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円高メリットと復興増税

(今年もススキが出そろう-大代川土手)

東日本大震災の復興増税について、かしましく議論されている。庶民はおおむね増税には反対である。それに復興の名が付いてくると、反対とばかり言うと、復興に対して反対と言うようで気が引ける。だから、税金の使い道に対して十分に節約していないことを理由に、増税の前にまだやるべきことがあるだろうという。庶民というより、庶民の声を代弁しているというマスコミの論調と言った方がわかりやすい。

しかし、この調子ですべての増税に反対していたらどうなるであろう。日本の財政はギリシャのように破綻に向かって転がり落ちて行く。国の借金は国債という形になっている。日本がギリシャのように破綻寸前のレッテルをはられていないのは、ギリシャと違って日本の国債はほとんど日本の金融機関が買っているからである。つまり日本人が預けた預金で日本の金融機関は国債を買っているわけで、財政が破綻すれば日本の金融機関も破綻し、その付けは国民の預金が消えるという形で、結局日本人が負担することになる。どう転んでも国の借金は国民が負担しなければならない。その借金の量が国民一人当たり1000万円に達するのも遠くないという。これを理解すれば、増税はなんでも反対とは言っておれないだろう。

今一つ、毎日話題に上がるのが円高の問題である。1ドル76円は余りにも行き過ぎだと自分も思う。ただ、円高、円安にはそれぞれメリットとデメリットがある。日本では、余りにも円高のデメリットばかり言い立てて、メリットについては何も語られていないと思う。円高のメリットは世界から物が安く買えることである。世界の人口が70億人に達し、穀物などが大きく値上りしている。また石油やレアメタルなど、資源が限られたものは価格が高騰している。しかし、国内でそれほど値上りをしているとは実感しない。なぜかといえば、値上りしても、円高で安く買えて相殺されているからである。自国の通貨が下がっている国では価格高と通貨安のダブルで物価が高騰していると聞く。

それでなくても東日本大震災後の苦しい日本に、世界が円高で攻撃してくると、被害者意識の発想で受取るよりも、円の価値が高まるという事は、海外から安く物が買えることで、それは日本の復興に世界からエールを貰っていると考えた方がよい。もっとも、これだけ円高になれば、外国と同じものを作って売っていては、競争出来るものではない。日本人の感性でしか発想できないものを、この機会にしっかり磨いて、安売りしないで世界に堂々と売っていくべきである。

復興増税については、国民が受けているであろう円高メリットを計算して、その円高メリットに見合う分だけを円高が続いている間限定で、増税するというような方法を考えれば、皆んなが納得できると思う。
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人間どこまで寝られるか?

(今朝のムサシ-カメラを向けても決してポーズを取らない)

女房が昨日名古屋の娘のところへ行った。三、四日は帰らない予定である。かなくんが来春から幼稚園で、希望する幼稚園に入るためには、四日前から並んで待たねばならないとかで、並ぶための交代要員だという。限られた定員にたくさんの入園希望をどう捌くのか。それを早いもの順という知恵の無い方式を取る幼稚園。年々並ぶ時間がエスカレートして、今年は四日前から並ぶという父兄。どこか間違っていないだろうか。いたずらに父兄の体力勝負というのでは、何の選抜なのか分からない。ともあれ、父君は簡易テントを準備して、会社も休んで頑張るらしい。

おかげで我が家は息子と二人となり、なにか螺子が緩んだようになった。今朝はブログを書いた後、本を読んでいて、寝たのが早朝4時になった。それでも7時半には起きて、息子は仕事に行き、自分はムサシの散歩に出る。散歩の後、パンと牛乳の朝食を取り、昨夜は天気が良ければ歩きに行こうと計画していたが、何となく気が萎えて、読書をしながら気付いたら2時間ほど朝寝してしまった。

