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山崎久麻呂 大地震の記 5

(散歩道のシキザクラ、一昨日撮影)

季節は移って、朝晩は半袖では寒く感じるようになった。シキザクラも咲き始めるわけである。

朝、パソコンの前に胡坐をかいていて、蟻に膝横を咬まれた。ちくっとして、どこから入ったのか、中くらいの蟻が一匹いた。すぐに虫刺されの薬を塗って置いたが、腫れる事は無いものの、時々忘れたころに、膝横にピリッと感じる。わずかな蟻酸が、こんな影響を残すとは、想像していなかった。

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「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を続ける。

諸士の家々、傘取坂より西は壱軒も残らずつぶれ、東はつぶれたるも有り、半つぶれに成りたるは、東はずれまで残りなし。町方は十九首より新町まで、一円につぶれ、所々より出火、惣(すべ)て焼失する内に、十九首東橋より、下俣十王は焼けず、つぶれたるばかりなり。西町番所より東は一円焼け、町中に土蔵三つ、ころばずに立ち居り候なり。惣て見加野の坂下まで、山口村まで、往還に立ち居る家は壱軒もなしと言う事なり。伊達方よりは、七、八分方は立ち居るなり。

袋井宿、原川者丸焼なり。海道筋、橋は残らず落ちるなり。森(森町)は焼けず、つぶれ家も少なきよし。山梨はつぶれたる中に、西尾藤左衛門より二、三軒上(かみ)より、北はずれまで焼け、下(しも)はつぶれたるばかりなり。この外、在々所々、つぶれ家算(かぞ)え難き事なる中に、飯田村、五郎右衛門、五郎兵衛、彦兵衛など、大家(たいけ)、皆なつぶれ、その中に、彦兵衛焼け、女房死す。
※ 大家(たいけ)➜ 大きな家。りっぱな家屋。

さてまた、桁(けた)、張(はり)、その外の木に敷かれ、但し、外へ出候者も、数多(あまた)、逃げる先々、跡より焼け来たる故、掛川中(死亡)人数、町奉行所へ、七拾八人と云う事なり。この外、他国より来たり居る、商人、旅人、泊り居る人は、死亡分らざるなり。袋井は猶(なお)多く、死亡人多し。廉(かど)屋などにては、家内十二人の処、壱人助かりたるばかりなり。横砂も掛川に異(ことな)らざる由。然れども、御天守は崩れず。町方も西本町まで焼け、外は焼けず。死亡人は弐拾八人という。
※ 横砂(よこすな)➜ 横須賀。遠州、横須賀藩の城下町。

東海道筋は、箱根御番所地震強き、山中の駅はつぶれたるよし。三嶋、大屋(おおや)残らず焼け、蒲原同断。府中は半分焼け、立ち居る家も多きという。江戸は宅に居候もの、外へ逃げ出で候ばかり、せとものや(瀬戸物屋)見世(店)へ積み並べ置きたる品は、残らず落ち割れたる位の事。
※ 大屋(おおや)➜ 大きな家。

(「山崎久麻呂 大地震の記」解読、つづく)

読書:「風の二代目 小料理のどか屋人情帖28」 倉阪鬼一郎 著
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山崎久麻呂 大地震の記 4

(散歩道の黄色のリコリス)

リコリスはヒガンバナの仲間である。

OEさんの残った課題、「當代記」は解読終り、「信長公記」に入る。何れも依頼より余分に、元亀三年の分の記事を読むことにした。

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「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を続ける。

中飯(ちゅうはん)を下男まで喰い、さて下手(しもて)を見る。掛川辺と覚えて、二、三ヶ所火の手上り、午未(うまひつじ)の方角へも、黒煙り立ち上り、未申(ひつじさる)の方へも、西の方へも煙り立ち上り、然る処、掛川御蔵納めに行きし、八郎右衛門馬、弥兵衛馬、九兵衛馬も帰りける。火事は何所(どこ)なるやと、尋ねければ、命からがらにて帰り候えば、聢(しか)と見定め申さず。馬は驚き、道割れ、九兵衛馬盤、割れ目前になど致し、見合わせ、見合わす所に震れ、目立て、たたずみ、漸々(ようよう)帰り申し候と答えるなり。
※ 中飯(ちゅうはん)➜ ひるめし。昼食。
※ 午未(うまひつじ)➜ ほぼ、南南西の方角。
※ 未申(ひつじさる)➜ 南西の方角。
※ 目立て(めたて)➜ よく気をつけて見る。注意して見る。


