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「駿河百地蔵巡り」の次に歩くイベントは?

(裏の甘夏が実る - 但し収穫にはまだ3ヶ月以上かかる)

先程、お風呂の前に体重を量ったら、71キロを示していた。これは自分の許容体重のリミットである。お遍路から帰ってきたときは62キロだったから、減らす努力をしなければ、恐ろしいことになる。地蔵巡りはあと一度を残して止まっている。一番遠い沼津・三島が残って、寒いことを理由に、何となくぐずぐずと出かけないで、1ヶ月経ってしまった。年が明けてからは、ムサシの散歩以外にほとんど歩いていない。この後、スギ花粉が飛ぶ季節に入るから、行動がさらに鈍る。困ったことである。

同じ道を毎日歩く散歩は、自分の嗜好に合わない。毎回、違うコースを目標をもって歩きたい。一日歩いて20キロほど歩くことを、週一回くらいで続けたい。だから、次々に歩く目標を考えなければならない。そこで次なるイベントであるが、駿河を歩いたから、ターゲットは遠江になる。

最初に思い浮かぶのは塩の道である。2年前の11月に相良から歩き始めて、初回、20キロ、小笠まで歩いた。その第1回を歩いたきりで、そのままになっている。この続きを歩くならば、資料はあるから、すぐにでも可能である。長野県の県境辺りまで、10回、10日くらいは掛るだろう。

次に浮ぶのは、遠江三十三観音と、遠州三十三観音をまとめて回るというアイディアである。遠江三十三観音はその昔仲間4人で10日掛って歩いた。それに遠州三十三観音を組み合わせて、合計六十六ヶ所、これは20回ほど掛るかもしれない。コース取りをどのようにするか、その辺りに妙がある。これもほぼ霊場の所在は分かっている。

三つ目は遠州の地蔵巡りである。駿河百地蔵の遠州版であるが、これは適当な資料がない。調査にしばらく時間がかかるだろう。地蔵信仰は駿河では府中を中心に、鎌倉時代以降、大変盛んであったから、たくさんの歴史ある地蔵尊が残っていた。遠州では駿河ほどの広がりはなさそうに感じる。

四つ目、遠州は秋葉山の地元で、秋葉信仰が盛んであった。街道筋には秋葉灯籠がたくさん立てられ、石の灯籠に立派な屋根を付けた祠をよく見かける。自分の住む町にも秋葉山を祀ったお堂がある。これをつぶさに調べて廻れば、歩く距離がどれくらいになるのか、想像もつかないけれども、分かってくるものがあるかもしれない。これも取っ掛かりをどうするのか、事前の調査が必要になるだろう。

この4案の中で、手っ取り早くは、塩の道の続きを小笠から歩くことだろう。一方で、やはり、スギ花粉の時期は避けたいなどと考えている。
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K山の会OB会の夜

(K山の会OB会)

今夜、K山の会OB会が金谷の富士屋であった。会社が金谷にあった頃、富士屋のカツ丼と春駒の鉄火丼は残業時の夕食の2大アイテムであった。高度成長期、毎日毎日9時まで残業が続いた。夕食は、一日置きに、カツ丼と鉄火丼が交互に出された。カツ丼と鉄火丼の味のベースは、自分の中では今でもその味になっている。中でもカツ丼の濃い味は、疲れた身体には美味しく感じられたものである。その後、春駒は店じまいして無くなったが、富士屋は若い人に引き継がれて、今でも続いている。昔のカツ丼の味が守られているのかどうかは知らないが、懐かしい店が今夜の会場となった。

出席は10人、出席の返事は12人だったが、頼んだ人数は10人ぶんで、結果、その席がぴったり埋った。何だか変だが、結果オーライである。言い出しっぺのMさんが忘れていて欠席となったのだから、このいい加減さは、山の会の伝統なのだろう。

