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異説「天正の瀬替え」講演

雨の中、咲きだした庭のモクレン
20日の暖かさに、急いで咲き始めた

昨日の午後、異説「天正の瀬替え」の講演を金谷郷土史研究会で実施した。受講者6名。1時間半で終える予定が、途中端折ったけれども、1時間55分も掛ってしまった。もう少し要点を絞るべきだったと反省。「天正」も「瀬替え」もなかったという論旨は届いただろうか。

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2月20日 昼間は最高気温が24℃まで上がったと聞いた。庭のモクレンが開花を始める。夜、金谷宿大学教授会。来年度の新入受講者が8名あった。精々二、三名だろうと予想していたから、びっくりである。
2月21日  午後、金谷郷土史研究会。異説「天正の瀬替え」の講演。

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読書:「風塵 上 風の市兵衛 9」 辻堂魁 著
読書:「風塵 下 風の市兵衛 10」 辻堂魁 著
読書:「殺し屋の的 口入屋用心棒50」 鈴木英治 著
読書:「ビブリア古書堂の事件手帖(2)-2」 三上延 著
読書:「流人船 新秋山久蔵御用控 18」 藤井邦夫 著
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読み進めるほどに、新しい事実が

散歩道の紅梅(もう半月も前の撮影)
今年は梅の開花も早かった

講座の予習や出席の間に、「異説・天正の瀬替え」の色々な資料に目を通している。読み進めるほどに、新しい事実を知る。

浅井治平著「大井川とその周辺」に次のような記述があった。

別に大井川は、洪水時には激流は相賀峡を流下して、笹久保、大鳥辺を削り、その南下したものは鎌塚真侵食崖を形成したものと思われる。前述滝家の古文書に「天正三、四年の頃(天正の瀬替えの十四、五年以前)大水によって、鎌塚村の田、畑、屋敷が悉く大井川原となったので、やむを得ず上湯日に移転した」とあるのでも、その状況がわかる。

つまり、「天正の瀬替え」は五和の村々に広い農地をもたらした一方、流れが変わって、川下の鎌塚あたりの農地をつぶしたと思われていたが、「天正の瀬替え」以前に、大水の際に鎌塚の農地を潰したという記録があるというのである。これは是非とも滝家の古文書を読んでみなければならない。

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2月5日 「異説・天正の瀬替え」準備、全八章中六章まで進む。
2月6日 掛川古文書講座(8日)の予習。
2月7日 駿河古文書会(9日)の予習。
2月8日 午後、掛川古文書講座に出席。
2月9日 午後、駿河古文書会(静岡)に出席。
2月10日 午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席。

読書:「泣かせ川 もんなか紋三捕物帳」 井川香四郎 著
読書:「守り神 新・知らぬが半兵衛手控帖 20」 藤井邦夫 著
読書:「松本・梓川殺人事件」 梓林太郎 著
読書:「ビブリア古書堂の事件手帖(2)-1」 三上延 著
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「異説・天正の瀬替え」レジメ

昨日、夕方まで消えずに残った雪

「異説・天正の瀬替え」 のレジメを作ったので、示しておく。

異説「天正の瀬替え」レジメ
1 事のはじまり
2 浅井治平著「大井川とその周辺」より「天正の瀬替え」の通説を読む。
(疑問1) 「天正の瀬替え」以外に、瀬替えについての文書などが
  どうして出てこないのか。(著者の疑問)
3 「掛川志稿」の天正の瀬替えの稿を読む。
(疑問2) 「掛川志稿」の著者は「瀬替え」のことを、どうして牛尾村で、
  尋ねたのか。
4 牛尾の臼井家「旧記」を読む。
(疑問3) 瀬替えは、本当に計画されたことなのか。
5 横岡の北川家「我が家の歴史稿」を読む。
(疑問4) 五和に出来た村々の内で、どうして「横岡新田」だけが、
  「新田」なのか。
6 「寛政重修諸家譜」より、長谷川藤兵衛家の家譜を読む。
(疑問5) 天正18年より、島田代官を勤める長谷川藤兵衛家が、
  どうして「天正の瀬替え」に関らなかったのか。
7 異説「天正の瀬替え」

