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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

高尾の梅郷散歩

2019-03-17 11:27:49 | 散歩道あれこれ

裏高尾の旧甲州街道沿いに梅林が点在しているというので、見に行くことにした。高尾駅を北口に出ると、運よく小仏行のバスが来ていたので、さっそく乗車。旧甲州街道に入ると道は狭くなるが、それでもバスは快調にとばし、そして前触れもなく停車した。何事が起きたのか分からぬまま時間が過ぎ、そしてようやく分かったのは、道が狭いため駅へ戻るバスとすれ違えるのはこの場所しかなく、待ち合わせているということだった。車は次から次へと来るのだが、バスはなかなか姿を現さない。ここで長時間待っているくらいなら、下りて歩こうかと腰を浮かした途端、それを察知したかのようにバスが姿を現し、するりと横を通り抜ける。そして、やおら、小仏行きのバスが動き始めた。

思わぬ時間を消費してしまったため、あまりのんびりとはして居られない。摺指で下車する人が居たのを幸い、こちらも摺指で下車。行く手を暫し眺めたあと、先に行くのは諦めて、引き返すことにする。

湯の花梅林の横を歩く。逆光で見る限りでは、花はまだ見ごろのように見える。蛇滝への道を右に分けて進むと、高尾梅の郷まちの広場に出る。梅まつりの時はここも賑わっていたのだろうが、現在は閑散としている。ただ、梅林をゆっくり見て回るには今の方が良い。

広場から、空高く架かっている圏央道を見上げる。ここまで高ければ圧迫感は無く、騒音も気にはならない。圏央道が高尾山の貴重な自然にどのような影響を与えているかは、今後も継続して見ていく必要はあるのだろうが、今となっては。

先に進むにつれ旧甲州街道は小仏川に近づいていく。梅郷橋を渡ると、その先で天神梅林の看板を見つけた。急坂を上がれば天満宮の祠があるようなのだが、手持ちの時間は多くない。見えぬ祠と梅林を仰いでから橋まで戻り、三筋の滝を眺めたあと、街道散歩を再開する。

緩やかな坂を上がって小仏関所跡に行く。もとは小仏峠に関所があったというが、江戸時代になって駒木野宿に関所が設けられる。その跡地に梅が植えられ、今は関所梅林と呼ばれるようになった。小休止したあと、関所跡の少し先を右に入って小仏川に出る。

小仏川の土手の道のような遊歩道を歩く。振り返ると、傾き始めた日の光を受け止めて輝いている梅の並木が見える。こちらを見送ってくれているような、そんな気がした。遊歩道梅林の道は程なく尽き、現在の甲州街道に出る。裏高尾には、本日見て回った他にも梅林があるようだが、それは次の機会に回し、本日の梅郷散歩はこれにて終了とする。お疲れさま。

上椚田橋から小仏川の上流をしばらく眺め、それから高尾山口駅に向かう。山から下りて来たらしいグループが前を歩いている。そう言えば、近頃は山に登っていない。せめて高尾山ぐらいは、また登りたい。そう思いながら、到着したばかりの特急電車に乗り込む。

 


中野通りの桜並木

2018-03-29 19:08:03 | 散歩道あれこれ

中野駅北口の歩道橋(中野駅北口駅前広場東西連絡橋)から北を眺める。中野通りには桜並木が続き、桜まつりも開催されている。

中野駅から中野通りを北へ、満開の桜の下を歩き、新井交差点を越え新井五差路を過ぎる。新井薬師へは裏から入ることも出来るが、表から入る方が良さそうである。

新井薬師は梅に縁のある寺だが、桜も多い。門を入って直ぐのところには、見事なしだれ桜がある。

参詣を終えて境内を見て回ると、北東側にあまり見かけない桜があった。プリンセス雅と名付けられた新種で平成13年に植樹したという。

新井薬師の裏に出て公園を抜け、中野通りを歩道橋で渡る。写真は橋の上から南側を見たものになる。橋を渡ったあと、左側の歩道で中野通りを北に向かう。

小学校の近くの歩道橋を渡り、橋の上から中野通りの北側を見る。ここからは、右側の歩道に移り、踏切を渡って先に進むと、中野通りの上に架かる橋が見えてくる。

交差点を渡り石段を上がって橋の西側に出る。橋の名は片山橋で、中野通りを通すため台地を崩して切通しとした時、分断されてしまった道の代わりに架けられた橋らしい。橋の上で南側を見てから、石段を下って左側の歩道で先に進む。