長老のK翁は87歳、30年前、58歳の誕生日を愛鷹連峰の位牌岳で迎えた頃と、ほとんど変わらないと話す。位牌岳山頂で、敬虔なクリスチャンであるK翁に、お釈迦様の手振りをさせて、記念写真を撮った、あのめちゃぶりの誕生祝いを、今もって忘れない。

3人の年寄りを抱えて、介護で厳しい日々を、前向きに暮らしているA女史、小学校の教職に付いたばかりの娘がモンスターペアレントに潰され、鬱を発症、出勤できなくなったと話すO氏、結婚しない息子や娘を抱え、互いの息子と娘を見合いさせようと企む、MI女史とMO女史。すでに子供たちも巣立って、夫婦2人の生活になり始めている。犬や猫のペットがいなければ、夫婦に一日会話がないと話す。それぞれの人生も、日本の社会の現実とは無関係ではあり得ないようだ。若いと思っていた仲間も、もう50代半ばで、定年が近づいている。何の障りも無く、山登りに興じていた昔が懐かしく思い出される訳である。

山の会の活動ではなかったが、遠江三十三観音巡礼や、東海道二十二宿歩きなど、自分が音頭をとって平地歩きをしていた仲間、S氏、W氏、U氏、K氏のうち、W氏とK氏はすでに鬼籍に入り、S氏も車椅子生活になってしまった。無事なのはU氏と自分だけである。一寸先は闇、人生をどこで終えることになっても不思議ではない年齢になってきた。それぞれ健康に留意して、来年また会うことを約してお開きにした。

昼間の方が出易いという、皆んなの意見を入れて、次回は来年11月23日(土)午前11時より、昼食時に、富士屋にて、会費4000円で、山の会OB会を行うことを約して別れた。今日の残金1200円は次回に回すべく、次回幹事の自分が預った。
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もう少し距離を伸ばして

(水路橋から大井川本流)

昨日に続いて、お天気が良くて、1時間ほど早く家を出て歩く。今日のコースはおよそ考えて出た。横岡の水路橋を渡って新東名のところから柏原へ登り、千葉山のハイキングコースを歩こうと思った。

新東名の工事が最終段階で、五和バイパスから新東名に入るあたりの舗装工事をしていた。開通が4月14日で、もう1ヶ月もない。工事の終わった右側の歩道を遠慮しながら通った。水路橋から大井川上流方面を眺める。今年は雨が多くて、山では雪が多いのだろう。大井川の水量が例年に比べて多い。流れが川に拡がっている。河川敷の柳の森が芽吹き始めたようで、黄緑に変ってきている。

柏原を眼前にして、最短に登る方法はないかと、おばあさんに聞いた。昔は小学校の遠足で柏原に登ったもので、道はあったのだけれども、最近は使わないから。登り口はどこかと聞くと、見えているあの角に登り口があるという。その場所へ行ってみると登り口こそ細い段が造ってあるが、すぐに笹の中に山道は消えていた。あきらめて、下流へ回り込み、新東名の高架橋下の勝手を知った赤松地蔵尊の参道を登る。地蔵尊の境内で一息吐いて、登り始めたが腹の調子が宜しくなく、花摘みに薮の中に入った。

腹はすっきりしたが、久し振りの山登りに、身体が言う事を聞かない。休み休み登ってゆくと、早くも下ってくる男性がいた。ドウダンはまだ咲いていないかと聞く。男性は怪訝な顔をして、まだ咲いていないと答えた。通り過ぎてから気がついた。アセビとドウダンを間違えていた。我が家のアセビが咲いているのを見ていて、そんな質問をしてしまった。我が家のドウダンはまだ芽が堅く、ドウダン原のドウダンでは、咲くのは五月になるだろう。聞くのが二タ月も早かった。怪訝な顔をするわけである。


(尾根上の池-舟形地形)

柏原から千葉山ハイキングコースに入る。このコースは高低差も少なくて、快適な尾根歩きができる。しかし、体力は落ちているから、若い時に楽々歩いた尾根が、こんなに長かったかと思う。広い尾根に舟形地形(窪地)があって、細長い池のようになっていた。本来、尾根上に水が溜まることはないはずだが、雨が多いときには池になる。


