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兄の半世紀前の冒険談

(北タンゴ鉄道宮津線橋梁-この上も歩いた?)

16日、故郷の夜もふけて昔話に花が咲いた。兄は教育者として定年を迎え、もう数年立つ。だからいいだろうと、子供の頃の話をしてくれた。自分も初めて聞く話であった。

もう半世紀も前の、小学校高学年の頃の話である。実は兄も忘れていたのだが、ある同窓会で話が出て思い出した。戦後10年も経たない頃で、学校から帰ると同級生たちといろんな遊びをした。中にはかなり危険な遊びもあった。

ある放課後、同級生何人かと国鉄宮津線(現在の北タンゴ鉄道宮津線)の鉄橋に遊びに行った。誰言うとなく鉄橋を渡ろうという話になった。その時間、汽車が来ないことは知っていたから、円山川に掛かった鉄橋は難なく渡れた。調子にのって次はトンネルだと暗いトンネルを歩いた。宮津線は単線だからトンネルも汽車が通るに一杯である。難なくトンネルも抜けて田舎駅の三江駅まで歩いて帰ってきた。子供には大冒険で面白かった。味をしめてその後何度か友達を誘って行った。

その日も同じように鉄橋を渡り、トンネルを歩いていると、線路がゴトンゴトンと響きだした。来るはずの無い汽車が来る。それも当時は蒸気機関車だから、轢かれることは無くても大変なことになる。「まずい!壁に張り付け」と言い合って構えていると、やってきたのは保線用の台車であった。助かった。作業員が乗っていたし、ライトに子供たちが映ったはずだ。彼らと視線も合ったかもしれない。しかし声を発することもなく通り過ぎていった。もし蒸気機関車だったらと、ゾウッとしたのは必死の思いでトンネルを抜けた後であった。

その日を最後に誰も線路に行こうとは言わなくなった。結局、国鉄から学校へ抗議や苦情が来ることも無く、やがで子供たちの記憶の底に埋もれてしまった。

今から考えると夢のような話で、現代なら新聞沙汰にこそならなくても、大問題になったであろう。思うに、往時は鉄橋やトンネルを近道で利用することは大人でもちょくちょくやっていた。何よりも大人たちは生きることに精一杯で、子供たちの遊びにまで注意を向ける余裕がなかった。今思うと古き良き時代であった。しかし教育者だった兄は、たとえ昔話であってもこんな話を口にすることは出来ず、おそらく封印されていた話なのであろう。その後数年、自分たちの時代には円山川で泳ぐことすら禁止されてしまった。

15日間続けた、8月に帰郷時の話は今日でおしまいにしよう。
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故郷の偉人、中江種造氏の銅像

(中江種造氏銅像)

物心付いた時から、故郷の町ではどの家でも蛇口をひねればきれいな冷たい水が出てきた。そのことに何の不思議も持たずにいた。少し長じて、他の町では必ずしも水道設備が完備しておらず、簡易水道や井戸がまだ利用されていることを知った。さらに、わが町では大正時代に、立志伝中の実業家、中江種造氏の全額寄付によって、他の町に先駆けて水道設備が完備されたという話を聞いた。中江氏は「種造」の名が自分の父親と同じだったこともあって、何か身近な人のように感じた。

中江種造氏は弘化3年(1846)豊岡藩の下級武士の武家屋敷に生まれた。安政5年(1858)13歳で豊岡藩士・中江晨吉の養子となった。豊岡藩内の警備に当たるかたわら、火薬や砲術、和算、測量などを習った。

慶応4年(1868)戊辰戦争が始まると、この一年間に中江種造の運命がめまぐるしく変わる。豊岡藩兵48人と共に京都の桂御所の護衛。(その間に理化学および砲術家の久世治作と出会い、化学を学ぶ)大阪から「貨幣司」(後の造幣局)出仕の命令。(仕事を通じて専門的な化学知識、金属類分析技術を身につける)貨幣司から鉱山司に転じて、生野銀山でフランス人の鉱山技師コワニエたちと鉱山開発に当たる。そしてこの一年で日本も江戸から明治に大きく時代が変わった。

