goo

「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その3

(庭の小花のヒマワリ)

お昼、名古屋と掛川から子供たち、孫たちが集ってくれ、島田の料理屋で古希のお祝いをしてくれた。子供たちにはとんだ散財をさせてしまった。感謝と共に、これから10年、傘寿まで、またこういう席で、その10年を誇れるように、何かを計画して行動したいと決意した。そのためには、まず健康で動けることである。

夜、祥展堂さんから電話があり、今月の末頃にお邪魔することになった。

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。まず23年前の記録から。

宗円寺は「川井の妻薬師」と呼ばれ、薬師如来立像は昔から知られている。境内には東南海地震による袋井の犠牲者供養塔がある。昭和十九年、東海地方に巨大地震があった。戦争中のこと故、全て機密事項として報道されることはなかったが、多くの犠牲者があったと聞く。僕を除く巡礼団それぞれに、その地震の記憶があり、子供の頃に大変驚いたという経験を語ってくれた。

23年前のように、旧国道端の宗円寺に寄った。宗円寺では、案内板で「川井の妻薬師」が鎌倉時代末期の鉄造りの薬師像だと知った。静岡県内唯一の鉄仏と書かれていたが、静岡の方のどこかで鉄仏を見た記憶がある。今、どことは思い出せないが。もう一つ、昭和十九年、三河地震の犠牲者供養塔も確認した。「大震災袋井市死亡者追悼之碑」と碑面には刻まれていた。

宗円寺から北へ真っ直ぐの道を進む。行く手を横切る高架の道が見えて来た。それが見えたら、手前の左手に海蔵寺があると認識していた。しかし、左手は住宅地で、お寺など見当たらなかった。海蔵寺は諦めて、高架橋を潜り、更に北へ進む。この辺りから雨がしとしとと降って来た。決して大降りにはならないと解っていたから驚かなかった。その先に、もう一つ高架の道が見えて来た。立ち止まって、地図を見直した。古い地図で、国一の袋井バイパスがまだ無かったのである。先に見えるのは東名高速道路で、海蔵寺はその手前で、左手の小山にあるのだろうと、漸く想像できた。しかし、海蔵寺へ寄り道する気持ちはすでに失せていた。以下へ23年前に立寄った海蔵寺の記録を示す。

【歩程】海蔵寺へ、北へ2.1km
田圃の中に微妙なカーブを描く旧秋葉道に戻った辺りで、雨がパラパラと来る。見上げると上空に帯状の黒い雲がある。しかし、行く手の北の空は雲が切れているから心配はしなかった。橋を東に渡って宇刈川の土手の桜並木を行く。今年は桜の便りが届き始めてから花冷えが続き、桜が随分長持ちした。この桜並木も満開は過ぎているが、まだ散りきってはいない。お茶も随分遅れるようだ。

袋井バイパスを潜り、海蔵寺の近くまでは来たが、海蔵寺が見つからず、近くで庭掃除をする奥さんに聞く。「南へ回って幼稚園のある所に山門がある」と教えてくれる。目の前に、先週海岸歩きの時に見た紫の花が咲き乱れていた。「もう一つ、この花は何という名前ですか」と聞いた。随分変な人達と思ったかもしれないが、「ツルキキョウ」と名前を教えてくれた。

海蔵寺は今川了俊ゆかりの曹洞宗の寺で、了俊の供養塔があるというが、見つからなかった。「ところで今川了俊とは何をした人なのだ?」聞いたような名前だが誰も知らなかった。
(注)今川了俊は室町時代前期の武将・歌学者。名は貞世。剃髪して了俊。義詮・義満に仕えて軍功をたて、また冷泉為秀に師事し、歌学に堪能であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その2

(袋井宿場公園)

今日で古希を迎える。古来希(まれ)なりというが、今ではごくありふれた年齢である。まだまだこれからだと思う人は多い。自分もその一人でありたい。

午後「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。先月、先生に頼まれて、平田篤胤の手紙を解読(5月16日ブログ参照)して郵送してあったが、そのお礼で新茶を頂いた。こういう頼まれごとは初めてであるが、今後増えるかもしれない。なお、この宛先の道雄氏は、先生の話によると、新庄道雄と言い、駿府で「三階屋」という郷宿を営む富商で、三階屋仁右衛門と称した。平田篤胤の門人で、かつ篤胤の諸出版のスポンサーでもあったという。

