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嘉永七寅年十一月四日地震日記 その4 - 古文書を楽しむ

(新堀川に集るコガモ?)

地震の被害を見分するために、幕府役人が次々にやってくる。少し整理すると、
  1.川の御見分  御普請役の倉橋弥吉、岡田鉄助 
             御供 金谷宿組頭市郎平
  2.道中筋御見分 御勘定田辺彦十郎、御普請役北村栄三、高津儀一郎

  3.道橋御見分  御勘定水越恒三郎、御普請改市川保助、有坂理十郎

と、手分けをして見分を行なっている。

(十一月二十一日)
道中筋御見分御用、御勘定田辺彦十郎様、御普請御役北村栄三様、高津儀一郎様、島田御出立、日坂宿御泊、宿方旅籠屋、本陣、役人宅、御見分、上松屋御立宿、友沢様は宿内にて御帰り、当宿御泊、夜八つ時、左記申し候

    潰家弐百五拾九軒、半潰弐百六拾軒

二十二日、道橋御見分、御勘定水越恒三郎様、御普請御改市川保助様、有坂理十郎様、日坂宿御出立、島田御泊なり


十二月に入って、筆者の組頭市郎平さんが組頭と兼務で、年寄見習いを仰せ付けられている。「年寄」は江戸時代の町村において行政をつかさどる役人。

十二月朔日、御役所より御呼出にて、六助殿、八郎左衛門殿、三右衛門殿、三四郎殿、金左衛門殿、一同罷り出で候所、拙者へ年寄見習い兼役仰せ付けられ候
同 二日、三郎右衛門一同披露に出で候

十二月五日、寅上刻前、又々中地震、

申し談ず義これ有り候に付、地方(じかた)心得候、役人の内一人この書
披見次第、早々罷り出ずべく候、以上
 寅十二月七日 紺屋町御役所 金谷宿役人
※ 披見(ひけん) - 手紙や文書などを開いて見ること。
右十二月七日、酉中刻、飛脚至り来る
右御用八日、長右衛門出役


十二月八日、御下り、田辺彦十郎様、高津儀一郎様、北村栄三様、忠兵衛御泊り
同 九日、浜松宿御泊りに御行戻り、御出立日坂まで御見送り、作左衛門、市郎平
同十一日、御代官様、宿方御見分、忠兵衛方御昼御見分、御礼島田出役、作左衛門、市郎平
同十二日、田辺様御帰り、島田まで御見送り、浅右衛門、三右衛門、市郎平、直ぐさま、御組頭吉川幸七郎様、御徒目付、御小人目付、御出迎え仕り候

この書は当町金谷河村氏(柳屋なり)の原書により、これを写し、その原書は組頭市郎平、その震災の当時備忘に記し置きたるものにして、同家に所蔵保存しあるを、今回震災の記事取調ぶべき旨、その筋より御達しこれ有るに付、
参考書に為さんがためこれを書写せり
 この時、明治二十四年十二月二十四日      村井氏


「地震日記」は、元は金谷宿の河村氏(屋号、柳屋)から出た文書で、その御先祖、組頭市郎平さんが安政の大地震に際して記した日記である。それを明治24年に借りてきて、同じ金谷の村井氏が書き写したものだという。その河村氏が講師の御宅である。現在、元になった「地震日記」は講師のお宅には残っていないという。この文書も村井氏から出たものではなく、古文書を蒐集する好事家の手中にあったものだという。
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嘉永七寅年十一月四日地震日記 その3 - 古文書を楽しむ

(故郷から帰りの電車の外は吹雪-1/26)

お袋の葬式で中断していた、先月の「古文書に親しむ」講座で読んだ「地震日記」の続き(1/22の続き)を取り上げる。

書付を以って申し達し候、明十九日申し談ず御用の儀これ有り候間、朝六つ時、島田宿我ら泊り、刻限遅滞なく罷り出ずべく候様致すべく候、その節この書付持参相返すべく候、以上
 寅十一月十八日        御普請役
                     倉橋弥吉
                     岡田鉄助
                    金谷宿    組頭市郎平
追って申し達し候、弁当用意及ばず候、用先にて手当いたし置き候あいだ、この旨相心得申すべく候