掛川辺と見えて、次第/\に、所々へ火の手上り、肝(きも)も魂(たま)も消ゆとは、この時なり。地割れるに付、大庭の真中は、何方より家転びても障(さわ)りなき故、小なる木を並べ、板を掻き付け、六、七畳敷、屋根鳥羽ぶきに、板にて葺き、同板にて囲い、(くど)壱つ持ち行き、これにて煮焼きを致し、住まうなり。
※ 鳥羽ふき(とばぶき)➜ 苫(とば)葺き。藁や茅で一時的に葺いた屋根。
※ 竃(くど)➜ かまど。へっつい。


翌五日は、時々折々、地震せしなり。それよりも鳴音の夥(おびただ)しき事、弐百目、三百目の大筒、火矢(ひや)を撃つ音よりも、鳴り響きする事、恐ろしきなり。
※ 火矢(ひや)➜ 火薬をしかけて発射する火器。

同日、所々噂(うわさ)聞くに、第一、掛川は天守三階の所、上壱段崩落、石垣は残らず崩れ、御殿通一円につぶれ、御門は追手(大手)を始め、二ノ門、中西門、不時の門、北門、二藤門、御玄関下門、その外にも、櫓(やぐら)など崩れ、莚(むしろ)の門とて、小き門残りたるばかり。
※ 不時の門(ふじのもん)➜ 通常されず、死体などを運び出す時だけ使用される門。

(「山崎久麻呂 大地震の記」解読、つづく)
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山崎久麻呂 大地震の記 3


(電線上のモズ、まだ幼鳥のようだ)


(こっちを向いた)

家の前の茶畑を横切る電線の上に、この時期、毎日のようにモズが止って、地鳴きする。ここがお気に入りの場所なのだろうか。去年も一昨年も見かけたような気がする。幼鳥ならそんな訳ないが。

午後、女房と散歩する。涼しいくらいに気温が下がり、いよいよ秋の到来である。

夕方、OEさんから電話があった。コロナの前、入院するような話を聞いていたが、4月に恐々入院、コロナに院内感染もなく、手術も成功だったと聞き、安心した。作業は順調に進んでいるようで、補充の解読の依頼を受ける。

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「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を続ける。

(よめ)は弟の豊介を、手を引きながら、大庭を度々転びながら、門の西の籔へ逃げ行く。兄の富丸と、清太夫、子、久米吉、手習いに来たり居りけるが、両人ながら、九才なれば、恐ろしくも思わで、あら面白き地震と言いて、大庭中を恐(おそ)れ廻りけるが、壱度も転ばずに駆け廻りけるが、段々恐ろしく成りしや、共に薮の中へ逃げ行くなり。

(よ)は少し静まりし時、火を消さんと思い、内へ入り見れば、(くど)に火あり。手桶にある水を竃(くど)へ掛け、茶の間に、大火鉢に、堅木(かたぎ)炭起しある故、外へ持ち出さんと、漸々庭まで持ち出しける。また大いに震(ゆ)れ来たる故、外へ逃げ出す。また治まりけるに付、内へ飛び込み、彼の火鉢を漸々(ようよう)と大庭の真中へ引き出す。風強き故、盥(たらい)をかぶせ、同薮へ行き居り候処、式部は八左衛門方より出、相谷口縄手(なわて)まで帰りけるに、道震(ゆ)れて歩行出来難く、両方の田の水打ちかかり、目を明けるもならず故に、道に伏し居りけるに、田へ転び落ち無きとする故、道、下駄の跡有る処へ、しっかと爪を掛け居り候由。
※ 竃(くど)➜ かまど。
※ 堅木(かたぎ)➜ クヌギ・ナラ・カシ・ケヤキなど、 質の堅い木材。
※ 縄手(なわて)➜ 田の間の道。あぜ道。


少し治まる故、飛ぶが如く走り来たりし時、我らも事を案じ、門外へ出で見居り候なり。郷蔵(ごうぐら)の東へ来り見えければ、先ず、彼(式部)も無難なりと思い、彼(式部)も親父・子供は、もし怪我などしつらんと、事を案ず処、門(もん)・本宅立ち居るを見て、安堵して掛け来たり候と申す事なり。

