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介護保険制度説明会に出席

(介護保険制度説明会資料)

市より、介護保険制度説明会の案内が来て、今朝出掛けた。いよいよ介護を受ける世代に突入して来たかと、案内状を見たときは、少なからずショックであった。

どういう人たちが集るのかと見回したところ、案内が来たのはこの6月に65歳の誕生日を迎える面々で、だからすべて同年輩である。通路を隔てた隣りに、もと会社にいたS氏が居て会釈をした。会社は当然定年退職している。日常的に長距離の歩きをやっていて、半端ではないと聞いている。

資料を見ると、どうやら65歳からは市が介護保険サービスに必要な費用などから算出した介護保険額を決めて、徴収するという。それまでは健保と一緒に徴収されてきた。市の係が次々に出てきて様々に説明があった。

介護保険制度は平成12年に始まって11年経つという。40歳以上の全国民から保険料を集めて、要介護5段階、要支援2段階の認定を受けると、それぞれの支給限度額までのサービスを、10%の負担で受けられる。

現在、市の総人口は102,843人、内65歳以上の人口が25,981人、高齢化率25.26%、内65歳以上の認定者が3,386人、65歳以上の人口の13.03%が認定を受けていると聞く。認定者は65歳以上75歳未満が352人、75歳以上が3,034人いるという。

市民の検診の結果、市で突出して悪いのが糖尿病予備軍の割合である。これは県内で第一位という不名誉な結果が出ている。飲酒習慣のある人の率が48.9%(県平均38.1%)と高く、血糖コントロール不良が76.0%(県平均69.6%)と多いことが原因として上げられる。平たく言えば、酒飲みで不摂生の人が多いということであろう。お茶を飲むことでは、あの掛川市に負けないと思っていたが、意外な結果であった。

説明会の進行方法で、口では皆さんまだまだ第一線で働いている方が多い、といいながら、65歳を直前にしている我々を、全く高齢者扱いしている。使わなくなると弱っていく。これは頭も身体も同じで、年齢で弱っていくのではないと言いながら、最後には「いつまでもお元気で」とまで言われてしまった。

65歳はまだまだ若いよ。隣のS氏など、会の後、話を聞くと、毎日、粟ヶ岳(標高532メートル)まで登って、ぐるりと一回り歩いてくる。15キロくらいあるだろうか。半日掛かるという。また自転車やマラソンまで始めたと話す。どうだ、参ったか。自分にしても、もう5年半、2000日、ブログで1000文字以上書き続けている。文字数にして200万文字である。どうだ、参ったか。

帰りに、S氏に、持ち合わせていた「四国お遍路まんだら」を進呈した。
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久し振りに大雨が降って

(大雨で大代川も増水する)

昨日から台風2号くずれの低気圧が列島を西から東へ通って、大雨が降った。これにより東海地方も梅雨入りした。例年よりもかなり早い。会社から午後帰るとまーくん母子が遊びに来ていた。あの大雨の中でまーくんは何を思ったか外に出て遊んでびしょぬれになったとか、雨の中、初馬のバーバとネーネと一緒に近くに出来た喫茶店に行ってモーニングサービスを受けたとか、話をしている。あっくんも来月は一歳になる。そろそろ伝い歩きでもしそうな様子であった。みんなで横岡のじいじのお参りに行く。

祭壇に、七日ごとにお団子を新しく作り供えなおすのだと、義弟夫婦から、正三角錐に積み上げるお団子の話を聞いた。5段のお団子の数は幾つ必要だったのか。数えようとしたが見えない部分もあって数えられない。数列の問題か。昔から苦手だった。車で帰りながら足し算をしてみる。

上から、1段目1個、2段目(+2)3個、3段目(+3)6個、4段目(+4)10個、5段目(+5)15個、これを全部足せば35個、左右にそれぞれあったから、合計70個のお団子を作って積み上げたことになる。家に帰りつく頃にようやく答えが出た。義弟夫婦は個数を計算して作り、ぴったり合ったと話していた。我が家なら適当に作って余ったら食べてしまうだろう。

