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降灰の鹿児島、タクシーの中で

(九州新幹線、船小屋駅ホームより、駅周辺はまだ未開発)

夕方、鹿児島中央駅頭に降り立つと、駅前イベント広場が何時もと雰囲気が違う。タクシーの運転手に聞いてみようと、乗り込んで行き先を告げると、「○○タクシーの××です」と自己紹介があった。自分と同年輩と見た。それですんなりと会話に入れた。

さっそく疑問をただした。「今朝から桜島の灰が鹿児島の中心部に降った。こんなに降るのは久しぶりです」と言う。通る車が火山灰を振り落としながら走っている。風向きで鹿児島市街には夏に火山灰が降る。「この夏は降らなかったのだが、終わりになって降るようになった。その内でも今日は量が最も多い。」こんなに降ると片付けが大変だろう。「激しい雨が一雨降ればきれいになるのだが。」タクシーはきれいだけれど日に何度も洗うのか。「洗うと乾かすのが大変だから、夕方、降灰が終わってからハケで落とした。」

天災だから仕方がないか。「風が回って県内に平等に降るから文句も言えない。」でも、西風の日の方が多いから、大隅の方は頻度が多くて大変だ。「大隅の客が来て、大変だねえと同情された。大隅地方は冬場に多いから、元々窓は閉めている季節だけれども、鹿児島市街は夏だから、窓を開けたくても開けれないから辛いだろうと話していた。窓を開けたり、洗濯物を干したりして、ちょっと外出が出来ない。」洗濯のやり直しになる。「洗濯し直しても、しみが残ってしまう。」確かに夏の方が大変だ。

「それでも最近は爆発が昭和火口で、南岳の向こうだから噴火も高く上がらずに降灰も比較的少ない。」昔、桜島の宿に泊まっていたら、夜中に爆発して、二タ抱えもあるような岩が宿の玄関に屋根を打ち破って落ちてきたという話を聞いたことがある。「玄関ロビイにでしょう。今もそのまま飾ってあると思う。自分も一度見たことがある。」鹿児島では有名な話なんだ。その日泊まっていたというのも少し怪しいか。どこかで聞いた話を泊まっていたことにしたのかもしれない。

「桜島と新燃岳もあるし、鹿児島は大変だ。」鹿児島はまだ良い方で、東日本大震災や紀伊半島の大雨もあったり、日本列島は災害列島になってしまった。「温暖化で最近は最高気温35℃と聞いても驚かなくなった。」昔は昼間暑くても、夜には涼しくなった。「冷房もないときに、風も通らない蚊帳に入って寝た。」夕食を終えてから、涼しくなるまで外で涼んだ。蚊遣りを焚き、団扇を持って縁台将棋をしたり、風情があった。もっとも子供たちは、風呂に入った後なのに、また一汗かいてしまった。

話はその後、夏の節電の話になり、原発に代わる電力確保の話になり、途切れることがなかった。終わりには、話に気をとられて入る道を一本間違えたと、早めにメーターを倒して、ディスカウントしてくれた。

今日の桜島噴火情報によると、午前中に集中して、午後は止んでいる。最後の爆発が火山灰を多くもたらしたのであろう。

  9月12日午前0時11分 噴火 火口上1200m 北西(鹿児島市吉野方向) 中量
  9月12日午前4時14分 噴火 火口上1200m 西(鹿児島市街地方向) 中量
  9月12日午前6時27分 噴火 火口上1400m 北西(鹿児島市吉野方向) 中量
  9月12日午前8時53分 爆発 火口上1600m 北西(鹿児島市吉野方向) 今年658回目 中量
  9月12日午前9時27分 噴火 火口上1800m 北西(鹿児島市吉野方向) 中量
  9月12日午後0時45分 爆発 火口上2000m 西(鹿児島市街地方向)今年659回目 やや多量
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平戸を訪れる その7 幸橋  

(石橋、幸橋またはオランダ橋)

