goo

近代化遺産 牧之原隧道

(牧之原隧道金谷口)

東海道本線のルートに宿駅筋ルートが選定された事情については3月28日の書き込みで記した。宿駅筋ルートの選定の結果、大井川と牧之原という東海道線きっての難工事が課題となった。大井川に渡した橋梁は別の機会にして、牧之原に掘られた牧之原隧道について調べてみる。

牧之原隧道は当時の最先端技術を投入して、1889年(明治22年)に完成した。このトンネルの開通と同時に、東海道本線新橋駅~関ヶ原駅間は開通した。1,056メートルで、その当時では最も長いトンネルであった。現在、金谷駅からすぐトンネルに入るが、よく見るとトンネルは三つあって、その中で使われていない右端のものが、明治20年に完成したトンネルである。

今日、仕事の後、金谷駅線路沿いのトンネル金谷口のそばまで近寄って見てきた。トンネル入口には残土が詰め込まれて塞がれていた。入口はアーチ形に組んだ石組みが残り、中は天井に煉瓦積みが見えた。立派な近代化遺産だと思うが、まったく忘れられているのは大変残念なことである。

「鉄道唱歌」では、牧之原隧道は、近くにある旧東海道の難所であった小夜の中山と共に、24番で以下のように歌われている。

   ♪ いつしか又も暗(やみ)となる 世界は夜かトンネルか 
           小夜の中山夜泣き石 問えども知らぬよその空
 


(長光寺の石盥)

島田へ歩いた日、帰りに金谷駅裏の長光寺に寄った。満開のシダレザクラを横目に境内に入った。目当ては手洗い用の石盥である。トンネル工事に全国から集まった工事人たちが、歴史的なトンネル工事を終えて、隧道竣工記念に残したものだと言われている。判らないのはトンネルの開通は明治22年だが、石盥の日付が明治36年になっている点である。調べてみると、複線化がなったのが明治36年だから、この石盥は2本目のトンネルを掘ったときの記念のものだろうと思った。


(牧之原隧道菊川口)

菊川駅へ歩いた日、牧之原隧道の菊川口からトンネルを見た。東海道線の上りと並んで見えた。よく見ると、左側の古いトンネルには金谷口と同じ石組みが見られた。使われていないから、レールや枕木が無い。ちなみに下りは少し離れたところにある。明治36年、現在の上りトンネルが掘られて複線化が成った。昭和50年代にトンネルが老朽化して、まず下りを新しく掘り、上りトンネルを補修して、最も古いトンネルを廃道としたのである。

この近代化遺産の牧之原隧道が見捨てられているのは大変残念である。トンネルの中を人が歩けるように整えれば、トンネルの先の神谷城から人々は1キロ余りでJRの電車に乗れるようになる。車を通すのは無理でも自転車ぐらいなら通せると思う。トンネル内で当時の工事の苦労が観察できるように整えれば、観光コースに出来る。金谷駅で降りて、石畳の金谷坂を越え、小夜の中山で遊び、帰りにはトンネルを通って難なく金谷駅に戻れる。そんなコースがたちまち頭に浮かぶ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

金谷の火の見櫓総見

(今は無い横岡の火の見櫓。二週間前に撮影)

火の見櫓に興味を抱いて、近くのものを散歩で何基かを見てきた。息子がネットで調べてきて、金谷には火の見櫓が2003年の調査で16基あったという。常葉学園大学造形学部の土屋研究室で、学生達が調査したものがネットに写真とともに載っている。ちなみに静岡県には985基あった。まだ6年しか経っていないが、ずいぶん減っているのだろうと話した。じゃあ、その16基がどうなっているのか見てくるか。土曜日の午後、息子が運転手で出かけた。2003年、調査当時の写真をプリントして持参した。夕方まで掛かって16基全てを確認してきた。以下へその結果を示す。

