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「参河後風土記 巻第十三」を読む 9

(国1バイパス橋拡幅工事現場)

午後、女房と大井川まで散歩に出掛けた、国1バイパス大井川橋拡幅工事が、また始まったようだ。冬場の渇水期しか工事が出来ないためだろうか、何年も掛かって、何時になったら完成するのであろう。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠江国味方原合戦の事」の項の続き。

小山田これを信玄に告げしかば、諸加甚五郎に上原を添えて、重ねて物見(ものみ)に遣わすに、両人頓(やが)て皈(かえ)りて、信玄へ申しけるは、敵小勢なれども勇気(せん)にして、待ち掛けたり。この方より掛からば、敵に利を得られん。暫くここに御扣(ひかえ)候て、敵を欺(あざむ)かれば、敵苛(いら)ついて掛からんか。その時味方の兵を進め、相掛かりに掛かり合い、手痛(ていた)当らば、味方勝利疑いなしと申す。信玄、もっともとて、(わざ)備えを堅くし、馬の掛り場を前に残し、敵の掛かるを待ち居たり。
※ 尖(せん)➜ 行動が突出するさま。
※ 手痛い(ていたい)➜ 程度が激しいさま。きびしい。
※ 態と(わざと)➜ 意識して、また、意図的に何かをするさま。ことさら。故意に。わざわざ。
※ 馬の掛り場(うまのかかりば)➜ 馬をつなぎとめる所。


先陣の小山田は足軽の兵を以って、遠矢射させて、偽引(おび)時に、大久保治右衛門と柴田七九郎が両勢、小山田に討ちて掛かる。小山田も掛かり合いて、火を散じて戦う。大久保、柴田討ち負けて敗走す。家康公の御先手(さきて)、石川伯耆守数正入れ替わりて戦う。石川が兵は馬より皆な下り立ちて、敵の馬を突きて馺(駈)け落さする。石川が手の郎等(郎党)、外山小作と名乗りて、一番に槍を合わす。石川自ら切って廻る。小山田が兵二百余人討たれて引き退(しりぞ)く。山縣は手の郎等三百余騎、従軍都(すべ)て二千余人を、一つに纏(まと)い、家康公の旗本へ一文字に討って掛かりしが、御旗本小勢と見侮(あなど)りて、只一揉(ひともみ)にせんと、二千三百騎掛かるを、弓鉄砲にて打ち立ちければ、山縣が先手(さきて)矢庭(やにわ)百人討ち殺され、進み兼ねるを、鎗を揃えて突き立てければ、左右に分かれ逃げ走る。
※ 遠矢(とおや)➜ 遠くから矢を射ること。また、その矢。
※ 偽引く(おびく)➜ 欺き誘う。
※ 矢庭に(やにわに)➜ その場ですぐ。たちどころに。

(「遠江国味方原合戦の事」の項つづく)

読書:「荒南風の海 口入屋用心棒13」 鈴木英治 著
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 8

(庭のヒメツルソバ)

午前中掛かって、故郷からの渋柿、74個中、72個、干柿への加工を行い、乾した。干しあがるまで、10日位は掛かるだろう。その間、天気予報はまずまず安定しているようだ。残った2個はすでに柔らかくなっていたので、熟柿として食べる。

夕方、岡部氏から資料が届いたとの電話があった。資料について、30分近く話した。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠江国味方原合戦の事」の項の続き。

家康公聞し召し、汝は日比(ごろ)軍用に立つべき者と目利(めき)きせし故、大事(だいじ)の使いに遣わす処に、臆病心(おくびょうごころ)付きけるか。また大勢に見驚き、腰の抜けたるにや。目前の敵を討たずして、のさにと通すことの有るべきか、と大いに怒り給う。鳥井聞きて腹を立て、御用に立つべき者なる故、心も剛(ごう)に目も利きて、勝負を見定め候。負けにも御構(かま)いなくば、御心の侭(まま)なるべし。勝負の是非を知らぬこそ、闇将(あんしょう)とも、臆病とも申すべけれんと罵(ののし)りて、御前を退く。
※ のさに ➜ 間が抜けているさま。ぼんやりと。