昼食は今朝息子が炊いた御飯で握り飯を作った。(何かおかしいと思ったら、握るときに塩を忘れた)午後こそしっかりと読書をしようとして、またまた3時間ほど昼寝してしまう。ムサシの夕方の散歩の後、マーケットへ夕食の買出し。お刺身とサラダを買って来て、おでんの残りとインスタント味噌汁で、夕食の準備が出来る。夕食後はテレビを見ていて、気付いたら2時間ほど宵寝。いったい一日にいくら寝れば満足なのだろう。合計すれば10時間半も睡眠時間を取ったことになる。

夜、福島浜通りで震度5強の地震があった。テレビでは緊急地震情報が出るところから始まったが、浜通りは福島第一原発のあるところで、心配するも異常なしとのこと。今朝、新聞で、最後に残った2号機も冷温停止状態(温度が100℃以下)になったというニュースを見たばかりだったので、まずは胸を撫で下ろす。震度5弱なら、現地から次々に報道が入るべきところであるが、震度5強の福島浜通りはほとんど無人状態である。被害というのは人が住んでいて始めて発生するもので、無人のところには被害は無いに等しいものだと、改めて理解させられた。

色々あって遅れていた、S氏のお遍路が、ようやく明日出発すると、S氏のブログに書き込まれていた。23番札所の薬王寺までは以前に歩いて巡っているから、続きを今度は自転車で回る計画だという。明日から、S氏のブログ、「片雲の風に誘われて」が楽しみである。

もう一つ、NHKのBS番組「にっぽん縦断 こころ旅」の秋編が始まっているのに今日気付いた。俳優の火野正平さんが視聴者の手紙を紹介しながら自転車で旅をする番組である。今日はいきなり豊岡市の円山川河口の港大橋から眺める、日本海の出口方面の景色が手紙とともに紹介された。秋には故郷を通るはずと思っていたが、見逃さないで良かった。

今日は纏まらない書き込みであるが、合計10時間半の睡眠の間々に認識したことを思いつくままに書いてみた。
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置籾預り証文 - 駿河古文書会

(道路側溝の修理)

台風15号で壊れたアルミ柵を本日修理してもらった。費用は隣りの茶畑の管理会社が出してくれた。女房はついでに業者に頼んで、屋敷の道路側溝を修理してもらった。

前回の駿河古文書会で扱った「置籾預り証文」を以下に示す。江戸時代の経済にとって、年々継続して米作が行なわれることが大変重要であった。来年に蒔く種籾は各百姓がそれぞれ確保して、籾が付いたまま保存して置くのが通例であるが、米作には豊作不作が付きもので、凶作となって飢饉にでもなれば、蓄えて置いた種籾まで食べてしまうことになる。これでは米作が継続できないから、代官所では年貢の一部を村に預け置いて、郷倉などに保管させて、非常時に備えることを行なった。それを「置籾」という。何事も無ければ去年の置き籾は年貢として納めて、また新しく「置籾」をするのであろう。

    差し上げ申す一札の事
  一 御置籾拾弐俵            但し五斗入り
右は当酉御年貢御置籾、書面の通り御預かり置き罷り有り候上は、大切に仕り麁末(そまつ)の義仕りまじく候、自然出火にて御籾焼失仕り候か、又はいり様の義にて、紛失仕り候とも、村中にてきっと弁納仕るべく候、もし鼠喰い濡れ腐れ出来仕り候わば、これまた村中にて弁納仕るべく候、何れとも御差図これあるまでは、大切仕り御預り置き申すべく候、
よって証文差し上げ候ところ、くだんの如し
 享保十四年酉十一月         庵原郡東山寺村
                    名主 市郎左衛門
                同  五郎右衛門
  山田治右衛門様           組頭 義左衛門
     御役所             同  藤兵衛
                     同  市兵衛
                     同  惣右衛門
                    百姓 角左衛門
                     同  六郎右衛門

※ 置籾(おきもみ)- 近世、不作の年、または非常の時に備えて、ふだんから貯えておく古籾。囲い籾。

江戸時代の御役所(代官所)と百姓の関係は、収奪する者と収奪される者という対立関係では決して理解できない相互関係にあったと思われる。置籾の制度だけでなく、災害や飢饉の際のきめ細かい対応など、歴史では学ばなかったことを、我々は古文書の世界で知ることになる。そういう仕組みが無ければ260年間の長い江戸幕府の幕藩体制は維持できなかったと思う。あのソ連が70年、アルジェリアのカダフィー政権でも60年で崩壊しているのを見れば明らかであろう。
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隣組班長、半年の記録