 【金谷町の火の見櫓】-全て島田市消防団管轄
第十分団三部  金谷河原 現存 標準型 四本足 四角ステップ 
  大井川鉄道の旧国1踏み切り脇にある
第十分団ニ部  金谷河原 解体 標準型 四本足 四角ステップ 
  旧国1の交番があった脇にあった。
第十分団一部  金谷   解体 標準型 四本足 八角ステップ 
  金谷駅下土手にあった。基礎部分のコンクリートが残る。
第九分団ニ部  猪土居  解体 標準型 三本足 丸形ステップ 
  道路拡幅のためか。
第九分団ニ部  猪土居  現存 簡易型 四本足
  道路端にあるが、半鐘が無い。
第十一分団ニ部 番生寺  現存 標準型 四本足 丸形ステップ 
  2メートルほど足が下に継がれて高くなっている。
第十一分団三部 大代   解体 標準型 四本足 丸形ステップ
  道路拡張のためか。
第十ニ分団三部 神尾   解体 標準型 四本足 八角ステップ
  茶畑隅の櫓あとに、ラッキョウが植えられていた。
第十ニ分団三部 福用   現存 標準型 四本足 丸形ステップ
  旧国道沿いに立つ。錆びているのが気になる。解体待ちか。
第十ニ分団三部 福用   現存 簡易型 コンクリート柱と鉄梯子
  谷間に入ったすぐのところ。
第十ニ分団三部 高熊   現存 簡易型 四本足 ステップ無し 
  国道沿いに立つ。
第十ニ分団三部 高熊   現存 簡易型 鉄柱と鉄梯子
  大鉄踏切手前から左手すぐ。
第十ニ分団一部 竹下   現存 標準型 四本足 四角ステップ
  五和小学校前にあり。半鐘を外し、同報拡声器が取り付けられている。
第十一分団一部 島    現存 標準型 四本足 八角ステップ
  日限地蔵前。塗装もされて残っていくと思う。金谷で最も美しい火の見櫓。
第十ニ分団一部 牛尾   解体 標準型 四本足 丸形ステップ
  息子の記憶を頼りに探す。跡地に「きく地蔵」なる祠が建っていた。
第十ニ分団ニ部 横岡   解体 標準型 四本足 丸形ステップ

最後の横岡の火の見櫓は二週間前に散歩で写真に撮った。一週間前に解体されたと聞いて大ショックである。あの時、全体にサビが目立ち、塗装をし直さねばと心配して見上げたが、解体を待っていたのであった。女房の在所のそばで、一時期毎日見て過ごした。息子は落ちてきた鳥の巣を戻そうと火の見櫓に登って、あとで叱られたと、想い出を語る。

火の見櫓は鉄で造られたもので、50年も経つと耐用年数が尽きる。もうすでに役割を失っているから、放って置けば十年といわずにすべて解体になるものであろう。すべてを残す必要は無いが、吟味して幾つか残すべきだと思う。村々で最も目に付く近代化遺産で、人々の故郷の心象風景に数多く残っている。    
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地蔵峠の弁財天と神尾山のシュンラン

(山道で咲くシュンラン)

この木曜日から日曜日までの4日のうち、3日間、運動不足の解消とお遍路の足慣らしで、午後それぞれ4時間ほど歩いた。木曜日は自宅から島田駅、電車でつないで金谷駅から自宅まで歩いた。その話は二日にわたって書きこんだ。金曜日は自宅から金谷駅、石畳を越えて菊川の里に下り、一級河川、菊川に付かず離れずしながら、菊川駅まで歩いた。そして日曜日の今日は大井川鉄道に五和駅から神尾駅まで乗り、地蔵峠から神尾山に登って、南の長者ヶ原を越えて大代に降りてきた。

今日の歩きは小登山である。神尾山の標高は551メートル、大井川鉄道神尾駅の標高がどのくらいかわからないが、おおよそ標高差500メートル、標準時間で2時間弱の登りである。


