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庚申さんの御札とお供物他

(今年もクロッカスが咲いた、ただ夕方には花を閉じてしまう)

先週末の班長会で、年1回の庚申講の当番班から、いつもは各班長さんまで配っているが、今年は平日になって配る手間がないので、公民館まで取りに来て欲しいと依頼があった。各班長に配っても10数軒、手分けすればものの30分で配れる。それでも、都合が悪いという3つの班を除いて、取りに行くことを承諾した。

午後一番で女房が取りに行くと、お供物を各戸ごとに袋詰めする作業も終わって、慰労会でお酒が入っていたよという。お酒を飲むから届けられないということだったのか。何だか騙された感じで愉快ではなかった。その後に、我が班では34軒に、班長が御札とお供物を配らなければならない。食べ物だから郵便受けに放り込む訳には行かず、留守だと何度か足を運ばねばならない。当番班が各班長さんまで配るというルールは、班長さんの苦労を少しでも軽減しようとの気配りから決めたはずで、誰も文句を言わなかったからよいというものでもないだろう。

配って歩いた女房が、庚申さんとは何なのかと質問されたが、答えられなかったという。庚申さんについては過去にブログで書き込んだ記憶があった。女房にはそのページを出して説明した。お供物を配る前に、簡単な案内を作って持たせればよかったと思う。

先日、「専務」のお葬式で会った、A氏とK氏に、一昨日「四国お遍路まんだら」の本を送った。今日その二タ方から、御礼の電話を頂いた。

A氏は88ヶ所のガイド本と地図を見ながら、もう読み始めたという。2年後位に自分もお遍路をして見たいと思っている。自分の場合は自転車だと聞いた。自転車もいきなり長距離を走らないで、はじめは距離を減らして無理ぜずに行けばよいけれども、自転車もけっこうきついから、足を痛める人もいると、S氏の例を話した。

K氏は文才があるんだねぇと誉めてくれ、1ヶ月くらい前から歩く訓練をしたと書いてあったが、やはり訓練しないと無理なのだろうかと聞く。そんなに訓練しなくても、最初は歩く量をセーブして、スロースローにスタートすれば、足は段々慣れてくると話した。結局、二タ方に同じ話をしていた。

駿河古文書会の過去の名簿にお父さんの名前を見つけたという件については、聞いたことのある会だと思っていたが、やはりそうだったか、たまに家に帰ると町の旧家に出かけていて、遅くなって帰ってきたことが度々あった。古文書を見せてもらいに行ってたのだと、今頃になって思うと、父親を改めて見直したようなことをいう。

自費出版の本でも、わずかでも色々な人に色々な影響を与えたならば、それだけでも存在する意義があったと思うことにしよう。
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竜頭山登山のことなど

(沢野ひとし著「山の帰り道」)

沢野ひとし著「山の帰り道」を読んだ。久し振りの山行の本と思って読み始めたけれども、山行の話はわずかで、山男も歳を重ねて、無理が利かなくなり、昔話を肴に街で飲んだくれているといったイメージの本であった。

かっては若者たちが青春を掛けた山が、いつか中高年の山となり、いまや山は老人たちの山になったという。若者たちは生活でギリギリの収入の上に、ゲーム、ケイタイ、アイパッドなどにお金が消えていく。かくして、アウトドアに出かける暇も金も無いということになる。

それよりも、汗を流し身体をいじめて山へのぼるなど、面倒くさくて、若者たちの念頭に上がることも無いのであろう。今やスキー場すら閑古鳥が鳴いていると聞く。

自分が登山を止めたのは、15年ほど前である。職場の山の会の仲間と北八ヶ岳の縦走の途中、体調を崩して途中で下山したことがきっかけであった。体調を崩したことよりも、気持が萎えてしまったことがショックであった。仲間たちへは縦走を続けてくれるように話したが、皆んな一緒に下山してしまった。

縦走を続けてくれていれば、自分も登山を止めると決めることは無かったかもしれない。自分のために、登山を途中で中止させてしまったことがショックであった。止めなければ、また迷惑を掛けかねないと思った。潮時であったのだろう。