(花はまだきのどうだん原)

伊太丁仏参道が合流して間もなく、ドウダン原に入った。年々ドウダンを増やして他の木を伐採するから、ドウダンの原が年々拡がっている。花は早いけれども、お天気がよく、旗日でもあって、10人ほどのハイカーが寛いでいた。

すでにお昼を回っていた。食事を持たないので、先を急いでドウダン荘まで来たが、閉まっていた。自販機で甘いココアを買い、腹の足しにした。千葉山に登るのはパスして、まずは腹ごしらえに智満寺下の茶店に寄った。パンを二つが昼食代わりになった。

尾川丁仏参道を下って、その勢いで島田駅まで歩いてしまおうと思った。尾川丁仏参道は軽なら通れる位に道を広げている。下りの途中で左の腿の付け根の筋が痛くなってきた。何とか下ったが、酷くしては困るので、家へ電話し休みの息子に、パイパスの野田インターまで迎えを頼んだ。

万歩計は29,081歩であった。平地なら18キロから20キロ位歩いた見当になろうか。時間が6時間ほど歩いた。二日目としては少し無理をした。足を痛めては訓練にならない。
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それでも少しは歩いて置こう

(大井川、大代川合流地点)

よく晴れた。女房は名古屋のかなくんの家へ出掛けて不在である。お遍路に備えて少しは歩いておこうと思い、10時半ごろ出掛けた。久し振りに日限地蔵尊にお参りしてから、南へ向かう。

歩いている道は左側が旧第一製薬、今は名前が変って何と呼ぶのだろう、その広い敷地である。右側に小河川があって川の向うを大井川鉄道が通っていて、川と線路を仕切る土手に、ヒカンザクラが散り始めていた。川面に花筏をたくさん作っている。散った花が川面を緩やかに流れる間に、花びらが幾重にも連なって、いかだのようになり、停滞したり流れたり、日本人はそれを花筏と呼んだ。昔の日本人の感性には驚嘆させられる。生活排水が入って汚れた川でも、花筏と呼べば人は美しい流れを思い浮かべる。言葉の不思議である。


(川沿いのヒカンザクラ)

舗装道路が終わって、田圃との間の土手になる。さらにその土手も数本のヒカンザクラの木を最後に行き止まりになり、脇の舗装道路に避けた。旧国道1号線に出ると、この河川の改修中であった。水の通りを良くする改修だと看板があった。さらに川の右岸を行くと、旧東海道の八軒屋橋に至った。その直前で二つの小河川が合流し、少し太くなる。昔は大井川の川越しで金谷側に渡ると最初にある小河川で、板橋がかかっていた。この橋が金谷宿の入り口で、桝形の代わりを果していた。

川越し人足の控え宿や、「歳代記」の筆者、松浦幸蔵さんの勤めていた川会所などはこのすぐ先にあった。島田側には遺跡がしっかり残っているが、金谷側には何も残っていない。最近、通りの民家に「一番宿」などの看板が出来て、あった位置を表示してある。

川沿いにまだつぼみの桜並木を下ると水神社がある。小河川に沿って下れば大代川に合流し、さらに先で大井川と合流する地点があるから、そこまで行ってみようと、ようやく本日の目標が決まった。


(突然、道をふさぐ引込み線)

川沿いが歩けなくなり、迷いながら住宅地を行くと、突然に線路の土手が行く手を塞いだ。鉄路に音が伝わり間もなく機関車がゆっくりとやってきた。鉄道員が二人機関車の外枠に乗っている。大井川鉄道とは方向違いのところである。帰宅後調べると、大井川脇の製材所への引込み線のようであった。

貯木場の中で迷って、結局大井川の土手の手前にある舗装道路に出る。前方にクリーンセンターが見えてきた。金谷の汚水処理場である。大代川が大井川と合流する三角地、金谷の最も南の外れで、ここしかない立地の場所である。クリーンセンターを突っ切って河原に出た、JR東海道線の鉄橋の下がその合流地点だった。


