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警察小説と警察ドラマ

(ムサシの散歩道にたたずむアオサギ - つがいで近辺を縄張りにする)

今日、今野敏著の「天網 TOKAGE2」という小説を読了した。最近、警察小説というジャンルが出来たようで、この本の帯にも「これぞ本格警察小説の極み!」と大きく書かれていた。かつては警察官が主人公の小説があっても、推理小説の探偵役となっているケースが多かった。ところが、警察小説は、事件の謎解きもあるが、事件の捜査の中で、警察組織内の手柄競争、縄張り争い、上層部との葛藤などを描く方に主力を置いているようだ。

警察小説として最初に意識して読んだのは、横山秀夫の警察小説である。読みながら、謎解きに終始する推理小説よりも格段にシリアスで読み応えがあると思った。その後、今野敏、佐々木譲などの警察小説を大変興味深く読んでいる。それらの小説で、警察内部には、花形の捜査一課だけではなくて、実に様々な部署があることを知った。それらが有機的に機能すれば、警察は素晴らしい組織になるはずである。

警察組織は階級の上下が絶対的である階級組織で、その命令系統も絶対である。しかも、かつては一般会社でも横行したセクト主義が今もって大変重要な行動パターンになっている。それは県警間の縄張り意識であり、警察署間、担当課間の児戯に等しいような縄張り意識である。個人的には手柄至上主義で、チームとしての連係プレーがなかなかやりにくい。一方で、目立った行動を牽制し合う事なかれ主義も蔓延って、犯人追求に懸命になる警察官は組織から浮いた存在になることが多い。真実はまた別なのかもしれないが、小説を読んでいる限りそんな感を深くする。

今夜、「踊る大捜査線」からスピンアウトした「容疑者室井慎次」という映画をテレビで見た。見るのは何度目かだが、大変面白い。警察上層部のポスト争いのために、巡査の絡んだ事件の真実を明らかにしようとする室井は翻弄される。色々な人たちが出たり入ったりして、よく見ていないと何が何やら良く判らなくなる。この人は何のために出てきたのか、余り必然性のない人たちも多い。これも警察小説の延長上にある映画であると思った。

新聞のテレビ欄を見ていると毎日のように警察もののドラマが何本かある。おおむね、組織防衛と面子だけの上層部、無能な中間管理職などが出てくる。こんなに悪者として描かれながら、フィクションだとの断り書きがあるから、クレームが付いたという話は聞いたことがない。描かれている内容が真実をついているのか、クレームを付けたときのマイナスイメージを恐れているのか、小説やテレビでやりたい放題のような気がする。もっとも自分もそれで胸をすかせている一人なのだが。

弱者を叩けばダメージが大きいが、権力者を叩いてもそれほどダメージはないという、メディアの安易な発想がこんな状態を呼んでいるのだろうか。時々出てくる警察の不祥事が、フィクションを現実に変えてしまうからやっかいである。
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入会訴訟の「内済取替せ規定」

(大雨から半日経った大代川)

そう遠くない昔、日本では平地に一面に田圃が広がり、豊かな農村に見えても、田圃だけでは人々の生活は成り立たなかった。生活には煮炊きの薪が必要だったし、牛馬には秣(まぐさ)が必要で、その他、建築材料、肥料や山菜など、様々なものを得るために、人々は山に入った。その山に最も近い村が「地元」または「山本」と呼ばれて、山の管理をしていたが、「地元」だけではなく、近辺の多くの里村がその山に入り、必要なものを採取することが慣習として許されていた。これを入会(いりあい)と呼ぶ。入会については古来頻繁に出入(訴訟)があり、多くの村々が入会の権利についての争いごとに加わった。