「遠江三十三観音巡礼 再び」二日目を続ける。まず23年前の記録から。

出来るだけ忠実に昔の巡礼道を辿る。原野谷川の土手では桜並木がようやく散り始めていた。睦美橋(S44.3完成) を渡り、十二所神社の所から旧秋葉道の横丁へ入る。幼稚園児の集合場があり、集まっていたお母さん方に挨拶する。そばに輪を沢山付けたロープがあった。園児に輪を握らせて数珠つなぎにして通園させるのだろう。旧東海道を横切り、国道1号線を渡る。

原野谷川の土手を通り、旧東海道袋井宿の真ん中辺り、袋井宿場公園でトイレを借りる。出てくると、お婆さんが物言いたそうに寄って来た。

あの看板を取り外したいのだが、役所に言っても許可してくれない。指差す先に、公園に隣接する商家の壁面いっぱいに看板が貼りつけられ、「東海道ど真ん中」と大きく書かれている。合せて協賛するのであろう、通りの商店の名前がいくつか書かれていた。どう思います? お婆さんの話ではあの看板は東海道400年祭の時、家で自費で掛けたもので、今では見苦しいから外してしまいたい。そんな話を役所へ出したが、駄目だといわれた。自分のお金で作ったものを、自由に出来ないのはおかしい。お婆さんの言い分だけでは何とも答えようがない。

袋井宿は距離的に東海道の中間に当るとかで、袋井市は「東海道ど真ん中」のキャッチフレーズで町興しをしている。だから看板は残したいのだろう。看板が側面に掲げられたあの商家は、自分の家の店で、昔は薬屋だった。袋井宿は安政の大地震(1854)で、ほとんどの家屋が倒壊した。その後、すぐに立て直したもので、昔は屋根が杉板で張られていた。今はその上にトタン板を張ってあるが。昭和19年にこの辺りを襲った三河地震でも、袋井宿では多くの家が倒壊したが、家の店は倒れずに残った。


(明治の年賀状)

店はもうここではやっていないが、ウィンドに古いものを少し展示しているので、見てもらいたいと連れて行く。昔の角力番付やら色々ある中で、一枚の葉書があった。明治45年1月1日、自分の祖母が出した年賀状で、骨董市に出ていたものを、知人が買い求めて、届けてくれたと言う。葉書の写真は近くの原野谷川に架かった木造の静橋で、橋の上を大八車が通っている。そこへ「安希まして お目出度う 御座以ます」と書かれている。宛先は「引佐郡伊平村伊平 池田某」とある。今脚光を浴び始めている、井伊直虎の井伊谷の、更に奥の村である。往時、報徳社の関係で、祖父が知り合い、賀状のやり取りをしていたという。そこへお婆さんの知人が通りかかり、話はそこで終わった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 二日目 その1 第7番慈眼寺

(子規の「家居」の句碑)

昨日、6月9日、「遠江三十三観音巡礼 再び」の一日目から一週間経った。足の疲れもとれて、そろそろ歩いて置かないと、前回の歩きが無駄になってしまう。一般に2週間歩かないと元に戻ってしまうといわれる。予報は小雨が降りそうな天気であったが、その分涼しそうなので、歩くことにした。

23年前の巡礼団は春の遠州路を歩いている。

遠江三十三観音巡礼②
巡礼団桜吹雪の中を行く
第8番 月見山観正寺 ~ 第11番 高平山遍照寺
  日時  平成5年4月18日(土) 天候 曇り後遅くなって晴れ
皆の予定が合って漸く2回目の観音巡りが実施出来た。天候は曇りだが、回復方向にあるという。一回目の経験で、歩行距離が一回20kmが適度の距離だということが判った。当初、7回で一巡する予定を少し延ばして、一回の距離を減らすことにした。その結果、第2回は袋井駅から天浜線の遠江一宮駅までとし、2ヶ所の観音しか回れなくなった。その代わり、2km置き位に番外のお寺などを配して、長時間の歩きにアクセントを付けた。

【歩程】宗円寺へ、北へ 1.7km
歩き初めてすぐ、駅前の緑地帯の中に句碑を見つけ、足を運ぶ。
   冬枯れの 中の家居や 村一つ   子規
正岡子規が東海道線でこの辺りを通った折りに作った句だと説明にあった。「家居」をどう読むのか判らず帰宅後広辞苑で調べた所、「いえい」と読み「家を作って住むこと、あるいは住居」とあった。