(合流地点はJR東海道線鉄橋下)

最近は雨が多くて、大井川、大代川ともに水量が多く、水質は良いように見えた。ただ、金谷は下水道の普及率が低いので、水質が良くなったとはとても言い難い。この辺りで大きな鯰が釣れるけれども、とても食べれたものではないと、誰かが話していた。

本日は万歩計を持たずに出たが、歩行時間約2時間半、10キロ少々の歩きだった。足にそれほど疲れは感じなかった。
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竜頭山登山のことなど

(沢野ひとし著「山の帰り道」)

沢野ひとし著「山の帰り道」を読んだ。久し振りの山行の本と思って読み始めたけれども、山行の話はわずかで、山男も歳を重ねて、無理が利かなくなり、昔話を肴に街で飲んだくれているといったイメージの本であった。

かっては若者たちが青春を掛けた山が、いつか中高年の山となり、いまや山は老人たちの山になったという。若者たちは生活でギリギリの収入の上に、ゲーム、ケイタイ、アイパッドなどにお金が消えていく。かくして、アウトドアに出かける暇も金も無いということになる。

それよりも、汗を流し身体をいじめて山へのぼるなど、面倒くさくて、若者たちの念頭に上がることも無いのであろう。今やスキー場すら閑古鳥が鳴いていると聞く。

自分が登山を止めたのは、15年ほど前である。職場の山の会の仲間と北八ヶ岳の縦走の途中、体調を崩して途中で下山したことがきっかけであった。体調を崩したことよりも、気持が萎えてしまったことがショックであった。仲間たちへは縦走を続けてくれるように話したが、皆んな一緒に下山してしまった。

縦走を続けてくれていれば、自分も登山を止めると決めることは無かったかもしれない。自分のために、登山を途中で中止させてしまったことがショックであった。止めなければ、また迷惑を掛けかねないと思った。潮時であったのだろう。

最近、登山に燃えている後輩のH氏と話す機会があった。この冬、天竜の竜頭山へ登ったと聞いた。雪が多くて途中で下山して来たという。昔、自分が登ったのは秋だったが、天竜美林の材木を下す「木馬道」を登ったと話した。登山道が違ったのか、「木馬道」は見なかったようであった。
※ 木馬道-日本の林業において、かつて用いられていた木材搬出路のこと。馬が牽いた、そり状の「木馬(きうま)」を滑走させるために、木を横に敷き並べた。

夏には北岳に登ったとの話も聞いた。その他話題に出てくる山のいずれも、自分は登っていて話を合わすことが出来る。20年位の山歴であるが、けっこう登っている。最も夏山のノーマルな登山道に限るのであるが。

中国地方によい山が無いかと聞かれ、中国地方なら大山(だいせん)だろうと話す。大山には帰郷したおり、甥っ子たちと登ったことがある。仲間の一人が鹿児島から来るので、時にはこちらから出て行き、中間で落ち合うのもよいかと考えていると言う。それなら四国の石鎚山はどうだろう。標高は2000メートル弱だが、かつては修験者の山で、なかなか味わいがある。

石鎚山にはこの春のお遍路の途中で登頂を目指そうと計画している。
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第4回ほほえみウォークに参加

(新東名の上を歩く)

第4回ほほえみウォークに参加した。新東名の大井川橋を歩いて渡る、最初で最後のチャンスで、是非とも参加して見たかった。来年開通してしまえば歩いて渡ることは叶わない。天気予報は、午前中は天気が持つが午後は雨になると報じていた。新東名の大井川橋を渡り、対岸を遡って水路橋を渡って戻ってくる、およそ9.6キロのウォークである。

集合場所の金谷北交流センターへ行くと、大変な人出であった。あとで知ったが、600人を越す参加者で、主催者の予想を遥かに上回るものであったという。新東名を歩けるというのが、参加者の琴線に響いたのであろうか。10時に先頭が出発した。

