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大井河源紀行 2   3月14日 鵜網

(甘夏の前のオダマキソウ)

神座から鵜網の集落に入った。畑に桃や梅の木を多くみた。桃は鵜網の名産だという。家数は二十戸ほどで、大井河原の高い丘の、牛繋ぎ段にある。牛繋ぎと云える地名は、書経の武成に、「牛を桃李の野に放つ」と云う、戦備を解くことの例えの古語がある。それから取ったものだろうと、藤泰さんは想像する。周の武王が、戦いに用いた牛を、桃林と呼ばれる野に放ったという故事を踏まえた古語である。藤泰さんの教養の程が知れる。

鵜網の産神は八幡宮、若宮、牛頭天王、稲荷などで、その外、琵琶神と呼ばれる古祠がある。むかし落人が盲人となった。日々琵琶を弾いて心を慰めていた。里人がその霊を神に祭った。眼病を患うものに霊験があるという。お寺は、曹洞宗宝杖山地蔵院といい、本尊地蔵の小院である。

鵜網(うあみ)の名は、鵜飼師が住んでいたため、むかしは鵜綱(うづな)であったが、後の代に読みを誤って、「うあみ」と読んでしまった。鵜綱なら、「鵜の首につける縄」のことで、意味が通じるけれども、鵜網になり、地名の意味が判らなくなってしまった。

村長(むらおさ)は松浦氏といい、立寄って休憩した。この松浦氏について、
この家は西国松浦の統、渡辺氏の支流にて、今川伊豫守貞世朝臣に属し、かの国より下りて、世々今川家に仕えしが、後の世に落人となりて、この里に蟄居したると申し伝うれども、たしかな證(しるし)も非ざれば、是非、詳らかならず。

落人になったのは、武田と徳川に攻められて、今川氏が滅びた頃であろうか。確かな「證」とは、そのことを示す古文書の類いであるが、江戸時代以前の古文書は大変少ない。松浦氏のは、言い伝えだけで、古文書は残っていなかったのであろう。この松浦氏も、女房の実家の遠縁に当るらしい。

鵜網から川口に至る道は、今でも岩壁を削った自動車道がその辺りだけ狭まっているが、当時も険しい山道であった。藤泰さんはその道中を以下のように記す。

左に大井川を見て、つづら折りなる坂にかゝれば、嶮にして屈曲七曲りになり、およそ十二、三町もあり。峰に石地蔵を安置して休所(やすんど)とす。坂を降りて河原に出たり。前に流れを見て、左手に大井川の流あり。この川は伊久美川の下流にて、ここにて大井河に落ち注ぐなり。河原の中に、舟山とて一小島あり。川の落口の下に聳えたる高き山あり。鵜山という。かの七曲の方なり。また川の落口の上の川岸には畳岩とて、その形、数十畳のたたみを積みかさねたる姿なり。過ぎし年頃、桶舟というものに乗りて、家山より下りし時見たりし佳景の地なり。

伊久美川が大井川に注ぐ川口には、現在、川口発電所が出来て、景色はすっかり変わってしまったけれども、伊久美川の落口、舟山、鵜山、畳岩などがどうなったのか、近いうちに、現地を調べに行こうと思う。

最後に面白い記述がある。藤泰さんは「桶舟」に乗って、家山から川下りしたことがあるという。「桶舟」とはどんなものなのだろう。佐渡で客を乗せる観光用の桶舟の写真を見たことがあるが、不安定で、とても大井川の急流を下れるようには思えない。古文書で、この辺りの渡しに、桶舟が使われた話を聞いたような気もする。これも調べてみたい。

伊久美川を渡って、川口の村に入った。鵜網から半里(2キロ)と記す。
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大井河源紀行 1   3月14日 出立、神座

(庭のヒメツルソバ)

今日から桑原藤泰の「大井河源紀行」を読む。古文書解読の勉強の一環だから、影印を解読しながらの作業になる。影印とは、書物を写真にとり製版、印刷することで、肉筆で書かれたそのままに印刷されたものである。

書き出しは以下のように始まる。ここでも読み下し文に直して紹介する。その際に昔の読み方に出来るだけ近付けるように努力したい。

文化九年という壬申の春、弥生の中旬、大井河の山中に分け入りて、志太郡の境を見極めんと、その心がまえす。ここに、僕(下僕)を兼ね、案内知る人を約し置きたるもの、来たりいう。昨日は雨降りて、今朝は空も晴れわたり、旭かがやき、うららかなり。山中に門出し給え、と進むるに任せ、十四日が巳の刻ばかりに、蝸牛の庵を立ち出でつゝ、‥‥‥