十一月十九日晴、早朝島田桑原へ罷り出で、岡田様、倉橋様御供にて、東側通り丁張り仰せ付けられ、相川、西島、中島、ことの外大破にて、御見分相残り、川尻村三郎左衛門方、御止宿

※ 丁張り - 等間隔に並んだ木杭とそれに水平もしくは斜めに打ち付けられた板で構成される。

御普請役の倉橋弥吉、岡田鉄助は幕府役人で江戸から被害状況の把握に来たのであろう。「桑原」家は島田宿の商家で名主などを務めた。両役人はその家へ泊ったものと思われる。「金谷宿組頭市郎平」さんが、この地震日記を記した人である。「東側通り」は大井川の東側で、河口に向けて、相川、西島、中島などの村がある。川尻村は大井川の河口の村で、但し、大井川の西側にあった。

今般、まれなる大地震にて、私ども村方人家、過半あるいは皆潰におよび候上ならず、御普請所御堤通り残らず皆滅所に相成り、中には水面より壱、弐尺通りも余分に減り下り、既に水入りに相成るべくばかり、左候えば地窪の村方御同地皆流れに相成り、人命にも相拘わり候義に付、願い上げ奉り候ところ、御見分成し下され、有り難き仕合せに存じ奉り候

しかるところ、少々の雨天にても、水入に相成り候間、御仕立の義、押して願い上げ奉り候ところ、当節御伺い中の義に付、仰せ付られ難き旨、仰せ聞かされ、もっとも御場所の義、容易ならざる場所、村役の心得を以って、土持ち致すべき旨、仰せ聞かされ、万一御下知相済まず候わば、自普請の積り、仰せ渡され、承知畏み奉り候、これにより村々御請印形差し上げ奉り候、以上
 嘉永七寅年十一月           上泉村
                        相川村
                        西島村
                        中島村
                        飯渕村
右村々急難の場所、早々取り掛るべき様、仰せ付けられ候

※ 御普請 - 江戸時代、幕府、諸藩の公費で施行する土木工事。
※ 自普請 - 領主の援助を受けずに、関係村落が経費を分担して行なった工事


大井川の河口近くの村々が、地震被害の報告と復旧工事を依頼する文書を出したことにより、幕府役人が見分に来たのであろう。結果、すぐに御普請を行うのは難しい旨を伺い、急ぐところは自普請でやってよいと言われ、承知した旨、上記の文書を出した。

二十日、東側通り又々御見分、島田宿へ御立戻り、帰宅仕り候
二十一日、岡田様、倉橋様、島田宿御出立、六番土出御見分、池り付御泊り御越し

※「池り付」は「池鯉鮒宿」のこと。翌日の泊りではなく、両役人の次の目的地が「池鯉鮒宿」だったのだろう。島田から池鯉鮒までは何泊かしないとたどり着かない。
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Nさんと話す(続き)-古文書解読から見えた江戸時代

(雪の降るJR豊岡駅-26日朝)

幕末から明治初期に多くの外国人が日本へやって来て、多くの記録を残している。彼らが日本に来て驚いたことが二つあるという。その一つは日本には緑が溢れていて、農村はまるで箱庭のように美しかったということである。もう一つは日本の庶民は着ているものこそ、みすぼらしかったけれども、好奇心旺盛で、皆んなニコニコしていた。とても領主に搾取されて、貧困にあえいでいるようには見えなかったという。