最近、登山に燃えている後輩のH氏と話す機会があった。この冬、天竜の竜頭山へ登ったと聞いた。雪が多くて途中で下山して来たという。昔、自分が登ったのは秋だったが、天竜美林の材木を下す「木馬道」を登ったと話した。登山道が違ったのか、「木馬道」は見なかったようであった。
※ 木馬道-日本の林業において、かつて用いられていた木材搬出路のこと。馬が牽いた、そり状の「木馬(きうま)」を滑走させるために、木を横に敷き並べた。

夏には北岳に登ったとの話も聞いた。その他話題に出てくる山のいずれも、自分は登っていて話を合わすことが出来る。20年位の山歴であるが、けっこう登っている。最も夏山のノーマルな登山道に限るのであるが。

中国地方によい山が無いかと聞かれ、中国地方なら大山(だいせん)だろうと話す。大山には帰郷したおり、甥っ子たちと登ったことがある。仲間の一人が鹿児島から来るので、時にはこちらから出て行き、中間で落ち合うのもよいかと考えていると言う。それなら四国の石鎚山はどうだろう。標高は2000メートル弱だが、かつては修験者の山で、なかなか味わいがある。

石鎚山にはこの春のお遍路の途中で登頂を目指そうと計画している。
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瓦礫処理と、風評被害補償(昨日の訂正)

(「溶融灰の展示」-金谷北地域交流センター)

昨日の書き込みについて、幾つか訂正がある。生半可な知識のままで、書かないようにしようと思いながら、時々やってしまう。

その一点は、「焼却灰」と何の気なしに使っていたが、正しくは「溶融灰」である。今日、金谷北地域交流センターに所用で行くと、試験溶融の結果と、飛灰が展示されていた。

島田市の焼却炉はダイオキシンなどが出ない最新の焼却炉で、焼却では終わらずに、溶鉱炉のように高温(1700度以上)で溶かして処理する。その結果、飛灰、非鉄ゴミのスラグ、鉄分スラグに分かれる。

今回の試験溶融では、島田市で出た家庭ごみに混ぜて、約10トンの木材チップを処理した。最高1800度で溶かして、環境へ出すことなく集塵装置などで回収された飛灰が3.5トン、非鉄ごみのスラグが3.5トン、鉄分のメタルが約1トンになった。

放射性セシウムの環境への影響調査としては、第一に焼却炉周辺の放射性セシウムの空間線量率は毎時0.07~0.09マイクロシーベルトで、焼却前と数値に変化がなかった。

次に、処分場に埋め立てられる集塵回収された飛灰であるが、飛灰1㎏当たり64ベクレル(国が定めた最終処分場での埋め立ての基準8000ベクレル、市独自の基準500ベクレル)で、島田市の家庭ごみだけでの飛灰が48ベクレルであったのに対して、わずかな増加に留まった。

さらに、非鉄ごみのスラグ、鉄分のメタルともに検出限界値以下であった。非鉄ごみのスラグは道路舗装材などに、鉄分のメタルも資源として再利用できることが分かった。

訂正のもう一点は、風評被害補償について、「売上が下がっても焼却処分するべき在庫が残っていなければ、風評被害の補償対象にはならない」と書いたが、情報が不足していて、売上が下がった場合は焼却する在庫がなくても、下がった売上の利益貢献売上高について補償対象になるという。もちろんどちらか択一である。利益貢献売上高は、

   利益貢献売上高=売上-変動費-固定費の内変動的費用

だというが、固定費の内変動的費用をどう捉えるかは異論がありそうである。原価計算制度を構築するときに、固定費の内変動的費用をどうするか検討したことがあるが、恒常的に数字を捉えるのは不可能として、無視することにしたことがある。ただ一時的計算ででっち上げるなら不可能ではない。一方、企業側が捉えた数字に対して、行政側がチェックするのは大変難しい問題であろう。

