goo

大井河源紀行 25  3月22日 智者山

(庭のガクアジサイも咲きだした)

3月22日、旅に出て9日目である。藤泰さん一行は雨も止んで、八草の智者大権現の神主宅を出て、三たび、四辻に登る。

廿二日、雨霽(は)れて快晴なるまゝに、神主の宅を辰の下に立ち出る。時に主の物語に、余可が先祖、明暦中の頃の古墳あり。三十三年の年忌を弔い、供養木を建つ。この卒都婆に根を生じ、今は大木となり、かしこにありというによりて、そこに立ち寄り見るに、二抱ばかりのつがの木、枝葉繁茂して欝蜜たり。石碑を根の内に巻抱へたる、珍しき事にこそ。
※ 明暦年中 - 1655~1657年、この旅の年は1812年だから150年以上昔となる。三十三回忌の時に植えたというから、およそ120年前のツガの木ということになる。

今日は梅地に至るべしと、こゝより、きのう降りし坂に登り、道すがら、谷川の流れを臨めば、山葵(わさび)夥しく生い繁りたり。登り/\、かの四辻の岐路に出たり。右手折れて過ぎ行くに、東の方を臨めば、八草をはじめ、藁科奥の山里遥かに見ゆ。歌に、

    白雲の たえず棚引く 峰にたに 住めばすみぬる 世にこそありけれ

とは、かようのすがたを詠(えい)ぜしなるべし。その山のかいに富士の山は半ば見えたり。山中、ここにてはじめて見たりき。これまで凡そ四十町ばかりの上り坂なり。

※ かい(界)- 空間を分けた区切り。物事のさかい目。

こゝより篠原の細路に入りて、嶺つづき数十歩して、また坂にかゝる。左右萩、萱の野山を数百歩登り、嶺にいたり、木立の繁きに入らんとせしが、後の方をふりかえり見れば、山中より始めて、南海はるかに大井河の下流、海に注ぎ入るを見る。これ高山の巓(いただき)なる事知るべし。ここは智者山の北嶺にあたれり。

智者山には昔、千頭から登ったことがある。初冬のある日、葉が落ち切った落葉樹林の中は、日ざしが暖かく、自分の乾いた落葉を踏む音だけが聞こえていた。地上からはかすかに選挙カーの声が聞こえてきた。そんな情景が記憶に残っている。

林中、猿滑(さるすべり)、欄(あららぎ)、欅(けやき)、楓(かえで)、油樺(あぶらかんば)、椹(さはら)、栂(つが)、橅(ぶな)、唐檜(とうひ)、松、海棠(かいどう)の類い、何れも大木にして、深林幽暗、衆木翁欝として、更に四隅の眺望なし。老樹数囲み、所々に臥し倒れて、上に緑蘿莓苔を帯び、老葉地下に舗(しき)つみて、足心うごも(墳)てり。深林人跡絶えて、寂々寥々たり。
※ 衆木(しゅうぼく)- 多くの樹木。
※ 翁欝(蓊鬱、おううつ)- 草木が盛んに茂るさま。
※ 緑蘿(りょくら)- 青々とした、つたかずら。
※ 莓苔(ばいたい)- こけ。
※ 足心(そくしん)- 足の裏の中心。つちふまず。


折ふし、聞きつけぬ鳥の声あり。

    遠近の たつきも知らぬ 山中に おぼつかなくも 呼ぶ小鳥かな

と古今集の歌、思い出られて、心さびしく、そぞろに涙をぞ催しける。路次に深山芣苣(みやまおおばこ)とて毒草多く生えたり。

※ たつき(方便)- 事をなすためのよりどころ。たより。よるべ。

「聞きつけぬ鳥」とは何の鳥だろうと考えた。そして、「つき、ひ、ほし」と鳴く、サンコウチョウが相応しいと思った。ちなみに、サンコウチョウは靜岡県の県鳥である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 24  3月21日 八草

(ムサシの小屋を囲むハーブゼラニウム、
蚊を寄せ付けない防虫効果があるという、ムサシ用)

藤泰さん一行は智者大権現に参拝し、千手の古殿に雨宿りと午飯を弁じた後、尾根にある四つ辻まで戻り、智者大権現とは反対側、東側に下って、八草村でその日の宿を乞う。

こゝまでの深山幽谷の表現に、漢詩調の表現が多出している。昔の人は誰でも漢詩の素養があって、こんなに難解な文章でもすらすらと読めるのだろう、と思う一方、八さん、熊さんが読むような本、例えば膝栗毛などには、そんな難解な表現は出てこないから、この大井河源紀行は文人達の仲間内で読まれることしか期待していないものなのだろうと思ったりする。また、藤泰さんは今まで足を踏み入れた経験のない、深山幽谷の地に入り、思い浮かぶ言葉は漢詩などの表現のみで、やさしい日本語は思いつかなかったのだろうと、負け惜しみで想像する。

大井河源紀行の読み下しに戻るが、今日のところには難しい漢詩調の部分はない。

また湿衣を打ちかけて、花表もとに立ち出る。左の方は奥泉へ通う山路という。元のごとく、四辻に出ぬ。左は梅地道、右は洗沢道、中央道を降り、いとさかしき坂なり。これより二十余町ばかり降りる。漸く八草村に至る。この際、大霧に今更に四方もわかざりし。こゝに高橋志摩とて、智者の神主あり。この家に立ち入り、乞いて宿りぬ。主父子は柔和、徳実の人と見ゆ。
※ 花表(かひょう)- 鳥居

