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再びの巨木巡礼 57 鹿嶋神社のクスノキ

牧之原市勝俣の鹿嶋神社

10月28日、 二本目の巨木は牧之原市勝俣の「鹿嶋神社のクスノキ」である。国道150号線を南へ進みながら、「巨木探しは、巨木の方からおいでおいでと招いているので、楽だ」と女房に話すと、表現が面白いと笑う。勝間田川を渡ると、右手の町の上に鹿嶋神社のクスノキが我々を招いていた。




鹿嶋神社のクス

「静岡県の巨木」を見ると、鹿嶋神社にはクスノキの巨木が3本載っている。幹周囲4.5メートル、3.5メートル、3.1メートル。目的の4.5メートルのクスは本殿左手の奥にあった。地上五メートルほどまで、北へ傾きながら、その先に枝分かれした二本の幹をまっすぐに立てて、微妙にバランスを取っている。


接近すると

「静岡県の巨木」では、幹回り4.5メートル、樹高25メートルとある。


境内東面道路脇にザクロ

神社の正面廻ると、道路沿いに数本のザクロの木が植えられていた。しかも、一個の実が熟して割れている。根元にはいくつも実が落ちていた。今では子供たちもザクロの実など食べないのだろうと思う。自分ももう随分、ザクロの実を口にしたことはない。誰も食べないとはいえ、無断で、もいで帰れば泥棒である。そこで落ちそうなザクロの実から4粒ほど頂いて、女房と口にしてみた。口にさわやかさが拡がった。

ザクロもじっくり食べてみたいと思いながら帰宅の途に就いた。その後、ザクロの実を手に入れたいと、あちこち探すが、売っている所が見つからなかった。

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夜、区の班長会に出席し帰宅すると、会社で直接の上司で、長く御世話になったSさんの訃報が来ていた。個人的にもお付き合いが長く、巨木巡礼の発端になった、屋久島の縄文杉への旅にも同行したし、旧東海道歩きにも仲間で一緒に歩いた。発病されてからは、お目にかかることもならずに長く経ち、今回の訃報になった。残念だけれども、冥福をお祈りするしかない。合掌。
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再びの巨木巡礼 56 服織田神社の六部クス

牧之原市静波 服織田神社(社殿右手に二本クスが見える)

案内板によると、由緒として「服織田神社は延喜式神名帳に記載されており、景行天皇七年(皇紀737年)に勧請され、上古は圭田を賜った。往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと、宝暦八年の検地帳に記載されている。安政の大地震後に再建、明治六年三月郷社に列せられた」とある。



10月28日、服織田神社で、三本あるという、もう一本の御神木を探す。境内をぐるりと回ると、巨木と呼んでよいようなクスノキが何本もあった。その中でも本殿左手最奥にある一本に、注連縄が掛かっていて、群を抜いて太い。これが目的のクスであろう。11回目の「再びの巨木巡礼」二本目の巨木とする。

服織田神社の六部のクス

よく見ると、脇に細い木がまっすぐに生えて、錫杖を突いているように見える。だから「六部のクス」と勝手に名付けよう。六十六部(略して六部)は、法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者のことで、室町時代に始まるという。ただし、六部がこの神社に訪れたことがあるかどうかは定かでない。錫杖ならお地蔵さんだろうと思ったが、ここは神社だから、お地蔵さんは似つかわしくない。


反対側から


もっと近づいて

「静岡県の巨木」では、幹回り4.3メートル、樹高23メートルとある。

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昨日、買って来た渋柿25個を干柿に加工した。藤枝の青果店で、山梨県産のえぼ柿だったが、今年は不作のようで、高かった。大きさは今まで買った最大のものだが、25個で5000円ほど。失敗出来ないと思った。今年、最初の干柿で、去年より一日遅れである。

読書:「金魚の縁 新大江戸定年組 2」 風野真知雄 著
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再びの巨木巡礼 55 服織田神社の二本クス