ともあれ、昨日の問題点の一つは消えた。
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瓦礫処理のその後と、風評被害の補償方法

(散歩道のセロリ畑)

昨年暮れの、12月23日、24日、26日と、島田市の被災地瓦礫処理引き受けの話を書き込んだ。その後、2ヶ月経って、事態は紆余曲折した。一時は風評被害を心配する反対派が勢力を得て、説明会で市長などに詰め寄る場面もあったけれども、この件は最初から反対派に分が無かった。

その当時、金谷地区の茶農家の方に意見を聞くと、放射能についても、風評被害についても、何も心配していないという声が大勢であった。東北の被災地がゴミの処理ができなくて困っている現実があり、島田市の焼却炉に十分な余裕があるのであれば、瓦礫処理の引き受けには賛成だという声が多かった。これは意外だった。

その後、全国の自治体の様々な動きもあって、反対派の声も下火になった。決定的であったのは、島田の焼却炉で試験的に焼却が行われた結果、環境変化もなく、焼却灰の放射線量も島田のごみ焼却灰と何ら変わりがないことが判明して、それでも大量の焼却灰も引き受けるのは心配という人もあったけれども、反対の声に力が籠っていなかった。

結果として、自分が想像した通りに推移している。この週末には自治会長の有志が被災地を視察していると、昨日の班長会で聞いた。市長はこの件に関しては慎重に手順を踏んで来たように思う。引き受けると決まれば、実施は一日も早い方が被災地の援けになる。

もう一つ、靜岡県の茶業に対する放射能の風評被害補償について、お茶問屋から話を聞いた。風評被害をどのように捉えるのか難しい問題だと思っていた。その方法は、細かくは出来ないようで、次のような大雑把なものであるという。昨年よりも売上が下がった分について、靜岡茶が半分以上混ざっているお茶の在庫を、公共の焼却場(産廃業者は不可)で焼却処分することを条件に、その代金の補償をしてくれるという。

大雑把過ぎて矛盾が幾つも考えられる。

まずは、売上が下がっても焼却処分するべき在庫が残っていなければ、風評被害の補償対象にはならない。あるいは処分が大幅に進めば、お茶は品薄になり、今年度のお茶の相場は値上りが想定できるので、風評被害があっても販売のために処分しきれないお茶問屋が多く出そうである。

さらに、他の作物でもいえることであるが、大地震によって需要が減った分と、原発事故で風評被害を受けた分をどのように区別できるのか。例えば、東北地方を主力売り先にしているお茶問屋があったとして、震災で需要が減った分と風評被害で減った分が区別できるものであろうか。

ルール上にある矛盾は、個々のお茶問屋の誠実な申請で埋めるしかない。一つの牽制策としては、お茶問屋毎の風評被害申請額を公表することであろう。東電が補償するといっても、結局は電力料金の値上げになり、足らなければ税金が投入されるわけで、付けはすべて国民に回ってくる。
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「お地蔵さん」のリクエスト他

(フキノトウが開いた - 1/11写真と比較)

1月5日のブログに、女房の親戚の、間もなく90歳になるおばあさんから頂いた、お地蔵さん人形を取り上げ、その写真も出した。そうしたところ、故郷の友人から、欲しいと言われる方が居るとリクエストがあった。女房からそのおばあさんに話をしたところ、大変喜んでくれて、早速ものが出来上がってきた。年寄りの手慰みに作って、色々な人にあげていた。知らない人からリクエストが来るのは初めてで、嬉しかったらしい。ブログの楽しさはこんなところにもある。

今日、故郷の友人に電話をして、来週お袋の四十九日で帰るから、その時に持っていくと話した。聞いてみると、あの写真でどう見えたのか、もっと大きいものだと思っていたようであったが、実際は15センチ位のものだと話した。欲しいという方は京都在住の年配の女性で、お孫さんたちの御守りにあげたいということらしい。