古文書を読んで、その解説などを先輩諸氏から受けていると、外国人が見たように、江戸時代の庶民はけっこう幸せに暮らしていたのではないかと思うようになった。年貢(税金)は四公六民とか五公五民とか言われるが、検地は江戸時代の初期には終わり、その後、農民たちは年々少しずつ開墾などで耕地を増やしてきたが、領主が主導による大規模田畑開発でも無い限り、細かい部分について検地がやり直されることは、江戸時代を通じてほとんど無かった。領主は村毎に田畑の面積は把握していたが、個々の農家への割り振りはすべて村役人任せだった。分母が増えれば実質の年貢の率はどんどん下がっていく理屈である。

商品経済が進んでくると、農家も現金収入を得るようになる。しかし、そういう収入へ税金が掛かることはなかった。また、村役人は村の有力農家がほとんど世襲で勤めていた。村役人の子弟は親の仕事を引き継ぐために、読み書きを勉強した。そこで学んだのは村が如何に疲弊しているかを役所に訴えるテクニックであったといわれる。ほんの少しの災害でも細かく窮状を訴えて、領主の御慈悲を求める文書の控えが数限りなく残っている。代官が私腹を肥やしている話は物語にはよく出てくるが、そんな悪代官はまれで、善政を敷いたとして、赴任地に建立された代官の顕彰碑が、日本全国に何百基も現存しているという。

江戸時代を通じて何回も贅沢禁止令が出て、御触れが村々に廻るとともに、村々も細かい規定を作って回している。絹の着物は着てはならない、結婚式でも一汁一椀にする、酒は居酒屋で飲んではならないなどをはじめ、墓石から戒名の付け方まで規制している。規制しなければならないほど、庶民が贅沢になっていたのである。度々御触れが出るのは、なかなか守られなかったためであろう。御触れが出ればそれ相応の対応はするが、しばらくすれば御触れの効力もうやむやになることを、庶民の方がよく知っていた。

こんなふうに江戸時代が決して暗黒時代ではなかったことが、古文書を読んでいくと見えてくる。これは260年平和が続いた結果だと思う。いくさがないと、庶民はこれだけ幸福になるのである。また、鎖国が行われていたことが大きいと思う。最近まで鎖国状態であったブータン王国が国民総幸福という尺度で世界一とされることでも、よく分かる。江戸時代を通して、権力を持っている武士は財力を持たず、財力を持つ商人は身分では士農工商の最下層に置かれた。こういう仕組みが江戸時代を長続きさせたのだと思う。

コーヒーが出るのに手間取っている20分ほどの間に、そんな話をした。Nさんは大変に興味を持ってくれたようで、もう少し若ければ自分もやってみたかったと話す。そういう講座が自分の回りには無かったという。たぶんあったはずだけれども、見えなかっただけだと思う。

コーヒーを飲み終わり、また次の機会にお話を聞きたいという言葉を残してNさんは帰って行った。
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お袋の葬式の後、Nさんと話す

(豊岡のキャラクターグッズ、マスコットの玄武洞玄さん-JR豊岡駅緑の窓口)

親類のNさんと話した。Nさんはいとこの連れ合いで、奥さんに先立たれて、現在は明石に息子と住んでいる。歳を確認すると自分より21歳年上で、お袋の亡くなった今は一族の最長老ということになったという。毎日何をしていらっしゃいますかと聞けば、この頃は散歩も出来なくなり(足が悪いようで杖を突いている)、本も読まなくなって、庭の草むしりや花の世話をするのが唯一の仕事だという。もっとも今の季節はその仕事もできない。

Nさんは元は高校の数学の教師で、最後は兵庫県の県立高校でナンバー1といわれる高校で校長まで勤めた人である。本を読めなくなったのは辛いことではないかと思った。実家で一休み、Nさんが大好きなコーヒーを待つ間にお話をした。お遍路の本の礼状は来ていたから、そちらへ話題を向けようとしたが、どうやらその本も読んでくれていないらしいので、今自分が学んでいる古文書に話題を変えた。