その後、東京に出て、明治8年から17年まで、古河市兵衛の顧問技師として、栃木県足尾銅山や新潟県草倉銅山の経営に当たり、「古河鉱業」のドル箱に仕上げた。明治17年(1884)、古河家を辞して鉱業家として独立し、岡山県の国盛鉱山を手始めに次々と鉱山を買収していった。鉱業だけでなく、500万本の植樹を行い、また、明治39年(1906)「中江済学会」という育英基金を創設し、人材の育成にも尽力した。

大正10年(1911)故郷に上水道建設費の全額33万円(現在の貨幣価値約200億円)の寄付を申し出た。種造は「上水道が完成して、各戸から水道料を徴収したら、その収益金の中から百万円を積み立て、これを町の奨学基金とする」という条件を付けた。結局、中江の寄付総額は38万800円に及んだ。

中江種造氏は芯まで実業家であった。その申入れの中にその片鱗が見える。水道料の徴収で稼ぐことが条件であった。しかも稼ぎで寄付したお金の3倍の基金を作って後進の育成を計ろうという申し出には、実業家としての合理性と故郷に対する並々ならぬ思いが溢れている。3倍の基金が実現していれば、600億円という基金になったはずである。壮大な計画であった。奨学金制度は現在も「豊岡市奨学基金条例」に引き継がれている。

町が都市計画でその中央に置きたいと考えた豊岡市街地寿公園(ロータリー)に、中江種造の銅像が建てられている。このロータリーからパリの凱旋門のように放射状に6方向へ道路が延びて、ロータリーが町の中心に発展するはずであった。しかし思惑は外れて今もなおロータリーは町の北の外れにある。17日のドライブの最後にこのロータリーを見に寄った。
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出石、白糸の滝で水浴び?

(出石、白糸の滝)

夏休み故郷への3泊4日の旅で、五重塔を2基、三重塔を4基、多宝塔を1基、合計7基を見てきた。その間にターゲットの一つである滝は見なかったかというと一ヶ所だけ見た。

17日、出石で皿そばを食べたあと、東の山際をコウノトリの郷公園に向かう途中、出石の袴狭(はかざ)という集落で、「白糸の滝」の案内板を見つけた。即、その滝を見に行きたいと兄にリクエストした。兄は一度行ったことがあるが、印象に残っていないからそんな大した滝ではないよと話す。とは言ってもこれだけしっかりと看板が出ているのだから、それなりの滝であるはず。出石川の支流の袴狭川を2キロメートルほど遡った源流近くに「白糸の滝」はあった。

車を止めた所は、ハイキングコースの入口で、休息所とトイレがあった。この暑い時だから中年夫婦一組にあったくらいだが、季節には家族連れでにぎわうようだ。

暑さの中遊歩道を300mほど遡ったところに白糸の滝はあった。途中一の滝、二の滝、三の滝と、落差が5メートルにも満たない、ほとんど段のある沢といった感じの滝があった。

白糸の滝は落差30mを2段に分かれた滝で、雨が降らないためか水量も少なく、褐色の滑らかな岩の上を滑るように落ちていた。迫力に乏しく滝壺も浅瀬のように見えた。

その滝壺に先客の家族がいた。老夫婦と若夫婦、それにオムツをつけた子供の一家族だった。見ていると若い父親がオムツカバーのままの子供を滝壺の浅瀬に漬けた。気持良さそうだが、子供には滝水は冷たすぎないかと心配になる。さらに落ち口まで行って落ちる滝を子供浴びさせたりしている。随分乱暴だと思い、あとで滝水に手を漬けてみたが、想像したほど冷たくは無かった。子供も騒がずに平気な顔をしていたわけである。

残念ながら期待していた涼味はいまいち感じられずに遊歩道を下った。後日出石の案内地図を見ていたら、出石の代表的な滝として地図に載っていた。
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タイと交流の寺、日泰寺の五重塔

(日泰寺の五重塔)

名古屋市でもう一基、平成の五重塔がある。興正寺のある昭和区の隣の区、千種区法王町にある日泰寺の五重塔である。15分ほどで近くに着いたが、入り口を間違えて少しうろうろした。中に入ると5万坪といわれる敷地で、山門から本堂まで樹木も植わっていない広大な空き地があった。