自分の故郷でもそうであるが、関西ではお地蔵さんへの信仰が盛んなようで、実際のお盆の一週間ほど後に「地蔵盆」というお祭りがあったと記憶している。お地蔵さんは子供たちの守る仏様で、お孫さんの御守りに最適である。そんな思いがあったのかもしれない。かのおばあさんは、あれから目出度く90歳を迎えられたといい、そんな長寿の手になるお地蔵さんは何とも縁起が良いものである。

このお地蔵さん人形は、誰に習ったわけでもなく、何かでみて、あるいは出来たものをばらしてみて、作り方を覚えたらしい。小さいものだから、材料は端切れで十分間に合う。だから同じ柄のものは二つと出来ないという。90歳でよくそんな細かい手作業が出来ると感心するが、逆で細かい作業をやっているから、90歳でもなお惚けないで元気に暮らしておれるのだとも言える。

中を取ってあげただけなのだが、両方が喜んでくれることは、何とも嬉しいことである。

友人への電話で、同級生のKさんの息子さんがまだ20代の若さで亡くなったという。人の死は悲しいことではあるが、逆縁ほど悲しいことはない。お葬式に出ても、逆縁の葬式は辛さが倍増する。Kさんはクラスも違って直接言葉を交わしたことはほとんど無いはずだが、お袋とKさんのお母さんが知り合いで、よく噂には聞いてきた。確かKさんはまだ若い頃、ご主人を山で亡くしている。但馬の屋根とも言われる氷ノ山で、冬山登山中の遭難死であった。母親一人で3人の子供を育てるのは、並大抵の苦労では無かったと思う。それに加えての逆縁に、どこまで不運なのかと思う。
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「街の電気屋ブログ」が終わった

(樹下から見上げる甘夏の実)

2月20日、「街の電気屋ブログ」が突然に終わった。「本日で私のブログの投稿を終了することといたします。」と、突然の終わり方である。しかし前兆らしきものは有った。1月に「とても悲しいことがありました。今日も申し訳ありませんブログは書けません。」というメッセージだけの日が4日ほど続き、突然税務署に廃業届けを出す書き込みがあった。自分の店は廃業して、息子の店を開業するという。これは事業承継の一つの方法なのかな。たぶんこの方が税務的に有利なのかもしれない。でもどうしてこの時期にと思ってみたり。不思議な行動に思えた。その後普通の書き込みに戻って1ヶ月余りでの投稿修了である。

自分より一年半ほど遅れてブログを始められてから四年半、毎日毎日、お互いに競うようにブログの書き込みを続けてきた。その書き込みを横目で見ながら、自分のブログを続ける励みになっていた。「街の電気屋ブログ」のリンクも貼らせていただいていた。故郷にあるユニークな町の電気屋さんとして、ずうっと注目してきた。故郷の色々な情報をこのブログから得てきた。故郷の天気模様もこのブログでチェックできた。何時だったか、故郷の家まで会いに来ていただいたこともあった。

歳はまだまだ花の60代、なぜ止めてしまうのか、理由は判らない。しかし何年も続けるとブログを書くことで生活のリズムを刻んでいるから、余程のことが無ければ止められないのがブログである。中途で止めてしまうなら、もうとっくの昔に止めてしまっているはずである。事情があって止めたとしても、事情が許せばいつの間にか再び書き込み始めている。しかしどうやら今回の投稿の修了はそんな風にはならないようである。

ブログには嘘は書いていなくても、100のことをすべて書いているかといえば、ブログに書いていることは100の内、せいぜい60~70ぐらいである。皆んな書けないことをたくさん抱えているのが実際であろう。「街の電気屋ブログ」も書けなかったことの中に、ブログを終わりにする本当の理由が隠れているのであろう。それは詮索するべきことではない。ただ、別れの言葉も言えずに別れなければならないことを残念に思うだけである。

翻って、「かさぶた日録」も丸6年続いてはいるが、ある日こういう日が来ないとも限らない。その時、自分はどんな風に終わりにするのだろうか。差し当たっての目標は7年続けるということであったが、それも残すところ10ヶ月強になった。おそらくその時になれば、10年に目標を先へ置きなおすのであろう。そして多分終わりは「街の電気屋ブログ」のように唐突にやってくる。
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食卓を覗くムサシと円安ドル80円台

