goo

「駿河安蘇備 上」を読む 33

ビンゴ大会の賞品
孫の二家族が集まり、息子の作ったカレーを食べた
用意したご飯はたちまち空になった
食後、ビンゴ大会で、2番くじで一番大きな包みを欲張ったら
写真の網駕篭が当たった

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

八幡社 八幡村にあり。社領五十石。高二百五十石。神職 安西主膳。
同記 八幡社神護景雲三年(西暦769年)九月、太宰神主阿曽麿、五幾七道に各(おのおの)
誉田の先君の宮舎に置く故、王の如き誉田天皇の旧宮なり、云々。
その後、源義家朝臣、奥州征伐の時、古き跡を起し、再び修造なし
給うとぞ。今は、本社南向にて、鳥居・楼門・拝殿、厳かにして、石坂
百五十階あり。田野の中なる丘山なり。

大谷村 府より久能山への往還なり。三村に別かる。大谷、宮竹、片山という。南に
海あり。北に山あり。上地なり。昔陶工あり。質侶(とこなべ)という。今遠州に移る。
※ 上地(あげち)➜ 江戸時代、幕府や藩が知行地を没収すること。また、その土地。
ここに朝比奈弥太郎の墓あり。当国志太郡朝比奈郷に住す。
今川家の臣なりしが、遠州長篠戦場より御勢に加わり、戦功
あり。この辺、漁猟を業とするもの多し。松魚(かつお)、ここを上品とす。
※ 漁猟(ぎょりょう)➜ 魚、貝、海藻などをとること。漁業。

一 安古 榊原越中侯の与力、同心の居所なり。

一 根古屋 久能山の麓なり。参詣のもの、ここにて案内を乞う。農家
数軒あり。漁猟をも業とす。

【上欄外の記事】
 前浜
  政事録
慶長十九年甲寅四月五日、今日、駿府前浜より網揚げ、得る。その形
亀の如く漁人持ち来たる。廿余人これを荷(にな)い、背黒く亀甲の如し。頭犬のごとき顔、
尾生え三俣にて、大鰭(ひれ)あり。(一文字不明)色斑ら。諸人皆なこれを見る、云々。
古風土記 珍の ― 云々。

読書:「陽炎の符牒 日暮左近事件控 5」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 32

御近所から頂いたツルウメモドキのリース
赤と金は中国の縁起の良い色である

一昨日、昨日と年賀状書きで時間を取られ、ブログを休んだ。県外分から書いて、今日、市内の年賀状まで、出し終えた。

********************

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

小吉田 風土記 吉田云々、官道なり。茶店に酢を商う。
軍神神社 曲り金村にあり。 同記 真弓の神社、云々、この神なるべし。
祭神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)にて、軍(いくさ)の神なり。社の森にて、年々六月十九日、花火を揚げる。
姥女(うばめ)の火 府より久能山への往還、杉縄手中間に一つの鬼火あり。
※ 杉縄手(すぎなわて)➜「縄手」は、まっすぐな長い道。その道が杉の並木道となっているのだろう。
挑灯(ちょうちん)の火の如く、一丁ばかりの処にて、地に行かず。
※ 地に行かず(ちにゆかず)➜ 道の上に浮かんで行くのであろう。
伊河麻の神社 上嶋村にあり。式内の一社なり。今、伊鎌明神という。
風土記 伊河麻神社、浄見原天皇御宇四年四月、これを祭らる。神勅に応じて
処分して、四宮と為す。誉田天皇を祭り奉る所なり、云々。
(ひじり)一色村 同記 一色或いは一職、云々。
池田の神社 池田村にあり。式内の一社なり。今、五社明神という。
同記 或いは簗田(やなだ)、池田神社、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭る所なり。小泊瀬若鷦鷯(おはつせのわかさざき)天皇元年
※ 小泊瀬若鷦鷯天皇(おはつせわかささぎのすめらみこと)➜ 第二十五代武烈天皇(ぶれつてんのう)のこと。
乙卯六月、祈雨の祭り、云々。この村に今、夷子(えびす)森という処に
※ 祈雨の祭り(きうのまつり)➜ 雨ごいの祭り。
社あり。ここ池田神社なるべしという。
(つづく)

読書:「雨宿り 新秋山久蔵御用控 13」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 31

大井川向かいの小山、左は柏原、右は矢倉山
柏原は昔は小学校の遠足の目的地だった
柏原より千葉山ハイキングコース、どうだん原から千葉山へ
矢倉山はその腹を新東名がトンネルを穿つ
大井川改修に尽力のあった、代官長谷川藤兵衛が、
幕府から頂き、伊太村に寄贈したという歴史が残る