算数の問題といえば、昨日見た、映画「武士の家計簿」の中で、算数が趣味の祖母が孫に問題を出す。「鶴と亀が合わせて100匹、足の合計は272本、さて鶴は何羽いたでしょうか」いわゆる鶴亀算である。小学校高学年の頃、代数をまだ習わないときに、こんな問題を競って解いた。鶴亀算はけっこう得意で、もっと複雑なものにチャレンジした記憶がある。この問題は簡単で、272本から、鶴亀それぞれの足2本ずつの足、200本を引く。答えの72本が亀の残り2本分の足の数だから、2で割った36が亀の数、100匹から引けば64匹が鶴の数である。これは映画を見ていながらすぐに暗算できた。もっとも、鶴は匹とは数えず羽だから厳密には出題に間違いがある。

江戸時代にはそろばんが重要な計算機だった。そろばんのすぐれたところは、計算過程を頭において計算できる点である。そろばんに熟練すると、暗算で計算が可能になる。ところが、計算機はまことに便利ではあるが、計算機に幾ら熟練しても、暗算できるようにならない。江戸時代の教育は「読み、書き、そろばん」と言われたが、今では、「漫画、ワープロ、電卓」に変わってしまった。その結果、一昔前に書かれたものでも、現代人には全く読めなくなってしまった。今の子供たちは暗算がどのくらい出来るのであろうか。

読み書きといえば、自分も古文書を三年学んできて、近頃ようやく目に見えて読めるようになってきた。「石の上にも三年」、そんなことわざがあったかしらん。
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映画「武士の家計簿」を観る

(映画「武士の家計簿」のチラシ)

夢づくり会館で、「武士の家計簿」という映画会があって、午後、女房と観た。江戸末期の加賀藩で御算用者(経理係)として仕えた猪山家から出た家計簿が、古書店から出て、研究者によって「武士の家計簿」という本で紹介されたということは知っていたが、本はまだ読んでいなかった。その映画版である。

我が故郷の本家筋をたどって行くと、丹後の宮津で猪山家と同じ役を果たしていたと聞く。1668年、殿様である京極家の豊岡藩への御国替えに際して、その残務整理のために宮津に残って、豊岡藩に遅れて来てみると、すでに各御役はそれぞれに決まっていて、殿様の配慮で、町の一画を拝領して町人になったという。一方、自分は意図したわけではないけれども、一企業の経理担当を長年務めることになった。同じ経理係を勤めたわけで、その一致に、ご先祖さまとの縁を感じていた。だから、この映画を、ご先祖の暮らしを垣間見るような気持で、興味深く観た。

江戸時代の下級武士の生活は一杯一杯であったことは、多くの文献で知れている。しかしその実態を知ることはなかなか無かった。家計簿を付け続けた猪山家の文書によって、下級武士の暮らし向きが初めて明らかになったという。

映画では見せるドラマにどうしても比重が掛かり、年収1200万円(どういう計算か知らない)の家に、気が付けば2400万円の借金があったという理由について、十分には描かれていない。それがないと、一転、借金返済のために窮乏生活に入ったという場面のリアリティに欠ける。ただ借金返済のために家財を売り払う時の騒ぎばかりが前面に出て、その後の窮乏生活が十分に伝わって来ない。

武士として体面を保つために、家来や使用人をどのくらい抱える必要があったのか、江戸での単身赴任暮らしの二重生活が家計にどのように影響したのか、といったような点をもっと知りたかった。これはどうでも「武士の家計簿」の本を読んでみなければ済まないようだ。

ともあれ、猪山家の当主は、収入に対して支出がオーバーしている状況に対して、「出ずるを制す」だけにつとめ、過去の借金まで返済してしまった。一方、収入を増やすことを考えて、不正に加担した上司や同僚は没落してしまった。江戸の武士には副業や内職に精を出して、収入を増やす方に努力した武士も多い。

我が家の本家筋のご先祖は商人になったけれども、武士の商法でなかなか裕福にはなれずに、何代か過ぎるうちに財産を徐々に失っていった。商人になりきれなかったものであろう。猪山家が、そろばんをお家芸と考えて、一途に貫き通したのは懸命であったというべきであろう。

今日に至って、我々日本人の暮らし向きも、猪山家に見習うことがたくさん有りそうである。「入るを測って出ずるを制す」これは職場の先輩の口癖でもあった。
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産神祭礼故障出入の済口證文

(「産神祭礼故障出入の済口證文」)