(食卓を覗くムサシ)

我が家のムサシはいよいよ座敷犬の様相を示し、今まで昼間は庭の芝生の上、夜は裏の小屋という所定場所をはみ出し、冬は外が寒いからという理由で、昼間は日当たり最良の、かつて縁側書斎であった場所を締め、夜にはダイニングが居場所になって、その隅の布団の上で寝ている。いずれも猫可愛がり(猫ではないが)の女房による、ムサシの座敷犬化計画の成せる業である。

ムサシはそこが居場所だと認識すると、縄張りを主張し他を排するために、訪問者にやたらに吠える。番犬としては忠実なのだが、これを家の中でやられると煩くてならない。

食事をしていると、何かおこぼれがもらえないかと、身を付けんばかりに接近して、じいっと見つめる。女房と話をしようものなら、自分も仲間に入りたいのか、ワンワン吠えて話をしておれなくなる。油断するとテーブルに足を掛けて顔を出し、食べ物をねだる。何とも傍若無人ぶりである。

夜、ダイニングに出入りを度々すると、煩いというように吠える。女房は、ムサシに近付くな、構うな、放って置けというが、つまるところ、我が家における自分の行動範囲が徐々に狭められるわけで、毎日が日曜日の自分にはなかなか辛い。

   *    *    *    *    *    *    *

この二日ほどで、ようやく円高基調に変化が見られた。一時は70円台の半ばまで円高が進んでいたが、ようやく80円の大台を越えて円安に振れて来た。ギリシャの危機が一応回避されたことが大きいが、原因の一つには日銀が一層の円の量的緩和策を打ち出し、米金利との金利差が顕著になって、金利の高いほうに流れて、円が売られドルが買われることになったことが上げられる。

今朝の国会の質疑の中継で、自民党の中川秀直氏の質問を聞いた。その中で歴史的な円高の理由として、リーマンショック以降の通貨発行量がドルでは3倍になり、一方、円は1.3倍にしかならず、これだけを要素として単純計算すれば、1ドル50円くらいになっても不思議ではない通貨の発行高の推移である。その結果、日本はデフレに陥り、アメリカではデフレに陥ることが無く推移している。日銀の優柔不断な政策が現在のデフレと円高を引き起こしているのではないかというのが、中川氏の質問趣旨であった。

これは一つの見方である。今回の円の量的緩和策が円高を止める有効な手段であったことを考えると、納得できる。ドル買いによって相場へ介入するのはショック療法ではあるが効果が長続きするようには思えないのに対して、量的緩和策は根本的な政策になると思った。

今回の80円台突入を機会に、円ドル相場は円安に推移していくだろうという予感がある。それを確実にするためには、今後も日銀のタイムリーな対応が不可欠である。
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木谷恭介著「死にたい老人」を読む

(木谷恭介著「死にたい老人」)

木谷恭介著「死にたい老人」を読んだ。といっても読んだのは1週間ほど前で、「専務」のことがあって、感想を書くチャンスが無かった。木谷恭介といえば、旅情推理小説で流行作家だった。特に著者の作品の愛読者だったわけではないが、図書館の新刊案内で題名を見て、気になって借りてきた。

木谷恭介氏は現在83歳、掛川市(旧大須賀町)で一人暮らしをしている。人口減、老齢化がすごい勢いで進行している日本で、福祉の危機が問題になっている。若い時から好き放題やって来て、この年齢になっても長らえている。生きるためには書かなければならないけれども、書くことにも疲れた。早くこの世におさらばした方が、国のため、社会のためだと思った。しかし、日本では安楽死や尊厳死は末期状態にならなければ、認められる可能性はない。