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

愛宕社 足洗村にあり。慶長年間、山城国愛宕山別當中の坊に
命じて、安置させ給い、軍(いくさ)中の守護神となし給うという。除地山林を
寄せられて、ここに社を建らる。
貞松山蓮永寺 日蓮宗 日持、菴原郡南松野尓開基なり。當宗乃
大地なり。寺内、さくら、梅なと多く、俚人ミま川と以ふ。
富士井 小里村にあり。この村、田の中にあり。宝永年中、不二山の焼けしころより、
初めて、この水涌き出るという。
狐ヶ崎 有度山の先をいう。風土記に、有度郡の西の限りと、指し
たるは、この所なるべし。
五郎松 また(いぼ) 南長沼村にあり。田中にある松樹なり。長沼五郎というもの、この
松の中にて笛を吹くという。
改選系譜 皆川氏は、藤原秀郷十一代の孫、政光、その子宗政、長沼五郎と
云う、後、淡路守、云々。見えたり。その子孫、長沼駿河守とあれば、この人なるや。
(つづく)

読書:「刺客潮まねき ひなげし雨竜剣 3」 坂岡真 著
読書:「浪人奉行 十三ノ巻」 稲葉稔 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 30


合格駅そばのかかし群

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

一 安東村 風土記 日別に駄、官物、省物二百。高駄、日
※ 駄(だ)➜ 馬一頭に負わせる荷物の量。 
別に百五十。草料、手越原に当て。塩料、中里、持舟、焼津の民戸に当て、云々。
※ 囲(い)➜ 両手をひろげて抱える大きさ。約一・五メートル。太さを計るのに用いる語。
北安東村は安倍郡なり。
一 三の御前社 同所 祭神宗形の三女神、また浅間第三御子の
※ 宗形(むなかた)➜ 宗像大社の略。宗像大社は、福岡県宗像市にある神社。旧官幣大社。
社なるべしともいう。
一 清水寺 音羽山という。寺領十石、真言宗。
今川家の時、朝比奈丹後守元長、大悲者信じて、山城国音羽山を
※ 大悲者(だいひしゃ)➜ 仏語。大慈悲者の意で、諸仏菩薩、特に観世音菩薩の称。
移したりという。また慶長年間、恵心作の千手観音の像を
住持秀尊に賜いしを、元和二年三月十七日、入仏供養ありという。
※ 入仏供養(にゅうぶつくよう)➜ 仏像を寺院へ迎え入れて安置するための法会。
一 古城跡 有東村にあり。何れの人、居するや、詳(つまび)らかならず。この村の山も有度
山なり。有度山は東西三里もあり。北は愛宕山を安倍郡の堺とす。
ここに城跡あり。
(つづく)

読書:「秘剣横雲 ひなげし雨竜剣 2」 坂岡真 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 29

大井川鉄道、五和駅改め合格駅
飾りが賑やか

昨日は駿河古文書会の当番で、2時間声を出しっぱなしで、疲労困憊で、ブログは休んだ。テキストが細かい字で、B4/7枚は半端ない量であった。何とか与えられた量をこなし、「よいお年を」と締めて、2時間に五分残して、終えることが出来た。今年もあと一週間を残すのみとなった。

********************

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

桜塚 馬渕村 おこり塚ともいう。この村より上嶋に至る側にあり。
田の中に大なる石郭あり。何れの人の墓なるを知らず。
※ 石郭(せっかく)➜ 石の外郭。
古墳なり。(おこり)を患うるもの、祈れば必ず癒ゆ。古桜一株あるを
※ 瘧(おこり)➜ 毎日または隔日に、時を定めて発熱する病気。マラリアに似た熱病。
もて、名付けたりという。

川辺村 安倍郡、有度郡の堺なり。天坪という所あり。利兵衛という
者、屋鋪地なり。一つの壺を土中より掘り出す。これを官府に献ずるに、
名器にて御茶器になるという。慶長頃の事なり。
同村の民、仁兵衛、屋鋪に清泉あり。御茶の水なりしという。

一 伊勢宮 同村 民部省図帳 豊受神社神田百束、云うる郷貢ぐ。
桓武天皇、延暦三年これを祭る、云々。この神なるべし。
(つづく)