(地蔵峠の弁財天の祠)

地蔵峠には新しく弁財天の祠が出来ていた。

   舟山弁財天の由来
神尾を流れる大井川の真ん中に舟山という島がある。この島は水流を切って川上の方に進む舟の形をしている。この舟山には昔から神尾の住民、対岸の川口の住民らが祀る社がある。本尊弁財天の由来は孝謙天皇(奈良時代)の御世遠州小夜の中山で蛇身鳥を退治することになり、勅使から矢竹の御用を命ぜられ当舟山の矢立二本を献上した。その結果勅命によって舟山に堂宇を建て弁財天の像を賜り安置したことに始まる。
それから歳月は流れ腐損或いは風震により破損し再建すること数度に及ぶ。文政(江戸時代)十一年(1821)に大井川大洪水があり御堂は勿論尊像棟札まで全て流失した。その後天保元年(1830)弘化、文久年間にも新堂を建築また明治三二(1899)神尾、川口の両村で相談し合同の開扉供養を行った記録もある。大井川の水流が豊富な頃は大井川を仕事場とした船頭、筏乗り川狩の人足衆は上流から命掛けで川を下りやっとここまで辿り着いて安堵し仕事の無事を弁天さんに感謝し祈を捧げたと言う。(中略)
弁天の祀は地元神尾の篤い信仰する人々に依り毎年八月十六日に供養を続け平成六年には石造弁天像を安置した。夏は大井川の水量も多く舟山までの参拝は仲々困難なこともありここ峠の地蔵堂で供養をした。
このたび平成二十年八月十六日住民の願い叶い茲地蔵峠に新たに弁天堂を築し本尊を安置祀るに至った。
(資料明治十二年古文書光明院資料より)

登山道は落葉樹の落ち葉に覆われているから、注意していないと道を間違えそうである。落葉樹の林は冬場は明るくてよい。落ち葉の中から顔をもたげたシュンランの花を一輪見つけた。一部伐採されているところがあった。雑木林を何のための伐採であろうか。太い針葉樹も切られてしまい無残なことである。年輪を数えてみたら樹齢は65年ほどあった。外側の10年ほどが年輪の幅が広いように思った。これも温暖化の影響だろうか。樹木は太くなるのが早いかもしれない。

登山道は山頂を経て送電線の鉄塔を巡視のための道をたどって下った、鉄塔2つに立ち寄って林道に下りた。林道を辿ると五叉路に出た。右から2番目の緩やかに下る道を勘で選んだ。おそらく童子沢に下って行くのだろうと覚悟して進むと再度分岐があり、今度は左の道を選んだ。それが正解で、長者ヶ原の茶畑の中を進み、自宅に向かってまっすぐの下り道を進んだ。

今日の一山をこなした4時間は自信になった。本日の歩数、20,184歩。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

東海道線のルート決定事情

(大代川土手の桜-昨日)

今日よりETC利用の乗用車に限り、高速道路どこまで乗っても1000円というサービスが始まった。景気浮揚の一政策であるが、初日は利用者がいつもの1.3倍から2倍に増えたが、渋滞が増えるほどでは無かった。それでもサービスエリアは満杯のところが多く、お店は大いに恩恵を受けたようである。今日はまず様子見で明日からどうなるか注目している。

    *    *    *    *    *    *    *

「考古学と歴史」講座の最終回で聞いた明治の東海道線ルート決定事情の話である。明治19年(1886)に東京~大阪・神戸の間に鉄道を通す閣令が降りたとき、ルートは大井川と小夜中山峠の難所を避けて、安くあがる駿河湾と遠州灘の海岸に沿った榛南と決定されていた。その通りに敷設されれば、静岡以西の宿駅は日本の交通の動脈から外れて、宿駅も廃れてしまう。宿駅筋の有志者から、時の静岡県知事関口隆吉氏に「東海道鉄道の宿駅筋敷設願」の上申書が提出された。