この八草の村は安倍郡藁科山の奥にて、村落は山の半腹に作り建てたり。一粒の稲もみの里なく、山圃の雑穀、茶圃の類いのみ。家員七軒あり。

夜話に智者権現の勧請の年を尋ねしに、未詳、されど、所祭の神は天神七代、地神五代の御神にて、一には十二社権現と申し奉る。御神躰は大破に及びたる
まゝ、かの神官の祖父、再建にて、神牌を作り、十二支を記して収めたるなり。古棟札、宮祠、寺堂共に、二十枚を存す。しかれども朽ち腐れ、煤(すゝ)しみて、文字分らず。内に文字処々彫り付けたる一枚あり。暦應五年を録せるあり。今年に至りて四百七十余年に及べり。実に古社なり。

※ 暦應五年 - 1342年、南北朝時代の北朝の年号

按に、総国風土記に、大野郷大野神社、大化三年丁未三月、所祭猿田彦命なり。神貢二十五束、大野岡神社の東に在り、仮の宮社と為す、と出たり。岡というは、風尾巒(かざんのおやま)を云うなるべし。大野峯というは、智者山のことなり。一に神戸山とも云う。大野郷は今の上藤川、岸、田代等一郷中なるべし。
※ 総国風土記 - 日本惣国風土記のこと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 23  3月21日 智者大権現

(アジサイ「隅田の花火」が咲き出した)

東海地方も昨日、梅雨入りした模様とのニュースがあって、今日はお昼頃より雨となり、夜になって雨音が聞こえるほどの降りになった。昨年より10日ほど早い梅雨入りである。思い返せば、昨年の今頃はお遍路の結願にあと数日というところであった。

次兄夫婦は、昨日東京より戻り、一晩泊って、今朝帰って行った。この年になって、一反近い畑を借りて、野菜作りに一生懸命で、出来た野菜は5人いる子供たちの家庭へ送るのが楽しみらしい。夕方三時頃から、夫婦で畑へ出て、暗くなる午後七時頃まで、農作業に勤しむと話していた。旅も畑が気になって、ゆっくりして居れないのか、慌ただしく帰って行った。

   *    *    *    *    *    *    *
   
藤泰さん一行も、梅雨にはまだ早いが、ここに来て雨に降られて、山道を苦労して歩いている。3月21日(旧暦)、出発から8日目、旅の半ばを過ぎたところである。宿泊した洗沢の舗舎は小楢安の焼畑から南へ下った所にあったから、北の智者山へは、下ってきた道を、小楢安まで登り返して、北へ進むことになる。

廿一日、今朝は雨少し晴れまなるに、いざや智者山に登りて権現を拝し奉らんとて、立ち出て、元の道、辻地蔵のもとにのぼり、二十歩ばかり過ぎて、奥泉の方への傍示を見て、右の方に分け入る。山荻原を打ち過ぎるに、雨頻りに降り出でぬ。木立あるは篠原の内を過ぎ行くに、この際は少しずつ昇り上り、降り下り、右に転じ、左に旋じて、数十町過ぐ。大雨盆を傾け、雲霧地に布(し)きて、咫尺(しせき)も更に分かたず、四方糢糊として、大湖を臨むが如し。

篠原の繁りたる、きわめて細き路次を、かき分け/\たどるにぞ。あまりに雨霧の強くて、面(おもて)も向きがたく、蓑笠もたまりあえず、膚(はだ)へもいたくうるおいて、辛苦堪えがたく、漸く四辻に出たり。これより左のかたに入ること数百歩して、横苅道のさゞれ岩の上を過ぎるに、泉の流れて幽渓に落ち注ぐ。ここに丸木の投げ渡しあり。この上を顛踣せんばかりして、ようやく渡りすまし、数十歩過ぎれば、杉の村立ちたる深林に入る。金剛力士の門あり。これ智者山の霊場なり。
※ 顛踣(てんぼく)- 転げ落ちる

(そもそも)山中の躰相を見るに、高頂岩嶢、老樹百圍、雲雱、常に木末に掛り、葱蘢森々然たり。地下茂草森布(りんぷ)し、緑苔滑なり。正面に千手薩陲(ぼさつ)の仏殿ふりたり。右手の高邱(たかおか)に智者大権現の宮祠あり。御広前に賽謁(さんけい)して後、千手の古殿に入りて、雨衣解きて、暫時雨やどりす。洪雨頻りて、扉外雲霧に咽(むせ)び、あたかも朧夜に異ならず。鬱々森々陰々然として、人倫通うべき巷とは、更におもわれず、所謂(いわゆる)崑崙山上、仙の幽栖の地にやと、あやしまる。時刻はわかたざれど、食籠(じきろう)を取り出し、午時の飯を弁ず。
※ 躰相(ていそう、体相)- ありさま。ようす。
※ 高頂岩嶢(以下下線部分)- 巨岩と立ち並ぶ大木に霧と雨が掛かって、恐ろしいような森のようす。
※ 雲雱(うんぽう)- 雲と霧。
※ 葱蘢(そうろう)- 青くしげるさま。
※ 森々(しんしん)- 樹木が高く生い茂っているさま。
※ 茂草(もそう)- 生い茂った草。
※ ふ(旧)りたり - 古くなっている。年をへて古びている。
※ 洪雨(ごうう)- 豪雨。大雨。