1898年(明治31年)ネパールとインドの国境近くで、英国人が古墳を発掘中に各種の宝物と共に人骨を納めた壷を発見、その壷に書かれた古代文字を解読したところ、釈迦の遺骨であることが判った。当時は釈迦の実在を証明するものとして注目された。遺骨はシャム(現在のタイ王国)王室に寄贈され、さらにシャム王室からビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(現在のスリランカ)、日本の仏教国に分骨された。

明治33年、シャム国皇帝から贈られた釈迦の遺骨を奉安するために、日本の仏教界が超宗派で、寺院建設地を激論の末、名古屋の当地に決めた。明治37年、覚王山日泰寺が創建された。釈迦を示す「覚王」を山号とし、日本とタイ王国の名前を冠して日泰寺と命名された。本尊は、この仏舎利とシャム王室から贈られた1000年を経た釈尊像である。

日泰寺は日本で唯一どの宗派にも属しない寺院で、その運営は現在19宗派の管長が3年交代で住職をつとめる特異な存在である。

なお仏舎利は、本堂のある境内からやや離れた「奉安塔」の中に安置され、入口を塗り込められ、永久に封印された。

伽藍は戦災を受け、少しづつ復興されてきたが、五重塔は平成9年3月(1997)に建立された本格的な五重塔である。木造・素木の流麗な塔で、山口の瑠璃光寺五重塔をモデルとしたと言われる。高さは30メートルある。また昭和61年建立の山門は、普通なら仁王像が立つ場所に、左右に円鍔勝三作の阿難・迦葉の木彫像が納められている変わった山門である。

帰りは敢えて高速道路を避けて、国道1号線を利用した。愛知県の国1はバイパスが少ないが、静岡県に入るとバイパスが続いて国1もずいぶん速くなった。4時過ぎには自宅に着いた。
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名古屋の興正寺、江戸の五重塔

(興正寺の五重塔)

18日は夕方、名神高速の一宮インターチェンジの手前で10kmほど渋滞し、名古屋の娘の家に着いたのは午後8時を回っていた。待っていてくれた娘夫婦と、早速、スパゲティなお店に夕飯を食べに行く。和室に布団を用意していてくれたが、今夜はクーラーがなくてはたまらないと我儘を言い、広いダイニングに布団を移して寝た。


(興正寺中門)

翌朝19日、名古屋市内にある五重塔二つを見て帰ろうと、朝10時半ごろ、娘の家を出かけた。はじめに昭和区八事本町の興正寺の五重塔に行った。名古屋の市街地を30分ほど走って、都会の中に残された緑地の興正寺公園の中に興正寺はあった。緑地の木陰に車を駐車した。興正寺中門のすぐ中側に五重塔は立っていた。塔の周囲を取り囲むように車が駐車して、都会のお寺で余裕がないのだろうが少し残念である。

興正寺は江戸初期の貞享五年(1688)、天瑞円照が尾張藩の二代目藩主光友の許可を得て開基した真言宗の寺院である。弘法大師を勧請したため、「尾張高野」と呼ばれ、また尾張徳川家とも関係が深い。興正寺の五重塔は、文化5年(1808)、興正寺七世真隆のとき建立された。

五重塔の案内板には、「初重3.9メートル角の小規模な塔で塔身が細長く、相輪が短い点で江戸時代後期の塔の特徴をよく示している。しかし、基壇上に建って土間床とし、心柱が心礎上に立つなど古式を伝え、全体に装飾が少なく、建築様式は和様の手法でまとめられている。県内で現存する五重塔では一番古い塔で、昭和五十七年重要文化財に指定された」と記されていた。ネットで見ると、総高は30メートルという。

興正寺の五重塔と同じ、江戸後期の五重塔として、現存するものは、日光東照宮、新潟県の妙宣寺、岡山県の備中国分寺などが挙げられるが、それらの写真をネットで比べてみると、いずれも塔身の一辺が短くて、各層の屋根の軒も小さく、反りも少なく、相輪も比較的短いという特徴がある。だから、ちょうど“そろばん玉”を上に五つ積み重ねたように見える。


(興正寺の多宝塔「圓照堂」)