その中で、宿駅筋の路線は海岸路線に比べて希望するものが何倍もおり、そのまま海岸路線を取れば、宿駅筋の沿道、近傍の住民は衰廃の境遇に至ってしまう。困難といわれる工事も、地盤がどうかというような工事の困難さについてはまだ十分調査されていないなどと述べている。

嘆願書を取りまとめた有志者としては、志太郡前島村の青島雄太郎、金谷商工銀行・富国製糸工場を設立した金谷河原町の伊藤仙太郎、掛川銀行を設立した掛川宿戸長の山崎千三郎などがおり、近隣の町や村の戸長が名前を連ねていた。

結果、その上申書が通って宿駅筋の路線へと変更になった。国が決定したことが覆ったのである。それが現在の東海道線の駅、藤枝駅、金谷駅、堀ノ内(菊川)駅、掛川駅のルートである。当時の宿駅と違うのは、藤枝駅が藤枝宿伝馬町の鉄路反対の声が強く、南へ外れて、青島雄太郎の出身の前島村近くに持って来られた。また、日坂宿がコースから外れて、代わりに堀ノ内(菊川)駅が入っている。日坂宿を通るには、天下の難所「小夜の中山」をトンネルで抜けることになり、さすがにその難工事は避けられた。金谷から1.5キロほどのトンネルで牧之原を横断し、菊川に沿った谷間を通って、堀ノ内へと抜ける南に寄った、トンネルを掘らなくても良いコースに迂回したものであろう。

当時の土木水準、予算、地元住民の要望など、様々に絡み合って現在の東海道線が敷設された。鉄道が一度敷設されてしまうと鉄道の駅を中心に町が発展してしまうため、土木水準が上がって、コースを変えようと思っても、もう変えられない状況になっている。他の宿場が鉄道駅とともに大きく発展したのに比べて、日坂宿は未だに山間の一集落でしかない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

島田駅周辺(超散歩の続き) 

(昼食の800gのスパゲッティ)

お昼に、昨日に続いてまーくん親子が来る。今日は夫君も休みで3人で来る。昨日の昼のスパゲッティの具が余っていたので、連日のスパゲッティとする。昨日より人が増えて大人が6人となる。そこで8人分800gを2度に分けてゆでた。茹で上がり直前に刻んだキャベツとシメジを放り込んでゆがいてしまうのは、女房の弟から聞いた男の料理方法である。今日は塩をたっぷり入れるのを忘れなかった。三つに分けて、ミートソース、和風きのこ、たらこ、をからめてそれぞれ大皿に盛る。各々好きなだけ取って食べてもらうためである。午後は昨日に続いて超散歩に出かけたが、その話は後日として、昨日の続きを書き込もう。

    *    *    *    *    *    *    *

東海パルプを迂回して、線路沿いの道に戻り、島田駅に着いた。六合駅まで歩こうと思ったが、島田駅から電車で戻り、金谷駅から自宅まで歩いて帰るように変更した。これでも4時間で15、6キロの道のりを歩くことになる。


(イチョウのある島田駅前風景)

島田の駅舎はユニバーサルデザインに則って、跨線橋上に駅が出来た。同時に駅前広場も広く整備された。島田駅前にはイチョウの巨木があって、整備工事がされていたとき、伐採されるのでないかと心配したが、枝を詰められたけれども周りを緑地として整備して残された。当局のはからいに敬意を払いたい。今は裸のイチョウであるが、新芽をふけば遠からず昔の枝ぶりに戻ると思われる。

このイチョウのあった辺りに、島田が生んだ連歌師宗長を偲んで、塚本如舟が宗長庵を営んだ。島田宿の雅人たちと諷詠を楽しんでいた所である。如舟と親交のあった芭蕉もここを訪れている。宗長庵の庭にあったものかどうかは知らないが、そんないわれのあるイチョウだから、簡単に切られてしまってはたまらない。イチョウから数メートル離れた駅舎脇に、元はイチョウとともに建っていた何枚かの碑文が移設されていた。

