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知的冒険 天正の瀬替えの真実(9)

(散歩道のカマキリ)

散歩中に土手でカマキリを見た。メスである。産卵場所を探しているのであろうか。オスはもう食べられてしまったのだろう。

夜、金谷宿大学役員会。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」を読み終えて、瀬替えのことで、疑問に思った数々が一々納得できた。読んでいる途中で、チェックして置くべき、地元の地誌があったことを思い出した。「竹下村誌稿」という本で、瀬替えの部分を、このブログでも取り上げたことがあった。その部分のコピーも手元にあった。

「竹下村誌稿」という本は、大正13年5月発行の竹下村の地誌である。往時、五和村竹下在住の、五和村の村長も勤められた渡辺陸平氏が、集められていた大量の史料をもとに、編集発行せられたものである。小さな村の地誌としては大したボリュームである。

大井川の瀬替えについては、諸説が併記されている。要点を記すと、

1.元来牛尾山と相賀村の間に低窪なる所ありて、その東に、大なる池沼ありしが、永禄年間、大井川洪水ありて、この低窪なる所、破壊して、川は池沼と相通し、粗々(あらあら)川筋となりしと云う。

2.天正十八年中村式部少輔一氏、駿河国を領するに当り、この低窪なる所を開発して、全く河流を山東に通ぜしめ、堤防を築きて、その流域を開拓せり。(同時に、山内対馬守一豊、横岡と牛尾山の間に堤防を築く)

3.徳川頼宜、駿遠二州を領するに当り、元和中、その臣水野正重をして、疎水堤防の修理に当らしめしより、河道の面目を改め、現時の川形となりて、洪水氾濫の害を免がる。

そして、その最後に、武田方の手になるとの言い伝えが記されている。

この山を切り開きたるは、永禄中、軍略上武田方の手に成りしものにて、今、牛尾山に鎮座する熊野神社の石磴(石段)は、武田方がこの山を開鑿せし時の石材を用いしものなり、との口碑も伝うれど、考うべきものなし。

「口碑(言い伝え)も伝うれど、考うべきものなし」と、取る足らない説として切り捨てられているけれども、武田説は大正時代にはまだ巷で語り継がれていたことが知れる。「考うべきもの」の「もの」とは、古文書とか、文献のことを示すのであろう。

「竹下村誌稿」では、たくさんの古文書、文献を渉猟されているけれども、六年前の大正七年に、隣りの村の顔見知り(たぶん)の書いた「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」には、どうやら目を通していないように思えた。

目に留まっておれば、書き方が変わったかもしれない。やはり歴史をくつがえすためには、せめて江戸時代の古文書が出てくることが必要なのだろう。古文書は全く残っていないといわれるが、Uさんの実家におじゃまして調べさせてもらおうかと、今は思っている。

追記
後日、「竹下村誌稿」を部分的に現代文に直す作業を始めてみて、同誌稿は項目ごとに稿をまとめた日付が記してあるのに気付いた。大井川の項は「大正四年八月稿」とあった。従って、誌稿の著者は前述の「郷里舊記」は時間的に目を通せていないことがはっきりした。(11/18記)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(8)

(庭のツワブキの花)

庭のキンヒバの生垣の元に、ツワブキの花が咲いた。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」はつづく。

東海道菊川宿より新宿、牛尾、笹之久保を経て、元島田宿に渡りたる由。牛尾山の本、大井川新流、旧山跡に於いて、岩石所々に屹立して、河中、自(おのずか)ら滝を為すもの有り。これがため、年間数回、筏の流下を損害する事多し。

東海道菊川宿は金谷宿と日坂宿の間にあった間の宿である。新宿(しんしゅく)、牛尾は金谷側、笹之久保と元島田宿は島田側の地名。後述するが、一時、東海道はこのコースを通った。瀬替えの場所のその後について、「岩石所々に屹立して‥‥」以下の表現は、実景をその目で見た人の表現のように感じる。