この辺りは表現が漢文調になって、理解が難しいけれども、雰囲気は分かる気がする。登山途中、大雨に遭ったことも何度かあるから、雨中の山道がどんな風になるか、想像できる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 22  3月20日 洗沢、大雨

(頂き物の、純白のデンドロビウム)

藤泰さん一行は、まだ小楢安峠の焼畑にいる。

さて、この峠より向いに聳えて高き嶺は智者山なり。彼(あ)とこなたの際の幽谷に、巒(こやま)あり。この山は智者権現の古宮地と伝へ、風尾山と呼ぶ。この幽谷は先に過ぎたる、あい沢真地橋の流れ、河内川の水源なり。智者嶺の左方に雲をしのぎて遥かに見ゆるは、遠江の国、朝日ヶ嶽、あるは後黒法師山、前黒法師山とて、千頭奥の山々なり。また智者嶽の右に見えたるは、梅地の七峯にこそ。
※ あるは(阿るは)- ある者は。ある場合は。

江戸時代の旅をみるに、山中の道から見える見晴らしが大変良いことに驚くことが多い。当時は今ほどに樹木が生長しておらず、その分、見晴らしが良かったのだろうと思う。建材、燃料など、山の樹木の利用価値は高く、伐採もされて、見晴らしも良かったのだと思う。戦後、国家事業で山々の植林を進め、樹木の利用価値が昔ほどでなくなり、伐採も停滞している結果、山道からの眺望はどんどん悪くなってきたのだと思う。

藤泰さん一行は、雨が降る出した中、道連れの兄と三人姉妹とは焼畑の小屋で別れて、洗沢目指して進む。

暫時のうち、俄然に黒雲立ち覆い、空かきくれて、霧起こり、雨降り出したるまゝ、守舎を暇(いとま)して立ち出で、洗沢の方へぞ急ぎける。されど嶮しき山路なれば、心はせけども足のはこびのはかどらず、杖にすがりて攀躋(よじのぼ)るゝに、右のかたの高峯は、上藤川と青部の入会にて、麓より七十余町の登りと聞く。洗沢へ通う際の山なり。笹間の無双嶺、本城山の嶺、皆な右に並びたり。連峰の嶮路、雲霧にむせぶばかり。

過ぎ行くに、深山躑躅だけ、一丈ばかりのもの数千株、今を盛りに紫花爛漫たり。あるは熊笹、篠竹、生い繁る間、過ぎるに、老鴬数声喈々たり。

※ 喈々(かいかい)- 鳥の穏やかに鳴く様子。

されど、往き逢うひとは、さらになく、ものかなしくたどり行くに、山風はげしく吹き渡りて、村雨降りかゝり、心ぼそくも打ち過ぎるほどに、

   山風に 吹き渡るかと きく程に 檜原に雨の かゝるなりけり

といえる古歌思い出られたり。この山路は檜原にはあらで、篠原なれば、小笹に雨のかゝるなりけりと、独言(ひとりごと)して打ち過ぎるに、路次の右に傍示あり。秋葉道、右千頭、小長井、左青部、掘之内と印しぬ。また半町ばかりを過ぎて、同じく傍示あり。右宇日之奥泉、左河根道と誌しぬ。また少し過ぎ行きしに、石地蔵あり。洗沢よりこの所に立てたり。こゝに暫時憩う。

※ 傍示(ぼうじ)- 傍示杭。地名・方角・里程などを書いて示した標柱。

霧深く掩(おお)いて、咫尺も分たずなりぬ。こゝを過ぎて下りに趣く。右に一つ家のあるあり。こは上藤川の地先にて、とち白と云う所なり。道の傍にさし出たる岩あり。この處、志太、安倍との郡境という。今過ぎ来れる嶺つゞきは、両郡の堺なるべし。
※ 咫尺(しせき)- 距離が非常に近いこと。短い。少し。簡単なこと。

こゝに至る時、雨頻りにて、つゞら折なる坂を疾(とう)に下りたるに、雨は下より吹き揚げたり。一家の後ろに下りぬ。こゝなん、藁科奥の杉尾の枝郷、洗沢なり。この家は梅地あるは奥泉、藤川、青部、堀之内等の村里へ、国府よりここまで米穀類負いのぼせ、また山中より、茶、椎茸その他の産物、何によらず負ひて、この処に出、ともにこゝの舗舎(みせや)にて荷を引替えて、おのがさまざまに、里人等は我郷に立ち帰るなり。
※おのが(己が)- 自分自身の。各自の。

この舗舎に申し乞いて、一夜を明す。宵のほどは炉辺に居て、湿衣を干し乾かしながら、主人に志太、安倍の郡境を尋ぬるに、主の答え、古(いにしえ)より、この処の郡境は、朝日のあたれる方を安倍郡とし、夕日のあたれる方を志太郡と定むといえり。いかにも道理ある申し伝え、誠に古語の残りたるかな。これの嶺通りこそ、如何にも界なるべし。

