平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
あれ! そっくりじゃないか!
広重の「東海道五十三次」、金谷(上)と小田原(下)
あれ! そっくりじゃないか!
昔から、広重の「東海道五十三次」の「金谷」を見て、背後に描かれている山はどこの山なのだろうと、不思議に思っていた。「金谷」は地元だから気になる。あの方向に高そうな山は見当たらない。
最近、ネットで、その「東海道五十三次」の絵が、ずらり並べられた画面を見ていて、自然に「金谷」を探していた。見覚えのある「金谷」の絵柄を見付けて、案内文に目が行き、えっ!と思った。「小田原」とあったからだ。
細かく見れば小さく小田原城も描かれて、背後の山はデフォルメされているが、「馬でも越す」難所「箱根」の山なのであろう。手前の川は酒匂(さかわ)川である。
あらためて、「金谷」を探して、この二枚、構図がそっくりなことに気付いた。金谷坂らしき家並も描かれているから、金谷に違いないが、あのシルエットに描かれている山並みは、広重さんは「小田原」のものを無意識に流用したのかもしれない。
「越すに越されぬ」大井川の先には、東海道の難所の一つ、「小夜の中山」があるから、難所つながりで、同じような構図になったのだろう。とすれば、「金谷」のシルエットは、「小夜の中山」を指しているのであろうか。
時間があると、余分なことを考えてしまう。
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志田コレクションの魅力とその特徴
午後、女房と靜岡市美術館「竹久夢二と靜岡ゆかりの美術」展を見に行った。同時に今日は「志田コレクションの魅力とその特徴」と題した講演会も開催されるので、それにも申込んであった。この展覧会の竹久夢ニの部分は蒲原町の志田喜代江氏の志田コレクションから出品されている。
講師は夢二研究家の谷口朋子氏であった。
夢二の美術館は全国各地にあるという。書き出してみると、
夢二郷土美術館(岡山市)
竹久夢二伊香保記念館(群馬県渋川市)
竹久夢二美術館(東京都文京区)
金沢湯涌夢二館(金沢市)
これ以外にもまだまだある。見学したことのあるのは、伊香保の美術館だけであった。これらの美術館に共通して言えることは、いずれも公立の美術館の収集品ではなくて、個人の蒐集品が主になっていることである。
夢二は美術学校の出身でもなければ、誰か個人的に師事した画家がいるわけでもなく、人気があった割には、素人画家、女子供のための絵として評価が低く、華やかな女性遍歴から、公立の美術館からは敬遠されていた。1960年後半より再評価されるようになり、この15年位前から公立の美術館も夢二の作品を購入するようになった。
志田コレクションは個人蒐集の中では中規模のコレクションである。志田コレクションの特徴は、女性コレクターの手になったことで、大変に珍しい。また、その蒐集品は夢二の様々な活動から、バランスよく蒐集されており、夢二の業績の全貌を知る上で大変貴重なコレクションだという。
コレクターの志田喜代江氏は大正13年生まれ、母の遺品の中にあった夢二の著書、「青い小径」に魅せられて、夢二の著書の初版本のコレクションを始めた。その後、30歳の時、夢二会に入会、以降およそ20年間にわたって、約300点の作品を蒐集した。中でもその中核をなしている、夢二直筆の「京都日記」(大正7年3月~12月)は大変貴重な資料である。
志田喜代江氏は自分の私家版著書の中で、夢二の絵について次のように述べている。
夢二の絵は、本格的絵画でないとの一部の批評もあるが、絵が、或る型にはまらなければ、何派に属さなければならない理由はないし、そんないいがかり的なことはどうでもよい。永久に、多くの人々を感動させる何物かを、絵が持っているか、いないかということではあるまいか。
