少し距離があって、「東関紀行」にいう「すながし」という形にはほど遠いと思った。「すながし」に見えるためには、もっと川に近付いて真上から覗く位の視点が必要である。牧之原公園から川下の方に大井川が足元を洗うほどに突き出た地点が見える。もっと東へ進めばそういう場所がありそうだと思った。

茶畑の中をさらに東へ向かう。旧金谷中学跡地を越すと二軒家原である。茶畑の最も北側に付いた農道をひたすらに歩いた。左側は杉檜や椎をはじめとする照葉樹が鬱蒼と茂って、急な崖を覆い、大井川の展望を奪っていた。しかし歩くうちにちらちらと枝分かれした大井川の流れが木間に見える。昔、まだ植樹がされないで、樹木が大きく育っていなかったころは、大井川が眼下に見えていたに違いないと思った。それを眺めて「東関紀行」の筆者は、見下ろす大井川の景色を、まるで「すながし」を見るようだと表現した。それで決まりだと思った。

二軒家原から少し下って、金谷から大井川右岸を登ってくる道、色尾道の通じていた権現原・谷口原を縦断する道、昔馬道と呼ばれた湯日の谷を進む道(湯日街道)、それが交差した変則十字路に至った。湯日の谷を下っていく道を選んで、現在の車道よりも山側の、山すそにあったといわれる馬道に近い道路を歩いてみようと思った。旧集落もその道沿いに点々とある。しばらくその道を歩いてみたが、湯日小学校前で現在の車道に合流した。そのあとバスも通る道を延々と歩いた。時々右手の山上の富士山靜岡空港の発着時の轟音が谷間に響き渡った。色尾の集落は湯日の谷の出口にあった。

左手の山腹に、二つの神社と一つのお寺があり、色尾道と名前が付いたほどだから、何か昔をしのばせるものがあるはずと、それぞれの境内に入ってみた。唯一見つけたのは、桜神社に、西南の役、日清戦争、日露戦争の従軍記念碑があった。それでも自分が求めている時代からすると、極々最近の話である。

色尾から大井川の川原に近い、大柳という所まで行ってみた。その辺りにかつては榛原驛、初倉驛があったというのだが、今は田んぼと畑で農作業をする人たちが見られるだけで、みるべきものはなかった。


(夕暮れの近づく大井川)

夕暮れの近づく大井川を、島田大橋を渡って島田駅まで戻り、電車で帰った。本日の歩数は道草も多かったために、44,765歩、距離にして28km~30km歩いたことになる。目標は軽くオーバーしてしまったが、さすがにこの距離を歩くと疲れた。(次回実地踏査の結論を書く)
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「妙井渡」と「こはま」実地踏査 その1

(山すその道のススキの造形-何と呼ばれているのか知らない)

先週の「島田金谷の考古学と歴史」講座で「妙井渡」と「こはま」がどこにあるのかが判っていないと聞いた。それならば実地に踏査しよう。実地踏査では、出来るだけ昔の人の気持になって歩いてみる。記録を書いた人がどんな気持でそれを記したのであろうか。それをこの足で体験してみるのである。

今朝、お天気は快晴、家を9時半過ぎに出かけた。もちろんお遍路の訓練を兼ねている。今日の目標は35,000歩を越え、25km歩こうと思った。まずは番生寺から西原に登って、西原を南へ歩き、切割りから菊川の里に下る。菊川の里を起点に色尾道を歩いてみようというものである。

ここで、課題の「妙井渡」及び「こはま」がどこなのか、静岡県教育委員会発行の「靜岡県歴史の道 東海道」を読んでみた。「妙井渡」には三つの説、「こはま」には有力説が一つ紹介されている。

「妙井渡」
① 馬道を下湯日に抜けると沼伏に鶴ヶ池という池があり、ここの字は清水である。
② 色尾道を式内大楠神社に至る。大楠神社横に湧水がある。今は枯れている。
③ 菊坂を牧之原に上り、金谷町西の宮に出る。ここは昔、金山彦命を祀った巌室神社の元の境内で湧水が出る。