郡境を主に聞いたところ、南北に伸びる尾根が郡境だと説明するのに、「朝日のあたれる方を安倍郡、夕日のあたれる方を志太郡」という表現は大変に面白い。

臥戸に入れば、雨はます/\降り頻きる。終日の登りに痛く草臥れ、夕しの白浪にさまたげられて、睡らざりしゆえ、草の枕もにくからで、心よくにぞ寝ける。
※ 臥戸(ふしど、臥所)- 夜寝る所。寝所。寝床。

藤泰さん一行の旅は、今まで天候に恵まれて、この日初めて、雨らしい雨に降り込められた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再開した「街の電気屋ブログ」

(街の電気屋さんの記念品、カプチーノケーキ)

昨日の昼過ぎ、故郷の次兄夫婦がマイカーをとばして来静した。お袋の一周忌が済んで、実家もようやく落ち着きを取り戻したようで、ようやく二人して、自宅を気にせずに旅が出来るようになった。今回は我が家に一晩泊まって、今日は東京の三男の家へ行った。孫の顔を見て、東京スカイツリーに上り、明日はもう一度我が家に一泊する予定である。

積る話といっても、兄弟間では案外なくて、お互いに顔を見ることで満足してしまう。自分はもっぱら兄嫁さんに、興味があるのか無いのかは別にして、古文書の勉強の話を熱心にしていた。

かつて、次兄は、自分が勧めたこともあって、しばらく「豊文堂日録」というブログを書いていた。一生懸命書きすぎたことと、身辺が多忙になって、中断していた。もう何年か経つ。年齢も70歳を越え、時間的余裕もできたのだろう。再開したいから、チェックして欲しいというので、今でも問題なく続けることが出来ることを確認した。

そんな話の中で、電気屋さんがブログを再開しているという、情報を得た。故郷の町で頑張っている、次兄の知り合いの電気屋さんが「街の電気屋ブログ」というブログを毎日書いていた。ところが、昨年の2月20日、突然に「ブログの投稿を終了いたします」の言葉を残して、ブログの投稿を止めてしまった。何があったのか心配しながら、覗きに行くことも絶えていた。それが、再開したというのである。早速、開いてみると、一段とパワーアップした言葉が、洪水のように画面に踊っていた。

次兄に聞くと、身内の不幸があって、書く気をなくしていたらしい。それから7ヵ月後の9月15日から、いきなりトップギアで再開された。自分は次兄に言われるまで、全く気付かないでいた。

最新の5月25日、26日の書き込みでは、夏の大感謝セールの話題で、小さな店舗に、70世帯ものお客さんが押し寄せて、不況といわれる家電業界にあって、耐久財である商品が飛ぶように売れてゆく。アベノミクス効果もあるのだろうが、電気屋さんの日々のたゆまぬ努力が、一斉に開花したのだと思う。

次兄の話では、家電量販店もたくさんある中で、量販店もたじたじだという。ブログを読んでいるだけで、自分の顔もほころんでくる。元気がもらえるブログとして、勝手に自分のブログにブックマークをさせていただいた。

こちらに来る前に店に寄ったとかで、記念品に頂いたカプチーノケーキが、遠路はるばる我が家に到来した。あす次兄が東京から戻ってきたら、皆んなで頂こうと思っている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 21  3月20日 洗沢に至る山路、焼畑

(散歩道の道端に植えられたヤマアジサイ)

藤泰さん一行は女子達とその兄を道連れに加えて山路を進む。

左の方に平栗へ上る鳥道あり。橋本よりなお数町攀躋すれば、路傍の左手に奇樹あり。元木一圍(ひとかかえ)ばかりにして、二丈ばかり上より、枝四方に垂れ下がりて、地下にいり、根を生じ、枝また元木となりて、枝葉繁茂せり。これはそもいかなる木ぞ。一枝手折りて、家土産にし、人にも見せばやと、立ち寄りけるに、つれの丁荘、さし留めていうは、神木なり、いろうべからず。この枝手折らば、瘧疾を煩らい給うなりという。いかなる木にやと問わば、そよの木と云うなり。山中同じ木多くあれど、かように異なるは、この樹にかぎれり。葉は椿の葉より小なる形にて、立冬の頃、赤き実を結ぶという。
※ 鳥道(ちょうどう)- 鳥しか通わないような険しい山道。
※ 攀躋(はんせい)- よじ登ること。
※ 瘧疾(ぎゃくしつ)- 一定時間をおいて発熱し、寒けをおぼえる病気。おこり。わらわやみ。
※ そよの木 - そよご(冬青)。モチノキ科の常緑低木。山地に自生。葉は楕円形で堅い。雌雄異株で、6月ごろ白い花が咲く。実は丸く紅色に熟す。


宮崎の名樹「座論梅」に、同様の現象で、同心円状に梅の木が増えている所がある。

この辺、猿滑り、しで、小楢、多しも、林の中を過ぎて、高丘より後をふりかえし見るに、諸樹の梢の中に白妙に見ゆは、雪か白雲か、あれはいかにと、おのこに問わば、油かば(樺)というもの(木)なり。あるいは犬桜ともいえりと答えぬ。歌に、「深山木(みやまぎ)の その梢とは 見えざりき 桜は花に あらわれにけり」とは、如き様の姿にこそ。
※ 油樺(犬桜)- バラ科の落葉高木。山野に自生。樹皮は暗灰色でつやがあり、春、白い小花を密につけるが、見劣りするのでこの名がある。実は黄赤色から黒紫色に変わる。