ここに移された碑は、以下の三基である。
1.宗長句碑
  「遠江国 国(故郷)の山近きところの千句に
     こゑ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす」
2.芭蕉翁を慕う漢文碑
3.芭蕉さみだれ古碑(断碑)
     (さみ)たれの(空)吹きおとせ大井川
芭蕉古碑の括弧内は上部がかけて失われている。

この後、電車で金谷まで戻り、自宅まで歩いて帰った。夕方5時過ぎに自宅へ着いた。久しぶりのまとまった歩きで、島田を歩いている間は足のだるさも感じないで順調そのものであったが、自宅に近づくに連れて足が重くなった。痛みなどは無く歩けて自信をつけた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

寒の戻り、超散歩に出る

(大井川常唱堂)

暖かい日が続き、早々と桜も咲き始め、そろそろ花見かと浮かれる間もなく、真冬のような気圧配置になり、寒さが戻った。日本海側は雪で、東京でも雪がちらついたという。中断して一ヶ月半ぶりに、再開した「街の電気屋ブログ」でも、雪をかぶったお店の写真が載っていた。

そんな寒い朝、テレビでは凱旋したWBCの侍たちの記者会見があった。午後、風は寒いけれどもお天気は快晴で、久しぶりに超散歩に出掛けた。行き先は島田方面である。島田に向かう途中に、先日散歩で見た「島の火の見櫓」の製作年代が気になって寄ってみた。日限地蔵の脇にある火の見櫓である。櫓にプレートがあって昭和35年4月と刻印されていた。製作したのは金谷町の鈴木鐵工所とあった。およそ50年前のものである。他の火の見櫓も調べてみよう。

旧国1の大井川橋を渡ってから、JR東海道線の線路に沿った道を歩いて、六合駅辺りまで行ってみようかと思った。東海道線に近付こうと、島田の本通りに通じる道から横道に逸れて細道を住宅地に紛れ込んだ。よく考えてみると、この辺りは島田宿の川越し遺跡の北側にあたる。

前方に見覚えのあるお堂の屋根が見えてきた。3年前、大井川川越し遺跡を歩いたとき、標識に誘われて関川庵に寄り道したが、反対側からその関川庵に出てしまったらしい。八百屋お七の相手の吉三郎のお墓がある。

このまま進んでも東海パルプの工場に阻まれて、鉄道脇には出られそうにない。結局もとの道に戻るしかないと住宅地の間を歩いていると、小さなお堂のようなものがあり、軒下に「大井川常唱堂」と書かれた看板が掲げられていた。お堂の前にはお墓が2基、後ろにもある。髭題目の石碑の裏に「大井川常唱堂」の縁起が刻まれていた。

常唱堂縁起をつぶさに往時を省み、大井川渡河の人々の難渋は言語に絶し交通未開の当時とは云えその水難横死の屍は日夜に積もり水中に砂中に埋り亡霊の怪奇に悩まされた当時の記録は誠に悲惨にして悲憤を禁じ得ず。此度、再び厄除御祖師之奉帰安置の喜びと使命を全うし、ここに諸霊魂の供養塔を建立し、法華経を誦し懇ろに慰霊鎮魂の六道の繋縛を脱し早々に佛果菩提を成じ給わんことを。
 維時平成二年十二月十七日  正覚寺第三十四世 石上良秀


脇のお墓には「文化」など江戸時代の年号が並んでいたから、おそらく大井川の渡河中に流されて亡くなった人なのであろう。川越し遺跡からはかなり奥まったところではあるが、これも川越しの歴史を示す遺跡のひとつである。遺跡の町並み案内の中で紹介されていないのは残念である。
(続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

松本清張の「点と線」を読了

(庭の紫のヒヤシンス)

