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「家忠日記増補25巻3」の解読 38

(畑のユリズイセン)

結局、今日も一歩も家から出なかった。静岡県では今日初めて死者が出たという。五月六日までの緊急事態宣言が更に一ヶ月ほど延長されるらしい。我々年寄りは、ほとんど家にいるようなものだから、それほど苦にはならないけれども、若い人はこんな生活には耐えられないのではないか。心配になる。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

十三日 御味方の軍勢、横須賀に陣を移す。
十五日 大神君、浜松の城に還り給う。主殿助家忠、城に登りて、大神君、本多百助を上使として、主殿助家忠に休暇を賜う。その外、諸将各(おのおの)、暇(ひま)を賜いて、明晩浜松を発して、皆居城に赴く。

廿四日 大神君より蒼鷹(そうよう)を主殿助家忠に賜わる。この日、武田の兵、駿州田中に出張するの由、浜松に注進あり。
廿五日 敵、田中に出張するの間、家忠、兵を率して浜松に馳せ参るべきの旨、命あるの由、天野三郎兵衛尉康
景、岡崎の城より深溝の城に告げる。これに依って、家忠、深溝を発して、この日荒井の駅に至る。
廿六日 家忠、浜松に参着し、城に登りて、大神君に謁す。敵、高天神に移るの由、この日、浜松に注進あり。
廿七日 家忠、浜松を発し、進みて見付の駅に陣す。敵、国安を退くの由、その告げ有り。これに依って、家忠、兵を率して浜松に帰る。
※ 蒼鷹(そうよう)➜ 羽毛が青色を帯びている鷹。しらたか。

十二月大
二日 家忠休暇を賜わりて深溝の城に帰る。

天正八年庚辰(かのえたつ)正月小
一日 新正を祝し奉らんがため、諸士、浜松の城に参賀す。
二日 夜に入り、例の如く、浜松の城にして、御謡い初めあり。松平主殿助家忠、城に登りて着座す。
三日 勝頼、高天神の城、後援として、甲斐、信濃の一揆を催し、軍を出すの告げあるに仍って、織田信忠、兵を率して尾州清州に至る。
四日 横須賀の城、警衛として水野監物、同姓惣兵衛尉、これに赴く。
五日 大神君、従四位上に叙し給う。
廿四日 大神君、三州西尾に狩し給う。
廿七日 大神君、岡崎の城に渡御あり。

二月大
十日 大神君、駿州表に御進発の由、酒井忠次より家忠に告げる。

三月小
十三日 来たる十六日。高天神取出のため、家忠士卒を携え浜松に参陣すべきの旨、鈞命(きんめい)あるの由、酒井忠次、吉田の城より深溝に告げる。
十六日 家忠浜松の城に参着し、城に登りて、大神君に謁す。この日、大神君、浜松を御出馬。
※ 鈞命(きんめい)➜ 君主の命令。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 37

(畑のオダマキソウ、4月27日撮影)

今日は昭和の日。平成の30年も色々厳しい出来事がいくつもあった。令和に入って早速予想だにしなかったことが起こった。今から考えてみると、戦後、我々が生きた前半生(約40年)は、稀にみる平穏な、希望に満ちた時代だったと思う。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

十七日 北条氏政が手合わせとして、御味方之軍勢、駿州に入らんがため、懸川の駅を発す。
十八日 大神君、駿州に入り給う。諸卒は二山に陣す。
十九日 大神君、松平甚太郎家忠、牧野右馬允に命じて望宗(もちむね)の城を撃たしめ給う。この日、大神君、田中の赤池に御陣坐。
廿五日 勝頼、駿府に帰る故に、大神君、兵を収めて井呂に懸り給う。大須賀五郎左衛門尉康高、松平周防守康親、殿(しんがり)して敵を拒ぐ。御味方の軍兵、馬筏(うまいかだ)を組みて大井川を渡す。
晦日 大神君、牧野の城に入り給う。
※ 馬筏(うまいかだ)➜ 流れの急な大河を騎馬で渡るときに、数頭の乗馬を並べつないで筏のようにすること。