昨日の古文書解読基礎講座では、靜岡の丸子で起きた入会出入の取替(とりかわ)せ規定(ぎじょう)が課題となった。以下に解読した書き下し文を示す。

    別紙取替せ規定の事
去る文久元(酉)年八月、丸子野山入会場、故障出入り差起り、紺屋町御役所へ出訴中、扱人立入り、翌(戌)年十一月、示談に及び候らえども、その後、字芹ヶ谷、立ヶ谷弐ヶ所の儀、行違い再論に相成り、去々(子)年中、鎌田村より地元へ相懸り、紺屋町御役所へ出訴奉り候ところ、御利解の趣、双方服し兼ね、示談不行届、去(丑)十二月願書御下切りに相成り候につき、なお又今般鎌田村より寺社御奉行所様へ出訴奉りたき旨、領主添翰申請け、江戸出立相成り候ところ、引き留め置き、石部村嶋惣八外五人立入り、双方へ掛合いの上、内済塾談相整い候、趣意左の通り
一 鎌田、寺田両村の儀は、右山地の内、切畑役米六斗五升相納め候場所これ有るを以って、前々の通り総体入会、秣、柴、下草刈取り、並び枯れ落ち候枝葉など拾い取り致すべく候事
前書の通り取決め候ゆえ相違無く御座候、これまで申し争いの廉(かど)は扱人貰い請け、すべて去る文久弐(戌)年十一月済口証文面に基き、何事に限らず、不実意これ無き様相互に睦み合い、内済塾談仕り候上は、向後少しも申し分御座なく候、これにより後日のため、双方並び扱人一同連印、取替せ一札件(くだん)の如し
(以下双方並び扱人の名前と印が並ぶが省略)

「扱人」は仲裁人。「去々年」は一昨年。「下切」は却下。「添翰」は添えた文章、手紙。「切畑」は、山腹や林などを切り開いて新しくつくった畑。「廉(かど)」は、ある事柄の原因・理由となる点。「済口証文」は、和解の内容を記し、双方が連印した文書。

一度は示談になったことが、部分的に再燃して再び紺屋町御役所で訴訟になった。お役所から見解が出たが、双方とも不満で示談ならず、御役所からは却下された。それならば江戸へ裁定を仰ぐべきと、出訴へ出発直前に、隣村の名主たちが仲裁役に入って(扱人立入)、和解(内済熟談)が漸く整った。そういう内容である。
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酷暑一転豪雨、靜岡へ行く

(昨夕の空、翌日は雨の予報)

酷暑が一転して豪雨になった。

昨夕、ムサシの散歩に出て、夕空は晴れていたが、雲が多くて風雲急を告げるの気配があった。一昨日には滞在していた西九州も大雨になっているとの情報も伝わり、雨近しを感じさせる空であった。酷暑が続き、雨が降らない日が続き、人も犬も植物も蛙も、雨が待ち遠しい昨今であったから、翌日は雨になるとの予報に期待が膨らんでいた。雨が吹き込むことも考えられるので、寝る前に窓などすべて締めて回った。

夜半、激しい雨音に目が覚め、寝る前に窓はすべて締めて置いたことを心で確認していた。時々屋根を打つ驟雨を夢の中に聞きながら、目覚めた朝にはすっかり雨模様になっていた。気温が一気に10度も下がって、大変凌ぎやすい日となった。

今日は午後一番に靜岡中央図書館の古文書解読基礎講座へ出掛ける予定で、早めにうどんを茹でて昼食を終えた。女房が外出しているため、車で送ってもらえないので、車で行って駅近くに駐車し、少し歩いて電車に乗る予定にしていた。時間に余裕があるように思い込んで、新聞など読んでいて、時計を見たら電車の15分前になっていた。今日は送ってもらえないから、電車に乗るまでに、いつもより時間が掛かる。慌てて服装を整えて飛び出した。雨は少し降っているだけであった。急ぎに急いだ結果、ホームに出てもまだ3分ほど余裕があった。

会場には15分前には入った。講師は先週は、大変暑い中出席していただき、と挨拶してはじまったが、今日は何と言うのだろうと注目していると、暑さから一転して雨模様で足元の悪い中、と挨拶している。それでは余りに紋切り型の挨拶と思ったのか、それでも今日は大変凌ぎやすい日になった、と続けた。