徳川幕府治世に至り、寛永年間、島田住み代官、長谷川藤兵衛支配所の時、この河中に於いて、妨障する所の岩石を切り掃(はら)い、流水を平穏に赴(おもむ)かしめたる由。

太平の世になって、瀬替えが本格的に行われることになる。そのきっかけは、東海道の宿駅に指定(1601)されたばかりの島田宿が壊滅的な被害をうけたという、慶長9年(1604)の大井川の大洪水であったと思われる。壊滅した島田宿は北の野田村に移されて、東海道のコースも笹之久保 → 牛尾へと変えられた。その復興にはおよそ十年かかり、元和元年(1615)に、ようやく元の宿場が整備されて、島田宿は元に戻された。当然、大井川の河川改修もなされて、寛永年間(1624~1644)に、島田代官の長谷川藤兵衛が中心になって、瀬替えが完成する。

一 隣郷、横岡水神山より牛尾山に亘渉する、大井川堤塘は、大阪落城の後、元和年間、徳川幕府に於いて設築して、堤内田園、人家を増加せしめ、洪水のため破堤すれば、時々循繕、以って危難無からしめ、人民郷里安居するに至りたる由。(中略)
※ 堤塘(ていとう)- つつみ。土手。堤防。

一 当時、牛尾山東南の地にて、大井川二流の頃は、山下にて流水を避くるの地、字宿通り、又本田新田など、東牛尾の地、及び近村島村の内、東島の地は、漸々新田畑開発、人家居住に至りたる由。この地、かつ牛尾山は、村号嚆矢の地なりと云う。当牛尾村内に於いて、道路を挟み、字宿通りと唱うる所有り。また、近村横岡の内、字城下、路傍に一里山と唱うる字地有り。大井川二瀬越しの頃、この地、東海道線地なりし由。(以下略)
※ 嚆矢(こうし)- ものごとの始まり。(先端に鏑(かぶら)という、飛行時に大きな音を出す装置を付けた矢。会戦の始まりを知らせる用具として使われた。)

金谷側の土手も島田代官の長谷川藤兵衛の瀬替えが完成するまでは、破堤、修覆を繰り返し、その間に牛尾の地にも入植する農民も増えて、最初は牛尾山の山陰から徐々に川下へと、新田開発が進み、入植した人家は洪水に備えた、舟形屋敷が造られた。
(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(7)

(渋柿37個1500円)

今朝、思い付いて渋柿を買いに行く。前回買ったより値段が高く、3軒回り、藤枝のまんさんかんで購入した。早速、半分を加工、残りは明日の加工とする。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

ここで元亀年間前後の、当地方の群雄の動きを見てみると、

永禄12年(1569)今川が武田と徳川に挟撃され滅亡。駿河は武田に、遠江は徳川の所領となる。武田、この年に「金谷城」を築城。諏訪原城と同一かどうかは不明。
元亀元年(1570) 
   2年(1571)信玄、高天神城を攻撃。
   3年(1572)家康、遠江三方ヶ原の戦いで武田勢に大敗。
   4年(1573)信玄は病死。武田勢諏訪原城築城。
天正2年(1574)武田勢、高天神城を手中に。
   3年(1575)長篠の戦いで武田勢が敗走し、その勢いに乗って、諏訪原城も徳川勢に落ちた。

昨日、最後の一文を詳しく読んでいく。

元亀年間、甲州武将、武田氏出軍、駿河今川氏真を討ち敗(やぶ)り、駿河を攻め取り、遠州に出軍、榛原郡諏訪之原、本名、布引ヶ原に新城を設築するに至り、
※ 元亀年間(げんきねんかん)- 1570~1573。
※ 今川氏真(いまがわうじざね)- 戦国大名今川氏最後の当主。