十月大
一日 大神君、牧野より浜松の城に帰り給う。
九日 大神君、今川氏真を浜松の城に饗(きょう)し給う。
十九日 大神君、浜松を御進発有りて、掛川の駅に御陣座。
廿一日 遠州河上にして、大須賀康高、伏兵を設け、敵を撃ちて首級を得たり。
廿六日 牧野の城番、二連木(にれんぎ)の兵に代わりて、今日家忠、浜松に帰る。

十一月小
四日 松平主殿助家忠、大神君の命を奉じて、井呂ヶ崎辺に伏兵を設け、狼煙(のろし)を以って物を期し、不意に起きて敵を撃つべきの由、兼ねて謀(はかりごと)を定めらるゝの処に、下卒ら爾(しかる)に、近辺の野に火を放ちて煙を揚げるの間、その約、相違(そうい)す。大神君、これを怒り給いて、放火するの者を御糺明(きゅうめい)あるの処に、鳥居彦右衛門尉元忠が軽卒なり。則ち、かの者を斬罪せらるゝ。

七日 松平主殿助家忠、大神君の鈞命(きんめい)を奉じて、滝坂表に伏兵を設ける。敵ここに馳せ来たるの間、伏兵を発して急に攻め撃つ。敵、狼狽して敗走す。これを追い懸け、敵の兵五騎を撃って、その首を得たり。その外、小荷駄廿疋、追い崩して、これを奪い捕る。大神君、その功を褒ぜらる。
十一日 大神君、浜松を御出馬、懸川の駅に着御(ちゃくぎょ)、諸卒は近辺の邑里(ゆうり)に屯す。
※ 鈞命(きんめい)➜ 君主の命令。
※ 着御(ちゃくぎょ)➜ 天皇や貴人を敬って、その到着・着座をいう語。
※ 邑里(ゆうり)➜ 村里。村落。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 36

(五月の装いの大井川鉄道五和駅)

午後、女房と牛尾山熊野神社まで散歩、一時間半ほど。

岡部の旧家から借りて来た、古文書を50枚ほど写真に撮った。加工して教材に使う積りだが、そのほとんどが借金証文の類いで、まいったが、写真を加工して教材にするまで、ぼちぼちやろう。何しろ、時間はたっぷりあるのだから。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

九月小
二日 牧野の城経営のため、家忠、浜松に参候す。頃日、大神君、聊(いささ)御不例(ごふれい)あり。相州小田原の城主、北条氏政、勢を関東に揚げるといえども、遥かに信長の威風(いふう)を聞きて、請けてこれに属し、大神君と約を期し、武田勝頼を撃たんと相催(もよお)す。五日 北条より、朝比奈弥太郎を使いとして、大神君に告げていわく、吾れ勝頼を豆州に相支えん。時に駿州に至りて、勝頼が後ろを襲い給え。大神君、これを諾(だく)し給う。
十三日 大神君、北条氏政と御和睦あるに仍って、来たる
十七日、その手合わせとして、駿州表へ御働座(どうざ)あるべきの旨、諸将に觸(ふ)れ催(もよお)したる。
※ 頃日(けいじつ)➜ 近ごろ。このごろ。
※ 御不例(ごふれい)➜ 御病気、特に貴人の病気をいう。
※ 威風(いふう)➜ 威厳があって立派なこと。
※ 手合わせ ➜ 売買の契約を結ぶこと。手打ち。
※ 働座(どうざ)➜ 動座。相手に対する敬意を表すために座席を離れて礼をすること。


この日、大須賀康高、高天神の城下、三岑に伏兵を設け、城兵を謀(はか)り、出して撃たんと欲す。敵の間諜(かんちょう)、これ聞きて城中に告げる。これに依って、城兵遮(さえぎ)りて軍を城外に発す。康高、地利に陣してこれを待ち請け、相戦いて大いに利を得る。徒卒坂部三十郎広勝、鎗脇(やりわき)にして、敵の魁兵(かいへい)中野郷左衛門尉を撃ち捕る。その外、康高が軍士、多く首級を得たり。敵に利を失いて、城に敗(はい)し入る。
※ 間諜(かんちょう)➜ ひそかに敵のようすを探って味方に報告する者。間者。スパイ。
※ 鎗脇(やりわき)➜ 戦場で一番槍、二番槍の脇にいて、刀・弓・鉄砲などで働くこと。
※ 魁兵(かいへい)➜ 先陣の兵。