2時間の講座を終えて、バスを待つ間も雨は降っていたが、激しい降りでは無かった。4時半ごろ、電車が島田駅に着く頃から、垂れ込めた雲から風混じりの激しい雨になった。大井川は往路では見なかった幾通りもの濁流が出来て、しばらく見ないほどの増水をしていた。靜岡に行っている数時間に大井川流域はかなり激しい雨が降ったのだと思った。

激しい雨の中を、あらかじめ用意してきた大きい傘を差して、駅から駐車場まで200メートルほど歩道を歩いた。歩道を流れる雨水がウォーキングシューズに浸入してきた。ズボンの裾が風混じりの雨にすっかり濡れてしまった。

家の植物と蛙たちは皆んな久し振りの雨に生き返ったように見えたが、散歩に行けないムサシだけは裏の小屋で所在無さそうにしていた。6時過ぎ、雨の止み間を突いて、女房がムサシを散歩に連れ出した。
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五島うどんと立岩展望台

(立岩展望台から見る嬉野温泉)

もう1日、嬉野の話である。

一昨日の夜、地元の会社の担当と食事をした。会食の最後に、メニューを見て、五島うどんをリクエストした。最近、続けて五島うどんを取り上げたテレビ番組を見た。その製造方法も知り、一度食べてみたいと思っていた。五島うどんはその名の通り、長崎県の五島列島で作られるうどんである。番組では詳しい製造過程を映していたが、簡単に説明すると、丸い座布団のように厚めに生地を伸ばし、それを蚊取り線香のように渦巻状に庖丁を入れて、太いひも状のものを作る。それを少しずつ丸めながら引き伸ばしていく。その過程はソーメンの製造方法そっくりであった。ただソーメンよりも太い状態で作り終える。


(五島うどん)

出てきた五島うどんはかけうどんであった。普通のうどんよりも細くて、ストローほどの太さであろうか。断面が丸いのが特徴である。モチモチ感のあるうどんかと思ったら、意外と歯切れが良い。煮ても伸びることが少ないうどんだという。アゴ(トビウオ)の丸干しで出汁を取るのだという。その五島うどんがそうだったのかどうかは、自分には舌では判断がつかなかった。初めて食べてみたことに意義があって、そんなに何度も食べたくなるうどんというわけでもない。

    *    *    *    *    *    *    *

昨日の帰りに武雄温泉駅まで送っていただく途中、少し時間があったので、立岩展望台へ車で登ってもらった。標高345メートルの上に、6、7メートルの展望台があった。山々に囲まれた嬉野の町が一望に出来た。周りの山々はそれほど高いわけではなくて、見えるところにも見えない山上にも茶畑が広がっているという、茶所である。環境的に住みやすそうな町に見えた。案内してくれた人は、昔は麓に中学校があって、部活にはこの山へ走って登らされてきつかったと語った。いま中学校は移転して、跡地が「肥前夢街道」という江戸時代の街を再現したテーマパークになっている。

この風景の中に長崎新幹線(正しくは九州新幹線長崎ルート)が通り嬉野温泉駅が出来ると聞いた。外から見ると、せっかくの静かな温泉町に新幹線を通すなど無粋の極致だと思うのだが、町に住む人にとって見れば、長年の悲願なのだろうと思った。嬉野温泉は鉄道が通っていないために発展から取り残されたという忸怩たる思いがあるだろうから。新幹線が通ったらぜひ乗ってきて下さいという。それで何時通るのかと聞いたら10年ほど先の話であった。それじゃあ、来れそうにないなぁ。
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嬉野温泉大村屋へ泊まる

(夜の嬉野温泉大村屋)

昨夕、仕事をした嬉野の会社で、宿泊は大村屋に予約してあると聞いた。大村屋という名前に聞き覚えがあった。「シーボルトの湯」に入湯した書き込みの後、「大村屋 北川」という名前でコメントがあった。その時、大村屋のホームページを見て、色々と新しいアイディアをぶっつけて、集客を図っている老舗旅館なのだと思った。シーボルトの湯の近くで看板を見た記憶もあった。あの大村屋に意図せずに泊まることになった。これは面白いと思った。

