goo

鳳来寺山の東照宮と鳳来寺

(鳳来山東照宮)

今日で9月も終わりである。明日からは衣替え。久しぶりに愛知県の温泉に行くことにして女房と家を出る。温泉の前にこれも久しぶりに鳳来寺に詣でることにした。東名豊川インターを降りて国道151号線を北東に向う。JR飯田線に沿って新城を通過し、鳳来寺山の駐車場まで車で登った。久しぶりに来た駐車場は自動化された有料駐車場になっていた。

紅葉にはまだ早いが、山のそこここに秋の気配を感じながら、山腹を回って、まず樹齢360年、幹周4~5mの杉の巨木が立ち並ぶ鳳来山東照宮にお参りした。東照宮といえば徳川家康を祀った神社で、日光東照宮と久能山東照宮が有名である。実は全国に40数ヵ所の東照宮があることは余り知られていない。

鳳来山東照宮は案内板によると、「松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願して、家康が生まれたと伝えられ、その因縁により3代将軍家光が造営したもので、日本の三東照宮の一つとなってい」ると書かれていた。「三東照宮」は日光と久能山の二つに加えて、おらが町の東照宮を3つ目に入れる仕掛なのであろう。かつて埼玉県川越市の仙波東照宮でも三大東照宮の一つだといわれていた。建物は国の重要文化財であるし、歴史のあることは周りに林立する杉の巨木が如実に示しているから、「三東照宮」に入れたい気持も解らないではない。


(ユーモラスな狛犬)

東照宮からさらに山腹を進む。途中ユーモラスな狛犬が一対あった。かつてはどこかの御堂の前を飾っていたものであろう。人をくった狛犬である。誰が結んだのか白い蝶ネクタイも笑える。その先に鳳来寺本堂があった。創建から1300年経つというが、本堂は最近の建物であった。本堂前の休憩所に種田山頭火が昭和十四年四月に訪れた際に献じた自由詩が掲げられていた。

          山頭火献詠
     トンネルいくつおりたところが木の芽の雨
     ここからお山のさくらまんかい
     たたずめば山氣しんしんせまる
     春雨の石仏みんな濡れたまふ
     石だんのぼりつくしてほっと水をいただく
     人聲もなく散りしいて白椿(薬師院)
     霧雨のお山は濡れてのぼる
     お山しづくする真実不虚
     山の青さ大いなる御佛おはす
     水があふれて水が音たてゝしづか
     山霧のふかくも苔の花
     ずんぶりぬれてならんで 石佛たちは
     水が龍となる頂ちかくも
     水音の千年万年ながるゝ
     石だん一だん一だんの水の音
     霽れるよりお山のてふてふ
  (「てふてふ」は「ちょうちょう」つまり「頂上」)

山頭火はここよりさらに岩山に穿った道を登り、山頂まで到ったようだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

HPから茶業の本が生まれた

(“柴田塾”“木村塾”の本)

関与してきた“お茶街道”というホームページで、お茶の栽培と製造についてそれぞれ専門家にお世話になり、ホームページ上の講座を開いていた。それぞれ先生の名を取って、お茶の栽培の“木村塾”、お茶の製造の“柴田塾”と名付けた。

両先生とも高齢だが気は若く、特に若い茶業者に自分が学んできたことを教えたいという意欲満々であった。だから敢えてインターネットという手段に載せることにした。お茶が何よりも好きという広告関係の女性に頼んで、毎月インタビューして貰い、平易な言葉で専門的な話をまとめていただいた。

柴田先生には一年間、木村先生には2年間、お世話になった。掲載当時から、柴田塾、木村塾がいつ本になるのだとの質問を何度かいただいた。先生方には当初からこの講座がまとまったらぜひ出版しましょうと話していた。

今回、会社の100周年事業と一つとして、この両先生の講座を出版する話になり、農業関係専門の出版社、「農文協」に交渉したところ、通常の出版物として出版してくれることになり、今月末に出版の運びとなった。

掲載当時からの夢が実現して、当初から携わってきた自分としては大変うれしい。両氏とも学究肌ではなく、長年フィールドで実績を上げてきた先生で、まとまった本も今まで出されていない。一つ一つ現場で実践され、実績を上げてこられた事柄の集大成で、茶業界にとって大変貴重な本となるはずである。

本はハードカバーではなく、いつも現場にもって行き、必要なときに必要な場所を開いて見ることが出来るように、ハンディで見やすいものに仕上がっている。間もなく全国の書店にも並ぶはずである。ぜひ手にとってご覧いただきたい。