なお震動する事、夥しく、地なども薮も不安心なる故、子供を連れ、上の山へ上がらんと登りけるに、式部、門内へ来、「木が転ばん。山はよろしからず。門外の東の、薮岸へ行くべし」と呼びける故、また家内残らず、ここへ行き、西へ戸板囲いをして、火鉢を持ち行く。

(「山崎久麻呂 大地震の記」解読、つづく)

読書:「花明かり 深川駕籠 3」 山本一力 著
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山崎久麻呂 大地震の記 2

(赤蜻蛉群れて飛ぶ、9月24日撮影)

飛んでいる赤蜻蛉が写せるか。何度か試して失敗して、何と写った。青空に、12頭は確認できる。

午後一時過ぎ、地震。表に飛び出すべきかと思ったが止んだ。震源地は静岡県西部、最大震度4。当地の体感震度は2か3位と思う。地震を体感するのは久しぶりである。

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「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を続ける。

さてまた四月、京都には仙洞御所(せんとうごしょ)より出火。禁裡御所へ飛び火、同時に御焼失。摂家(せっけ)、清宮、尊堂の御舘(やかた)九軒、その外、月卿雲客(げっけいうんかく)多く類焼。町数百廿五町焼失。また六月十四日(嘉永七年か)伊勢、伊賀、大和、河内大地震、殊更(ことさら)、四日市などは人民多く焼けて、その数、算(かぞ)え難きよし。伊賀の上野御城まで崩るゝよし。信州善光寺辺の地震に(ついては)筆にせず。兎角(とにかく)、公儀は勿論、諸大名、籏本衆まで、御物入(ものいり)少なからず。米直段十三、四俵(十両に付)、或いは、十七、八表にて、弐拾俵内。往還役、助郷、人馬多く掛り、今年などは、高壱石目に付、往還役九百五拾文もする。下(しも)も難儀至極なり。
※ 仙洞御所(せんとうごしょ)➜ 太上天皇・太上法皇・上皇など退位した天皇の御所。
※ 禁理(きんり)➜ 正しくは、禁裡。天皇の住居。皇居。禁中。御所。
※ 摂家(せっけ)➜ 摂政・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家そ指す。
※ 月卿雲客(げっけいうんかく)➜ 公卿と殿上人のこと。または、高い身分の人のこと。
※ 筆にせず(ふでにせず)➜ 記さない。書かない。
※ 物入(ものいり)➜ 費用のかかること。
※ 往還役(おうかんやく)➜ 往還掃除役。往還筋の清掃を村ごとに割り当てた、江戸時代の夫役の一。遠い村はお金で納めることが多かった。


(そもそも)、十一月四日、西風強く吹き、朝五ツ六、七分時に、娵(よめ)佐和は玄関に針仕事して居る。孫富丸九才、弟豊助は六才、手習せしが、水取りに庭まで出居る。、久麻呂は座敷に書き物して居る。忰、式部は村方の八左衛門方へ、用事有りて行き、下男伊之八は垣根笹取りに西の宮裏、弥兵衛薮へ行くなり。然るに、大きな鳴音(めいおん)して、地震仕かゝり故、佐和大声に「地震入(い)らすぞ、子供外へ出よ」と呼ばわりながら、大庭へ子供一同出る。続いて、予も玄関へ出、敷台を下し、時にすっころび、また起き返らんとせしに、また転びし。這いながら三尺ばかり出で見れば、玄関西の塀、東へ転び、今弐、三尺出でざれば、塀の下へなるべきに、怪我なしに出、大庭の真中に這い行く。見返し見れば、本宅並びに、東、味噌部屋、雪隠(せっちん)など、前、長屋門など、今に崩れつぶるゝかと震(ゆ)れるなり。然れども、長屋門、雪隠は土台作りなる故か、震れ様少く、且つ、大船の荒波を乗る如くになるのみにて、動き少なし。
※ 予(よ)➜ われ。自分。
※ 敷台(しきだい)➜ 玄関先に設けた板敷きの部分。
※ 雪隠(せっちん)➜ 便所。
※ 震連る(ゆれる)➜「震」は「ふるう。ふるえる。」と読む。ここでは「ゆれる」と読んでいる。以下同様。
※ 土台作り(どだいづくり)➜ 建物を乗せる基礎の部分を作ること。