妙正寺川を過ぎたところで、中野通りを渡って哲学堂に行く。川の北側は花見の場所として使われているが、今回は川の南側の庭園エリアから、川の上に枝を伸ばしている桜を眺める。

哲学の庭を過ぎ、妙正寺川と調整池の間の歩道を歩く。この先、川の両側に桜がある。


川の南側からは哲学堂の菖蒲池辺りが見える。橋を渡って哲学堂に入り菖蒲池に行く。

菖蒲池の北側はつつじ園の傾斜地で、桜の下には流れが作られている。

つつじ園の坂を上がる。上から見ると、つつじは未だ緑一色で、桜の引き立て役になっている。

理想橋を渡り時空岡に出る。桜の上の三学亭は改修工事中なので、桜を前景に入れて宇宙館を眺める。

哲学関という門から外に出る。野球場とテニスコートの間は桜並木になっている。野球場を覗くと桜の上に、国登録有形文化財になっている野方配水塔(水道タンク)の頂部が見える。今回はここまで。最寄りの落合南長崎駅までは1kmほど。


綾瀬の桜を見に行く

2018-03-28 19:34:24 | 散歩道あれこれ

綾瀬駅の東口を出て右に行くと東綾瀬公園の入口がある。右手の広場を横目に、細長い公園内を北に向かうと、さっそく桜が出迎えてくれる。東綾瀬公園は全体として逆U字型になっており、この先の進路は逆U字の左側すなわち西側に相当する園内を歩く事になる。

斬新なデザインの東京武道館の東側を進み、その裏手を左に行くと東綾瀬公園の続きが現れる。細長い園内には、せせらぎが流れており、桜が各所にある。また、園内の所々には遊具や多目的広場が設けられている。

河内橋で道路を渡ると、公園は右へと曲がっていき、野球場のある健康スポーツゾーンとなる。道路を挟んで向こう側は、逆U字型の東側の部分になるが、今回は割愛して先に行く。

健康スポーツゾーンの北東側から外に出て北に向かう。道に沿って細い水路が流れているが、これは花畑川を水源とした農業用水の中居堀を表しているらしい。この水路をたよりに北に進んだあとその先を右に折れ、水路に沿って交差点を渡り次の角を左に折れる。水路は稲荷社で途切れている。

稲荷社から北に向かうと、しょうぶ沼公園となる。この公園の見所は菖蒲になるのだろうが、桜も多いので花見にも向いている。この公園は北綾瀬駅に隣接しており、綾瀬駅からのひと駅散歩であれば、ここで終りという事になるが、今回はもう少し足を伸ばしたい。

しょうぶ沼公園から東に少々歩き、環七を渡って大谷田公園に行く。ここにも桜はあり、花見が出来る。

大谷田公園から東に行くと葛西用水に出る。用水路沿いに続く桜並木を眺めながら北へ向かうと、足立区の郷土博物館に出る。

郷土博物館では桜まつりを開催中で、期間中は無料で館内が公開されている。葛西用水沿いの桜並木はまだ先に続いているが、今回は足立区郷土博物館で一先ず終りとしたい。


トキワ荘のあった街を歩く

2017-07-09 20:01:11 | 散歩道あれこれ

戦前、旧長崎村に建てられたアトリエ付き貸家に、多くの若い芸術家が集まり、不自由な時代を自由に生きた。そして戦後、旧長崎村の内に建てられたアパート・トキワ荘に多くの若いマンガ家が集まり、まだ貧しかった時代に新しいマンガの流れを作った。トキワ荘は既に無いが、その跡と現在の町の様子を、前回の池袋モンパルナスに引き続いて見てまわる。