  「茶園管理 12ヵ月 生育の見方と作業のポイント」 木村政美著 農文協

  「機械製茶の理論と実際 茶葉と環境にあわせた工程管理」 柴田雄七著 農文協


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

終の棲家の選び方

(家から3分の小学校)

戦後、平和な時代がやってきて、故郷の父母は家を購入しようと考えた。それまでは8人兄弟の末子で、結婚しても兵役に3度も就き、家庭に温まる暇も無く、ずっと借家住まいであった。家を選ぶのに父母が第一に考えたことは、学校に近いことであったという。

選んだのは小学校のそばの今の故郷の家である。小学校までは小走りで3分である。幼稚園に10分、中学校に15分、高校に10分、すべて徒歩である。戦後10年と経たない頃は給食もなく、昼食は小中高ともに弁当を持参するか、家に食べに帰ることが許されていた。結局12年間、昼は家に帰って食べた。

住宅ローンもまだ無い頃、子供たちには内緒だったが、家の代金は月々分割払いで長い年月支払っていたとあとで知った。町内は町屋で間口の狭い奥行きの長い家が肩を寄せ合っていた。家は戦前は待合だったようで細かい格子のはまった店があり、店から上がった2階の前後二部屋はそれぞれ独立していたし、細い土間が裏の炊事場まで通っていた。この辺りはそんな待合が並んでいたようである。

いずれも安普請で、お互いに隣りの家にもたれあって建っているように見え、柱がやや傾いて建具を柱の下の部分にぴったりあわせても、上は1、2cm空いた。それを塞ぐため、柱に下は薄く上が分厚い板が張られていたが、更に傾いて隙間が広がっていた。当家が隣りにもたれているのか、隣りがもたれかかってきて当家が傾いたのか、原因は特定できないままに、どの家も少しづつ傾いているようであった。冬は雪が積もって、建具の開け閉めが難しくなった。

次兄の代になって鉄骨3階建てに立て替えたから、1、2階の間取りは昔と同じでも、今はそんなことはなくなった。近所の家も改装して、隣りに凭れあうことも無くなっている。

伊勢湾台風のときも、一昨年の23号台風でも、高台を除いて街がすべて水に浸かった大洪水に、この町内だけ水害を逃れた。日常ではほとんど気付かないが、土地が周りよりも少し高いようだ。このことは父母の自宅購入の計算に入っていたかどうか、判らないが、終の棲家として最高の家を選んだものだと、父母に敬服するところである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

志太郡衙跡と「ゆらり」

(一部復元した志太郡衙)

日曜日、温泉に行く途中に「志太郡衙跡」に寄った。国道1号線バイパスの谷稲葉インターを降りて、南東へ2km行った、藤枝市南駿河台に「志太郡衙(ぐんが)跡」という国指定の史跡がある。奈良、平安時代の志太郡の地方役所跡で、全国的にも珍しい遺跡である。主には地方の税の徴収とその保管管理を行っていた役所である。税といえば租・庸・調、租は口分田からの稲の税、庸は使役もしくは布の税、調は各地の特産物の税である。

志太郡衙の周辺はかっては志太の浦と呼ばれ、川や湿地が奥深くまで入り込んで入江を作っていた。そのわずかに高くなった陸地に郡衙はあった。志太の浦は万葉集に、

  志太の浦を 朝こぐ舟は よしなしに 漕ぐらめかもよ よしこさるらめ

という駿河国の人が読んだ歌が載せられている。この歌は「志太郡衙跡」のパンフレットにも載っていた。歌の解釈が載っていなかったので、調べてみた。歌の後半の意味は「わけもなしに漕いでいったりするもんか。きっとわけがあるに違いない」となり、朝帰りの男を揶揄した田舎の俗謡だった。パンフレットに解説がないわけである。

「志太郡衙跡」に付属して志太郡衙資料館があった。見学者の記帳によると、我々夫婦が今日唯一の見学者で、男女2名の熟年の係員がビデオをセットしたり、案内をしてくれたりと恐縮する対応であった。

郡衙跡は発掘調査のあと、板塀や板葺き屋根の建物などが復元されていた。この辺りは湿地で遺物が水に浸かっていたため、土器のほかに木簡やしゃもじなどの木製品が腐らずに残り、多く出土している。それらに書かれた文字で往時の役所の様子がうかがい知れるという。調として“ふのり”や“かつおぶし”などが紹介されていたのも大変興味深かった。