10月28日、牧之原市の原から見た富士山

10月28日、榛原文化センターに用があり、ついでに二、三本、巨木を見て来ようと、女房と午前中に出掛けた。第11回目の「再びの巨木巡礼」である。



前の日の10月27日、はりはら塾「古文書解読を楽しむ」講座を終えて、車で榛原文化センターを出ようとして、南方に樹木の上部が見えることに気付いた。樹相が巨木らしさを表し、おいでおいでをしているように感じた。車を向けると、すぐ近くに服織田神社の森があった。牧之原市も大方巨木は見て来たけれども、ここは初めてであった。クスノキの巨木が何本も森を埋めている。これは、明日、改めて来ようと思った。


服織田神社の二本クス(神木の立札はなぜか3本あった)

27日、帰宅後、「静岡県の巨木」を見ると、服織田神社にはクスノキの巨木が合わせて4本載っている。幹周囲4.3メートルが2本、3.35メートル、3メートルがそれである。


服織田神社の二本クス

先ず目を引いたのは、本殿左に、玉垣で囲われた大小二本のクスノキである。注連縄が回され、御神木になっている。これを便宜上、「服織田神社の二本クス」と呼ぼう。御神木の立札はもう一本立っていたから、境内のどこかにもう一本御神木があるはずだと思った。

二本クスを背後から見ると

「静岡県の巨木」では、手前が、幹回り4.3メートル、樹高23メートル、細い方が、幹回り3.35メートル、樹高23メートルとある。今、実際に測れば、もっと太くなっているに違いない。やっぱりメジャーが必要か。

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渋柿を買いがてら、藤枝の巨木を見て来ようと出掛けたが、ひょんなことから、予想しなかった事態になった。それはまた、後日、記すことになろう。
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再びの巨木巡礼 54 心岳寺のカヤ





10月24日、三本目の巨木は、藤枝市谷稲葉の「心岳寺のカヤ」である。国道一号線、藤枝バイパスの谷稲葉インターを降りて左折、バイパスを潜ってすぐ左折、谷稲葉の集落に入る。谷稲葉川沿いに1キロほど遡った右手高台に心岳寺はある。曹洞宗の大きなお寺である。

一本目のカヤは境内を出て墓地へ通じる道脇に立つ

「静岡県の巨木」には、幹周囲4メートルのカヤの巨木が2本、載っている。一本は芝が美しい境内から本堂の左手に廻って、裏手の墓地に通じる道路のすぐ脇に立っていた。幹はまっすぐに伸びている。根元は笹に被われてよく見えないけれども、どしんと存在感がある。

根元を笹に被われている


境内南西角に立つ、もう一本のカヤ

もう一本は、車を駐車した、すぐ目の前にやや斜めに立っていた。最初に気付いていたが、石垣のすぐそばで、窮屈そうに見えて、後回しにしていた。幹が二本に分かれて、同じ4メートルでも、二本束ねての計測だろうから、やや迫力に欠けているように見えた。

案内板によれば、「心岳寺は永正元年(1504)曹洞宗寺院として創設された。開基は三條内大臣実望公の母である。慶長二年(1597)寺号の蓮仏山大永寺を、金龍山心岳寺に変更した」という。「また、心岳寺旧参道には弘法堂があり、かつて島田から岡部に至る旧道の風情が残っている」とあった。この旧道はどこから来てどこへ抜けていたのか、がぜん興味が湧いてきた。

この日は午後からだったこともあって、二ヶ所だけで、10回目の巡礼を終えて帰路に付いた。

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午前中、はりはら塾「古文書解読を楽しむ」の来年度継続の申し込みをするために、昨日に続いて、榛原文化センターに行った。ついでに、女房を連れて11回目の「再びの巨木巡礼」で少しだけ廻った。
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再びの巨木巡礼 53 月見里神社の鼻のクス

間口が狭い月見里神社、奥へ行くほど広がって、
その一番奥に、市指定の「月見里神社のクス」が立つ




10月24日、まだ月見里神社に居る。二本目の巨木は、月見里神社で二番目に太いクスである。鳥居をくぐって、参道の左手、道路との間にそのクスノキは立つ。

幹の目の高さに鼻に似た瘤があった

参道側からはちょうど逆光であったが、幹にこれは鼻としか表現しようのない、三角形のふくらみがあった。その直下に口らしき穴も見える。横から見ると、鼻骨の立った、鷲鼻というか、この鼻は日本人の鼻に非ず、西洋人のそれであった。それで、このクスを「鼻のクス」と勝手に名付けた。鼻づまりの人はこの鼻の部分を上から下へ撫でれば、たちまち鼻が通るなどと、霊験を付ければ、きっとお参りする人が増えるに違いない。