「こはま」
「榛原郡誌」では「こまは(駒場)」と注記してあり、「大井川とその周辺」の著者、浅井治平氏は「金谷町誌」の説を紹介した後、金谷町と島田市にまたがる(現在はどちらも島田市)牧之原台地上の二軒屋原あたりと推定している。現在は植林された杉が大きくなって見え難いが、大井川の流れと島田・金谷周辺が良く見渡せて駒場としてふさわしい場所と思われる。


この情報を昨晩頭にしっかりと入れた。

色尾道は菊川に沿って山すそに付いた道を松島まで下り、松島より牧之原に一気に登る。谷の底にまっすぐの新道が出来ているが、出来るだけそれらしい山すその道を歩いてみた。新道が出来る前は山すその道が使われたのだろう。古いお堂などもあった。途中で道を失って新道に下りた。


(色尾道の湧き水)

松島の消防団詰め所の前から牧之原に至る農道(地元では色尾道と呼んでいる)を登った。途中に簡易水道の水溜もあって、M氏の記憶通り湧き水がありそうであった。歩いてしか登れない荒れた林の中の山道を登ると、草の斜面の根元に水が浸み出している場所があった。丸石を除けてみると量は少ないけれども綺麗な水が湧き出していた。湧き水からは草の斜面を10メートルほど登ると、茶畑の中に出た。茶畑の農道を少し行くと「ケアセンターかたくりの花」へ出た。茶畑が出来て農道が舗装され、地面に浸み込む量も激減したから、清水の量も往時からすれば激減していると思う。それでも湧き水は枯れていなかった。

登り付いた茶畑を開墾した人の話では、土の中から土器や瓦の破片が出てきて、いつの時代かこの原の上に家があったらしい。昔のものなら瓦を使うような家はかなり重要な建物である。(次回に続く)
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「妙井渡」と「こはま」はどこ?

(庭のキンモクセイが咲いた)

(昨日の続き)
宗行卿や俊基朝臣の悲話もあって、中世の旅の記録では菊川宿を記しているものが多い。歌枕の「小夜の中山」を通って菊川宿へ至る道は、昔から大きく変ることは無かったようである。しかし、菊川宿から先、原を越えて大井川を渡る道は江戸時代の金谷宿、島田宿と続く東海道とは別のコースを通っていた。

先に紹介した「海道記」では、菊川宿の先の記述は、

妙井渡という処の野原を過ぐ。仲呂の節に當りて小暑の気やうやう催せども、いまだ納涼の心(頃)ならねば、手には結ばず

   夏深き 清水なりせば 駒停めて しばし涼まん 日は暮れなまし

幡豆蔵(はつくら-初倉)宿を過ぎて、大堰(井)川を渡る。この河は中に渡り多く、また水さかし。

※ 妙井渡 - レジメには「妙水の渡り」とあったが、海道記のコピーをよく見ると、「妙井渡」となっていた。読み方も不明との話だったが、「妙井渡」ならば、「井渡」は井戸と読むのではないか。「妙井渡」は「妙なる井戸」で地名というより、井戸(湧き水)の名前ではないかと思う。
※ 仲呂 - 陰暦の4月の異称。
※ 手に結ぶ - 手のひらを組み合わせて水をすくう。


もう一つ、「東関紀行」によれば、菊川宿の先は、

菊川を渡りて、いくほども無く一むらの里あり。こはまとぞいふなる。この里の東のはてに、すこしうちのぼるやうなる奥より大井川を見渡したれば、遥々とひろき河原の中に、一すぢならず流れわかれたる川瀬ども、とかく入りちがいたる様にて、すながしといふ物をしたるに似たり。なかなか渡りて見むよりも、よそめおもしろくおぼゆれば、かの紅葉みだれてながれけむ龍田川ならねども、しばしやすらはる。

   日かずふる 旅のあわれは 大井川 わたらぬ水も 深き色かな


※ すながし - 金銀の砂子を散らして水の流れを表した文様。
※ こはま -「こはま」は「ニはま」かもしれない。あるいは、牧の原の地名でもわかるように、馬を育てる牧場があった。だから「こはま」は「こまば(駒場)」かもしれない。


「海道記」に出てくる「妙井渡」および、「東関紀行」にいう「こはま」がどこを差すのか、今なお判っていない。ちょっとしたミステリーである。講師は台地上に、字名などでそれに近い名前が残っていないかと問いかけた。他にも、街道、海道、会堂、新宿、今宿などの名前が残っておれば教えて欲しいと話した。