(川浚いの依頼を出した新堀川の現状、
土砂や葦が詰って溢水する危険がある)

この4月より、隣組35戸の班長を勤めて、早くも半年が経った。任期も残り半年である。我が班は戸数も多いけれども、面積も随分広い。35戸以外に、アパートが一棟、茶問屋一工場、農協茶センター、交番、消防署など、班としての付き合いがあるわけではないが、我が班のエリア内にある。さらに大代川と新堀川が班のすぐ脇を流れており、隣接農地も多い。

春から実施してきた班長の仕事をこの辺りで整理して置くのもよいだろう。当初、この一年に決めるべきこと、やるべきことは出来る限り実施して、先延ばしにはしないようにしたいと思った。実施完了したことを箇条書きにしてみる。

 1.ゴミステーション清掃の当番制
     ― 4月から一戸一週間の当番制を敷く
 2.アパートから班に入班者1名受入
     ― 5月から1名受け入れる(35軒となる)
 3.ゴミステーション外の放置ゴミ
     ― アパート住人1名、お金をいただいて鍵を渡し解決
 4.5叉路、学道自転車一旦停止無視問題
     ― 交番に巡回を頼み、学校からも注意をしてもらう
 5.5叉路穴ぼこ補修
     ― 市すぐやる課へ頼み実施済み
 6.大代川土手穴ぼこ補修
     ― 市すぐやる課へ頼み実施済み
 7.街灯2灯、球切れ取替
     ― 電気屋にて取替え済み

現在進行中、未着手の問題も沢山ある。

 1.街灯3灯設置、区へ依頼、2灯は設置できそうである
 2.5叉路鋭角角隅きり問題、工事待ち
 3.大雨で溝が溢れ道路冠水常習地一ヶ所、市へ改善申請中
 4.新堀川川浚い、市へ申請中、予算の問題あり
 5.班内舗装道路、補修年次計画未着手
 6.班防災倉庫、台風15号の風により動く、補修未着手

市へ依頼することは、概ね区の自治会長を通して依頼する。他班からはほとんどなくて、我が班からの依頼ばかりで気が引けるが、自治会長は何も無いではさみしいと、依頼を出すと喜んでくれるから有り難い。

行政への依頼は、小さな問題(道路の穴ぼこを埋める程度)ならすぐやる課がとんで来て文字通りすぐに対応してくれる。しかし、すぐやる課の手に負えない問題となると、予算が絡んできて、現在は予算に余裕がなく、いつ実施してもらえるかわからないのが実情である。けれども出しておけば、いつかは実施してもらえる。地元が要望しなければことが始まらない。

班長は毎月班長会に出席する以外に、区で催される行事の手伝いに出なければならない。この6ヶ月でも、次の行事に手伝いに出た。
 
 1.コミュニティ主催「区夏祭り」
 2.区敬老会
 3.区防災訓練

10月になったら班の会合を持って、中間報告する予定である。そこでまた新しい要望が出てくるかもしれない。
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金谷宿往還、八軒屋橋界隈を歩く

(「日かずふる‥‥」の歌碑)

昨日、新金谷駅で転車台を見たあと、大井川に向かって歩いた。島田宿の川越遺跡と同じように、往時は往還の両側に番宿が軒を連ねていたと思われるが、その面影は今はない。もっとも大井川寄りに八軒屋橋がある。案内板によれば昔は板橋だったようだ。かつて、この橋のたもとに蕪村の句碑が立っていた。 

