夢七雑録

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7.永福橋から方南橋

2009-11-01 22:46:14 | 神田川と支流
(43)永福橋

 「永福橋」は、神田川で一番南に位置する橋である。その前身は、江戸時代の二子橋だという。この橋を通る道は、北へ行けば大宮八幡に、南へ行けば下高井戸を経て、多摩川の二子の渡しに通じていたから、古くからの要路の一つだったのだろう。この橋の近くに、橋の名の由来となった永福寺があるが、そちらは遠慮して、右岸の遊歩道を先に進む。

(44)ひまわり橋
 今回来てみて、遊歩道の右側の壁面に、短文と絵を描いたタイルが嵌め込まれているのに、初めて気が付いた。全体は尻取りになっていて、頭文字をつなげると語句が表れるという、言葉遊びのようになっているらしい。ところで、この橋の北側に、むかし、大きな養魚池があったそうだが、今は住宅地になり、当時の面影はまるで無い。

(45)永高橋
 次の「永高橋」の名は、永福高校の名に由来する。その高校だが、何時の間にか廃校になっていたらしい。個人的には何の関係も無いが、少しばかり寂しい気もして、川の流れを眺めながら橋を渡り、今度は左岸を歩く。前に来た時、焚き火の煙が辺り一面に漂っていた竹林の横を過ぎると、次の橋に出る。

(46)明風橋
 この辺の橋には廃止や新設など変遷があったらしいが、次の「明風橋」は、比較的新しく架けられた橋のようである。橋を渡った辺りから、緑は少なくなるが、その分、明るい道となる。暫く歩いていくと、行く手に京王井の頭線の鉄橋が見えてくる。

(47)蔵下橋

 線路の下を潜るとすぐに「蔵下橋」に出る。蔵下は明治になってからの地名(字)で、江戸時代は「上ノ橋」と呼んでいたらしい。蔵とは、幕府の焔硝蔵のことで、明治になると陸軍の火薬庫となり、火薬庫が移転すると、跡地は明大の校舎と和田堀廟所となる。余談だが、京王線の笹塚・調布間が開通した時、最寄り駅の駅名は「火薬庫前」だった。しかし、評判も悪かったのだろう、駅名は「松原」に改称される。さらに「西松原」となり、次いで「明大前」となって現在に至っている。

(48)神泉橋
 この橋を通る井の頭通りは、水道管敷設のための用地を道路としたもので、この橋も、井の頭通り開設時に作られたようだ。橋の名は、和泉村の名の起こりとなった貴船神社の泉に由来するのだろうか。親柱もそれを意識した造りのように見える。

(49)栄泉橋
 次は、欄干が木製の「栄泉橋」である。この橋の名も、貴船神社の泉を意識しているように思える。戦後、この辺に「栄泉橋」という木橋があったらしいが、この橋は、それを受け継いでいるのかも知れない。橋を渡れば竜光寺に出るが、今日は立ち寄らずに、先を急ぐ。

(50)宮前橋
 桜の下の道を歩いて行くと、「宮前橋」に出る。左手前方の森は熊野神社の森で、この神社が橋の名の由来でもあるのだろう。江戸時代、和泉村内の神田上水には、橋が三か所架かっていたが、この橋は、そのうちの、「中ノ橋」の後を継いだ橋と思われる。

(51)中井橋
 「中井橋」の由来は、はっきりしないが、「宮前橋」と「番屋橋」の中間に新たに作られた橋だからだろうか。和泉の名の起こりとなった貴船神社は、この近くらしいが、泉は涸れているということなので、貴船神社には寄らずに、次の橋に行く。

(52)番屋橋

 「番屋橋」の名は水番屋に由来するといい、「番屋下橋」とも称したという。神田上水には、幕府によって上水を維持管理するための水番屋が設けられていたが、その一つが近くにあったのかも知れない。江戸時代の和泉村にあった「下ノ橋」の後を継ぐ橋でもあるのだろう。

(53)一本橋
 明治になって、畦道と畦道を結ぶ橋が作られたのが最初だろうか。橋の名の由来は、丸太の一本橋からとも、文殊院の一本杉からともいう。或いは、地名に由来するかも知れない。川は清流とまではいかないが、川幅一杯に広がって流れ、底が透けて見えている。

(54)和泉橋
 地名の和泉を橋の名にしているが、新しい橋である。人道橋にしては、ゆったり幅の橋だったが、現在は工事中ゆえ、仮橋を渡って、右岸の人専用の通路を通って、次の橋へ行く。前に来た時から十数年経過して、ようやく、この橋の工事に取り掛かったというわけだ。

(55)弁天橋
 昭和の初期には架かっていた橋で、橋の名は近くの弁天社に由来するという。この辺りは、つい最近まで工事が行われおり、橋も新しくなっている。橋を渡って左岸を歩くと、途中に階段がある。鍵が掛っていなければ、水面近くまで下りてみたかったのだが。

(56)方南第1橋
 前に来た時には工事中で、「仮橋」を渡ったが、今回は、新しくなった「方南第1橋」を渡る。明治の末頃、この辺りに細道があった。多分、小さな橋もあったのだろう。やがて、上流に弁天橋が架けられると、この道は見捨てられ、いつか、橋もなくなってしまう。ここに、再び橋が架けられるようになったのは、ずっと後のことである。この橋から先、右岸を歩いて行くと、対岸に氾濫時の取水口が見えてくる。方南橋は、そのすぐ先である。


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