goo

「世界中が日本に憧れているその理由」を読む

(マックス桐島著「世界中が日本に憧れているその理由」)

マックス桐島著「世界中が日本に憧れているその理由」という新書版の本を読んだ。著者は、1970年、高校生で映画製作を夢見てアメリカに渡り、以後40年、アメリカで勉強し、ハリウッドで映画俳優などを経たあと、念願の映画プロデューサーとなり、40年経って近年日本へ戻り、宮崎の田舎に定住した経歴の持ち主で、今浦島の目で日本を見て、海外の人々が日本を憧れる理由が解って来たという。

日本にいると、バブルがはじけて以来、ろくなことがなく、日本は日々その力を失って行くように見える。東日本大震災と、その後に起きた原発事故によって、そのとどめを刺されたと思った人は多いだろう。放射能にまみれた列島から外国人が逃げてゆく。そんな風景を諦念をもって眺めていた。

たまたま出版がその直後となり、何を今さらと感じながら、本書を手に取った。読み進めると、アメリカ人は、日本のどんなところに憧れるのか。著者の交友関係の中で、色々と明らかにされて興味深かった。

アメリカでは、日本人は女性男性問わず、実年齢よりも若く見られる。小柄で童顔な上に、日本食で極端に肥った人は少なく、アメリカの男性が男性ホルモン過剰で若くして禿頭が多いのに比べると、日本人は髪が多い。アメリカの食事といえば何でも量が桁違いに多く、ジャンクフードを食べ続け、みるみる肥満になる。健康保険の制度が備わっていないため、いまや糖尿病は貧困層が罹る病気になっている。そんな環境のアメリカ人が日本食に憧れ、スリムな日本人に憧れるのは分る気がする。

日本人は外国から取り入れた食文化を真似するだけに留まらず、レベルを上げた新しい食文化に進化させている。だいたいは食文化を取り入れても似たような食べ物、あるいはまがい物になってしまうのだが、日本人は味や食感、見た目までも追求して止まないため、中には本家をしのぐものもある。これは車や電化製品などの工業製品と同じ道を通っている。

サービス業においても、アメリカから伝わったスーパーマーケットやコンビニ、ハンバーガーショップなど、マニュアル化し過ぎという批判はあるが、アメリカの同種の店の対応などを見てきたものには、まるで違う店に見える。例えばレジが込み合うと、たちまちレジ場が増やされて客を待たせない配慮など、アメリカで長い行列を作らせながら、レジ係が客と無駄話をしていて平気であることを見てくると、カルチャーショックであろう。日本では試着が終った衣料品はたちどころに畳み直されて柵に並ぶが、アメリカではいつまでもぐしゃぐしゃのままであるなど。

その他、アメリカ在住40年の著者ならではの、様々なクール・ジャパンが紹介されている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

半年で100冊の読書

(今日の熱そうな夕空)

昨日よりもさらに今日は暑くなった。午後帰ってきて、一寝入りの後、クーラーの掃除をした。掃除と言ってもフィルターを水洗いしただけであるが、これで台所、居間、応接間のクーラーがいつでも使える。明日は義父の49日の法要のために、名古屋のかなくんがママと帰ってくる。名古屋よりこちらの方が涼しいときっと思うだろう。クーラーの掃除もそのためである。テストに回してみたけれども、すぐに切った。金谷は風が通るだけしのぎやすく、まだ我慢できる。全国的には熱中症で何人か亡くなった人がいるらしい。そういえば自分の子供の頃は日射病と呼ばれ、熱中症という言葉はなかった。

明日で今年も半年が過ぎる。昨年の前半は、主に「四国お遍路まんだら」の原稿のまとめやら、出版やらに時間が取られて、本を読む時間がほとんどなかった。今年は年の初めから読書にかなりの時間がかけられた。東日本大震災後は行動を自粛をしたつもりはなかったが、図書館からせっせと本を借りてきて読み耽った。