油樺は、この春も、靜岡の城北公園でみた、ヒトツバダゴのことかと思ったが、同じように「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるらしいが、違う木であった。

道の辺、深山躑躅(みやまつつじ)多し。松樹は見えず。またこの辺、総て柏の樹無き山里にて、厚朴の樹の葉もり、五月五日に、かし葉餅の如く作るとなり。
※厚朴(ほうぼく)- ホオノキの別名。柏餅の柏の葉の代りに、ホオノキの葉を用いるのは、今でも行われているようだ。同様のものを食べたことがある。

漸く山中の半腹に至れば、番子の峠、行人坂臥度、という処あり。小楢安峠に至る。ここに日影と云う処に、焼畑をなして、これまで伴いし、女子、丁荘、山小家に行くとて、鹿垣のり越えて、内にいたり。我等も伴い、小屋に入る。休(いこ)いけり小家の躰相(たいそう)、弐間九尺ばかりに丸太以って掘立、萱、芒にて二方へ葺きおろし、土間に囲炉をかまえ、むしろを敷きぬ。女子ひとり、はるかの谷に下り、やゝして水を樽に入りて、背負いて登り、煙りくゆらし、煎茶して我等にすゝめけり。小家の内、あまりにせまく、外に出て食籠(じきろう)を出し、午飯を弁ず。女子等も午時飯たうべけるとて、口々に姦し。

丸太掘立の小屋は、今でも山中で見ることが出来る。もっとも今は屋根がトタン葺きで、山仕事の時に使うようである。

かのおのこに、山中の事業を尋ぬるに、答えて云う。すべてこの山中の者は、高山に圃(はた)を開き、黍、稗を樹藝するゆえ、秋の頃、成熟(みのり)の時は、間際(ひま)なく防諫(ふせぎ)せざれば、百日の骨折り、一夜に禽獣に食い尽くさる故に、今より種かしき秋に至れば、極老あるは廃疾の外は、皆山圃に至りて、あらかじめ茅を刈りて、かくの如き守舎(やまごや)を結び、舎前に木板を掛けておき、昼は女子、童子等をして、これを鳴らして、飛禽、猿、鹿をおどさしめ、丁荘は力を尽くして収蔵し、夜も松火を燈して檮簸し、丁荘は児に代わりて、木板を打ち、あるいは大音にて相呼び、禽獣の害を防ぐ故に、夜といえども睡る事を得ざれば、昼の疲れを療することあたわず。収蔵終りて後、男女はじめて我家へ帰るのみ。その労苦甚し。
※ 檮簸(とうは)- 脱穀調製。「簸(ひる)は、箕で穀物をあおって、くずを除き去ること。」

今も昔も、山中の生活の多くは、作物をはさんで鳥獣との闘いであるようだ。山中の生活が近代化して、闘いは漸く人に有利に展開していたが、近年の過疎化でパワーバランスが崩れてきた。

また山中焼畑耕作のありさまを聞くに、我が所持の山の草木を根伐り、火をかけて焼き、その灰を糞(こやし)に代(か)う。初年は蕎麦を蒔き、次年は粟、稗、その翌年は芋、小豆、胡麻、を種(う)ゆ。都合三年を歴れば、また他の山圃を開くなり。前に耕作せし処は荒し置きて、草木の生長を待って、再び開き発(おこし)となり。圃(はた)毎に、五六尺ばかりの折り木にて、垣を作りて柵とするなり。これ、野猪、鹿の害に備うなり。毎歳、三月のはじめより、火田(やきはた)し、十月苅り収めまでは、この山中に住せり。四月の茶摘みの盛りに、里に下れるばかりとかたれり。
※ 荏(えごま)- シソ科の一年草。花は白色。種子をしぼって、えの油をとり、またゴマの代用にもする。東南アジアの原産で、古くから栽培。

短い文章ながら、焼畑農業の実態を的確に聞き取っている。

小長井よりは、この小楢安嶺までは道程四五十町もありなん。かゝる山嶺寂寞無人の境に、年の半ば住めること、山中の習いとはいえど、さるにても、あわれなる事にこそ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 20  3月20日 洗沢に至る山路、道連れ

(道端のヒペリカム・ヒドコート)

藤泰さん一行は昨夜の盗人の恐怖に、今頃になって襲われて、びくびくしながら出立した。何しろ、今日は目的地の洗沢まで、人家が一軒もない山道である。その恐ろしさを繕うことなく記していて、面白い。読み下し文を示す。

廿日、朝は飯したゝめつゝ、主に暇して立ち出で、化成院の左の方より山路に分け入りたるが、夜前の白浪に心おくれて、山路のほどあんじ煩いたる。洗沢までは七、八十町ばかり、その際には人家とては一戸もなきよし、聞くに付いても、かのくせもの、手を空しうして逃げ去りし事をくやしと思い、飛び道具もちて、したい来たり、繁茂の中よりねらい討つにも、すまじきものにもあらじ、と心の鬼にせめられて、やすからず路次の左右をきづかい、よき道づれもかなと、つぶやきつゝ、数百歩うち登り、萩、芒、あるいは小篠の風にそよぐにも、心驚き夕部(ゆうべ)の勇気に引きかえて、なまじいに着替えの一衣もとられなば、かゝる心遣いはあるまじなどと、詮なき事を思いつゞけて行くほどに、大日杉のもとに至り休らう。
※ なまじい - 完全ではなく中途半端であるさま。いいかげん。なまじっか。

