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まーくん一家帰る

(戦隊ヒーロー、Oさん撮影)

かなくんたちが合流して、我が家が一段と賑やかになり、寝場所も追われ、自分は居間のパソコンの前にふとんを敷くことになった。便利なようで、寝る前に書き込みをしていた身にはちょっと困ったことになった。昼間は孫たちに占拠された我が家に居場所を見つけるのが一段と難しくなり、やっと皆んなが寝静まって、パソコンの前に座るが、そこはそのまま寝床になったから、直接的な睡眠への誘惑に勝てなくて、この二日間は書き込みをしないで寝てしまった。外出もほとんどしないので、材料も底を付いてしまい、書くテーマも浮ばなかったから、ついつい誘惑に負けることになった。

午前中に、島田のOさんご夫妻が孫たち3人を、島田の大型商業施設で行われる戦隊ヒーローショウへ連れて行ってくれることになった。ところが最近顔見知りするようになった、あっくんは、恥ずかしいから行かないという。いじけているように見えたので、戦隊ヒーローショウは楽しいよとけしかけたら、女房たちが我慢しているから、話題にするなという。我慢するなら行けばよいと思い、かなちゃんママも行くから恥ずかしいことなんかないと話す。行きそうな気配を見せたので、話題にするなと言った女房たちも、勧める側に回った。やっと行く気になると、急いでトイレを済ませ、車に走って乗ったよと、まーくんママの報告があった。本当は羨ましかったけれども、行かないと言った手前、やせ我慢をしていたようだ。勧めてくれて良かったという。

島田のOさんご夫妻は、早くから場所取りに行って、最前列を取ってくれた。ところが、最前列では迫力がありすぎて、恐かったらしい。しかし、皆んな興奮の態で帰ってきた。夕方にはOさんから早速戦隊ヒーローショウの写真が届いた。

午後は、かなくんママに、段ボールを張り合わせた、剣付機関銃を3人分作ってもらい、色とりどりのビニールテープでそれぞれに彩色して、長い間、戦隊ヒーロー遊びをしていた。かなくんママはさすが美術部と幼稚園課程の出身だけのことはあり、そんな工作に手際が良い。

まーくん一家は昼の中に引越して、残っていた、まーくん、あっくんも宵の中に迎えに来たパパと帰って行き、1ヶ月半近い同居が終わった。始めたときは4人家族で、帰るときは5人家族になった。前半はまーくんの幼稚園の送り迎えで大変だった。後半は幼稚園が春休みに入り、送り迎えは無くなったが、我が家が1日幼稚園状態になり、かなくんを迎えて最高潮になった。それが今夜、ようやく終止符が打たれた。まだ、一週間、かなくんたちが残るけれども、今までの状態と比べれば静かなものである。

この間に、季節は過ぎて、桜も散り、昨日あたりは、大代川に花筏(いかだ)が流れていた。今年は花見も無しに花の季節が終わろうとしている。
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名古屋から、かなごん来襲

(ひそかに咲く庭の隅のレンギョウ)

午前中、名古屋からかなくんとママが来るというので、新幹線駅のJR掛川駅まで迎えに行った。直前になってまーくんがいっしょにいくというので、助手席に乗せた。行き帰りで見た桜はどこも満開で、早くも散る花びらも見えた。お花見も平地ではこの週末が最後だろうと思った。掛川駅にはすでに「こだま」が到着していて、駅前広場にかなくん母子の姿が見えた。向うからも、じいじの車を見つけ、かなくんが駈けてくる。また一段と大きくなったようだ。かなくん母子は幼稚園がはじまるまでの約10日間ほど、我が家へ逗留するようだ。女房は娘の骨休めだからというが、その間、パパは名古屋へ置き去りで、大丈夫なんだろうか。

