小竹向原から光が丘まで歩いてみた。
有楽町線小竹向原駅の2番出口から出ると遊歩道がある。遊歩道は東側にもあり1番出口は東側の遊歩道に出るようになっている。東側と西側の遊歩道は放射36号線(要町通り)の両側にあり、“さぶろく四季の道”と呼ばれている。
四季の道を先に行くと環七に出る。ここを右に行き、歩道橋の先を左に入って道なり進み、小茂根4丁目公園を過ぎ、突き当りを右に折れ左に折れて茂呂山通りを下る。右手の茂呂山公園に上がり、花見を兼ねて小休止したあと茂呂山通りを北に進む。
茂呂遺跡を右に見ながら下って、石神井川を栗原橋で渡ると城北中央公園に出る。公園内の桜の道から石神井川を振り返ってから、茂呂山通りを北に進み交差点に出る。今は暗渠となってしまったが、以前は田柄川という小さな川が、この交差点付近を通って城北中央公園の外周沿いに西から東に.流れていたという。田柄川の水量は少なかったらしく、江戸時代には石神井川を堰き止め水位を上げて田柄川に合流させるという事もあったらしい。
交差点手前の左側、田柄川跡を遊歩道とした田柄川緑道を歩く。この道に入り西に向かって進むと城北公園通りに出る。田柄川緑道は、この通りを横切って先に続いている。緑道は円明院を過ぎて北に向かい、川越街道に出る。
川越街道を渡って田柄川緑道の続きを歩いて行くと、桜の下に橋があった。面白い趣向で川も緑道になれば橋で渡るのである。ところで、玉川上水から分水した田無用水からさらに分水した田柄用水が明治時代に設けられたが、この用水は田柄川の北側を通り、現在の川越街道の北側にあった旧川越街道の下練馬宿に沿って流れたあと、田柄川に合流したとされる。明治30年の下練馬村全図によると、田柄用水が田柄川に合流したのは、桜の下の橋の近くであったことになる。ただし、他に流路があったのかも知れない。
田柄川緑道は環八の上を歩道橋で越えていく。先に進むと綱吉御殿跡之碑がある。五代将軍徳川綱吉が館林藩主だった頃、鷹狩の際に滞在したという御殿がこの辺りにあったと伝えられているからだが、明治30年の下練馬村全図には、この碑の南方に御殿跡と表示がある。
御殿跡之碑から先、田柄川緑道には桜並木が続くようになる。桜を眺めながら、歩く速度を多少落として先に進む。やがて緑道は左に曲がり、川越街道を渡る。
先に進むと、田柄川緑道は工事中の道路で分断されている。この道路は放射36号線(要町通り)に続く放射35号線で、北上して新大宮バイパスにつながる幹線道路として計画されており、同時に周辺のまちづくり計画も進められているので、田柄川緑道の周辺の景観も変わるかも知れない。
工事中の道路を渡って田柄川緑道を先に進むと、緑道は道路中央の暗渠の上だけになり、桜も所々にあるだけになる。緑道はやがて都道442号北町豊玉線を横切るが、この道路は埼玉道と呼ばれ江戸時代には東側の下練馬村と西側の上練馬村の境になっていた。寛政4年の写しとされる下練馬村絵図からすると、上練馬村との境には溜池があり周辺の湧水を集めていたようである。一方、安政3年の上練馬村絵図には川の表示が無いので、溜池の上流には川と言える程の流れはなかったのだろう。
やがて、暗渠の上の緑道も姿を消し、所々に桜がある車道へと変わる。田柄中央児童遊園を過ぎると道は右に曲がっていくが、本来の流路と同じかどうかは分からない。やがて長屋門をかたどった門が見えてきて、道路を渡れば光が丘の秋の陽公園になる。田柄川の源流は光が丘より西にあったと考えられているが、実際には湧出量が少なく殆ど枯れた川になっていたらしい。そのため、実際の流れの始まりは秋の陽公園の辺りとされている。
トイレを兼ねた長屋門をかたどった建物を潜ると、その先に溜池、田圃が作られている。秋の陽ではあるが、長屋門の前の桜がすでに満開のように見える。秋の陽公園から幼稚園裏手にまわり歩道橋で光が丘公園に出る。赤塚口への桜並木を眺め、花見に向く芝生広場を通り抜け、ついでに春の風公園まで足を延ばしてから光が丘駅に行く。