夢二式美人画といわれる独特な絵も、詳しく見ると相手の女性が変わるたびに変化しているとか、自らの絵を「抒情画」といい、新しいジャンルを打ち出したとか、夢二の名前は、信奉していた画家、藤島武二と音が同じ名前にしたとか、関東大震災で夢二人気は一気に落ちてしまったとか、大正末期からは、絵の揮毫を「夢生」と変えたことなど、色々聞いたがそれらは雑知識として、記憶に入れた。
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山口源の作品について - 島田博物館講座
(「能役者」の木片と作品)
第6回島田博物館講座に午後出席した。毎日が日曜日となった今月は、合わせて12日、講座や講演会があり、今日までに11日を済ます勘定になった。それぞれは2時間程度であるが、靜岡まで足を伸ばす場合もあり、古文書講座では予習、復習もしなければならず、思いの外忙しい一ヶ月であった。
今月2度目の博物館講座は、島田市博物館分館で開催されている企画展「山口源の世界」に合わせた講座である。講師は静岡県立美術館の上席学芸員の泰井良氏である。
浮世絵版画という伝統を持つ、日本の版画であるが、明治になって印刷技術が導入されると、急速に衰退した。1904年(明治37)、山本鼎が「漁夫」という作品を雑誌に発表して、自画・自刻・自摺の創作版画として、その技法も雑誌に連載、創作版画という芸術表現が広まった。版画雑誌もたくさん出版され、中でも静岡県では創作版画の先駆者が多い。1911年(明治44)には白樺が主催する西洋版画展が催され、展示品は複製版画が多かったものの、版画がブームになった。
その後下火になったりしたけれども、戦後になって、日本人版画家たちが、国際版画展に積極的に参加するようになって、浮世絵と結びついた日本の版画家は、海外で高い評価を得た。版画に対する国際的な賞を受賞する版画家も多く出るようになった。棟方志功、長谷川潔、駒井哲郎、池田万寿夫などとともに、山口源も国際版画展で大賞を受賞した。
山口源は1896年(明治29)富士市に生まれ、1914年(大正10)精神修養道場「一燈園」で生活、版画家恩地孝四郎と出会い、版画の道に進んだ。1958年(昭和33)、第5回ルガノ国際版画ビエンナーレ展で「能役者」が、日本人初のグランプリを受賞した。1976年(昭和51)年、沼津市で死去した。
恩地孝四郎が始めたマルチブロック(物体版画)という手法を発展させて、作品に仕上げた。版木の代わりに、木片や落ち葉、ひもなどを使って独特の作品を作り上げている。木目や葉脈などがそのまま作品に生かされて、当時としては斬新な版画作品であった。
講義のあと、場所を分館に移して、山口源の作品を鑑賞した。晩年沼津に住んだらしく、アジの開きの干物を版木代わりに使った作品などは笑ってしまった。「能役者」のモチーフは海岸で拾った木片の木目が能役者の横顔に見えたことによる。山口源の言葉を借りると、
民族の必然的露出、特定のモデルはない。私の私だけのイメージにすぎません。イメージが作家の側に発酵しつつあるとも、その外部の世界に“材料”を発見し、その両者の交合によって作品が結晶していく。
山口源の作品を鑑賞するのは初めてのはずであったが、作品の色使いなどに既視感があった。展示品の中に、松本清張や井上靖の新書版の本が数点並んでいた。本のカバーデザインを手掛けたこともあったようだ。なるほど既視感はこれであったかと納得した。
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青島淑雄作品について - 島田博物館講座
午後、島田博物館講座に出かけた。第五回の今日のテーマは、博物館の企画展、「郷土の作家 青島淑雄 日本画の世界」の記念講演ということで、青島淑雄(ひでお)氏が話をされるという予定になっていた。