と始まる。出発したのは、文化9年(1812)3月14日午前10時ごろである。3月14日はもちろん旧暦で、新暦でいえば4月25日になり、季節が今の季節に重なる。温暖化の時代だから、当時より暖かいのだろうが、季節はほぼ予想が出来る。雨上がりの好天に出立した。

伊太村大鳥、赤松、相賀村渡口、蛭子(えびす)の森などの地名が出てくる。渡口は大井川の渡し場があった所と聞く。蛭子の森が現在のどこを指すのか、後日調べてみる。

続いて、
川原を神座河原と唱いて、広き河原に茱萸(ぐみ)の林あり。近頃、芝地きり開きて新田を墾(つく)る。この茱萸の古木には、木耳(きくらげ)というもの多く生ず。

現在は広いミカン畑になっている辺りであろう。神座は当時からミカンの産地だったようで、
この地、蜜柑多く名産にて、近郷にひさぐ。又里に出風とて、北より南へ吹きて、冬、春、霜の降るを吹払うなり。ゆえに、橘柚の類、土地に相応す。

村長(むらおさ)某に立ち寄りて、里の古き伝を尋ねけれど、事跡の伝もあらずと言う。

村長の家を訪ねたが、案外そっけなく扱われたようで、村長は実名を挙げていない。お遍路の記録をまとめたとき、自分も宿の悪口を書くときは、宿名を伏せた。藤泰さんもそんな感覚だったのかもしれない。この村長、もしかしたら女房の親戚のお宅の御先祖さんかもしれない。これも調べてみよう。

藤泰さんが調査した最初の村が神座村であった。島田宿より2里半(10キロ)、家数65戸、産土神(生まれた土地の守り神)は大井の神、若宮、八幡、天王の社があり、寺院は洞家(曹洞宗)金生山光蔵寺、本尊薬師なりと、調べた内容を簡略に記す。なお、光蔵寺は、昔は峰山の麓、会下(えげ)の平にあり、その当時は天台宗千葉山の末寺だった。その後、曹洞宗天徳寺の末寺となった。この会下の平は現在どうなっているのだろう。
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「大井河源紀行-はまつづらの抄-」とは

(斑入りナルコユリ)

文化、文政の江戸文化の爛熟期に入ると、江戸幕府は各国の地誌の作成を企てるようになった。文化七年(1810)、駿府町奉行に任ぜられた服部久右衛門貞勝は、文化九年春になって、駿河国大地志の編集を企て、与力佐藤吉十郎を係として、各地方の文化人8名を撰者として選び、その中から稲川治憲を総裁として、編集を各撰者に分担させた。

志太郡では島田在住の桑原藤泰が地志撰者に選ばれた。桑原藤泰が撰者に選ばれたのは、その方面に彼は実績があったからである。文化六年には志太、益津、有度の三郡を巡行し、翌七年には再び益津郡、八年には志太郡を巡村し、同年末には益津郡の地志の稿をすでにまとめていた。

文化九年十月には駿府町奉行の服部は松前奉行に転じて駿府を去ったが、彼の地にあって、老中松平信明に進言し、地志編集活動を支援した。

桑原藤泰は文化九年三月、撰者に正式に委嘱されたその月に、十四日から二十七日まで、志太郡のうち、大井川流域の調査の旅に出かけた。その調査旅行の記録が「大井河源紀行」である。

結果として、服部が企てた駿河国大地志は撰者の死亡などもあり、中途で頓挫した。しかし、調査が進んでいた部分は、後に桑原藤泰によって「駿河記」としてまとめらて現存している。

「大井河源紀行」の原本は所在が明らかでないという。しかし「駿河志料」を編集した中村高平が、安政三年から文久元年の間に、桑原家から藤泰の自筆本の「大井河源紀」を借り、写本したものが残っていた。平成六年に、宮本勉氏がその写本を翻字し、その写本の影印とともに、「大井河源紀行-はまつづらの抄-」という本を出版した。