途中から、今年は前半に100冊、後半に100冊で、200冊は読めそうだと思うようになった。6月をあと一日残して100冊に達した。興味のおもむくままに読んできただけで、脈絡はなく、いったいどんな本を読んできたのか、自分でも気になるので少し整理してみる。

     推理小説  44冊
     時代小説  23冊
     小説    12冊
     紀行    10冊
     エッセイ   5冊
     対談     3冊
     その他    3冊

集計してみると、専門書など重い内容のものは全く無い。今さら読みたいとは思えないからである。作家別に分析してみると、

     風野真知雄 12冊
     笹本稜平   9冊
     堂場瞬一   9冊
     首藤瓜於   6冊
     佐伯泰英   5冊
     高橋克彦   4冊
     今野敏    4冊

その他、複数冊読んだ作家に、東直己、小杉健治、三谷幸喜、西村京太郎、青山潤、五十嵐貴久、香納諒一、夏川草介、三上亜希子、南木佳士、佐藤雅美が上げられる。
     
ある作家の本を読んで面白いと感じると、その著者の本を続けて読む傾向がある。この半年間では推理小説の中でも、警察小説というジャンルに入る小説を探して読んできた。

図書館から借り出す方法は、図書館の書棚から持ち出して借りてくる方法しか考えなかった。町村合併の結果、金谷図書館以外に、島田図書館、川根図書館の本が借りられるようになってからは、ネットで予約する方法を活用するようになった。三つの図書館の蔵書から、金谷図書館に集り、電話連絡が来るので、金谷図書館に出向いて借りる。貸し出し中の本は予約として順番待ちとなる。人気の図書では半年待ち、一年待ちになるものもある。

もう一つ、週一回、新着の本がネットで紹介されるから、その一覧表から興味のある本を予約する。最近、これを利用し始めた。これによって、出版から10日も経たない新しい本を手にすることも出来る。購入についてリクエストも出来るらしいが、それはまだ利用したことがない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

梅雨明けと、節電と、クーラーと

(空はもう夏到来といった天気である)

九州南部は今日梅雨が明けたとお昼のニュースで報じていた。例年よりも16日早い梅雨明けである。梅雨に入るのも早かったから、梅雨の期間としてはどうであったのか。ともあれ、早いだけ今年の夏は長いわけで、大変である。心配なのは、当地、東海地方も一緒に梅雨明けするのではないかと思わせる、今日の天気である。午前中、会社に出勤したが、午前中ですでに30℃を越したのではないかと思った。靜岡市と川根本町では最高気温35℃を記録したという。天気予報ではしばらくこの天気が続く模様である。後日、実は今日梅雨明けをしていた、などと気象庁は発表するのではないだろうか。

会社では節電が言われて、階下の大きなフロアーの事務所は大型の冷房機で小回りが利かず、規制が敷かれているわけではないらしいが、冷房を入れにくい雰囲気があり、暑い中、冷房なしに仕事をしているようだ。自分のいる2階は小さな部屋で、コンピューターのサーバーが何台も置かれ、温度が上がるとコンピューターの暴走を呼ぶと、早くから冷房が入れられ、同室の人間もコンピューターのお相伴にあずかって、涼しい顔をしておれる。節電は窓際で照明を切っているが、十分明るく何の支障もない。

下の事務員のNさんが、暑い、暑い、下の事務所では仕事にならない、とやってきた。皆んな表へ出かけたり、打ち合わせだと冷房がつけられる小部屋に逃げ込んだり出来るけれど、自分たちは逃げる所がない、と愚痴る。はっきりお達しがあったわけではなさそうだが、32度を越さないと冷房を掛けては駄目だとか、日本人はけっこう真面目である。Nさんはいつもより随分長話をして帰った。半分は涼みに来たのだろう。昨日は中電では電力の供給能力に対して89%の最大使用率であったという。今日も9割近い数字なのだろう。かなり綱渡りの夏になりそうだ。そのスリルで涼しくなるならよいのだが。