青島淑雄氏は日本画家青島蘭秀の息子として島田市高砂町に生まれ、日本画家を目指して中村岳陵画伯の塾に入門、18歳で日展に最年少者として初入選した。画歴を見ると、昭和63年に「はばたき」の図が外務省に買い上げられたという記事を最後に、平成になっての画歴の記録がない。以後は大作を画くことを止めたのだろうか。現在長泉町に在住している。
画家は人前で話すことが苦手で、学芸員が著者の略歴や、島田近辺の各所に所蔵されている作品を企画展のために借り出す苦労話などを話しながら、同時に、画家が作品を仕上げる前に行うデッサンや小下図などを会場に回してくれた。デッサンの中には日本画には珍しいヌードのデッサンもたくさんあった。画家からは決して嫌らしくなっていない点を見てもらいたいとの意向であった。
回している時間に、自然に質問が出て、画家がそれに答える形になった。質問は絵を学んでいる熟年者たちからで、問答を聞いていると面白い。
画題は静物でも風景でも色々あるのに、どうして日本画でヌードを画かれるのか。プロの画家は何でも画けなければならない、プロだから時間はたくさんあるから、ヌードも画いた、素人だと時間も制約されるから、画題をしぼって画いたほうがよい。ヌードのデッサンをするのは、恥ずかしさや後ろめたさを感じるが、画家はそれをどのように克服してきたのか。恥ずかしければ画くのを止めればよい、本当に美しいと思ったら画けばよい、画題はいくらでもある。
絵の具は何を使っているのか。ほとんどは岩絵の具で、水と膠を熱しながら混ぜて、絵の具を作る。調合が難しくて、間違うと筆のすべりが悪かったりして、なかなか上手に出来ないが、何かコツがあるのだろうか。絵の具が出来なければ絵が始まらない、もっと勉強して作れるようにならないと絵は画けない。
しゃべりが苦手と言い、飄々とした言葉つきながら、なかなか舌鋒は鋭い。
講座の後半は展示会場に場所を移して、学芸員から解説を聞きながら作品を鑑賞した。作品に取り掛かる前に、まず小下図(小さい下絵)を何度も書き直しながら構図を決めていく。作品によっては構図を決めるまでの方が時間がかかる場合もある。作品の多くは島田近辺の企業、学校、公共団体などに多く納められている。ぬくもりが感じられる絵はどこを飾るにもふさわしい画風である。
図録1200円を購入して帰った。
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森山焼 - 島田市博物館講座
昨日に続いて、島田市博物館講座の講義内容である。テーマは「初山焼・志戸呂焼・森山焼について」。志戸呂焼については何度か書いた記憶があるので、今回は志戸呂焼をルーツにした森山焼について講義の内容を記す。講師は森町教育委員会の北島恵介氏である。
かつて太田川は現在の三島神社のある森山にぶつかり、西側へ流れていたが、コースが森山の東側に変わり、現在の森町は元々太田川の川原だった場所に発達した。町の元は、森山にあった森山(白幡)大明神から南へ、参道の両側に発展した市場が広がった町だといわれる。
市場の形成には「連尺の大事」と呼ばれる鎌倉時代以降に出来た市場の法則があって、森町もその法則に則って形成されたと考えられる。すなわち、神社に近い上町に上物商(米穀類、太物、紙、漆器)が並び、下町には下物商(ゴザ、履き物)が並び、下木戸があって、その外には風呂屋、旅籠屋と水物商売があった。
森の町名も、森山焼の名前も、この森山から出た名前である。鋳物師については森町には金谷から移り住んだ山田家が駿遠両国鋳物師総大工職を長年勤めるなど、金谷との絡みの中で盛んであったことが知られる。同じ火を使う焼物でも、金谷の志戸呂焼の流れを汲む森山焼が現代まで残っている。
この金谷から森への技術の流れは示唆に富んだものである。現在、工事中の第2東名では金谷と森にはそれぞれICが出来て15分ほどで繋がることになるが、その第2東名のコースに近い山道、里道を歩くと、現代でも4、5時間で金谷から森まで歩ける(自分の足で歩いたことがある)。昔も大八車を引いて一日で往復したというような話も残っている。東海道まで出て袋井宿から森に至る道では随分遠いと思われるが、山道を取れば意外に近い。昔の人たちは遠方に行くという感覚は無かったのではないだろうか。