その本を、三、四年前に図書館で見つけて、いつか読もうと思い、コピーを取っておいたものが手元にある。「梅さんの旅日記」の読破後、次にこれを読もうと思った。

島田から大井川の源流を目指して、村々を調査しながら、十四日間の旅である。大井川は現代でも標高3000メートルの南アルプスから駿河湾まで一気に下る急流で、島田・金谷まで来てようやく開けるが、その直前までは、「鵜山の七曲」といわれて、山を浸食して大きく蛇行する流れが続き、現代のように川に沿う道は無く、村から村へ幾つも峠や山を越えてたどるしかない道中であった。

案内人を一人連れて、行く谷々に必ず人の営む村々があり、それぞれに歴史や伝説、民俗がある。どんな旅になるのか、わくわくする。例によって、古文書解読の勉強であるから、翻字の方ではなくて、中村高平が写したといわれる写本の影印したものを読んで行こうと思う。
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「梅さんの旅日記」のコピーを製本した

(「梅さんの旅日記」コピーを製本)

「梅さんの旅日記」の本を、翻字と編集して刊行した、駿河古文書会会員のO氏から、手元に一冊しか残っていない貴重な本をお借りして、読む段になって、汚すようなことがあってはならないと思い、一部コピーを取らせていただいた。半月ほど掛かったが、何とか、学びながら読み終えた。借りた本は、次回古文書会で返却しなければならない。

手元にそのコピーの束が残ったので、「梅さんの旅日記」の本は製本しようと思った。製本方法は正式に学んだことはないけれども、今まで何冊か、凧糸を使って、我流で製本したことがある。今回もその方法でやってみようと思った。

今日、女房は午前中から友達の家へ遊びに行った。気の置けない同級生と、おしゃべりでストレスの発散をしてくるのであろう。留守番になって、まず作業の道具などを集めた。凧糸、針、錐、千枚通し、強力クリップ、などから、不足しているものを買って来た。

まずはコピーをきっちり揃えて、強力クリップ二つで両側から挟んで、コピーがばらつかないようにする。端から8ミリのところに線を引き、線上に2センチ間隔でポイントして、穴をあける位置を決める。両端だけは1センチにすると、ほぼ格好が付く。

穴を開けるには大変苦労した。千枚通しだけでは、どれだけ力を掛けても、穴は開けられない。だから、最終的には四方錐でゴリゴリと開けることになった。錐をもむ作業など、日頃やらないから、終わり頃には手のひらが痛くなった。

凧糸は一本の糸の両端を交互に差して、しっかりと締めながら綴じていく。西欧の鞄職人が手仕事で一針ずつ縫っていく方法と同じである。背に一本回すので、一つに穴に3本通す計算になる。だから穴を予想以上に大きく開けないと針が通らない。大きな針の方が使いやすいと思い買って来たが、針は太くて、一層大きな穴が必要になったので止めた。

一本しかない小さい針を交互に、とっかえひっかえして使う。その度に針の糸を通し換える。まだ目はよく見えるけれども、太い凧糸の先がばらついて、通すには難義であった。一計を案じて、糊で糸先を固めてみたら、一発で通すことが出来るようになった。我ながら名案とほくそ笑む。

肝心なのは、糸を緩めないように、しっかり締めることである。後から、始めの方の緩みに気付いても、締めなおすのは難しくなる。

夜まで掛かって完成した。出来映えは満足できるものになった。本当はこれに表紙や背表紙を付ければ良いのだが、素人細工にそこまで凝ることはないだろう。
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梅さんの旅日記 その12

(庭のアヤメ、アイリスではない)

ブログの上では、前回が善光寺の参詣を終えたところである。実際に読む方は、今日、最後まで読み終えた。最初に記したように、翻字と読み下し文をそれぞれテキストに落としながら、勉強として読み進めてきた。幸い、文章は平易で、分かりやすい文字で書かれており、ほとんど迷うことなく読み進めた。「梅さんの旅日記」は女性の書いた文だけに、かな文字が大変多かった。読む間に、やや苦手であった変体仮名に、すっかりなれることが出来た。これでどんなかなでも読めそうだという、自信すら付いた気がする。

帰りは、十八日掛かって掛川に着いた。山道が多く、そろそろ梅雨に入って(旅日記の日付は旧暦)、毎日のように雨に降られ、難義な旅になったが、気持はもう古里に飛んでおり、記事もぐんと減ってくる。