さて「遠江三十三観音巡礼 再び」は前回、第7番 慈眼寺を次回に残していた。前回と同じ電車で、袋井駅頭に午前8時に立った。典型的な梅雨の初期の空模様で、雨はまだ落ちていない。駅前広場を見廻して、正岡子規の句碑を探した。前と場所が移されたが、現在も立っていると聞いていた。漸く右手の歩道脇に見付けて、写真に撮った。駅前より北へ延びる道が三本ある。その一番東の道を少し行くと右手に慈眼寺がある。

慈眼寺について、23年前の一日目の記録の最後に、次のように記している。

庫裏に案内を乞うたが留守であった。朱印は本堂の縁側に出してあったので打たして貰う。ここも「遠州三十三観音札所」と兼ねている。「福聚山」の額が随分と変わった書体の額で、パンフレットによれば東大寺管長清水公照の真筆だという。

第7番 曹洞宗 福聚山慈眼寺(ふくじゅざんじげんじ)
「じげんして 導き給え 法(のり)の道 ただ一筋に たのむ観音」
【本尊】聖観世音菩薩    【所在地】袋井市高尾





(第七番慈眼寺山門と納経印、山門扁額は清水公照氏筆)

慈眼寺の境内は白砂利が敷かれ、箒目が立っていた。それを踏んで本堂に参る。縁側に朱印は出ていなかったので、庫裏に案内を乞うた。老住職が出て来て、納経印を押してくれたが、ひどく不愛想であった。虫の居所でも悪かったのだろうか。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その8

(大門大塚古墳)

今日、二度目の巡礼に出掛けたが、途中で断念して、お昼には帰って来た。もう一度やり直しである。その話は後日。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。今日で一日目の巡礼が終る。

袋井駅までの道について、岩松寺の住職は、この坂を上って、信号のある四つ角を真っ直ぐ行けばよい。その先は‥‥と、ちょっと説明に躊躇した。団地を突っ切って行けばよいのですね、と前回の記憶をたどって補足したところ、住職は付け加える言葉を飲み込んだ風に見えたが、自分は、袋井駅までの道は判ったと思った。

23年前は、このあと、第7番慈眼寺に参り、袋井駅でこの日の巡礼を終えた。しかし、今はもう、慈眼寺に寄ることは断念していた。僅かな距離であるが、次回の最初に参ればよいと思った。

【歩程】第7番慈眼寺へ、北へ2.4km
上り返した原を広い道路に沿って北へ歩き、下った所が袋井の団地であった。団地を横切って、新幹線を潜り、東海道線の上を渡って、少し迷った後、慈眼寺についた。

(23年前、第7番慈眼寺の記録は次回へ)

最後の2.5キロの道を、500m毎に休み/\歩いた。足に痛みが出て、一休みすれば痛みは引くから、そんな風な歩きになった。道は台地から袋井の町へ下って行く。町の風景が一望に出来るのだが、眼下の見えるはずの袋井の団地が見えない。眼下には大型の商業施設が広がっている。その先には袋井駅に行くならばみえるはずのない小山が行く手を阻んでいる。これはまた道を間違えたと思った。台地上の三叉路で道なりに広い道を通って来たが、どうやら間違えて、東寄りの道を下って来たようだ。平地へおりて、やがて、法多山から袋井駅へ通じる道に出て、どうやらそれ程遠回りではなかったと知り、ほっとした。それでも数百メートルは余分であったか。

袋井市高尾の町中に円墳があった。いっぷくの積りで立寄る。案内板によれば、「大門大塚古墳」と呼ばれ、県指定文化財にだという。発掘調査の結果、銅鏡、刀、金張りの馬具、玉類、須恵器、土師器などたくさんの副葬品が出土した。古墳時代後期のこの地方の首長の墓と考えられている。

【歩程】第1日目終り、JR袋井駅へ、南西へ0.3km
和さんが足の付け根が少し痛いと言った程度で、巡礼団一同、心地好い疲れを感じながら電車に乗り、金谷駅で解散する。弥次喜多コンビも歩く楽しさを感じてくれたようだ。先を急がず、今日程度の道のりにして、道草を多くし、第2回目を計画したい。



(陸橋に残された弾痕)