森山焼が始まったのは明治の終わり頃、中村秀吉によって登り窯が築かれた。当初は近代化で需要が高まった土管を焼いていたが、そこから焼物に発展した。秀吉は生涯ろくろを回せなくて、手ひねりで作った。肉厚で大きな壺や瓶が多くて、一名「土管焼」と呼ばれていた。そこへ金谷の志戸呂焼の窯元から鈴木静邨(重太)が入って、薄く作る技術が伝わり、円明寺焼と呼ばれた。この子孫や弟子たちが現代の森山焼につながっていく。
森町に移って来た当時の鈴木静邨の作品を見ると、釉薬の掛け方で虎斑模様を出す技法など、まったく志戸呂焼と同じ特徴を示している。
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初山焼 - 島田市博物館講座
第2回の島田市博物館講座に出席した。同博物館では現在「遠江のやきもの」展を開催している。それに伴なっての講座でテーマは「初山焼・志戸呂焼・森山焼について」である。初山焼・志戸呂焼・森山焼それぞれに講師が変わって講義があった。今日はその中で、初山焼について講義の内容について紹介する。講師は浜松市博物館学芸員の栗原雅也氏である。
「初山(しょざん)焼」という窯は初めて聞く。浜松市北区細江町で、道路工事で灰原(窯から出る灰を棄てた場所で、失敗した陶器片も棄てらる)が見つかり、陶器片がたくさん見つかった。そばに黄檗宗のお寺、初山宝林寺があったため、宝林寺で使用する陶器を焼かせた場所だろう考えられ、「初山焼」と呼ばれた。
1983年、道路工事に伴ない、宝林寺から少し離れた場所に灰原が見つかった。残念ながら窯は工事で壊されたあとであったが、「初山焼」の特徴を備えた陶器片が発掘された。
発掘調査後、各地から問い合わせが相次いだ。各地の発掘調査で出土した陶器が「初山焼」ではないかと注目を集めたのである。その結果、「初山焼」が静岡県内から、東へ、関東から東北の一部まで流通していたことが分った。主に戦国時代の北条氏の勢力圏内で、主として城跡などから発掘されている。それらの発掘場所からの情報で、「初山焼」は1580年台から1590年台初めにかけて焼いていたことが確認された。北条氏の勢力が及ばなくなって、廃れてしまったところから、北条氏の庇護下にあったものであろう。
初山宝林寺は、日本に黄檗宗を伝えた隠元禅師に付き従って明国から来日した独湛禅師を、金指の領主旗本近藤登之助貞用が招いて、領内に開かせたお寺で、開山は寛文4年(1664)だという。「初山焼」が焼かれていた年代とは80年ほどのタイムラグがあり、「初山焼」が宝林寺の開創に関わった窯であるという仮説はほぼ崩れた。
「初山焼」の特徴は、破片などで見る断面が灰色あるいは青みがかった灰色で、粒子が粗く、チョコレート色の粒子が混じっているのが特徴である。「初山焼」の器種、形態変化、生産技術などの共通性から、瀬戸美濃大窯から工人が移って来た始めたことが推定される。
「初山焼」が発掘された城跡などの遺跡は、鳥羽山城、見附端城、久野城、山中城(以上静岡県)、八王子城(東京都)、小田原城(神奈川県)、箕輪城(群馬県)、鉢形城、忍城(以上埼玉県)、生実城、小金城(以上千葉県)、三春城下町(福島県)などである。県外の城はいずれも小田原の北条氏の勢力化にあった城である。
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東洲斎写楽の謎が解明された
昨日の博物館講座で、講師が夜、浮世絵について放映されるという、漠然とした情報をくれた。夜に注意してみると、なるほどこれのことかという番組があった。