夕食は地元の会社の人と会食のため外へ出た。出掛けに、フロントで北川さんという方がいますかと聞いたところ、フロントにいた女性も北川姓で、旅館の女将さんであった。パソコンで色々やられている北川さん、と聞けば、息子です、という。自分のブログにコメントを入れてくれたことがあると話すと、あいにく息子は福岡に出張で帰りが遅くなるから、明朝話すという。

太田南畝や伊能忠敬の記録に、この宿のことが載っているというから、創業は19世紀の初頭以前という、老舗中の老舗である。決して建物も設備も新しいものではなく、設備のよい旅館なら幾らでもあろう。宿代も幾らしたのか知らないし、夕食はとらなかったから何とも言えない。おもてなしの心を大切にされている様子はうかがえたが、マニュアル化されると血が通わなくなる。

どうもてなすかは大きな課題だと思うが、すべての人に同じもてなしでは満足できない客が多くなってしまう。例えば朝食の時間、ビジネス客に8時とか8時半といわれると困ってしまう。自分の場合は余裕があったから、それでも7時半まで早めてもらったが、8時始業のビジネス客なら7時には朝食が取れるようにしないと、敬遠されることになる。観光でも早く出たい客も多いのではないだろうか。

近所の老舗旅館で、自分の先輩たちが嬉野に出張したときは定宿にしていたという、S旅館も廃業してしまったと聞き、閉じられた旅館も見て通った。団体観光旅行が激減して、どの旅館も厳しい経営を余儀なくされている中で、若い感性で、新しい取組みをされ、テレビにも取り上げられているという、息子さんには残念ながら会えなかったが、近いうちにもう一度泊まることになると思う。一つ残念に思ったことは、無線ランの設備がなかったことである。幸い自分は外の通信手段を準備していたので、ブログも書くことが出来たから良かったが、これからは必須設備である。

嬉野温泉は泉質は抜群で自分も好きな温泉である。もっと賑わいを戻して欲しいと思う。大村屋の、嬉野で取れたお茶を使った、抹茶プリンと紅茶プリンは有名で、お土産にも出来たと後で聞いて、それも次回の楽しみにしようと思った。
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JR車内検札が不要になる日

(嬉野温泉大村屋より)

今夜、嬉野温泉にいる。

飛行機嫌いの自分は昔から九州への出張にJRを利用することが多い。昔に比べて車内検札の方法が少しずつ変ってきていることに気付いていた。かつては全乗客の検札をするのが普通だったように記憶している。だからのぞみなどで複数回数検札を受けることがあった。あるいは検札があった後の駅から乗ってきたときは、検札が無しで済んでしまう場合もあった。

ところが最近座席指定の車両では一度検札を受けると、座席がチェックされて、2度検札を受けることは無くなった。検札も手間が省けるから何度か回ってきて、新しく乗車した客だけを検札していく。検札が漏れることも少なくなっただろう。車掌も省力になり乗客も一度検札を受ければ重複が無くていい制度だと評価していた。

しかし、さらに考えれば、座席指定は前もって売れていることが判っている席であるから、車掌にその情報が渡っていれば、売れている座席に乗客が座っている限り、検札の必要はないのではないかと思った。売れた情報が無い席に座っている乗客だけを検札すればよい。座席指定の購入のタイミングで車掌に情報が渡らない席だけを、検札してカバーすることにすれば、車掌も楽になり、乗客も気分が良い。

これだけコンピュータが進んでいるのに、情報を車掌に渡すシステムが整備されていないのだろうかと不思議に思った。

最近、のぞみで検札を受けていて、車掌さんが切符をほとんど見ずに、複数枚数ある切符の一番上に検札済み印を押して返すようになったことに気づいた。前は3枚あればその全てを見てから返していたように思う。売れている座席情報が車掌さんの手元に届くようになり、経過措置として、切符を持っていることの確認で済むようになったのだろうと推測していた。