横岡インターチェンジから入ったが、ランプウェイではなくて、管理棟へ入る道のようで、料金所の内側へ通じている。料金所は建設中であった。上り車線が幅が30メートルもあろうか。3車線プラス緊急車両が通る部分が出来るらしい。舗装は仕上がっていると思ったが、聞けばこの上にさらに数センチの仕上げ舗装が乗るらしい。今は障害物が何もなくて、小型飛行機なら十分降りられそうなほど広い。その上を600人の参加者が帯になって自由に歩いている。


(防音壁を通して見る大井川 -
透けた山と映った山が重なる)

透明な防音壁が橋の上には無い。仮設の頼りない手すりがあったが、工事事務所の係員が付いていて、橋の端へより過ぎないように、手すりに手を掛けないようにと、注意を呼びかけていた。水面までは30メートルあるからと、危険を呼びかけている。参加者に子供も多いので、かなり気を使っている。高所恐怖症には関係の無い話である。

自分はお遍路の訓練を兼ねていたから、新東名を降りてから、スピードを上げた。前を行く人を次々に抜いて、先頭の小旗の直ぐ後ろまで追いついた。神座にある、島田市北部ふれあいセンターには先頭で着いて、混み合わない内にトイレを借りた。


(振る舞われた島田汁 - 食べかけで失礼)

そこで昼食となったが、何しろ600人の人である。駐車場にブルーシートを敷いてくれたが、とても間に合わない。島田汁という、豚汁から豚肉を抜いた、島田産の野菜がたっぷり入った味噌仕立ての汁が皆んなに振る舞われた。皆さんにたっぷりありますなどと言っていたが、次々にやってくる参加者が行列を作るうちに、途中で用意した分が終ってしまった。

小川の土手で、我が家製の握り飯を食べ終わり、遅れて着いた参加者に場所を譲った。ふれあいセンター内を見学したりしてみたが、時間を持て余す。子供連れのグループなどがまだまだ遅れて着く。あとでゲームなどをやるらしいが、天候も気になってきた。せっかちなグループが帰途につき始めた。そうなると次々に続くグループが出てきた。ここからの帰路はよく判っている道である。主催者側からも、特に足止めも無いようだったので、自分もその列に加わった。

水路橋を渡って出発点まで3.6キロ、早足で歩く訓練と思って歩き、次々に前を行く人を追い越して、交流センターへは先頭で到着した。雨が降り出したのは、家へ帰って1時間後くらいで、最後になった人たちは少し雨に降られたかもしれない。
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諏訪原城跡、薬医門跡 - 新超散歩 3


(四郡橋の郡標石)

(続き)
小夜の中山から急坂を下って、島田市菊川の集落に出た。集落の入口に橋が架かり、四郡(よごおり)橋と呼ばれている。角柱の郡標石があった。最近のものである。4面に、榛原郡、山名郡、佐墅(野)郡、城東郡と刻んである。そのうち現在残っている郡は榛原郡だけである。1896年4月1日付で、山名郡は豊田郡と合併して磐田郡に、佐野郡と城東郡は合併して小笠郡になり、それぞれ消滅している。古文書を読んでいると旧郡名が頻繁に出てくるので、無視は出来ない。ここで4つの郡が接しているというのである。しかし、現在の地図からは想像が出来ない。


(薬医門礎石)

菊川の集落から、旧東海道の石畳、菊坂をゆっくりゆっくり登った。大きい石を選びながら足を運ぶと、それほど苦も無く登れる。上りきったところから車道を横切ると、諏訪原城跡に至る。先週土曜日の講演会で薬医門跡が発掘されたと聞いた。それを見学したいと思った。薬医門跡は北馬出にあるから、北へ回っていく。途中までは見学順路を行くが、それから横道へ逸れて中馬出の空堀の外周に沿って、諏訪原城跡の最北部に出た。それより向うは大きく崖で落ちている。この小広場が北馬出で、その入り口に薬医門跡の礎石があった。