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以下、1月18日以降の活動記録である。
1月18日 午前中、散髪。店主に「天正の瀬替え」の自説を話す。興味を持った様子。午後、掛川文学講座へ出席。W先生、帯状疱疹に罹ったと聞いたのは何ヶ月前だったか。まだ後遺症が抜けないらしい。健康への自信を無くされたのか、来期は講座を年四回に減らすという。帯状疱疹は手当てが遅れると怖い。一時間でも早く医者に掛かれば、何倍も速く治るのだが。(自分の経験から)
1月20日 金谷宿大学「古文書に親しむ」講座、午前「初心者」、午後「経験者」の二講座を実施する。全員、来年度も継続受講してくれると聞く。
1月23日 「異説・天正の瀬替え」のデジメを作成した。
1月24日 朝うっすらと草の上に雪を見る。日陰では夕方まで融けなかった。当地で雪は珍しい。この冬、最も寒い朝であった。夕方、明石のI氏より電話。大阪のK氏が倒れて一年以上経つが、どうやら介護施設でリハビリをしているらしい。出来れば、見舞いに行きたいと話し合う。 

読書:「旅だから出逢えた言葉」 伊集院静 著
読書:「出戻り 新・知らぬが半兵衛手控帖 19」 藤井邦夫 著
読書:「五分の魂 風の市兵衛 8」 辻堂魁 著
読書:「松本-日本平殺人連鎖」 梓林太郎 著
読書:「はぐれ狩り 日暮左近事件控 16」 藤井邦夫 著
読書:「百鬼園事件帖」 三上延 著
読書:「首無し女中 もんなか紋三捕物帳」 井川香四郎 著
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長谷川藤兵衛、五代の家譜


金谷宿大学、新年の「駿遠の考古学と歴史」講座
S講師からの新年の贈り物「七福神の宝船」
後ろから読んでも同じに読める、「回文」という
七福神の絵とともに枕元に置いて眠れば
目出度い初夢がみれると江戸時代の民は楽しんだ

次回の金谷郷土史研究会で、「異説・天正の瀬替え」と題して、2時間ばかり話しをしようと思い、研究会には話していたが、それが2月に予定が決まった。

色々な資料が手元にあるが、長谷川藤兵衛五代の事績がもう一つはっきりしない。そんなところに、S先生が「寛政重修諸家譜」を見ることを勧めてくれた。幸い、同書は新版が金谷図書館にもあることが分かり、金谷図書館の閉架にあるものを出してもらい、調べてきた。

「寛政重修諸家譜」より、長谷川藤兵衛、島田代官五代の家譜。
1.長谷川藤兵衛長盛(ながもり)  藤太郎、藤兵衛、母は某氏。
東照宮につかへたてまつり、関東に移らせ給ふの後、御上洛のため所々御旅館の近郷にをいて、御料の地を置かる。このとき長盛駿河國嶋田の御代官をつとめ、同國志太郡のうちにをいて采地五十石、をよび廩米二百俵をたまふ。後、台徳院(秀忠)殿に土産のものを献ぜしにより、御書を下さる。慶長十九年四月二十日死す。法名長盛。駿河國志太郡大草村の天徳寺に葬る。後、勝峯に至るまで葬地とす。

2.長谷川藤兵衛長親(ながちか)  藤太郎、藤兵衛。
東照宮につかへたてまつり、父に代りて嶋田の御代官をつとめ、後、紀伊大納言頼宜卿に付属せられ、元和八年七月二十日死す。法名長白。

3.長谷川藤兵衛長勝(ながかつ)  藤太郎、藤兵衛。實は長谷川藤右衛門長 次(長盛の弟)が次男。母は某氏。長親が養子となりて、其女を妻とす。
元和九年二月二十二日遺跡を継、父に代りて嶋田の御代官をつとめ、正保元年私財を費て岩石を鑿ち、大井川の水を引きて、三千百石餘墾田をひらく。これにより其租税のうち十が一をたまふ。明暦元年九月二十一日死す。法名道光。妻は長親が女(むすめ)。

4.長谷川藤兵衛長春(ながはる)  藤太郎、藤兵衛、母は長親が女。
寛永十八年八月朔日はじめて大猷院(家光)殿に拝謁す。時に十六歳。明暦元年遺跡を継、御代官をつとむ。延寶五年六月十八日死す。年五十二.法名永剛。妻は有栖川家の臣森戸甚左衛門某が女。