出来れば意味のある死を死にたい。考えているうちに、断食によって死んで、死の直前まで身体の状況や思いなどを克明に書き残し、遺稿として世に出せば、意味のある死になるのではないかと考えた。そこで自分の最新の著書の後書きに断食による死を実行すると宣言した。ただ、断食を実行する際に、周囲にいる人たちが、保護責任者遺棄罪として訴追されては申し訳ない。それでヘルパーさんやアシスタントの女性を解雇した。少し離れている近所には、子供のところへ引っ越すという話を広めた。

1度目は断食を始めようとしたときに、救急車で運ばれるような病を発症して実行出来なかった。2度目はかなり長く断食したが、医者から出されている何種類かの薬を飲み続けていたので、そのうちに胃が激しく痛んで、そのまま続けると胃に穴が空き、腹膜炎になって死ぬ。それでは断食による死にならないので、病院に行き、ドクターストップになってしまった。死に至る断食を試みながら、様々な薬を飲み続ける滑稽さにはほとんど気付いていない。

3度目の断食に入った所で、ある人から人間、理性的に自殺する事は出来ないと言われた。断食をしようとすると色々障害が起きるのも、理性が生存本能を使って引き起こしている障害であろうと思った。すっかり納得してしまい、断食を中止してしまった。そこまでの記録を本にしたのが、「死にたい老人」である。

かつて、僧が食を絶ち経を読みながら死んで即身仏なる行が行われた。即身仏はミイラ化し、信仰の対象になった。特に東北地方ではそういう即身仏が何体も残っている。僧は一本の竹筒だけで外界と繋がった穴倉に入って、経を読み続ける。その弟子たちは、竹筒から読経が聞こえなくなったら、成仏したとみなして穴を埋めてしまった。著者はその事実を、やはり人間は理性的に死ぬことは難しいから、弟子たちが手を貸して成仏させるのだろうと解釈する。

著者は今回は失敗したが、まだ諦めたわけではないと、断食による死に未練を残している。この老作家、意外としたたかかもしれない。
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葬式でA氏とK氏とお話しする

(冬枯れの大代川土手に唯一の花、カラシナの花)

「専務」の葬式が終わって、精進落しの席で久し振りにA氏とK氏とお話した。二人とも小さいながら会社の社長をやってきた人たちである。

A氏は自分より8歳上の73歳、入社後の若い頃に上司で、仕事を色々教わった方である。近況を聞くと、ゴルフや散歩とは別に、近頃は自転車をやっているという。自転車はけっこうきつくて、カロリーの消費も歩くよりもはるかに多い。特に自宅が牧之原の上にあるため、帰りはいつも坂を登る事になり、大変だと話す。やや皺は増えたけれども、メタボには縁が無さそうで、若々しくみえる。けれども、体力的にはかなり落ちたという。

昔から歴史小説を中心にたくさん本を読んでおられるとは聞いていたが、今は年に200冊ほど読んでいるという。200冊だと一日一冊くらいのペースでないとこなせないでしょう。その通りで、どうしても本を読む気にならない日もあるから。自分はもっぱら図書館で借りて読んでいるけれども、図書館は利用していないらしい。買ってある本をくり返し読んでいるという。中には毎年一回は読むことにしている本もある。それは自分とは違う読書方法である。お遍路に行った話をして、その記録を送るので読んでみてもらいたいと話した。

K氏とは立ち話であった。自分より2歳下の63歳、まだ現役の社長である。今会社はどこでも大変な状況で、貴方は本当にいいときに引かれた。今は引くも地獄、進むも地獄、特に自動車の下請け工場などは酷いものだと話す。

自分は、最近は古文書の解読を勉強していると話していると、隣りで奥様が、この人のお父さんは島田在住で、退職してから古文書の勉強をしていた。亡くなってもう13年になるけれども、最晩年には大学の先生が教わりに来るほどだったと話す。靜岡に駿河古文書会と言うのがあって、そこに入って勉強しているというと、駿河古文書会は父から聞いたことがある。きっと父もその会に入っていたのではないかと思う。昔からの名簿があるから見てみましょうと話した。

退職してから古文書解読の勉強を始めた実例がここにあった。大いに勇気付けられる話である。お葬式では日頃会えない人に会うことが出来る。それは故人が導いてくれた縁なのであろう。