古文書を解読する講座、3講座に入って勉強している。古文書の中、江戸幕府の公式文書などは、学者によってほとんど解読がされて活字化している。日本の歴史に取り上げられるのは、概ね中央側から見た、上から目線の歴史である。それに対して、民衆の間に日常的に文書が取交されて、今も歴史研究の対象にならずに埋もれている文書が数多く残っている。

どうしてそんなに多くの文書が残っているのかといえば、私見であるが、
 1.江戸時代の民衆の識字率がたいへん高く、読み書きが出来る人が、町々だけでなく、村々にもたくさん居た。
 2.丈夫な和紙と色褪せない墨があったので、書いたものを残すことが出来た。
 3.その結果、為政者は文書に残されたものを重要な証拠として扱った。
 4.自分の権利の主張のために、文書が大切に扱われ、どんな書き物でもすべて残しておくようになった。

実際に、様々な訴訟事に、古文書が最も重要な証拠として扱われた。一方、そのような文書を偽造すると厳罰に処せられた。

庄屋や組頭など村役人をしていた旧家には膨大な量の古文書が眠っていた。それらが母屋の建て替え時などに、多くが失われ、一分が発掘される。それらが我々が教材にしている古文書である。

明治維新を肯定する史観、及び唯物史観によって、江戸時代は封建時代で、農民は重い年貢に苦しみ、飢饉ともなれば娘を遊郭に売り、逃散や一揆などが日常的に頻発した暗黒の時代だというのが、我々が歴史の教科書で学んできた江戸時代の歴史である。ところが、古文書を学んでいくうちに、どうやら違う江戸時代の景色が見えてきた。(明日へ続く)
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お袋は宗教的な人だった

(積雪の実家物干し台-昨日朝)

葬儀のあとの喪主挨拶で、次兄がお袋を宗教的な人だったと紹介していた。

母の実家のお寺は真言宗だったから、「南無大師遍照金剛」のお題目が口癖であった。戦争中、在郷軍人で警備に出て留守がちだったため、空襲警報の度に子供を連れて、町内の防空壕へ逃げた。警報だけで爆弾が落ちることはなくて、近所の人たちは段々避難しなくなっても、母だけは子供たちと避難したという。どんな思いだったのだろう。一家族だけ防空壕にいて、お袋は必死にお題目を唱えていたという。自分が生まれる前の話である。

戦後間もなく、次兄の手を引いて郊外の拝み屋さんへ何度も行ったという。記憶にはないが、自分も生まれていたから、お袋の背に負われていたのだろう。人生に迷うことがあると、拝み屋さんから託宣を得て、指針としていたようであった。次兄の話では炎天下に土手の土道を延々と歩いて、子供の足では随分と遠かったと記憶しているという。

新興宗教に救いを求めたのも、その一連の流れであったのだろう。さらには、その後は我が家の菩提寺の来迎寺へも、ことある毎に出入して、最晩年まで来迎寺の御詠歌グループの先達をやっていた。この御詠歌をお袋のお通夜で聞かせてもらったが、まるでキリスト教の賛美歌のように音楽的で、心を打たれた。思えば、実家で御詠歌を練習するお袋の声を何度も聞いていた。

お通夜の後で、住職は異例の挨拶をして、お袋の思い出を語ってくれた。父に代わって住職になったばかりの頃、ちゃんとお勤めが出来るかどうかと、厳しい目を向けられて恐かったこと、上手く勤められた後では優しい目があってほっとしたことなど、お袋の初めて知る姿であった。

戦前、戦後を通じて、社会的にも、個人的にも、厳しい時代が続いた。戦中は親父は何回か召集されて、お袋は一人で家族を守らねばならなかった。戦後は、親父の少ない給料で3人の男の子を大学へ出すために頑張った。悩みも多かったと思うが、お袋は自らの宗教心で乗り越えて行ったような気がする。

