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放射能報道へ望みたいこと

(庭のサルスベリの木)

この夏は梅雨明けが早すぎたためか、梅雨がまた戻ってきたような天気が続く。猛暑になっているはずが、今日あたりも涼しくてまことに過ごしやすい。太平洋高気圧がなかなか強力にならず、北の高気圧と北陸、関東あたりでせめぎあって大雨を降らしている。昨日、一昨日の新潟、福島の大雨は河川を危うい状況にさせていた。

その余波で、昨日も激しい雷雨があり、今日も雲が多くて時々雨が降り、不安定な天気で気温も上がらない。もっとも例年なら梅雨が明けたかどうかで、暑さの本番はこれからだから、まだ冷夏と決まったわけでもない。しかし、台風9号が狙いを定めて動き出しているというから、しばらくは猛暑ということにはならないのだろう。おかげで電力不足も深刻なことにはなっていないことは、ご同慶の至りである。

先週の日曜日の田宮俊作氏の講演の中で、日本の放射能について、訪日回数の多い外国人が東京に来るに当たり、気になったので放射能測定器(ガイガーカウンター)を購入しホテルに宿泊した。滞在中何度か反応して放射能があることを確認し、やはり放射能は都内でも観測されるのだと思った。東京からパリに飛び、パリのホテルで放射能測定器のスイッチを入れてみたら、反応しっぱなしで、何のことはない、パリの方が東京より余程放射能の値が高かったという話を聞いた。

今日の夜のニュース番組では、番組スタッフがローマに放射能測定器を持ち込んで計測した様子を映していた。ここも東京より何倍も高い数値が出ており、住人に感想を聞くと、それが事実なら、我々はローマへ何十年と住んでいて何とも無いから、東京の皆さんも安心してよいと話していた。また南米には自然の放射能で、日本の浜辺より何十倍も高い放射能を観測する海岸があり、その浜辺でたくさん海水浴をしている様子を映していた。逆にその放射線がリュウマチに効くといわれて来ているというお年寄りもいた。

我々が子供のとき、世界各地で原水爆実験がされて、放射能が日本に日常的に降っていた。雨に中ると頭がはげるといわれ、雨に中らないように用心した。あの当時、日本全体で現在よりも何倍も高い数値を記録していたはずである。

放射能報道は肉牛の放射能汚染以外はほとんど報道されなくなったが、半減期30年のセシウム137などが無くなったわけではない。放射能報道について、ある基準値を超えているのかいないのかという点では報道される。しかし、基準値を決めた学者が基準値には何も根拠がないし、人体への影響も測ったデーターがないと言い放っているのだから、もっと別の比較、例えはその地の過去何十年の数値比較や、海外主要都市との数値比較といったデーターを望みたい。特に、原水爆の放射能がどのように減ってきたのかという点は、未来の予測する上で是非知りたいと思う。
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祝ブログ2000回達成

本日、めでたくブログ2000回達成いたしました。

始めて5年半、齢も65歳となり、どこまで続けて行けるか分らないが、御覧いただける皆様がある限り、書き込みを続けていきたいと、現時点では思っている。当面の目標は開始より7年、2500回である。

最近耳にしたニュースで、山本作兵衛氏の筑豊炭鉱で働く人々を描いた絵が、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録になると聞いた。山本作兵衛氏は炭鉱夫を引退後、亡くなるまでに、自分の目で見てきた筑豊炭鉱を2000枚の絵を描いて、「世界記憶遺産」に登録された。同じ2000で、はたして自分のブログ2000回は、せめて我が家の記憶資産ぐらいになるだろうか。

    *    *    *    *    *    *    *


(夏祭りゲームコーナー)

本日は竹下区の納涼夏祭り、コミュニティ竹下主催で、区も全面支援、班長も協力を要請され、昨日の準備から合力した。昨日は午後3時から2時間強、広場にテントを10張設置し、一汗かいた。そして今朝、午前8時半から準備で、いきなり、午後から雨になるので、会場をそばの旧JA倉庫内に変更するとして、昨日苦労して設営したテントをまた一汗かいて片付けた。これで雨が降らなかったら、昨日今日やったことが全く無駄になる。