今日博多から特急みどりに乗った。車掌さんが検札しながら回ってきたので、いつものように切符を見せようとすると、手元のメモを見ながら、けっこうです、といって切符を受け取らずに先へ進んで行ってしまった。こんなことは初めてであった。売れている座席情報が渡るようになって、いよいよ検札の省略が出来るようになったのだろうか。確証はないが、今後も注意して見ていようと思った。

    *    *    *    *    *    *

嬉野温泉に入った。とろりと肌にまとわり付くようないい温泉である。ただ、旅館の大浴場には、親子が一組入っているだけで、小学校低学年くらいの子供に父親が飛び込み練習をさせていて、騒がしくてたまらない。温泉入浴マナーの違反である。
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やっぱり鉄は鉄屋なんだろう

(季節はずれの庭のシュモクレン)

7月21日、「猛暑の天井裏に入った訳」で書き込んだ、居間の蛍光灯の取替えの話の後日談である。


(取り付けられたスパイラルパルックという省エネの蛍光灯)

後日、電気屋さんが来て取り付けて帰った。電気屋さんは珍しく低姿勢で、女房に先日のことを謝って帰ったという。自分が屋根裏に入っている間に次の仕事の予定があると言って帰ってしまった。もともとは電気屋さんが古い電気器具を外した時に、現状を見て十分に取り付けが出来ると言って帰ったことで、現物を持ってきて取り付けようとしたところ、やはり天井についている金具が邪魔になった。取替えは手間が掛かってしまうと愚痴っていた。やっかいな仕事を客に託っているように聞こえた。

金具を留めているボルトを切断するにはグラインダーでやるから、火花と騒音を覚悟してもらわなければならないという。それじゃあ困るから、空回りしているボルトを外せないかと思い、屋根裏に入ったのであった。下で待っていると思っていた電気屋さんが帰ってしまったのでは何でもない。もっと腹を立てるべきだったのかもしれない。高齢だから仕方がないと諦めていた。

結局、ねじは取れなかった。切断するしかない。女房が大工さんに電話して頼もうとしたが、やはりグラインダーを使うしかないという。ボルト一本だけなのだから、金のこで切ればわけはないと思った。まーくんのパパに話したらすぐに買いに行ってくれた。ムサシの散歩から帰ると、すでにボルトは切断されて、金具は外れていた。

自分もまーくんのパパも鉄を切ったり貼ったりする会社に勤めているから、すぐに金のこを思い浮かべて、話すと迷いなく金のこを買ってきて作業までしてくれた。作業の直下で金屑をレジ袋で受けて、火花も飛ばなければ騒音もしない。隣りの部屋に赤ん坊がいたが、関係なく作業をやってくれた。金のこのホルダーも無しに、刃だけで切って、250円ほどの出費で済んだ。

電気屋さんと大工さんでは思いつかなかった金のこが、自分たちには最初に思いついた方法であった。やはり鉄は鉄屋なのだろうと改めて思った。

電気屋さんは高齢で、女房の実家に出入りしていて、あれからもう40年以上のお付き合いである。元は電機メーカーに勤めていて、資金を出してくれる人がいて電気屋さんを始めた。なかなか商売人になれなくて、商売が下手でこの歳まできてしまった。後継者はいないから一代で終わりだと話して帰ったという。

歳を取って、商品知識がなかなか付いて行けないのだろう。どれがお奨め品かと聞けば、商品カタログを出して好みだからこの中から選んでくださいと言って帰る。確かにこれでは商売にならない。
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「参宮留守見舞状」

(庭のサルスベリ - 今年は花盛り)

本日、当家の人口は三家族10人、車が6台、前の農道にまではみ出している。酷暑もあって暑苦しさがひとしおである。昼食はソーメン、15束茹でたが7人の大人では少し物足らなかったようだ。午後は雷雨を期待したが、雲の気配もなくて、残念であった。快晴なのに空気が少し濁って見えるのは黄砂か噴煙の影響だろうか。