日陰になって見にくいが、鼻の高まりは見える

「静岡県の巨木」のデーターで 、幹回り4.5メートル、樹高20メートル、無指定のクスノキである。

この後、「駿遠の考古学と歴史」講座で話題になった鬼岩寺を訪れようと思ったが、何かお祭りでもあるのか、遠目に人寄りが見えて、今はまだ人混みは避けたいと、詣でるのを断念した。

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午後、はりはら塾「古文書解読を楽しむ」講座に行く。9月中止分の補講である。

読書:「雁の宿 隅田川御用帳」 藤原緋沙子 著
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再びの巨木巡礼 52 月見里神社のクス

月見里神社のクス



10月24日、一本目の巨木は、藤枝市藤枝三丁目の「月見里神社のクスノキ」である。「月見里」は「やまなし」と読む。周囲に山がないから月見が出来る里という洒落である。同様の地名は各地にある。

月見里神社にはクスノキの巨木が3本ある。市指定の幹周囲が9.5メートル、無指定の4.5メートル、3.8メートルの3本である。まず本殿右手奥の最も太いクスを見に行く。

平成9年4月12日「巨木巡礼」時の月見里神社のクス

「巨木巡礼」では次のように記す。

「久遠の松」の近く、通りから北へ少し入った月見里(やまなし)神社の本殿裏側に「月見里神社のクス」はある。地元の人に聞いたところ「月見里」は「やまなし」と読むという。山が無いから月が良く見えるとの判じ物である。

月見里神社のクスは2メートルほどの高さから二又に分かれている。その一方が枯れたのか、折れたのか。5メートルほどですっぱり切り取られているのが痛々しい。
 
月見里神社に参拝した際、取って脇へ挟んだ帽子が落ちたのに気がつかなかった。昼食後気づき、取りに戻ったら、そのまま落ちていて回収は出来たが、最近恐いほど物忘れが早くなった。

20何年か前、物忘れについて書いているが、心配することはない。今も当時とそんなに変わっていない。


月見里神社のクス(静岡県の巨木153/№122)

街中の狭く細長い境内に、圧倒するような太さのクスノキであった。すぐ隣にクスノキが付き従うように立つが、それがどうやら幹回り3.8メートルの3番目のクスのようだ。その巨木がほっそりと見える程、圧倒している。



「静岡県の巨木」のデーターで、幹回り9.5メートル、枝張り東西19.5メートル、枝張り南北12メートル、根回り26.5メートル 、樹高22メートル 、樹齢は400年という。昭和61年10月6日、藤枝市指定の天然記念物である。

そばに「天然記念物 月見里神社の楠」という立派な石碑が立ち、そちらでは幹回りが9.1メートル、樹高は18メートルとなっていた。こちらが天然記念物指定時とすれば、上記のデーターは昭和63年の全国巨木調査時のものであろうか。

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明日のはりはら塾の準備をした。
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再びの巨木巡礼余話 6 五和小学校のセンダン

島田市、五和小学校のセンダン



10月24日、午前中、区の防災会議で、最後に、五和小学校グランド脇の防災倉庫の点検に行った。その時、すぐそばにある2本のセンダンが随分太いのに気付いた。特に東の一本は、巨木の条件、幹周囲3メートルを十分越えていると思われた。お昼に帰宅して、「静岡県の巨木」のデーターを確認したが、センダンは県内では一本も無かった。もちろん調査洩れはあるだろうから確かなことは言えないが、ひょっとすると県内一番のセンダンかもしれないと思った。