現代社会に生きる人々は、複雑な社会にあって、鬱に代表される様々な神経疾患を抱えている人が多い。戦中戦後にも、肉体的、精神的ストレスは現代と変わらなくあったと思う。人によっては現代人が抱えるストレスよりも大きかったかもしれない。しかし現代のように多くの神経疾患があったとは聞いていない。想像するに、神や仏にすがる信仰心がストレスから身を守るよすがになっていたのではなかろうか。

科学の発達で、その知識が現代人の信仰心を妨げている。信仰心を持ちにくい世の中になってしまった。現代人のやわい神経は裸でストレスにさらされている。また不容易に信仰心を求めると、そこにはオカルト教団や霊感商法の類いが口を開けて待っている。
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隣りの部屋にお袋の気配

(お袋の葬儀会場の祭壇)

昨日の話である。

お葬式の後、実家に皆んなして帰った。遠方から来た者たちは、すでに電車で帰って行った。もちろん女房を含めて、靜岡組もその中に含まれている。多くの親戚、兄の子供たち、孫たちは、雪が凍って通行が危険にならないうちにと、それぞれの自宅に車で帰って行った。気がつくと、自分一人、実家に残っていた。葬式の行事に最後まで参加すると、靜岡までは帰りにくくなるから、もう一晩、実家に泊めて貰うと告げてあった。みんな帰ると兄夫婦だけになって、急に寂しくなってしまうから、時間的に自由な自分が一晩だけでも泊まって行こうと思った。

「雪起し」と呼ばれる冬の雷が遠くで鳴っている。今夜は一昨日、昨日以上に雪が積もるだろう。昨日、お風呂が壊れて、今日は風呂が沸かせないという。それなら昔のように銭湯へ行こうかと話したが、外は雪が降っているようで止めにした。よもやま話に夜が更けて、兄夫婦は寝所へ引き上げた。自分一人茶の間に残り、パソコンを立ち上げて、日課のブログを書いていた。ふと、隣りの部屋にお袋の気配を感じた。

この数年、実家に帰る度に、皆んなが寝静まってから1時間ほど、ここでブログを書くのを常としていた。お袋のベッドは障子を隔てた隣りの和室のあり、この何年かは惚けも進み、寝息やつぶやく声など、お袋の気配を感じながらパソコンのキーボードを操作していた。

明石の女のひ孫は霊感が強くて色々見えるらしい。部屋で突然、「おじいさんが怒っている」と恐がったり、何かと人騒がせな女の子であった。時々、感受性の強い女の子が幼くてピュアーな頃に、色々見える子がいるらしい。けれども大概は色々な知識を身につけるにつれて、霊感も薄れてしまう。

そのひ孫がお通夜の祭壇を指差して、「おばあちゃんが笑っている」と言ったとか。けれども、お袋の魂は、今日の葬儀で、住職の「行けー!!」という大音響の引導に促がされて、あの世に向けて旅立ったはずである。隣りの和室はすでにベッドも片付けられ、仏壇の隣りに設けられた祭壇に、お袋の遺骨が骨壷に入っているはずである。そう思い直し、耳を澄ませば、音のない雪降る気配が聞こえるだけであった。

葬儀という行事の間に、人の心は起きる色々な事象を特別なことに感じ、様々な思いをめぐらす。それを否定するつもりはないけれども、我々はちょっと立ち止まっただけで、明日からは普通の歩みを再会しなければならない。それらを引きずって歩くわけには行かないのである。

ブログを書き終えて、明朝の積雪を心配しながら、ふとんに入った。
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お袋の葬式に故郷へ向かう

(雪の豊岡駅)

昨日、朝早く、先発で自分ひとり故郷へ出発した。昨夜から日本列島は寒波襲来で、雪が心配である。皆んなで車で行こうという話しもあったが、電車にするように決めて、一人先へ出た。故郷の兄からの情報で、京都から「橋立」で福知山まで行き、そこで福知山線を来る「こうのとり」にリレーして乗り換えて来れば、京都から山陰線を行く「きのさき」に乗るのと同じ時間で行ける。