この8月で定年退職になるY氏に、日中に図書館に行くと、多くのリタイア組が図書館に涼みに来ている、安上がりな賢い避暑である、新聞や雑誌もたくさんあるし、快適に涼しい、と話しを向けた。しかし、Y氏はまだ年金生活というわけにはいかないから、縁の無い話なのだろう、乗っては来なかった。

自宅に戻ると、冷房は入れないが風が通って、そんなに不快指数は高くない。扇風機をつけて、本を読みながら少し昼寝をした。ところで今の家庭用クーラーはこの扇風機と消費電力が同等なほど省エネが進んでいるという。日本の家電の開発力も場を与えれば、まだまだすごいことをやりそうだ。場を与えるのは政治力だが、こちらのレベルはどうなんだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

小川国夫文学碑と長楽寺

(藤枝市文学館の小川国夫文学碑)

(昨日の続き)
藤枝市文学館の脇に小川国夫の文学碑が出来た。この4月10日に除幕式があったばかりの文学碑である。碑面には「彼の故郷」という小説から取った一節が刻まれていた。

    彼はこの路地の明るさが好きだった。
    他所とは微妙な差がある感じだった。
    行く手の高い竹薮の深くまで、
    澄んだ水の中のように、
    緑の光がゆらいでいた。


小川国夫が藤枝の長楽寺で生まれ、藤枝の長楽寺に戻って長年作家活動をしたと、ビデオで話していた。映像にも映っていた長楽寺に行ってみたいと思い、帰りの車を走らせた。長楽寺は岡出山公園の麓にあるらしい。少し迷ったけれども、かなりあてずっぽうに、車一台で一杯の路地に分け入った。向こうから日傘を差してくる女性を、車を止めて待たねばならないほどの細い道だった。

あたりの狭い路地に、家が建て込んでいる感じが無かった。家の周りに庭などのスペースがあるからであろう。住宅地で高い建物は無く緑が多い。夏の焼けるような日差しを受けて静まり返っていた。文学碑にあった路地はこの辺りのことを書いたものだろうと思った。


(長楽寺山門)

その先の山門前に寺名を刻んだ石柱が立っていた。随分と奥まった駐車場へ車を止めて境内を歩いた。暑い昼下がりの本堂からは読経が聞こえていた。先ほど見たビデオでは、作家は長楽寺の住職と境内から山門に向かって参道を話しながら歩いていた。両側には白梅の花が咲いていた。今見ると参道両側の梅の木は緑に覆われていた。

境内と墓地が渾然一体となっていて、中に作家のお墓もあるのだろうかと少し目で追ったが、そんな案内板もなく、ふと彼が若い時に洗礼を受けたという事を思い出した。お寺にお墓があるわけはないかと思い直した。

後に、ネットで調べたところ、作家が生まれたという長楽寺は門前に広がった町名であったようだ。現在本町一丁目という住所になっている。何とも味気ない背番号のような町名である。地図に「長楽寺商店街」「長楽寺会館」などの表示がまだ残っている。生家は街道沿いで鋼材、製紙用資材、肥料などを商っていたという。

小川国夫は3年前の平成20年4月8日(お釈迦様の誕生日)に靜岡の病院で亡くなった。没年80歳。意外にも、島田市旗指の敬信寺が菩提寺で、お墓があるという。近くである。これは一度見に行って来なければならない。もっとも、その前に、作家の作品を読んでからにしよう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ドールハウスと小川国夫-藤枝市郷土博物館・文学館

(ドールハウスと小川国夫展看板)

午後、女房の友達が来ると言うので、積る話もあるだろうと、邪魔にならないように家を空けることにした。先日、女房が、小学校の恩師を混じえて、蓮華寺池公園のそばの藤枝市郷土博物館及び文学館に行って、恩師も懐かしがって喜んでくれたと話した。現在、郷土博物館では企画展「ドールハウスでみる懐かしの風景」と、文学館ではこれも企画展で「小川国夫の書斎-作家のしごと」を催していることは知っていた。26日までの期間中に、見て置きたいと思っていた。強烈な暑さの中であったが、一人で車で出かけた。