十一日 三郎信康、遠州二股に於いて生害(しょうがい)し給う。(時に廿一歳、法名謄雲院隆岩長越)遠州の住人天野山城守、これを介錯(かいしゃく)す。(山城守が刀、千子村正)信康の女子弐人、赦免(しゃめん)有りて(つつが)なし。(一人、小笠原兵部太輔秀政に嫁(か)す。一人は本多美濃守忠政に嫁す)
※ 生害(しょうがい)➜ 自殺すること。自害。
※ 介錯(かいしゃく)➜ 切腹に際し、その負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為。
※ 千子村正(せんごむらまさ)➜ 伊勢国桑名で活躍した刀工。
※ 赦免(しゃめん)➜ 罪や過ちを許すこと。
※ 恙なし(つつがなし)➜ 無事である。さしさわりがない。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 35

(散歩道のオオデマリ)

東京で、二日連続で感染者が100名を切った。昨日が72名、今日が39名、これをコロナ終息の始まりと見るべきなのかどうか。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

この月、北条氏政が軍勢、梶原の某(ぼう)海賊を浮島ヶ原の磯に進めて、武田兵、小浜間宮などと船軍(ふないくさ)す。勝頼は浮島ヶ原に陣して、これを見る。武田が軍勢始め、利を失うといえども、向井伊賀守、その子兵庫助、力を尽して奮い戦うの間、武田が兵、遂に利を得たり。
※ 梶原の某(かじわらのぼう)➜ 梶原景宗。北条氏政の水軍として、伊豆長浜城に駐留した。
※ 小浜、間宮 ➜ いずれも武田方の水軍。
※ 船軍(ふないくさ)➜ 船を用いて海上で戦うこと。海戦。


八月大
三日 大神君、三州岡崎の城に渡御あり。故ありて、三郎信康と御父子の間、御不慎(不審)たるに依ってなり。信康、岡崎の城を避け、同国大浜の郷に閑居(かんきょ)し給う。
四日 三郎信康、大浜の郷より岡崎の城に来て、大神君に謁し、誤りなきの旨、陳謝(ちんしゃ)し給うといえども、大神君の御疑心、遂に散ぜざるの間、信康、甚雨(じんう)を凌ぎて夜中にまた大浜の郷に帰り給う。
※ 閑居(かんきょ)➜ 世俗を逃れて心静かに暮らすこと。
※ 陳謝(ちんしゃ)➜ 詫び言を述べて自分の非を謝ること。
※ 甚雨(じんう)➜ ひどく降る雨。大雨。豪雨。


五日 松平主殿助家忠、岡崎の城に参候(さんこう)して、大神君に謁し奉る。時に、命有りて曰く、弓鉄炮の軽兵らを引率して、速やかに西尾の城に馳せ行き、かの城を警衛すべきの御旨を奉じて、家忠則ち岡崎を発して、西尾の城に至る。この日、大神君、西尾の城に渡御有り。
七日 大神君、西尾の城より岡崎に帰り給う。本城の警衛、松平上野介、榊原小平太康政、北畠の守りは、松平主殿助家忠、松平玄番頭家清、鵜殿八郎三郎、命を奉じてこれを勤む。
※ 参候(さんこう)➜ 高貴な人のもとに参上し、御機嫌をうかがうこと。伺候。

九日 大神君の命に依って、三郎信康、三州大浜の郷より遠州堀江の城に移り給う。(後にまた二股に移る)十日 大神君、鵜殿善六郎を御使として、家忠を召す。則ち、家忠、岡崎の城に参候(さんこう)す。その外、参州の諸将、召しに応じて群参(ぐんさん)す。時に、命有りて、三郎信康に密通の音問(いんもん)致すべからざるの由、諸将をして、各起請文を書かしめ給う。
十二日 大神君、岡崎の城より、浜松の城に還御。本多作左衛門尉重次をして、岡崎の城を守らしめ給う。
廿九日 信康の母公(築山の御方と号す関口刑部少輔が女(むすめ)害に遇う。岡本平右衛門尉、これを害す。
※ 群参(ぐんさん)➜ 多くの人が参詣・伺候すること。
※ 音問(いんもん)➜ 便りを出したり、また来訪すること。
※ 害に遇う(がいにあう)➜ 殺害される。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)