半日平戸を歩いて、もうすっかり平戸の街を大づかみに出来た気分でいた。平戸は一言でいうならば長崎を小型にしたような町である。類似点を挙げてみると、
  1.街から見ると平戸湾は左手に外海へ開けている細長い湾である。
  2.その湾の出口に近い所にオランダ商館があった。
  3.藩の役所は湾の奥まった所にある。
  4.街はオランダ商館と藩の役所をつなぐ位置に発展している。
  5.背後は山で、高いところが墓所になっている。

長崎に外国人を移したのは、貿易を幕府の独占とするとともに、平戸では手狭であったためで、街づくりに平戸を手本にしたであろうことが想像できた。

7月21日朝、台風6号も迷走の末、太平洋に去って行ったようで、これ以上平戸に留まる理由も無くなった。朝、車を取りに行きながら、石橋の、幸橋を見に足を延ばした。九州には各地に石橋が残っている。平戸ではこの幸橋である。1702年、アーチ式の技術をオランダ人から学んで架橋したといい、別名、オランダ橋とも呼ばれる。街と城をつなぐ重要な橋であった。


(川内名物、あご蒲鉾)

昨夜、宿の女将さんに平戸の見所を聞いていた。紐差教会を見て根獅子から生月大橋を通って生月島へ行けば色々見所があるという。しかしそこまで足を延ばせば一日掛りになってしまう。生月島までは無理だと思った。適当なところで切り上げねばなるまい。車に乗る前に平戸の名物という、板の替りに麦わらを使った(麦すぼ巻)蒲鉾を土産に買った。魚はあご(トビウオ)で高級な蒲鉾である。故郷の蒲鉾も、材料にあごが使われていて、あご蒲鉾の味は知っていた。


(鄭成功廟)

東海岸を南へ走っていくと、あご蒲鉾の生産地、川内を通る。この川内は幼少の鄭成功が育った村で、鄭成功のゆかりの場所が幾つかある。鄭成功記念碑、児誕石、鄭成功居宅跡などで、途中に標識のあった鄭成功廟に立寄ってみた。細い急坂の道を登った先に小さなお堂ほどの廟であった。ただ赤く塗装することで鄭成功の廟として主張していた。


(紐差教会)

紐差教会は岡の上にあって、遠くからも見えた。昭和4年に建てられた。木造の教会としては当時日本一の大きさであった。塔の上部が丸く造られている。


(平戸大橋)

紐差教会を最後に来た道を戻って、平戸を後にした。最後に赤く塗られた平戸大橋も写真に納めた。昭和52年に完成して、平戸は島から脱却した。当時有料橋だったが、現在は無料になっている。

帰りに立寄った道の駅は先日NHKの午後の番組で道の駅紹介に出ていた。大きなカブトムシが目印という看板で、すぐにそれと判った。
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平戸を訪れる その6 崎方公園

(フランシスコ・ザビエル記念碑)

洋風民宿チャペルは一階が食堂、2、3階が宿泊施設となっている。3階の部屋へ急階段を登り、部屋に荷物を納めて、車をフェリー乗場脇の駐車場へ停めに宿を出る。まだ十分に明るいから、腹ごなしに、オランダ塀坂の上に続いていた坂道を登ってみようと思った。その上には崎方公園がある。


(三浦按針の墓)

大きなホテルの脇を通って、その裏側に来訪400年を記念して造られた、フランシスコ・ザビエル記念碑があった。さらに登っていくと、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の墓があった。三浦按針は来日した最初の英国人で、家康の信頼を得て、通詞として活躍し、平戸で亡くなった。妻の分霊とともに夫妻で祀られている。


(崎方公園より下る道)

山の上は公園化され、見晴らしもかつては良かったのだろうが、樹木が大きくなって見晴らしが利かなくなっていた。崎方公園にはまだまだ色々な見所もあったが、夕暮れも近付いたので、平戸の街を見下ろしながら下った。

宿の風呂は3階建ての屋上にあった。よしずに囲まれた湯舟で汗を流して、降りるとすぐに夕食となった。海のものが次々に出た。仕事に来た客が多く、質より量なのだろう。中に酢味噌に付けて頂いた白身の魚は食感と味が懐かしかった。これはハモかと聞くとフカだという。フカヒレの取れる大きな物ではなくて、小さいフカだと説明があった。故郷で食べたのもフカだったと記憶が鮮明になった。フカを食べるのは西日本の食文化なのだろう。