家康公、渡辺半蔵を召して、斥候に重ねて遣わさる。渡辺馳せ皈(かえ)り、今日の戦(いくさ)、利在るべしとも存ぜず。敵の備えは段々に厚く敷(し)くらみ、味方は薄く、間厚なり。必ず敗(やぶ)れせんと申す。家康公聞し召し、鳥井が詞(ことば)と等しければ、暫く思惟(しい)し給う処に、大久保治右衛門、柴田七九郎を始めとして、大勢を引き具(ぐ)し、我々斥候仕らんと、声々に叫んで、敵陣へ馳せ向かう。渡辺、頻りに抑(おさ)え留めすれども、耳にも利き入れず、先登(せんとう)に進む。
※ 思惟(しい)➜ 考えること。思考。
※ 先登(せんとう)➜ まっさきに敵陣に乗り込むこと。さきがけ。


武田勝頼、これを見、馬場美濃守と山縣三郎兵衛に下知し、大久保、柴田を會釋(あいした)わせ、兵を山際へ引き取りけり。甲州方の先陣、小山田備中守昌行が手の者に、上原能登と云う者、昌行に申すは、犀ヶ崖(さいががけ)より敵陣を見るに、備えは以上九ヶ所にて、唯一重(ひとえ)と見えたり。また信長の加勢と見えて、新井、本坂に陣す。その勢八、九千もや(さぶ)らん。然れども、この陣の旗色(はたいろ)宜しからず。討たば敗せんと目利きしたりと云う。
※ 會釋わす(あいしたわす)➜ 後を追い掛けて来させる。
※ 小山田備中守昌行(おやまだびっちゅうのかみまさゆき)➜ 小山田正成とも。戦国時代の武将。武田氏の家臣で譜代家老衆。
※ 犀ヶ崖(さいががけ)➜ 浜松城の北側およそ一キロにある断崖。三方ヶ原古戦場。
※ 候らん(さぶらん)➜「有る」「居る」などの謙譲語・丁寧語。
※ 旗色(はたいろ)➜ 所属を示す旗の色や形状。転じて、所属。立脚点。助っ人として意気が上がらないことを示すか?

(「遠江国味方原合戦の事」の項つづく)
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 7

(故郷から送られてきた渋柿)

女房、雨の中、近所の一日旅行に出かける。

故郷の但馬から渋柿74個が送られてきた。明日からしばらくは天候も良くなるようで、絶好の干柿日和となりそうで、実に良いタイミングとなった。明日は干柿の加工で暮れそうである。とりあえず今日は下準備を終えた。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。

   遠江国味方原合戦の事

既に信長の加勢、遠州に着陣すれば、家康公は浜松の城に二千騎を留め置き、六千余騎を率(そつ)し給い、元亀(げんき)三年(1572)十二月廿二日(元亀二年と云うは非なり)、遠州味(三)方原へ押し出さる。信玄これを見、宣(のたま)うは、信長加勢すると沙汰在りしが、実と覚えて思いしよりは大勢なり。他国に深く働き戦わんは大事(おおごと)ならん。味方四万といえども、長途(ちょうと)を経て、案内知らざるにて、(かて)乏し。敵の一万四千は地戦(ちだたか)にて、人馬疲れず、粮自在なり。軍(いくさ)は定めて牛角(ごかく)ならん。一旦勝利を得る時、兵(いくさ)を避けて、危うきを遁(のが)るを良将の(のり)とす。兵を纏(まと)めて刑部(おさかべ)へ押し行くべしと、既に軍を班(かえ)さんとす。
※ 長途(ちょうと)➜ 遠いみちのり。長い旅路。
※ 案内(あんない)➜ 物事の内部のようす。内情。
※ 粮(かて)➜ 食糧。食物。
※ 地戦い(ちだたかい)➜ 自分の土地、領内で行なわれる戦争。
※ 牛角(ごかく)➜ (牛の角が左右ともに長短・大小の差がないところから)双方の力量が同じ程度で、優劣の差がないこと。五分五分。互角。
※ 規(のり)➜ 行動や判断のよりどころとなる基準。
※ 刑部(おさかべ)➜ 現、浜松市細江町中川にあった刑部城の近辺