読書:「透明な方舟」 薄井ゆうじ 著
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「家忠日記増補25巻3」の解読 34

(庭のホウチャクソウ、4月24日撮影)

30数年前、山登りをしていた頃、山から少し頂いたものが、庭に根付いたものであろう。毎年、花を見るのだが、地味な花なので、写真にとることも無かった。気付けば、庭の一角に沢山咲いていた。

引き籠り状態で、古文書解読にもやや飽きた。今日、東京では感染者が72人と、100人を切った。今日は検体数が少なかったからだろうか。明日以降の数字を楽しみにしよう。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

天正七年己卯(つちのとう)正月大
一日 諸士、浜松の城に登りて、大神君に謁し、新正の賀儀を献ず。
二日 夜に入り、浜松の城にて例のごとく御謡(うた)い初めあり。松平主殿助家忠、城に登りて着坐す。
廿日 大神君、三州吉良に狩し給う。
廿九日 大神君、三州吉田より浜松に還り給う。
※ 新正(しんせい)➜ 新年の正月。

二月小
九日 大神君、命有りて、来たる十八日より、再び浜松の城、経始(けいし)あり。家忠、これを覧ずべきの御旨を蒙る。
十一日 本多作左衛門尉重次が構えの普請、今日より始まる。家忠これを覧ず。
※ 経始(けいし)➜ 測量をして工事に取りかかること。

三月大
六日 牧野の城の警衛、家忠に命ぜらる。家人を分け、浜松に残し留めて、普請の事を修せしめ、家忠、浜松
を発して懸川に着く。
七日 主殿助家忠、牧野の城に至り、西郷孫九郎家員に代りて、牧野の城を守る。
廿五日 勝頼、国安に陣す。夜に入り、大神君、信康と馬伏塚に陣して、これに対し給う。
廿六日 牧野の城番、戸田新六郎に代わりて、家忠、深溝の城に帰る。
廿七日 勝頼、国安を去る。
廿九日 勝頼、大井川を渉りて退く故に、大神君、浜松に御凱旋あり。

四月大
七日 遠州浜松の城に於いて、台徳院(第二代将軍秀忠)殿誕生、諸士参賀す。時に、大神君、命じて土井甚三郎(七歳後に大炊頭利勝と号す)をして、台徳院殿に附けしめ給う。これより、甚三郎、日夜怠らず勤仕して、遂に補佐の臣となる。

廿三日 勝頼、駿河江尻に至りて、出張するに依って、来たる。
廿六(四)日 家忠、兵を率して浜松の城に馳せ参るべき旨、大神君の命を奉じて、石川伯耆守数正、家忠に告げる。
廿五日 主殿助家忠、士卒を携え浜松に参着す。武田が軍勢、高天神国安に陣するの由、その聞こえあり。
廿六日 夜に入り、大神君、馬伏塚に御発向あり。三郎信康も、この暁(あかつき)、馬伏塚に至り給う。三州の軍勢など、各(おのおの)見付の駅に陣す。
廿七日 三州の軍勢進みて、袋井に至る。武田が兵、国安を引退くの由、その告げあり。
廿九日 馬伏塚の守将、大神君に属す。
今日、武田の兵、大井川を渉りて退くの由、注進あるに仍って、大神君、浜松の城に帰り給う。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 33

(散歩道のウツギの花、4月19日撮影)

今、どの番組も再放送でつまらないが、今夜のブラタモリの再放送では、熊本地震前の熊本城を久し振りに見た。御殿が再建されたときに、出張の途中で立ち寄ったのを思い出した。

今回の新型コロナ騒ぎでも、コロナ以前の映像が流れる度に、あの頃は人混みなど気にすることはなかったと、感慨深く感じる。報道の風向きが、コロナとの戦い一辺倒から、国民経済の問題も合せて考える方向へ変わってきた気がする。経済破綻から自殺者を多く出してしまっては、それも深刻な問題になる。5月6日にかけて、本当に自粛が必要な所と、そうでもないところを、しっかり分別しなければならないと思う。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