午後、参院補欠選挙投票後、そのまま、女房と10回目の「再びの巨木巡礼」に出掛けた。今日は半日だから、多くは回れないかもしれない。


枝ぶりがアフロヘアーのようだ

その最初は投票所のそばだったので、「五和小学校のセンダン」を見に行った。グラウンドでは少年野球や、少年サッカーの練習が行われ、父兄の一団も見える。

自分も小学校高学年の頃、毎日放課後、野球の練習していたのを思い出す。ユニホームも無く、グローブも古い破れかかったものが大半で、正式なコーチも、父兄の見学もなく、当時どの町内でもブラブラしている大人がいて、コーチの代りをしていた。そして夏休みには、町内対抗の少年野球大会があった。しかし、その大会も5年生までで、6年からは、女子も入れたドッジボール大会に変わってしまった。誰かが妙な配慮をしたのであろう。それも、自分はその夏、足に腫れ物が出来て、参加出来なかった。(当時は栄養状態が悪かったのか、大人も子供も身体のあちこちに腫れ物を作っていた)

太さは二抱え以上は十分にある

「五和小学校のセンダン」は主幹は5メートルほどで、そこでカットされるのであろう、その先は細い枝がアフロヘアーのように伸びていた。樹高は8、9メートルくらいか。しかし主幹の目通りは3.2メートルといったところか。微妙なところなので、余話の方へ入れることにした。

これから巡る間に、静岡県でこれより太いセンダンを見付けることが出来るだろうか。

午前中に、同年配の男性に話を聞くと、自分が小学校の時もあって、その頃も十分太かったと、思い出を語った。センダンは雑木で、切るに躊躇がないかもしれないが、是非、思い出の残る記念樹として、後世まで残して行きたいものだと思った。
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再びの巨木巡礼余話 5 本願のマツ


大徳山称名院正定寺

10月8日、最後に巡ったのは、藤枝市藤枝二丁目、正定寺(しょうじょうじ)にある「本願のマツ」である。大慶寺を出て、旧東海道藤枝宿の往還を西へ進み、瀬戸川を渡る手前、右手に正定寺はある。おおよそこの辺りと見当は付いたが、お寺の周りには事業所や民家などが密集していて、お寺へ入る道が分からない。ぐるりと一回りして、ようやく往還から入る細間を見付けた。



正定寺は浄土宗のお寺で、本山は京都の知恩院という。「本願の松」は境内の右手に、傘を広げたように枝を伸ばしていた。何本もの間伐材の細い丸太に枝を支えられ、本堂の反対側、半回りほどが低い竹垣で囲われていた。こんな形に松を維持するためには、年々手入れを欠かさないようにしなければならないのだろうと思った。


本願の松(別名「延命の松」)

「本願の松」の謂れが石碑に刻まれていた。

江戸時代の享保十五年(1730)に、田中城主土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられている。丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大坂城代に登用されるに当り、報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を「延命の松」という。弁天堂は老朽のため明治四十五年に解体され、昭和四十七年に再建された。

江戸時代の初期、正定寺はこの弁財天を祀るようになって、街道を上下する旅人も弁天様の御利益を求めて立寄るようになり、門前には花屋、茶屋が並び、通称弁天町と呼ばれ、弁天様のおかげで寺は栄えたという。


「本願の松」の傘の中
主幹は想像したより太く見えた

目通り3メートル、樹高6メートル、枝張東西11メートル50センチ、南北 14メートル、樹齢300年。昭和61年10月6日指定、藤枝市の天然記念物である。ただ、巨木には認定できないので、余禄として載せる。

本日の「再びの巨木巡礼」はこれまでとして、帰路につく。コロナも治まりを見せて、関係する各講座が再開し、気忙しくなってきた。今までのように度々は、巨木巡礼にも出かけられなくなるだろうと思う

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午前中、区の防災訓練について、防災会議。午後、参議院補欠選挙の投票へ行く。その後、女房と「再びの巨木巡礼」(第10回)で、少し巡る。

読書:「伴天連の呪い 道連れ彦輔2」 逢坂剛 著
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再びの巨木巡礼 51 久遠のマツ

大慶寺と久遠のマツ

10月8日、九本目の巨木は、藤枝市藤枝四丁目の大慶寺の「久遠(くおん)のマツ」である。旧東海道藤枝宿の往還沿いに大慶寺という日蓮宗のお寺がある。その境内中央に枝張りが境内を覆うような、久遠の松がある。