「ドールハウス‥‥」は一昔前、自分たちが子供だった頃の建物や町や村をミニチュアに作り上げたジオラマであった。細部にまでこだわって作りこんだ昭和の町には見飽きないものがあった。商店には商品が店いっぱいに並んでいる。パチンコ屋の天井には蛍光灯が灯っている。こういう専門の小道具があるのだろうか。銭湯のテレビの小さな画面は時々変わり、みつわ石鹸のコマーシャルなど、昔のテレビの音声が小さく流れている。

我々の世代は、昭和の建物や内装、調度品などを見て懐かしいと感じるが、平成の子供たちは50年後に、彼らが育った現代の町並みを懐かしいと思えるのであろうか。そう思わせるほどに、未来の町並みは変わってしまうのであろうか。考えてもせん無きことながら、ついつい考えてしまう。

「小川国夫‥‥」実は小川国夫の本は一冊も読んでいない。故郷が生んだ作家だとは昔から知っており、図書館から何度か借りた記憶はあるが、結局一冊も読まなかった。なぜかと聞かれれば、縁が無かったとぐらいしか言えない。

展示の原稿を見ると、何度も何度も推敲し、書き直し、苦労して書いた作家で、決して天賦の才があるわけではなく、日々の努力を続けてなった作家だと思った。書斎が再現された区画の中でビデオを見た。小川国夫の文学散歩というような名前の、20分ほどのビデオであった。最晩年の小川国夫が、藤枝市内を散歩する姿が映っていた。蓮華寺池公園、長楽寺などを散歩しながら、自分の人生、文学などについて話していた。

作家は自分の目や耳で見聞きした時代しか書けないし、またその時代を書くことが作家の責任でもある。自分の場合は祖母から聞いてきた江戸時代の終わり頃から、自分が死ぬまでの百数十年がその時代に当たる。自分は藤枝の長楽寺で生まれて、今また長楽寺に戻って来て作家生活を送っている。こんな作家は珍しいのではないだろうか。そんな言葉が印象に残った。(続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

摂氏39.8度、熊谷市での記録

(花が少なくなった大代川土手のヒメジオン、
帰化植物で種が鉄道に沿って広がったので「鉄道草」とも呼ばれた)

梅雨前線が東北辺りまで上がり、夏の天気となって、南風が吹いて、埼玉県熊谷市では最高気温が6月としては観測史上最高の39.8℃を記録した。今までの6月の最高は1991年に静岡市で記録された38・3℃だったというから、桁違いの気温である。

テレビでは街中で43℃を示す寒暖計を見せながら取材をしていた。この温度はお風呂では適温だけれども、長時間入っていると逆上せてしまう湯温である。このまま夏本番を迎えるわけではなく、明日は梅雨前線が下がってきて、10℃も気温が下がると天気予報は報じている。東京電力では電力使用のピーク時の午後2時に、供給能力の91%まで電力使用が伸びたという。

我が家は風が通って冷房のお世話にならずに過ごせている。昼間、寝転がって読書をするが、睡魔がすぐにやってきた。睡魔の理由は夜更かしである。

今日未明、サッカー男子のロンドン五輪アジア2次予選を観ていて寝るのが遅くなった。日本代表U-22がアウェーでクウェートと戦った。現地の気温が昼間は41℃とか、夜になっても39℃というコンディションでの戦いとなった。この日中に熊谷で記録した最高気温に近い。

まあ、クウェートでもこんな猛暑の中でサッカーの試合をやることは暴挙に近いと思う。クウェートのお金持ちは早々とヨーロッパへ避暑に行っていて、サッカー場での観戦者も少ない。日本代表はこの暑さの中、前半こそ何とかサッカーが出来たが、日本の1対0で迎えた後半には、明らかに足が止まってスピードがワンテンポずつクウェートに遅れるようになり、たちまち2点を入れられ、1対2、ホームで3対1で勝っているが、貯金はあと1点になってしまった。それから終了までが大変苦しい試合になったけれども、終盤にはクウェートもバテバテになって、プレーが緩慢に、正確性を欠くようになり、何とか逃げ切ることが出来た。