小笠原与八郎、及び山縣が陣代小菅五郎兵衛尉、二千の軍勢、海路を経て、横須賀の城辺に至る。横須賀の城は大須賀五郎左衛門尉康高、城主として、筧助太夫ら相加えて、これを守る。筧進みて城中より出張し、軽兵(けいへい)を指揮して戦わしむ。小笠原与八郎、小菅五郎兵衛尉、軽卒を進めて、矢軍(やいくさ)す。勝頼、陣を分かつ事、七列として、大神君の御陣と、入江を阻(へだ)てゝ陣す。時に武田が臣、強(し)いて諌(いさ)めるに依って、勝頼、戦わずして兵を引きて、高天神に退く。大須賀康高が軍士、渥美源五郎、鷲山伝八郎、浅井九左衛門尉、柘植(つげ)亦十郎ら、勝頼が後軍(こうぐん)を追い撃ちて、渥美、柘植二人首級を得たり。大神君、その軍功を褒(ほう)ぜられ、渥美源五郎に革胴服(どうふく)を賜わる。
※ 軽兵(けいへい)➜ 身軽にしたくした兵。軽卒。
※ 矢軍(やいくさ)➜ 両軍が互いに矢を射合って戦うこと。また、その戦い。
※ 後軍(こうぐん)➜ あとぞなえの軍。後陣。
※ 胴服(どうふく)➜ 武将などが衣服の上にはおった丈の短い上着。袖のないものもある。


四日 敵の斥候(せっこう)、横須賀近辺に来たり窺(うかが)う。
七日 水野藤次郎より、荒木摂津守村重、信長に叛(そむ)く事を注進す。
十二日 勝頼、高天神の城を退く。
十四日 松平主殿助家忠、進みて懸川の益田に兵を発するの処に、武田が先隊、大井川を渉り来たるの由、その告げあり。
十七日 敵の兵、三隊、嶋田に至りて出張す。
十九日 敵、青塚の陣を引いて田中の城に退く。
晦日(みそか) 武田勝頼去る。廿五日、兵を収めて甲州に帰るの由、注進あるに依って、大神君、浜松の城に御凱旋(がいせん)あり。この日、信康、浜松を出て岡崎の城に帰り給う。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 32

(散歩道のオオルツボ)

午後、女房と散歩にでる。今日は風が冷たくて寒い。冬が戻ってきたみたいだ。オオルツボという花は、去年も同じところで見た覚えがある。

新型コロナは、対処法のない病気の怖さもさることながら、底知れない恐ろしさは、人間が長い間かけて築いて来た、様々なものを壊して回る破壊神であることだ。国境とか民族、宗教など、人間の築いてきた垣根を、いとも簡単に越えて行って、全く容赦がない。

あの戒律厳しいイスラムがラマダンを迎えて、祈りの場であるモスクへの、信者の立ち入りを禁止し、それぞれの自宅でラマダンを迎えるように呼びかけているのを、テレビで見た。

いずれ、事が収まっても、人間の営みの多くの部分で、コロナ以前と以後が大きく変わっていることに、後世の歴史家が気付くかもしれない。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

九月大
四日 大神君、駿州より兵を牧野の城に収め給う。牧野の城番、仁連木衆に代わりて、主殿助家忠、これを勤む。
六日 大神君、牧野の城より浜松に帰り給う。三州の諸将は牧野の城に残り、留まりて城壁を修補(しゅうほ)す。また牧野の城兵らは、命に依って、今城一軍を発す。
十二日 大神君、岡崎に渡御あり。
十四日 大神君、浜松に帰り給う。
※ 修補(しゅうほ)➜ 欠陥を補ってよくすること。補修。