最後に、子供連れの女性に、袋井駅へはこの道でよいか、袋井駅に南口はあるのかと尋ねた。南口もあるが、北口もすぐだと教えてくれる。なるほど、一段下を通るJR東海道線を、陸橋で渡り、左折すると袋井駅がすぐの所に見えて来た。その橋を渡った所に昔の鉄製の橋梁一部が展示されていて、「陸橋に残された弾痕」と表示されていた。先の大戦で戦闘機による機銃掃射によるのだろう、二、三ヶ所の穴が明いていた。急げないので、電車を一本見逃して、ホームのベンチでゆっくり休み、4時55分の電車に乗った。

23年前も初日で条件は同じはずだが、この間に、自分も老いたのであろう。歩く速さも、足腰も、判断力も明らかに低下していると自覚した。往きの電車で、ホームのエレベーターを待って、たむろする男子高校生を見て、何と軟弱なと思ったが、駅のエスカレーターとエレベーターをこれほど有難いと思ったことはなかった。

本日の歩数43,431歩。歩いた距離は26キロほどかと思う。女房の迎えで、家に帰ると、ムサシが散歩を待っていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その7 第6番岩松寺

(菩提の山神神社)

午後、掛川古文書講座に出席する。序でに掛川図書館で清水市史から、江戸時代の清水湊の略図のコピーを取ってきた。来週の「古文書に親しむ」講座の参考資料にする。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

23年前と同じコースを辿って菩提の茶畑の間を行く。すでに、足が限界に達していて、あちこち痛みさえ発するようになって来た。止れば痛みは引く。2キロ歩いて、菩提の集落の氏神、山神神社で一休みした。社殿の陰へ入ると、涼しい風が渡ってきた。裏山ではずうっとブルの音が聞こえていたが、歩き出すと、右手の山の斜面に、大規模な太陽光発電の工事が進んでいるのが見えた。原発が機能していた、23年前には発想すらなかったことであろう。

【歩程】第6番岩松寺へ、西へ5.0m
団子屋で各々土産を買い、一皿を皆で摘んだ後、村岡屋食堂に入る。うどん・そば・ラーメン・おでんなど思い思いに取り、握り飯などを出して、昼食をとった。

店の間の路地を南へ上り、駐車場を横切って、菩提の集落へ下る。谷一面茶畑で袋井の茶産地である。あちこちに茶工場らしい建物が目立つ。話には聞いていたが、来るのは初めてであった。

新道を避け、旧道を選びながら西へ30分程歩き、川を渡って林を抜けた所に、静かな集落があった。「こんな所には、こういうことが無ければ来ることはないなあ」と話しながら行く。こんな所にも開発の波が押し寄せていて、南側の山がすっかり削られ、緑を失って、土砂の山と化している。埋め立て用の土が欲しいのであろうか。日本人は自分の住む町の風景が変えられてしまうことに、全く無頓着な人種である。

手前から見えていた棒を立てたような建物は、ゴミ焼却場の煙突だった。煙突を剥き出しにしないのは、何かへの配慮なのだろうか。

岩松寺は峠を越えて少し下った四つ角から、南の一段下の谷へ降りた所にあった。住職に朱印を貰いながら話す。先程も3人の組が見えたとの話に、中年夫婦はあの後どうしたのかと思ったが、こちらへは回っていないようであった。

観音堂は道路へ出て南側の山を少し登った所にあった。頬づえをついた石仏が珍しく、臼さんが写真に撮った。古いながらもお堂に手入れがしてあるのが嬉しかった。そばに行者堂と子安地蔵堂があった。

第6番 真言宗 篠ヶ谷山岩松寺(しのがやざんがんしょうじ)
「ささだにや 岩に松風 おとずれて すなわちみてら 浄土なるらん」
【本尊】聖観世音菩薩   【所在地】浅羽町篠ヶ谷





(第六番岩松寺観音堂と納経印)

このあと、左折し、小笠沢川に架かる豊橋を渡り、小さな峠を越えて浅羽に至る。途中、老人福祉センター白雲荘の門脇で一休みする。山神神社からは2.5キロほどであろうか。岩松寺へはあと1キロもないはずであった。地図を見ながら歩いたはずだが、昼下がりの今の時間、道を聞きたくても、人影が見えない。後で思うに、かなり通り過ぎてしまったようで、途中で庭仕事するおばさんに尋ねた所、南の谷へ下り、その谷を戻るように教えてくれた。迷い迷い、谷まで下り、犬の散歩のおばさんにもう一度聞いて、ようやく、岩松寺までたどり着いた。