解説者の言葉を待つまでもなく、明らかに暑さ対策の失敗だった。海外経験の少ない若いプレーヤーには、この暑さに対して汗腺が全開になるまでの暑さ順応が十分ではなかったのだろう。試合中、プレーが止まったら必ず水を補給し、身体に水を掛けて冷やすことが必要であるが、見ているとまだまだ遠慮がちで身体に水を掛ける姿は見なかった。格下のクウェートにこんなに苦労しているようでは、最終予選が心配である。おそらく最終予選も半分は暑い中東での試合になるはずで、4チームのグループで1位にならないとオリッピックには出場出来ないのだから厳しい。もっとも日本の夏も中東並みになってきたから、これからは暑さ順応もやり易いかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

あってはならない犯罪の系譜

(散歩道のルドベキア)

藤村新一、姉歯秀次、前田恒彦と並べると、一つの犯罪の系譜なる。

藤村新一氏といえば、2000年毎日新聞のスクープによって発覚した考古学界最大のスキャンダルの、旧石器捏造事件の主犯である。民間の研究者であった藤村氏は研究者が期待するような石器を、期待される古い年代の地層から次々に掘り出して見せ、「神の手」と呼ばれた男であったが、それらの多くが他の地層から掘り出された石器を「神の手」で埋めたものであった。

姉歯秀次氏は建築士として2005年に発覚した構造計算書偽造事件で逮捕された。設計上で耐震強度を偽装した構造計算書を作り続け、多くの地震対策が不十分な安上がりなマンション、ホテルなどの建築に手を貸した。建築会社からのコストダウンの強い要請に屈したものと話していた。

前田恒彦氏は大阪地検特捜部のエースといわれた検事で、特捜部が扱った多くの事件にたずさわってきたが、2010年障害者郵便制度悪用事件において、元障害保健福祉部企画課長の村木厚子氏の関与を裏付ける証拠を改竄したことが発覚し、証拠を捏造したとして逮捕された。

三人並べると、そこそこ能力があって、周囲の大きな期待に何とか背伸びして応えるうちに、決して越えてはならない一線を越えてしまった。いずれもその立場の人間が決してやってはいけないことをやってしまい、その学会、業界、法曹界の営々と築いてきた信用を、一夜にして失墜してしまった。その後に起きたことを考えると、信用を取り戻すためには大変な時間と労力を要することが分る。本人たちが自分のやった犯罪の重大性に世間から糾弾されるまで気付いていなかったようにみえるのも共通している。

今日のニュースでは、東京のクリニックの医師が自らの腎臓移植のため、元暴力団員から腎臓の提供を受けるために、暴力団員に現金1000万円を渡したとして逮捕された。生体からの移植は親族しか許されていないために、元暴力団員と養子縁組までしようとした。この一件は結局不調に終ってしまうが、この医師はその後別ルートで移植手術を受けている。この事件もやってはならないことを、やってはならない人がやったことでは共通している。何万人といわれる移植手術を待つ患者さんたちに与える影響は計り知れない。

しかし、魔物が棲むといわれる長田町で日々起きていることは、もっとすごい。うそつきとかペテン師といわれながら椅子にしがみつき、早く辞めさせたければ法案を早く通せと居直る政治家がトップに座っている。震災対策がどんどん先延ばしにされて、そのことを糾弾すれば、震災対策の目処が付くまでは辞めないと、「震災対策」を人質に取って相手を黙らせる。犯罪にはならないけれども、影響は前述してきたどんな犯罪よりも大きい。

こんな訳の分らない犯罪まがいの事象が多発するようになった日本は、いったいどうなってしまったのだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「検証東日本大震災の流言・デマ」を読む

(久し振りの梅雨の晴間、
     散歩道にヒマワリのが花咲いていた)