(「山崎久麻呂 大地震の記」解読、つづく)

読書:「赤猫狩り 剣客同心鬼隼人 6」 鳥羽亮 著
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山崎久麻呂 大地震の記 1

(散歩道のキバナサフランモドキ)

来月2日より駿河古文書会が再開すると電話があった。コロナ禍で、半年、会が開けなかった。担当の2班の皆さんに再開通知の電話をした。

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今日より「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を始める。本古文書はST氏から解読の依頼を受けたもの。なかなか難解な部分もあり、時間もかかりそうなので、このブログ上で解読をさせていただく。これも安政大地震の記録である。山崎久麻呂という人物がどういう人か、まだ判っていないけれども、名前からすると、掛川在住の神主か、国学の徒であろうと思う。山崎は掛川では多い名字で、旧家もあるから、そういう一門かと思う。

  嘉永七寅は十二月、年号御改元有りて、安政元年(1854)と成る。

    大地震の記

  当山崎家廿二代、久麻呂代なり。


天地開けて、末世無窮(むきゅう)の中には、世に治乱有り。上(かみ)、公卿より、下(しも)衆人(しゅうじん)に至るまで、浮沈(ふちん)有り。また祝満(しゅくまん)危難有る事は、吉事(よごと)禍事(まがごと)いつき(斎)替わる事は謡類により、故由(ゆえよし)は、神代(じんだい)の書に見ゆるなり。
※ 無窮(むきゅう)➜ 果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
※ 治乱(ちらん)➜ 世の中が治まることと乱れること。
※ 衆人(しゅうじん)➜ 普通の人。世間一般の人。
※ 浮沈(ふちん)➜ 浮き沈み。
※ 祝満(しゅくまん)➜ 祝いごとが満ちていること。
※ 吉事禍事(よごとまがごと)➜ めでたいことと、凶事・災難。
※ いつき(斎)➜ 身心を清めて、神に仕えること。また、その場所。
※ 謡類(ようるい)➜ 謡(うた)いの類。
※ 故由(ゆえよし)➜ いわれ。由来。わけ。
※ 神代(じんだい)➜ 神が治めていたという時代。 日本神話では、神武天皇の前までの時代。神話時代。


時に、嘉永七寅の十二月、年号改元有りて、安政元年となる事は、十ヶ年已来(いらい)、御国に凶事多く、信州大地震、人民多く死に、誠(まこと)に大変の事。江戸両御丸御焼失、西の御丸は両度の事。また異国船、度々渡来。去る嘉永六年、七年、大船四、五船、浦賀より乗り入る。また、伊豆下田、長崎、大坂へも、阿女利賀(アメリカ)、於呂志弥(オロシャ)、伊支利須(イギリス)船来たり。種々願い事するよし。諸家様方、大騒動。御物入り、少なからざるよし。
※ 両御丸(りょうおんまる)➜ 本丸と西の丸を指す。

(「山崎久麻呂 大地震の記」解読、つづく)

読書:「八万石の風来坊 はぐれ長屋の用心棒 16」 鳥羽亮 著
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「松のさかへ」を読む 33

(我が家の玄関に住むアマガエル)

玄関の網戸にアマガエルが一匹。網に体色を合わせて、灰色になっている。

朝から駿河古文書会の会報の原稿を書く。午後までかかって、約1800文字の原稿を仕上げた。二、三日置いて熟成した所で、もう一度見直すつもりである。

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「松のさかへ 黒田長政公御遺言」続ける。

さてまた、筑前拝領の前、四国筋にて、両国も下さるべきや。また筑前にて一国下さるべきや。また筑前は古来探題(たんだい)の所にて、各(おのおの)別の国なれば、我らを差し置かれたく思し召し候様内存(うちぞん)、御尋ねの由、本多中務を以って仰せ聞けられ候。我ら申し上ぐは、両国は望み奉るべきことに候らえども、かくの如く天下平均(へいきん)に成り候間、日本国中において、家康公に敵(かない)し、背き申すものあるべからず。差したる御奉公申すべき時節有るまじく候。
※ 探題(たんだい)➜ 鎌倉幕府は西国(九州)の統括のために鎮西探題を設置して、行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。室町幕府は九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。
※ 内存ず(うちぞんず)➜ 心の内で思う。内々に所存する。
※ 平均(へいきん)➜ 平定すること。統一すること。