松本宿の手前の浅間温泉に宿泊し、3度温泉に浸かっている。伊奈街道では、駒ヶ岳にまだ白雪が残ってみえるのに驚いている。また掛川から転居した玄長主なる文人と1日交流した。信州から三河に抜ける道では、大雨で宿に逗留をしたり、川が増水して渡れず遠回りをしたり、川を避けて蛭の多い山道を歩いたり、それでも、途中、鳳来寺と秋葉山に参詣することは忘れなかった。「御山(秋葉山)へ上る時、暑さゆえ皆々はだぬぎて、あがりし」と最後は格好さえも気にせずに歩いた。しかし、もう、鳳来寺や秋葉山の参詣の感想は、ほとんど書かれていない。

「家に帰るうれしさに、皆々足もかろくいさみて、やゝ暮れ過ぎるほどに、掛川の宅には帰りつ」と、無事に戻れた喜びを表現して、旅日記を終えた。

それから、2年後、梅さんは病を得て身まかる。旅日記を清書したのは、小野利泰という人で、あとがきにその経緯を書いている。

「あるじの翁は、利泰と年頃うとからざれば、旅の懐にせし日記の、紙なんども、やれつれば、これ写し直してよと、こわるゝに、梅子の君、はた、はようしりかわす人なりしがば、いなみがたくて、筆の拙さをも、えかへり見ずして、涙ながらも書きおえしは、同じ年の閏長月つごもりなりけり」長月の初めから、約2ヶ月掛かって書き上げた。

この旅日記の清書は、御亭主の代助さんが梅さんの追悼のために、昔からの知り合いだった小野利泰さんに依頼したものであった。ゴーストライターではなかった。終りまで来て、そんな事実を知らされて、胸にぐっと来るものがあった。170年前の話で、梅さんだけでなく、代助さんも小野利泰さんも、皆んな亡くなっているのだから、今さら梅さんの死に驚くことはないのであるが、この3者の心の交流に胸を打たれたのである。(終り)
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アベノミクスと巨人軍の快進撃

(鉢のベゴニア - 冬を越して葉枯れが目立つ)

世の中の動きに目を閉ざして、古文書の世界に入り浸っていた。しばらく振りに世間を見回すと、日々目まぐるしく動く中で、安倍政権の怒涛の勢いと、巨人軍の快進撃ばかりが目立っている。

この二つの事象に、何か共通性があるかと、いろいろ考えているが、思いつくのは、安倍政権の中心はもちろん安倍晋三首相であり、巨人軍は慎之助のチームだと、原監督がいうように、快進撃の巨人軍の中心には阿部慎之助捕手がいる。つまり“あべ”つながりということぐらいであった。

安倍政権になって、長い間、停滞しきっていた世の中が、動き出した感じがする。政府、日銀が歩調を合わせて進める、デフレからの脱却として、2%の物価上昇を目標において、金融緩和を際限なく手段を選ばずに行うとした、方針転換は、その転換の瞬間から、ほぼ一本調子に円安、株高基調が進んでいる。それに合わせて、安倍政権は三本の矢と称する成長戦略を矢継ぎ早に打ち出して、景気回復を図ろうと懸命である。

経済運営については、色々な批判が出ている。円安が中小企業を直撃する。物価上昇が国民生活を圧迫する。財政再建がいよいよ難しくなる。円安、株高の反動が恐い。しかし、責任のない評論家たちの批判は無視してよいと思う。一つ一つ検証したわけではないが、デフレを脱して景気が回復すれば、ほとんど消える問題ばかりだからだ。最近では安倍政権の好調さを、野党さえ認めるほどになってきた。

これまでの政権も、デフレ脱却に対して、様々な対策を打ってきた。しかし、財政が苦しくなるばかりで、効果がほとんどなかった。景気には“気”の字が入っていることでも分かるように、大部分、気持の問題である。国民が景気が良くなると思えば消費も増えて、景気は相乗効果で浮上していく。今までの政権が取った政策は、景気が良くなると納得させるものに欠けていた。国民は疑心暗鬼で、ひたすら財布の紐を締めるばかりであった。

今回のアベノミクスと呼ばれる政策は、分かりやすくて、国民に景気が良くなるかもしれないと思わせるものがあった。それに加えて円安、株高が政策の効果を実証するように追いかけてきた。国民に景気が良くなるという期待感が段々高まってきた。