図書館で、荻上チキ著「検証東日本大震災の流言・デマ」という新書版の本を、新着図書の柵から拾うように借りてきて読んだ。地震から2ヶ月少しで出版された本である。

東日本大震災は、ネット社会になってツイッターなどの道具を得て、世界が初めて遭遇した巨大災害である。流言・デマは大きな災害が起きると必ず起きる。場合によっては流言・デマが引き金になってパニックが起き、2次的な災害を引き起こす。過去の大地震などでも経験して来たことである。

今までと同じように人々の口から耳へ広がって行くものもあったと思うが、この本ではツイッターなどをウォッチングする中で、流言・デマがどのように拡がって行き、何がそれを終息させたのかを調べた。口から耳へ拡がって行くものだと、人々の中に入って調査をするために時間が掛かる作業になるが、ネットゆえに、短時間で情報が得られ、こんなに早く本にも出来たのだと思う。

流言・デマがどういうメカニズムで起きるのかは、ネット社会になっても何ら変わらない。片方の大きな情報の需要があって、その需要に対して情報の供給が大きく不足しているというような状況が起きると、人々はどんなあやふやな情報にも飛びつく。そしてそれがセンセーショナルであればあるほど、急速に広まっていく。

東日本大震災においても、あらゆるメディアが寸断され、行政も機能不全に陥り、とにかく情報の極端な不足が生じた。特に原発問題などは、安全を繰り返すだけで、情報は限定的で、あたかも操作されているかのように、国民の目には映った。流言・デマが拡がる素地が整っていた。

ネットの世界ではツイッターなどで一度に大量の人たちに情報が広がる。実際に起ったコンビナート火災で、有害物質が雨に混ざって降ってくるという話を例に、どのように拡がって行ったかを調査しているが、さすがにネットの威力で時間単位で全国に広がって行くことがわかった。それでパニックが起きたかというと、そういう事態にはならなかった。ネット上の流言・デマについては、当事者(ここではコンビナートや地方役所など)が正しい情報を同じネット上に流すことで、ウィルスにワクチンが効くように、これも短時間に流言・デマを鎮静化させることに成功して、大方は大事にならずに済んだようだ。

本書では東日本大震災について、
   1.注意喚起として広まる流言・デマ
   2.救援を促すための流言・デマ
   3.救援を誇張する流言・デマ
に分けて、それぞれの具体例を挙げて論じている。

流言・デマに掛からない方法は、そのニュースソースをしっかりと確認することで、流言・デマはそれらしいソースを示していても、一見してソースにたどり着けないと分るものが多い。「友達のお父さんがコンビナートに勤めていて、その話では ‥‥ 」といった類いである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

梅雨についての最初の記憶

(庭のナンテンの花、散歩道でもよく見かける)

梅雨の真っ只中である。近年の梅雨は早く始まって遅くまで続くように見える。統計上はどうなっているのだろう。暦の上では入梅は例年6月11日で、奇しくも、まーくんとじいじの誕生日である。しかし、今年は5月末から梅雨が始まってしまった。

梅雨明けはどうだろう。7月の20日近辺だと理解していて、山登りに夢中だった夏、7月半ばの休みに夏山に行き、良く梅雨末期の烈しい雨に降られたが、何年かは梅雨も明けた夏空に恵まれた年もあった。近年は梅雨明けが7月末、あるいは8月にまで延びた年もあった。

梅雨が2ヶ月も続くようになり、降れば豪雨で各地に被害をもたらすようになると、これはもう雨期と呼んでもよいのではないか。梅雨の言葉が表わすようなやさしい雨はもう望めなくなった気がする。梅雨の雨に「しとしと」降るという表現が似合っていた時代はもう来ないのであろうか。

梅雨について、自分の最初の記憶は、小学校へ上がる前に1年間通った幼稚園まで遡る。舗装が今のように整備されていなくて、ほとんどが砂利道だったから、水溜りもあちこちに出来る。今のように車が頻繁に通ることは無いから、幼稚園までの数百メートルの道を、長靴に履き替えて傘を差して行く。隣のけんちゃんが同い年で、毎日一緒に通園した。現在のように幼稚園バスがあるわけではなく、交通量も少なくて、交通事故の危険性もなかった。戦後ようやく七年、徐々に復興はしてきたが、皆んな貧しかった。けれども、幼児誘拐などという犯罪も考えられない時代であった。幼児誘拐が全国ニュースになるのは吉展ちゃん事件(昭和38年)に代表される10年ほど後である。