筑前は大唐(だいとう)渡口(わたしぐち)にて、殊に探題所にても候らえば、他の両国にも増し申し候と存じ候。大唐の御先手と思し召し、筑前を下され候わば、本望たるべき由、申し上げ候えば、思し召し、上意に相叶い候由にて、筑前の国拝領仰せ付けられ、外に如水へ別段領地下さるべく候。如水望み奉るべき由、御内意仰せ付けられ候らえども、如水老體(ろうたい)、聊(いささ)か領地の望みこれ無く、安泰に余命を終わり申したく候由、重々(じゅうじゅう)御断り申され、拝領なし。
※ 大唐(だいとう)➜ 中国の美称。
※ 渡口(わたしぐち)➜ 海や川で、渡し船の発着所。


箇様(かよう)の御約束とも、天下の老中も後代には存じられざる様に成り行くべしと存じ、申し置くなり。さて箇様の事を無分別なるものに聞かすれば、必ず公儀の御奉公をゆるがせに仕る事あるものなり。各家老ども、この旨相心得、必ず、我ら子供に申し聞かすまじ。但し、各方(おのおのがた)子孫の内、銘々家を継ぎ申すべきものばかりへ、密に相伝え申すべきものなり。この義、国元の家老どもへも具(つぶさ)に申し聞かすべきなり、以上。
   元和九年(1623)八月二日          長  政
※ ゆるがせに(忽せに)➜ 物事をいいかげんにしておくさま。なおざり。おろそか。

(「松のさかへ 黒田長政公御遺言」終る。「松のさかへ」はまだまだ続くが、巻一を終えるので、解読も終わりとする。)
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「松のさかへ」を読む 32

(散歩道の日限地蔵尊)

午後、女房と散歩に出掛ける。日を限って願い事をすると叶えてもらえるという、日限地蔵さんには、近くだから何度もお参りするが、未だかって願い事をしたことがない。お地蔵さんには、さぞや手間いらずの参拝客であろう。

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「松のさかへ 黒田長政公御遺言」続ける。

これは堅くあるまじき事なれども、万一、かくの如き次第なる事を、各(おのおの)にも語り聞かせ置き、さては如水、我らの忠義なるよりと合点(がてん)させ置きたく思うゆえ、かくは語り聞かすなり。武に於いて、偽りなし。更に広言(こうげん)にあらず。その時を見聞き候ものは、疑いなき事ども、各も存じの通りなり。ここを以って、家康公の天下を(し)給うは、我らを初め武勇誉れの大名ども、五、三人味方仕りたる故とは言いながら、つまる処は、如水、某(それがし)、弐人が力にあらずや。実(まこと)にも、関ヶ原御勝利申し上げ、家康公、某が手を御取り、今度の御利運(りうん)(ひとえ)に長政が忠義故なりと、上意(じょうい)有りしもこれなり。
※ 合点(がてん)➜ 承知すること。事情などがわかること。納得。
※ 広言(こうげん)➜ 無責任に大きなことを言い散らすこと。また、その言葉。
※ 知る(しる)➜ 支配する。治める。
※ 利運(りうん)➜ 戦いにおける勝運。勝利。
※ 上意(じょうい)➜ 主君や支配者の考え。


豊前(ぶぜん)六郡を転じ、筑前の国を賜いしは、誠に大分(だいぶん)御恩(ごおん)なれども、右の大功(たいこう)にくらぶれば、相当の御恩とは云い難(がた)かるべし。然れば、後代我らが子孫末々に至り、大いなる過(あやま)ち、国家の大事に及ぶとも、この大功を思し召(おぼしめ)さば、上(かみ)に対し逆心(ぎゃくしん)をさえ企(くわだ)て申さず候わば、その外の義は御免許(めんきょ)蒙り、筑前一国の安堵(あんど)は相違あるまじきと存じ候なり。右の趣、我ら申し置きたるよし、詳しくに申し述ぶべきなり。
※ 転ず(てんず)➜ 変える。移し変える。
※ 大分(だいぶん)➜ 数量・程度が普通よりはなはだしいさま。たくさん。
※ 御恩(ごおん)➜ 主君が臣下に対して与える恩恵。具体的には所領や種々の職(しき)を給与される。
※ 大功(たいこう)➜ 大きな手柄・功績。
※ 逆心(ぎゃくしん)➜ 主君に背く心。謀反の心。
※ 御免許(ごめんきょ)➜ おゆるし。
※ 安堵(あんど)➜ 中世・近世に、土地の所有権・知行権などを将軍や領主が承認すること。