「志太郡衙跡」見学の後、瀬戸谷温泉ゆらくに行った。今日は混み合っていて、特に女湯は多くて、女房の話では洗い場に行列が出来るほどであったという。中に、ちょっと湯舟に浸かる間、洗い場にタオルを置いて使用中にし、湯舟から上がったら並ばなくても続いて使えるように計った不心得者がいて、並んでいる人から文句が出てもめていたという。そんな様子を想像してつい笑ってしまった。男湯はそこまで混み合っていなかったが、さすがにそんなにずうずうしい人はいない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ヒガンバナあれこれ

(畦のヒガンバナ)

9月23日は秋分の日、彼岸の中日である。今年も今の時期、車を走らせていると視野に刺激的な赤が入ってくる。道ぐろだったり、畦だったり、土手だったり、ポツポツと赤かったり、びっしりと赤のラインとなっていたりする。その正体はヒガンバナ(彼岸花)、別名マンジュシャゲ(曼珠沙華)の花である。

気候変動には関係なく、日本各地で一斉に、お彼岸に決まったように花を付ける。その花を見て今年もお彼岸が来たと思い出す人も多いだろう。どうしてヒガンバナは計ったようにお彼岸に花を咲かせるのであろうか。確かなことは判らないが、おそらく地中で日照時間を計って、昼と夜の時間が同じになったのを待って花芽を伸ばし、花を咲かせるものとしか思えない。

韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいうらしい。 彼岸花は、花が終ってから葉が出てきて、葉が枯れてしまい夏の休眠の後、何もないところから花芽を出す。つまり花と葉が同時に出ることはない。それで「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味でこんな名前が付いた。ロマンチックなネーミングである。

ヒガンバナは雄株、雌株の区別が無く、種子で増えることがない。中国には種子が出来るヒガンバナがあるというから、先史時代の大昔に原産国の中国から伝わった1株の球根から、日本各地に株分けの形で広まったと考えられている。

ヒガンバナは田んぼの畦や土手によく植えられている。またヒガンバナの球根には毒があることは知られている。この毒もよく水にさらせば取れるので、日頃はそのまま咲かせておいて、飢饉の際に取り入れ食料としたという。つまり飢饉に備えて畦などに植えておいたというのである。

彼岸花に黄色い彼岸花(キバナヒガンバナ)もある。2、3年前、女房が知人からもらって来て、家の庭の隅に植えたキバナヒガンバナが、気付いたら花を咲かせていた。この花も律儀である。

(キバナヒガンバナ)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中国人と日本の中華料理

(中国人と日本の中華料理を食べる)

中国の独資会社の設立当初から経営に参加している中国人社員と外注工場の社長等が来日した。金曜日の夜、掛川駅前の中華料理店「四川」で、設立を手掛けた4人の社員も加わり、旧交を温めつつ夕食を摂った。

日本に来てまで、どうして中華料理なんだという話から始まった。日本の中華料理と中国のそれを食べ比べるのも一興とこの席を意味づけた。中国人の意見はともかく、日本人が感じるのは、第一に油の使い方が違う。日本の中華料理は極力油の使用を抑えた料理になっているように思う。第二に味が日本人の口に合うようにやさしくなっている。中国人によれば四川料理というより、杭州の料理に近いそうだ。第三に、日本の中華料理は、日本料理がそうであるように、骨など食べられない部分はすべて外してある。第四に皿にはすべて取り箸やスプーンなどが付いていて、自分の箸で取らないのが礼儀になっている。中には銘々皿で出てくるものもある。

ここに来る前には京都に寄ってきたと聞いたので、平安神宮、嵐山、金閣寺と回った中でどこが一番気に入ったかと聞いた。皆、口を揃えて金閣寺が最も京都らしく印象に残ったという。

日本の印象はどうかと聞くと、中国に比べて何もかも清潔である。その点、中国は50年後れていると話した。50年はオーバーにしても、中国は現在高度成長時期にあるとすれば、30年前の日本の状態に似ているかもしれない。

通訳は一人だけであったが、日本人に気を使いすぎて、美辞麗句を付けて通訳するので、どこまでが相手の言葉なのか判断が難しいところがあった。通訳は透明人間でなければ困る。

日本では酒酔い運転の取締りが厳しくなり、代行運転というシステムが一般になっていると話すと、中国にも同じ仕組みがあって、「代理開車」というのだと話した。

お開きになったが、一緒に参加していて途中まで元気だった中国人研修生が酔いつぶれて、トイレから戻ってこない。何度か吐いて、タクシーにも乗車拒否に遭った。仕方なく中国人が自分の泊るホテルに背負って連れ帰った。休んだあとアパートまで帰り着くかどうか、心配しながら家路に着く。休み明けに確認したら、一晩ホテルに泊って、翌朝会社まで戻り、そこからアパートに帰ったという話であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

栗ひろいはどうなった?