門そのものが2メートル角しかない。人が何とかと直立して通れる程度の門である。礎石も一人で抱え上げられそうな大きさである。戸当り石はもっと小さい。よくぞ、こんなものが間違わずに発見できたと感心した。この門なら、復元にもお金は掛からない。しかし、そんな小さな門を復元しても、往時の諏訪原城を創造できるわけでもなし、意義のあるものなのだろうか。


(空堀に挟まれた土橋)

二の曲輪前の空堀と中馬出前の空堀に挟まれた土橋を通る。確かにここを一列に通るならば二の曲輪から空堀越しに弓を射られて逃げ場がない。さらに土橋を渡って二の曲輪に進んだ。復元するならば、崩れかかった土橋を治したり、かつては築かれていた土塀や土塁も復元して、その場に立って、敵兵の気持になって歩いて見て、城攻めがいかに難しいか、実感できるところまで復元して欲しいものである。多くの城跡を見ることがあるが、廃墟を見てもなかなかイメージが湧かない。

近在の農家の人が三人、二の曲輪の草刈作業をやっていた。休憩中だったので話しかけてみた。ここは前は全面茶畑だったんですか。昔は機械を入れてないから、昔の地形がその儘に残っている、深く耕していないから、遺物も残っているらしいけれども、発掘して色々出てきたとは聞いていない。今、北馬出の薬医門を見てきたが、礎石が残っていました、現在は発掘はしていないんですか。草刈を頼まれたから、これからするのだろう。諏訪原城跡は近代的な城の初期の形を良く残している城跡として、日本でも有名な城跡らしいですよ。そんなかね、我々にはさっぱりわからない。

自宅までは西原を縦断して、番生寺へ下ろうと思った。西原もほとんど全域が茶畑である。ここには数年前熊が出没したことがあって、あちこちに「熊出没注意」の島田市役所の看板が出ていて物々しい。幼木園の周りをネットで囲っている男性がいた。今日はあついねえ、少し動くと汗が出る、と声を掛けられた。この当りには熊が今でも出ますか、と聞く。熊は見ないけれども、猪とカモシカにはしょっちゅう出くわす、このネットも猪やカモシカ除けだよ。猪やカモシカは茶の樹を食べますか。食べないけれど、猪は土を掘って地中の昆虫類を食べるから茶畑がめちゃくちゃになる。特に幼木園は大変だ。カモシカも茶畑を突っ切って来られると酷いことになる。

林の中を番生寺に下った。薄暗いところも有り、熊が出るとどう逃げるか、などと少し緊張した。自宅には3時45分に着いた。今日の歩数は32,386歩、6時間弱で、距離は23kmほどであろうか。ややくたびれた。帰ってからムサシの散歩、約2kmが加わり、一日では25km歩いた勘定になる。
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火剣山から小夜の中山 - 新超散歩 3

(火剣山社殿への石段)

(昨日の続き)
火剣山へは何度か来たことがある。282メートルの山頂表示が峠にあったが、最も高いのは火剣坊大権現の社殿のあるところであろう。駐車場からの登りは久し振りの山登りで、鈍った身体に応えた。社殿への最後の石段も一息には登れなかった。

火剣坊大権現は、案内板によると、1300余年前、行基菩薩が東海道を通られた際に、飛田(富田)の里に至り、遥か山頂に鬱蒼と茂る神木に霊気を感じられ、直ちに山頂に上り小庵を結ばれた。そして秋葉三尺坊と同一の木で尊像を刻し、開眼供養された。その後、火災消除、罹病退散の神として尊宗された。遠州七坊の一つに数えられる。

行基菩薩の開基になる社寺は全国にたくさんある。縁起の中に行基菩薩の名前を見つけるたびに、人の一生でそれらすべての開基に関与するのはとても無理ではないかと、穿った見方をしてしまう。中にはその弟子たちが高名な行基菩薩の名前で開基した社寺も少なくなかったのではないかと思う。