食事をしながら、宿の女将さんと話した。話題の発端は松浦史料博物館で見た台湾の娘たちの話であった。平戸は鄭成功の母親の出身地で、子供のころ育った地である。台湾からの観光客が多いという話から、女将さんはかつて京都でちゃんぽんの店をやっていたという話になった。仕事は面白かったけれども、父親が身体をこわしたので、故郷に戻ってきたという。その頃、アルバイトの娘を何人も雇った。初めは日本人の女子学生が来てくれたが、賃金が安いので、次に台湾の留学生、韓国の留学生と変って、最後には中国の留学生になった。

それぞれにお国柄が出て、台湾の留学生は全く日本の学生と同じ感覚で使えたけれども、中国の学生は自己主張が強いのは良いのだけれど、平気で嘘をついて、それを悪いことだと思っていないのには驚き、使い辛かった。ただ、上昇志向が強く、目標に向けて一生懸命な点は、日本の若者も見習うべきだと思った。韓国の娘は思想教育がしっかり出来ているのか、日本の自衛隊の仮想敵国はどこかなどと聞いてきた。多分、北かなと言うと、わが意を得たように喜んだと話す。

台湾に旅行したとき、日本人と知って、あんな所で買うとぼられるから止めた方がよいと、日本語で忠告してくれたおばあちゃんがいた。台湾の人はそのように日本人に大変好意を持っているのだが、日本人はその気持ちに十分応えていない。中国の人は共産中国だけではなくて、清、中華民国から続いた歴史の中で、国とか公共に対して何も期待していないし、常に失政の被害者であった。中国でよく言われることに、国に政策があるならば我々には対策があると。税金を出来るだけ納めないことが会計の能力のように考えている。国民性は置かれてきた環境に左右されるのだろうというような話をした。

夜、コンビニへ行こうと女将さんに場所を聞くと、コンビには無いという。マーケットがまだ開いているからと、その場所を教えてくれた。若者たちには住めない街である。
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平戸を訪れる その5 平戸城

(平戸城)

平戸港を隔てて、街の向かい側に平戸城(亀岡城)がある。岬の山上に天守閣が見えていた。最教寺からは車でわずかの距離であった。駐車場から少し登って北虎口門から入ると、入場券500円を取られる。森の中に天守閣を中心に、狸櫓、見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓が点々と取り囲んでいる。天守閣の最上層に登った。平戸の街が一望に出来た。後に宿の女将さんが話していたが、箱庭のような町である。オランダ商館、フェリー発着場、松浦史料博物館などが確認できる。台風の余波で風が強く、まことに気持ちよいが、如何せん風が強すぎた。長くいると寒いほどで、早々に切り上げた。

天守閣やそれぞれの櫓には歴史資料や民俗資料などが展示されていたが、いずれも展示が古くて、天守閣や各櫓の再建が成った昭和37年に展示して以来、手が付けられていないように思えた。この地方の昔のかまぼこの作り方は、かまぼこ板の替りに麦わらを使っている点など、興味深く見たけれども、再現のジオラマが日焼けしてしまって見苦しい展示であった。しっかり料金を取る割りに力を入れていないのはどうかと思った。


(亀岡のマキ並木)

亀岡公園に下って来ると、平戸の街を眺望できる側に、カヤの巨木が10数本、並木状に並んでいた。県指定天然記念物の「亀岡のマキ並木」である。1599年、亀岡城の元になる日の岳城築城の時に植えられたものというから、樹齢は400年を越す巨木である。最大幹周囲5.5メートル、半数は3.6メートルあるという。


(千光寺)

城から降りて、先刻見つけられなかった千光寺を、もう一度カーナビで調べた。今度は地図を出してそれらしい場所を探したところ、千光寺の名前を見つけた。早速目的地に指定し車を走らせた。千光寺は道路脇にある小寺であった。本堂脇で小舎の工事中の人に栄西禅師のゆかりの場所を聞くと、道路の向かい側を下ったところにある、冨春庵跡がそうだと教えてくれる。冨春庵跡に向かう背中に、何も無いよ、という言葉が追いかけてきた。