「妙井渡」のヒントは、
① 菊川宿から初倉方向に向かう道。
② 清水が湧き出している。
③ 「妙井渡」近くの「野原を過ぐ」とあるが、野原はおそらく牧の原で、そこまで登ると湧き水はないと思われるから、牧の原に登りきる手前あたりに「妙井渡」はあったのであろう。

「こはま」のヒントは、
① 菊川宿からさほど遠くない里である。
② 「こはま」の東のはてで、少し登ったところから大井川が広く見渡せた。

会社で島田市菊川出身のY氏とそんな謎について話していたところ、島田市菊川から色尾道と呼ばれる古い道があって、登ったところに湧き水がある。子供のころよく遊んだところだが、周囲から土器なども出たという。この色尾道の「色尾」は初倉驛(うまや)のあったところである。

明後日、天気が良ければ自分の足で探索して見たいと思い、Y氏から色々情報を得た。
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中世、菊川宿の俊基朝臣

(ご近所から頂いたアケビ)

(昨日の続き)
宗行卿の菊川宿での悲話は当時から大変に有名な話だったらしく、その後、何人かの旅人がその跡をたずねて記録を残している。2年後の1223年、京から鎌倉に旅した記録「海道記」に、早くも南陽縣菊水の詩が取り上げられたのを初め、20年後の1242年の「東関紀行」にも次のように記されている。

この山(小夜の中山)をも越えつゝ、なほ過ぎ行くほどに、菊川といふ所あり。いにし承久三年の秋のころ、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、この宿に泊りけるが、昔は南陽縣の菊水、下流を汲みて齢をのぶ、今は東海道の菊川、西岸に宿して命を亡ふと、ある家の柱に書かれたりけりと聞きおきたれば、いとあはれにて、その家を訪ぬるに、火のために焼けて、かの言の葉も残らずと申すものあり。今は限りとて残しおきけむかたみさへ、あとなくなりにけるこそ、はかなき世のならひ、いとゞあはれに悲しけれ。
   かきつくる かたみも今は なかりけり 跡は千とせと 誰かいひけむ


時代が100年ほど下がって、宗行卿と相似た運命の男が関東へ下向してくる。

1331年に起きた元弘の乱では、後醍醐天皇の倒幕(鎌倉幕府)計画が事前に発覚し、挙兵するも鎮圧され、後醍醐天皇は100年前の後鳥羽上皇と同じ隠岐に流された。共謀したとして、日野俊基・北畠具行・日野資朝が斬罪となった。

後醍醐天皇の即位に始まり、元弘の乱や建武の新政、その後の南北朝時代を記した「太平記」には、元弘の乱に敗れた俊基朝臣が鎌倉へ引かれていく様子が記されている。

‥‥天龍河を打渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋まり来て、そことも知れぬ夕暮に、家郷の天を望みても、昔西行が命也けりと詠いつつ、二度越し跡までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける、隙(ひま)行く駒の足はやみ、日すでに亭午(ていご)に昇れば、餉(かれいい)進むる程とて、輿を庭前に舁(か)き止む‥‥
 ※ 家郷 - ふるさと。
 ※ 隙(ひま)行く駒‥‥ - 年月の早く過ぎ去ることのたとえ。
 ※ 亭午(ていご)- 正午。
 ※ 餉(かれいい)- 炊いた米を乾燥させたもの。旅行などに携帯した。
 ※ 舁く(かく)- (二人以上で)物を肩にのせて運ぶ。かつぐ。


‥‥俊基朝臣再び関東下向ありし時、宿の名を問ひたまへば菊川と答ふ。承久の軍(いくさ)に光親卿(宗行卿の誤り)院宣書きたまひし罪によりて関東へ召し出され、この宿にて、昔南陽県といふ四句を書きたりし事を思ひ出して、遠きむかしの筆の跡、今は我が身の上になり、哀れやいとどまさりけん‥‥
一首の歌を宿の柱にぞ書かれける。
    いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をば沈めん


日野俊基は翌1332年6月、鎌倉・葛原岡で斬殺された。宗行卿と日野俊基は100年の時を隔てて同じ運命を背負って、同じ菊川宿に宿をとった。
(明日へ続く)
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