邪馬台国はどこにあったかという謎に次ぐ、日本史の謎として、東洲斎写楽は誰であったかというテーマがあり、プロ、アマ入り乱れて諸説紛々であった。写楽が江戸の浮世絵画壇に、突然にデビューして活動したのがわずかに10ヶ月、約2日に1枚のペースで百数十枚の浮世絵版画を残して忽然と消えてしまった。
情報が少ないだけに、マニアの想像を掻きたて、40近い仮説が飛び交い、楽しませてくれた。かく言う自分もその何冊かを読み、想像をたくましくしたファンの一人であった。他の浮世絵版画とは一線を隠すグロテスクとも思われるリアリティのある作品は、現代でも大変にインパクトがある。
その写楽に近頃大きな発見があった。ギリシャで写楽の肉筆画が見つかったのである。扇に描かれたその絵は写楽の特徴が明らかに見え、中でも決め手になったのは、気を使わずに書く耳の書き方で、5タッチで描かれる耳は、写楽以外、誰も描かない画き方であった。
写楽の肉筆画と特定されたものは初めての大発見であった。肉筆画が版画に加工される間に、写楽の筆遣いは消えてしまう。肉筆画で初めて写楽の筆遣いを知ることが出来た。その筆遣いは彼独特のものであった。筆に留りを作りながら少しずつ線を延して画いていく方法は、一見なれない素人の筆遣いにも見える。
写楽は誰かという説は、大きく分けて3つに分けられる。一つは、写楽が消えてから50年ほど経って、考証家・斎藤月岑が「増補浮世絵類考」で、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む阿波藩お抱えの能役者であるという記述があり、有力説であった。二つは、写楽が蔦屋重三郎の店からしか出版しなかったので、蔦屋重三郎その人ではないかという説である。三つは既存の画家が名前を変えて出したものではないかとして、この時代に生きた画家を総ざらいしたのではないかと思われるほどたくさんの人が並ぶ。
写楽の肉筆画と断定された1枚が出てきて、外にも肉筆ではないかとされながら断定できなかった下書きが、筆遣いから肉筆と断定され、内容を考証した結果、蔦屋重三郎の死後に書かれたことがわかって、蔦屋説が消えた。独特の筆遣いを他の候補の画家たちの肉筆画と比較すると、一つとして同じ筆遣いの画家はいなかったため、既存の画家の変名説も消えた。
最後に残ったのが、斎藤十郎兵衛説で、そう結論付けて再検討してみると、斎藤十郎兵衛説がいよいよ有力になってきた。東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛の「さい、とう、しゅう」の順番を入れ替え、「とう、しゅう、さい」つまり東洲斎という名前にしたのではないかという説も真実味を帯びてきた。
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島田市博物館講座へ出席
島田市博物館の平成23年度博物館講座を受講するように、申し込んだところ、参加受付のハガキが来て、本日午後、その第一回に参加した。テーマは「浮世絵版画の傑作、東海道五十三次」で、講師は常葉学園大学造形学部長の日比野秀男氏であった。
島田市博物館では5月22日まで収蔵品展「浮世絵でいったつもり 旅と名所」が開催されていて、それに合せた講演会でもある。参加者は50人くらいいたであろうか。そのほとんどが熟年世代である。会場が狭くてパイプ椅子だけの席で、少し窮屈であった。
日比野氏は島田市出身、美術館、博物館にいくつか関わってきて、浮世絵については大変造詣が深いと紹介があった。
浮世とはこの世のことで、浮世絵はこの世の人々の生活、娯楽、風景、美人、歌舞伎などを描いた絵である。江戸時代、浮世絵は肉筆から版画に発展して多くの人の手に渡るようになり、大いに流行った。
浮世絵版画を創めた菱川師宣(1618~1694)のときはまだ墨一色であった。鈴木春信(1725~1770)が錦絵を発明し、多色刷りがずれないために「見当」を付けた。その後、美人画の喜多川歌麿(1753~1806)、長生きで多作だった葛飾北斎(1760~1846)、東海道五十三次がロングセラーになった歌川広重(1797~1858)などが輩出して、浮世絵版画の全盛期を迎えた。