自分に割り振られた担当は風船ヨーヨー釣り。子供用のプールに水を張って、担当の何人かでヨーヨー作りに2時間ほど掛かった。小さな風船に水と空気を入れて膨らませ、一方に輪を作ったゴムで風船の口を縛って、プラスチックの留めで挟む。これが要領をつかむまでなかなかうまく出来なかった。

準備が出来たところで、昼食の折りを貰って一度自宅へ帰る。夏祭りの開始は午後3時からで、昼寝をしてから出かけようと思った。ところが俄かに外が暗くなって、激しい雷雨となった。一時停電になるほどの稲光で、雨が屋根を打った。どうやらテントを片付けた判断は正しかったようだ。

お祭りの開始の午後3時には雨も止んで、夏祭りは始まった。倉庫内には手打ちそば、焼きそば、やきとり、五平餅、生ビール、ポップコーン、綿あめなどの模擬店がずらりと並び、ヨーヨー釣りは玩具のボーガンのゲームと隣り同志で、外の車庫に設置された。

ヨーヨー釣りは1回50円お金を取った。夕方暗くなるまでに売上げが3700円ほど、74人ほどの子供たちがヨーヨー釣りをしたことになる。200個用意したヨーヨーは50個ほど余って、夜に皆んなに配ってはかした。隣りのボーガンのゲームはプレーが無料で参加賞が付いて、ヨーヨー釣りでは50円取るのは、何とも気の引けることではあった。掛かる費用はこの売上げで十分お釣りが来るほどで、ボーガンのゲーム同様に無料にした方が良かったのではないかと思った。


(夏祭り盆踊り)

夏祭りは夕方から川越し太鼓の演技があり、盆踊りが午後8時まで続いた。最後は団扇に書かれた番号の抽選会で、9時近くまで賑わった。夏祭りも悪くはないけれども、世話をするのは大変に疲れる。
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博奕の話-駿河古文書会

(日除けに作ったゴーヤに立派な実が生った)

前回の駿河古文書会で、解読した文書の中に、ここに紹介しなかった文書が一紙残っていた。この文書は子供が博打に手を染めた事件の始末に関する文書である。以下へ読み下した文を示す。

     差上げ申す一札の事
一 同村吉左衛門跡忰三太郎と申す男子、十三歳に罷り成り申し候、しかるところに、右三太郎幼少に御座候ゆえ、他国者集り罷り有り候に付、段々御穿鑿御座候
向後、他国者は申すに及ばず、所の若者あつめ仕り、御法度の博奕など、堅く仕りまじく候、もちろんこの段、三太親子へ節々きっと申し付くべく候、拙者ども証人に罷り立ち候ゆえは、右の趣、少しも相背き候わば、当人並びに拙者どもまで、如何様の御科にも仰せ付けらるべく候、その為手形よって件の如し
  元禄十五年
    午ノ四月三日     本人   三太郎 印
            上田村組頭 五郎左衛門 印
             同所証人   平十郎 印
   海野弥五兵衛殿

※ 跡忰 - 跡継ぎの息子
※ 向後(こうご)- 今後
※ 博奕(ばくち)- 賽(さい)・花札・トランプなどを用い、金品をかけて勝負を争うこと。賭博(とばく)。ばくえき。
※ 手形 - 印形を押した証文・証明書


13歳の子供が博打で取り調べを受け、村役人たちが証人になって、本人を受けだしてきたものであろう。その際に提出した、再犯すると証人まで同罪になることを認めた証文である。江戸時代の文書を読んでいると、連帯責任を示す文書が多い。その最たるものは、五人組制度であろうか。ご近所5軒を五人組として管理し、その中で起ったことはすべて連帯責任として、相互に監視させる巧みな管理制度である。問題児がいると5軒の連帯責任になるので、久離とか勘当することで、親子の縁を切るとともに、五人組からも無縁とする方法が取れたが、久離とか勘当を受けると無宿人となって落ちてゆくことになる。