リーマンショックの際に、株を所持していて、売り逃げできずに、下落したまま所持していた個人投資家たちも、今回の円安、株高で、すでに8割方は取り戻す状況になってきた。今、高級品から売れ行きが延びているのは、こういう層の人たちがお金を使いはじめたためだろうと思う。

この春の巨人軍の開幕ダッシュを見ていると、巨人が強いときは景気が良いというジンクスを思い出す。いよいよ本格的に景気が回復することを期待したい。
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梅さんの旅日記 その11

(畑のコデマリ)

追分宿からは、善光寺街道(北国街道)を進んで善光寺に至る。善光寺までに十宿あり、十一宿目が善光寺宿で、善光寺のお膝元である。この間を三日で歩いている。

追分宿-小諸城下-田中宿-海野宿-上田城下-鼠宿-坂木宿-上戸・下戸倉宿-屋代宿-篠ノ井追分宿-丹波島宿-善光寺宿

四月廿六日に追分宿から善光寺街道に入る。小室(小諸)宿では名物の蕎麦を食べている。信州そばが初めて出てくる。廿七日、姥捨では、歌枕の「田毎の月」を見物し、昼間のことゆえ、月は見えなかったが、和歌二首を読んだ。

   月うつる 秋ぞおもほゆ さらしなや
     植える早苗を 田毎には見て
   旅なれや 月をばま(待)たで さらしなの
     植える早苗を 田毎にぞ見る


廿八日には、川中嶋合戦で討ち死にした人々を葬ったお堂に参詣した。また、別の寺では、小坊主出て、かねを鳴らして、絵解きをし、地蔵尊の由来を述べて、皆の衆が願うならば開帳せんという。和尚が出てきて、念仏十念が有って、開帳となった。

このように、旅日記ではあちこちで御開帳が大流行で、お寺は理由をつけては、お金集め(金儲け)に一生懸命だったように見受けられる。そのような宗教者とも思えない振る舞いが続いたことが、明治になってから、廃仏棄釈のあらしの一因になったのだと思う。

善光寺宿には早い時間に着き、すぐに善光寺へ参詣し、日中の御開帳おがみ、一度宿に帰って、夜におこもりをした。そのおこもりの様子を次のように記している。

夜に入り、また/\御寺にこもる。外にも籠り人有りて、諸声に一夜念仏唱え居る処へ、いづくの人かしらねど、一つあがれというて、まんじゅう出してくれる。また夜中頃、太鼓たゝきて廻る僧も有り。それより明六つ過ぎる頃、又々開帳あり、礼拝す。それより御本坊へ行くに説法あり。聴聞して血脈いたゞき、宿に帰る。
※ 血脈(けちみゃく)- 在家(ざいけ)の受戒者に、仏法相承の証拠として与える系譜。

宿に帰って一寝入りして、再び日中の御開帳を礼拝し、そのあと、大勧進という寺の御内仏が座敷にあると聞いて、参詣した。

諸国へ出開帳とて、ここの如来の御像うつし奉りてあるを、開帳仏とて本堂と同じさまに、外の御仏も安置し奉りて有り。

諸国を出開帳として巡回する様子は、かつて古文書講座で読んだ「歳代記」や「喜三太さんの記録」で読んだように記憶するが、諸国を持ち歩いた開帳仏は、巡回専用に造られたものであった。当然といえばその通りなのだが、ご開帳を有難がった地方の人々には、すこしがっかりする話である。

こんな風に善光寺参りも終わった。梅さんたちの今回の旅は、やはり善光寺がメインだったのだろうと思う。
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梅さんの旅日記 その10

(庭のヤグルマギク)

4月19日には、梅さんたちはもう帰路に着く。といっても、この後、大きなイベントとして、善光寺と秋葉山への参詣が残っている。

東照宮から善光寺にいたる路程を追ってみると、まず日光例幣使街道を行く。日光街道よりも西側を通って、中山道に直接繋がるため、西国を目指すには近道になる。その後中山道をしばらく歩き、善光寺へ向かうために、中山道から善光寺街道(北国街道)へ別れて進む。梅さんたちは、この間を11日掛けて歩き、善光寺に至った。