道路から少し上がった岩松寺の庫裡まで辿り着くと、作業着姿の住職(たぶん)が、物置の方から出て来て、納経帳は中に置いて、お参りして来るように言う。観音堂は一度下の道まで降りて、50mほど奥へ行った右手に石段があり、その上にあるという。疲れ切っていた足腰にむち打ち、まずは庫裡の上がり框に納経帳と100円を置き、観音堂に参拝に行く。戻ってくると、納経印は押されていた。

疲労や足の痛みが限界まで来ていて、23年前のその後を確認しようと思っていたことが、すでに眼中になかった。例えば、「こんな所には、‥‥」の集落、「頬づえをついた石仏」など。前者は広い楽な道を通り、そこは通らなかった。後者は、探そうという気すらなかった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その6 第5番法多山北谷

(「法多山福豆まく人拾う善男善女」の彫刻)

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

理工科大学への近道を右に分けて、しばらく歩いて左折すると、法多山まで残り600メートルである。人家が増えて、23年前、法多山の手前で休憩を取った場所がどこだったか分らない。皆んなで立ちしょん出来たような草叢が、今は見当たらない。門前町の店で、営業している店はわずかであった。その一つ、「ことぶき茶屋」に入った。店内の時計は、正午を遙かに廻り、12時40分を指していた。

早速、自分の定番であるざるうどんを注文したが、かき氷のメニューに目が行き、気付いたら宇治金時を頼んでいた。それも、うどんより先にと。それ程に体が熱くなっていたのだろう。かき氷にざるうどんという、珍妙な取り合わせに、田楽が一櫛サービスに付いて来た。

法多山の門前町の手前で休憩をとる。朝方曇っていた空が、ここへ来てすっかり晴れ上がった。セーターは先程歩きながら脱いで、サブザックへ入れた。法多山に詣でる前に、トイレを済ませ休憩をとる。腹も減ったが昼食は法多山にしよう。法多山尊永寺は大賑わいだった。駐車場の客引が目立つ。高々1時間の駐車料金が500円とは高い。我々には関係のないことだが。参道の人込みの先を行く、利神公園で出会ったリュック姿の中年夫婦をまた見掛けた。

下った団子屋の手前に「一意一願 不動明王像」の彫刻が新しく増えていた。作者として藤枝の一ノ瀬芳朗の名前があった。藤枝と言えば、不動峡の岩に刻んだ不動明王が有名だが、縁のある人なのだろうか。それにしても、法多山の境内には、様々な神様・仏様が祀られていて、まるで神仏の百貨店のようである。節操がないというか、何でもありという感じが、如何にも日本的で面白い。

北谷の観音堂は、本堂へ登る石段の途中の左手に、人込みから外れてひっそりとあった。置かれた線香を皆で立てた。朱印は本堂階段下で押して貰う。本堂前で一斗樽が開けられ、ひしゃくとお皿が準備されていた。先に飲んだ鈴さんと和さんが「ご神水だ」という。どんなお水かと、疑わずに小皿へ一杯入れて煽ったところ、お酒だった。騙されたと思ったときはお酒はすでに喉を通り過ぎていた。しかし喉ごしの良いお酒であった。そのそばに人の手を沢山彫りつけた彫刻があった。題として「法多山福豆まく人拾う善男善女(ひと)」、作者は二紀会の平野旭とある。

第5番 真言宗 法多山尊永寺内北谷(はったさんそんえいじないきただに)
「きただにや 雪や氷と へだつれど とけては同じ 谷川の水」
【本尊】聖観世音菩薩   【所在地】袋井市豊沢





(第五番法多山北谷観音堂と納経印)

休日と平日では全く参拝客が違い、長い参道で参詣客には数えるほどしか会わなかった。台風で石段が崩壊後、広くて立派な長い石段が出来た。石段途中にあった北谷の観音堂も、最上段の本堂右手に引っ越していた。23年前、祝日でお酒が振舞われていた。自分の下戸を承知のいたずらに、皆んなの笑い顔が今も目に浮かぶ。しばらくは赤い顔をして歩いた記憶がある。手の彫刻は、観音堂の脇に移されていた。記憶よりも小さい彫刻であった。