読書:「犬の尾 裏江戸探索帖 2」 鈴木英治 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 28

日限地蔵尊のクロガネモチ

夜中から降り出した雨は午前中に止んで、晴れた。午後、女房と散歩に出る。明日からはまた寒くなるようで、たまさかの小春日和であった。日限地蔵から放光神社へお参りした。

******************** 

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。
 
(「稲川」の項の続き)
體源抄丙辰記に、人皇廿八代安閑天皇、教到六年丙辰、駿河国宇戸浜
※ 教到六年 ➜ 西暦五三五年? 但し、丙辰年は西暦五三六年。
に天人天下り、歌舞し給いければ、云々。或いは、翁、砂(いさご)を下りて、中に
隠れ居て、見伝えたりと申せり。今の東遊(あずまあそび)とて、公家にも諸社にも、
※ 東遊(あずまあそび)➜ 古代歌舞。東舞ともいい、もと東国地方の歌舞であったものが、のちに朝廷の大儀に取り入れられ、舞楽化するに至った。駿河国、有度浜に天人が降りて舞ったのがその起源だという伝説がある。
行事には必ずこれを用ゆ。神明ことに御納受ある故なり。その翁は
※ 納受(のうじゅ)➜ 神仏が願いなどを聞き入れること。
道守氏にて、今の世までも伝わるとかや、云々、と見えたるは、同じ
故事なり。また道守氏は姓氏録に、道守朝臣、波多朝臣、同祖武内宿祢
男、八代宿祢、後世、云々。この八代宿祢は紀角宿祢の弟なり。角宿祢、賤
機山に狩りせしこと、類聚國史に出たり。然れば、この国に居たりしこと
知るべし。八代宿祢も同じく下って、その子孫、この国にありしならん。かゝれば、
稲川大夫というものゝ姓は、道守氏にて、古くありしが、乱れたる世の中に
絶えたるを、今の稲河氏、その家を継ぎたるにや。同郡八幡神主、文屋氏
の家をも継ぎたるさま、同じ趣に見えたればなり。この稲川氏、
舞いのこと、いまは家に絶えたれども、昔は有りしや。古え言伝えたる
童誌に、「稲川の祭りは、可笑しな祭りで、麻呂に舞を舞わせて、
※ 童誌(どうし)➜ 子供の本。
※ 麻呂(まろ)➜ 一人称の人代名詞。平安時代以降に用いられた語。
終に皷(つづみ)を打たせた」という。正しく稲川氏の舞のことなるべし。
(つづく)

読書:「悪銭 裏江戸探索帖 1」 鈴木英治 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 27

頂いた花の苗、プランターに植えた
ビオラはもう花を付けている

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

上嶋中嶋西嶋は、安倍川の下(しも)にて、風土記にも見え、古き郷名なり。

富士見原 (石田村、敷地村の境なり)古くは原にもありしや、今は田畑となりて
五百町、千町がほども、只一目に見渡し、不二の峰に触る外山も
なくて、不(二)見ヶ原の名こそ負いけれと、雲の朝(あした)など思い出られて、
  あわれさも 果てなかりけり 不二の根の
    名に負う原の 雲のあけぼの     可安

稲川 今、駿府奉幣使、稲川主水(もんど)住居す。高百七十七石余の郷なり。
※ 奉幣使(ほうへいし)➜ 奉幣のため、陵墓・神社などに参向する使者。「奉幣」は神に幣帛(へいはく)をささげること。「幣帛」は神に奉げるもの総称。
風土記 或いは稲川、芹(せり)蘿萄(らふく)生い、内膳司に入り、云々。
※ 蘿葡(らふく)➜ 大根の漢名。
※ 内膳司(ないぜんし)➜ 令制下、宮内省の管轄で、天皇の食膳の調理を担当した役所。
※ 料(りょう)➜ 「料理」の略。
(「稲川」の項、つづく)