椎名町駅近くの山手通りに隣接する金剛院が、今回の出発地となる。何年か前から進められてきた工事の結果として寺は一新され、いま流行の寺カフェが“なゆた”と言うグーゴルの向こうを張った名前で登場している。区指定文化財の赤門も改修され境内も整備されて、新たにマンガ地蔵が建立されている。菩薩のまま人々を救済するため各地を巡る地蔵も、ここではマンガに心を寄せている。その視線の先にはトキワ荘があるのだろう。地蔵に一礼して赤門を出ると不動尊の祠がある。その前の道は江戸時代からの道で、天祖神社の東側を通って南に向かっていたが、山手通りの開通によりこの道は分断されてしまっている。不動尊の祠から椎名町駅に行く。駅名の椎名町は南長崎の旧称だが、江戸時代には長崎村のうちの小名(小字)で、練馬に向かう通り沿いに民家が軒を連ねていた地域であった。

椎名町駅は改修工事により南北自由通路が設けられている。北口のアトリエ村周辺紹介地図を眺めてから上がると、改札の南側に椎名町駅ギャラリーが設けられていて、ゆかりのマンガ家の展示などが行われている。右側の階段を下ると、“ようこそ!トキワ荘のあった街 椎名町へ”の壁画が出迎えてくれる。この壁画の背景には、インクやペンやマンガの原稿が宙を舞っている。壁画にはトキワ荘に住んだマンガ家とキャラクタが描かれている。玄関の上のテラスには手塚治虫、二階の屋根の上には右から、赤塚不二夫、鈴木伸一、寺田ヒロオ、藤子F不二夫、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、そして地上には左から水野英子、よこたとくお、が並んでいる。そして、その右側の背広姿は確か・・・。

椎名町駅南口に出て、“トキワ荘ゆかりの地・散歩マップ”により、トキワ荘ゆかりの地を確認して西に向かう。突き当りを左に行くと椎名町公園に出る。公園に沿って西に行き次の角を左折、大和田通りを渡って南に向かうと、右側に区民ひろば富士見台がある。ここは、トキワ荘の住人も通った公衆浴場“あけぼの湯”と、石ノ森章太郎が住んだ“あけぼのハウス”の跡で、その事を示す、トキワ荘ゆかりの地・案内看板がある。なお、区民ひろば南側の小庭にある石灯籠は“あけぼの湯”にあったものらしい。

区民ひろばから先に進むと目白通りに出る。右側のドラッグストアの壁面に案内看板(上の写真)があり、ここにマンガ家たちが映画を見に来た“目白映画”があった事を示している。目白通りに出て左側、山手通りとの交差点の南西側角に、マンガ家たちが利用した“エデン”という喫茶店があったが、今は存在せず、その事を示す案内看板が北側の歩道に置かれている。目白通りを右に行くと、マンガ家たちがパンやケーキを買っていた“片山菊香堂”があり、その先には赤塚不二夫が2階のアパートに住んでいた“鈴木園”があった。その事を示す案内看板が北側の歩道に置かれているが、片山菊香堂は既に無く、鈴木園は今も残っているが建物はすっかり変わってしまっている。

さらに西に向かって進むと二又交番があり、左側の目白通りと右側のトキワ荘通りを分けている。この分岐点は江戸時代からあり、左側の葛ケ谷村への道と右側の練馬通りを分けていた。明治になると右側の道は清戸道の一部となるが、大正時代の終わりごろ豊島園が開園すると、目白駅~豊島園のバスが右側の道を通るようになり、洛西館という映画館もあってこの辺りは賑やかな場所となる。1938年に左側の道が拡幅される以前は、右側の道が目白通りであったらしい。右側の道、トキワ荘通りを進むと、“トキワ荘通りお休み処”が右側にある。2013年12月に吉津屋米店のあとを改装して休憩案内施設としたもので、上の写真はオープンした時の様子である。

上の写真は現在の“トキワ荘通りお休み処”で、来館者はすでに5万人を越えている。2階にはトキワ荘の寺田ヒロオの部屋が再現されている。広さは四畳半で、仕事場を兼ね来客もあった部屋としては思いのほか狭い。2階では現在、トキワ荘と関わりがあった雑誌、「漫画少年」についての展示も行われていた。「漫画少年」は、戦前の「少年倶楽部」の名編集長であった加藤謙一が、戦後に講談社を退社したあと学童社を立ち上げて1947年に創刊した子供向けの雑誌で漫画のほか小説や読物があった。また、投稿欄があり多くのマンガ家を育てたが、経営的には苦しかったようで、1955年には廃刊になっている。