松本清張の「点と線」を読了した。社会派推理小説。鉄道のダイヤを使った初めての推理小説。著者の筆致もまだ若い。と言っても遅咲きの清張が「点と線」を発表したのは1958年で、48歳の時である。

重要な情報のやり取りに電話よりも電報の方が重要視されている時代である。電話の普及率が低かったことや、料金が高かったことがあるのだろう。もちろん携帯電話は手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」にさえ発想すらされていなかった。札幌に夜行列車や青函連絡船などを乗り継いで二日掛りで行くしかなかった。東海道新幹線が出来るのはまだ6年先である。福岡にも夜行列車で行くことになる。しかしトリックの中に飛行機が使われている。刑事の考えがなかなかそこに及ばないのは、飛行機の料金が高くて一般人にはまだ高嶺の花であったのだろう。

そんな訳で、現代の推理小説のように筋がめまぐるしく進んでいくことにはならない。清張の文章は大変読みやすいが、現代の推理小説を読みなれた人には読み進むのがまどろっこしいかもしれない。

中央省庁の贈収賄のキーを握るノンキャリアの役人が、福岡で情死を装って殺される。容疑者は北海道に出張していたとアリバイを述べる。そして時刻表をたくみに使ったアリバイが一つ一つ崩され行く。しかし捜査の中で、今では欠かすことの出来ない鑑識が活躍する場面が全くない。情死と決め付けて、司法解剖もされた様子がない。DNA鑑定はなかったけれども、血液型や指紋鑑定はあったはずであるが、全く出てこない。結局、証拠らしい証拠もないまま状況証拠だけがどんどん積み上げられていく。

おおよそ先が見えたところで、突然、東京の三原刑事から福岡の鳥飼刑事へ宛てた事件の報告の手紙で、事件は終局を迎える。犯人とされた贈賄側の業者の社長夫婦の心中によって、動機をはじめ、幾つか疑問に答えられないままで捜査が終了したことが知らされる。その結果、贈収賄も事件にならずに終ってしまう。

推理小説のお約束ごとである、途中で出された疑問は終わりまでに残さず答えを出すという点で、いま一つ推理小説になりきれていない。文学作品であれば、答えを出さないことで読者の判断に任せ、余韻を残したといえるのかもしれない。最後を手紙で済ませたのも、著者が物語の後半をはしょって早く終わらせたように感じ、読者は消化不良を起こしてしまう。

現代の推理小説にも延々と続く課題が、すでに清張の作品に見られる。犯人はアリバイを作ったり、色々な工作をして、却って疑いを深めてしまう。「雉も鳴かずば打たれまい」である。犯人が何もしなければ、迷宮入りになってしまっただろう。実際起っている事件では小細工はされない。だから捜査が難しく迷宮入りになるものも多いのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イチローと一郎の今日

(庭のレンギョウ)

二日続けてWBCの話で申し訳ない。多分負けてれば書かないだろうから、昨日準決勝の話を書いた。ところが侍ジャパンはWBCでV2を達成してしまったから、今日も書くことになった。

WBC決勝の対韓国戦。日本は初回のイチローのヒットから始まり、ランナーを毎回のように出し押しに押していたが、幾つもチャンスを潰していた。先発の岩隈は5番の大リーガーのチュシンスのホームランによる一点に押えていた。結果、6回を終って1対1の同点であった。

7回表、1番イチローの絶妙のセフティバンドが2番中島のタイムリーヒットを生み勝ち越し、8回表、6番内川、7番稲葉、8番岩村の3連打で3対1と2点差にして、勝利を大きく引き寄せたように思われた。しかしゲームはここからもつれる。

8回裏、イボムホの2塁打を、代打イデホの犠牲フライで返して3対2となり、9回表のイチローの2塁打を返せなかった付けが回って、9回裏、昨日のアメリカ戦に続いてクローザーとして登板したダルビッシュが、二つの四球とイボムホのレフト前ヒットを打たれ、同点に追いつかれて延長戦に突入した。