森町から出た古文書を引き続き読んでいる。まず手に付くのは、やはり読みやすい文書である。「産神祭礼故障出来の件」である。明治にあと五年に迫った時代、お祭りで「故障」が出来(しゅったい)した。この「故障」は機械の故障という意味ではなくて、「物事の進行が損なわれるような事情。さしさわり」という意味である。相手が本町、こちらが何町なのか記されていない。これは控えとして書き写した文書で、当方の町名は解りきっているから記さなかったのだろう。この「故障」は祭りには付き物の喧嘩のようなものだったのだろう。読み下したものを示そう。

引請け一札の事
一 当九月産神祭禮の時節、その町内、本町と両町故障出来(しゅったい)、かれこれ混雑中、本町の者ども、中泉御役所へ越訴いたし、御出役これ有り、名差しの者六人御呼び出し、双方御利解の上、当御役所へ御引き渡しには相成り候えども、中泉郷宿にて当御役人御出張、示談事済みの由、済口書面六人の衆へ出させ候様、申し付け候ところ、その町内、残りの人数不承知にて、調印致さず、町内一同聞き定めこれ無きゆえ、向い天方城下両村役人立ち入り、その町内の衆中、来たらざる儀に付、種々申し諭し得心致され候訳は、本町我儘の書面に候えども、御地頭様の儀を重んじ、村役人難義を思われ、調印致させ候上は、当村名主並び七ヶ村名主中、きっと引受け、右済口書取り戻し申すべく、引合にて差し出させ候ところ、本町の者ども違変不法申し立て、返さず居り候、半(分)は右済口一札、本町方にこれ有り候とも、向後反古に致さすべく候義、相違これ無く候、しかる上は、右済口書面の儀に付、本町より如何様(いかよう)の義申し出候とも、当村名主中、七ヶ村名主中、何方(いづかた)までも罷り出、きっと申し開き仕り、少なくもその町内へ御世話相掛け申すまじく候、後日のため、七ヶ村名主中、当村名主中、引受書差し出し、連印よってくだんの如し
 文久三亥(1863)十月         七ヶ村
                          森


※ 越訴(おっそ)- 江戸時代、管轄の役所・役人を越えて上級の官司に提訴したこと。
※ 郷宿(ごうやど)- 江戸時代、村の世話役や農民が公用で城下町または陣屋などへ行った際の定宿。
※ 済口書面 - 済口證文。和解の内容を記し、双方が連印した文書。
※ 違変 - 約束などを破ること。


済口書面の文面にそれぞれの町役人が出向いて調印したものの、肝心の当事者が応ぜず、間に天方城下両村役人が入って、ようやく双方を説得したものの、今度は本町方が済口書面を戻さないため、済口書面が宙に浮いた形になった。説得した手前もあるから、今後、この済口書面については文句を言わせないと約束した文書でこれも済口證文の一つであろう。江戸時代の揉め事の解決方法が知れて面白い。
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炉役金差出、出入の訴状(後半)

(2本植えたデコポンの新芽
-水が切れて枯れたと思っていた1本も新芽を出した-)

(昨日の文書の続き)
一 右鋳物師、居所駿州大善村は星与左衛門様御支配所、鋳物師助右衛門、同国江尻町は御代官山田治右衛門様御支配所、鋳物師六郎左衛門、善兵衛、遠州浜松は松平伊豆守様御城下、鋳物師太兵衛、同国見付町は小笠原壱岐守御預り地、鋳物師清兵衛、同国森町は土屋平八郎様御知行所、鋳物師五郎左衛門、右五ヶ所鋳物師ども罷り有り候に付、右の所々へ銘々に御状遣され候、山田治右衛門様、松平伊豆守様、土屋平八郎様、御三ヶ所よりは刑部少輔様よりの御書附を以って鋳物師どもに仰せ渡され候ところに畏み奉り候由、御請け仕り候御返答御座候御事