母親が勤めに出ることなど、不通は考えられない時代で、家にいたから送り迎えが出来ない訳ではなかったが、子供たちだけで通園させるのに何も危険を感じなくてよかった。そんな通園のある日、朝降っていた雨も、帰るお昼頃にはすっかり止んで、けんちゃんと傘の柄どうしを引っ掛けて、引っ張り合いながら帰った。その途中で、どちらの柄だったか、すっぽり抜けた。それだけの記憶である。

あの時代、貧しかったけれども、皆んなが貧しかったから貧しさを意識することはなかった。子供たちには色々な意味で自由がいっぱいあった。先ずは時間があった。どこへ行っても良かった。川などに危険はあったが、年かさの子供たちが小さい子たちへ危険を教えた。実った果物を子供たちが取っても、その場では怒鳴られたが、それだけだった。何と言っても、家に帰れば必ず母親がいた。色々なことが便利になったというけれども、本当に進歩して来たのであろうか。最近は特に頻繁に感じる。テレビのニュースには、検量計を胸に下げられた子供たちが映っていた。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

森山焼 - 島田市博物館講座

(ムサシの散歩道の、色違いのガクアジサイ)

昨日に続いて、島田市博物館講座の講義内容である。テーマは「初山焼・志戸呂焼・森山焼について」。志戸呂焼については何度か書いた記憶があるので、今回は志戸呂焼をルーツにした森山焼について講義の内容を記す。講師は森町教育委員会の北島恵介氏である。

かつて太田川は現在の三島神社のある森山にぶつかり、西側へ流れていたが、コースが森山の東側に変わり、現在の森町は元々太田川の川原だった場所に発達した。町の元は、森山にあった森山(白幡)大明神から南へ、参道の両側に発展した市場が広がった町だといわれる。

市場の形成には「連尺の大事」と呼ばれる鎌倉時代以降に出来た市場の法則があって、森町もその法則に則って形成されたと考えられる。すなわち、神社に近い上町に上物商(米穀類、太物、紙、漆器)が並び、下町には下物商(ゴザ、履き物)が並び、下木戸があって、その外には風呂屋、旅籠屋と水物商売があった。

森の町名も、森山焼の名前も、この森山から出た名前である。鋳物師については森町には金谷から移り住んだ山田家が駿遠両国鋳物師総大工職を長年勤めるなど、金谷との絡みの中で盛んであったことが知られる。同じ火を使う焼物でも、金谷の志戸呂焼の流れを汲む森山焼が現代まで残っている。

この金谷から森への技術の流れは示唆に富んだものである。現在、工事中の第2東名では金谷と森にはそれぞれICが出来て15分ほどで繋がることになるが、その第2東名のコースに近い山道、里道を歩くと、現代でも4、5時間で金谷から森まで歩ける(自分の足で歩いたことがある)。昔も大八車を引いて一日で往復したというような話も残っている。東海道まで出て袋井宿から森に至る道では随分遠いと思われるが、山道を取れば意外に近い。昔の人たちは遠方に行くという感覚は無かったのではないだろうか。

森山焼が始まったのは明治の終わり頃、中村秀吉によって登り窯が築かれた。当初は近代化で需要が高まった土管を焼いていたが、そこから焼物に発展した。秀吉は生涯ろくろを回せなくて、手ひねりで作った。肉厚で大きな壺や瓶が多くて、一名「土管焼」と呼ばれていた。そこへ金谷の志戸呂焼の窯元から鈴木静邨(重太)が入って、薄く作る技術が伝わり、円明寺焼と呼ばれた。この子孫や弟子たちが現代の森山焼につながっていく。

森町に移って来た当時の鈴木静邨の作品を見ると、釉薬の掛け方で虎斑模様を出す技法など、まったく志戸呂焼と同じ特徴を示している。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