西欧では善悪の基に神との約束があり、どこにいても神に見られているから悪いことは出来ないと考えられている。日本では神の代わりに「世間様」があって、世間様に見られているから悪いことは出来ないと考える。つまり悪さをすると、世間様(直近が五人組)に迷惑が掛かると発想する。そこが道徳の規範となり、だから世間様から離れた「旅の恥はかき捨て」という感覚も生れる。この日本人の発想には江戸時代の巧みな民衆管理制度が根強く現代に影響していると思われる。

昔は町内の大人たちは子供たちが悪さをすると、誰の子であっても隔てなく叱った。これも元をたどれば五人組制度にぶち当たるのかもしれない。無縁社会といわれる現代と、五人組制度で縛られていた江戸時代のどちらが住みやすい社会なのだろうか。
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田宮俊作氏(㈱タミヤ会長)講演会

(講師、田宮俊作氏)

島田博物館の講座で日曜日の午後に出かけた。演題は「田宮模型のあゆみ」、講師は㈱タミヤ会長の田宮俊作氏である。今日は人数も多いため、場所を近くの河原町公会堂へ移しての講座である。参加者は100人ほどで、ほぼ一杯であった。早く入場したので、最前列の席が指定された。隣りに金谷宿大学「古文書に親しむ」の講師のK先生がいた。開演前にしばらくお話をした。

靜岡には、プラモデルの有名なメーカーがひしめき、シェアーで全国の90%を占めているといわれる。歴史をひも解くと、家康のお膝元として栄えていた駿府の町が、家康亡き後、仕事が急激に減り、幕府は失対事業として大規模な浅間神社造営や修理などを行ない駿府の町を助けた。その事業のために日本各地から職人たちが駿府に集り、工事が終った後も駿府に定住するものも多かった。それらの職人たちは、家具、雛人形、玩具などを作って生計を立てた。その伝統が靜岡の木製の模型、さらにはプラモデルへと繋がった。

講師が模型に興味を持ったのは子供の頃である。昭和12年、東京-ロンドン間を100時間で飛ぶというイベントがあって、日本の神風号が世界で最初に達成した。神風号が凱旋して日本中が沸いた。この神風号はその後87式偵察機に軍事転用されていく。さらに昭和14年にはニッポン号が世界一周するなど、飛行機が注目を浴び、子供たちはみんな夢中になった。講師の模型好きもこの当時の飛行機ブームに端を発している

昭和28年、大学を出てすぐに父親の会社、田宮模型へ入社した。会社はその直前に火災で全焼していて、ほとんど0からの出発となった。初めは木製の模型であったが、田宮模型は当時からモーターで動くものであった。

1960年、木製模型はプラモデルに取って代わられたが、タミヤはプラモデル化に遅れを取った。1961年、模型の外箱を小松崎茂氏の絵で飾った戦車模型は、他社よりもスピードが最も早くて良く売れた。

1965年、スロットレーシングカーを発売、翌年にはアメリカへ売り込みに行ったが、全く売れなかった。当時はメードインジャパンというだけで売れなかった。ところがオーストラリアで大ヒットし、ヨーロッパにも飛び火した。

1968年、タミヤプラスチック工業を設立し、金型償却のため海外をねらった商品をたくさん生産した。そしてラジコンカーブームが来た。タミヤは充電式ではなく乾電池式にして、電力事情の悪い地域にも良く売れた。1978年にはタミヤサーキットを造り、ラジコンカーのメッカといわれ、現在も続いている。1980年には本社ビルを建設することが出来た。続いて、ミニ四駆を発売、14000万台販売する大ヒットとなった。

世界各地の軍の博物館などにはせっせとプラモデル開発のために取材に通った。ドイツのホービントン戦車博物館、アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館、イギリスの空軍博物館などは今でも行けば大歓迎してくれる。

