夢七雑録

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14.米沢と出羽陸奥国境の見聞

2008-06-10 19:37:58 | 巡見使の旅
 当ブログでは、江戸幕府により東北各地と北海道松前に派遣された巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、この旅も山形県に入ります。一行は米沢に出て国境を見分し、山形、新庄、鶴岡を経て、鼠が関から酒田に向っています。 

(31)享保2年4月26日(1717年6月5日)、雨天。
 巡見使一行は庭坂を出立し、李平にて休憩したあと、蛤坂を下って境界となる産ケ沢に出る。途中、鬼ころがし、座頭ころがしという深い谷を通り過ぎる。産ケ沢から板谷の嶺を越え、大沢で泊まる。この日の行程は七里余。雨天の難所越えであった。

(32)同年4月27日。
 日記役の記録によると、山上村、金山銀山御見分場とある。その後、米沢に出て宿泊している。この日の行程は五里である。

(33)同年4月28日、雨降。
 弘法の袈裟掛松のある李山を経て、関で馬継となり、松坂峠を越えて綱木に出る。この先、石ころび坂という急坂を上がれば、出羽陸奥国境の檜原峠。国境の印であるブナの木があったという。巡見使三人は同道して境界を見分したのち、綱木に戻って泊まっている。行程は六里半余である。なお、檜原峠を越える街道は会津街道または米澤街道と呼ばれ、参勤交代のルートとしても使われたことがある重要な街道であった。ちなみに、第一回の巡見の時は、会津から檜原峠を越えて米沢に出たのである。

(34)同年4月29日、晴。
 この日は、前の将軍、家継がわずか八歳で亡くなってから一周忌に当たり、服喪のため綱木に逗留している。ところで、巡見使の旅には休日が無い。多少体調が悪くても、翌日は予定の経路を先へ進まなければならない。江戸を出立して一月余。そろそろ疲れが出てくる頃である。たとえ服喪とはいえ一日の逗留は、一行にとって多少の骨休みになっていたかも知れない。

【参考】今回の巡見にあたって、前の将軍の一周忌が旅の途中にある事は分かっていたので、江戸を出立する前に服喪についての指示を受けていたと思われる。では、旅の途中で訃報を聞いた場合はどうなるか。宝暦11年の陸奥出羽松前の巡見使が、松前の巡視を終えて青森に着いた時、前の将軍が崩御したとの知らせを二週間遅れで受け取っている。本来は、江戸に中陰(四十九日)の勤めについて問い合わせを行い、その指図に従うべきだが、それでは時間が掛かり過ぎる。そこで現地での判断ということになり、二日間を服喪の日と定めて青森に逗留し、三日目からは通常どおり巡見を行っている。


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