納経印を頂き、本堂参拝後、境内に一組の老夫婦が上ってきた。法多山もこんなに参拝客がいない時があるんですね、と話しかけると、いつもは初詣に来るのだが、今年は来れなかった。今日は貸し切りみたいで、こんな法多山もいいと話す。名物の団子を一箱買って、法多山を後にした。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その5

(エコパスタジアム)

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

正法寺から下って元の道を西へ歩く。掛川市篠場(しのんば)、平野と順調に進んだ。休憩地にと考えていた、林光庵は建物が無くなっていた。ただ更地の西側に、西国三十三札所の観音石像が細長い長屋に並んで鎮座していた。


(旧林光庵、西国三十三札所の観音石像)

【歩程】第5番尊永寺へ、南西へ 5.2km
法多山に向けて広い道の右側を一列になって巡礼団は行く。事故に巻き込まれてはならないとしっかり前後左右に眼を配りながら歩く。途中道端の無住のお寺、林光庵に立ち寄る。西国三十三札所を模した地蔵さんが33体ずらりと並んでいた。正面の階段で休憩を取る。鈴さんよりお茶とミカンを頂く。道に出て歩き出してまもなく、バラバラと落ちていた合計121円の小銭を拾う。林光庵を後にする時、代表で場所代の意味も込めて、お賽銭を10円上げてきたが、早速そのお返しを頂いたとはしゃぐ。


「バラバラと落ちていた合計121円」はどのあたりだったのだろう。道が随分広くなってイメージが湧かない。掛川市篠場、平野と順調に過ぎて、袋井市愛野に入った辺りで、周囲が様変わりした。右手にJR愛野駅(平成13年開業)が見え、左手にはエコパ(静岡県小笠山総合運動公園スタジアム、平成13年開業)が出来て、広い自動車道が縦横に通り、往時の面影は全くない。ちなみにエコパでは、2002年日韓共同開催のワールドカップの試合が何試合か行われた。そのための大改造で、見知らぬ町に来たように感じた。地図を見ても、自分が居る位置すら分らない。

この後は、自動車道に立つ「法多山」の標識だけが頼りになった。まだ3.5キロと距離表示があった。時刻はいつの間にか12時に15分前と迫っている。すでに歩き始めて4時間になる。夏の日差しの中で急に疲れを感じた。特に足腰の疲れはピークになった。後から思うに、初日は愛野駅で終えて置けばよかった。人には歩き初めは距離を短く無理をしないで、徐々に距離を伸ばせば、一日30キロは余裕で歩けるようになるなどとアドバイスをしながら、自分では無理をしてしまった。

エコパの手前で左へ折れて、山中に開かれた広い道の歩道を歩く。向うよりその先にある理工科大学の学生らしい若者が、申し合わせたように50メートルほど間隔をあけてポツリポツリと続く。手にはスマホを操作しながらの金次郎である。愛野駅の周りに出来た町に用があるのだろうか。そこまででも3~4キロはある。今の若者事情などと、評価しにくい光景であった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その4 第4番正法寺

(東方に見えた掛川市役所)

昨日、東海地方は梅雨入りした。今朝は梅雨らしい曇り空であったが、午後は雲が切れて晴れた。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

長谷寺でトイレを借りて、隣の貴船神社に参拝し、元の道を戻った。前方東の方角に、掛川市役所の、そろばん玉を立てたような建物の先端が見えた。平成8年に出来た建物だから、前回の巡礼時(平成5年)にはまだ無かった建物である。JR東海道線、新幹線と潜って南進し、東名高速を潜ったところで、掛川市長谷(ながや)から高御所(こうごしょ)に入る。辰沼池という溜池の角で左折する辺りから、前回より道路が拡幅され、道筋も変わってしまい、前回地図で歩いて行くと、少なからず戸惑ってしまった。

天気はすっかり雲が取れて、日差しが強くなった。しかし、時々吹く風はひんやりと感じる。途中まで、次は法多山だと思い込んでいて、その前の第4番正法寺を見過ごし、危うく通り過ぎる所であった。分かれ道の手前で、何とか正法寺が、山に入ったところにあることに気付いた。手前の道路脇の木陰に、身体が屈まった老婆が二人憩っていたので、声を掛けて正法寺への道を確認した。お遍路でも同じようなシチュエーションがあったことを思い出した。老婆たちには語り合う話は無尽蔵にあるのだろう。