10回表、6番内川と8番岩村のヒットで1塁3塁、ツーアウトながら打順はイチロー、岩村が盗塁して2塁3塁となり、敬遠も考えられたが韓国は構わず勝負した。粘った8球目にシンカーが真ん中に落ちずに入ってきた。この球なら打つと思った瞬間、イチローはもっとも確実なヒットゾーンのセンター前へ計ったように運んだ。勝負あったと思った。10回裏はダルビッシュが押えて、侍ジャパンの優勝、WBC2連覇である。

ヒットの内川を稲葉が送ったときに、これでイチローがヒーローなるお膳立てが出来たと思った。1死でイチローの打席までに8番9番がいる時点で、そうなるな予感があった。結局、美味しいところをイチローが持って行き、やはり侍ジャパンはイチローのチームだったことを証明した。後でイチローは神が降りてきたと語った。

今日、もう一人の「一郎」の、小沢一郎民主党代表が、政治資金規正法違反で秘書が起訴されて、その去就が注目された。夜になって記者会見を開いて、続投することを明らかにした。自分の最後の仕事として、民主党が政権を取ることで、政権交代が可能な真の議会民主主義を実現したいと語った。

検察と対立姿勢を取っている小沢氏にとっては当然の態度表明であろう。政治資金規正法違反だけなら辞任する必要は無いという。政治資金規正法違反ではこの3月で時効を迎えるため検察は急いだが、本丸は「斡旋収賄罪」であろう。その捜査がこれから始まり、検察はその立証にかなりの自信を持っていると思われる。それでなければ、小沢氏が自ら話すように、政治資金規正法違反だけで逮捕まではしないはずである。

真に問われているのは、政治家が自ら作った政治資金規正法を抜け道を作って骨抜きにしてしまうことである。法律には何ら違反していないと主張するが、立法の趣旨に違反していることは誰の眼にも明らかである。選挙民を侮ってはならない。

次のラウンドでは民主党は「一敗地にまみれる」ことになって、その時になって小沢切りをしても「遅きに失する」ことにならなければ良いと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

WBC準決勝で米国を下す

(庭のムスカリ)

ワールドベースボールクラシック(WBC)の準決勝、アメリカ対日本が、日本時間の午前9時からロスアンジェルスのドジャースタジアムで行われ、侍ジャパンが9対4で快勝した。日本がアメリカを下す日がとうとう来たのである。昨日行われた、もう一つの準決勝である韓国とベネズエラは10対2で韓国が勝った。ベネズエラはエラーを連発して自滅する形になった。決勝戦は明日、日本時間の10時から行われる。

今朝の日米決戦は、先発の松坂が初回先頭打者にいきなりホームランを打たれて1点先行を許すかたちで始まった。2回に日本は4番稲葉が四球で出て、5番小笠原とヒットエンドランが成功し、1塁3塁から7番城島の犠牲フライで同点に追いついた。

3回に4番ライトのタイムリーで1点を勝ち越されると、4回に日本は再び4番稲葉と5番小笠原の連打でチャンスを作り、6番福留のセカンドへの鋭いあたりがセカンドのエラーを呼び同点に追いついた。そして再度7番城島の犠牲フライで勝ち越した。続く8番岩村の3塁打、9番川崎のヒットで2点を加え、川崎の盗塁と2番中島のヒットでさらに1点、6対2と大きく勝ち越した。

日本は5回途中で松坂から杉内に継投し、田中、馬原とつないだ。馬原が8回に2点を取られ、6対4と迫られたが、その裏に福留のフォアボールを足場に、ツーアウト3塁から、今日ラッキーボーイの川崎がショートゴロを打つと、名手ジータが足の速い川崎に送球をあせり、ノンステップで投げた球が悪送球となり、貴重な1点を加えた。その後、この試合もノーヒットだったイチローが技ありの一打をライト前に落としてさらに1点、中島もツーベースで続いてイチローが俊足を飛ばしてその回の3点目のホームベースを踏み試合を決めた。9回はダルビッシュが押えて、日本はアメリカを総合力で圧倒して破った。