浜松方の早雄(はやりお)若殿原(わかどのはら)、信玄軍を返さんとす、是非一戦仕らん、と進む。家康公は鳥井四郎左衛門を召して、合戦有るべきや否やの斥候(せっこう)として遣さる。鳥井畏(かしこ)まりて敵陣へ忍び入り、見済(みす)まして馳せ皈(かえ)り、今日の軍(いくさ)、戦えども利有るべからず。甲州勢、若干(そこばく)にて、段々に備えを設(もう)く。その備え堅し。味方小勢にて、山際に一頬(ひとほお)に備え、甚だ薄し。味方の旗色,忒(はなはだ)、例(ためし)て悪く候。敵軍を班(かえ)すは幸いなり。早々先手(さきて)へ軍使を遣わされ、味方を退(しろぞ)け給うべし。若し是非戦わんと思(おぼ)し食(め)さば、甲州勢、堀田郷の辺まで引き取りたる時分、段々に備えて御合戦有るべし。只今は軍を仕掛けられば、必ず味方が討ち負けると申上げる。
※ 早雄(はやりお)➜ 逸り雄。血気にはやる者。
※ 若殿原(わかどのばら)➜ 若い武士たち。。
※ 斥候(せっこう)➜ 敵の状況や地形などを探ること。また、そのために部隊から派遣する少数の兵士。
※ 若干(そこばく)➜ 数量の多いさま。たくさん。多く。
※ 一頬(ひとほお)➜ 頬いっぱいに。「狭い所にいっぱいに」の意か。

(「遠江国味方原合戦の事」の項つづく)
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 6

(庭のヒャクニチソウ)

気付けば、我が庭には、あちこちに同じ色のヒャクニチソウの花群れが出来ている。

午前中に磐田市歴史文書館に行く。そして、岡部氏関連の「成瀬家由緒書」の原本のコピーを頂いてくる。手元の解読文に、誤読が幾つか見受けられたので、元文書より解読し直そうと思ったためである。内容がおもしろいので、金谷宿の講座でも教材に利用しようと思う。突然の要請に、大探しをしていただいた、文書館の方に感謝である。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。

   遠州二俣落城に付、家康公より信長に於いて、加勢請けらるのこと

信玄は一言坂の軍(いくさ)に勝って、なお遠州家康公の持ち城どもを責め取らんと、四郎勝頼並びに信玄の舎弟、武田左馬助、同穴山梅雪を軍将として、遠州二俣を責める。城主中根平左衛門、小勢故、兼ねて加勢として、青木又四郎貞治、松平善兵衛正親(初め、善四郎と云う。父善兵衛正光(三光ともあり)は、去る永禄三年五月十九日、正光、並び高力新九郎直重、筧又蔵など、一所に討ち死にせり)などを籠(こ)め置かる。然るに、甲州の大軍、城を囲みけれども、城兵稠(しげ)く防ぐ故、甲州勢これを見、力責(ちからぜ)めにせば軍兵多く討たれんとて、謀(はかりごと)を廻(めぐ)らし、城中への水の手を取り切りたり。城兵渇(かつ)に及べども、浜松方の後詰(ごづめ)を頼みて、暫(しば)しは堪えたり。家康公、則(そく)御馬を出し給い、天竜川を渡り給いけれども、二俣の城中にはこれを知らずして、水に渇(かつ)する悲しさに、城を開きて出走す。
※ 後詰(ごづめ)➜ 敵の背後に回って攻めること。また、その軍勢。
※ 出走(しゅっそう)➜ 出て走り去ること。出ていってしまうこと。


二俣、既に落城しければ、家康公も浜松へ引き入り給う。信玄二俣を責め取り、この城の守護として、信濃の国住人、芦田下総守幸成、並び依田下野守雄朝に人数を添え守らす。其此(それこれ)、東三河の兵は大略(たいりゃく)信玄に与力(よりき)す。その中に菅沼新八定盈、同二郎右衛門定清ばかり信玄に従わず。武田は大軍にて浜松辺へ出張すると聞こえければ、この小勢にて大敵を拒みしこと叶い難く、信長へ加勢を請い然るべしと申上げる。家康公仰せに、信長へ加勢を乞わんも口惜し。同じくば一手を以って軍(いくさ)せんと仰せけり。大久保、酒井、大須賀など、口々に申しけるは、信長、若干の兵を持ちながら、徳川家へ加勢を数度乞い給う。この方より加勢乞いたる様(さま)なし。何が苦しからん。加勢を乞い給えと頻りに申しければ、然らば使者を遣わせとて、加勢を乞い給う。
※ 其此(それこれ)➜ あれやこれや。
※ 大略(たいりゃく)➜ おおよそ。大体。
※ 与力(よりき)➜ 加勢すること。助力すること。また、その軍勢・勢力。
※ 口惜し(くちおし)➜ 残念だ。くやしい。