戦時中、テニアン島を発進したB29は日本の主要都市を爆弾で焼き尽くした。静岡も空襲でやられた。それらを経験しているため、B29の模型だけは今までも作らなかったし、これからも決して作らない。

話の最後に、世界のプラモデル業界をリードしている靜岡市に、ホビーフェアを開くための展示場がツインメッセしかない。会場の広さがニュールンベルグホビーフェア会場の1/20の広さしかないと歎く。また、ホビー業界は不況で、その原因が子供の小遣いが無駄話のケータイに消えてしまうからであるとも嘆じる。プラモデルを広めて、子供たちに物造りの文化をもっと広めて行きたいと考えている。
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平戸を訪れる その7 幸橋  

(石橋、幸橋またはオランダ橋)

半日平戸を歩いて、もうすっかり平戸の街を大づかみに出来た気分でいた。平戸は一言でいうならば長崎を小型にしたような町である。類似点を挙げてみると、
  1.街から見ると平戸湾は左手に外海へ開けている細長い湾である。
  2.その湾の出口に近い所にオランダ商館があった。
  3.藩の役所は湾の奥まった所にある。
  4.街はオランダ商館と藩の役所をつなぐ位置に発展している。
  5.背後は山で、高いところが墓所になっている。

長崎に外国人を移したのは、貿易を幕府の独占とするとともに、平戸では手狭であったためで、街づくりに平戸を手本にしたであろうことが想像できた。

7月21日朝、台風6号も迷走の末、太平洋に去って行ったようで、これ以上平戸に留まる理由も無くなった。朝、車を取りに行きながら、石橋の、幸橋を見に足を延ばした。九州には各地に石橋が残っている。平戸ではこの幸橋である。1702年、アーチ式の技術をオランダ人から学んで架橋したといい、別名、オランダ橋とも呼ばれる。街と城をつなぐ重要な橋であった。


(川内名物、あご蒲鉾)

昨夜、宿の女将さんに平戸の見所を聞いていた。紐差教会を見て根獅子から生月大橋を通って生月島へ行けば色々見所があるという。しかしそこまで足を延ばせば一日掛りになってしまう。生月島までは無理だと思った。適当なところで切り上げねばなるまい。車に乗る前に平戸の名物という、板の替りに麦わらを使った(麦すぼ巻)蒲鉾を土産に買った。魚はあご(トビウオ)で高級な蒲鉾である。故郷の蒲鉾も、材料にあごが使われていて、あご蒲鉾の味は知っていた。


(鄭成功廟)

東海岸を南へ走っていくと、あご蒲鉾の生産地、川内を通る。この川内は幼少の鄭成功が育った村で、鄭成功のゆかりの場所が幾つかある。鄭成功記念碑、児誕石、鄭成功居宅跡などで、途中に標識のあった鄭成功廟に立寄ってみた。細い急坂の道を登った先に小さなお堂ほどの廟であった。ただ赤く塗装することで鄭成功の廟として主張していた。


(紐差教会)

紐差教会は岡の上にあって、遠くからも見えた。昭和4年に建てられた。木造の教会としては当時日本一の大きさであった。塔の上部が丸く造られている。


(平戸大橋)

紐差教会を最後に来た道を戻って、平戸を後にした。最後に赤く塗られた平戸大橋も写真に納めた。昭和52年に完成して、平戸は島から脱却した。当時有料橋だったが、現在は無料になっている。

帰りに立寄った道の駅は先日NHKの午後の番組で道の駅紹介に出ていた。大きなカブトムシが目印という看板で、すぐにそれと判った。
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平戸を訪れる その6 崎方公園

(フランシスコ・ザビエル記念碑)

洋風民宿チャペルは一階が食堂、2、3階が宿泊施設となっている。3階の部屋へ急階段を登り、部屋に荷物を納めて、車をフェリー乗場脇の駐車場へ停めに宿を出る。まだ十分に明るいから、腹ごなしに、オランダ塀坂の上に続いていた坂道を登ってみようと思った。その上には崎方公園がある。