トキワ荘通りを西に進む。2015年開設の南長崎マンガステーションの先を右に入る道があり、その奥に子育地蔵の祠が見える。“子育地蔵”はもともと二又交番の場所に道標を兼ねて建てられていたが、1938年の道路拡幅工事に伴い現在地に移されたという。戦前の地蔵の縁日は盛況だったそうだが、1977年になって“子育て地蔵まつり”として行われるようになり、2009年からは8月に開催される“子育て地蔵まつり”と同時に“トキワ荘通りマンガの聖地まつり”が開催されている。

 

上の写真は去年の“マンガの聖地まつり”の様子で、マンガの聖地にみんなの夢で大きな虹を描きたいとして、夢を描いた応募作品を7色の用紙にプリントし貼り合わせたモザイクアートを通行止めにしたトキワ荘通りに並べていた。

子育地蔵に行く道の西側には、トキワ荘の住人も買い物をした第一マーケットがあったが、現在は無い。先に進んで次の角を右に折れると、左手に“紫雲荘”がある。赤塚不二夫が借りていたアパートで、現在は紫雲荘活用プロジェクトとして、マンガ家を志望する入居者を募集している。なお、“マンガの聖地まつり”の時には紫雲荘も特別公開されている。紫雲荘の少し先、道の左側にトキワ荘の入口があり通路でトキワ荘の玄関に通じていた。トキワ荘の入口と道を挟んで反対側には落合電話局があり公衆電話ボックスがあった。電話など簡単には持てない時代、出版社などからの連絡には電報が使われ、マンガ家達は公衆電話を利用して連絡していた。しかし今、電話局は姿を消し、マンションが建てられている。

トキワ荘通りに戻って西に向かい、案内看板に導かれて右に入ると、“トキワ荘跡地”のモニュメントがある。1982年に取り壊されたトキワ荘の跡地には、現在、日本加除出版(株)の建物が建っているが、2012年、その敷地内にトキワ荘跡地モニュメントが建てられた。 

1953年、「漫画少年」を創刊した加藤謙一の子息が新築のトキワ荘に入居し、話を聞いた手塚治虫が四谷の下宿からトキワ荘に移ってくる。それ以降、若手のマンガ家が次々と入居する。漫画少年が廃刊になった1955年頃は、マンガは子供の見るものと考えられていた時代であったが、それでも、トキワ荘に住んでいたマンガ家たちはマンガを書き続けていた。そして、1962年、アシスタントからマンガ家として独立した山内ジョージを最後にトキワ荘からマンガ家がいなくなる。それから20年。老朽化したトキワ荘の解体が決まると、トキワ荘に住んでいたマンガ家たちが同荘会を開き、NHKもドキュメンタリ-番組を制作している。

トキワ荘跡地のモニュメントから、トキワ荘通りに戻る。通りの向こう側の中華料理店“松葉”はトキワ荘が建てられる前からあったらしく、マンガ家たちはよく出前をとっていたという。トキワ荘には共同の炊事場があったが、昼は外食になる事が多かったそうである。

トキワ荘通りを西に進み、次の角を右に入って300mほど北に進むと大和田通りに出る。この通りが開かれたのは昭和の初め頃で、商店が並ぶ通りであったらしい。ここを左に行くと右側に南長崎公園があり、鈴木伸一書き下ろしの“ラーメン屋台”のモニュメントがある。ラーメンを食べている人物のモデルは作者自身らしい。公園から大和田通りを西に行き次の角を左折し、武田ハムを過ぎて南に向かえばトキワ荘通りに出る。その手前の南長崎コーポの北側を左に入った所に、トキワ荘の住人が通っていた“鶴の湯”という公衆浴場があったが今は無く、案内看板が置かれているだけである。