その句碑について、自分のホームページ「旧東海道夫婦旅」の中で、以下のように書いたことがある。

その隣に句碑があった。(中略)後日写真を取り直して、地元の石の特徴で剥落しかけた碑を解読した。

   みじか夜や 二尺落ち行く 大井川   蕪村

与謝蕪村の句碑であった。しかし意味が理解できなかった。新潮日本古典集成の「與謝蕪村集」から捜したところ、大変な間違いに気付いた。ここに言う「大井川」は越すに越されぬ大井川ではなくて、京都嵐山の井堰を詠んだ句であることが判った。ユリカモメ(都鳥)がたわむれる写真とともによく見る風景である。あの川を大堰(井)川という。言われてみればあの堰は二尺(60cm)ほどである。


我ながら余計なことを書いたと思った。そのためというわけではないのだろうが、しばらくして蕪村句碑は撤去され、新しい歌碑に取替えられた。

   日かずふる 旅のあはれは 大井川 わたらぬ水も 深き色かな

今度の歌は「東関紀行」に載っている歌で、まさに大井川を詠んでいる。
※「東関紀行」-13世紀の紀行文。作者不詳。京都から鎌倉までの道中の体験や感想で構成。


(「義人仲田源蔵」の石像)

歌碑の隣りには、「義人仲田源蔵」の石像が新たに建立されていた。脇の経歴の石碑によれば、仲田源蔵氏は金谷宿八軒屋の地に生れた。明治になって大井川川越制度が廃止され、両岸で1200名の川越人足が失業の憂き目にあった。金谷方川越人足総代を引き受けた氏は明治政府に直訴、金谷方人足100人を率いて牧之原に入植、牧之原大茶園の礎を築いた。

仲田源蔵氏については、詳しくはこちらを

ネットによれば、素朴な石像は1枚の写真を元に、地元の石屋のおやじが利益を度外視して、何かにつかれたように3ヶ月掛かって彫ったものだという。
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転車台を見に行く

 
(大井川鉄道新金谷駅、転車台)

彼岸の中日が過ぎて急に涼しくなった。歩くのに良い季節の到来である。この夏、食べすぎと運動不足で少なからずメタボになっている。その解消もあるが、来春の計画の準備もあるので、そろそろ歩き始める時が来た。今日は初日だから、とりあえず10キロ歩こうと思った。時間で2時間強であろうか。万歩計を探したところ、電池切れであった。取り替えねば役に立たない。

行き先は大井川鉄道新金谷駅構内の転車台である。出来上がったことは新聞に出ていた。お披露目は10月7日のSLフェスタIN金谷の初日に行なわれる。

10時に家を出た。天候はくもり。風が涼しい。絶好の歩き日和である。大代川の土手を下って行った。大代川は川底一面に葦が生えていたが、最近の台風による増水で、川底の一部の葦が倒されて、泥色の流れが出来ている。大代川の川浚いの問題は、自治会連合会で毎年課題になっていると自治会長さんは話していた。この時代、行政はなかなか予算が取れないのだろうか。


(川浚いできた大代川の区間)

見晴らしを越えた先で、急に葦が消えて川底の土砂も取り除かれている部分があった。どうやら最近、川浚いが実施されたようであった。数百メートルの区間で終ったが、それから下流は土砂や葦も少なかったから、どうやら下流のほうから順次川浚いを行なっているようであった。年にそれぐらいとすれば、我が家近くまで来るのにまだ3、4年掛かりそうに思えた。

金谷の旧往還(旧東海道)まで来ると、土手の斜面の上辺に帯状にコスモスが植えられていた。まだ苗が小さくて、それでも花を咲かせている。SLフェスタを目標に植えられたのだが、あと二週間で見頃になるのだろうか。

新金谷駅についた。今日のSLはこれからなのだろう。乗客が集り始めていた。見ている間に観光バスの3車目が入った。客を降ろした運転手とガイドが話しているそばを通った。
 「行っても通行禁止になっているよ。」
 「見るだけでも、見て見たいと‥‥」
世界一長い木造橋として、ギネスにも載っている、大井川に掛かる賃取橋の蓬莱橋は、この台風で橋桁がいくつか流されて通行できなくなっている。台風で増水する度に橋桁が流されて補修している。ギネスを維持するために随分お金の掛かることである。