    *    *    *    *    *    *    *

木曜日の古文書解読講座で解読した、もう一つの文書を書き下し文で示す。

参宮留守(留主)見舞状
使札をもって申し上げ候、いよいよ御安康御座なされ目出たく存じ奉り候、然らば御両所様御儀、御参宮なされ候由、御門出(首途)も存ぜず候いて、御見送り(見立)も申し上げず候、まずもって、この頃は天気続きよく、道中さぞ(嘸)賑わい申すべくひとしお(一入)の御慰みと御うらやましく(浦山敷)存じ奉り候、随って些少ながら粗肴(麁肴)一折り留守中御見舞い(尋問)のしるし(証)まで、お目に掛け申し候、かつ又、相応の御用候わば承り申すべく候、まずは右御意を得たく、かくの如くに御座候(如此御座候)、以上


古文書の中には参宮や寺社詣でなどの記録も多く見かけるが、これは参宮の留守宅に出した見舞状である。見舞いといえば、病気見舞い、火事見舞いなど、降りかかった災難に対して、慰めたり、安否をたずねたりすることと理解していたが、留守見舞いとは新しいジャンルである。もっとも、陣中見舞い、暑中見舞いなど色々あるから、留守見舞いがあってもおかしくはない。

行き先は具体的に示してないが、当時は「参宮」といえば、お伊勢参りに決っていた。始めに「使札(しさつ)」という言葉が出てくる。これは、「使者に持たせてやる書状」のことで、現代なら郵便か電話でこと足りるが、当時は近在なら誰かに持たせてやることになる。

今回は判りやすく言葉を変えた所に、括弧で原文の言葉を示した。留守は「留主」とも書き、門出は「首途」とも書く。かつては見送りを「見立」と云った。「嘸」は「さぞ」と読む。「一入」は「ひとしお」と読み難読の一つであろう。「浦山敷」は読みだけをもらった当て字で、こういう例は意外と多くて、読み方が判ると楽しい。「麁肴」は見慣れない文字だが、読みも意味も「粗肴」と同じで、人に勧める料理をへり下っていう言葉。「見舞い」を「尋問」、「しるし」を「証」などと大仰であるが、そんな言い方を昔はしていたのだろう。最後の「如此御座候」は手紙の末尾に出てくる決まり文句の一つである。「かくの如くに御座候」と読む。
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「(御普請所に関する)定」一条

(山添は雷雨らしい)

酷暑が続いている。夕方、ごろごろと遠雷が聞こえたので、ムサシの散歩を急いだが、雷雨は東へ遠ざかって雨にはならなかった。山添い(川根の方面)は雷雨だったのだろう。庭の木々、草花、裏の畑ともども、雨が恋しい日が続く。明日は午後に雷雨が期待できそうだ。夜遅く、名古屋の娘一家が来たる。

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昨日、靜岡の古文書解読基礎講座で解読した文を一つ取り上げる。おそらく、安倍川の川会所に高札として掲示されたと思われる「定」一条である。前もって下読みして、特に前半が全く読めなかった。自分の解読の力もまだまだだと思い、講座に参加した。読めないのに理由があった。いきなり、川除普請(治水工事)の専門用語が羅列されて、その言葉がちんぷんかんぷんで、理解不能に陥ったのであった。ともあれ解読できた文を書き下してみる。

    定(さだめ)
御普請所、籠出し、はら籠(?)、柵牛、笈牛などの上へ上がり申すまじく候、たとい出水の節、流れ木、又は塵芥掛かりこれ有るとも、拾い取るべからず、総じて堤通りに植え立ち候竹木は申すに及ばず下草たりとも、みだりに刈取申すまじく候、もし相背くに於いてはきっと曲事たるべきものなり
寛延二年(1749)巳  大屋杢之助