家に帰って早速「駿河古文書会の活動と現状 - 創立40周年を迎えて -」という小冊子を見ると、最後に、この40年間の会員名簿が付いていて、名前を探すと129番目に「藤波伊助」という名前が載っていた。「S51~H10 平成10年逝去」と記載されていた。ちなみに自分は417番目、後ろから数えて3番目である。
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「専務」の通夜から告別式まで

(畑の隅の椿が一輪咲いた)

昨夜、「専務」の通夜に女房と出かける。この寒さにお葬式が立て込んで、島田の葬祭場は1週間待ちだといわれ、金谷の葬祭場にしたけれども、会場が狭いことを喪主は心配しているようであった。通夜は親族通夜でお経を上げるのを30分前倒しにして、混雑を避けたという。

控え室で読経が終わるのを待つ間、懐かしい顔と次々に出会い、まるで職場の同窓会のようであった。長く会っていないと、顔を合わせ、何とか昔の面影をとらえて判別するが、話をするうちに昔の記憶がどんどん戻ってきて、歳を取っただけで何も変わっていないと気付く。その辺りも同窓会と全く同じである。通夜はお焼香をして、「専務」の顔を拝んですぐに帰ってきた。次から次へと焼香の列が途絶えず、玄関ホールは人で一杯だった。

今日、昼食を早く済ませて、女房に送ってもらい、一時間前に葬祭場に入った。親族は火葬場に行っていて、一般会葬者はまだ来ていないので、葬儀場は閑散としていた。待つ間に懐かしい顔が次々にやって来て挨拶を交わした。

中で一つ失敗をした。知り合いとよく似た人で、しばらく会わないうちに随分白髪が増えたとは思ったが、その人のつもりで挨拶をした。ちょっと怪訝な顔をされたが、挨拶に応じてくれた。しばらくして、その知り合いが別にいて再度挨拶を交わすことになった。とすると先ほど挨拶をしたのは誰だったのか。さぞかし面食らわれたことと、気の毒に思った。

葬儀が始まった。浄土真宗の葬儀は他の宗派と違って特徴がある。いくつか気付いた点を挙げると、
① 5人のお坊さんの内、一人が尼さんだったが、頭を丸めている人は一人もいなかった。
② 戒名は簡単で「釋〇」だけと聞いていたけれども、頭に「〇〇院」と付き、釋の下に2文字付いて、全部で6文字あった。ただ「居士」とか「信士」は付かない。
③ 祭壇のお華は白一色で、それは意外と厳格のようであった。
④ 引導を渡す気合がない。(お袋の時は、浄土宗で「行け!」という気合に一同がびっくりさせられた。)
⑤ 会葬御礼に、お清めの塩が付いていない。これは意外と不便である。家に帰ってから、わざわざ女房に食用の塩を持って来させて、お清めをした。会葬には色々な宗派の人が参集する。その大半が家に入る前に塩でお清めをする習慣があるのだから、塩をつけるべきだと思った。それを使う使わないは宗派それぞれの慣習に従えばよい。葬祭業の方は工夫すべきだと思った。

頼まれていた弔辞を述べた。5分以上掛かったであろうか。少しカットしようと思ったが、喪主から少し長くても差し支えないと聞き、そのまま述べた。内容は訃報を聞いたときに感じて、このブログに書き込んだエピソードを主にまとめた。弔辞の常套句を使わない、自分の言葉でまとめたつもりである。

会葬者が予想以上の多く、たちまち会場から溢れ、玄関ホールから、トイレに通じる廊下までびっしりと椅子が並んでいたのには驚いた。会葬者は500人もいただろうか。

図太く構えていたようでも、弔辞が重く圧し掛かっていて、終わった途端、気分が晴れた。上手く言えたかどうかなどは別次元の話である。口から出てしまったものは戻せないと、気持ちの切り換えは良い方である。しかし、ムサシの散歩後、どっと疲れが出て宵寝をしてしまった。
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