メイン道路から南に別れて、新しい道路の高架下を潜り、車も通る山道を上った先に、正法寺はあった。掛川古文書講座の現地見学で、近年、このお寺には来ていたことに気付いた。

【歩程】第4番正法寺へ、南へ 2.0km
東海道線と新幹線を南へ潜り直し、更に南で東名のガードを潜り、正面に大きな池のある広い道に出た。掛川は随分と溜池の多い地域である。山も低く川も逆川くらいしか無く、灌漑用の池が必要だったのだろう。池を埋めてしまうのではなくて、上手に利用した観光開発や土地利用が望ましいと思う。正法寺はその道路から少し南へ登った山の中にある大きなお寺であった。「遠州三十三観音」も兼ねていて、朱印を押してくれた寺のおばさんの話では、昔は法多山とも関係があったようだ。参道の両側に樅の大木が門柱のように立っていた。

第4番 曹洞宗 鶏足山正法寺内新福寺(けいそくざんしょうほうじないしんぷくじ)
「まいるより 罪はあらじの 新福寺 御手(おんて)の花を みるにつけても」
【本尊】十一面観世音菩薩   【所在地】掛川市高御所
【名木】モミ(参道左右にあり、目通り 右4メートル-左4.65メートル 、樹齢250年以上)





(第四番正法寺内新福寺と納経印))


参道左右にあった、モミの巨木は伐られてしまったようで、見当たらなかった。小学校の廃校舎を貰い受けて移築した観音堂は、真中だけ残して改修され、こじんまりと整備されていた。池が失われる話は23年前にもここで書いていた。23年前から、持論は変わっていないと気付かされた。納経印は観音堂の中に置かれていて、自分で御朱印を押し、100円を置いた。前回は庫裡に寄って、寺の人と話しながら納経印をもらった。セルフサービスが続いているが、お寺の方との僅かのお話を楽しみにしている自分には何とも味気ない。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その3 第3番長谷寺

(第3番長谷寺のビャクシン)

午前中、最新の2万5千分の一地図を買おうと、本屋さんに出掛けた所、今では余程大きな書店で無いと置いてないという。仕方なく、遠江88観音関連の「森」「八高山」「山梨」「掛川」「島田」「袋井」「下平川」「相良」の8枚を注文してきた。物が来るまで10日ほど掛かるという。書店が売れないものは置かなくなった。町の文化基地としての役割を放棄してしまったようだ。この時代だから、きっと、もっと早く手に入れる方法があるのだろうが。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

しばらく新幹線に沿って歩き、ガードを潜って北へ出た。すっかり宅地化が進み、道しるべも見付けられなかった。第3番長谷寺も、回りがすっかり開発されて、自慢のビャクシンも枝を大きく切り刻まれて、枝も5本ほどしか確認出来なかった。(そばの標識にはスイリュウヒバとあった。)

そこへ、軽トラが来ておばさんが降りて来た。てっきり、お寺の人だと思い、納経印が頂けるかどうか聞いてみた。「農協がどうかしたのか?」聞き違いにようやく気付いて、車があるから誰かいると思うよと言って、草刈でもするのか、お墓の方へ去った。住宅の玄関はしまっていて、チャイムにも返事がなかった。本堂は開いていたので上がり込んで、御本尊に礼拝してから、置かれた納経印を自分でついて、100円置く。

新幹線と東海道線を北へ潜り、河原石の道しるべに導かれて、長谷寺に至る。本堂へ上げて貰い、朱印を貰う。十一面観音は本堂に安置されていた。
口の達者なおばさんが、説教口調で寺の案内をしてくれた。十二神将像が描かれた横額を示し、自分の干支の像に今日一日の無事を祈れと言い、お蔭で事故を免れた娘さんもいたと話す。境内に降りて、目の前の大木をヒバだと言い、枝が7つに分かれていると説明する。(案内書ではビャクシンで、枝は10に分かれているとあった)この辺りは掛川駅からそんなに離れていないのに、田舎の景色が残っていると自慢しながら、その直後にお寺の前に広い道路が出来、開発されてこの辺りもすっかり変わると自慢げに話す。満開の枝垂れ梅を写真に取れと言い、子安地蔵を堂に上がって拝めと言う。白く塗った下膨れのお顔は、何処かそのおばさんに似た地蔵尊だった。堂内には鎌や鉈の絵が沢山貼られていた。子供を授かった人は、男なら鎌、女なら鉈の絵を奉納するのが習わしと説明し、昔は本物を奉納したと付け加えた。男が鎌なら「おかまを掘る」というのはここから出たのかとは後の笑い話。(由来記によれば、女の時は鉈ではなくて包丁だという)