興正寺にはもう一つ五重塔右手の高台に、平成17年5月に出来たばかりの色鮮やかな多宝塔があった。五重塔建立200年を記念して永代供養・納骨殿として建立された。「圓照堂」といい、跡継ぎや身寄りが少なくお墓を造っても無縁墓になる心配がある人たちのために、堂の地下に納骨位牌室を用意し、お寺で永代供養をしてくれる施設であった。家族関係が希薄になってしまった現代の都会には必要な施設なのだろう。
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安土城跡の見寺三重塔

(見寺三重塔)

琵琶湖畔の長命寺の後、名神高速道路に戻る途中にもう一つ三重塔を見ることにした。安土町の見(そうけん)寺三重塔である。カーナビに導かれて、見寺の急な石段下まで来たが、見寺住職の名前で「入山者は東の安土城大手門跡へ回れ」という立て札が立っていた。言い回しが見寺へ行く人のためか、安土城跡に行く人に向けた標識なのか、もう一つはっきりしなかったため、さらに登る道がどこかにあるだろうと探した。しかし見つからず、結局、安土城大手門跡の駐車場に入った。

安土城跡の入場口で係りの女性に聞くと、ここが見寺への入り口でもあるが、入場は5時までだ。すでに5時20分で、今日の入場は終わりである。ここは6時には閉めるという。静岡からわざわざ三重塔を見に来た。三重塔だけ見れればよいと女房が交渉する。そういう事情なら、三重塔なら20分で行ける。6時を回っても待っているからと、入場させてくれた。入場料は500円、三重塔を見るだけにしては高いがやむをえない。


(安土城跡の登り口の石段)

大手道を挟んで右手に伝前田利家邸跡、左手に伝羽柴秀吉邸跡があった。信長築城の安土城の片鱗を見る思いであった。安土城跡は日を改めてゆっくり散策しよう。ヒグラシが鳴き競う中、等高線に沿った山道を左に周って行くと、下から登ってくる古い石段にぶつかった。石段にはバリケードが築かれて、閉鎖されていた。普通に人々が慣れ親しんだ里山を、安土城跡という国の史跡になったばかりに、山に登れなくしてしまうのは随分乱暴だから、多分地元の人だけが出入り出来る道が幾つか残っているのだろう。入山料を取るのは観光客だけでよいわけだから。

上に向かう石段を少し登ると二王門(重要文化財)があり、さらに登ると見寺三重塔が立っていた。見寺は織田信長が安土城築城に伴って創建したお寺で、安土城本丸の西方の峰にあり、天正10年(1582)の安土城落城の際は火災を免れたが、安政元年(1584)の失火で本堂を焼き、二王門と三重塔が残った。

見寺三重塔は、棟木に室町時代中期の享徳3年(1454)とあり、見寺創建時(1576)に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したとされている。屋根は本瓦葺で高さ19.7m、左側へ上の段の本堂跡へ導く石段がついていて、軒下の本格的な木組みが間近に見られて、他の三重塔では味わえない観賞が出来たはずだったが、夕暮が近付き門限が気になり下山を急いだ。閉門の6時に5分残して外へ出た。

結局、18日には三つの三重塔と一つの多宝塔を見た。四つともがお寺が山腹にあり、酷暑の中、山登りを余儀なくされた。ぐっしょりと汗をかき、車に逃げ込んで冷房で乾かすという状況を4回も繰り返した。
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近江八幡、長命寺の三重塔

(長命寺三重塔)

石山寺を出て名神高速に乗ってから、次の塔はどこへしようと、資料を女房に見てもらう。インターチェンジ名と塔のある町がうまく結びつかない。とりあえず竜王インターチェンジで降りて、車を路肩に停めて検討した。この道だと10キロ余で近江八幡の琵琶湖畔に長命寺の三重塔があった。そこへ行こうとナビを設定した。

近江米の穀倉地帯を横切り琵琶湖畔に出て、琵琶湖の東岸に突き出るような小山、標高333mの長命寺山の中腹、標高250mの山腹に長命寺がある。

寺伝によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸元成就」と彫り、長寿を祈願した。その後、聖徳太子が宿禰の彫った文字を発見し、宿禰の長寿(300歳)にあやかり、お寺を開基して長命寺と名付けた。平安時代に伽藍が出来たが、戦国時代に信長の兵火に遭い、元亀四年(1573)、伽藍すべてを焼失、現在の社殿はその後に再建されたものだという。参拝すると長生きするといわれ、昔は琵琶湖を船で渡って来て参詣した。石山寺が西国三十三ヶ所観音霊場の第十三番札所だったのに対して、この長命寺は第三十一番札所になっている。