(三浦按針の墓)

大きなホテルの脇を通って、その裏側に来訪400年を記念して造られた、フランシスコ・ザビエル記念碑があった。さらに登っていくと、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の墓があった。三浦按針は来日した最初の英国人で、家康の信頼を得て、通詞として活躍し、平戸で亡くなった。妻の分霊とともに夫妻で祀られている。


(崎方公園より下る道)

山の上は公園化され、見晴らしもかつては良かったのだろうが、樹木が大きくなって見晴らしが利かなくなっていた。崎方公園にはまだまだ色々な見所もあったが、夕暮れも近付いたので、平戸の街を見下ろしながら下った。

宿の風呂は3階建ての屋上にあった。よしずに囲まれた湯舟で汗を流して、降りるとすぐに夕食となった。海のものが次々に出た。仕事に来た客が多く、質より量なのだろう。中に酢味噌に付けて頂いた白身の魚は食感と味が懐かしかった。これはハモかと聞くとフカだという。フカヒレの取れる大きな物ではなくて、小さいフカだと説明があった。故郷で食べたのもフカだったと記憶が鮮明になった。フカを食べるのは西日本の食文化なのだろう。

食事をしながら、宿の女将さんと話した。話題の発端は松浦史料博物館で見た台湾の娘たちの話であった。平戸は鄭成功の母親の出身地で、子供のころ育った地である。台湾からの観光客が多いという話から、女将さんはかつて京都でちゃんぽんの店をやっていたという話になった。仕事は面白かったけれども、父親が身体をこわしたので、故郷に戻ってきたという。その頃、アルバイトの娘を何人も雇った。初めは日本人の女子学生が来てくれたが、賃金が安いので、次に台湾の留学生、韓国の留学生と変って、最後には中国の留学生になった。

それぞれにお国柄が出て、台湾の留学生は全く日本の学生と同じ感覚で使えたけれども、中国の学生は自己主張が強いのは良いのだけれど、平気で嘘をついて、それを悪いことだと思っていないのには驚き、使い辛かった。ただ、上昇志向が強く、目標に向けて一生懸命な点は、日本の若者も見習うべきだと思った。韓国の娘は思想教育がしっかり出来ているのか、日本の自衛隊の仮想敵国はどこかなどと聞いてきた。多分、北かなと言うと、わが意を得たように喜んだと話す。

台湾に旅行したとき、日本人と知って、あんな所で買うとぼられるから止めた方がよいと、日本語で忠告してくれたおばあちゃんがいた。台湾の人はそのように日本人に大変好意を持っているのだが、日本人はその気持ちに十分応えていない。中国の人は共産中国だけではなくて、清、中華民国から続いた歴史の中で、国とか公共に対して何も期待していないし、常に失政の被害者であった。中国でよく言われることに、国に政策があるならば我々には対策があると。税金を出来るだけ納めないことが会計の能力のように考えている。国民性は置かれてきた環境に左右されるのだろうというような話をした。

夜、コンビニへ行こうと女将さんに場所を聞くと、コンビには無いという。マーケットがまだ開いているからと、その場所を教えてくれた。若者たちには住めない街である。
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平戸を訪れる その5 平戸城

(平戸城)

平戸港を隔てて、街の向かい側に平戸城(亀岡城)がある。岬の山上に天守閣が見えていた。最教寺からは車でわずかの距離であった。駐車場から少し登って北虎口門から入ると、入場券500円を取られる。森の中に天守閣を中心に、狸櫓、見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓が点々と取り囲んでいる。天守閣の最上層に登った。平戸の街が一望に出来た。後に宿の女将さんが話していたが、箱庭のような町である。オランダ商館、フェリー発着場、松浦史料博物館などが確認できる。台風の余波で風が強く、まことに気持ちよいが、如何せん風が強すぎた。長くいると寒いほどで、早々に切り上げた。