5.長谷川藤兵衛勝峯(かつみね)  九十郎、藤兵衛、母は甚左衛門某が女。
延寶五年閏十二月十日遺跡を継。時に十五歳。六年三月晦日御代官となる。のち勝峯が故の支配所、遠江國榛原郡は川井助左衛門某支配する所なり。しかるに村々多く水災にかゝり荒蕪するの地、凡三千石にをよぶ。彼地は勝峯父祖よりの支配所なれば地理を考へ、水災を防ぎ、農民を撫育すべきむね仰を蒙り、年を歴て遂に舊に復し、しかのみならず新墾の田を合せ、一萬石餘の地をひらく。其後負金あるにより逼塞し、元禄十五年十二月二十四日會計終るにより、これをゆるさる。十六年三月朔死す。年四十一。法名道隣。妻は曲淵與左衛門直弘が女。

長谷川藤兵衛家は、家康が関東へ移られた時(天正18年)に、家康が京に上る時の宿とするべく、御料の地として島田に置いた代官がはじまりという。同時に、駿河は中村一氏、掛川は山内一豊が領主として秀吉より派遣されている。この島田代官と駿河藩主は支配の2重構造に見える。天正18年中村一氏の瀬替えが、いよいよまぼろしになっていく。

以下、1月13日以降の活動記録である。
 1月13日 午後、金谷宿大学「駿遠の考古学と歴史」講座に出席。
  金谷郷土史研究会 2月の予定が都合が悪くなったので、
  急遽、ピンチヒッターで「異説・天正の瀬替え」の講話が決まった。
 1月14日 午後、掛川大東図書館で「石川依平の足跡」の文学講演に、
  出席する。「依平」は歌人らしく「よりひら」と読む。
  講師の、東洋大学、高松教授は若いけれども、古文書解読能力は
  高いようだ。後に展示物の解説の場で、図書館で展示した解読文に、
  いくつも駄目出ししていた。
 1月16日 午前、金谷図書館で「寛政重修諸家譜」を閲覧した。

読書:「七草粥 三人佐平次捕物帳」 小杉健治 著
読書:「桃太郎姫七変化 もんなか紋三捕物帳」 井川香四郎 著
読書:「逃れ者 新秋山久蔵御用控 17」 藤井邦夫 著
読書:「浪人若さま新見左近 陽炎の宿」 佐々木裕一 著
読書:「歴史の愉しみ方/忍者・合戦・幕末史に学ぶ」 磯田道史 著
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嶋の旧惣庄屋、山田家を訪問した

島の旧惣庄屋、山田家(御日限地蔵の守り家)

山田家の松
松の巨木が次々に枯れていく今
島田でも有数の松である
いつもは塀越しに写真を撮らせていただいている
今日は中から撮らせていただいた

山田家の現当主より、山田家文書の里帰りの活動に興味があると、一度会って話を聞きたいとのことで、今日午後、NTさんと訪問した。
山田家というと、個人的には庭の松の巨木がいつも気になっていたので、庭から一枚、松の写真を撮らせていただく。

  島田市五和に過ぎたるものが二つあり。山田家文書と竹下村誌稿。

浜松の家康を評した俗諺「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本田平八」のもじりで、自分が言い出した言葉だが、「竹下村誌稿」の解読書の出版と、東京の資料館所蔵の「山田家文書」のコピーによる里帰りが、NTさんと自分の目下の目標である。

自分たちの思いを2時間ほどお話しして、名古屋で公認会計士をされている当主は、毎日曜日にはこちらの屋敷に帰られると言い、協力の言葉を頂いた。

人に話すたびに、段々と逃げ道が塞がれていく。何としてもやり遂げねばなるまい。

読書:「越中なさけ節 小料理のどか屋人情帖39」 倉阪鬼一郎 著
読書:「殿中 鬼役 三十一」 坂岡真 著
読書:「幽女の鐘 新大江戸定年組 4」 風野真知雄 著
読書:「大井川殺人事件」 梓林太郎 著
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島田市五和に、過ぎたるものが二つあり