(火剣山ハイキングコース)

うす曇りの中で、眼下に南遠州の山々が広がっている。この辺りでは最も高い山なのだろう。小夜の中山へは社殿左側にある山道をとる。良く整備されたハイキングコースをしばらく下っていくと広い車道に出て、小夜の中山へはもう1キロもない。

小夜の中山公園の東側を通って、旧東海道に出たところが、茶店、扇屋であった。ベンチに座って話すおじさん二人に、自販機がないかと聞いた。内一人が欲しいものがあればどうぞと半分開けた店に導く。目に付いたラムネ150円を買った。

このおじさんを良く知っていた。中山のお茶工場の方ですね。そうだよ、あなたも知っているよ。仕事で何度か訪問したことがある。もう毎日が日曜日になったので、たしかこのお店をされているのでしたね。土日と祝日は店を開いている、今日はたまたま用があって。今時のラムネは開け方が判らずにいると教えてくれた。

お茶も安くなって、儲からなくなって大変ですね。だから機械も新しいものはなかなか買えない。だから会社も今は大変です、そういえば扇屋の名物おばあさんが亡くなってから、もう何年になりますか。8年になる、104歳で亡くなったのだけれども、102歳までこの店を一人で切り盛りしていた。それはすごい、今は歩く人は多いですか。そこそこいるよ、でも歩く人は荷物になるので、お土産は余り買ってくれないな。そうか、歩く人は飲み食いしてしまうものだけですね。ベンチから立ち上がって別れを告げると、おじさんも半分開けてあった店を閉めるらしく立ち上がった。(続く)
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菊川駅から自宅へ - 新超散歩 3

(傾斜のゆるいピラミダルな火剣山)

朝の空は曇っていたけれども、青空も見えて天気予報でも雨はなさそうで、超散歩日和とばかりに、朝9時半頃、家を出掛けた。菊川まで電車に乗って、家まで歩けば20kmぐらいにはなるであろうと思った。歩き出してから、菊川駅から戻ってくるなら、火剣山を越えて、小夜の中山から帰りには諏訪原城の薬医門跡を見てくると、頭の中におよそのコースが描けた。火剣、小夜の中山、諏訪原城と山を三つ越して帰って来るから、同じ20kmといってもかなりハードになる。3回目としては少し厳しいかもしれないと思いながら、金谷駅まで3.5kmを歩いた。

今日は何人の人と言葉を交わすことになるか、それを楽しみにしようと思った。

最初に、大代川の土手に出たところで、土手の草を刈る、ご近所のMさんに出会った。御精が出ます、と声をかけると、どこかへ行くかね、少し歩きに行こうと思って。自分の歩きの趣味はご近所の一部の人には知れているが、Mさんが知っていたかどうか。暇人だなあと思われたかもしれない。

今朝は不思議と行く先々で信号が青になり、ほとんど立ち止まることも無く駅まで着いた。電車がこれまた3分待ちでホームへ出るとすぐにやってきた。結果、10時半には菊川駅頭を歩き始めた。

駅前の地図で確かめると、火剣山は東富田の集落から登って行くようであった。駅頭から東へ向かって2キロメートルほど歩き、JR東海道線のガードを潜って、菊川カントリークラブの方へ進み、その東側を北進する道を歩く。やがて、火剣山キャンプ場の看板が出てくるので、それに従い右折する。間もなく道路左側に火剣山参道の小さな道標がある。そこで左手の山道に入る。車の通る道だけれども、先の台風15号の影響でかなり荒れて、倒木も多い林の中の道を登って行く。横道もいくつかあるけれども、主たる道を間違えないように、標識は無いから山歩きの勘が試される。