(栄西禅師座禅石)

道路を渡って、少し入って下ったすぐの所に、しょぼい茶園があった。昔の茶園で、かまぼこ型ではなく、一本ずつ別れた茶園であった。中国から帰ったばかりの栄西禅師が持ち帰った茶の実を植えた冨春園である。茶の木は当時のものではなく、何代か植え替え継がれているのだろう。冨春庵跡はさらに下ったところにあった。冨春庵跡の碑と栄西禅師が座ったという座禅石が残っているだけであった。


(冨春園)

戻って、工事の人に礼を言った。本当に何も無かった、ただお茶に関係しているもので、と話す。春と秋の2回、松浦さんと県茶試が来て、ここで献茶祭がある、その時に来ればよい、と情報をくれた。「松浦さん」は松浦の殿様の子孫なのだろう。

時間は5時前になった。そろそろ宿に入る時間である。平戸の街へ戻った。
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平戸を訪れる その4 最教寺三重大塔

(最教寺奥之院)

この後は車で移動するつもりで、港のそばの駐車場に戻った。途中に観光客用の腕湯、足湯の施設があった。足湯は普通だが、腕湯には初めてお目にかかった。足湯とは別に、立った状態で腕まで浸ける施設が併設されていた。足にしろ腕にしろ、身体の末端を温めると全身の血流が良くなり、身体が温まる。素足が簡単に出せない女性たちには腕湯もありなのだろう。


(藤浦洸歌碑)

脇に藤浦洸の歌碑があった。
     平戸のうた
  紅のつつじは「きりしま」「ひらど」
  昔なつかし カピタン様の
  国へたよりの 押し花が
  海のむこうの ジャガタラ国の
  土にこぼれて咲いたげな
  ほんと咲いたげな


生誕百周年記念で建立された歌碑である。藤浦洸といえば平戸出身の歌人で、名前を覚えたのはNHKの「二十の扉」や「私の秘密」の回答者としてである。「ふじうらこう」と耳から入って覚えたもので、それ以上の存在にはならなかった。彼の作品を見るのはこれが初めてである。

車に乗ってから、松浦史料博物館で購入した平戸案内の小冊子を見ていると、栄西禅師所縁の千光寺というのが気になった。中国から帰ってきた栄西禅師が最初に上陸したのがここ平戸で、持ち帰った茶の種をこの地に最初に撒いた。800年前のことで、日本茶の発祥の地という。千光寺はカーナビの検索では出て来なかった。小冊子の大まかな地図しかないけれども、見当をつけて車を走らせた。島を左周りに走ったが、千光寺が見つけられずに、途中で諦めて、カーナビで松浦氏の菩提寺、最教寺をセットし、平戸の街へ戻ってきた。

湾の一番奥からさらに入った山中に最教寺はあった。真言宗のお寺で弘法大師所縁のお寺というが、ここまで弘法大師が来たわけでもあるまい。(空海は遣唐使に付いて唐に渡るとき、風待ちをして平戸に滞在している)最教寺で見たかったのは三重塔であった。遠くからも山中に塔の上部が見えていた。塔屋(?)としては見逃すわけにはいかない。ところが境内に案内標識も無くて、三重塔がどこにあるのか分らない。お参りに来たおばさんを見つけて尋ねた。境内の左手から山道を登った先にあるという。勝手に登ってよいのだろうかと聞けば、どうぞどうぞと、自分のお寺であるかのように答えた。


(石仏の並ぶ参道)

山道の両側に四国八十八ヶ所の霊場の数の石仏が並んでいた。行き着いた先は最教寺の奥之院であった。本堂の左側に真新しい三重塔があった。昭和63年に建立されたもので、「三重大塔」と案内板にあった。大塔とは塔の中でも大きな塔を云う。高野山の多宝塔型の大塔はよく知られている。三重塔で大塔は初めて見る。


(最教寺三重大塔)

係りのおばさんと目が合って、中を拝観していかないかと誘われたが、遠慮した。拝観料400円を惜しんだわけではない。問わず語りに、20年前に出来て、もうすでに1回塗りなおした、塗装に1000万円掛かったと話した。最教寺には松浦隆信の墓所や、寺宝を納めた霊宝館があるが、立寄ることなく先を急いだ。
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平戸を訪れる その3 寺院と教会の見える風景