庭のチゴユリとハムシ
チゴユリの葉はだいぶハムシに食べられている
ハムシの中には子孫繁栄に勤しむものもいる

島田市五和に、過ぎたるものが二つあり、「竹下村誌稿」に「山田家文書」。

御存知、浜松に拠点を置いた、若い頃の家康の家臣軍を讃えた一句、
   「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
のもじりである。

今朝、図書館に出向いた序でに、先日Nさんに紹介された、金谷公民館の新館長さんにお会いして、そんな話をした。

まず、一つ目の竹下村誌稿の解読版の出版の話は、解読をしたのは自分だが、力説されているのは、Nさんである。自分はその量の多さに、実現を危ぶんでいる。

二つ目の山田家文書については、山田家は江戸時代を通して、五和の村々の庄屋を束ねる、惣庄屋の役を勤められた。その文書は五和地区で発生したあらゆる分野の古文書が網羅されている、大変に貴重なものである。「山田家文書」は寄贈されて、現在、東京の国文学研究資料館に所蔵されている。保管という面では万全なのだが、寄贈がコピーなどもない時代のことで、地元島田市にはコピーもおそらくなく、見たければ東京まで出向かねばならない。東京では解読研究するものもなく、地元にはコピーもないのでは、宝の持ちぐされである。幸いお金さえ払えば、業者がコピーを取ってくれるようで、何とかコピーで里帰りさせたい。そんな話を館長さんに話した。館長さんはそのあたりのことを調べてくれると返事を頂いた。
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「金谷郷土史研究会」のこと

大井川鉄道のSL(合格駅そばで)

午後、「金谷郷土史研究会」の総会に、Nさんとオブザーバーとして参加した。同会は主だった会員が抜けたり、亡くなったりして、今では会員が5人に減ってしまい、細々と年数回の見学会などを催している。

Nさんはこの会の見学会などに協力していて、この会ともコンタクトを持っている。数年前に自分が解読した「竹下村誌稿」の解読本を、この会から発行したいという思惑があるようだ。それだけ、自分の解読を評価してくれた結果ではあるが、2年近くかけて行ったもので、そのままで発刊には、量的に無理があると思う。その一部を抜粋して、試しに作ってみてはどうか、と思った。

結果、二人して「金谷郷土史研究会」に入会した。会費、年間2000円も払ってきた。

何とか、小さな疑問でも、研究テーマ見付けて、年間に1テーマくらい発表して、会の宣伝をすれば、入会してくる人も出てくるだろうと思う。何と言っても「研究会」なのだから。少なくとも会員10人以上の研究会にしたい、などと思った。

読書:「悪魔 闇の西洋絵画史 1」 山田五郎 著
読書:「惜別の海 侠客銀蔵江戸噺」 稲葉稔 著
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「さむらいたちの学び」島田市史編さん委員会報告会

(散歩道のハナグルマ、11月26日撮影)

この季節にガーベラと、珍しくて写真に撮ったが、調べていくとハナグルマとあった。しかし今はガーベラとも呼ばれるとも書かれている。間違ってはいなかった。春と秋に咲くようで、季節外れでもなかった。

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(昨日の続き)
焼津を発って、報告会会場の島田市初倉公民館くららに向う。ちょうどお昼だったので、食事処を探したが、新型コロナの心配もあり、結局、コンビニでそばとおにぎりを買い、公民館に向った。断られたら車で、と話しながら、報告会の受付にゆくと、受付は1時からだといわれた。弁当を食べたいと云うと、ホールの隅のテーブルを示してくれた。本当は食事は禁止だったのだろう。最近のコンビニ食はどれも結構おいしい。

受付を通り会場に入ると、席を離して、50席ほどが準備されていた。時間が経つにつれて、古文書解読で知り合った人達と、次々に出会った。自分の最初の古文書解読の先生だったKさん、御主人と一緒である。共に学んだAさん、Nさんなど。色々な会場で必ずと言ってよいほど出会うKさんも、開始少し前に駆けつけてきた。いずれもマスクをしているから、なかなか見分けにくい。見逃した人もいるかもしれない。

講師は島田市博物館外部講師、天野忍氏であった。国学院大学を卒業、県内で教員を勤めあげ、図書館長や大学の先生をしている。60歳を過ぎてから、神主の資格を取ったという。今日は、テーマに合わせてであろうか、羽織袴を着用の異形であった。