イチローの5打席目、技ありの一打の前に、落ちるカーブをハーフスイングして空振りを取られ、珍しく審判に不満そうな顔を見せた。今日も前の4打席とも凡打に終わり、参っているのだろうと思って見ていた。ピッチャーは弱点を見つけたとばかりに、続けて地面に着くような低めのカーブを投げた。ところがその球を見事に拾ってライト前に運んだ。そこに来ることを予測していなければとても打てる球ではないように思った。打てそうにないというジェスチャーをしながら、その球が来るのを待っていたのであろう。イチローも最終戦で何とか活躍しなければ、存在感を示せずにWBCが終ってしまう。

今日のアメリカ戦で目立ったのは稲葉、小笠原のコンビとラッキーボーイとしての川崎の活躍であった。ホームランが出るわけではなく、エラーに付け込んでビッグイニングを作って得点する。侍ジャパンはアメリカに来ていよいよエンジンがかかってきた。明日の決勝戦は最良の状態で望めると思う。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

松本清張再読とスパゲッティ

(松本清張小説セレクション「点と線」)

土曜日、図書館に行ったところ、「松本清張小説セレクション」という清張の作品集全35巻が並んでいた。貸出中の本もあり全巻並んでいる訳ではなかったが、この機会に読み直してみようと思い、第1巻を借りてきた。収録されている「点と線」は清張初の長編推理小説である。鉄道を扱った推理小説のさきがけのような作品であり、この後、清張の一連の作品は社会派推理小説と呼ばれ、ジャンル別けされる。

テレビドラマにも取り上げられ、最近でもビートたけし主演のテレビドラマが2007年に放映されて観ている。だからトリックなどもおおよそ心得ているつもりであったが、読み始めてみると大変新鮮に感じた。

最初に清張の推理小説を読んだのは高校生の頃だから、もう45年以上前のことである。多分、お袋の在所にお墓参りに行ったときに、従兄弟から数冊の新書版を借りてきて読んだのだと思う。自分の記録を見ると、「黒い樹海」「時間の習俗」「ゼロの焦点」「眼の壁」「波の塔」「点と線」「砂の器」「黄色い風土」といった書名が並んでいる。題名がそれまでにない斬新なもので、わくわくしながら読み進めたような気がする。清張の作品で初めて複雑な社会の一端を見たような思いがしていた。

    *    *    *    *    *    *    *

土曜日は午後から女房が同窓会で出掛け、かなくんの親夫婦と息子の4人分、夕食を用意しなければならないことになった。先日は焼きそばを初めて作って、好評だったのに味をしめて、スパゲッティに初挑戦しようと思った。

まず買出しで、スパゲッティに和える缶詰のミートソースと和風アサリ何とかを買ってきた。スパゲッティは6人分600グラム用意して大鍋で一気にゆでる。缶詰の中身は出して小鍋で温めておく。10分のゆで時間を3分ほど増やして取り出し、3分割して、それぞれミートソース、和風アサリ何とか、および、買い置きがあった、たらこ何とかを別々にフライパンに入れて、暖めながら和え大皿3枚に盛る。インスタントのワカメ汁を作れば出来上がりである。全員集めて夕食、扱い易い人たちで、思い思いに皿に取りながら、美味い美味いとたちまち完食となった。(粉チーズを出すのを忘れた)

自分の料理のコツは印刷されているレシピ(マニアル)通りにやることである。スパゲッティでは具を刻むことはなかったが、刻む場合では出来るだけ細かく刻む。細かくすれば火の通りが良いし、歯の悪い人も食べやすい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