午後は一番西の和室に避難して、読書をしていた。かなくんを迎えて、我が家は一段とヴォルテージが上ったようだ。あっくんとかなくんが、がなっているのが聞こえる。太いあっくんの声にはかなくんもたじたじで、まーくんは兄ながら、はじめから勝負は諦めている。まーくんの高い声では、あっくんのど太い声の迫力には対抗できない。もっともまーくんの声の方が子供としては普通である。あっくんの声は異常で、子供らしくない。本人も知ってか知らずか、得意がって、がなる。まーくんの声は喉で出しているが、あっくんの声はお腹から出しているから迫力が違うのである。あっくんは黙って聞いていると、よく耳で覚えた歌を歌っている。まだ歌詞はいい加減であるけれども、歌が好きなのかもしれない。お腹から声を出すという歌の基本が生まれながらに出来ている。

かなくんが持ってきたキョウリュウジャーの剣付機関銃が大人気で、まーくん、かなくんも借りて、機関銃の音を出して目を丸くしている。そのうち、何がきっかけなのか、駆けっこが始まった。小さい家の中、応接から居間、玄関前廊下から応接とぐるぐる駆け回る。あっくんも一歩遅れるが懸命に付いて行く。やがて、居間から8畳の和室、6畳の和室の自分の脇をかすめて、縁側から玄関前廊下と、最長の周回コースに広がった。男の子3人が汗をかきながら大声を挙げて走っている。我が家ながら、自分の身の置き所を失った感じである。

えまちゃんは騒がしさには慣れているようで、そんな騒々しい中でも、目を覚まさずによく寝ている。逆に食事時など、子供たちがダイニングに引っ込み、静かになると、目を覚まして泣き始める。ダイニングに連れてきて、子供たちのそばに置くと安心するらしく、泣き止むから不思議である。
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「妖怪学の祖 井上圓了」を読む

(「妖怪学の祖 井上圓了」)

菊地章太著「妖怪学の祖 井上圓了」という本を読んだ。井上圓了という人を知っているであろうか。自分の知識では、妖怪を真正面から研究した、明治時代の学者という位しかなかった。

井上圓了は明治維新の10年前、安政五年(1858)に越後長岡の浄土真宗のお寺の息子として生まれた。この出生が圓了の人生に大きく影を落としたと、圓了の人生の62年の人生を見てきた現在は思う。

圓了の生まれたのは、信濃川のほとり、越後国三島郡浦村で、信濃川の舟運で栄えた。天領であったものが、終わりになって長岡藩に加えられて、憂き目を味わったこともあり、長岡藩に忠誠を誓ったわけでは無かったが、戊辰戦争の負け組の烙印は最後まで付いて回った。

明治になって、廃仏毀釈の危機の中、東本願寺は人材育成のため、教師教校を設立し、圓了は推薦を受けて、明治10年、増設された英学科に入学、それより東本願寺留学生として東京大学予備門、東京大学へと進んだ。大学では諸学を総合統括する学問として哲学を学んだ。哲学を学ぶ中で、明治になっても迷信を引きずる庶民を啓蒙して、近代化させることが自らの使命だと思うようになった。(この迷信という言葉は圓了が創った言葉だという)

大学を卒業後、官吏への誘いも断り、母校の教師教校へ就任命令も固辞し、大学へ残ることもせず、哲学館(現在の東洋大学の前身)という私立学校設立に奔走した。勝海舟の支援を受け、その勧めで、私学の経営は特定の団体や有力者に頼るべきではない。独立自活の精神を維持すべきだとの教えに、館主自ら全国を巡回講演し、大衆から広く賛同を得ようとした。全国を講演行脚した日数は、27年間に延べ三千六百日を越える。

さらに、哲学館で館主自ら「妖怪学」という講義を始めた。世間の人が妖怪と言って恐れているものは、実は迷信にすぎない。迷信に惑わされず、自らものを考えるいとなみこそ哲学の一歩である。圓了はそう主張し、妖怪の仕業と思われていた現象を、科学的に解明して見せた。さらに、全国の行脚の道すがら、世の中からたくさんの「不思議」を集めて、多くの著作を残した。

その結果、妖怪退治を目論んだ圓了の著作の中に、その後、文明開化とともに失われてしまった妖怪の数々が残されることになった。柳田国男の「遠野物語」や小泉八雲の「怪談」に出てくる話は、多分に脚色されているが、圓了の「妖怪学講義」には、脚色されない、生の妖怪(怪異現象)が出てくる。