講演の内容は、明治になって、駿河と遠州は駿府藩となり、江戸から徳川幕府を支えてきた人々と、その家族が大挙して移住してきた。とはいえ、駿府藩は石高70万石で、今までの十分の一の石高であった。多くの幕臣たちは、藩から離れ、自ら稼ぎを見付けるしかなかった。その一部は、牧之原に入植して、日本一の大茶園の礎を築くことになった。そういう幕臣の一人、大草家に残る古文書が調査の対象となり、この報告会となった。

古文書は、帰農しても、武士の矜持が捨てきれなかったようで、文武両道の各種書物が多岐にわたって残されていた。

個別の書物名がその内容と共に紹介された。
  「兵要録」長沼宗敬著(関口隆一が学修)
  「中條上書 完」中條鉄太郎著(西尾文庫の印)
  「佐久間上書 完」佐久間象山著(西尾文庫の印)
  「慎機論」渡辺崋山著(西尾文庫の印)
  「闘邪小言」大橋訥庵著
  「徳川斉彬、ぶらかし策」の書
  「蒭尭論 武道篇 全」清川八郎著
  「開国兵談」林子平著
  「西尾寛一郎正恒」(西尾文庫の印)
  「二天記 完」宮本武蔵伝、山岡鉄舟蔵書
  「博物筌」勝海舟
  「文政方策誌 全」   など。
書名を見ていくと、攘夷論から開国論まで、中には発禁となった本まであり、当時の幕臣たちも、色々な考えを学ぼうとする意欲と、そんな機会をしっかり持っていたのだと思った。難民のように、江戸から限られた荷物しか許されない時に、それらの書物を携えてきたのである。

中で「西尾文庫」とあるのは、幕臣たちの師匠筋にあたる「西尾寛一郎正恒」の蔵書だったという意味である。西尾寛一郎は幕臣としては中間管理職のような地位の人であった。休憩時間に、これらの書物は漢文か和文かと聞いた所、ほとんどは漢文で書かれているとの答えを得た。多分これらの書物は、有名な本は別として、まだ内容までは読まれていないようだ。どれか一冊、読んでみたいと思った。

読書:「いすゞ鳴る」 山本一力 著
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「寺社からたどる戦国の焼津」焼津歴史民俗資料館企画展

(七五三で賑わう焼津神社)

初倉公民館で、「さむらいたちの学び」と銘打った、島田市史編さん委員会報告会があるというので、NTさんを誘って参加した。報告会は午後2時からだったが、NTさんに付き合って、9時半に出発、まず、焼津歴史民俗資料館で開催中の「寺社からたどる戦国の焼津」の企画展を見た。

駿府から見て、山西と呼ばれた旧志太郡で、戦国武将と有力社寺がどのような関係を結び、部将たちは武運長久と支配体制の確立をめざし、社寺側はその保護を受けたかということを、古文書や文物で示す企画展であった。意図は理解できたが、見学側から感想を述べると、常設展示と企画展示が同フロアでごちゃまぜの感があって、分かりにくかった。戦国武将も、時代を追って、今川➜武田➜徳川➜豊臣(中村一氏)と移っていき、それぞれが敵になったり、味方になったりと、複雑に変動した地域である。その中で各々の社寺がどのように生き残ってきたのか。あるいは堂宇を焼失し消えた社寺もあっただろう。その辺りに焦点が当たれば、理解しやすかったのかもしれない。帰りに係り員の女性から、焼津の文化遺産の資料を色々頂いた。

その後、社寺の文化財に造詣の深いNTさんに付き合って、車では焼津歴史民俗資料館からそれほど遠くない、焼津神社➜永豊寺➜海蔵寺と気になる建物を見て回った。


(焼津神社の新社務所)

焼津神社は今日、明日が七五三の最終で、氏子の人たちが出て、駐車場の警備などをして賑わっていた。最近、近代的な社務所が整備されて、鎮守の杜の様相が随分と変わったと思う。七五三が終れば、初詣に向けて、いっせいに準備が進むのだろうと思った。


(永豊寺の茅葺山門は薬医門)

