夢七雑録

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若宮公園・宮城道夫記念館・矢来公園・漱石公園

2017-02-05 14:13:19 | 公園・庭園めぐり

(1)若宮公園

江戸の地図を参考に飯田橋から早稲田まで小さな公園・庭園をめぐってみた。神楽坂下の交差点を渡り、外堀通りを市ヶ谷方面に右側の歩道で歩く。東京理科大の角を曲がると、若宮公園の門が石垣の上に見えて来る。

石段を上がって門をくぐると、上は広場のようになっている。南側には四阿があるが、遊具などは無い。公園の周囲は漆喰の塀で囲まれ、北側には冠木門もあって、武家屋敷らしい雰囲気になっている。「市ヶ谷牛込絵図」によると、付近には武家屋敷が並び、公園のある場所には都筑鍋五郎の名が記されている。北側の門を出て左に行く。ここから先、暫くは江戸時代からの道が続く。当時は武家屋敷が並んでいた場所だが、今は高級住宅地になっている。道なりに進んで突き当りを右に折れると、若宮八幡に出る。

 

(2)宮城道夫記念館

若宮八幡の先を左に入り、右に折れ左に折れる。この先は上り坂となるが、この坂は新坂と呼ばれている。「沿革図書」の元禄12年(1699)の図によると、若宮八幡の西側は戸田左門の広い屋敷になっている。享保16年(1731)になって、戸田左門の屋敷跡に道が造られ、多くの屋敷が設けられる。この時に造られたのが新坂である。坂を上がって突き当りを右に行く。西側一帯は御徒組の組屋敷があったところで、南側から南御徒丁、中御徒丁、北御徒丁と呼ばれていた。現在の南町、中町、北町はこれに由来する地名である。このうち中御徒丁には江戸後期の文人で、狂歌で知られる大田南畝(蜀山人)が住んでいたという。電柱の案内表示に宮城道夫記念館とあるのを確認し、左に入れば中町となる。

先に進むと、左側に中町公園があり、反対側に宮城道夫記念館がある。水木金土が開館日で有料である。中に入り展示を眺め、春の海などの作品を視聴覚室で聴いてから、国登録有形文化財になっている検校の間を見に行く。これは、昭和23年に建てられた6畳と2畳からなる茶室風の建物で、宮城道夫の晩年の作品はここで作られたという。現在の建物は敷地内で曳き屋により移されたそうだが、検校の間の前には趣のある小さな庭も造られている。

 

(3)矢来公園

宮城道夫記念館を出て坂を下り、やや上がって牛込中央通りに出る。ここを右に下り大久保通りを渡る。周辺の納戸町、細工町、箪笥町という地名は江戸時代の町名に由来する。坂を上がって次の交差点から北は矢来町となる。矢来町は小浜藩酒井家の牛込下屋敷の跡地に相当し、牛込中央通りは、牛込下屋敷を東西に分断する形になっている。矢来町の名は、酒井家の下屋敷の周囲を竹矢来で囲んでいたため矢来屋敷と呼ばれていたことに由来する。矢来町ハイツに沿って牛込中央通りを北に進み、次の信号で左に入り突き当りを右に行くと、右手に矢来公園がある。公園内には小浜藩邸跡の標柱が立つが、藩邸跡らしきものは見当たらない。

 

若狭小浜藩主で後に大老となる酒井忠勝は、寛永5年(1628)に牛込下屋敷(矢来屋敷)を拝領する。広さは43500坪あった。忠勝は家光に予の右腕と呼ばれるほど信頼され、牛込下屋敷への家光の御成も100回を越えている。宝永5年(1708)、下屋敷の南東側が分割され柳澤家の屋敷となるが、安永4年(1857)に南東側が戻されて酒井家上屋敷となる。屋敷の北側の中央には、ひたるが池を中心に庭園が造られ、その東隣は御殿になっていた。屋敷の南側には長安寺という菩提寺があった。屋敷内には家臣の屋敷や長屋も設けられていた。「解体新書」で知られる杉田玄白は、牛込下屋敷内にあった藩医の家に生まれている。明治になって牛込下屋敷は酒井伯爵の所有となるが、明治16年の牛込区神楽坂近傍図によると、南側の伯爵邸や道路沿いの宅地のほかは、殆どが畑や林になっている。酒井家は、必要とする土地以外を貸地にしていたようだが、大正時代の終わり頃になると貸地を売却するようになる。昭和の頃の酒井邸があったのは現在の矢来町ハイツの位置になる。

江戸時代の”ひたるが池”は、南北に長い池で中程に橋が架かっていたが、明治16年の図では池は三つになり中島もあった。大正1年の地籍図にも、この池は記されているが、その後、この池は埋め立てられて現存しない。明治後期に刊行された「名園五十種」には、牛込矢来町の酒井伯爵邸の庭も取り上げられているが、芝生の広庭と記しているだけで、池についての記載は無い。また、西南に菩提寺である長安寺の木立が見える事が書かれているので、ひたるが池の庭ではなく、明治時代に建てられた酒井伯爵邸の庭園を取り上げていると思われる。

 

(4)漱石公園

矢来公園から西へ坂を下り矢来町を抜ける。この先は江戸時代に治安維持を担っていた御先手組の組屋敷があった場所になる。突き当りを右に行き大願寺の前を左に、やや上がって下り外苑東通りを渡る。付近は宗参寺の門前町で、弁天町の名は弁天堂に由来する。ここから先は、将軍直衛の弓・鉄砲隊である持弓組・持筒組の組屋敷があった場所を通る。坂を下ってまた上がると右側に漱石公園がある。

漱石公園は夏目漱石が晩年を過ごした漱石山房があった場所で、漱石の胸像や、資料を展示する道草庵、漱石没後に猫などの供養のため遺族が建てた猫塚がある。漱石公園は記念館の建設工事中で、3月からは全面休園する予定になっているので、記念館が開館したあと再訪する事にして公園を出る。坂をやや上がって下り、また上がって下ると早稲田通りに出る。左へ行けば馬場下町で穴八幡の前になる。

<参考資料>「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」「名園五十種」「漱石山房秋冬」

 


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