林から茶畑の広がる先に、傾斜のゆるいピラミダルな山が見えてきた。そこで待っていたように農作業をするおじさんに声を掛けられた。いかにも道案内をしたそうに見えた。火剣山はあれかとピラミダルな山を指差すと、そうだといい、茶畑の尾根伝いに進んで、あのガードレールのあるところを通って、その先に登り口の駐車場がある。遠くに見えたので、ここから山頂まで1時間ぐらいかかるだろうかと聞けば、そんなにはかからないという。田舎の人の時間はあてにならない。本当に徒歩での時間なのかどうか。しかし結果的には40分ほどで山頂まで行き着いた。(つづく)
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島田駅から自宅へ - 新超散歩 2

(正覚寺のクスノキ)

午後には雨になるかもしれないと、天気予報を聞いて、午前中に2回目の超散歩に出かけようと思った。今考えている超散歩の方法は、電車に乗って降り立った町から我が家へ向けて歩く、あるいは遠くの場合は何駅かを歩いて、また電車に乗って帰って来るというものである。前回は家から歩けるところまで歩いて、帰りは交通機関で帰るというものであったが、その逆にするわけである。同じコースであっても、逆に歩くと見える景色が違うはずである。

天候はうす曇り、少なくとも午前中は雨はない。9時半に家を出て、まずはJR金谷駅まで歩く。3.5キロを45分ほど掛かった。上り下りのうち、駅に着いて、早く来た電車にのることにした。駅に着くと15分ほど待ちで、上り電車が先であった。


(しずおか茶コーラ)

ホームに出て待つ間に、キヨスクで「しずおか茶コーラ」とネーミングされた飲料を見つけた。気になったものは買ってみようと、210円で購入した。興味津々で飲んでみた。色は深みどりのお茶の色、ちょっとクセのあるサイダーといった代物で、飲めないことはない。珍しさ、不思議、好奇心を飲む商品だろうと思った。炭酸飲料の中に緑茶と、ベニバナ、クチナシなどの色素が入っているようだ。島田市の木村飲料が製造販売している。まあ、金谷駅に降りたら、キオスクで買って試してみるのも面白い。

今日は一駅だけとして、島田駅で降りた。島田駅は駅舎が線路の上に新しく出来て、南口も新たに出来た。北口の広場も駅舎があった分だけ広くなり、きれいになった。

駅前の宗長庵跡の碑群を見てから、北へ向かって歩き始めた。最初に気になったのは、駅前のイチョウの巨木である。このイチョウは植え替えが行なわれたのだったかどうか、記憶があいまいである。すっぽりと網をかぶっているのは野鳥が夕刻集ってくるのを防ぐためだろう。ネットで絡め捕られたようで、イチョウがかわいそうな感じがした。その点、道の先に見えてきた、正覚寺境内に自由奔放に枝を伸ばすクスノキは幸せである。まだ青年の木で、幹に傷一つない。

大井神社に久し振りにお参りした。喪中で神社には行かないというが、日本の神様はそんなに心が狭くない。神官や巫女さんや神社の職員が広い境内の掃除をしていた。この週末は秋祭りがあるようだ。3年に1回大祭(帯祭り)があるが、今年は外れている。各町内の名前の入った幟旗が本殿前参道脇に林立していた。

プラザ・オオルリに立ち寄り、22日に上映される「まぼろしの邪馬台国」の前売券を2枚購入した。一人500円。市内の大井川鉄道や北河製品所がロケ地になり、エキストラが大量に動員されたという。

かなくんパパの在所のO氏が、自宅前の畑で農作業しているのを見つけ、御精がでます、と声を掛けて、しばらく立ち話をした。20坪足らずの畑を細かく畝分けして、色々な冬野菜が芽を出している。O氏は種を撒いて、間引いて育てるのではなくて、別の畝に植え替えて育てるのだという。何でもそんな風に育てられると聞いた。春菊の苗がポットに出来ているから、裏の畑に畝を作るように、もし日当たりが悪いのが気になるならば、プランターでも育てられるという。

帰りは国一バイパスの新大井川橋を渡って、日限地蔵尊にお参りして帰った。約3時間半、17,614歩、12kmほど歩いた勘定になる。
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