現代、水木しげるのブレイクもあいまって、妖怪はブームとなり脚光を浴びているように見える。そんな中で、東洋大学ではこの本の著者、菊地章太氏が学生の要望に応えて、「妖怪学」の講座を復活させた。もう七年になるが、毎年千人を越える受講希望者がいるという。圓了の意思とは外れるように思うが、現代にもまだまだ不思議現象はたくさん残っていることも事実である。
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インフルエンザの季節

(クロッカスの終わった鉢に、紫のヒヤシンスが咲いた。
毎年のことなのだが忘れていた)

久し振りにS医院に行く。診察は2ヶ月ぶりくらいか。行っても血圧を測るくらいだから、何という事はない。医者に行ってインフルエンザでも貰ってきては大変である。だから、しばらく足を向けないようにしていたとS医師に話す。それは懸命だとS医師は頷いた。S医師も、この冬、インフルエンザに2度罹った。それでも予防注射をしているから、軽く済んだようだと話す。予防注射をすれば罹患しないわけではないようだ。

今年はインフルエンザはほぼ終わったのだろうかと聞くと、まだB型が発生していると、数個の検査片を見せてくれた。離れてうかがうに、小さなプラスチック容器に密封されているように見えた。何とか今年もインフルエンザには罹らないで終わりたいものである。

S医院の待合室で新しい体温計を見た。小さいピストル型の体温計で、看護師が患者の額に向けてかざすと、たちどころに体温が測れる。サーズとか鳥インフルエンザが流行ったとき、空港などのゲートで客の体温をチェックしていた赤外線装置があった。あれを小型化したものであろうか。待合室で何人か測られていたが、瞬間に体温が測れてまことに便利ではある。しかし、この体温計、よく知った医院などではよいが、額に照射されるのは、何とも不気味である。町中でされると、ついついホールドアップをしてしまいそうである。

ネットで見ていくと、香港や上海など、中国の空港で体験したという話がいくつか出ていた。日本では通路に大きな装置が設置されていて、通る人をチェックしていた。それならばそれほど抵抗感はないが、検疫でいきなり額に向けられて、びっくりしたという話がいくつか載っていた。その辺りはいかにも中国的な感覚である。銃規制があまいアメリカなどでは、恐怖感で固まってしまう人も多いだろう。なかなか採用されないだろうと思う。

市販されているものは、15000円位のもので、一家に一台あると便利かもしれない。接触しないでお風呂の温度を測ったり、ミルクの温度も測れる。もう少し高い温度が測定範囲に入れば、美味しくお茶を入れる湯温60度が測れて、面白い利用方法が出来る。

午後、息子が職場で発熱して、強制退去となり、早引けした。帰りにS医師に寄ってきたという。検査の結果、インフルエンザは陰性だったようだが、我が家には赤ん坊1人、幼児2名が同居中で、女房は息子を自室へ隔離した。酷くなるようなら、孫たちの引き上げる時期を早める必要があるかも、などと話している。何といっても我が家が社会に開けている窓は、ほぼ息子だけで、インフルエンザを持ち込むとすれば、息子が一番可能性が高い。
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えまちゃんのお宮参り

(えまちゃんのお宮参り、ばらばらな記念撮影)

風邪で1日休んだ日の書き込みを1日遅れで書いていたが、ややこしくなったので、土曜日を休載とし、追いつくことにした。

今日の日曜日のお宮参りは、えまちゃん一家と女房で相談していたようで、自分は正式には昨日聞いた。自分の数少ないスケジュールは、カレンダーに書いてあるから、予定がバッティングすることはないし、問題はないのだが、心積もりもあるし、風邪を引く都合もある。ただし、文句はぐっと呑み込んで言わない。

明けて今朝、10時前に、昨夜は一人掛川の自宅に泊ったパパと向うのお母さんが到着して、車2台に分乗して大井神社に向かう。えまちゃん一家は掛川に住みながら、結婚式から命名、お宮参りから七五三まで大井神社にお世話になっている。

お宮参りの前に、そばの写真館で記念写真を撮るのが習いで、今回はえまちゃんの衣装は写真館で貸して頂いた。まーくん、あっくんはお揃いの服だが、あっくんが着ているのは同じ頃に名古屋のかなくん用にあつらえたものを、借りたという。まーくんは大きくなって、ズボンが短くて半ズボンに見えるが、あっくんでは長ズボンである。あっくんは上半身の肉付きが良くて、上着が一杯々々であった。