(山の上のほうに栗の木が遠望できる)

娘の亭主の実家で栗畑が放置されていて、草が背丈ほどに伸びて入ることも出来ない。そのまま腐らしているので、だれか採ってくれればいいのだがという話を聞いて、そんな話をソフト会社のK社でした。それなら土曜日に長靴を履いて、軍手をして、鎌を持って出かけようという話になった。土曜日9時半、会社集合と時間まで決めた。一方、女房も友達に会社の人が行くという話をしたところ、自分たちも行きたいという話になって、総勢10名ぐらいの人数になった。

その話を先方にしたところ、びっくり仰天、恐らく、二、三人で見えるくらいに考えていたが、10人にたまげてしまった。来てもらっても入れなくて、ろくに取れないでは申し訳ないと、気を使ってしまった。女房と向こうのおかあさんが長く話をして、土曜日は急きょキャンセルにした。

土曜日の朝、それでも一度女房とどんな所か見せてもらおう出かけた。10時過ぎに訪問すると、娘夫婦が栗畑の草を一刈してきたと休んでいた。栗畑は家の裏の田圃だった所一帯からはじめて、今は使われていない農業用水の池を越して、沢沿いの斜面に合計で300本ほど植えたのだという。

色々あってこの数年放置してしまい、田圃だった所には池を越えて水が入り、じめじめしてたくさんの栗の木が枯れてしまった。しかも背丈より高い葦が生えて、それでも何とか何本かの栗の木の周りの草が払ってあった。そこに落ちた栗をけっこう拾うことは出来たが、足元がじくじくしてうっかりすると長靴がずぶりと入る。


(こんな栗を拾った)

池の上の山には、背の高い栗の木が遠望できたが、道に笹が生えて先へ登ることも難しい。おばあちゃんの話では、上のほうに良い栗の木があるという。栗山は年に3回ぐらい草を払っていかないと、落ちた栗が紛れてしまい、なかなか拾うところまでいかないのだと聞く。また栗は一気に落ちるわけではなく、毎日パラパラと落ちる。それをそのままにおくと、一、二日で虫が入って駄目になる。だから毎日見回って拾うようになるらしい。良い栗を収穫するのもなかなか大変のようだ。さて土曜日は中止にしたが、あとどうしようか。

以上、栗拾い突然の中止の事情説明である。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

西原に熊が出た!

(ススキの穂の背景に西原が見える-今日の午後)

「西原に熊が出たと市の同報無線で放送されたらしい」夕方、外出から帰ってきた女房が言う。まさか!とは思わず、有り得る!と感じた。

今年は全国的にむちゃくちゃにたくさんの熊が出没している。テレビによると、昨年は山にブナなどの実が豊作で、子熊がたくさん生まれ、熊の人口(?)が増えた上に、今年は一転して不作で、熊は冬ごもりをひかえて、餌を求めて里へ降りてくるようになった。

昔は猟師もおり、狩猟を趣味にしている人も多かった。だから熊のDNAには人間は怖いものとの記憶が代々受継がれていた。ところが、近年は猟師が職業として成り立たなくなり、自然動物の愛護精神が進み、猟友会はあっても殺生を嫌うようになってきた。人間は怖いという記憶は年々薄れてきた。それ以上に里にはトウモロコシや柿など美味しい食べ物が沢山あるという新しい記憶が出来つつある。

そんな背景にあるから、家から直線距離で2kmほどの西原(にしばら)に熊が出たと聞いても不思議に思わなかった。西原は日本一の大茶園の牧之原台地の最北端にあり、やはり茶畑が広がっている。

熊が出たと話を聞いて間もなく、午後5時ごろに同報無線で熊が出たことが伝えられた。
「9月22日の夕方6時ごろ、西原地先の道路脇に体長1.6mの熊が目撃され、現場を確認したところ、熊の痕跡(足跡など)があり、熊が居た可能性が高いと思われるので十分注意して下さい」という内容であった。