天守閣やそれぞれの櫓には歴史資料や民俗資料などが展示されていたが、いずれも展示が古くて、天守閣や各櫓の再建が成った昭和37年に展示して以来、手が付けられていないように思えた。この地方の昔のかまぼこの作り方は、かまぼこ板の替りに麦わらを使っている点など、興味深く見たけれども、再現のジオラマが日焼けしてしまって見苦しい展示であった。しっかり料金を取る割りに力を入れていないのはどうかと思った。


(亀岡のマキ並木)

亀岡公園に下って来ると、平戸の街を眺望できる側に、カヤの巨木が10数本、並木状に並んでいた。県指定天然記念物の「亀岡のマキ並木」である。1599年、亀岡城の元になる日の岳城築城の時に植えられたものというから、樹齢は400年を越す巨木である。最大幹周囲5.5メートル、半数は3.6メートルあるという。


(千光寺)

城から降りて、先刻見つけられなかった千光寺を、もう一度カーナビで調べた。今度は地図を出してそれらしい場所を探したところ、千光寺の名前を見つけた。早速目的地に指定し車を走らせた。千光寺は道路脇にある小寺であった。本堂脇で小舎の工事中の人に栄西禅師のゆかりの場所を聞くと、道路の向かい側を下ったところにある、冨春庵跡がそうだと教えてくれる。冨春庵跡に向かう背中に、何も無いよ、という言葉が追いかけてきた。


(栄西禅師座禅石)

道路を渡って、少し入って下ったすぐの所に、しょぼい茶園があった。昔の茶園で、かまぼこ型ではなく、一本ずつ別れた茶園であった。中国から帰ったばかりの栄西禅師が持ち帰った茶の実を植えた冨春園である。茶の木は当時のものではなく、何代か植え替え継がれているのだろう。冨春庵跡はさらに下ったところにあった。冨春庵跡の碑と栄西禅師が座ったという座禅石が残っているだけであった。


(冨春園)

戻って、工事の人に礼を言った。本当に何も無かった、ただお茶に関係しているもので、と話す。春と秋の2回、松浦さんと県茶試が来て、ここで献茶祭がある、その時に来ればよい、と情報をくれた。「松浦さん」は松浦の殿様の子孫なのだろう。

時間は5時前になった。そろそろ宿に入る時間である。平戸の街へ戻った。
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平戸を訪れる その4 最教寺三重大塔

(最教寺奥之院)

この後は車で移動するつもりで、港のそばの駐車場に戻った。途中に観光客用の腕湯、足湯の施設があった。足湯は普通だが、腕湯には初めてお目にかかった。足湯とは別に、立った状態で腕まで浸ける施設が併設されていた。足にしろ腕にしろ、身体の末端を温めると全身の血流が良くなり、身体が温まる。素足が簡単に出せない女性たちには腕湯もありなのだろう。


(藤浦洸歌碑)

脇に藤浦洸の歌碑があった。
     平戸のうた
  紅のつつじは「きりしま」「ひらど」
  昔なつかし カピタン様の
  国へたよりの 押し花が
  海のむこうの ジャガタラ国の
  土にこぼれて咲いたげな
  ほんと咲いたげな


生誕百周年記念で建立された歌碑である。藤浦洸といえば平戸出身の歌人で、名前を覚えたのはNHKの「二十の扉」や「私の秘密」の回答者としてである。「ふじうらこう」と耳から入って覚えたもので、それ以上の存在にはならなかった。彼の作品を見るのはこれが初めてである。

車に乗ってから、松浦史料博物館で購入した平戸案内の小冊子を見ていると、栄西禅師所縁の千光寺というのが気になった。中国から帰ってきた栄西禅師が最初に上陸したのがここ平戸で、持ち帰った茶の種をこの地に最初に撒いた。800年前のことで、日本茶の発祥の地という。千光寺はカーナビの検索では出て来なかった。小冊子の大まかな地図しかないけれども、見当をつけて車を走らせた。島を左周りに走ったが、千光寺が見つけられずに、途中で諦めて、カーナビで松浦氏の菩提寺、最教寺をセットし、平戸の街へ戻ってきた。