一 遠州見付町清兵衛儀、小笠原壱岐守様當分御預り地に御座候へば御勘定所より御下知これ無く候ては、御自分にて御指図成られ難く候由、御返答参り候事

一 駿州大谷村に罷り在り候助右衛門は、星与左衛門様御支配に候ゆえ、与左衛門様へ助右衛門召し出され、刑部少輔様書面を以って段々仰せ聞かれ候由に御座候えども、得心仕らず、御公儀様より仰せ付けこれ無く候ては、炉役金指し出し候事、罷り成らず候由、申し上げ候に付、与左衛門様より刑部様へ右の通り仰せ遣わされ候、拙者方へも右の通りの挨拶御座候、左様に候えば、代々頂戴仕り候御綸旨、東照宮様より駿遠両国鋳物師惣大工職の御朱印の表、禿げ申すに付、勿躰なく存じ奉り候、当七月上京仕り、刑部少輔様へ右の趣申し上げ候えば、御綸旨、御朱印共に申添え候段、助右衛門不届き至極、その分に指し置き難く思し召し候間、早々御江戸へ罷り下り御役人様方へ御訴え申し候様に、この節御添状にても下し置かれるべく候えども、刑部少輔様、御死去に付、御家督宮内少輔様御忌中に候えば、御状御添候儀、御遠慮思し召し候間、早々罷り下り御訴え申す様にと、仰せ付けられ候えども、困窮仕り候拙者儀、
度々上京仕り、又はこの以後江戸表に永々罷り有り候ては、不如意の拙者なお以って難儀仕り候と、相願い候えども、とく罷り下り御役人様方御下知の程、委細京都へ申し上げ候様に、その段御聞き届け、宮内少輔様より仰せ達する由に御座候ゆえ、この如く御訴え申し上げ候、助右衛門申し分に候ては、御綸旨、御朱印の御威光禿げ候様に、恐れながら存じ奉り候に付、委細申し上げ候御事、

右の段、聞こし召し分けさせらるべく、御綸旨、御朱印の御威光相立て候様に、幾重にも御意仰ぎ奉り候、以上

               駿遠両国鋳物師惣大工
                 遠州森町住
 享保十八年丑九月          山田七郎左衛門
   御奉行所様


当時、駿遠両国に梵鐘などをつくる鋳物師が五ヶ所六人いた。それぞれお役所へ、炉役金差し出す旨、書状を出したところ、三ヶ所からは応諾の返事があり、一ヶ所は権限がないから指図できないと保留の返答があり、残り1ヶ所の大谷村助右衛門だけが、御公儀より指示が無い限り、得心出来ないと返事があり、江戸へ出て訴訟になることになった。

この後、訴状を出したところ、江戸の寺社奉行より差し紙(出頭命令)が来たところで、この文書は終っている。訴訟の結果がどうなったかは、この古文書ではわからない。
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炉役金差出、出入の訴状(前半)

(庭のニオイバンマツリ)

月曜日に取り上げた「享保年中出入一件」では、炉役金(炉年貢)の要求を受けた大谷村の助右衛門の申し立てを取り上げたが、それを受けて、炉役金を要求している森町の山田七郎左衛門の言い分を、奉行所へ訴え出た訴状によって見てみる。

 恐れながら口上書を以って申し上げ候
一 遠州周智郡土屋平八郎様、御知行所、森町の住、駿遠両国鋳物師惣大工、山田七郎左衛門申し上げ候

一 拙者儀、先祖代々鋳物師に御座候に付、暦応五年(1342)より、禁中様、御綸旨下し置かれ頂戴仕り罷り有り候、右の御筋目を以って、天正十五年より、東照宮様、駿遠両国の鋳物師惣大工職の御朱印下し置かさせられ、両国の鋳物師、爾今(今後)において、支配仕り候御事
※ 綸旨(りんじ)- 天子などの命令。また、その内容。

一 三代以前、七郎左衛門若輩にて、父七郎左衛門相果て申すに付、鋳物師の訳、つぶさに申し聞かず、ことに不如意に御座候ゆえ、手前に炉立ての事、相叶わず、少しの商い仕り、百姓相兼ね取り続き罷り有り候、もっとも御朱印の御威光を以って両国の鋳物師、鐘鋳立て候節、鋳口金あるいは銘文の祝儀、少々ずつ受納仕り候えども、これは他目の儀にて、差して助成にも罷り成らず、追って困窮仕り、漸く渡世送り罷り有り候所、去る子の三月、真継刑部少輔様より御書付成し下され、御綸旨頂戴仕り候、鋳物師、殊更、東照宮様より御朱印頂戴致し罷り有り候、七郎左衛門久しく上京仕らず候、如何様の儀に候や、早々罷り上り、委細の訳、申し披(ひら)き候様にと仰せ下され候に付、去る七月中、上京仕り、拙者第一不如意に御座候て、手前に炉立て候事、仕らざる所存、家職不勝手より、不便(ふびん)に思し召され、向後(以後)、諸国鋳物師大工のごとく、両国鋳物師小工どもより炉役金差し出し候様に成され、下し置かれるべき旨にて、鋳物師ども居住仕り候所の御代官様、御地頭様方へ銘々御状遣され下され候御事(以上訴状の前半)