年号など、少しずつずれも見えるが、おおよその話と読めば、大きな問題ではないだろう。布引ヶ原(ぬのひきがはら)は、現在は牧之原台地の一部の地名だが、かつては牧之原の全体の呼び名だったのだろう。牧之原台地を東方(島田側)から見れば、大井川の向こうに、現在でも、平らな台地が続いていて、確かに、「布引」(布をさらすために、広げて引っ張るさま)と見えないこともない。

軍兵、進退の自由、また新田地開発の利を執り、相賀村の本に於いて、大井川河線を横遮する細亘山脈を切り貫き、河線の流條を直流せしめ、横岡村水神山より牛尾山に到る元河川地、一度(ひとたび)築堤、流水を遮断して、
※ 横遮(おうしゃ)- 横にさえぎること。
※ 細亘(さいこう)- 細くわたること。
※ 流條(りゅうじょう)- 流れのすじみち。


新河川に流通せしめたる所、洪水に逢うて、忽ち新堤破壊し、これがため、新旧二河川流水の河條となり、大井川通路、二瀬越しとなる。
※ 河條(かじょう)- 河すじ。

ただ、武田勢が活動出来た期間は3年足らずであったと思われる。瀬替えが十分な完成を見る前に、武田勢は撤退を余儀なくされた。その結果、洪水で堤は壊れ、大井川は牛尾山を挟んで二流に別れ、大井川通路は二瀬越しとなってしまった。「二瀬越し」の表現を目にするのは初めてである。
(つづく)

読書:「情けの背中 父子十手捕物日記11」 鈴木英治 著
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(6)

(晩秋の城北公園)

駿河古文書会にて、静岡へ行く。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「系図及前代秘密先祖由来郷里舊記」の途中から示す。

当家は元来北川氏と称し、北川次郎左衛門、先祖にして、この地、大井川河原地を開発し、屋敷を設け居住し、数代の後、相続は継続せざる時に当り、同村、●●氏治右衛門方の子を以って相続し、この屋敷地に居住したるものにて、祖先の墳墓、祖霊を祭り来るなり。然る上は、北川氏を称して当然なれども、氏は●●氏を用い来たる所なり。

徳川幕府の治世、民間は特許を得るに非ざれば、氏号を称するを得ず。故に氏を称する麁略流僻有り。民間、平民にして互いに氏を記したる者、潜行多し。

※ 氏号を称するを得ず - 名字帯刀は特別な許可が無ければ許されなかった。しかし、旧家では、公(おおやけ)に使用出来ないだけで、名字を持つ家も少なくなかった。
※ 麁略(そりゃく)- 粗略。物事の扱い方などが丁寧でないこと。ぞんざい。
※ 流僻(りゅうへき)- 流弊。以前から世間に行われている悪弊。
※ 潜行(せんこう)- 人目につかないように行くこと。


ここでは、出自について、横岡の北川氏の分かれで、牛尾へ開墾に入植した、と記している。入植年を勘案すれば、これは、明らかに祖先を大坂夏の陣の落ち武者とする系図とは矛盾する。おそらくは、瀬替えにより開拓地が出来て、周辺の農家の次男、三男たちが分かれて、牛尾に入植したというのが真実だと思う。

そして、この後の記述を見て、びっくりした。「駿遠の考古学と歴史」で、まさに問題となっていたことの、ズバリ答えが記されてあったからである。

一 牛尾村は、元、潮村なり。牛尾山山端より潮水出ずる上(故)に潮村と称したる由。
一 牛尾山は、元、駿河山と称し、大井川河東、河北なる、駿州志太郡神座村、相賀村、山脈連亘し来たる山脈、山頭にして、旧時、大井川河北の地たり。