その間にある宿場を洗い上げてみると、日光例幣使街道の宿は、以下の通り二十宿あって、倉賀野宿で江戸から来る中山道に合流する。梅さんたちは太文字の宿に泊った。

今市宿-板橋宿-文挟(ふばさみ)宿-鹿沼宿-奈佐原宿-楡木宿-金崎宿-合戦場(かっせんば)宿-栃木宿-富田宿-犬伏宿-天明宿-梁田宿-八木宿-太田宿-木崎宿-境宿-柴宿-五料(ごりょう)宿・五料関-玉村宿-倉賀野宿

帰路にあたって、弁当を持つことを始めた。いよいよ山の中に入り、食事を取るところも覚束ないと思ったのであろう。逆にいえば、これまでは弁当を持たずに旅が出来たということである。この後、いくつか川を渡るが、橋が落ちたところが2ヶ所あり、筏で渡したり、人の背で渡してもらったりしている。さらに、徒歩渡しがあったり、川舟で渡ったりと、渡河も様々である。

22日、柴宿の宿に、関所廻り越しの舟を頼み、五料の関所を回避した。関所はすべて回避する方針のようで、またそれが可能な仕組みが整っていたようだ。その日は中山道に合流して、高崎宿に泊った。

続いて、中山道を九宿進んだ。つまり、倉賀野宿-高崎宿-板鼻宿-安中宿-【松井田宿-横川関所-坂本宿-軽井沢宿-沓掛(くつかけ)宿】-追分宿ということになるが、松井田宿と坂本宿の間に、横川関所があり、これを迂回して、中山道から南に逸れて、妙義山の妙義神社に詣で、そのまま山道を通って、追分宿に抜ける道があり、梅さんたちもそれをたどる。

妙義神社に参拝して、妙義山麓の宿に一泊、それより妙義山から連なる、大岩が続く道を行く。「廿四日雨天なり。大石の山つゞきを行く。このあたりみなぎり落ちる河音、いとさわがし。所々に水車有り」この後、さらに山を越えて一泊したあと、「廿五日、風雨ゆえ難義なり。殊にきょうも、山道にて登り下り三里、原道弐里なり。寒くさえありて、風雨の道いとたえがたし。はかどらず。このあたり藤かずら、つつじなど、真っ盛りなり」と書いている。

そして中山道の追分宿に戻り、まだ昼を過ぎたばかりだったが、雨天ゆえにそこで泊った。けわしい山道で疲れもあったであろう。関所の回避も、ここでは大変な苦労だったようだ。
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長源院/本覚寺、宗門出入のこと(3) - 駿河古文書会

(「神田川」)

昨日の続きである。

長源院の江戸の宿寺は、可睡斎の宿寺である、江戸三ノ輪の梅林寺であった。
長源院はここを拠点にしていた。この訴詔は、一度は却下されたものを、再び出したもので、訴状は宿寺を経由して、江戸の寺社奉行所へ出したようで、その折りの控えが残っている。訴状は略されているが、写すのを省略したということで、原本には(1)で扱った訴状と同じ内容が書かれていた。

卯四月廿一日、可睡斎宿寺、美濃輪梅林寺へ再添簡願い
の節に差し出し候は、目安写し並び別書、左に記しこれ有り

   恐れながら書付を以って御訴詔申し上げ奉り候
             遠州可睡斎配下
             曽我   知行所
             駿州   内山脇
           御朱印地
            長源院代
              訴詔人   桂堂印
   宗判出入
             松平   領分
             同州   池田村
            日蓮宗 本覚寺代
              返答人  歓喜院印
一 訴状これを略す
  寛政七卯四月日    駿州   内山脇
            長源院代
                  桂堂印
  寺社
   御奉行所


宿寺に依頼した文書は次の通り。訴詔の結末とは別に、後に一度却下した案件を、地頭に圧力を掛けて、再提出させた強引さが、お咎めを受けることになる。

一 右の通り、去る寅年十一月廿五日、
板倉周防守様へ御願い申し上げ候処、御糺しの上、地頭曽我伊賀守殿へ、
御引き渡し相成り、又候この度、伊賀守殿より、寺社御奉行御月番、
脇坂淡路守様へ差し出しに相成り候に付、なお又、御添翰成し下さ候様、
願い上げ候
   卯四月廿一日         長源院代
                    桂堂印
     可睡斎
       御宿寺