鋳物師の山田七郎左衛門は元は島田市金谷(旧金谷町)に居住し、妹のお茶阿の局は、家康の側室となったことで知られるが、各地寺院の梵鐘製造などで名を馳せた家柄であった。その子孫は森町に移り住んで、この出入の当時には、駿遠両国の鋳物師惣大工職も名ばかりになって、零落困窮していたことがわかる。炉役金を要求するに至った状況はここまででほぼ理解できた。(以下後半に続く)
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放射能のお茶への影響

(大きな株になった庭の松樹上のセッコク)

福島第一原発事故の放射能の影響で、茨城や神奈川などで生葉に安全基準値を上回る放射性セシウムが検出され、出荷停止の処置が行なわれた。全国の4割のお茶を生産する静岡県への影響が心配されたが、静岡県では一番茶に対して安全基準値を大幅に下回る数値であるとして、安全宣言がなされた。

お茶はホウレン草などと違って、すべてを食べてしまうわけではなくて、抽出したお茶を飲むわけで、茶葉から抽出される成分の割合では約二十分の一の成分がお茶に出てくるに過ぎないため、それだけでもホウレン草よりはるかに安全である。それでも気になる人は、しばらくは食べるお茶は避けて、急須で入れて飲むお茶を勧める。

同じ放射能が降っても、作物によって吸収の仕方が異なるので、基準値を超える作物とそうでない作物の差が出てくる。お茶の場合は土壌からカリウムを吸収して育つが、セシウムがこのカリウムによく似ているため、放射性セシウムが降ってくると、肥料と間違えて吸収して、新芽へ出てくるといわれる。それならば、あらかじめ肥料としてカリウムをたくさん与えれば、セシウムを吸収することも無くなると思うのだが、茶農家へそのような指示が出たとは聞いていない。

そんな理由でお茶の数値が特に高まったと思われる。但し、一番茶で多くが吸収されてしまったとすれば、継続して数値を調べていけば、二番茶、三番茶は大幅に下がるのではないかと想像される。

恐いのは風評被害である。幸いにも、現在お茶に大きな風評被害は起きていないが、新茶ではなくて古茶をわざわざ買っていく客もあるらしい。ヨウ素は甲状腺に蓄積され、ストロンチウムは骨に溜まって、長い間体内から放射線を浴びることになる。しかし、セシウムは体内に入ると体液の中に流れて100日でその半分が体外へ出てしまうといわれる。そういう意味では蓄積するものと比べれば危険性ははるかに少ない。チェルノブイリで多くの犠牲者を出したのは放射性ヨウ素である。今までに、放射性セシウムが原因でガンなどの病気になったという報告はされていないという。

多くの人々は、20年先に、ガンになる可能性がコンマ以下のパーセント上がるかもしれないというような、不確実な可能性論議をして風評被害を起してしまう。しかし、本当に健康のことを考えるならば、お茶を飲むことによって得られる、1ヶ月先の各種生活習慣病への数パーセントの向上効果を、どうしてもっと問題にしないのだろうか。
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ムサシが頑固に守る掟

(石のベンチで昼寝のムサシ)

一昨夜、ブログの更新をしていると、ムサシが裏で吠えている。猫が近づいたり、不審者が近づいたときの烈しい吠え方ではなくて、何かをうったえる吠え方である。自分にもそれくらいは理解できるようになった。ムサシ弁がほぼ理解できる女房は、そばで宵寝をしていたので肩を揺すって起した。

様子を見に行った女房は、ムサシを連れて、新聞紙と懐中電灯を持って、玄関から雨模様の表へ出て行った。しばらくして戻ってきて、お腹を壊しているらしく、三度ほどウンチをした。もっとも三度目は液体だけだったが、と話す。何か悪いものでも食べたのだろうか。餌が多すぎたことは無いはずなのだが。たしかに、最近、おやつなどが増えている。血液検査で、少し栄養不足と感じられて、間食を心持ち増やしているようだ。ムサシの餌は最初からしっかり管理されて、過大にやることがないようにしている。だから、ムサシは中年太りやメタボとは無縁で来た。

ムサシのために、仕舞い込んだ石油ストーブを出してきて、台所にシートを敷いた。ムサシを専用のタオルケットの上に寝かせた。石油ストーブは雨で濡れたので乾かすのに使ったらしく、自分が休むときにには、ストーブは消され、ムサシはタオルケットの上で丸くなって寝ていた。その夜はそれ以上騒ぐことは無く、朝までそのままであった。

