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大井河源紀行 16  3月19日 上藤川、小長谷家

(我が家唯一のバラ)

藤泰さん一行は小長谷城址を後にして、道より一町ばかり右に入った六角堂という所の、大きな樒(しきみ)の木の根元に、五輪の塔、三基がある。小長谷長門守の古墓と伝わっている。元の道に戻って、上藤川下組の村長、源左衛門の家の前に出た。この後は読み下し文で示す。

この家に案内して、しかじかの事申し入れて、一夜の宿り乞たるに、老人よろぼい出て申すは、我が子山畑に出て、家に居らず。殊にこの程は産業に事繁く、宿の事、叶まじ。同じ上組、忠兵衛の元に至るべしというて入りぬ。添え書き出し見せたるも、とりあげもせざれば、詮方なくて、この家を出て数十歩すれば、右に十王堂あり。

こんなに早く宿の算段とはどういうわけかと思い、先を読んで行くと、藤泰さん一行はさらに奥まで行くが、途中から引き返し、上藤川に泊まる考えでいたようである。

これより入りて、山根に至るに、徳応山化成院とて、浄家の寺院あり。立ち寄りたるに、無住にて、たゞひとりの老翁、一人のみ。この精舎の開祖は清譽上人という。小長谷氏先祖よりの菩提寺となん。御朱符寺領五石八斗を賜う。

こゝを去りて、上組の里正の宅を尋ねて、丑寅をさして邱(丘)を下り、川原に出る。この流れは河内川という。これを渉りて又邱に上れば、悉く衰廃せる大構え(の屋敷)あり。これはいかにと、案内に問わば、これなん、里正の宅なりという。

案内して入るに、三十ばかりの女房(とじ)出迎えて、何れの人ぞと問うまゝに、我等はしかじかのものなり。子細ありてこれまで参りたり。願いは主人忠左衛門どのに、まみえ侍りたしとこたゆれば、女房、いろりの傍なる破れ屏風に、顔さし入れて、某の来ましたり、起きめされとて、ゆすりたれど、熟睡にや、そら寝にや、起き立ちざりし。我等、暫く佇立したるに、いまだ目さめざるまゝ、外面に立ち出て、案内の者にさゝやきぬるは、この家には宿の事、思いよらざるなり、といえば、案内が知るべのはべれば、いかにも御宿ことは心苦しく思ひ給うなと申すにまかせ、また内に入りて侍りあかしぬ。


ここでも宿泊は期待できないようで、宿は案内の知り合いに頼むことにした。

あるじ、漸々に目をさまし、欠伸(あくび)し、起き立ちて、何者ぞ、何にをか申すと、荒ららかに申すにぞ。我等、曽子の誹りをはじず、肩をそびやかしながら、答えていう。しかじかの事にて、小長谷殿の御事跡、承り侍りたしというに、主、いかめしく我家は長門守が子孫なり。古き由緒書も伝わりたりというにつけて、いろ/\と申し繕いければ、やがて古書を取出して示さる。
※ 曽子の誹りをはじず -(ことわざなのだろうが、出典を見つけられなかった)

かの家の系図の写しなり。外に承和の二字ありて、大なる花押の写しあり。家系の文、旧(もと)写し誤るにや。系統の引きかた、詳かならず。按ずるに承和とあるものは、仁明天皇の御花押の写しと見えたり。また、家系に清和天皇五代の後、頼信の孫に山城守清房、その子、和泉守清則、駿河へ下るとあり。按ずるに、大系圖に清和天皇の後胤、源頼信の孫に山城守清宗というあり。清房とはこの人の事なるべし。


あるじの応対に快く思っていないのか、藤泰さんは系図の写し間違いに言及している。江戸時代、系図を創る商売もある。小長谷家の系図もそのように作られたものとは、言葉にこそしていない。しかし、系図作成のポイントらしき点に言及している。駿河に下ってきた以降の系図は正しいものと考え、傍証の古文書などと照合している。

その子孫代々この国に止まりて後、こゝに居住か。本城山の土岐氏というも、この小長谷の祖なり。甲陽軍鑑に、永禄十二年、今川氏真朝臣、当国没落の後、同十三年、駿府の館の焼跡に小倉内蔵介、森川、日向、坂井、小長井など籠ると出たれば、小長谷は今川家に代々属して、幕下なり。その後、武田家に属しけるなり。武田家、龍の朱印を押し、小長谷長門守と記し、傍に天正七年閏七月とある古文書あり。これ、その証なり。

また里正の話に長門守舎弟に小長谷加兵衛と云うあり。後、覚仙と云う。また喜太郎という人あり。こは長門守が長男なり。後、徳川公に奉仕と云々。

今、忠左衛門が家、衰廃し、殊に主人農事を勤めず、たゞ山川の遊猟のみこと
ゝせり。産すでに尽きて、伝来の家財、悉く沽却せりと、悲しむべき事なり。実に数百年の旧家なること疑いなし。惜しむべきかな。

※ 沽却(こきゃく)- 売り払うこと。売却。
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