以下に、添翰を依頼した際に、宿寺にした御礼や、その後の訴詔の展開が記されている。

右の通り差し出し、則再添管貰い請け申し候、添翰の謝義、
 一 金百疋、中啓丈室へ 一 五百文、中啓、宿寺へ 一 百文、取次へ
※ 添翰 - 添え状
※ 中啓 - 扇の一種。末広(すえひろ)ともいう。 親骨の中ほどから外側へ反らし、畳んでも上半分が半開になるように作られたもの。
※ 丈室 - 寺の住職。方丈。

一 四月十八日、地頭所へ罷り出候節、寺社御奉行所へ差し上げ候通りの訴状
差し出し置き、則添え、使者と一同、奉行所へ相越し候
一 右出入、双方引き合いの者どもまで召し出され、則御吟味中に候えども、扱い人立ち入り、内済仕り候、依って御奉行所へ差し上げ候済口證文、並び双方取替し書面、左にこれ有り候

(続きは次回古文書会にて)
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長源院/本覚寺、宗門出入のこと(2) - 駿河古文書会

(庭のミヤコワスレ)

金曜日の続きである。

訴状に奉行所で裏判を頂いて返って来ると、その請取の一札を奉行所に提出する決まりになっていた。それとともに、訴詔の相手方にその旨を通知し、裏判を頂いた訴状を渡す。相手方からは訴状を受取ったという証文が出される。これも決まりであった。

一 御裏判頂戴、証文、御奉行所へ差し上げ候写し

     差し上げ申す一札の事
一 御連印の御裏書下し置かれ、有難たく頂戴仕り候、
早速相手の者へ相渡し、返答書写し致させ、訴
状相添え、来月廿四日まで、双方一同罷り出、御届け申し上ぐべき旨、
仰せ渡され、承知畏まり奉り候、後日のため一札差し上げ申す所、件の如し
 寛政七卯年           駿州有渡郡沓谷村之内山脇
    四月廿六日               長源院代
 寺社
  御奉行所


受取った訴状は相手方本人だけでなく、村役人が立ち合って内容を改めるのが、決まりであった。「もっとも墨付汚れなど一切御座なく候」という文言は、確かに受取ったというときに使う慣用句である。まれに、内容に不満がある場合など、墨付汚れなどを理由にいちゃもんを付けたものもあるという。

    本覚寺より差し出し候証文の写し
一 貴院より宗判出入
脇坂淡路守様へ出訴なされ、当月廿七日、
青山下野守様御内、寄り合いへ罷り出るべき旨、
御裏判頂戴、相附かれ候に付、村役人立ち合いの上相改め、慥かに
請け取り申し候、もっとも墨付汚れなど一切御座なく候、かつ当月廿四日、右
御掛り様へ返答書写し並び訴状相添え差し上げ、則ち着、御届け
申し上ぐべき旨、仰せ渡され候由、承知致し候、後日のため、一札差し出し
申し候、よって件の如し
 寛政七卯年
   五月五日       駿州有渡郡池田村
                    本覚寺 印
                 同村名主 茂吉  印
                 同村組頭 五郎右衛門 印
                 同郡小鹿村
                   名主 惣八  印
      山脇
       長源院
        代僧 桂堂長老


寺社奉行所は江戸にあるから、訴訟が始まるといつお呼び立てがあっても良いように、双方が江戸に詰めている。お寺の場合は江戸の宿寺に滞在している。ところが、お盆はお寺にとって最も忙しいときで、お盆をはさんで2週間ほどは、訴詔がお休みになり、帰村することが許される。次の文書は帰村を許されたときの御請けの一札である。

  七月六日盆前、帰村仰せ付けられの御請けの一札
一 駿州有渡郡沓谷村の内山脇、長源院代桂堂へ、この度御
慈愛をもって、盆中帰村御暇(おいとま)仰せ付けさせられ、
有り難く承知畏まり奉り候、
もっとも廿日前後までに、出府御届け申し上ぐべく候、
よって御請け、かくの如くに御座候、以上
 寛政七乙卯年
   七月六日     駿 ―――――― 内山脇
                  長源院
    寺社
     御奉行所
       御役人中


訴訟は長く掛かる。その間、江戸に滞在し続けるのは、大きな費えとなる。だから、江戸の奉行所にまで及ぶ訴訟に持ち込まれることは少なかった。訴訟社会といわれるアメリカなどと比べて、日本では訴訟が極めて少ないのは、そんな江戸時代からの伝統と考えられる。(続く)
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