京都駅までは雪も無く問題なく行けた。山陰線のホームまで行くと、特急「橋立」の標示がどこのも出ていない。しばらくうろうろして気付いた。電光掲示盤に山陰線が福知山の手前で雪による倒木があり、不通になっていて、大阪から福知山線を迂回するように出ていた。駅員連絡所に行って聞くと、電車は新大阪か、大阪へ行って向こうで聞いてくださいという。言葉は丁寧で、お詫びの言葉は繰り返すが、詳しくは向こうで聞けとは、何とも不親切である。

結局、飛び乗った電車が茨木までは各駅停車の快速電車で、いらいらしながら乗っていた。車掌が通れば聞きたいのだが、姿は見えない。「こうのとり」が新大阪始発なのか、大阪始発なのかがわからない。新大阪へ降りて聞いて、大阪始発だったら電車に乗りなおさねばならない。そこで、大阪まで足を伸ばした。福知山線のホームに行くと、「こうのとり」まで20分ほどの待ち合わせというので、行列に並んだ。後ろの男性が二人ともそれぞれに山陰線から回ってきた人たちで、そういう人が多いのであろう。平日の割りに混んでいた。「こうのとり」はどこの始発かと聞くとどうやら新大阪のようであった。それなら新大阪で降りれば良かったと話す。この行列の先頭に立つと同じになったに。3時間ほど遅れて追いかけてくる、女房子供たちが気になって、息子に電話して雪で不通の情報を伝えた。結局、乗った「こうのとり」は乗る電車より一時間後の電車で、途中で信号待ちなども何度かあって、さらに15分ほど遅れて豊岡に着いた。積雪量は30センチほどであろうか。一面の銀世界で乗ったタクシーの運転手は昨日までは全く雪は無かったという。

故郷の家にはすでに孫、ひ孫たちが何人か集まっていて、時間を追うごとに増えて行った。皆んなが注目する中、納棺師によって死出の装束に改められ、納棺された。安らかな死に顔で眠っているように見えた。そこへようやく静岡から女房、子供も着いた。雪道で霊柩車に収まり、長いクラクションとともに出発する。タイミングが少し送れて、お茶碗を割る音が遠慮がちに響いた。ご近所の方がその役割をしてくれたようで、破片が散らからないようにビニール袋に入ったままで割った。見送った人を見ると、孫やひ孫が30人以上も集まっていた。これだけの子供たちを見ると、まだまだ日本は安泰に見える。そばに居た先生をしている孫娘の亭主にそんな言葉をかけた。
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「私の人生を省みて」-お袋の書き残したもの

(お袋の筆跡)

お袋が「私の人生を省みて」と題して、書き残したものである。日付は昭和45年とある。世間が「1970年のこんにちは!」と賑わっていた年に書いたものである。自分たちは苦しい生活の中で、3人の息子たちを育て上げ、歳を取ってしまったけれども、子供たちは希望に満ちた未来に向かって歩み続けていくだろう。自分たちは静かに余生を送って行く。

高度成長の真っ只中にあって、近い未来に大きな落とし穴が幾つも待っているとは、誰も予測していなかった。お袋が還暦を迎えたころ書いたものである。あれから42年、ずいぶんと長い余生であった。

明治生まれで、田舎の農家の娘に生まれて、女学校も出ていないお袋は、3人の息子には大学に出すと決めて、見事に果した。そんな中、自らも勉強したのであろう。人の上に立つようにもなれたし、立派な文章が書けるようにもなっていた。

     私の人生を省みて

  昔、髪の豊かに黒く
    ふくよかな手足はのびて
     透き通るような声は 常に
      高らかに笑いうたう

  時は過ぎて
    三人の息子たちもすくすく生長して
    社会の一員として巣立っていった
    子育ても終わって身も心も空虚となって
    気がついて見た時 髪の白さが目立ち
    頬はこけ 幾すじかのしわも深く
    一滴の化粧水さえも忘れてしまったような
    この顔が何かを求めようとしていたのだろう