かゝる所に、坂下の方より人音のしけるを、いかなるものぞ、と見れば、女子(おなご)、年の程、十七、八を頭として、三人、菰苞(こもつつみ)を負い、戯れながらに打ち登る。このもの共もこの所に憩うまゝ、おのれいう。女子たちはいづくの者にて、いづ地へ行き通うぞと問えば、あがみら(吾が身ら)は、この下の小長井の者にて、小楢安といへる所の焼畠にいたれると答え、その地は何(いづ)くにぞ、と問えば、洗沢へ通う途中と答えるに、我が身もは洗沢へ参れるなり。山中いと淋しく覚えぬ。願いは同じく、伴いてんやというに、くるしからじ、共に打ち連れて登り侍らむ。いざいでませと云う。


望みが叶って道連れが出来た。若い女たちでは頼りにはならないと思うが、藤泰さん一行は救われた気持である。

あとになり、先になりて、同じく登る。いとけなき女子共なれど、夕しの怖しさに心をくれて、このものに伴われむは、城の坂額か木曽の巴女に伴われし心して、これよりは、勢い猛に打ちのぼれるも可笑(おかし)。
※ 夕し(ゆうし)- 昨夜。昨晩。女性言葉らしいが、藤泰さんは意識して使ったのだろう。

「坂額」は鎌倉時代の女性。弓の名手で城中から射る矢は百発百中だったという。また「巴(御前)」は木曽義仲の愛妾で、勇猛な女武者として知られる。藤泰さんのユーモアである。

ぞうじ場と云う所より一丁ばかりして、左の絶壁に清き小瀧の落ちるまゝ、咽喉うるおさむと、立より掬(きく)せむとせしに、女子袖を引き留め制していう。その水は呑み給うまじ。こは裸が水とて、むかし、ぞうじ場にて、人を切り殺し、この瀧にて血しおの釼(やいば)を洗いしとて、いまに太刀洗い水と唱なりと留めたり。

なお、さかしきに打ち登れば、峠なり。こゝより幽谷に下りたるに、萬巌聳えて陣をなせるに、飛泉岩打つ波の音高く、掬するに冷なり。乾いたる咽喉を潤しける、この泉は河内川の中程、藍沢という所なり。暫時憩う。筆とりて傍の巨巌に題名し去る時、廿ばかりの丁荘(おのこ)荷を負い、こゝに来たり憩う。こは、かの女子等が兄にてぞありける。

これらと打ち連れて登り過ぎ行くに、また沢辺に降りる。板橋あり。真地(摩字)の橋と唱う。長さ五間ばかり、橋の梁木を三本投げ渡して、柱なく、その上に小板をしきたるなり。河内川の上にて、うしろ山沢より流れ出、一水は日向沢より流れ出る。この橋の上、左の方にて落ち合いぬ。巨巌聳え、屏風を立て並べて囲うに似たり。草樹鬱蜜として、山陰幽暗寂寞たるに、両泉落ち流れて、雌雄の鯨魚、湖水を一度に婦き出せる如く、水烟四方にむせぬ興ある巷(ちまた)なり。


この辺りの漢文調の表現は、文人藤泰さんの面目躍如といったところである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 19  3月19日 上藤川、白浪事件

(ムサシの散歩道でいっぱい咲いている、ムシトリナデシコ)

藤泰さん一行は宿を、里正の宅は諦めて、上藤川下組まで戻って、案内の知人、太兵衛の家へ一夜を乞うた。主は不在だったが、老婆の許しを得て、宿泊することが出来た。

宵のほどは暫く炉辺にて物語しせしが、頻りにねむけのきざしたるまま、寝なんというに、老婆、上(かみ)の一間に案内して、臥(ねむら)しめたり。終日のつかれにや、宵のほどはよく寝入りて、前後もわかざりしに、夜半とも思うころより目ざめて、兎角に寝られず、うつ/\として臥し居たるに、丑の下刻とも覚しき頃、我々臥したる枕の戸ざしを、さら/\と弐尺ばかりも引き開けたる者あり。その音に打ち驚きて、起きなおり、枕の前を仰ぎ見るに、燭火はあらざれど、戸外より朧月かけさし入りけるを見る。戸口に面をつゝみし男(おのこ)、二王だちにたちふさがり、内のようすを伺うさまなり。
※ 戸ざし - 戸締り

我が身、神飛心駭(たましいとび、こころおどろき)せしがども、こは白浪にこそと心得て、手早くかたえの護身刀を引きさげ、俄かに大音声をあげて、何者ぞ、深更に及んで、案内もなく、枕の戸ざし引き明けたるくせ者、名を名乗れ、とぞつゝ立ちけるに、件のくせもの、我等が勢気(いきおい)にのまれたるにや、あわてふためき、一言の答もなく、楹(はしら)の上より、後の方へ飛び下がるに、折ふし楹の前庭に大竹を多く積み置きたる、その上に飛び下りれば、我他彼此(がたぴし)とひしめき、転びつ、起きつ、跡をも見ずに逃げ去りぬ。
※ 白浪(しらなみ)- 盗賊。どろぼう。「白浪五人男」。語源は「後漢書」霊帝紀から、黄巾の乱の残党で、略奪をはたらいた白波賊(はくはぞく)を訓読みしたもの。
※ 深更(しんこう)- 夜更け、深夜。