永豊寺は山門が茅葺で、NTさんはそれが見たかったという。山門は薬医門で、カヤが少し草臥れていると、NT氏は云う。天然素材の茅葺は、中が空洞のヨシが最高の素材で、中が白く詰まったススキなどが続く。それでも傷みやすいので、数年に一回腐りの来た部分を差し替えるなどの補修をしていけば20年から30年くらいは持つ。ところが、補修が必要なことを、知らない管理者が見受けられることは残念だと話す。


(海蔵寺の総ケヤキ造りの本堂)

海蔵寺は駿河地蔵巡りで立ち寄った記憶がある。今日は保育園はお休みで、門は開放されていた。NTさんは海蔵寺は初めてのようで、用材がオールケヤキで造られていることに驚く。用材が幕末に川根から調達されたという案内板に、幕府直轄の御林からは、余程強力な権力者の指図が無ければ調達が出来ないはずで、海蔵寺の置かれた地位が想像できるという。あちこちに葵の御紋が見えるのも納得であるという。建物を見て、建築当時の寺格まで想像できるというのは、新しい発見であった。

この後、「さむらいたちの学び」の報告会に出席したが、その報告は明日にしよう。
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(9)

(散歩道のカマキリ)

散歩中に土手でカマキリを見た。メスである。産卵場所を探しているのであろうか。オスはもう食べられてしまったのだろう。

夜、金谷宿大学役員会。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」を読み終えて、瀬替えのことで、疑問に思った数々が一々納得できた。読んでいる途中で、チェックして置くべき、地元の地誌があったことを思い出した。「竹下村誌稿」という本で、瀬替えの部分を、このブログでも取り上げたことがあった。その部分のコピーも手元にあった。

「竹下村誌稿」という本は、大正13年5月発行の竹下村の地誌である。往時、五和村竹下在住の、五和村の村長も勤められた渡辺陸平氏が、集められていた大量の史料をもとに、編集発行せられたものである。小さな村の地誌としては大したボリュームである。

大井川の瀬替えについては、諸説が併記されている。要点を記すと、

1.元来牛尾山と相賀村の間に低窪なる所ありて、その東に、大なる池沼ありしが、永禄年間、大井川洪水ありて、この低窪なる所、破壊して、川は池沼と相通し、粗々(あらあら)川筋となりしと云う。

2.天正十八年中村式部少輔一氏、駿河国を領するに当り、この低窪なる所を開発して、全く河流を山東に通ぜしめ、堤防を築きて、その流域を開拓せり。(同時に、山内対馬守一豊、横岡と牛尾山の間に堤防を築く)

3.徳川頼宜、駿遠二州を領するに当り、元和中、その臣水野正重をして、疎水堤防の修理に当らしめしより、河道の面目を改め、現時の川形となりて、洪水氾濫の害を免がる。

そして、その最後に、武田方の手になるとの言い伝えが記されている。

この山を切り開きたるは、永禄中、軍略上武田方の手に成りしものにて、今、牛尾山に鎮座する熊野神社の石磴(石段)は、武田方がこの山を開鑿せし時の石材を用いしものなり、との口碑も伝うれど、考うべきものなし。

「口碑(言い伝え)も伝うれど、考うべきものなし」と、取る足らない説として切り捨てられているけれども、武田説は大正時代にはまだ巷で語り継がれていたことが知れる。「考うべきもの」の「もの」とは、古文書とか、文献のことを示すのであろう。

「竹下村誌稿」では、たくさんの古文書、文献を渉猟されているけれども、六年前の大正七年に、隣りの村の顔見知り(たぶん)の書いた「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」には、どうやら目を通していないように思えた。

目に留まっておれば、書き方が変わったかもしれない。やはり歴史をくつがえすためには、せめて江戸時代の古文書が出てくることが必要なのだろう。古文書は全く残っていないといわれるが、Uさんの実家におじゃまして調べさせてもらおうかと、今は思っている。

追記
後日、「竹下村誌稿」を部分的に現代文に直す作業を始めてみて、同誌稿は項目ごとに稿をまとめた日付が記してあるのに気付いた。大井川の項は「大正四年八月稿」とあった。従って、誌稿の著者は前述の「郷里舊記」は時間的に目を通せていないことがはっきりした。(11/18記)
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