下痢の原因はとにかく、ムサシは成犬になってから、家の屋敷内に決しておしっこやウンチをしない。これはムサシの中で重要な掟になっているらしく、だからムサシのいる昼間の柵の中や、夜間の裏の小屋などは、ほとんど犬臭いことがない。通常は、雨が降っても、嵐でも、朝と夕の2回、必ず出かける散歩の途中に済ませる。ウンチは拡げた新聞紙の上に落すので、くるっと包んでビニール袋に入れて、ゴミと一緒に出す。ちなみに、島田市は、焼却炉の性能が高く、高熱で燃すことが出来るので、ビニールも生ゴミも皆んな一緒に「燃えるゴミ」として出せる。

めったには無いが、体調が悪くて、おしっこやウンチ、あるいは戻したくなったときなどには、吠えて訴える。自分にはムサシ弁は理解出来ないが、女房には解るようで、自分は大概吠えていることを伝える役回りになることが多い。

誰に教えられたわけでもない。ムサシの中でこの掟が出来たのは、毎日2回の散歩を欠かさないような育て方をしてきたためかもしれない。ムサシがこの掟を守れなくなるときは、人間様のほうが毎日2回の散歩が出来なくなるか、あるいはムサシに介護が必要になるときであろうと、今は思っている。
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森町から出た古文書のこと

(森町から出た古文書とそのコピー)

義弟の嫁さんのTさんから、森町で医者をしていて、しばらく前に亡くなられた父親が集めて、地元の教育委員会へ預けていた古文書が戻ってきたので、引き継ぐべき横浜の兄へ渡すのだが、興味があれば先に見てくれて良いと、一束の古文書を預かった。ざあーと見たところ、色々な文書が混ざっていて、郷土史などを研究するのにどれだけの価値があるのか分からないが、一通り読んでみようと、一部はコピーなども取った。

このお葬式で横浜のお兄さんに会い、少しお話をした。古文書について、今私の手元に預かっていて、読ませてもらおうと思っているとお話したところ、自分は父親とは違ってその方面には全く興味がないから、進呈するとまで言われた。頂くわけにもいかないし、内容には興味があるが、古文書が欲しいわけではないので、とにかく預かる許可は得たものと考えた。

あなたはうちの父と興味の出ずるところが全く同じだと話す。うちの父も医者の傍ら、郷土史などの発掘などに興味があって、地元に文化協会などを作って活動していたという。そういえば、大洞院の石松の墓が何度作っても、博打の御守りとして、かいて欠片を持っていってしまうという話を、生前に聞いた記憶がある。その度に呼びかけて新しいお墓を作ったという。

その古文書で最初に読んだものを、以下へ読み下し文にて示す。

      口上覚え
一 今度江戸御表へ御願い仰せ立てられ候に付、拙者ども所存の所、口上書に致しまいらすべき由、この度、仰せ聞かれ承知いたし候

去る子年、京都真継刑部少輔様より、拙者ども御支配、星与左衛門様へ仰せ遣わされ候は、遠州森町に罷り在り候山田七郎左衛門先祖に訳これ有る者にて、御朱印など頂戴仕り罷り在り候義に候間、向後、大谷村鋳物(師)助右衛門方より七郎左衛門方へ、相応の炉年貢差し出し候様に成されたく候間、その段、拙者へ仰せ渡され候様に成されたき旨、刑部少輔様より与左衛門様へ仰せ遣わされ候、これにより与左衛門様仰せ遣され候

これにより与左衛門様御屋敷へ拙者召し呼ばれ、古来より山田七郎左衛門方へ炉年貢など差し出し候儀、これあり候や、または年始、歳暮などの付け届けにても致し候儀、これ有り候やと、御吟味成られ候に付、七十年以前、拙者先祖は御地へ罷り越し、久能御山御用仰せ付けられ、罷り在り候御筋目を以って、年貢などの儀は勿論の義、年始、歳暮などの付け届けにても、かつて仕らず候由、申上候ところ、さ候えば御支配様の御了簡を以って年貢御召出候様にとは、仰せ渡され難く思し召し候