(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂)

嬉野で平戸を何度か訪れたことのある人に、平戸の見所を聞いたところ、寺院と教会がワンフレームに見えるところがある。そこが有名なフォトポイントだと教えてくれた。眺望亭の女性に聞いてみると、博物館を下ったところから右手へ山裾の道を行くと教えてくれた。眺望亭から教会の尖塔が見えていた。


(六角井戸)

石畳が敷かれた山裾の道を行くと、次々に平戸の歴史を感じさせるものが出てくる。その一つが「六角井戸」である。オランダ人がやって来る前の1542年、明の海商、王直が松浦家25代隆信の優遇を得て、平戸に居を構え、ここを根拠に貿易を始めた。その後、多くの明商人が平戸に定住した。明の様式の六角形の石柵で囲われた井戸はその名残りを留めていると案内板にあった。


(大蘇鉄)

ついで現れたのが、大蘇鉄である。樹齢400年といわれる、この蘇鉄は当時の貿易商、川崎屋の庭に植えられたものという。今まで見たことのある大蘇鉄は幹が幾本にも分かれたものであったが、この蘇鉄は一本の主幹から何本も枝が出ている、蘇鉄としては異形の巨木であった。

やがて道標に導かれて、石段の登りとなった。その先に、尖塔の聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂があった。フランシスコ・ザビエルといえば、日本に最初にキリスト教を伝えた人物である。藩主松浦隆信の歓迎を受けて、都合3度平戸を訪れ、布教を行なっている。この教会は昭和6年に建てられたものであるが、昭和46年に敷地内にザビエルの記念像が建立され、教会の名前も改名された。


(ザビエル記念聖堂内部)

教会内部へは柵があって、入ったすぐのところまでしか入れなかった。教会に入ると、いつも身構えてしまう自分に気付く。お寺や神社に入った時の一種安らぎに似た感覚とは全く違う。中国で通訳の女性に道教の寺院を案内されながら、宗教は何かと聞かれて、ブッディストだと答えながら、ほんとにそうなのかと自問していたけれども、逃れられない何かにはまっているようだ。


(寺院と教会の見える風景)

教会の右手下にお寺が見えるから、そのお寺越しに教会の尖塔が見えるのだろうと思った。途中の標識に、「寺院と教会の見える風景」と確かに書かれていたが、そのポイントを示してくれる標識は無かった。少し下ってお寺の境内を横切り、お寺の参道を下っていく途中で振り返ると、お寺の建物の上に教会の尖塔が見えてきた。おそらくこの辺りのからの景色をいうのだろうと、写真を何枚も撮った。出来ればもう1メートル高い位置で写真を撮れば、尖塔が大きく写るのだがと思った。
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平戸を訪れる その2 松浦史料博物館

(オランダ塀阪)

どうして平戸なのか。昨年の9月、龍馬ブームで賑わいを見せる長崎に行った。長崎に出島を作り、そちらへ移動するまで、平戸が外国に開かれた玄関口であったことを知り、次はぜひ平戸を訪れたいと思った。

観光案内所で頂いた地図によれば、平戸オランダ商館があった地域はすぐ近くであった。海辺の道は整備工事が現在進行していて、警備員が何人も出て交通整理をしていた。途中、左の山へ登って行く石畳の道があった。途中まで登ってみると、石畳の坂道の両側にかつて建物が建っていたらしい敷地があった。坂道と敷地を仕切るように、石を積み上げて表面を漆喰で仕上げた、厚みがあるオランダ塀が続いていた。


(平戸オランダ商館)

坂道は山の上の公園へ続いているようであったが、引返した。海沿いの道を行くと、すぐに左手に海を向いて、平戸オランダ商館1639年築造倉庫の復元をした建物がほぼ出来上がっていた。完成した時には平戸観光の目玉になるのだろう。建物の写真を撮って引き返した。


(松浦史料博物館)