久遠のマツ(静岡県の巨木153/№20)



平成9年4月12日「巨木巡礼」時の久遠のマツ

「巨木巡礼」では、次のように記している。

旧東海道を西から藤枝の旧市街に入ると、左側に日蓮聖人ゆかりの大慶寺がある。その境内を覆うように、日蓮聖人お手植といわれる『久遠の松』がある。県内でも最大級の松である。700余年の樹齢で、松としては全国でもまれな巨木だという。松食い虫の影響も受けず、まだまだ若々しい巨木である。



案内板に、樹種はクロマツ、樹高25メートル、目通り4.5メートル、根回り7メートル、樹齢700年とある。これは、「静岡県の巨木」のデーターと同じで、今は、さらに太くなっているのではないかと思う。この日の最初に見た「旭伝院のマツ」よりも一回りも太いように見えたが、目通りは「旭伝院のマツ」の方が10センチも太い。回りの環境によって、そんな風にみえるのだろうか。「久遠のマツ」由来については、案内板に、次のように書かれていた。

寺の縁起によると、鎌倉時代、日蓮聖人は京都比叡山に学びに出掛けるとき、この地に立ち寄り、12年後に帰郷する際に再び訪れた。法華経に教化された老夫婦が別れを惜しんで願い出たところ、日蓮聖人が1本のマツを植えていったと伝える。

昭和30年2月25日、静岡県指定の天然記念物である。

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午後、「駿遠の考古学と歴史」に出席する。今月は二度目だが、9月が中止になった分がここになった。テーマは「島田駅と菊川宿ー中世東海道を巡ってー」。中世の歴史書や紀行文から、当地方の東海道のルートを探ろうというもので、かつて自分も試みようとして、資料集めの段階で挫折していたので、大変興味深く聞いた。

S教授に、「雲渓庵日記」の解読の半分を渡した。影本と解読でB4で70枚の大作となった。
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再びの巨木巡礼 50 飽波神社のクスノキ


藤枝市藤枝、飽波神社
クスノキは社殿右手奥にあった

10月8日、八本目の巨木は、藤枝市藤枝五丁目の「飽波(あくなみ)神社のクスノキ」である。飽波神社へは何度か参拝したが、クスノキの巨木があるとは気づかなかった。少し心配しながら、車を進めた。飽波神社は、岡出山公園の南側、山懐にある。東隣りには市立岡出山図書館があり、そこにも、訪れたことがあった。



参拝後、クスノキを探す。幹回り7メートル近い巨木だから、目につかない訳はない。社殿左手に回り込み、参道を登って行くと、幾つか境内社があった。深い林の中だけれども、巨木らしきものは見当たらない。諦めて社務所で聞こうかと戻って来たが、社殿の右手側が気になった。社務所と社殿をつなぐ廊下が見え、床が高く楽に潜れそうなので、潜って左手に出ると、感が当たって、その奥にクスノキの巨木が見えた。


飽波神社のクスノキ
根元が半分千切れかかっている


手前の本来の幹は上部が折れて無くなっている

根元が崩れそうで、かなりやばい状態のクスノキであった。左半分は幹の上部も無くて、右半分の若い幹の部分が、巨木が倒れるのを支えているように見えた。新旧幹の継ぎ目を見ていると、若い幹が古い幹を覆い繕うように樹皮を広げているようだ。

社務所で聞いてみると、5、6年前、クスノキに雷が落ちて、もうだめかと思っていたが、未だに倒れないでいるという。そのままではなくて、若い幹の部分が頑張っているのである。

「静岡県の巨木」のデーターによれば、幹回り6.84メートル、樹高17メートル、無指定巨木である。注連縄が張られているから、今も飽波神社の御神木であろう。

飽波神社御朱印

飽波神社は仁徳天皇6年(西暦318年)10月、飽波郷(旧藤枝一帯)の鎮護の神として祀られた、志太平野最古の社で、延喜式神名帳にも駿河国益津郡飽波社の名があるという。

読書:「モナドの領域」 筒井康隆 著
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