「定(さだめ)」は幕府が庶民に出した掟(おきて)で、高札などに掲げられた。公家や武士などへは公家諸法度や武家諸法度など、法度(はっと)が出されている。この定は「普請所」(安倍川の川除普請の現場)で、色々な工作物に手を掛けて壊さないように諌めたものである。

工事の専門用語を調べてみた。「かごだし(籠出し)」は川の流れを変えたり、堤防崩れを防いだりするために、川に突き出して蛇籠(じゃかご)を並べたもの。「たなうし(柵牛)」「おいうし(笈牛)」ともに下図のようなもので、流れに構築し蛇籠などで固め、流れを制御する目的を持つ。現在でも川に構築された名残を見ることもある。「はら籠」あるいは「ばら籠」かもしれないが、どんなものか良く判らない。




川除普請の工作物が人の手で壊されるようなことが、しばしばあったのであろう。手を掛けることを一切禁じている。曲事(くせごと-犯罪)になると脅して守らせようとしている。大屋杢之助は延享元年(1744)から宝暦五年(1755)まで11年間、駿府の代官を務めた。代官としての在任期間は長い方である。
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靜岡古文書講座のあとで

(たけ山に沈む夕陽 - 酷暑の1日が暮れる)

第2回目の靜岡中央図書館の古文書解読基礎講座を受講した。その帰りに、バス停で待っていると、自分より一回り年嵩の男性に、どうして、こんな嫌な文書ばかり取り上げるのだろうか、と話し掛けられた。古文書にはもっと美しい話もたくさんあるのに、どうしてこんな話ばかり選ぶのだろうという。半分もっともであったが、しかし、偶々重なったのだろう、と弁護していた。

前回は、「子供の間引きの話」と「18人の親戚一同が餓死した飢饉の話」で、今回の中には「捨子が死んだ話」が入っていた。講師はその度に、怖い話で申し訳ないけれども夏向きだから、と言い訳をした。言い訳にも関わらず、解読した文書は、背筋も凍る怪談のような怖い話ではなくて、聞いた側の気がめいるような暗い話であり、講師の言葉は言い訳になっていないと、自分も思っていた。

それぞれの話は遠い昔の江戸時代のことだからと割り切れない部分もある。少し話をアレンジすれば、現代の三面記事に出ていても違和感がない話である。それよりもっと不条理な話が幾らでも探せると思った。

かの男性は、今日レポートを提出して講師に抗議した、とA4一枚の手書きのレポート用紙を見せた。

前回万葉仮名の説明の際に、まだ仮名がない時代、歌い継がれた万葉歌を集めて文字にするときに、漢字の音だけを借用して、万葉歌を表現した。それが万葉仮名と呼ばれるもので、万葉仮名の一つ一つの漢字が持つ意味は無視されると説明があった。

かの男性の抗議は、ある枕詞があとへ繋がる歌意に応じて、ふさわしい万葉仮名が選ばれている例を示して、決して漢字の意味が無視されているわけではないという、近年の研究成果を主張したものであった。

講師のいう話は、万葉仮名は音だけを借用したもので、漢字の一字一字の意味を追いかけてみても意味がないことを説明したもので、自分も納得して聞いていた。もちろん、かの男性の主張する話も知らない訳ではなかった。

万葉集の選者は漢字の音だけしか知らないわけはなくて、漢字の意味についての知識も十分にあった。だから、選者がたくさんある万葉仮名から文字を選ぶときに、歌の意味に近いイメージの漢字を選んだであろうことは容易に想像できる。現に細かく当っていくとそのような選択がされたと思われるものも多い。しかし、だからといって、万葉仮名で表記された歌意を理解するために万葉仮名の本来の意味を加味しなければ理解できないわけではない。講師の話はそういう意味で納得できる話である。

かの男性もかつては教育に携わってきたような人なのだろうと思った。たくさんの知識は持っているけれども、こんな抗議をするようでは知識がまだ生で、教養にまで熟成していないと思った。
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