(「松のさかへ 黒田長政公御遺言」つづく)

読書:「みれん堀 剣客船頭 13」 稲葉稔 著
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「松のさかへ」を読む 31

(散歩道のオオムラサキツユクサ)

出入りの大工さんに頼んで、カーテンレールを直してもらった。4連休に外れてしまったものである。合わせてクーラー三台の修理もやってもらった。女房の同級生の大工さんだが、今もメンテナンスを中心に、ぼちぼち仕事を続けているという。今では新築を大工さんに頼む人も居なくなったと話す。

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「松のさかへ 黒田長政公御遺言」続ける。

されば、如水(黒田官兵衛)、大阪方と申し遣(つか)わさば、清正悦び一味(いちみ)申すべし。その外、九州大名、島津、鍋島、立花などに至るまで、堅く大阪方なれば、西国一同し、如水、清正押し登らば、中国所々の軍勢など加わり、凡そ拾万騎に及ぶべし。上方の大勢(おおぜい)、この大軍一つに成り、家康公一人と戦わん事は、例えば、玉子の中に大石をなげうつが如し。
※ 一味(いちみ)➜ 一定の目的をもった仲間に加わること。

若し、万々一、家康公、御良将なれば、三河、遠江へ早く御打ち出し、不思議にも我々一戦に負けたるとも、同勢の大名ども志を変ずまじければ、中々関ヶ原敗北の躰に、きたなき負けはすまじ。仕損じたりとも江州辺へ引き取り、所の城を堅くし、島津を大阪に篭(こ)め、我らと浮田、伏見に相支え、家康公を待ち候においては、関東勢、瀬田より北方へ、つら出し成るまじく候。島津初め、歴々大阪に在りて、我ら伏見の城に居り。さてまた、西国より、如水、清正大軍にて後詰(ごづめ)せば、日本はさておき、たとえ異国の孔明大公項羽(こうう)韓信(かんしん)が来たり向かうとも、我が陣に対して勝利を得ん事思いもよらず。我が朝、近代の部将、信長、信玄、謙信などを、家康公を加えたりとも、無事にて引き取るが十分ならんか。然れば、家康公の御浮沈(ふちん)危うき所にあらずや。
※ 後詰(ごづめ)➜ 先陣の後方に待機している軍勢。予備軍。
※ 孔明大公(こうめいたいこう)➜ 諸葛孔明。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。「大公」は君主の一門の男子の称。
※ 項羽(こうう)➜ 秦末に、劉邦(漢高祖)と天下を争った英雄。
※ 韓信(かんしん)➜ 漢初の武将。項羽(こうう)に従ったのち、劉邦(りゅうほう)の将となり、華北を平定。
※ 浮沈(ふちん)➜ 栄えることと衰えること。うきしずみ。

(「松のさかへ 黒田長政公御遺言」つづく)

読書:「闇地蔵 剣客同心鬼隼人 5」 鳥羽亮 著
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「松のさかへ」を読む 30

(庭のサルビア・ミクロフィラ、一昨日撮影)

サルビア・ミクロフィラは春から秋まで、時を問わず咲いているような気がする。

午後、名古屋のかなくん母子が車で名古屋へ帰った。2時間と少しで、自宅へ無事到着のコールが入った。泊まっていたまーくんたちも、同時に掛川へ帰宅した。次に逢えるのは暮れから正月にかけてになるだろう。