湾の一番奥からさらに入った山中に最教寺はあった。真言宗のお寺で弘法大師所縁のお寺というが、ここまで弘法大師が来たわけでもあるまい。(空海は遣唐使に付いて唐に渡るとき、風待ちをして平戸に滞在している)最教寺で見たかったのは三重塔であった。遠くからも山中に塔の上部が見えていた。塔屋(?)としては見逃すわけにはいかない。ところが境内に案内標識も無くて、三重塔がどこにあるのか分らない。お参りに来たおばさんを見つけて尋ねた。境内の左手から山道を登った先にあるという。勝手に登ってよいのだろうかと聞けば、どうぞどうぞと、自分のお寺であるかのように答えた。


(石仏の並ぶ参道)

山道の両側に四国八十八ヶ所の霊場の数の石仏が並んでいた。行き着いた先は最教寺の奥之院であった。本堂の左側に真新しい三重塔があった。昭和63年に建立されたもので、「三重大塔」と案内板にあった。大塔とは塔の中でも大きな塔を云う。高野山の多宝塔型の大塔はよく知られている。三重塔で大塔は初めて見る。


(最教寺三重大塔)

係りのおばさんと目が合って、中を拝観していかないかと誘われたが、遠慮した。拝観料400円を惜しんだわけではない。問わず語りに、20年前に出来て、もうすでに1回塗りなおした、塗装に1000万円掛かったと話した。最教寺には松浦隆信の墓所や、寺宝を納めた霊宝館があるが、立寄ることなく先を急いだ。
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平戸を訪れる その3 寺院と教会の見える風景

(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂)

嬉野で平戸を何度か訪れたことのある人に、平戸の見所を聞いたところ、寺院と教会がワンフレームに見えるところがある。そこが有名なフォトポイントだと教えてくれた。眺望亭の女性に聞いてみると、博物館を下ったところから右手へ山裾の道を行くと教えてくれた。眺望亭から教会の尖塔が見えていた。


(六角井戸)

石畳が敷かれた山裾の道を行くと、次々に平戸の歴史を感じさせるものが出てくる。その一つが「六角井戸」である。オランダ人がやって来る前の1542年、明の海商、王直が松浦家25代隆信の優遇を得て、平戸に居を構え、ここを根拠に貿易を始めた。その後、多くの明商人が平戸に定住した。明の様式の六角形の石柵で囲われた井戸はその名残りを留めていると案内板にあった。


(大蘇鉄)

ついで現れたのが、大蘇鉄である。樹齢400年といわれる、この蘇鉄は当時の貿易商、川崎屋の庭に植えられたものという。今まで見たことのある大蘇鉄は幹が幾本にも分かれたものであったが、この蘇鉄は一本の主幹から何本も枝が出ている、蘇鉄としては異形の巨木であった。

やがて道標に導かれて、石段の登りとなった。その先に、尖塔の聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂があった。フランシスコ・ザビエルといえば、日本に最初にキリスト教を伝えた人物である。藩主松浦隆信の歓迎を受けて、都合3度平戸を訪れ、布教を行なっている。この教会は昭和6年に建てられたものであるが、昭和46年に敷地内にザビエルの記念像が建立され、教会の名前も改名された。


(ザビエル記念聖堂内部)

教会内部へは柵があって、入ったすぐのところまでしか入れなかった。教会に入ると、いつも身構えてしまう自分に気付く。お寺や神社に入った時の一種安らぎに似た感覚とは全く違う。中国で通訳の女性に道教の寺院を案内されながら、宗教は何かと聞かれて、ブッディストだと答えながら、ほんとにそうなのかと自問していたけれども、逃れられない何かにはまっているようだ。


(寺院と教会の見える風景)