※ 連亘(れんこう)- 連なりわたること。長く連なり続くこと。

ここまでは、「瀬替え」前の地形の、通常の説明である。「連亘」などという漢語は江戸時代の文書には見られない。明治、大正時代の文である。問題はこの先にあった。

元亀年間、甲州武将、武田氏出軍、駿河今川氏真を討ち敗(やぶ)り、駿河を攻め取り、遠州に出軍、榛原郡諏訪之原、本名、布引ヶ原に新城を設築するに至り、軍兵、進退の自由、また新田地開発の利を執り、相賀村の本に於いて、大井川河線を横遮する細亘山脈を切り貫き、河線の流條を直流せしめ、横岡村水神山より牛尾山に到る元河川地、一度(ひとたび)築堤、流水を遮断して、新河川に流通せしめたる所、洪水に逢うて忽ち新堤破壊し、これがため、新旧二河川流水の河條となり、大井川通路、二瀬越しとなる。
(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(5)

(百メ柿をつつくムクドリ)

ムサシの散歩途中に、放置された百メ柿を、ムクドリが集って突いていたので、カメラで収めようと、集中していたところ、後ろから車、前からは散歩中の犬が止り、田舎道で渋滞を起していた。気付いて、道を空けて散歩を続けた。あとでデジカメを見たが、案の定、上手く撮れていない。

午前中に島田のまんさんかんで渋柿30個を1020円で購入。干柿に加工して干す。今までの合計で、109個となる。最初の60個は完成して、ビニール袋に9個ずつ入れ、カビ除けのワサビを添えて、冷蔵庫に入れた。袋が6つ出来た。しばらく、お天気が安定するので、干柿日和である。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

さて、「駿遠の考古学と歴史」講座が終って、帰宅後、講座の前、会場でU氏から預かった古文書を、早速、読み始めた。標題は「系図及前代秘密先祖由来郷里旧記」とある。「大正七年四月三十日」の日付も見える。これを作成した日付であろう。

その前文に、

一 当家は初め、元和年間の頃より、この屋敷地に居住し来たる所、家に生みの子無く、前代縁故の家より、継子を得、又は養子をもって相続し、家に存する旧時の記録、稀(まれ)なり。旧事を知るに拠(よ)るもの少なり。今に於いてかくの如く、自今将来、なおかつ旧事を視るに拠るもの無きに至らんか。我れこれを思う。この歳に有り、これに、系図及び前代秘密先祖由来郷里旧時既往を記録して、以って永く家に存する事を希(ねが)う。これを子孫幾世に伝えんと欲す。子孫なお経歴年間の事を録して、順次後代に伝えん事を望むと云うのみ。
※ 生みの子(うみのこ)- 自分の生んだ子。実の子。
※ 縁故(えんこ)- 血縁・姻戚などによるつながり。
※ 継子(けいし)- 自分の子で、血のつながりのない子。実子でない子。
※ 自今(じこん)- 今からのち。今後。
※ 既往(きおう)- 過ぎ去ったこと。過ぎ去った昔。
※ 経歴(けいれき)- 実際に見聞きしたり体験したりすること。経験。

            榛原郡五和村牛尾区
 大正七年四月三十日           ●●乙吉
            筆者 同村横岡  北川周助

※ 牛尾区 - 現、島田市牛尾。牛尾山の南の田園地帯(今は人家も増える)で、瀬替えに最も近く、瀬替えの恩恵を受けた地区である。

●●乙吉はU氏の祖父の名前である。御子孫が特定出来てしまうので、名字はふせておく。筆者の北川周助という人は、乙吉の親しい友人で、横岡村の戸長役や、五和に初めて出来た五和学校の学区取締を務めた人だという。U氏の祖父は根っからの百姓で、書くことが得手ではなくて、友人の北川周助氏にこの書の取り纏めを頼んだのであろうとU氏は言う。

この文書の系図部分では、大坂夏の陣で大坂城落城の際、逃げ延びた諸将が、牛尾の入植者たちの御先祖だと、各戸に各々に武将の名前が結び付けられている。この辺りの話には、信憑性がほとんどないと思われるので、ここでは割愛する。ただ、元和元年(1615)に入植したという記述は、大坂城落城の年に附合しているが、間違ってはいないと思う。
(つづき)

読書:「蛮政の秋」 堂場瞬一 著
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(4)