それを聞いて女房はムサシの散歩をいつもより早めてあわてて出かけた。午後6時前には散歩から帰ってきて、今日はいつもの散歩道が大にぎやかであった。その時間に散歩する13頭の犬に出会ったと話した。皆んな顔見知りの犬たちだが、同じ時間に散歩に集合することはなかった。聞くとあの同報無線を聞いて、皆んな暗くならないうちに散歩を済ませようと一斉に出かけてきたものらしい。同報無線恐るべし。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

花茶とマイリーフカップ

(杭州の花茶、「茉莉毛峰」)

マイリーフカップで花茶を試してみたいと思い、中国現地法人の総経理S氏に、玉状に加工された花茶を買ってきて欲しいと話をしておいたところ、先日届いた。杭州で製造された「茉莉毛峰」というラベルが貼られた箱の中に、大小十数個の丸い球状に固めたお茶が入っていた。S氏は一箱日本円で500円位だと話していた。


(左が小さい玉、右が大きい玉)

さっそく小さい方を入れてお湯を注いでみたところ、お茶の葉が花のように開く。お茶の葉が糸で括って形が整えてあるが、中に花は入っていない。ジャスミンの香りがする。次に大きい方で試したところ、糸で繋がれた赤い花がお湯の中で咲いた。これにもジャスミンの香りがついている。「茉莉花」はジャスミンのことである。マイリーフカップの中では大小ともに少し窮屈そうである。

花を用いた中国茶を総称して「花茶」と呼ぶ。ジャスミン茶も花茶の一種である。一口に花茶と言っても、お茶の葉に花の香りを移したものと、花を乾燥させてお茶に混ぜたものがある。届いた花茶は「工芸花茶」と呼ばれ、糸などで玉状に丸めたもので、お湯を注ぐと花が咲くように茶葉が開き、花の香りが立ち上がる。

大きいほうの玉で、茶葉の中から開いた赤い花は千日紅の花である。千日紅は千日草とも呼ばれ、夏に咲いている貴重な花で、お盆のころ仏前やお墓に供える花としてよく使われている。名前は夏から冬まで花期がたいへん長いのでそう呼ばれる。インド原産で花はイチゴの実のように見える。似た名前で「百日紅」はサルスベリのことである。これも夏の貴重な花である。

試してみた結果、マイリーフカップでよく見えるけれども、もう少しゆったりとした器で入れるほうが美しく見えるという結論に至った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

タイのクーデターと安部新総裁

(安部新総裁誕生)

9月20日、二つの大きなニュースがあった。一つはその前夜タイでクーデターが起きて、この日軍事政権が誕生した。もう一つは安部晋三氏が自民党総裁に選出された。来週には安部政権が誕生する予定である。

タイのクーデターは、タクシン首相が国連総会に出席のため、不在中に起きた。タクシン首相一族による、インサイダー取引や課税逃れなどの不正疑惑に端を発した、一連の騒動で、民心が離れ、それを掬い取る形でクーデターが起きた。タイはクーデターが起きても、国民の信頼の厚い国王が仲裁に入るため、大きな騒動にならない。議会制民主主義が未発達で、公正な選挙による政権交代が出来ない中で、軍隊によるクーデターが結果的には政権交代を実現させている。多くの日本企業が進出する中で、大きな混乱にならなかったことは幸いである。

一方、自民党総裁に選出された安部晋三氏は、今日で52歳になった最年少の自民党総裁で、初めて戦後生まれの首相が出ることになる。議会制民主主義は整っていても、長年、ほぼ首相になることが確実な自民党総裁が、現金が乱れ飛ぶ中で選ばれたり、全く密室の中で決められたりしていた。しかし、小泉総裁が選ばれた総裁選以来、様変わりしている。金の力ではなくて、世論の支持がないと自民党総裁つまりは首相になれないという形が出来てきた。ほぼ国民が選んだ首相といってもよい。今回の総裁選もその流れの中で推移した。安倍氏はこのあとに続く党内人事や組閣においても、派閥に拘泥せず、自分が考える最良の人材配置をして欲しい。

タイと日本、二つの国の政権交代の方法をつぶさに眺めていて、考えさせられるものがあった。ようやく日本も議会制民主主義の理想に何歩か近付いてきた思いである。願わくば過去のどろどろに戻ることがないようにしたい。

夕方、女房の話では、夏の間に草茫々になった裏の畑の草取りをしていたら、季節外れの小玉のスイカが二つ、雑草の間に隠れていた。一つは割れて虫が入っていたが、半分ほどは食べれそうであった。もう一つも小さいが食べることが出来そうだ。これが最後のスイカと聞いて取り入れてから半月以上経っている。


(季節外れのスイカ)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