まーくん、あっくん同様に、えまちゃんも写真を撮る間、ずうっと眠っていた。写真館の人が起こそうと、でんでん太鼓や鈴などで騒がせるが、いよいよ目を固く瞑ってしまう。本当に熟睡しているわけではなくて、目を開けてなるものかと頑張っているように見える。名古屋のかなくんは大きな目を開けて写真に写っているけれども、掛川の孫たちは皆な目を瞑って写ることになった。写真館の人が起こそうと、背中を叩いたり揺すったり、一生懸命であったが効果はなかった。その様子を見ている方が、そんなに乱暴に扱わないで、と言いたくなる。我が家でも、まだ首も脳も固まっていないから、壊れ物のように扱っているのに、気が気ではない。

今日は日が良いのであろう、何組もお宮参りに来ていた。直前の祈祷には10組もいただろうか。自分たちの番でも7組ほどの家族がいた。もう首も据わったような赤ん坊も混じり、皆が皆、1ヶ月目ということではないようだ。寒い冬場は避けて、ようやく春めいたので出てきた家族もいるのであろう。

拝殿に入っても、まーくんもあっくんも騒ぐことなく式を終えた。歌好きのあっくんは、神主さんの祝詞の声に合わせて、お気に入りの歌を小声で歌っていた。お宮参りの行事を終えて、まーくん一家が掛川に戻るまで、あと一週間を残すばかりとなった。
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静岡県立図書館に行く

(靜岡県立大学脇の桜)

駿河古文書会で、初めての発表当番を仰せつかり、文書以外の史料調査などはいらないよといわれて、翻字しただけの資料を用意して渡した。それでも、何か参考になる文献でも目を通して置こうかと思っている時に、会長講演で川崎文昭氏のことを知り、ネットで見ると、氏に、「近世海難と浦証文の研究」という著書があることを知った。これは目を通しておいても良いだろうと思った。

ネットでも新品は売られていないから、古書で調べると、7000円ほどして、購入するには少し辛いから、間違いなく所蔵していると思われる県立図書館から借りて来ようと思い、朝、車で出かけた。

今日は空気がきれいで、靜岡に入ると、青空に富士山が見えた。駐車場に車を置いて、左手に靜岡県立大学のキャンパスを見ながら、グラウンドの西縁を通り、林の中のなだらかな斜面を登って行く。グラウンドを縁取るように桜並木があった。桜が開花したと聞いたのは、ほんの2、3日前のことであったが、もう進んでいる桜は七、八分咲きになっていた。遅れているものも三分咲きくらいにはなっている。

県立図書館は県立美術館の東隣にある。県立図書館の貸出カードは2、3年前に作ってあり、昨晩探し出して持ってきた。案内カウンターで書名のメモを渡すと、司書の女性がパソコンを打ち、レシート状の「資料情報」を出してくれた。勝手がわからない様子に、司書の女性は書棚の位置まで案内して、本を取り出してくれた。立派な装丁の本で、高価なことも納得出来た。

これ借りられますかと聞くと、貸出できますよと言った後、別の本を書棚から出して背表紙を見せて、ここに赤い印があるものは貸出が出来ませんと説明してくれる。このやり取りで、この本を借りる気になっていた。

閲覧テーブルで「近世海難と浦証文の研究」をパラパラと拾い読みした。幾つかの論文をまとめた本で、県内の浦々の名前だけではなくて、太平洋岸の浦名が出てくるから、範囲が県外にまで広がっている。関西と江戸を行き来する廻船は多く、昔の船では、海難事故は珍しいことではなかった。遭難した廻船がたどり着いた浦では、浦役人が立会い、遭難の状況を細かく調べて、遭難の証明書を作成した。それを「浦証文」と呼ぶ。

けっこう悪さをする船乗りも居て、途中で荷を降ろし、横流ししておいて、遭難を装うような手合いも居たらしい。そのような問題も出ているのであろうか。先ほどの司書に借りると告げたところ、まずはカードの更新(住所や電話番号の変更がないかどうかのチェック)を行い、この本は貸し出し出来ませんと、背表紙の赤い印を見せた。確かに赤い印があった。どこで行き違ったのだろう。