転車台は観光バスの駐車場の向こうに出来ていた。観光用らしく、転車台の周りに丸く歩道が作られていた。転車がイベントになるのだろう。舞台上のファッションモデルよろしく、蒸気機関車が観光客の前でくるりと回ってみせる。けっこう人気を呼ぶかもしれない。

このまま帰ると歩行が7キロほどにしかならない。10キロを越すために旧国道の大井川橋を渡り、向こうの土手を歩いて、国一バイパスの新大井川橋を渡り返して帰ろうと思った。大井川を渡るだけで1キロ近くあるから何とか10キロを越す。

歩行時間は2時間20分、このところの運動不足で腿の筋肉が落ちてほっそりしてきたと心配していたけれども、さすがに最後の1キロは疲れたものの、この10キロをそれほど苦もなく歩けたことににんまりした。
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余震と江戸大地震-喜三太さんの記録

(庭のムラサキシキブの実)

今回で「喜三太さんの記録」は終る。古文書を始めてもう3年半になる。解読の上達はある日突然に古文書が読めてしまうようになるのだろうと思っていた。それが数ヶ月前、この喜三太さんの記録を読んでいて実感した。文の意味が解ってしまうと、難読な部分も見えてしまう。講座に出て先生の解読を聞かなくても、ある程度自信を持った解読が出来るようになった。喜三太さんの記録の今日の部分も、先月監査出張で出席できなかったときに、読まれた部分で、講師の解読は聞いていない部分である。

 再度の地震
去年大地震の後、日々鳴動の折々、地震れいたし候、当正月廿七日四ツ時頃、余程の地震にて外へ逃げ出し候程なり候うが、潰れ残り候家又々潰れ候、方もこれ無く候所、榛原辺、川尻辺は、家蔵潰れ候村々余程これ有り候と申し候、去年の大地震には逃れ候うて、その節のいたみにて、再度の地震に潰れ候事、逃げがたき宿業と存じられ候

※ 再度の地震-安政の大地震の大きな余震である。
※ 方無(ほうなし)- どうしようもない。しかたがない。


 江戸大地震
同年十月二日亥初刻、江戸大地震にて、これも所々火燃え出し、怪我人、死人数知らずと申す事ゆえ、御地頭所の事もいかが計り難く、殊にこの節大井住主人、西小松も、この節出府に付、甚だ以って心配ゆえ、隣家定めて、六日早朝
殿様御様子御伺いとして出立いたし候、もっとも岡津村にても新六殿同行、一同出立、供は西岡津常蔵なり、しかるところ八日夜に入り、西小松佐文次外、村方の衆に由井宿にて行き合いに付、夫より一同帰りしと申す事也

殿様御屋敷も所々少々の破損はこれ有り候えども、惣家潰れ申さず、御怪我人もこれ無しと申し候こと、先ず先ず大慶事に候、佐文次などは夜、品川泊りの所ゆえ、この地震ゆえ、それを以って江戸御屋敷まで立ち帰り、御様子御伺い御見舞申し上げ、直ぐさま御暇給わり、上り来り候と申す事なり

地震の風評まち/\にて実説相分らず候、先九月廿八日暮れ合い余程の地震、その後も小地震度々、且つ種々の風評これ有り候所、この度江戸大地震なり、同十五日中山小泉屋よりの書状在り

※ 暮れ合い - 日の暮れようとする頃。夕暮れ時。

江戸で大地震があったと知って、殿様の江戸の御屋敷に様子うかがいに出ようとしたが、喜三太さんは留守番であった。役から降りたために御様子うかがいを遠慮したのだろうか。それもあるが、おそらく病が重くて江戸へ出ることは出来なかったのだろうと思った。

江戸大地震の最後に「書状在り」と、最後の文字を「在」と読んだが、正しくはさらに後へ続くような文字ではないかと思った。つまり喜三太さんは「小泉屋よりの書状」の内容を次に書き継ごうと思いながら筆を止め、そこで病が悪化して書き継ぐことが出来なかったのではないだろうか。それでないと終わりが唐突過ぎる。几帳面な喜三太さん(おそらく血液型はA型)がこんな中途半端な終り方はしないはずだと思った。
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喜三太さんの退役-喜三太さんの記録