湖岸からは808段あるといわれる石段を、中腹の駐車場から石段に入って登ったから200~300段位だろうか。ツクツクボウシが懸命に鳴いていた。酷暑が続いているが季節は確実に夏の終わりに近づいている。石段を上部から箒で掃いて下るお年寄りがいた。寺の人なのだろうか、奉仕作業なのだろうか、夕方近くなって少しは暑さも緩んで、作業が出来るようになったのだろう。


(長命寺の伽藍)

境内は諸堂がそれぞれ石段で結ばれて、柱や組物や戸がベンガラ色と一部黒漆色に揃えられ、すべて檜皮葺の屋根が美しい重なりを見せていた。はるばる登ってきた巡礼者には建物群が竜宮城のような異世界に見えたことだろう。

三重塔は本堂右手を、さらに石段を登った上に、ベンガラ色も美しく建っていた。桃山時代の慶長二年(1597)建造で、総高24.4m、一辺4.9m、国の重要文化財になっている。


(長命寺から琵琶湖の眺望)

境内高所からは琵琶湖が一望できて、わずかに風が昇ってきた。
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石山寺の月見亭と「源氏の間」

(近江八景「石山の秋月」を望む月見亭)

(昨日より続き)
石山寺多宝塔の初層の縁に上って巡ってみた。国宝なのに柱などに細かい人名が落書きされている。もっとも落書きも時代が付いて、書いた落書は消えたのだろう、刻んだものだけが残っているから、多分最近のものではない。今でこそ国宝に落書をしたりしてマナーが悪いと思うが、国宝でなかった頃は参拝した記念に自分の名前を記すことにそれほど罪悪感は無かったのかもしれない。神社札がべたべた貼られている神社仏閣を見るとそんな気がする。多宝塔も建造したときは宗教施設の一つで、美術品として後世に残すことを意図して建造されたわけではない。ましてや後世になって国宝として珍重されることなど誰も考えなかった。しかし、だからといって現代に落書きをすれば不心得ものとして非難されるのは当然である。

瀬田川を展望する高台からせり出すように藁屋根をのせた「月見亭」が建てられている。近江八景「石山の秋月」をこの月見亭から眺めようという風流である。江戸時代後期、後白河天皇行幸のときに建造されたといわれ、明治、大正、昭和と歴代の天皇もこの地で月見をしている。月見亭の隣りには石山寺を好んで何度か訪れた芭蕉にちなんで茶席の「芭蕉亭」が併設されていた。

芭蕉が石山寺で作った一句に、「曙は まだむらさきに ほととぎす」という句がある。この句を作ったとき、芭蕉は本堂の「源氏の間」を見学している。句は明らかに「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは 少しあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる」という枕草子の冒頭の一節を踏んでいるが、同時に「むらさき」の一語に「源氏の間」を見学したことを読み込んだことも確かであろう。

紫式部は源氏物語の創作を、女院から下命され、成就を祈願するため石山寺に七日間参籠した。その間に「源氏の間」から十五夜の月を眺めていて、霊感をうけて源氏物語の構想を得たと「石山寺縁起絵巻」に記されている。


(本堂内の「源氏の間」)

多宝塔を見たあと、少し下って本堂に立ち寄った。清水の舞台のように木組みされた上に、石山寺本堂(国宝)が建てられている。本堂内には「源氏の間」があり、マネキンの紫式部が展示されていた。
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石山寺の最古最美な多宝塔

(石山寺の多宝塔)

今日、23日、未明から雷鳴が鳴り、全く久し振り雨が降った。おかげで今日は1日涼しい残暑中休みの一日になった。

18日、青垣の高源寺三重塔の後、滋賀の石山寺を目指した。石山寺には日本最古、最美といわれる多宝塔がある。多宝塔ではここを押さえておかねば始まらない。

中国縦貫道から名神に入って、大山崎ジャンクションで京滋バイパスに入った。大山崎ジャンクションから名神高速の瀬田東インターチェンジまで、京滋バイパスが通っている。渋滞の多い京都近辺の名神高速をパスする京滋バイパスを、一度通って見たいと思っていた。京滋バイパスには石山インターチェンジがあり、そこで降りれば石山寺はすぐである。