そのもの音に打ち驚きて、次の間に臥しいたる案内の者、何事にぞと、ふるい/\起き来たる。家内の女童は怖しとや思いけん。起き立ちて来るものもなく、勝手の方にて何事にやと打ち驚けるさまなり。総て山中のならいにて、戸ざしなどかためたる家は、まれなるゆえに、かゝることにあいけり。されど異なくて安堵の思いをなし、懐中蝋燭打ちつけて、戸ざしをかため、打ち臥しけれど、いねもやらず、とかくするうち、明の烏(からす)の鳴き渡れるまゝ、身づくろいして、勝手の炉辺に出たる。

家内の老婆をはじめ、我等に向い、よべ(夜辺)は何ものにや、沙汰のかぎり、さぞな打ち驚かせ給うらんとぞ、申し断りける。かの白浪の所業を、按ずるに、我等、白木あるいは茶など買い入れる商人にて、嚢中の貯えもある者と、見込みつるならん。総て、この山中は人気強く、この里の向いは遠江の国千頭村にて、奕徒、常に入り込み、人気よからざる土地なりと聞き及びし。さるにても怖しき事なりけり。

※ 沙汰のかぎり - 言語道断。もってのほか。
※ 嚢中(のうちゅう)- 財布の中。また、所持金。
※ 人気(じんき)- その地域の人々の気風。


夜中の藤泰さんは何とも勇ましく、盗人を追い払ったが、心中はびくついていたらしいことは、次の日の記録を読むと判る。護身刀など持ち出したが、藤泰さんはやはり文の人で、武の人ではなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 18  3月19日 桑野山、狒々の話

(裏の畑のアマリリス)

藤泰さん一行は桑野山村で、その先の谷畠へ越す路の様子を聞いた。

桑の山を出て、青なぎ山の岸、七引(ななびき)と称して、大崩れの際、八間程づつ七折りあり。ここ眼下は大井河岸にて十余丈ばかり、錐立ちたる嶮壁なる中に、さゞれ岩にて、極めて細き横かり路なり。(横苅道とは山中方言)足の通いたもちかねて、一歩すれば尺ばかりも踏み下し、歩々皆かくの如し。その危きこと、たとうるにものなし。かゝる処を七廻りして、それより藤葛を木につなぎて、それをたよりに取りすがり、木の根、岩かどに手をかけて、越え登る所もあり。この辺にて、まゝ足を失い、大井河に落ちて亡命のものゝありという。こゝを渡り越して、大沢と云う所に出る。これは谷畑の小地名なり。

ここを過ぎて、谷畠の里に至る。家員十二戸。産土神、三宝荒神、祭る所、沖津彦命、沖津比美命、土祖神なり。文化三年の事にや、ここの氏人等、神木を高金に鬻(ひさ)ぎて、禁官の正一位を願いたるに、宣旨を賜い、神司に納めたり。奥深き山中にかゝる事は珎らしきためしなるべし。この里より天狗石橋に登り出て、梅地、あるいは洗沢、八草等に出るなり。

ある人壮年の頃、材木を業として、山中に入りて、数回(あまたた)び。ある時、谷畠より未明に発し、智者山の嶮阻を歴て、藁科の八草村に越ゆ。途中夜、明けんと欲するころほい、深林を過ぐる。前路数十歩隔て、大樹下の根に、長さ一丈あまりのあやしき物、樹に寄りかゝれるさまにて立ちて、左右を顧みる。

こゝに導者、潜かに告げて云う。かしこに立つものは、深山に栖める山丈(やまおとこ)と唱うものなり。この山中、まゝ見る事あり。彼に行き逢えば、その命、はかりがたし。前途にすゝむべからず。また声ばし揚ぐべからず。この樹のかげに、しばし形をかくすべしというに、ある人驚き怖れてしがじ、本の路に逃げ走らんという。導者いう。走るべからず。こゝにひそむにしかじというに、おそろしさ、しのぶべからずといえども、今更詮方なくば、唯、声をのんで、隠れいるに、東方日の登る頃、かの怪しきもの、樹下を去りて、峰の方に迅(とく)走る。
※ 導者(どうしゃ)- 案内する人。先導者。

潜かにこれを窺い見る。状(かた)ち、人の如く、髪を被り、黒き身にて、毛生い、人の面の如く眼目きらめき、長き唇反り倒(かえ)り、頭髪ながきこと、頭髲(かもじ)をたれたるが如し。その長(たけ)丈余。ある人これを見て、毛起踈踊躋(みのけよだちしふるい)して、足の踏む処をしらず。

されど嶺に走り去るを以って、はじめて安堵の思いをなし、郷導者と同じく、かの樹下に至り、その跡を見るに、怪物の糞、樹下にうずたかし。その多きこと、一箕ばかり。その辺の樹、一丈ばかり上にして、木皮をむきさくりたる跡あり。導者云う。これ木の甘皮を喰うなり。また篠竹を好んで喰う。糞中に一寸ばかりに、かみくだける篠竹あり。獣毛交じると云う。これは狒々と呼ぶものなり。山丈(やまおとこ)とは異なるが、されど山中のもの、山丈と唱え、まれに見るものありと云々。