東海道五十三次の版画を鑑賞するポイントは、まず、どこの場所かを知る。案外誰でも話には聞いたことのある名所や景色が描かれている。構図を楽しむ。視点がどこにあるのかを考える。春夏秋冬の「季節」、朝・昼・夕方・夜の「時間」、晴れ・くもり・雨・風・雪・霧などの「気候・天候」を知る。他の版画と比べて違いを見つける。最後に自分の好きな景色を見つける。本当に鑑賞するには、版画の略図を描き、使用されている色を書き入れたり、気が付いた点をすべてメモしていく。そんな鑑賞の仕方を推奨したことがある。
講演の最後に、全員に1枚ずつ浮世絵版画の複製を渡し、20秒ほど鑑賞しては、「次!」という号令で隣りへ回す方法で、70枚ほどの複製を全員が手元にして鑑賞するという、興味深い方法で鑑賞した。浮世絵版画の鑑賞は額に入れて見るのではなくて、手に取って鑑賞するのが本来であるという講師の主張の実践であった。手に取ると版画に書かれた何気ない文字が色々と意味を持っているのが解って面白い。我が家にある画集でゆっくりと鑑賞してみようと思った。
最後の質疑で、広重は実際に旅をして画いたのかという質問があった。司馬江漢の原画を元に版画にしたという説へ議論を持っていこうという意図が見え見えだった。講師は老獪で、自分は版画そのものを鑑賞することが大切で、実際に旅をしたかどうかには興味がないと議論を避けた。
大流行した浮世絵版画は、芸術作品として見られてはいなくて、輸出陶磁器の包装材に使ってしまうような感覚があったが、江戸時代の人々はどんな感じで浮世絵を見ていたのだろうかと、質問してみた。講師は現代で言うと週刊誌を買うような感覚だろうかという。なるほど、週刊誌のグラビア写真を壁に貼るような感覚で浮世絵を貼って楽しんだのであろうと理解した。
そんなに深い専門的な話は無かったが、我々が浮世絵版画を鑑賞する大きなヒントを頂けた。
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遠州横須賀町街道ちっちゃな文化展
昨日日曜日、掛川市の横須賀に「遠州横須賀町街道ちっちゃな文化展」が行なわれて、女房と出かけた。横須賀の古い町筋に、個人のお店や民家の座敷まで開放して、それぞれ絵画、版画、写真、彫刻、陶器、ガラス工芸、金属工芸、伝統工芸、手芸など、プロ、セミプロ、アマチュアが入り乱れて、一軒当り一人から三人、その作品を展示するミニ美術館が77軒も並んでいる。そこに近郷近在から見物人がやってきて、三々五々その人並みが絶えない。
毎年、今の時期に三日間行なわれ、もう12回を数える、街を上げての文化祭である。記憶では、昔、一度見に来たことがある。5年目も終わりに近付いているブログに書いていないから、5年以上前のことである。女房に言わせると、年に一度とはいえ、自宅を座敷まで開放する町屋の住人たちが立派だと思う。自分にはとても出来ないことだという。
旧役場そばの駐車場に車を停めて、歩き出した。最初に見たのは栗山製麩所で作られている麩菓子だった。麩菓子とは懐かしい。まーくんはなぜか味の無い麩をパクパクと食べる。麩が好きなようだ。喜びそうだから帰りに買おうと話ながら過ぎる。
最初に入ったのは、佐野せいじという見付在住の版画家である。版画の作品が海野光弘を思わせるような風景画で、一枚数万円の値札が付いていた。女房が話すのを聞いていると、子供の新築祝いに面白そうだと話していて、電話番号まで聞いていた。
(栄醤油醸造工場)
古い醤油屋さんの栄醤油で店の裏の古い工場を開放して見学させていた。鰻の寝床のような町屋を抜けると裏に古色蒼然とした醤油醸造工場があった。築どのくらい経つのか見当もつかない、醤油の香りがいっぱいの工場には、柱や壁や梁にいっぱい醤油の麹菌が住み着いていそうだ。だから建て替えなど思いも浮かばないのだろうと思った。天然醸造用の大きな樽がいくつも並び、醤油になるまでに一年半ほど掛かるという。操業が寛政七年(1795)というから、200年以上続いている。