信長、則(そく)加勢の大将を定めらる。佐久間右衛門尉信盛、滝川左近将監一益、平手監物汎秀(ひろひで)、林佐渡守秀成、水野藤九郎政信、坂井彦右衛門忠秀、飯尾隠岐守信宗、土肥孫左衛門通平、荒川新八頼季を始めとして、侍大将九人、その勢八千余騎、十一月、尾州を立ちて遠州に着陣し、勢(ぜい)を二つに分けて、新井、本坂二ヶ所に陣を取る。また家康公の御下知にて、遠江国宇豆山に、新たに砦を構えらる。松平与二郎清宗を遣わされ、守らせらる。これは信玄が兵を防がせらるべきためなりけり。
※ 宇豆山(うずやま)➜ 宇津山城。浜名湖に突き出した正太寺鼻の宇津山に築城。但し、派遣されたのは松平与次二郎清宗ではなくて、父親の松平清善である。

(「遠州二俣落城に付、家康公より信長に於いて、加勢請けらるのこと」の項終わり)
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 5

(日限地蔵のモミジ/10月22日撮影)

紅葉をと思い撮ったけれども、まだ途中と思いボツにしていた。今日、写真を撮るのを忘れたので、引っ張り出して載せる。

午前中、掛川図書館に調べものがあって出掛けたところ、午後、歴史講演会があるという。「徳川家康による遠江への侵攻について」という演題が、いま調べている少し前の家康の話なので、興味があって、午後もう一度、掛川図書館に出直す。講師は知識の豊富なことは理解できたが、もう少し話すことを整理して、話して貰わないと、聴く人の頭に入ってこない。歴史研究の仲間内であれば、それでも良いかもしれないが、始めて聞く人には伝わらない。今回が初めての講演というから、今後を期待したい。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠州一言坂軍の事」の項の続き。

家康公、浜松の城に入り給い、御馬より下り給う時、大久保治右衛門、大音揚げ、御馬の口付(くちつき)に向いて、その御馬の鞍壺を能く見よ。糞が在るべきぞ。糞を垂れて逃げ給いたる程に、と悪口す。これは忠勝が諌(いさ)めに付いて、一戦せず引き入り給うを云う。甲斐なしと存じ、かつまた忠勝を吾が家の良将と御褒美有りしを嫉妬して、則(そく)悪口を申しける。家康公、直(じか)に聞し召されども、何とも仰せなく城に入り給う。
※ 大久保治右衛門 ➜ 大久保忠佐(ただすけ)。織豊~江戸時代前期の武将、大名。徳川家康につかえ、三河の一向一揆や、長篠、長久手などの戦いで戦功をたてる。関ケ原の戦いのあと、駿河沼津城主となった。
※ 口付(くちつき)➜ 牛馬などの口の先について、これを引く人。口取り。
※ 鞍壺(くらつぼ)➜ 鞍の真ん中の平らな部分。人のまたがる所。
※ 甲斐なし(かいなし)➜ 取るに足りない。値打ちがない。


その夜、御家人大勢伺公(しこう)し今日の軍(いくさ)の事を申し上げる。仰せに、今日大久保忠佐(ただすけ)が申す処、一応は理あるに似たれども、大将の志(こころざし)には背(そむ)けり。凡(およ)そ大将は、死生を能く知りて、進退(しんたい)するを良将とす。士卒(しそつ)残りて、主君の危うきを救い、落すこと、古今珍しからず。
※ 伺公(しこう)➜ 謹んでご機嫌伺いに上がること。
※ 死生(しせい)➜ 死ぬことと生きること。
※ 進退(しんたい)➜ 進むことと退くこと。
※ 士卒(しそつ)➜ 武士と雑兵。また、兵士をいう。兵隊。
※ 落す(おとす)➜ ひそかに逃がす。


頼朝、石橋山にて討ち負けられしに、佐々木兄弟四人、敵を防ぎて、頼朝を落せり。義経吉野山にて大衆(だいしゅ)に追われしに、佐藤忠信一人留まりて、敵を防ぐ。これ皆な戦うまじき時を知りて遁(のが)れ、後の功を思う故なり。これを臆して逃げたりと云わんや。忠佐は勇に誇り、生地、死地を弁(わきま)えず。吾を誹(そし)匹夫の勇(ひっぷのゆう)にて、時の志を察せざる故なり。また忠勝は戦うとも、利なき地形を察して、吾を諌めむ。能く死生の地を弁えたり。その武勇を讃(たた)えるに非ず。将の志ある故、吾が家の良将たらんと褒美せり。敵を多く討つを良将と云わんには、渡辺半蔵渥美源五郎などは、皆な良将とせんや、と宣(のたま)えば、各(おのおの)承り伏せ仕る。大久保忠佐、この仰せを聞きて、誠に我れ大いに誤れりと、後悔せしとぞ、聞くべし。
※ 大衆(だいしゅ)➜ 僧兵の集団。
※ 生地、死地(せいちしち)➜ 生きて帰ることのできる地と、生き延びられる見込みのない危険な地。
※ 匹夫の勇(ひっぷのゆう)➜ 思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない勇気。
※ 渡辺半蔵(わたなべはんぞう)➜ 渡辺守綱(もりつな)。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。徳川十六神将の一人。槍が得手で、「槍半蔵」と呼ばれた。
※ 渥美源五郎(あつみげんごろう)➜ 渥美勝吉(かつよし)。安土桃山時代の武士。徳川氏の家臣。別名「頸切り源吾」。