(大代川と夕焼け雲)

彼岸の中日、今日は天気は良かったが、半袖では肌寒いほどに気温が下がった。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものである。午前中、女房の実家のお墓参りに行く。女房の実家でも台風15号の話題で盛り上がる。金谷ではこんな強風が吹いたことがないらしく、小さな被害が出ている。しっかりと作られた本家には全く被害がないが、周りに作った構築物や植木などに風の被害が出たようだ。

   *    *    *    *    *    *    *

喜三太さんは病を得て、一度退役願いを出したことがある。その時は病が癒えるまで休役としてもらった。一度は帰役したものの、病がちで再度退役を願い出たものである。今回の退役願いは叶えられた。

退役
予帰役の後、子細のため、銭子甚だ不如意に相成り候に付、役義御免願い差し出し候ところ、御聞済ましに相成らず、余義なく相勤め罷り在り候えども、去々年江戸表へ罷り出で、血失の病にて相脳(わずら)うに、病中帰村の後、村役人へ度々退役の義候えども、埒明(らちあけ)申さず、しかるところ今般大井住主人御年始拝礼出府に付、退役の願い書差し出し申し候、願書写し左の通り
※ 帰役 - 病を得て組頭役を休役していた。
※ 銭子 - 銭。俗に「銭っこ」。


   恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
一 私義、御懇命を蒙り、組頭役、仰せ付けられ、冥加至極有り難き仕合わせに存じ奉り候、しかるところ素々多病の私、両三年この方持病いよいよ増し、御用向き並び村用とも相勤めかね、恐れ入り奉り候あいだ、退役願い上げ奉り候、何とぞ格別の御慈悲を以って、右願の通り仰せ付けられ下し置かれ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り候、以上
 安政二年      佐野郡各和村
    卯二月        組頭 権三郎 印
   長谷川佐野四郎様

右の通り願い書相認め、差し出し申し候、三月二日に差状来たり候ところ、首尾の退役相叶い候と申す事にて、隣家寅七殿より三日の朝、申し渡され候、多年の願い相叶い、本望これに過ぎず候


約一年半に渡り読み進めてきた、「喜三太さんの記録」も退役を一段落として終ることになる。あと1回だけ、江戸の大地震についての記事がある。病がちな喜三太さんは記録が途絶えてから、そんなに長生きしなかったのではないかと思う。その根拠は次回の「江戸の大地震」の項で述べる。
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台風15号の爪あと

(大枝が折れたねむの木)

台風一過、秋晴れになった。まだ少し風が残るが清々しい風である。

朝、表に出ると隣の茶畑の管理しているお茶問屋の奥さんがいて、低身低頭で壊れたアルミ柵はすぐに直すと言う。出たついでに班長の役割として近所を一回りして来ようと出かける。我が班は35軒でとにかく広い。会う人ごとにこんな強風は初めてだという。確かにここに家を建ててから、短時間であったがこんなに吹いたことは無かった。御前崎や靜岡空港で瞬間風速で39メートルと報道していたから、30メートル近い風が吹いたのかも知れない。風への備えは経験がないと出来ないものである。

我が家から公道への出口の自家菜園では、里芋の葉っぱがズタズタに裂けていた。大根の苗が全滅だと、おじさんが話す。おじさんは午後に再びやって来て、土を入れて大根の苗を一苗ずつ起していた。班の小さなプレハブ製防災倉庫が20センチほど後ろに動いて、ネット柵で何とか止まっていた。これはいずれ手を借りて直さねばならないだろう。Sさん宅では駐車スペースの簡易屋根が潰れ、屋根瓦が一部動いた。Tさん宅ではアンテナが折れた。この2軒は最も風当たりの強いところにあった。目に見えた被害はそんなところで、人家が固まって建っているところでは、大きな被害は無かったようである。