第3番 曹洞宗 東陽山長谷寺(とうようざんちょうこくじ)
「さいこくも 東(あずま)も同じ 長谷寺 参る心は 後の世のため」
【本尊】十一面観世音菩薩   【所在地】掛川市長谷(ながや) 
【名木】ビャクシン(目通り 3.5メートル、地上 5.6メートルの所で十本の枝に別れる)





(第三番長谷寺と納経印)



(子安地蔵堂の鎌と庖丁の絵)

最後に、子安地蔵堂に入り、奉納された鎌と庖丁の絵を写真に撮ってきた。23年前に比べて、周りが殺風景になり、味気なく感じた。これが「お寺の前に広い道路が出来、開発されてこの辺りもすっかり変わる」という大黒さんの説明の結果なのか、と考えさせられた。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「遠江三十三観音巡礼 再び」 一日目 その2 第2番常楽寺

(資生堂アートハウス)

午後、駿河古文書会に席する。

「遠江三十三観音巡礼 再び」の続きである。

右手に掛川花鳥園を見て東名を潜り、西へ歩く。住宅地の中で、庭で作業する奥さんに、常楽寺までの道を聞いた。

常楽寺【歩程】第2番常楽寺へ、北西へ 2.2km
東名を潜り返して、住宅地を少し歩いた小山の陰に常楽寺はあった。ここも無住。観音堂もなく、平屋の建物が一つあるだけであった。結縁寺のお婆ちゃんから聞いていたので、中に入り、上がり込んで朱印を押す。聖観音はそこへ祀られていた。

第2番 曹洞宗 保福山常楽寺(ほふくざんじょうらくじ)
「これやこの 常に楽しむ 寺なれば み法(のり)の船に さおやさすらん」
【本尊】聖観世音菩薩   【所在地】掛川市下俣





(第二番常楽寺と納経印)

無住の常楽寺であるが、建物は新しくなっていた。23年前は潰れそうな建物だった気がする。玄関は開いていたので、上がり込んで、御本尊に礼拝し、置かれている納経印を押して、100円を置く。近くの東光寺で管理されていると、道を聞いた奥さんも話していたが、堂内は整理整頓、掃除もしっかりされているように思えた。おそらく、朝夕に戸締りの開閉をされているのであろう。この世知辛い世の中で、人々を信頼して、無人の寺を空けて置いて頂けるのは、我々巡礼には大変有難いことである。

【歩程】第3番長谷寺へ、西へ 1.3km
利神公園でトイレを借りる。リュックを背負った中年夫婦が反対側から歩いて来て擦れ違った。彼らも同類だろうか。声をかけてみれば良かった。そばに利神社がある。どう読むのだろう。傍らには池があり、釣り糸を垂れる人が3人ほどいた。


常楽寺を出てすぐ西に利神社がある。案内板によれば、延喜式にも載る古宮で、祭神が、大歳神。だから、利(とし)神社と読むようだ。神社前の公園に、若い母親と幼児が遊んでいた。昔は何組もの母子が見られたものだが、少子化の今は、見ても一組である。子供は居ても夫婦共稼ぎだから、この時間は保育園なのだろうか。

傍らの池には平日だからか、釣り人はいなかった。池全体が、荒廃の雰囲気があった。掛川は溜池が実に沢山ある。大井川用水が来るまでは、農業用水を溜池に頼っていた。23年前の地図で見て歩くと、すでにいくつかの池は宅地化によって消えていた。周りが宅地化してくると、これらの池は水辺として、住民の憩いの場になるはずなのだが、このままで置けば、どんどん無くなって、住宅や工場は出来ても、人は住み難い町になってしまう。行政は是非溜池を生かした町づくりを考えてほしい。他所の町のことながら、気になることである。

西隣は資生堂アートハウスであった。この美術館は無料だったので、昔はよく女房と来た。しかしこんな位置関係にあるとは気が付かなかった。(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