(「遠州一言坂軍の事」の項終わり)

読書:「待伏せの渓 口入屋用心棒12」 鈴木英治 著
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 4

(今夕の夕焼け)

気温も下がり、天候も回復して、ようやく秋らしくなってきた。夕方、久し振りに夕焼けを見た。

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座を開催。今月は公民館行事のため一週間遅れである。学生の皆さんに、聞くだけではなくて自分で読む力を付けてもらうため、講座終了後の時間を使って、皆んなでやさしい古文書を輪読するような時間を作ってみたいと思って、そんな話しをした。試しに次回ぐらいからやってみようか。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠州一言坂軍の事」の項の続き。

この間に、浜松勢は天龍川を渡ることを得たり。忠勝後殿(しんがり)して、馬を川に乗り入れる処へ、敵また追い来たりしが、忠勝川向うへ馳せ渡せば、敵もこれより引き返す。この間、家康公は真古目(馬込)植松までにて、待ち給う。時に御家人、何(いず)れも仰け冑(のけかぶと)に戦うなり。皆な矢一筋、二筋、折り掛けて来たる。
※ 真古目植松(まごめうえまつ)➜ 現、浜松市の馬込川東側に植松町がある。
※ 仰け冑(のけかぶと)➜ かぶっている兜の緒が緩んで、後ろの方に傾くこと。
※ 折り掛ける(おりかける)➜ 突き刺さった矢などを、折ったままにしておくこと。


中に本多忠勝は、祖父平八郎忠豊(ただとよ)が時、清康卿(きよやすきょう)より給わりし扇子の指し物(さしもの)を、伝い得て指したるが、半ばは切り割(さ)かれ、鎧に矢五、三本折り掛けて参る。家康公は大久保、内藤等が軍功を感ぜられ、次に御馬を安(やす)んじられ、忠勝を召して、汝(なんじ)今日の進退中度、その武功感嘆す。吾が家の良将と謂うべし、と大いに御褒美在りて、浜松の城に入り給う。甲州勢も忠勝が大勇(たいゆう)を感じて、俚歌(りか)を書き(俗に云う落書(らくしょ))、一言坂に立てる。

   家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八

※ 清康卿(きよやすきょう)➜ 松平清康。戦国時代の武将。三河松平氏の第七代当主。岡崎城城主。徳川家康の祖父にあたる。「卿」は大中納言・参議または三位以上の貴族に付ける敬称。自称、清和源氏世良田氏の出自ゆえの敬称か。
※ 指し物(さしもの)➜ 近世、戦場で武将が自分や自分の隊の標識とした旗や作り物。
※ 褒美(ほうび)➜ ほめたたえること。
※ 大勇(たいゆう)➜ 本当の勇気。真に必要なときにあらわす勇気。
※ 俚歌(りか)➜ 民間で流行する歌。俚謡。
※ 落書(らくしょ)➜ 政治・社会や人物などを批判・風刺した匿名の文書。人目に触れやすい所に落として人に拾わせたり、相手の家の門・塀に貼りつけたりした。中世から近世にかけて盛行。
※ 唐の頭(からのかしら)➜ 兜の上につけるヤクの尾で作った飾り。

(「遠州一言坂軍の事」の項つづく)

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「参河後風土記 巻第十三」を読む 3

(散歩道のコキア)

別名、ホウキギ、ホウキグサ。座敷箒の材料となる。真っ赤な紅葉が美しい。

朝、静岡新聞朝刊に、「緑十字 決死の飛行」の岡部英一さんが、ふるさと自費出版大賞(自費出版大賞の全国版)ノンフィクション部門で最優秀賞を受賞との記事があった。静岡県の自費出版大賞は受賞されていたから、ランクが一段上がったわけである。夕方電話でお祝いを述べた。ちなみに、今、このブログ上で解読している古資料は、岡部さんの次なる挑戦のお手伝いである。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠州一言坂軍の事」の項の続き。