(横須賀凧)
横須賀凧が飾られた店もあった。鮮やかな図柄はおなじみのものである。とにかく、会場ごとに覗いたり上がり込んだり、さすがに後半ではお互いにバテてきて、はしょった部分も多くて残念な思いもあったが、もう十分の気持が勝った。
引返しながら愛宕下羊羹を求め、富士宮焼きそばを買い、天ぷらうどんを食べて、小雨が降ったりやんだりし始めた中を駐車場に戻った。結局、3時間ほど見て回ったことになる。麩菓子は食紅が使ってあるものしか残っていなかったので、止めにして帰った。女房や娘の、孫たちへの食へのこだわりは、気の使い過ぎかもしれない。
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印象派とエコール・ド・パリ
靜岡駅北口に出来た葵タワー3階に靜岡市美術館がオープンした。その開館記念展として、「ポーラ美術館コレクション展 - 印象派とエコール・ド・パリ」が開催されていて、女房と出かけた。帰りにガンダムを見たいと思い、車をグランシップの駐車場に停めた。葵タワーは靜岡駅北口に聳える、地上25階、地下2階の紺屋町地区再開発ビルである。2010年4月にオープンしたばかりだという。電車で一駅戻って、地下道を歩き、エレベーターで3階の靜岡市美術館まで行った。
出品作品は印象派のルノワール、モネ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、スーラ、ルドン、ロートレックなど、エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれた、ピカソ、ユトリロ、ローランサン、モディリアーニ、藤田嗣治、シャガールなど、それぞれの画家で数点ずつあり、出品作品一覧によると75点もあり、見る方が観賞疲れするほどの量であった。
「印象派」とは、フランスで既成のアカデミーやサロン(官展)に批判的な若手画家たちが、1874年、賞も審査もない展覧会を開いた。その中でモネの作品を揶揄した批評から、印象派と呼ばれるようになった。後に印象派展と呼ばれ、それに参加した画家たちは印象派と呼ばれるようになったという。
また、「エコール・ド・パリ(パリ派)」については、1910年代から1930年代にかけて、パリで活躍した外国人画家と彼らと親しかったフランス人画家たちをそう呼ぶという。
画家の名前だけの作品ではなく、一目見て画家の名前が思い浮かぶ作品が多く見られた。それぞれの画家の特徴が出ている絵である。
モディリアーニの絵の前でふと思った。この人はどうしてこんなに首の長い人物像ばかり描いているのだろうと。首だけではなくて頭や胴も長い。これが彼の絵の特徴で、独創的な描法なのであろう。しかし、特徴とは言え、テクニックだけでこのように描き続けるのは大変なことである。ひょっとして、彼にはすべての人物がそのように見えていたのではないだろうか。何の根拠もないし、すぐに否定できる情報も揃っているのだろうが、そんな風に思った。そんな風に思って見ていくと、ゴッホの最晩年の絵や、ムンクの叫びなどで同じような思いを抱く。
作家は見えているままに描けば良かった。そのように見えていたのは、目のレンズが歪んでいる場合と、それを受ける脳が異常を来たしている場合が考えられる。昔、サイケデリックな絵を薬を使って得た幻覚などでインスピレーションを得て描こうとした作家がいた。そんな手段を用いなくても、生まれながらに独創性を持っている作家を人は天才と呼ぶのだろう。ただ紙一重ではあるが。
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