(散歩道の土手に咲くアサガオ)

めっきり寒くなってきた。もう晩秋の気温ではなかろうか。夕方、土手にアサガオの花を見つけた。朝は散歩しないから、アサガオを見ることはほとんどないのだが、健気に夕方まで花を保っている。遅くまで店を開いて、受粉出来たのだろうか。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「大井川町史」の、長谷川藤兵衛長盛の事蹟に触れた部分は、「志太地区人物志」によるとあったので、その本を図書館で借りて読んでみた。「志太地区人物志」には、長谷川藤兵衛長盛については、次のように書かれている。

さて、先ず初代長盛のことであるが、天正年中、中村一氏が駿府守護に任ぜられて、同十八年大井川流域治水事業をなすべく、大長村相賀字赤松地先開墾の画期的大事業を開始するに当り、深い関心をもっていた長谷川藤兵衛長盛は名実ともに、よりよき協力者となって働らき、当時山ふところを安住の地としていた笹ヶ久保の住民に対し、河道変改による対策として、保護と移転に万全の指導に当り、官民両面から深く感謝された。殊に幕府はこれを賞して、その褒美に八倉山を下賜された。

けれども名利を欲せず、庶民の福利増進を希う外、何物もなかった長盛は、この恩賞を自己のものとするに忍びず、直ちにこれを伊太村へ共有林として寄贈したので、爾来この山は伊太村の村有林となった。


「志太地区人物志」は昭和32年発行の本で、著者の青島鋼太郎氏は昭和2年から16年まで、青島町長を務めた方だという。青島町は昭和29年に周囲の町村と合併して藤枝市となっている。「志太地区人物志」は大井川から宇津ノ谷の山までの志太地区で、江戸、明治、大正、昭和に活躍した、200名を越える人たちの功績を記した本である。

「志太地区人物志」の記述も、「瀬替え」については、「掛川誌稿」の呪縛から逃れられず、それを長谷川藤兵衛長盛の功績の中に取り込んでしまったために、矛盾を含んだ記述になっている。

元々、志太郡大草の郷土であった、長谷川藤兵衛長盛は、家康に仕えて軍忠を尽くしため、島田代官を命ぜらた。家康に重用された長谷川藤兵衛長盛が、「志太地区人物志」では、いつの間にか、中村一氏のもとで、天正の瀬替えの協力者となっている。しかも、その結果、八倉山を褒美として下賜されたのは、幕府からであった。何ともちぐはぐな記述に疑問を感じたのだろう、「大井川町史」では八倉山の下賜のことは、中村一氏よりあったと書き直されている。

「掛川誌稿」の著者も、自分が記した推測が独り歩きして、「天正の瀬替え」という、歴史的事跡になってしまったことに、大いに戸惑っているのではなかろうか。(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(3)

(稲刈りが終った田んぼ)

晩稲の田んぼなのだろう。ようやく稲刈りが終った。天日でこのように干すのは今では少なくなってしまった。しかし、天日で干す方が太陽の恵みを最後まで頂き、きっと一味も二味も旨くなって仕上がるはずである。

午後、会社勤めの頃の先輩、U氏が見える。古文書解読のお礼を頂く。こちらが楽しませて頂いたのに、恐縮した。牛尾のU氏の実家へも解読したものを届けて、大変喜んで頂いたという。そんなお話を聞くだけで、十分であった。明後日から、いよいよU氏の古文書がこのブログに登場する。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

目から鱗が落ちるとは、こんな思いを言うのだろう。受講後、自分なりに考えてみた。世は、天下分け目の関ケ原の戦いの10年前、まだ戦国の世の色濃い時代である。着任したばかりの中村一氏が、民政のために、こんな大工事を企てたとは、とても想像できない。

今まで「天正の瀬替え」の講演を聞いて、どうにも納得できない疑問が幾つかあったが、どの講演も、その疑問に答えてくれるものではなかった。講演される先生方も、当然そんな疑問を感じておられるはずであるが、そこへは言及を避けておられるように思われた。