自分はこの本が借りられるかどうか確認した積りだったが、司書の女性は一般論として答え、一般論として赤い印のある本は貸し出せないと説明したのであろう。こんな行き違いは時々ある。悔しいけれども、赤い印を確認しなかった自分が悪いのであろう。本はこちらで書棚に返して置きますと司書は気の毒そうに言った。後で見ると、「資料情報」には「貸可資料」とあった。この「貸可」とはどういう意味なのだろう。
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日高敏隆著「昆虫学ってなに?」を読む

(「昆虫学ってなに?」)

風邪で休んでいる間に、日高敏隆著「昆虫学ってなに?」を読了した。日高敏隆氏は1930年生まれ、2009年に亡くなっている動物学者である。この本は氏の昆虫についてのエッセイをまとめたもので、専門家でなくても理解できるように、平易に書かれていて、大変に読みやすい。難しい話を難しく語るのは普通の人である。難解な話を平易に語ることが出来る人こそ、頭の良い人で、自分はそういう人に憧れる。

昆虫についてはファーブル昆虫記がバイブルのようなものだが、ファーブルはひたすら観察して、昆虫の生態を明らかにしてきた。それまで昆虫学といえば、昆虫分類学に過ぎなかったものを、昆虫の生き様の解明に光を当てたのはファーブルの功績であった。現代の昆虫学はさらに進化して、解剖学的な側面も持つようになったようだ。

たくさんの昆虫学者といわれる人たちが研究して論文発表したものを、著者は本書で平易に案内してくれる。昔は男の子なら誰もが昆虫採集に励んだ。山野はそれだけ昆虫にあふれていた。昆虫採集で洗礼をうけ、昆虫についての知識は他の人より多く持っていると自負している自分にも、知らなかった面白い話が次々に出てくる。それらをいくつか挙げてみよう。

蝶と蛾の違いについて、はっきりとした区別はないけれども、誰でもおおよその区別は出来る。しかし、区別の根拠を聞かれても明快に答えることが出来ない。著者は、蝶は昼間に活動の場を持ち、蛾は夜に活動することを選んだところから、蝶と蛾が別れたと説明する。蝶は昼間活動するから、美しい翅を見せて、視覚的にオス、メスが呼び合う。だから美しい翅が発達した。蛾は夜間でよく見えない中で活動するため、翅は地味なままで良かった。その分、メスはフェロモンなどの臭いを出して、オスを呼んだ。このように活動時間の違いが蝶と蛾を分けてきた。

メスがフェロモンを出すと数キロ離れた所から、オスがも嗅ぎ付けてくると思われているけれども、実際にはフェロモンは数メートルしか届かないという。オスは我々が昆虫採集をしたときのように、メスがいそうな場所を探してやって来て、フェロモンを嗅ぎ、メスの元にたどり着くのだという。

動物は酸素を血中に取り込んで毛細血管で全身に送り、生きているが、血が流れていない昆虫は気門から空気を取り入れ、全身に張り巡らされた気管を通って酸素が送られて、生きている。こんなことも自分たちは学ばなかった。今の子供たちは学んでいるのだろうか。

他にも、水生昆虫はどのように酸素を得ているのかとか、昆虫はどのように飛ぶのかとか、興味のある話が満載のエッセイ集であった。
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“原発” 鳴動ネズミ一匹

(庭のコブシの木、剪定の加減か、これだけ花を付けたのは久し振りの気がする)

昨日、福島第一原発で、核燃料格納容器で冷却装置の電源が失われたとのニュースが流れて、瞬間、すわ!と感じた。聞いてみれば、冷却装置が失われたまま置けば、格納容器内の水温が少しずつ上昇して、放置すれば危機に至るけれども、加水装置は生きているから、危機にはならないだろうと判断し、ひとまず安心した。今日になって、原因がネズミが入り込んで配電盤がショートしたためだったと解った。