本多忠勝後殿(しんがり)を承る。その外、残る輩は大久保七郎右衛門、同次右衛門、同勘十郎忠正、同荒之助忠綱、内藤三左衛門信成、都築藤十郎、以下千二百余騎、静かに引き取る。甲州勢は二手に分かれ追い来たる。浜松勢は馬を馳せて、三加野に赴き見付の町に至る。甲州勢は山縣三郎兵衛昌景、一方の道より追い掛ける。従う侍には、八代安芸守勝正、山本土佐守清頼、一手に成りて先陣す。馬場氏勝が組には、早川豊後守行憲、同弥三右衛門行宗、前嶋和泉守則弘、同加賀守則盛、一手に成りて追い来たる。内藤、大久保の一族、死を顧みず相戦う。
※ 馬場氏勝(ばばうじかつ)➜ 馬場美濃守信春。戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。

本多忠勝は家人大兼彦助に下知して、見付の町を馳せ過ぎて後、かの宿屋を放火す。この火に(つか)えられ、敵、猶予(ゆうよ)する隙に、一言坂まで引き取る。この所、地形よければ、爰(ここ)にて終日大いに戦う。内藤、大久保、自ら大いに戦(いくさ)する故、敵敢えて進まず。本多忠勝は黒糸の鎧(よろい)に鹿角打ちたる冑(かぶと)を着け、唐の頭(からのかしら)掛けたるが、踏み留まりて苦戦す。この忠勝は器量人(きりょうじん)に越したるのみならず、大刀の猛兵なり。郎等(ろうどう)柴田五郎右衛門、栗井弥蔵、大原作之右衛門、桜井庄之助、以下稠(しげ)く働きて、首数を得たり。
※ 支える(つかえる)➜ じゃまなものがあったり行きづまったりして、先へ進めない状態になる。とどこおる。
※ 猶予(ゆうよ)➜ ぐずぐず引き延ばして、決定・実行しないこと。
※ 唐の頭(からのかしら)➜ 兜の上につけるヤクの尾で作った飾り。白いのを白熊(はぐま)、赤く染めたのを赤熊(しゃぐま)、黒いのを黒熊(こぐま)という。
※ 器量人(きりょうじん)➜ 大きな物事をなしとげる能力をそなえた人。
※ 郎等(ろうどう)➜ 郎党。武家の家臣で、主家と血縁関係がない者。身分的に主人に付き従う従僕。
※ 級(きゅう)➜ うちとった首を数えるに用いる。

(「遠州一言坂軍の事」の項つづく)

読書:「旅立ちの橋 口入屋用心棒11」 鈴木英治 著
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 2

(散歩道のマンデビラ/一昨日撮影)

夜、金谷宿理事会。

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「参河後風土記 巻十三」の解読を続ける。「遠州一言坂軍の事」の項の続き。

家康は道を守りて終に一度も軍を仕掛けず。和睦を破る不義者をば、信玄の心に問わば、分明(ぶんめい)に知らんと、痛ましく御返答有りければ、信玄耻(はず)かしめられて、口惜(くちお)しくや在りけん。同九月下旬、四万余兵を率(そつ)して遠州に至り、同国乾の城主、天野宮内右衛門を案内として、多々良、飯田の両城を攻む。この宮内右衛門は右大将頼朝の御家人、天野藤内遠景が末葉(まつよう)、代々名を得し剛の者にて、先登(せんとう)し、武威を振う。甲州勢、(かれ)に負けじと攻め付ければ、遠州の先方衆、防戦の術(すべ)を失い、両城ともに責め落とさる。信玄それより久野(くの)の城を巡見し、見付の辺、袋井に至る。
※ 分明(ぶんめい)➜ はっきりわかること。あきらかなこと。明白なこと。
※ 末葉(まつよう)➜ 子孫。末裔(まつえい)。
※ 先登(せんとう)➜ まっさきに敵の城に攻め入ること。一番乗り。
※ 武威(ぶい)➜ 武力の威勢。
※ 渠(かれ)➜ かれ。三人称の代名詞。
※ 久野の城(くののしろ)➜ 袋井市鷲巣にあった城郭。明応年間(一四九二~一五〇〇)に久野氏によって築かれた。