教会の右手下にお寺が見えるから、そのお寺越しに教会の尖塔が見えるのだろうと思った。途中の標識に、「寺院と教会の見える風景」と確かに書かれていたが、そのポイントを示してくれる標識は無かった。少し下ってお寺の境内を横切り、お寺の参道を下っていく途中で振り返ると、お寺の建物の上に教会の尖塔が見えてきた。おそらくこの辺りのからの景色をいうのだろうと、写真を何枚も撮った。出来ればもう1メートル高い位置で写真を撮れば、尖塔が大きく写るのだがと思った。
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平戸を訪れる その2 松浦史料博物館

(オランダ塀阪)

どうして平戸なのか。昨年の9月、龍馬ブームで賑わいを見せる長崎に行った。長崎に出島を作り、そちらへ移動するまで、平戸が外国に開かれた玄関口であったことを知り、次はぜひ平戸を訪れたいと思った。

観光案内所で頂いた地図によれば、平戸オランダ商館があった地域はすぐ近くであった。海辺の道は整備工事が現在進行していて、警備員が何人も出て交通整理をしていた。途中、左の山へ登って行く石畳の道があった。途中まで登ってみると、石畳の坂道の両側にかつて建物が建っていたらしい敷地があった。坂道と敷地を仕切るように、石を積み上げて表面を漆喰で仕上げた、厚みがあるオランダ塀が続いていた。


(平戸オランダ商館)

坂道は山の上の公園へ続いているようであったが、引返した。海沿いの道を行くと、すぐに左手に海を向いて、平戸オランダ商館1639年築造倉庫の復元をした建物がほぼ出来上がっていた。完成した時には平戸観光の目玉になるのだろう。建物の写真を撮って引き返した。


(松浦史料博物館)

次に松浦史料博物館に向かった。海岸通りから1本入った古い町並みが残る崎方町の通りを歩いた。松浦史料博物館は、石垣を築いた高台にあり、石段を登った。廃藩後は藩主だった松浦侯の邸宅であったという。御殿造りと言うのであろうか。受付の女性に聞くと、現在の建物は明治26年に出来たものだという。松浦家から、3万点に及ぶ史料と秘蔵品ともども、昭和30年に寄贈を受けて、博物館として展示公開している。資料は展示方法が古くて、中々理解がし辛くて、ざあっと見るに留めた。

見学者はほとんどいなかった。板敷の通路を若い女性が何人かでモップを使って掃除をしていた。少し雰囲気が違った。しばらくして、その内の一人が近寄ってきて、カタコトで「これ落としたか?」と、小さな紙切れを寄越した。料金を払ったときに入場券などとともに何枚かの紙切れを貰ったが、その中の1枚を落としたのかと思い、「ありがとう」と受取った。あとで見ると、バスツアー参加者の食事処での昼食5%割引券で、自分が落としたものではなかった。


(オランダサンド)

売店で平戸を案内した小冊子を買い、眺望亭という喫茶室で軽食を頼んだ。宿の夕食も近いから、オランダサンドと紅茶のセットにする。よく焼いたパンの上に、塩漬けズッキーニ、ベーコン、目玉焼きなどを載せケチャップが掛かっている。サンドといっても挟んではなく、ナイフとフォークで食べた。けっこういける。運んできた女性に、博物館にいた若い女性たちはどこの国の人かと聞いた。台湾からの研修生だという。博物館に鄭成功を扱ったコーナーがあり、最近台湾のお客さんが多いのだという。

台湾では英雄である鄭成功は、父親は中国人で、母親が平戸出身の日本人であったため、台湾から英雄の故郷を訪問したいという要望が高かった。今までは、友好関係が高まりを見せると、どこからか政治的配慮が下って萎んでしまうことのくり返しだったけれども、近年は友好関係が築かれて、台湾からのお客さんが増えたと話す。そういえば、先ほど、台湾から12人着くと伝える声が聞こえていた。研修生もその関係で受け入れて、台湾からのお客の面倒も見るのであろうと想像した。
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