その報道をよく聞いていると、「小動物が入り込んで、云々」といい、ネズミと断定しなかった。ところが次の画面になって、明らかにネズミとしか見えない小動物の焦げた死体が映っている。何だかなあ、と違和感を感じた。どうして、ネズミではなくて「小動物」と報道するのであろうか。

自分なりに理由を考えてみた。

①原因がネズミかどうかまだ判っていない。犯人と決まっていない重要参考人程度であるから、人権に配慮して名前を伏せる。

②報道として、東電側の一方的な発表で、ネズミ側の言い分を聞いていないから、報道に配慮する。

③ネズミではあるが、ドブネズミなのか、イエネズミなのか、ノネズミなのか、犯人が特定できていないから、名前を伏せる。

④記者にはあの映像がネズミと判断できなかったので「小動物」と表現した。

⑤こういう場合、このようにぼかして報道するのが、報道のテクニックで、報道機関の常識である。

⑥東電が「小動物」と発表したから、そのまま報道した。発表通りだから、報道機関には責任がない。

①②は面白いけれども、面白いだけのこと。③は翌日に「ネズミが原因だった」と報道され、その種別には興味が無いようであったから、バツである。④だとすれば、記者の目は一般の人と違って見えることになり、そんな目で見た報道は信用できない。⑤だとすれば、そんな常識は要らないと言いたい。

⑥がもっともありそうな話である。自分に言わせれば責任がないのではなくて、責任を果たしていないというべきである。本来の報道であれば、東電は「小動物」と発表したが、事実はネズミであると報道して欲しい。

こんな話を書いたのは、日頃の報道で違和感を感じることが多いからである。明らかに、警察発表を書き写しただけの報道も多い。事件が起きて、情報が小出しに出てくる。本来なら現場検証などで、その当日には判っていることが、事件を忘れそうになった頃に、ポツリと出てくる。明らかに警察の情報操作なのだが、それをなぞっている報道機関は警察の情報操作を是認していることになる。

①②は人の場合は重要な要素になってくるだろう。しかし名前を伏せ、写真をぼかされた報道ばかり見ていると、我々は馬鹿にされているように思える。そんなに自信の無い報道はやめるべきだと思った。戦前の本には伏せ字がたくさんあったけれども、やっていることはそれとどれだけ違うのであろうか。

犯人の人権には考慮しても、被害者の人権にどこまで考慮しているのだろうと思うことも多い。それが殺人事件の被害者であると、死人に口無しとばかりに、書きたい放題のように見える。たとえ死人でも、彼らには家族や身内もいるわけで、人権が無いはずがない。

久し振りに風邪を引き、1日休んだため、1日遅れの書き込みとなった。
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駿河古文書会懇親会

(大代川土手のエドヒガンがピンクに染まる)

昨夜から未明に掛けて風雨が激しく雨戸を打ったが、今朝は一転してすっかり春めいて、気温もぐんぐん上がった。朝早く目が覚めて、10時に起きるまでに、本を一冊読んでしまった。昨夜あたりから、喉がいがらっぽくて、風邪の前兆かと用心している。3人の孫が同居中だから、風邪を引くわけにはいかない。朝夕のうがいを念入りに行った。

まーくんの幼稚園が春休みになって、朝から家の中であっくんと二人で大騒ぎで、午後からは和室に避難し、本を読みかけたのだが、3ページと持たずに寝てしまった。今朝の足らなかった睡眠を補うように爆睡し、起こされたのが5時であった。ムサシが夕方の散歩を待っていた。外へ出ると、まだ山の端に夕日は没していなかった。大代川土手の一本桜(エドヒガン)がピンク色に染まっていた。

   *    *    *    *    *    *    *

先週の金曜日、駿河古文書会は会長講演の後、懇親会があった。会場をハートピア魚磯に移して20数人の参加で親交を深めた。川崎会長は大学の謝恩会で欠席となった。そんな季節である。

隣席のOさんは入会7年目で、元は掛川に住んでいて、現在は清水に在住だと聞く。掛川の家には誰も読まない古文書があって、読んでみたいと思ったのが古文書の勉強のきっかけであった。その後、女性のご先祖が59歳で旅をした記録を解読して、本にまとめて出版した。皆さんにもお配りして読んでいただいた。現在は男性の西国三十三観音霊場の巡礼記録を解読している。今回は西国三十三観音を自分でも歩いて、一冊にまとめようとしていると話す。