十九日 武田勝頼、兵を率して遠州に出張するの由、その聞こえあり。
廿七日 三郎信康、武田が兵を出すことを聞き給いて、浜松に来たり給う。
廿八日 申の刻、大地震。この日、武田が兵、山を越え来たるの由、牧野の城より浜松に注進す。
晦日 敵、大井川を越えるの由、牧野の城より浜松に注進す。これに依って、三州の諸将、命を(ほう)て見附の駅に陣す。高天神の城より、夜半に及びて、敵の兵一人、竊(ひそか)に城を出て、御味方の囲みを脱(のが)れ去らんと欲す。渥美源五郎勝吉、これを撃ち捕る。その首に、勝頼が在判(ざいはん)陰書(いんしょ)一通を懸ける。勝吉、これを取りて、大神君に献ず。
※ 奉じる(ほうじる)➜ うけたまわる。
※ 在判(ざいはん)➜ 花押を書くこと。または印を押すこと。
※ 陰書(いんしょ)➜ 密書。


十一月大
二日 武田勝頼、小山、相良辺に陣を移すの由、注進有るに依って、大神君及び信康、馬伏塚に御進発あり。諸卒は皆、柴原に屯す。
三日 大神君、信康、御父子、師(し)を帥(そつ)して横須賀の城近辺、総社山に陣し給う。その兵八千余騎、諸卒は各(おのおの)山下に陣を張る。武田勝頼進みて、横須賀の城を攻めんと欲し、兵を率して横須賀に赴くといえども、この道、大神君陣し給う山下を経るの間、大神君の武威に恐れて猶予(ゆうよ)す。
※ 猶予(ゆうよ)➜ 進もうとして進めないでいること。躊躇すること。ためらうこと。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)

読書:「シアトルの魔神殺人事件」 吉村達也 著
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「家忠日記増補25巻3」の解読 31

(散歩道の藤の花)

名古屋のかなくんから、学校が休みでママとマスクを作ったと、手作りマスク6枚を送ってきた。今はまだ、市販のマスクがそこそこ残っているから、使わないけれども、逼迫してきたら使わせてもらおうと思う。我々年配者は、何といっても表に出ないから、一日の中で、マスクをする時間はほとんどない。だから買い置きしてあるマスクがなかなか減らない。マスクの高騰を肌では感じられない。

石油が需要の急減して、原油価格が暴落しているとのニュースを聞く。自分の車も、ガソリンを入れたのがもうずいぶん昔の気がする。車を使っても、近くのマーケットへ行く位だから、ガソリンも減りようがない。こちらは暴落も納得できる。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

十日 大神君、牧野の城に御陣座(じんざ)
十三日 大神君の兵、小山の城を攻む。この日、謙信(上杉輝虎入道)卒去(四十九歳)。景勝(紀平次)と景虎(三郎)国を争うて相戦う。景勝、景虎を殺して、遂に立つ。(謙信、子なき故に、北条氏康が男(むすこ)、景虎を子とす。また、甥の景勝を子とす。故に二子、国を争う)
十八日 牧野の城、経営なる。これに依って、大神君、浜松に還り給う。
※ 陣座(じんざ)➜ 陣を構えること。
※ 経営(けいえい)➜ 土地を測り、土台を据えて建築すること。


四月大
十七日 三郎信康、三州岡崎の城より、浜松に来たり、城に登りて、大神君に謁見(えっけん)あり。
十八日 三郎信康、浜松を出て、岡崎の城に帰り給う。

七月小
三日 大神君の台命(たいめい)を奉じて、松平主殿助家忠、遠州横須賀の城取出(砦)要害(ようがい)を築く。残暑甚だしく、苦身(くしん)たるの由。大神君より御使を下され、これを労(ねぎら)い給いて、瓜(うり)を家忠に賜わる。
※ 台命(たいめい)➜ 将軍または三公・皇族などの命令。
※ 要害(ようがい)➜ 戦略上、重要な場所に築いたとりで。
※ 苦身(くしん)➜ 身を苦しめること。


八月大
七日 牧野の城番、西郷孫九郎家員(いえかず)に代わりて、松平甚太郎家忠、これを勤む。
八日 大須賀五郎左衛門尉康高、高天神の城下、国安河の辺に軍を発して、武田が兵と戦わしむ。武田が軍勢、利を失いて敗北す。康高の従卒、多く首級を得たり。殊に、坂部三十郎広勝、戦功を尽す。本多平八郎忠勝、石川長門守康通、久野三郎左衛門尉宗能、これを記して浜松に献ず。
廿一日 大神君及び三郎信康、遠州小山の城に御進発あり。