家康公は八千余兵を二つに分け、三千騎は浜松の城に残し、僅(わず)か五千を率(そつ)し給い、三加野(みかの)に出づ河坂を前に、当天龍川の辺に臨み給えば、先陣は三加野台に赴(おもむ)く。武田侍大将、馬場美濃守氏勝、山縣三郎兵衛尉昌景が両勢は、浜松勢の後(しり)えを遮(さえぎ)らんと、兵を右の方へ廻さんとす。この時、本多平八郎忠勝は廿五歳に成りけるが、敵の謀(はかりごと)を推量して、家康公の御前へ参り、冑(かぶと)を脱いで高紐(たかひも)に掛け、跪(ひざまず)きて申しけるは、甲州勢の(てい)を伺(うかが)うに、地白に黒き山道の旗と、赤地に白桔梗の旗は右の方へ廻ると見え候。一定(いちじょう)、味方の後を遮(さえぎ)らんとの術(すべ)と覚え候。この両勢、後ろへ廻りては戦(いくさ)大事(おおごと)ならんか。今日は軍(いくさ)を止(や)められ、浜松へ引き入れ給い、信長へ加勢を請(こ)われ、重ねて御合戦在るべし。敵は四方進退自由の戦場なり。味方小勢にて戦場宜しからず。某(それがし)後殿(しんがり)仕り、敵天竜川を越えて来たらば、半渡(はんと)に戦いて敵を敗(やぶ)らん、と諌(いさ)め申しければ、家康公、もっともと宣(のたま)い、一千余騎を引き返し、千騎を残して、浜松へ皈(かえ)り給う。
※ 三加野(みかの)➜ 現、磐田市三ケ野。
※ 高紐(たかひも)➜ 鎧の胴の綿上と胸板とをつなぐ紐。
※ 躰(てい)➜ 様子。
※ 地白に黒き山道 ➜ 模様の一つ。ジグザグ模様をいう。馬場の旗指物。
※ 赤地に白桔梗 ➜ 桔梗紋は山縣の旗指物。
※ 一定(いちじょう)➜ まちがいなく。必ず。
※ 半渡(はんと)➜ 渡河の途中。

(「遠州一言坂軍の事」の項つづく)
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「参河後風土記 巻第十三」を読む 1

(今年最初の干柿を作る)

午前中、榛原に行き、古文書講座開設の手続きをして来た。月一回、第2水曜日の午後に会場を予約して来た。

その帰り、渋柿18個、800円で購入、今年最初の干柿の加工をした。これからは天候も何とか安定すると思う。

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今日より「参河後風土記 巻第十三」の解読を始める。昨日まで読んできた「参河後風土記正説大全 第弐拾参」と同じ軍(いくさ)を題材とした一部であるが、書かれている内容は、似ている所もあるが、相違している部分も多い。比べてもらうと面白い。

  参河後風土記巻第十三
   遠州一言坂軍
(いくさ)の事

元亀三年閏正月、家康公、軍兵を引率して、金谷大井川の辺を巡見し、浜松の城へ皈(かえ)り給う。この時までは、武田信玄と御和睦(わぼく)の分なり。然るに、信玄の持ち分たる金谷大井川辺へ御出張(でばり)を聞きて、浜松へ使者を遣わし申しけるは、兼約変改在りて、信玄が持ち分へ御出張あること、心得がたき由を咎(とが)む。家康公御答に、全くかの地を犯し奪わんために、出張するに非ず。領地の境目、巡見のみなり。この故に、民屋(みんおく)をも追補(ついほ)せず。何ぞ約を変ずと云わんや。
※ 兼約(けんやく)➜ かねてからの約束。前約。
※ 変改(へんかい)➜ 変えて改めること。
※ 民屋(みんおく)➜ 一般の人々の住む家屋。民家。
※ 追補(ついほ)➜ 追加すべき事柄をあとから補うこと。


家康は一度定めし約を変じたる叓(こと)、あるべからず。信玄こそ偽道(にせみち)を以って表とし、人を偽(いつわ)り計ること数度なり。以前約せし赴(おもむ)きは、大井川を境として、互いに手指(てざ)しべからざるとありしに、程もなく秋山伯耆を差し向けて、遠州を犯す故、某(それがし)追い払い候(そうら)いき、これ一つ。家康小勢にて、領地巡見に出(いで)しに、山縣三郎兵衛、大兵にて軍(いくさ)を仕掛くる、これ二つ。諏訪原の城に、松井忠次を入れ置く処に、動(やや)もすれば、信玄の軍兵、川を越して数度攻(せ)む、これ信玄約を変える、三つなり。
※ 秋山伯耆(あきやまほうき)➜ 秋山虎繁(とらしげ)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。武田氏家臣で譜代家老衆。武田二十四将。永禄十一年(一五六八)、武田の駿河今川への侵攻に際して、虎繁が信濃衆を率いて遠江へ侵攻した。
※ 松井忠次(まついただつぐ)➜ 松平康親。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松井松平家(三河松井氏)の祖。天正三年(一五七五)八月、遠州諏訪原城(牧野城)の守備に付く。