それらの疑問は、
1.中村一氏にとって、大井川は領国駿州の西の端で、隣国の掛川(山内一豊の領国)との境あった。未だ戦国の火種があちこちのくすぶるこの時代に、そんな遠隔地で、微妙な地域に、大河の瀬替えという大工事を発案した動機が想像できない。

2.工事をすれば、志太郡の水害は少しは減るかもしれないが、決定的な対策であったとはとても思われない。現に慶長の大洪水(1604)で、島田宿は壊滅する。

3.瀬替えにより、牛尾山5町歩の畑は山内一豊の領分となり、新たに新田開発が可能な五ヶ村も山内一豊の領分となり、中村一氏には何もメリットはない。

4.どうして、中村一氏の功績を記す文書が全く見つからないのか。多くの史書が論拠に置く「掛川誌稿」も、言い伝えとして記しているにすぎない。

天正の瀬替えについて、もう一つ注目すべき、「大井川町史」の記述がある。どの講師であったか、それに言及された方がいた。「大井川町史」は、天正の瀬替えについて、まずは通説の通り、前述の「掛川誌稿」を引用して述べたあと、次のように記されている。

中村一氏の駿府在城期間は、天正十八年(1590)八月から慶長六年(1601)二月まで10年余のことで、年次は明らかでないが、この間に相賀山と牛尾山(駿河山・弁天山)の間の凹地を開鑿し、旧河流を堤防を築いてせきとめ、河道を現在のように変えたのであろう。

右岸は山内一豊領であったが、一豊にしても旧河道開発の便があり、事実これによって横岡・牛尾・竹下・番生寺・島の五か村の誕生を見、また左岸を領する一氏にとっても、潮山が山内領に入ることとなるものの、河流が島田河原を直撃するのを防ぐという利点があって、両者の利害の一致がこの大工事を成し遂げることができたのであろう。

当時野田村に居を構えていた、家康の代官長谷川藤兵衛長盛も、この事業に協力し、恩賞として八倉山を一氏より下賜され、伊太村共有林として与えたという。


つまり、天正の瀬替えの後、江戸時代になって、その工事を完成させた人として、長谷川藤兵衛長盛を挙げている所が、他のものに無い記述であった。(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(2)

(大代川土手のススキ)

台風が去り、北風を呼んだ。快晴だったが、寒い日になった。東京、大阪では「木枯らし一番」だという。ススキは次々に穂を出して、土手を覆う。これぞ日本の晩秋の風景である。

干柿、21個を加工したが、内2個は熟し過ぎて、加工をやめて、熟柿として頂こうと思う。で19個を加え、今年の干柿、79個となった。最初の60個はこの雨の一日、3分の2は冷蔵庫に入れておいた。廊下に置いた3分の1からは、少し黴が出て、早速焼酎で処置した。しかし、冷蔵庫に保管したものは黴も出ずに、一緒に日に当てた。あと3日ぐらいで出来上がるだろうか。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「島田市史」の史料的な根拠としては、「掛川誌稿 巻11牛尾村(1839)」がほとんど唯一のものである。「掛川誌稿」には次のように書かれている。

潮山  山上、方五町、五十石余の畠あり。これは昔、相賀村より続きたる駿河方の山なり。昔は大井河、この山に衝き当りて西に折れ、山と横岡の間を流れ、南、金谷の河原町を経て、東南、島田の方に流れしを、直に北より南に流さんために、この山を切り割りて、遠江方に属せり。それより山と横岡の間に堤を築き、大井河の跡を開鑿して、遂に五ヶ村の田地と成せり。或る云う、この山を切り割りたるは、天正十八年の事なりと。

按に、この年八月、東照宮、江戸の城に移らせ給い、豊臣家の中村式部少輔一氏、駿府に移り住して、大いに外堀を広うし、また種々力政を勤む。因って意に、この山の切り割りは、中村氏の手に成りし故に、その府城に移れる年を以って言い伝えたるなるべし。