廿二日 大神君、兵を駿州遠目(当目)に発して、御帰陣の時、望宗(もちむね)の城より敵これを遮(さえぎ)る。石川数正、敵を追い払いて数十人を撃ち捕る。この日、御味方の軍勢、駿州田中の辺に苅田(かりた)す。命を奉じて、松平主殿助家忠、士卒を分けて、大谷表へ指し遣わす。平岩七之助親吉が軽卒、苅田に赴き、敵と戦いて疵を蒙る。家忠、徒卒をしてこれを井呂(色尾)まで送らしむ。
廿六日 家忠が軍士、苅田のため田中表に発す。
廿八日 甚雨(じんう)烈風す。黎明(れいめい)、牧野の城辺に斥候(せっこう)として敵七、八騎来たり、窺い、速やかに退くの間、御味方の城兵戦うに及ばず。
※ 苅田(かりた)➜ 他人の水田の作毛を不法に刈取ること。
※ 甚雨(じんう)➜ ひどく降る雨。大雨。豪雨。
※ 黎明(れいめい)➜ 夜明け。明け方。
※ 斥候(せっこう)➜ 敵の状況や地形などを探ること。また、 そのために部隊から派遣する少数の兵士。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)

読書:「黄犬交遊抄」 ドナルドキーン 著
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「家忠日記増補25巻3」の解読 30

(側道から眺めた新東名)

午後、女房と散歩に出る。この散歩が本日唯一の外出である。側道を長者原方面に登って、振り返ってみた新東名である。大井川を越して、島田方面が見えた。

午前中、伊勢の長兄から電話があった。年寄一人暮らしでは大変だろうと思うが、散歩などで身体を鍛えて、意気軒高であった。伊勢もまだ感染者が数えられていない。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

この月、織田信忠入洛し、従三位に叙し、左中将に任ず。
廿四日 大神君、諸将を浜松の城に召して、美膳(びぜん)を賜わる。松平主殿助家忠、城に登りて列座す。
この月、織田信長、右大臣に任じ、従二位に叙す。大将、元の如く。
この月、植村出羽守家政、卒去す。
※ 美膳(びぜん)➜ 味のよい料理。 よく整えられた食事。 また、たくさんのご馳走。
※ 松平主殿助家忠(まつだいらとのものすけいえただ)➜ 「家忠日記」の著者。
※ 列座(れつざ)➜ 座につらなること。その場所に並びすわること。列席。


十二月大
三日 織田信長、三州吉良に狩りす。大神君、三州の士に命じて、これを饗(きょう)し給う。十日 大神君、従四位下に叙し給う。
廿九日 大神君、左近衛権少将に任じ給う。

家忠日記追加巻之六(自天正六年~至同九年)
天正六年戊寅(つちのえとら)正月大
十六日 大神君、三州岡崎の城に渡御あり。松平主殿助家忠、岡崎に参候(さんこう)して、大神君に謁す。この月、織田信長正三位に叙す。
※ 参候(さんこう)➜ 高貴な人のもとに参上し、御機嫌をうかがうこと。伺候。

二月小
四日 遠三両国、大雪降る。積もりてその深き事、四尺余。
十八日 遠州浜松の城、経始(けいし)
※ 経始(けいし)➜ 測量をして工事に取りかかること。

三月大
一日 浜松の城、経営を止(と)められ、近日、駿州田中の城に御発向を催(もよお)さる。
七日 大神君、懸川に陣し給う。
八日 大神君、懸川より大井川辺に御陣を移さる。

九日 大神君、兵を田中の城に発し給い、城を囲みて攻め撃たしめ給う。前夜、鶏鳴の時に及びて、酒井与九郎、内藤甚五左衛門尉、熊谷小一郎、小栗又一郎、城壁に忍び寄って城を窺い、先登(せんとう)せんと欲す。城中より伏兵を外部に出し置いて守らしむ。この伏兵一同に起きて、これを拒(ふせ)ぐの間、酒井、内藤、熊谷、小栗など、挑み戦いて、敵を陣中に追い入る。
※ 鶏鳴の時(けいめいのとき)➜ 一番どりの鳴くころ。夜明け。明け方。
※ 先登(せんとう)➜ まっさきに敵の城に攻め入ること。一番乗り。