我等かゝるおそろしきことなど、聞き及びしに、途中にて桑野山人の申し語りたる行路難に心をくれて、明日の通路に思い煩らいぬる。案内のものも、この道筋は通うべき岐(みち)にあらず。遠江の地に越えれば、青なぎの難所はさけ侍るなれど、明日は小長井より洗沢に越してかならむ。路次の程、七十余町の登りなれど、あやうき路次にはあらず。唯、険阻にて辛苦のみと申したるまゝ、この路と定む。


以上は、桑野山村の人に聞いた話で、藤泰さん一行が歩いたわけではない。一行は桑野山村より引き返し、上藤川村に戻る。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大井河源紀行 17  3月19日 上藤川、大蛇伝説

(庭のツリガネヤナギ)

上藤川の大島に、弘法大師作と伝わる、小長谷長門守先祖の守り本尊を祀った、弁天の小祠がある。また長門守乳母の塚という、姥神という祠がある。と書いた後、上藤川村についての記述が続く。

この上藤川村の称、処の人は小長井と呼べり。按ずるに、和名鈔志太郡の部に大野郷の名が出る。則ち、この里大野の本郷なり。今当里の枝郷は、谷畠、坂京、幡住、小猿郷、文沢河内、澤間、と分かれ、また本郷も上下と組分ける。

上組のうち平栗といふ所は、家員十三軒、大六天の祠あり。本郷より半道ばかり、大栗、穴水と云う里は、今は山家退転す。青部と田代の際の柳瀬、三杯は下組に隷(つく)なり。
※ 退転(たいてん)- 落ちぶれて他の地へ移ること。

坂京組、家員三十四戸、くぞむまの奥より、凡そ半里ばかり入り、山里にて八王子の祠あり。寺院は洞家に京昌寺というあり。この境内、山葵を多く作り出す。畠(幡)住組、家員三戸。小猿郷組、家員九戸、本郷より入ること、凡そ弐里半ばかり。また文沢河内は下泉より入る谷なり。家員八戸。沢間組は堀之内と青部との際なり。家員五戸あり。


藤泰さん一行は小長谷家を出て、さらに奥地へと大井川を遡る。大井川の岸、前山、大ぞれと云う所を過ぎ、五十町ばかりで桑野山村に至る。桑野山村は家数二十三戸、氏神は大井の神、曹洞宗の東光寺という小院がある。本尊虚空蔵。また、北山という、登りに五十町ばかりの高山がある。嶺は智者山に連なっている。さらに桑野山村に伝わる伝説を記している。

昔、この地(向い遠江の国榛原郡千頭村)の幽谷、地中に潜(ひそ)める大蛇あり。ある時、大地震動し、強雨頻るに降る、盆を傾くるごとく、烈風樹木を折り摧(くじ)く。この時に乗じ、潜める処の大蛇、地中を躍り出て、山を大井河の西に劈(つんざ)き分つ。然るに、高山の頂、震るい崩れ、数丈の磐石、一度に転倒し、大蛇の上に重なり落つ。大蛇、山を劈くの勢いありといへども、磐石の為に不意をうたれたにや、反って打ち砕かれて斃(たお)る。山中、洪水蕩々として、山を壊し、陵にのぼる。家は押し潰され、押し流され、人はこれが為に死するもの多しとなん。

後世、そこより蛇骨を出せり。上藤川村化成院の厨司、あるいは遠江の国、家山村三光寺の厨司に、かの大蛇の車骨を以って、踏台とせしに、大きさ碓(うす)の如し。大蛇の負いかえしたる山は、遠江の国(千頭村の内)沢間村の上、寸俣川の渡本より村角までの山なりと伝う。化成院にありし蛇骨は、予が同郷の人、若き時、目前に見たりと語れり。今は失いてなし。三光寺にありしは、そこの里人、川原にてひろい、いかなるものともしらざれど、踏台によかりけんとて、かの寺の履ぬぎに、さし置きたるに、ある年ころ、この台のほとりより、厨司の縁ゆか下より、小蛇多くはらばい出たるまゝ、寺中の僧俗あやしみ、不思議をなして、かの踏次を取り揚げ見れば、小蛇いくらとなく生じ、うごめくさま、みの毛よだつばかりなりしと、楹(はしら)の下など惣じて、蛇をはきあつめしに、二箕ばかりもありしとなり。速に踏台と共に大井河水に投じ流したりしと云う。


大蛇伝説の多くは、過去の山津波や土石流の大災害の様子を語っている場合が多い。桑野山村のものも、内要は山津波や土石流の有様そのものである。さらに臼のような蛇骨は、想像するに柱状節理を示す玄武岩のような岩石だと考えられる。但し、玄武岩は溶岩が地中で冷え固まったもので、大井川流域で産するという話は聞いたことがない。

自分の故郷には、かつて玄武岩を産した山があり、町中の石垣や漬物石等に、多くの玄武岩をみる。また、玄武岩をイメージした、ゆるキャラの「玄さん」はわがふるさとの人気キャラである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