59歳のご先祖の旅記録を読んでみたいというと、300部作ったのだが、みんな配ってしまい、手元に一冊残っているだけだが、それを貸してくれるという。コピーを取らせていただいて、ゆっくり読んでみようと思った。同時に、自分の四国の本を進呈した。こういうこともあろうかと、一冊持参していた。ぱらぱら見て興味を持ってくれたようで、嬉しい。

駿河古文書会だけ出なく、同じテキストを使った基礎講座からも、六人ほど参加があり、その中の一人から「かさぶたさんですね」と声がかかった。聞けば解読の課題を検索していて、「かさぶた日録」に至ったらしい。基礎講座は講座日程が後になるので、見ないようにと思いながら、見せてもらって学ばせていただいていたと聞いた。自分の勉強にためと思って記録していることが、他の人の役に立っているとすれば、これも嬉しい話である。

その外、何人かの人とお話できて、懇親会を持っていただいたのは大変有り難かった。
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掛川古文書講座史跡めぐり(3)

(大雲院本堂)

(先週水曜日の掛川史跡巡りの続き)
帰り道に、瑞霧山大雲院へ寄った。一度来たことがあると思ったのは、遠江三十三観音札所で、歩いて巡ったからである。全員本堂に上らせていただいて、大雲院の由緒を詳しく住職から聞いた。

靜岡市慈悲尾の増善寺が、大雲院の本寺だと聞いた。縁が繋がっている。増善寺には、一昨年、駿河古文書会の見学会で訪れたことがあった。今川氏親の墓所がある古刹であった。大雲院はかつて荒れ寺があったところに、増善寺7世の大鑑自照禅師が出向いて再興したものである。天正年中というから、江戸時代より前の話である。

大雲院は、檀家を持たないお寺であった。八ヶ寺の末寺があって、それぞれが檀家を持っていた。時代が移って、末寺の内、五ヶ寺が廃寺となり、廃寺になった末寺の檀家は、当院の檀家となっている。また、本寺が靜岡の増善寺で、往時としてはずいぶん遠隔地であったため、掛川市内の真如寺と、相互に相本寺となって、大きな行事のときは、お互いに助け合ってきた。「相本寺」という制度は始めて知った。


(大雲院、大松の額)

壁に掛かっている大雲院の古地図を示しながら、「垂木」の地名の由来を聞いた。古地図にもわざわざ描かれている大松が、境内にあり、大枝を垂れていた。そこから「垂木」の名前が付き、この松を境に「上垂木」「下垂木」の地区が別れたという。その大松は明治の初めに枯れてしまった。その幹から一枚板を取り、西有禅師が「観音妙智力」と染筆した額が、現在も本堂正面に掛かっていた。住職の子供の頃まで、松の板から松脂が垂れていたという。


(十二所神社)

史跡巡りの最後に十二所神社に寄った。雨桜神社で古文書を見ているときに、白髪を肩まで垂らした独特の風貌の人がいた。会社の磐田の営業所長だったO氏だと思った。ずいぶん久し振りで、声を掛けたが、自己紹介するまで、こちらが誰か判らなかった。昔話を少しだけした。そのO氏は十二所神社の氏子であった。

十二所神社には大正五年の俳句の奉納額が掛かっていた。ケヤキの一枚板に細かい草書体でびっしりと書かれている。それをO氏が中心になって解読して、冊子にされたという。解読する上での苦労話などが、O氏から発表された。俳句の奉納額はあちこちで時々見るが、往時の流行だったのだろう。


(十二所神社の龍の彫刻)

もう一つ、この神社で観るべき物として、拝殿扉上の龍の彫刻が紹介された。平成15年本殿再建の際、彫刻裏面に「嘉永六癸丑年十二月吉祥 当村施主 山崎与右衛門 大工 山本喜作 竜神 冨眞作」と書かれていたという。この彫刻はかつては寺院の山門にあったという言い伝えもあるが定かではない。

夕方は雨の予報もあったけれども、何とか天気も持ち、予定よりも30分オーバーして、帰り着いた。
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