読書:「将軍家の血筋 日暮左近事件控 4」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 26

先週、Sさんから、こんな苗を2ついただいた
寒くて外作業を日延ししていたが、今日は風も止んで暖かくなり
土を購入してきて、プランターに植えた

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

用宗(もちむね)古城 同(風土)記 持舟泊(とまり)。正税なし。徃返(ゆきかえり)なり。諸帆尽き、この湊に入る。故に
※ 諸帆(しょはん)➜ もろもろの船。
官挙(かんきょ)の度(ど)、ここに決す、云々。
※ 官挙(かんきょ)➜ 官名呼称。
俚民(りみん)、古くは湊なりしと言うも、故あることなり。
※ 俚民(りみん)➜ 土地の人。
天正八年、甲州方、三浦兵部、向井伊賀守籠(こも)る。
同年九月十九日、松平甚太郎家忠、牧野右馬之允(うまのじょう)康成、馳せ向って、
攻落すという。
石部濱 用宗続きの海辺なり。この浜、青色の小石多し。浦に
添いたるを石部山という。壁立、雲に聳え、大巌(おおいわ)まろび落ちて重なり
※ 壁立(へきりつ)➜ 壁のように立つ。
たる上を、往来の者たどり行くなり。俗に大崩れ越しという。その磯に、
(あわび)、海鼠(なまこ)など得るを生業(すぎわい)とする海士(あま)多し。
※ 生業(すぎわい)➜ 生計のための職業。なりわい。
  露霜(つゆしも)の 起きて苔(こけ)むす 石部山
    動きなき世の ためしにや見ん     可安
(つづく)

読書:「律儀者 新・知らぬが半兵衛手控帖 17」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 25

とにかく寒い‼冬空
空だけ見ていると、この寒さは感じられないだろう

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

日本坂 絶景の地なり。不二、箱根、甲信の山々、安倍河、府内、
また大井川、遠州、勢州まで見晴らしぬ。慶長の頃、たび/\
御遊行ありしという。日本坂、また朝鮮ヶ谷とも号すべしと
ありしと言い伝えり。墨客各(おのおの)尋ねて見置くべき地なり。
花沢城跡 今、法華寺という寺あり。この寺の後ろにて、高き
芝山なり。武田家持ちの時、西は高天神、東は箱根、二子山、この山、
三ヶ所にて相図をあげしとぞ。今、俚俗、のろし山という。永禄
の頃、今川老臣小原肥前守、籠りし城なりという。
広野 風土記 広野、海の、正税に准ず。諸鱗田會諸苔怪石(八文字不明)
※ 料(りょう)➜ 利益。便益。
等を貢ず、云々。  今なお、魚猟を業とするもの多く、字関べいという。
駒繋松 同所里民、八右衛門が庭にあり。慶長元和の頃、御馬を
繋がせ給いし所なりとぞ、古文書も存ず。その頃給わりしとて、
  馬つなぐ 松栄えけり 八が庭
忠長卿の御筆なるにや。
※ 忠長(ただなが)➜ 徳川忠長。徳川家康の孫。江戸時代前期の大名。従二位大納言。領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言
(つづく)

読書:「飛び立つ季節 旅のつばくろ」 沢木耕太郎 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「駿河安蘇備 上」を読む 24

「みんくる」前、旧金谷町役場跡地の工事現場(昨日)
何が出来るのか「生活交流拠点施設」だけではイメージが湧かない

今朝、神社の清掃、寒くて風が強くて、早々に終える。
朝から快晴の中、昼間に俄かに曇ったと思ったら、風花が舞い出して、急いで洗濯物を入れたが、10分後には晴れた。寒い一日であった。

********************

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

 (「光行紀行」 の項の続き)
この庵の辺り、幾ほど遠からず、峠という所に至りて、大なる卒塔婆
の年経(へ)にけると、見遊(あそぶ)るに、歌ども数多書き付けたる中に、
  吾妻路は ここを瀬(せ)とせむ 宇津の山
    あわれも深し 蔦の細道
※ 瀬(せ)➜ 場所。ところ。
と詠める。心留りて、思ほゆれば、その傍(かたわ)らに書き付けし。
  我はまた ここを瀬とせん 宇津の山
    分きて色ある 蔦の細道        同(光行)
新古今
  旅寐する 夢路はゆるせ 宇都の山
    関とは聞かず 守(も)る人もなし    家隆
この宇津の谷坂に、農夫忠左衛門といえる者あり。豊臣家小田原陣
の節、秀吉公より給わりし道服とて、なお今、伝わりたり。
※ 道服(どうふく)➜ 公卿や大納言以上の人が家庭で内々に着た上衣。のち、道中着となり、さらに変化して今の羽織となった。

小坂 高草山の東面なり。日本坂の麓にあり。古えの官道は焼津
より、日本坂、小坂、小川駅、横田に到り、草薙へ出るなり。
安養寺 (小坂の中央にあり) 寺領二十八石 曹洞宗。
今川治部大輔範時を安養寺殿という。今川家の軍師、
一宮随翁の墓あり。古くは今川家の連枝、住職すという。また、
※ 連枝(れんし)➜ 貴人の兄弟姉妹。
土肥七騎の墳墓あり。
(つづく)

読書:「攘夷 交代寄合伊那衆異聞 6」 佐伯泰英 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