(「遠州一言坂軍の事」の項つづく)
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「参河後風土記正説大全 第弐拾参」を読む 19

(散歩道のもみじの紅葉)

今日は即位礼正殿の儀で全国的に祝日であったことを、今朝初めて知った。午後、国内外に向けての、新天皇即位の儀式があった。

その後、女房と散歩に出た。日限地蔵-放光神社-夢づくり会館と巡って、秋の気配を探して歩いた。唯一、夢づくり会館の付属の五和会館の狭い庭に、紅葉したもみじを見付けた。当地では秋はまだまだこれからである。

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「参河後風土記正説大全 第弐拾参」の解読を続ける。「天龍川合戦松平清吉宇都山守」の項の続き。

よって城兵ども、いよ/\厳しく打ち立つる故、手負い、死人夥(おびただ)し。これ故、さすがの武田勢も、猶予(ゆうよ)して進み得ず。然る所に、勝頼下知して、見苦しき先手(さきて)の有様かな。我れに続けと下知して、自身真っ先に進みければ、惣軍(そうぐん)一同に我れ劣らじと争い進んで、難なく水の手曲輪を乗り破るによって、城兵どもは水に渇(かつ)し、苦しみける故、梅雪方より使いを以って、当城を開き渡すに於いては、城中の男女ことごとく助命すべしと、申し入るゝ故、城兵はもっともと同心して、すなわち城を開け渡して、浜松へ引き取りけるによって、信玄下知して、芦田下野守を城代にす。
※ 猶予(ゆうよ)➜ 実行の時を延ばすこと。
※ 惣軍(そうぐん)➜ 全軍。総軍勢。
※ 同心(どうしん)➜ 目的・志などを同じくすること。一つ心になること。
※ 芦田下野守(あしだしもつけのかみ)➜芦田信守(あしだのぶもり)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国芦田城主。信玄死後、勝頼の命で、遠江国二俣城に入城する。


家康公は二俣の落城を聞し召し、大きに憤(いきどお)り、言い甲斐なき者どもに預けむ。攻め落されし事、口惜しき次第なり。かの城ばかりにあらず。宇都山は味方の要用の地なり。然るを、もし敵に取られては、いよ/\味方の弱み成るべし。よって本多、榊原、酒井、石川、大須賀、大久保ならでは守り難き所なれども、彼らは、家康出馬の節、先手(さきて)を務むるものども故、遣(つかわ)し難し。その外では誰人(だれびと)か然るべきや、と仰せ事ありけれども、この節、御譜代衆は甲州勢大軍なる故、御請け申す人もなき所に、松平備後守清善、家督(かとく)を嫡子(ちゃくし)、玄蕃亮(げんばのすけ)清宗(きよむね)に譲り、その身は隠居しけるが、この節、御前に居合わせければ、進み出で、某(それが)し身不肖(ふしょう)に候えども、かの要塞(ようさい)を守り、敵攻め来たるに於いては、心の及ぶほど防ぎ戦い、叶わざる時は、打ち死に仕るべし。存命の中は、城を敵には渡すまじ、と申し上げければ、家康公聞こし召し、大きに御感悦(かんえつ)ありて、すなわち、かしこへ立て籠もり厳しきに、相守るべしと仰せ付けられ、御盃を給わり、御腰刀(こしがたな)を添えさせられて、下し給いけるとかや。
※ 言い甲斐なし(いいがいなし)➜ ふがいない。いくじがない。
※ 宇都山(うつやま)➜ 宇津山城。遠江国に在る戦国時代の城跡。浜名湖に突き出した正太寺鼻に位置する宇津山にある。
※ 要用(ようよう)➜ 必要なこと。
※ 松平備後守清善(きよよし)➜ 原文はすべて「清善」を「清吉」と誤記している。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平親善の長男。竹谷松平家四代当主。
※ 不肖(ふしょう)➜ 取るに足りないこと。未熟で劣ること。
※ 感悦(かんえつ)➜ 非常に感動してうれしく思うこと。
※ かしこ(彼処)➜ あそこ。かのところ。(遠称の指示代名詞)
※ 腰刀(こしがたな)➜ 腰にさす、鐔(つば)のない短い刀。

(「参河後風土記正説大全 第弐拾参」読み終わる)
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