この由、大神君の上聞(じょうぶん)に達す。命有りていわく、軍令に背きて抜け懸けするの条、曲事(きょくじ)たるの由、四人御勘気(かんき)を蒙る。(天正九年、高天神の城陥(おち)るの後、四人ともに赦免(しゃめん)せらる)御味方の軍勢、田中の城、外部を破りて競い攻む。武田が兵、奮い戦いてこれを拒ぐ。松平主殿助家忠が徒士、佐野次助、行家彦十郎、力戦して首級を得る。戸田三郎右衛門尉忠次が軍士、黒田次郎右衛門尉、安形半兵衛尉、岸上勘三郎、福井源蔵、先登して能(よ)く戦う。
※ 上聞(じょうぶん)➜ 天皇や君主の耳に入ること。
※ 曲事(きょくじ)➜ 不正な行為。法に背くこと。また、それを罰すること。
※ 勘気(かんき)➜ 主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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「家忠日記増補25巻3」の解読 29

(散歩道の白藤の花)

午後、女房と散歩に出た。いつもより一時間ほど遅い、4時ごろの散歩で、今日は散歩をする人がチラホラあって、いつもより多いと感じた。

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「家忠日記増補25巻3」の解読を続ける。

八月大
織田信忠従四位上に叙す。
この秋、三郎信康、三州大浜の郷主、長田平右衛門尉重元が男(むすこ)伝八郎直勝を召して、始めて御家人に属(しょく)す。伝八郎(後に長田を永井に改め、右近太夫と号す)。

十一月小
織田信長入洛し、二条の妙覚寺に居する。十三日 信長三位に叙す。同廿一日、内大臣に任じ、陣の座(じんのざ)宣下(せんげ)。同廿三日参内。
この年武田勝頼、遠州金谷峰の城に出張す。大神君、この月、大祢の中山に陣し給う。勝頼、峰の城を退く。
※ 陣の座(じんのざ)➜ 宮中で、神事・節会・任官・叙位などの公事に、公卿が列座して事を行なった座席のこと。
※ 宣下(せんげ)➜ 天皇の命令を伝える公文書を公布すること。


天正五年丁丑(ひのとうし)
正月大
一日 遠州浜松の城、正旦(せいたん)の賀儀、例の如く。この春、織田信忠入洛し、正四位下に叙す。
※ 正旦(せいたん)➜ 一月一日の朝。元旦。

七月小
廿日 松平与一郎忠正卒去(そっきょ)す(三十四歳)。嗣子(しし)なきに依って、弟松平与次郎忠吉、忠正が家督を続(つ)ぐ。(忠正の室は、大神君御同胞(どうほう)の御妹なり)大神君の命に依って、忠正死して後、弟の与次郎忠
吉に嫁せしめ給う。(忠吉卒して後、この室を以って、また保科弾正に嫁せしめ給う)
この秋、大神君、遠州山梨に御進発あり。穴山梅雪、これを拒(ふせ)ぐといえども、御味方の軍士(ぐんし)競い撃つの間、梅雪遂に利を失いて退く。
※ 卒去(そっきょ)➜ 身分のある人が死ぬこと。
※ 嗣子(しし)➜ 家を継ぐべき子。あととり。
※ 同胞(どうほう)➜ 同じ母から生まれた兄弟姉妹。はらから。
※ 軍士(ぐんし)➜ 兵士。兵隊。また、特に身分の高い兵士。戦に従事する侍。


十月小
勝頼、兵を遠州に出す。廿日 勝頼小山の城より大井川辺に出張して、兵を引き
て帰る。この日、大神君、馬伏塚に陣し給う。信康、浜松に来たり給う。廿一日 三郎信康、勝頼が兵を引きて帰るを聞き給いて、岡崎に帰り給う。廿二日、大神君、馬伏塚より浜松の城に還り給う。この日より浜松の城、経始(けいし)
※ 経始(けいし)➜ 測量をして工事に取りかかること。

(「家忠日記増補25巻3」の解読、つづく)
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