  粗食をはみ つずれをまとうて
   あらゆる事をあらゆるものも乗り越えて
    夫と二人で歩んだ道の
     あまりにもきびしく苦しかった事を
      物語っているのだろうか

  私達の歩み達せなかった希望の夢を
   若い者たちに託してきた夫と私
   若い者たちも又 道をふみはずさぬように
    希望の夢を追って
     歩み続ける事だろう

  いつしか金婚式をも過ぎ去っている今日
   色々と起伏は多くあったけれど
  私たちは目が見えて耳もきこえて物も言え
   両の手足の動くうれしさとか
  これが最高の幸せと信じている現在の私たち
  お互いに肩をよせ合って
   静かに余生を送って行くであろう
    夫と私 じっと自分を見つめながら
             いつまでも

         昭和四十五年


「私の人生を省みて」は長兄が平成10年にワープロを打って仕上げたものである。90歳になったお袋が、この後に、90年間の思い出を20ページほどにわたって記している。

明朝早く、葬式出席のため、故郷へ帰る。女房、息子、義弟夫婦、娘たち二タ家族、総勢10名があとを追いかけてくる。いずれも自分が靜岡に最初に来たときには、縁も無く、あるいは存在すらしていなかった人達である。
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嘉永七寅年十一月四日地震日記 その2 - 古文書に親しむ

(大代川のカワウの番い-去年の番いと同じなのだろうか)

昨日午後、「古文書に親しむ」に出席した。先月に続いて「地震日記」である。

五日六日時々震れ居り申し候、死失人凡そ左の通り
  上小路九郎兵衛娘一人 女    
  市兵衛妻一人 女        
  十五の清左衛門壱人 男  これは病中の由   
  近文妻一人     女     
  佐塚弐人 男女
  不二より娘一人 女    これは相良の人別
  上湯日村伊左衛門母一人 女  
〆て七人、内六人、内男二人女四人、宿内人別なり、右の外、怪我人いまだ相知らず


金谷宿の地震による死者は8人、その内、上湯日村の人別が1名、相良の人別が1名、したがって宿内人別では6人である。

   拝借奉る金子の事
一 金五拾両也
右者金谷宿同河原町家並、昨四日朝大地震にて皆潰れ相成り、難渋至極仕り候につき、宿内手広の場所、取払い小屋掛け仕り度、右手当金拝借願い上げ奉り候ところ、書面の通り御貸し渡し成し下され、有難き仕合せ存じ奉り候、これにより拝借手形差し上げ奉り候ところ、件の如し
 寅十一月五日       金谷河原町      惣右衛門
              金谷宿        問屋 六郎
  島田御役所


島田御役所から金子拝借手形である。4日にあった地震に、5日の日にはお金が出ている。東海道の宿場で、重要な場所とは言え、この速さには舌を巻く。現代のように通信手段もない時代、現地の裁量の範囲が大きかったのであろう。さらに、17日には金谷宿と金谷河原町に合わせて八百両が貸し出されている。このスピード感は現代のお役所も見習うべきであろう。

五日夕方
 太田様御領分、上湯日村組頭八郎一、同久兵衛
 右村百姓伊左衛門母、
 右母十五軒多吉、軒に押され死におり候に付、申し出で候、五日夕方に右死骸、七日昼後龍雲寺まで引き取り
七日天晴れ
 早朝一度大震れ
十一月十五日昼後本宅へ移る
 同 十六日夕方雨降る
 同 十七日夕、江戸金五郎様来たる
 同 十七日
 友沢様御出役、金五百両金谷宿、金三百両同河原町へ拝借仰せ付けられ候