「掛川誌稿」には、よく読むと、瀬替えを天正十八年と聞いたことが書いてあるだけで、中村一氏の名前は、「天正十八年」から著者が推測したことに過ぎない。だから、「掛川誌稿」は中村一氏が瀬替えを行ったとする証拠の史料にはならない。つまり、この日の「駿遠の考古学と歴史」講座の論旨は、「中村一氏による『天正の瀬替え』は無かった」という、今まで誰も述べなかったものであった。

中村一氏は天正十八年、駿河一国を領国としたが、駿河を4つに分けて、三枚橋城/中村氏次、興国寺城/河毛重次、田中城(藤枝)/横田村詮とそれぞれ重臣を置き、分割支配した。現在、中村一氏の発給文書は10点ほどしか伝わっていないが、横田村詮の発給文書は100点を越える。それらの文書から判断して、志太郡の領国支配は、ほぼ横田村詮に任されていたと思料される。しかしそれらの文書の中に、「天正の瀬替え」を匂わせる文書は皆無である。「駿遠の考古学と歴史」では、山内一豊と中村一氏の生涯についても解説された。その生涯は「天正の瀬替え」とは全く接点のない生涯であった。

最後に、曽根辰雄氏は、地元から決定的な古文書が出て来れば、歴史が書き換えられるのだがと、それを期待する言葉で今日の講座を終えられた。
(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(1)

(法要のあった寂照寺/伊勢市中之町)

長兄の嫂(あによめ)の49日の法要で、夫婦で伊勢に行った。先週に続く台風22号の動きを気にしながらの伊勢行であった。朝、五時半に出て、雨の中を走り、八時半には伊勢に着いた。3時間、新東名、湾岸道、東名阪、伊勢道と、ずっと高速道路を走って、無駄がない。

帰りは台風と追っ掛けっこの、豪雨の中を帰った。カーラジオで、10分置きくらいに臨時天気情報が入り、進行の前後を、大雨、雷雨、洪水、竜巻の警報が追っ掛けてきて、気忙しく走った。午後一時前に伊勢を出て、午後4時には帰宅した。夜には、台風は東海地方の南岸を東へ抜けた。

昨夜、朝が早いからと、早めに床に就いた。ところがなかなか寝られず、思いが色々と廻った。その一つが、わが郷土史の通説を覆す、歴史的発見についてで、しばらく前から調査をしていたのだが、おかげで、ブログにまとめてみようと、決心がついた。素人の考えなど、歯牙のも掛けられないだろうが。

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  知的冒険 天正の瀬替えの真実

先だっての土曜日(10月14日)、金谷宿大学の「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した時の話である。

講座の前に、会社勤めの頃の、町内牛尾出身の先輩U氏が、その会場にひょっこり顔を見せた。U氏は毎月同じ時間に、同じ会場の別の部屋で、墨絵の講座を受けている。前回の講座の時に顔を合せ、U氏家蔵の古文書を解読して貰いたいとの依頼があった。近頃はそんな話が多い。頼まれれば、勉強にもなるから、必ず受けて、報告書にまとめ、御返しすることに
している。

その場で、パラパラと見せて頂いた。大正時代に記された、U氏の系図と地元の歴史を記したもので、筆書きながら楷書でしっかり書かれている。B5の用紙で40枚ほどのコピーであった。そんなに難しいものではないと思って預かった。今や、大正時代の文書も、100年近く経つわけで、立派な古文書である。

その日の、曽根辰雄氏の「駿遠の考古学と歴史」講座のテーマは、「山内一豊と中村一氏」、副題として「豊臣系大名の治政と『天正の瀬替え』をめぐって」となっていた。「天正の瀬替え」は、当地、金谷にとっては、町の成立にもかかわる重要な歴史で、今までに、歴史や郷土史の先生方に、何度か講演などでお話を聞いていた。このブログ上でも、その講演内容を何度か取り上げた記憶がある。