次に松浦史料博物館に向かった。海岸通りから1本入った古い町並みが残る崎方町の通りを歩いた。松浦史料博物館は、石垣を築いた高台にあり、石段を登った。廃藩後は藩主だった松浦侯の邸宅であったという。御殿造りと言うのであろうか。受付の女性に聞くと、現在の建物は明治26年に出来たものだという。松浦家から、3万点に及ぶ史料と秘蔵品ともども、昭和30年に寄贈を受けて、博物館として展示公開している。資料は展示方法が古くて、中々理解がし辛くて、ざあっと見るに留めた。

見学者はほとんどいなかった。板敷の通路を若い女性が何人かでモップを使って掃除をしていた。少し雰囲気が違った。しばらくして、その内の一人が近寄ってきて、カタコトで「これ落としたか?」と、小さな紙切れを寄越した。料金を払ったときに入場券などとともに何枚かの紙切れを貰ったが、その中の1枚を落としたのかと思い、「ありがとう」と受取った。あとで見ると、バスツアー参加者の食事処での昼食5%割引券で、自分が落としたものではなかった。


(オランダサンド)

売店で平戸を案内した小冊子を買い、眺望亭という喫茶室で軽食を頼んだ。宿の夕食も近いから、オランダサンドと紅茶のセットにする。よく焼いたパンの上に、塩漬けズッキーニ、ベーコン、目玉焼きなどを載せケチャップが掛かっている。サンドといっても挟んではなく、ナイフとフォークで食べた。けっこういける。運んできた女性に、博物館にいた若い女性たちはどこの国の人かと聞いた。台湾からの研修生だという。博物館に鄭成功を扱ったコーナーがあり、最近台湾のお客さんが多いのだという。

台湾では英雄である鄭成功は、父親は中国人で、母親が平戸出身の日本人であったため、台湾から英雄の故郷を訪問したいという要望が高かった。今までは、友好関係が高まりを見せると、どこからか政治的配慮が下って萎んでしまうことのくり返しだったけれども、近年は友好関係が築かれて、台湾からのお客さんが増えたと話す。そういえば、先ほど、台湾から12人着くと伝える声が聞こえていた。研修生もその関係で受け入れて、台湾からのお客の面倒も見るのであろうと想像した。
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平戸を訪れる その1

(平戸港フェリー発着場 - 対岸の平戸城より)

2日間、書き込みを休んだ。体調が悪かったわけではない。台風6号の影響でもない。19日~21日、旅の空にいた。さらっと「旅の空」と言ったが、飛行機を利用した訳ではなく、もっぱら鉄道である。この「空」は「その人の居住地や本拠地から遠く離れている場所。または、境遇。」という意味だと辞書にある。辞書というのはもっともらしく疑問を解決してくれる。

一泊は古い和風温泉旅館、もう一泊は洋風民宿。ペンションではなく、宿の名前が洋風なだけの、商人宿(久し振りに遍路宿を思い出した)といったところである。だから、パソコンは持っていたが、二日間、ネットにつなぐことが出来ずに、書き込みを休んだ。書き込みのない夜は、何と楽であることか。

半年ぶりの嬉野出張。出発の朝、超特大の台風6号は四国の南の海上をママチャリほどのスピードでゆっくり四国の上陸をねらって進んでいた。空の便は欠航がたくさん出ていたが、新幹線はダイヤ通りに動いていた。嬉野での仕事は一日で終えた。九州の西の果てまでは台風の影響はほとんど無かった。

次の20日、おそらく台風は紀伊半島から伊勢湾辺りにいるだろうから、交通機関が乱れる。新幹線といえどもそこへ突っ込んで行くのは得策ではない。最も台風から遠い西九州で一日停滞しておれば、台風も南東の海上に去っていくだろう。(それにしても奇妙は動きをする台風である)かねてから目論んでいた平戸へ行ってみようと思った。

佐世保まで西九州自動車道で、さらにその先、国道を走り、合わせて2時間ほど掛かった。平戸は平戸瀬戸で九州とは切り離された島である。平戸大橋を渡って平戸の街に入り、初めて島であることを認識した。鉄道で訪れようと計画していたときには、鉄道がなぜ平戸の手前までしか行っていないのか、不思議に思いながら、島であることを見落としていた。