   *    *    *    *    *    *    *

午後11時を廻った時間に、電話が鳴った。高齢の年寄りを抱えていると、時ならぬ電話に緊張が走る。予感したのか、女房が電話に出るようにいうので、受話機を上げた。兄貴が出て、お袋がほんの今亡くなったという。いつかはこの時が来ると覚悟はあった。昼間デーサービスに行っていて、少し遅くなって9時頃に夕飯を食べていた。急に調子が悪くなって、主治医に来てもらったところ、11時過ぎの臨終であった。享年102歳、一世紀を越えて随分頑張って長生きをしてくれた。大往生である。長寿はそれだけで生きている人に勇気を与えてくれる。お袋は102歳でまだ元気で、と何人の人に自慢したことであろう。最後まで看取ってくれた兄貴夫婦には、どれだけ感謝しても仕切れないほどお世話を掛けた。ありがとうございました。

さて、明日からしばらく、ブログが続けられるかどうか、今のところ判らない。
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村々の立場を理解する - 駿河古文書会

(ムサシの寒い夜の寝床-ダイニングの中)

入会の権利関係は昔から問題が多く、出入になることも多い。様々な権利関係が入り乱れて、その関連文書を解読するのは、なかなか難しい。この文書も村々の関係を良く理解しないと正しく解読できない。まずは文書を読み下した文で示す。

     恐ながら返答書を以って申し上げ奉り候
先だって葉梨谷西方村、北方村両郷山義、山論に付、上薮田村、下薮田村、五十海(いかるみ)村、三ヶ村一同、相手取り御願い申し上げ候に付、右三ヶ村一同、返答書仕り候、然るところ先方再び返答書に申し上げ候は、五十海村の義は、相対にて一丈もや苅り取らせ候積り、書付など御座候ところ、右三ヶ村一同の返答書差し出す義、如何の儀御座候やと申し出候、この義当村の義は、先々より三ヶ村一同に入會山に入り来たり候えば、年々新鍬六枚、多葉粉(たばこ)三斤ずつ差し送り申し候、則ち先方の請取、書付に所持仕り罷り来り候、もっとも両薮田村へ、御上様より下し置かれ候御書付は当村の義は御座なく候に付、よんどころなく出訴の義、差し出し申し上げず候、右の通り申し上げ候、以上
 享和弐年戌六月
                    五十海村
                        庄ヤ   四郎兵衛㊞
                        同断   平吉  ㊞
                        年寄   平蔵  ㊞
                        同断   十蔵  ㊞
                        百姓代  仁平  ㊞
  田中御役所

※ 山論(さんろん)- 山野の境界・利用をめぐる村落間の争論。江戸時代に頻発し、耕地開発の進展による、山野を供給源とする刈り敷き・秣(まぐさ)などの肥料の不足から生じる場合が多い。
※もや-たきぎ。


問題になっている山は、葉梨谷西方村、北方村両郷の山である。入会山として入らせてもらっているのは、上薮田村、下薮田村、五十海村、三ヶ村である。田中御役所(御上様)がこの出入を取り扱っている。この文書は五十海村が御役所へ出訴しない理由を説明した文書である。

事件の推移を追うと。
1.事の起こりは、山の持ち主の西方村、北方村両郷から、上薮田村、下薮田村、五十海村三ヶ村に対して、山論により御願いの文書がもたらされた。
2.三ヶ村は両郷に返答書を出した。具体的な内容はこの文書では判らないので歯痒い。
3.両郷から再び返答書が出された。三ヶ村の内、五十海村とは、相対で薪取りについて約定の書付があるから、問題にしていないのに、右三ヶ村一同の返答書となっているのはどういうわけかと聞いている。
4.元々三ヶ村一同で入会山に入っていたので返答書に加わったが、五十海村は、年々新鍬六枚、たばこ三斤ずつ差し送って、請取ももらっている。御役所から来た書類には両薮田村だけで、五十海村はなかったから、出訴はしない。

このように、村の立場を理解して読まないと文書の正しい理解が出来ない。
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