江戸御表御奉行様より御下知も御座候て、何分にも仰せ付けらるべき由、真継刑部少輔様へ御挨拶仰せ遣られ候旨、拙者へ仰せ聞かされ候、委細の義は刑部少輔様へ与左衛門様より仰せ遣され候通り御座候ゆえ、与左衛門様御吟味の節、申し上げ候通り、古来より年貢など差し出し候儀は、かつて御座無く候えども御吟味の上、江戸より御奉行様仰せ付けられ、御支配様仰せ渡され候は、何分にも畏こみ奉り候ゆえの外、拙者存じ寄りかつて御座無くば、左様御心得成さるべく候、以上
  丑十一月             大谷村 田中助右衛門
     山田七郎左衛門殿


表紙に「享保年中出入一件 相手 駿州大谷 助右衛門」と書かれて、三件の文書が書き写されている。上記はその最初の文書である。この文書だけでは事情が判りにくい。

森町在住の山田七郎左衛門が駿州遠州両国の鋳物師(いもじ)の惣大工(統括者のようなものか)として御朱印を貰っていながら、困窮状況にあることを訴えたところ、京都真継刑部少輔 → 御支配星与左衛門を経て、駿州大谷村(靜岡市駿河区大谷)田中助右衛門に対して、炉年貢を山田七郎左衛門へ差し出すように言われた。

過去にそのようなことがあったかどうか聞かれ、この70年この方、そのようなことはないとお答えした。その答えが回りまわって山田七郎左衛門へ行くけれども、前もって直接、山田七郎左衛門へ書状で知らせたものである。この書状では炉年貢を払うようになったのかどうかはまだ解らない。
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住職は脱サラの若い衆

(葬儀場の若い住職)

精進落しで色々とお話した住職は、脱サラの若い坊さんであった。お寺に若い住職が来てから、お寺周りが随分きれいになったと感じていた。意欲的な住職だと思っていたが、話してみるとざっくばらんで、付き合いやすい人だと思った。お酒は嫌いだから飲まないといい、ノンアルコールのビールを注ぐと、少し口にして苦いと言った。この住職とは気が合いそうだと思った。自分と同じ空気が流れている。年を聞けば37歳だという。自分の息子と同年齢であった。

色々と聞いて、ミニ身元調査になった。名古屋の中村区に住んでいて、28歳までは日通の宅配の運転手をしていたという。親類がお寺で、その関係で脱サラして坊主になった。横浜の総持寺で三年間修行をし、縁があってこのお寺に婿養子に入って住職になったという。嫁さんは息子と同級生だと女房から聞いていた。

お寺の息子で、仏教関係の学校を出て修行をし、成るべくしてなった坊さんとは違い、世間の波に一度はさらされている。住職は、我々と同じ感覚を持っているから、付き合いやすいと感じるのであろう。自分はまだ檀家でもないけれども、応援したくなる。このお寺に墓地を買うことになりそうだと、ちらりと思った。

手元に持っていた「四国お遍路まんだら」を進呈した。「自分はまだ行っていない。タクシーで回れば3日ほどで回れるそうですね。一日で回るならヘリコプターですか。」けっこうお気楽にいい加減な話しをする。タクシーでも最速一週間は掛かる。「知多半島にも八十八ヶ所だか、もう少し少なかったか、札所がある。」そちらには一部行ったことがあるらしい。ちなみに知多半島にあるのは、知多四国八十八ケ所霊場である。

席を外して戻ってくると、住職は女房の実家の本家の若い衆と話している。漏れ聞こえて来るに、伊勢神宮の遷宮の話をしている。「全く同じものが二つあって、何年かで建て替えている」と、知識があるのは解るが、生半可である。ついつい脇から、遷宮は20年で、すべての建物を新しく建て替える。1000年以上続いていて、20年に1回建築する事で、内匠の技が脈々と伝えられている。古い建物は解体されて、地方の神社の改築などの使われて、決して無駄になっているわけではない、などと、聞かれもしない知識を披露してしまった。嫌味なオヤジである。

現在、住職は4つのお寺の住職を兼ねているけれども、三つは子寺で元々うちの寺の檀家でもあるので、檀家が増えたわけでもないという。お寺の土地や建物はすべて檀家の皆さんと物だから、住職が個人のお金を出してお寺を改築などすることは出来ない。必要な時は皆さんに寄附をお願いしなければならないのだが、その辺りがなかなか理解してもらえない。檀家でもない自分が聞いても仕方のないことである。最近、そんな話が出ているのだろうか。
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