行き当たりばったり旅で、街に入って最初に考えたのが、今夜の宿の手当であった。平戸港のフェリー発着場そばの駐車場に車を停めて、観光案内所だと思って入った小舎は、観光案内人の詰め所であった。宿泊の案内は駐車場を隔てた向こうの小舎だと、案内してくれた。

今夜の宿の案内を乞うと、ホテルか民宿かと聞くから、それぞれ一泊どれくらいかと問えば、ホテルや旅館で1万円位から、民宿だと6500円位だという。予算的にはホテルや旅館でも良かったけれども、根っからの貧乏性で、安い民宿を選んだ。洋風民宿チャペル、何となくペンションのような名前ではないか。場所が歩いて数分のところがいい。2食付で6500円だからそんなに期待しないで予約した。

時間は正午を少し回っていたから、どこかで昼食を食べようと、車をそこにおいて、帽子を被って歩き出した。お天気はくもり、雲が厚いけれども、雨はなさそうであった。台風の影響であろう、海から吹く風は大変涼しくて、半日歩き回るのに、絶好な天候だと思った。今まで続いてきた35度超の猛暑日のことを思えば10度近くも低い。
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新幹線不通の鹿児島から戻る

(休憩列車の窓から)

昨日までに仕事を終えて、鹿児島から今朝帰途についた。月曜日に鹿児島へ入ったとき、その前日、川内-出水間の大雨で、九州新幹線が一時運転を見合わせたと聞いていた。昨日から再び烈しい雨になって、今朝も新幹線不通の予感があった。鹿児島中央駅へのタクシーの中で、ラジオの交通情報が川内-出水間の大雨で、九州新幹線、鹿児島中央-熊本間が早朝から運転を見合わせていると報じていた。運転手に前回の不通はどれくらい続いたのかと聞いたところ、4時間ほどだと教えてくれた。今日もおそらく最低でも覚悟しなければならない時間だと思った。

窓口の女性は指定は出来ないが特急券だけなら発行できるという。購入しながら、トンネルばかりのように見えるのに、どうして雨に弱いのかねぇ、と意地悪な質問をしてみた。

改札前の広い通路には大勢の乗客が、改札口を中心に半円の同心円を描くようにたむろしていた。改札口の前で、何人かの駅員が乗客たちの質問に答えていた。といっても、何度も放送で繰り返されている、運転見合せと復旧の見込みは立っていない、という情報以上のものはないだろう。改札口からどっと人が降りてきた。川内-鹿児島中央間は通勤電車に使われていて、それが着いたようであった。川内-鹿児島中央間はピストン輸送で動いていた。

およそ4時間の待ち時間を覚悟して、その時間をどうして過ごすかが課題となった。どちらにしても九州新幹線に乗るしか帰る方法は無いのだから、改札の外で待つ手は無いと思った。駅員に中へ入ってよいかと聞くと、どうぞという。ホーム下の広い待合広場にも200人以上の人がいた。椅子席も埋まってコンクリート上に座り込んでいる乗客も見える。広場の室温がやや上がって息苦しく感じ、いっそのことホームへ出ようとエスカレーターに乗った。

ホームは気温が下がって気持がよい。乗客はほとんど見えなかった。両側に車両が止まって扉も閉まっている。待合室の座席はほぼ埋まっていたが、一人の青年が3人分ほど荷物で席を占めていたので、譲ってくれないかと話すと、今トイレに行っているのでという。こちらへどうぞと、背後の席で呼ばれた。一人座れるように譲ってくれた。

それにしても待合室で4時間近く待つのも厳しいなあと思いながら、本を出して読み始めた。一列車が川内まで限定で出発して行った。間もなく、残った車両を休憩用の車両として開放しますと放送があり、扉が開いた。どうせなら座席がゆったりとした車両と思い、自販機で飲み物を買って指定席の表示のあった車両に乗った。しばらく誰も入ってこなかったが、本を読んでいるうちに何人か来たようであった。しかしあれだけ待っている人が多くいたのに、休憩車両が埋まってこないのは不思議であった。ホームだけでの放送だったのだろうか。