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「松のさかへ 黒田長政公御遺言」続ける。

然れば、右の通り、某(それがし)諸大名をすすめ、島津、福島、加藤、浅野、浮田を先として、押して下らば、関東方より誰がこの者どもに打ち向い、快く一戦を遂げんや。家康公、弓矢の御長者(ちょうじゃ)と申すとも、御自分、先手(さきて)成さり候より外はあるまじ。万一、右の大名とも、たとい関東方にて、我ら上方勢に加わりたらば、毛利家と金吾中納言、その外の者どもも安堵(あんど)にて、無二の大阪方仕るべく候。島津、某(それがし)、浮田など、諸勢を働かし、先手として打ち出れば、岐阜の城責めはさておき、誰が美濃路にこれをたむべき、ほう/\関東へ引き取り候が上(じょう)仕合わせなるべし。これらをたやすく追い立つは、諸国の大阪方、日々に蜂起(ほうき)すべし。さあらば、家康公、箱根より西へ御出馬思いもよらず。
※ 長者(ちょうじゃ)➜ 統率者。
※ 安堵(あんど)➜ 気がかりなことが除かれ、安心すること。
※ たむ(溜む)➜ とどめる。とめる。
※ ほう/\(這々)➜ あわてふためいて物事をするさま。
※ 仕合わせ(しあわせ)➜ 事のなりゆき。


さてまた、西国にて如水(長政の父)と加藤肥後守申し合わすは、清正、無二(むに)の大阪なれば、同心(どうしん)は云うに及ばず。すでに豊後立石にて、如水、大友と合戦の時、肥後より大勢、大友加勢として差越し候えども、某(それがし)、着以前、義統(よしむね)を生け捕りし故、肥後どもの力及ばず。如水への加勢参り候由、使いを立て候えば、如水合点にて追い返し申され候こと、各(おのおの)存じたることに候。
※ 同心(どうしん)➜ ともに事にあたること。協力すること。また、味方すること。
※ 義統(よしむね)➜ 大友義統。大友宗麟の嫡男。戦国~安土桃山時代の豊後の戦国大名。大友氏の第二十二代当主。

(「松のさかへ 黒田長政公御遺言」つづく)

読書:「十五の花板 小料理のどか屋人情帖27」 倉阪鬼一郎 著
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「松のさかへ」を読む 29

(散歩道のカルガモの親子、昨日撮影)

カルガモ親子、子ガモは10羽以上孵ったはずだが、今残っているのは4羽である。歩留まりはそんなところであろうか。4羽残れば、残った方であろう。

夜、孫たち、こちらも4人が集合。巻きずしを作り、合わせて9人で夕食。食欲旺盛で、5.5合をほぼ完食した。この半年で、随分成長して、逞しくなってきた。今夜は孫4人、騒いでいたが、応接間で、ほぼ雑魚寝で休んだ。

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「松のさかへ 黒田長政公御遺言」続ける。

然れども、これらは珍ならざる事に候。第一某(それがし)智謀(ちぼう)を以って、毛利家並び金吾中納言を味方となし、これに付き、その外、味方仕(つかまつ)るもの多く相成り候。先達(さきだっ)て、美濃路へ駈け上がり候輩(やから)、多くは太閤御取立ての大名どもなれば、この時、我ら心を変じ、かくと進めば、福島、加藤、浅野、藤堂をはじめ、何れも悦び勇み、即日、大阪方と成るべき事案内(あない)の内なり。右の者ども上方勢に加わり、島津、毛利など先手(さきて)として打ち出るものならば、その外の東国勢、一戦に及ばず、敗北眼前(がんぜん)なり。その上、大略(たいりゃく)大阪方も日和(ひより)を見たる大名に、各(おのおの)(ことごと)く大阪方に参るべし。されば、家康公も、我らが心中お気遣い、□□□□(不明)りたる大部(たいぶ)先手(さきて)ばかり遣わされ、その後各(おのおの)無二(むに)の働きを御見届け候てこそ、御出馬候なり。
※ 智謀(ちぼう)➜ れい。
※ 金吾中納言(きんごちゅうなごん)➜ 小早川秀秋。安土桃山時代の大名。備前国岡山城主。「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。
※ 案内(あない)➜ 事情や様子をよく知っていること。承知。
※ 眼前(がんぜん)➜ 明らかなこと。明白。
※ 大略(たいりゃく)➜ おおよそ。あらまし。だいたい。
※ 日和(ひより)を見る ➜ 有利なほうにつこうと、形勢をうかがうこと。
※ 大部(たいぶ)➜ 大部分。あらかた。
※ 先手(さきて)➜ 本陣の前に位置する部隊。
※ 無二(むに)➜ 同じものが他に一つもないこと。並ぶものがないこと。

(「松のさかへ 黒田長政公御遺言」つづく)

読書:「おっかあ はぐれ長屋の用心棒 15」 鳥羽亮 著
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