「天正の瀬替え」の通説は、「島田市史 中巻 1968年」の記載の通りで、次のようなものである。


(「天正の瀬替え」関連地図/掛川市パンフより)

大井川の流路は昔は横岡と相賀の間を流れ、牛尾山(相賀山または駿河山ともいう)へ突き当り、西へ折れ、横岡と牛尾山の間を流れて、河原町(金谷町)を経、持淵山に当って北に走っていた。このため持淵山の東地続きである鎌塚村の大井川に沿った平坦な山裾は耕地であったけれども、天正18年(1590)、この流路が変った。

その理由として、‥‥中村式部少輔一氏が駿河の国を領有するに当って牛尾山(駿河山)を開鑿して河道を変更したといい、また相賀山と牛尾山との間に低窪の場所があり、その東に当って大きな池沼があったので、大雨や大水の時にはこゝが流路の一筋となっていたといい、さらにこの場所へ人為を加えて分流したのを広げたものであるともいわれ、一方ではその場所が自然欠(決)壊して河道となったとも伝えられている。

(つづく)
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伊久美犬間地区フィールドワーク 2

(伊久美村の役場があった犬間公会堂/左上隅にセンダンの大木が見える)

(昨日のつづき)
引っ返して、犬間集落の中心部に建つ犬間公会堂に、トイレ休憩に立ち寄る。そこはかつて伊久美村の役場があった場所だという。公会堂前のセンダンの大木は、当時からあったものだという。

こんな山奥の集落にどうして役場を置いたのだろう。今から思うと不思議に思うが、明治のころの伊久美村では、徒歩以外の交通手段はなかった。ここは交通の要所で、明治21年の市町村制度の発布で、伊久美村(小川、犬間、長島、身成)、笹間渡村、笹間下村を統合して、そのほぼ中央に位置する犬間に設置されたという。犬間からそれぞれの集落へ山道が通じていた。


(心月堂の扁額/なかなか「心月堂」とは読めない)

次に、公会堂からほど近い心月堂を訪れた。犬間村には心月寺という大草の曹洞宗天徳寺の末寺があったが、廃寺になり、その跡に心月堂というお堂が建ち、本尊の地蔵菩薩が祀られていた。心月堂は一時犬間の寺子屋として使われたこともあるらしい。現在、真新しい立派なお堂が建っているが、年に一回、施餓鬼法要が行われる、その一日だけ使われるのみだという。

心月堂の周りには歴代住職の墓石やら、如意輪観音、馬頭観音などの摩耗した石仏が埋まっていて、近年地区の住民により掘り出されて供養されていた。


(まつんばのお地蔵さま)

犬間より南へ下って、三叉路の角に「まつんばのお地蔵さま」の小さな祠があった。よく見ると、右横に「小川 地蔵尊」と刻まれていると、講師の話で、「小川」はこの上流にある集落で、さらにその先の藤枝に繋がる桧峠には地蔵堂があったから、その道しるべなのだろうと説明があった。「小川(こがわ)のお地蔵さん」と言えば、焼津の海蔵寺をすぐに思い出すので、そんな話をしてみたが、駿遠豆に広く知られていたとはいえ、この地蔵をそれに結びつけるには無理があると、帰宅してから思った。

この「まつんばのお地蔵さま」は、雨乞いの時には水の中に入れて祈ったという。これから下る道があって、伊久美川に架かった兵坂橋に出るという。今では利用されなくなって、通行止めになっており、今後、取り壊される予定というが、雨乞い時はその伊久美川までお地蔵さんを運んだのだろうと想像した。伊久美川には最も近いお地蔵さんである。

犬間橋バス停まで戻って約3時間のフィールドワークは終った。名前も知らない色々な人たちと、道々話が出来て、とても楽しい散策であった。

読書:「味の船 小料理のどか屋人情帖9」 倉阪鬼一郎 著
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