本を読むうちにうつらうつらし、目が覚めて再び読書、そのうちにけっこうしっかりと寝てしまったようだ。周りが何となくざわついて目が覚めた。時間を見ると12時15分、よく寝たようだ。ホームを覗いてみると、どうやら最初の電車が出るようで、この休憩列車がそのまま博多まで行くようだ。車内の電光表示は指定席となっていたから、そばのビジネス客にここは指定席かと聞くと、自分も指定など持っていないという。車掌が指定などと言ったら食いつきそうな様子であった。そのうち、電光表示が自由席に変わり、この列車は全車自由席だと放送があった。12時20分、休憩で座った席のままで、博多行各駅停車のさくらは鹿児島中央駅を後にした。

あとで考えて、おそらく数百人はいたであろう、長時間列車を待った乗客の中で、自分が一番楽に待てたと思った。最初から迷わずに4時間待つ覚悟をし、最も列車に近い所まで行って、早い時間から休憩列車というJRのはからいの恩恵を受けられた。

金谷には午後七時半頃に着いた。昨日、予感したように、帰るのに一日仕事になってしまった。
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飛んだ、九州新幹線セレモニー

(九州新幹線の船小屋駅)

九州に出張に来ている。九州新幹線は3月12日に、博多-新八代間が開通し、全線開通となった。地元の福岡県、熊本県、鹿児島県が一体になって新幹線を起爆剤に、地域振興を図ろうと、開通のイベントも準備して待っていた。その前日に東北関東大震災が起きてしまった。全てのセレモニーは中止になり、新ダイヤ通りに目立つことなくスタートした。

福岡までのぞみで来て、乗ろうとした「さくら」は一度階段を降りて、隣のホームに出て乗った。内装は新八代-鹿児島間を走っていたつばめの車両のようであった。仕事のあと、新幹線の船小屋駅まで車で送ってもらい、午後5時6分発の「さくら」に乗った。船小屋駅に停まる「さくら」はそれ一本で、あとはすべて「つばめ」であった。どうやら、「つばめ」が東海道山陽新幹線のこだま、「さくら」がひかり、「みずほ」がのぞみの役割を果たしているようであった。

船小屋駅から乗った「さくら」は新車両で、指定席は座席がゆったりと取られていた。心地良くて鹿児島中央駅まで一時間と少々、7割がた眠っていた。

鹿児島中央駅で夕食後、タクシーでホテルに向かう。運転手の話ではセレモニーとともに物産展なども計画されていたが、すべて中止になり、開通してからお客さんが増えた様子がない。これで大地震でみんなの気持が冷えて、観光どころではなくなるのだろうなあ、と嘆く。

また、運転手の話では桜島の活動も、ライバル霧島新燃岳に負けないように頑張っている。春から夏に風向きが変って、火山灰が鹿児島市へ向いたら、霧島の黒い火山灰と、桜島の白い火山灰の競演になりそうで、うっとうしいという。霧島もニュースにはならないが活動は続いている。巨大な災害があると、他のどんな事件、災害も、影が薄れてしまう。新燃岳の噴火も、ニュージーランドの地震も、携帯カンニング事件も、小沢一郎の犯罪も、満を持して立候補した石原慎太郎も、今更国民の関心を引くことはないのだろう。

テレビは東京電力が社始まって以来の計画停電を、政府が認めてやろうとした。今日一日大騒ぎして、電力使用量が増えなかったために、停電なしで済んでしまった。政府と東京電力は国民を恐喝したようなもので、電車が運行停止したり、大企業が操業を停止したり、町の照明を落したり、結果的に節電が出来てしまったのだろう。明日はどうなるのだろう。感じるのは、電力会社間でどうして電力の融通をしないのだろうということである。東日本と西日本では50サイクルと60サイクルの違いがあって、東京電力が融通をしてもらえるのは、東北電力と北海道電力しかなく、東北電力は震災の深刻な被害を受けており、北海道は遠いから、なかなか電力を融通してもらえない状況にあるよいうだ。明治以降、西と東で統一性なく電力開発をして来て、小さな国で2系統の電力事情を作ってしまった。そんな付けがこんなところへ回ってきたことになる。
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