土手に出ると、合歓の木の大枝が1本、ねじられるように折れていた。袋井の可睡斎では杉の木が何本も倒れて由緒ある建物を直撃して、無残にも壊してしまったというニュースがテレビで流れていた。自然もこれだけの大風は経験していない証拠である。

田圃の稲はもう実りの季節であるが、風で部分的になぎ倒された田圃と、何も被害がない田圃が隣同士であった。おそらく腰の弱い品種のものと、そうでないものの違いであろう。刈り取りが終わり干してあった稲木が倒れているところもある。




(土手の穴-修理前と修理後)

先の台風12号は雨台風で、台風の後、大代川の土手に穴が開いて、近所の方の通報で自治会長さんに連絡を取り、市役所のすぐやる課に連絡していただいたところ、2、3日後には、水が抜けたと思われる深い穴を砂利で埋めて、アスファルトで仕上げてもらった。土手の事ゆえ気持が良くなかったが、さすがすぐやる課である。頼もしい。穴埋めが台風15号に間に合ってよかったと思う。

以上が見回りの結果であるが、驚かされた割には被害は少なかったといえるだろう。

午後、アルミ柵を設置したおじさんが来て、お茶屋さんから修理を頼まれたから見積を出すと話す。出来るだけ早く修理すると言って帰った。
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台風15号、浜松に上陸す

(根っ子が折れたアルミ柵)

昨日動き出した台風15号は、東北東から北東に進み、九州には向かわず、四国もパスして、東海から関東に向かって速度を速めながら進んでいた。朝、このままでは午後一番には当地へ最接近しそうであった。出勤日であったが朝一で顔を出して、昨日忘れて帰ったデジカメ入りのサイドバックを持ち、そのまま自主早退した。このままおれば午後帰ることが出来なくなる。夕方皆んなの仕事が終る頃まで足止めされそうで、一つ間違えば帰宅も覚束なくなると思ったからである。

段々雨風も激しくなった。台風はどうやら浜松に向かってまっすぐに進んでいるようであった。北東に進む台風の南東側に入れば、雨は少ないけれども風が強くなる。その通りに風がどんどん激しくなってきた。初めは東風から南風、終わりには西風になった。

NHKではずっと台風のニュースを流していた。予想コースを見ていると、一直線に浜松に向かっている。浜松に上陸するようだと、女房に話していたところ、テロップが流れて、気象庁の発表では「午後2時ごろに浜松付近に上陸したもよう」とあった。

我が家の隣りの新植の茶畑にはスプリンクラーを付けた。人家に近いからスプリンクラーの水が茶畑の敷地外にかからないように、茶畑をビニールシートで覆うように設備されていて、常時はそのシートは上に丸め上げられていた。そのシートが風に翻弄された。南風が激しくなって、まず道路側のシートに風をはらんで、丸められたシートが一気に拡がって、強風時に帆を上げたようになったからたまらない。支柱が北側に傾きシートがズタズタに切れて、大きな音を立てて激しくはためき出した。

台風が我が家の北西10kmほどのところを最接近して過ぎると、風向きが西へ変わった。途端に我が家との境にあり、今まで無傷に見えた茶畑西側のシートが一気にほどけて大きく風をはらんだ。このシートは意外に丈夫だと聞いていたから、なんども煽ってものすごい音をたてる。下側の芯になっている鉄パイプが我が家のアルミ柵に何度もぶつかる間に、アルミ柵を根元から折損して行き、半分ほど壊れてしまった。我々は出窓や小窓から様子を覗いて見ているだけであった。

台風が通り過ぎると、30分も経たずに風が治まった。様子を見に来てビニールシートの応急処置をした茶畑の管理会社の人が玄関に来て、アルミ柵を壊してしまったけれども、後日修理させていただくと謝りに見えた。

このビニールシートは台風前に丸めた上部を数ヶ所荷造り紐か何かで縛っておけばこんな被害は無かったのではないかと思った。備えあれば憂いなしである。全般に当地の人は昔から大風の経験が少ないらしく、風への備えを甘く見る傾向があると思った。
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