石山寺は瀬田川のほとりにあるけれども、お昼前の石山寺の駐車場はアスファルトの照り返しもあって酷暑であった。駐車料金600円払って、それでも木陰に駐車できたのはラッキーであった。こんな暑さの中にも観光客はちらほらいた。500円払って入山した。

石山寺は寺名の通り、巨大な硅灰石(天然記念物)の岩山に建てられている。硅灰石は石灰岩が熱変成作用をうけて出来たものである。大理石も同様の熱変成作用によるが、条件の違いで硅灰石が出来るのであろう。広辞苑によると、「硅灰石はカルシウムの珪酸塩鉱物。三斜晶系の卓状または短柱状結晶。白色、ガラスまたは真珠光沢をもっている」と書かれている。


(硅灰石の岩山と多宝塔)

石山寺の多宝塔は硅灰石の異形の岩山を登った先にあった。国宝に指定されている多宝塔が全国に六基あるが、その内で石山寺の多宝塔は建造が最も古く、最も美しいといわれている。上層の塔身がスリムなわりに下層が広くて安定し、檜皮葺の屋根のわずかな反りが軽快なリズムを与えて、全体に美しいフォルムを描いている。鎌倉時代初期の1194年(建久5年)に建立され、高さは17.2mある。


(多宝塔内部の大日如来坐像)

多宝塔内には御本尊の大日如来坐像が安置されていた。多宝塔と同時期に仏師快慶によって製作され、国の重要文化財に指定されている。(明日へ続く)
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高源寺、メタボな三重塔

(高源寺の三重塔)

18日の朝、故郷を出発する。名古屋の娘の家へ一晩泊めてもらうつもりであった。塔の資料も持って来ていたから、帰りながら寄り道していこうと思った。

青垣経由で近畿道(舞鶴道)へ出て帰ると早いと聞いていたので、資料を見てそれなら青垣の高源寺三重塔を見て行こうと思った。塔のあるお寺はほとんどカーナビに寺名が出ている。だからお寺を尋ね当てる苦労はほとんどない。高源寺も標識がしっかり出た古刹であった。

高源寺は中国杭州で修行した僧、遠谿祖雄禅師が後醍醐天皇より寺号を得て1325年に開山された。山裾の緩斜面に広がった境内と参道周辺には2000本を越すカエデが植えられ、三丹随一の紅葉の名所といわれている。(「三丹」は丹波、丹後、但馬を合わせた呼び方、つまり兵庫県と京都府の中・北部)


(天目カエデ)

高源寺のカエデは、遠谿祖雄禅師が中国の天目山から持ち帰ったもので、「天目カエデ」と呼ばれている。甲斐の栖雲寺が東天目と称するのに対し、高源寺は西天目と呼ばれている。全山が鮮やかに色づく秋にもう一度来てみたい“もみじ寺”である。

高源寺三重塔は急な石段を上り詰めた本堂の右手にあった。江戸時代の天明年間(1781~1788年)に建立されたという。高さ約20m、一辺が6.04mで、随分太った三重塔である。現代用語で言えばメタボな三重塔である。

案内板等によると、この三重塔は弘巌禅師の建立、輪蔵という建て方で、中には釈尊一代に説かれた五千四十八巻の経文が収められているという。塔の様式も三重塔としては大変珍しいもので、経蔵建築を三層に建てて相輪をつけたようなものだという。

この「輪蔵」や「経蔵」が良くわからないので、ネットで調べてみた。「経蔵」とは文字通りお経を納めた蔵である。典型的な経蔵は屋根が二重屋根で宝形造りになり、屋上に宝珠をおく。内部には書棚に一切経(大蔵経)を納めた八角形の「輪蔵」があり回転する。これを一回転させれば大蔵経を読誦したことになるという。

まさに高源寺三重塔は塔というより経蔵であった。中に経文を納めるために、このようにメタボなのである。
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