トキワ荘通りに出て右へ行く。二番目の角を左に入ったところに、マンガ家の“田中正雄の仕事場”があったという。トキワ荘通りを先に進むと左側に公園があり、2009年に設置された“トキワ荘のヒーローたちの記念碑”がある。最初にトキワ荘に入った手塚治虫に続いて同じ年に、面倒見が良く兄貴のような存在だった寺田ヒロオが入居する。手塚治虫が雑司ヶ谷の並木ハウスに移った後に、藤子F不二雄と藤子不二雄A(正しくは○にA)が入る。その後、鈴木伸一、森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、が入居する。入居者は漫画少年のマンガ投稿コーナーで実力を評価された中から選ばれたという。このほかに、トキワ荘に通ってくるマンガ家もいて、通い組と呼ばれていたが、記念碑のトキワ荘玄関前に置かれているスクーターは、通い組の一人が乗っていたものを表しているという。トキワ荘にはマンガ家のほか雑誌の編集者も訪れており、マンガ家たちの拠点のようであったらしい。なお、2020年にトキワ荘を復元する計画が進行中で、公園内の南側が予定地になっている。

公園の南西側を出てNTTの建物の南側を西に向かい、突き当りを右に行くと左側に“南長崎スポーツ公園”の入口がある。ここを入ってグラウンドに沿って進み、目白通りに出て右に行くと、スポーツセンタの建物の前に、寺田ヒロオのマンガによる“ゼロ”のモニュメントが置かれている。寺田ヒロオは子供の心を清く正しく育てると言う「漫画少年」の理念を受け継いだマンガ家であったらしい。

昔は十三間通りと呼ばれていた目白通りを先に進むと、道路はやや左に曲がるようになり、その先の右側に“南長崎はらっぱ公園”がある。公園の西側の道を北に行くと、バスも通るトキワ荘通りに出る。ここを左に行くと、右側に“特別養護老人ホーム風かおる里”があり、森安なおやのマンガ「いねっ子わらっ子」の“マコちゃん”のモニュメントが置かれている。森安なおやは、性格の点もあって、トキワ荘のマンガ家の中では唯一の落ちこぼれになってしまったが、その抒情的で繊細なマンガの評価は高いらしい。

特別養護老人ホームの西側の道を進み、三番目の四つ角を右に行き300mほど歩くと東長崎駅に出る。駅の南北自由通路に上がると、右側に手塚治虫の「ジャングル大帝」の“レオ&ライヤ”のモニュメントが置かれている。今回のコースは、ジャングル大帝と何がしかの縁がある西武池袋線の東長崎駅が締めとなる。

 

  <参考資料>「池袋学2014、2015」「トキワ荘のヒーローたち・企画展図録」「”椎名町物語””トキワ荘ゆかりの地散策マップ”などパンフレット」


池袋モンパルナスの跡地を訪ねて

2017-06-17 08:14:03 | 散歩道あれこれ

池袋近辺に芸術家が住み始めるのは大正の初めの頃からだが、昭和の初めごろ、農村風景が残っていた池袋の西側の地域にアトリエ付きの貸家が次々と建てられるようになると、若い芸術家たちが多く移り住むようになった。アトリエの並ぶ一帯はアトリエ村と呼ばれていたが、詩人で画家の小熊秀雄は、パリのモンパルナスにならって、このようなアトリエ村を池袋モンパルナスと呼んだ。現在、アトリエ村の建物は殆ど残っていないが、地下鉄の要町駅を起点に、その跡地をめぐってみた。

要町駅を南側に出て西に向かい、次の信号で左に入りやや上がって下る。信号のある交差点を右に行くと、道の右側に地蔵堂がある。この道の左側の宅地の辺りに、小熊秀雄が住んでいた東荘があった。坂を上がって、江戸時代からの道を通り過ぎ、城西学園に沿って西に進み次の角を左に折れる。南に向かって進むと右側に千早フラワー公園がある。この辺りにもアトリエがあったようである。さらに南に進んで八幡神社のある角を右に折れる。洋画家の松本俊介の旧居はこの近くにあったらしい。先に進んで巣鴨信金を左に、以前は谷端川が流れていた道を横切る。さらに西に進んで二つ目の四つ角の南側は、さくらが丘のアトリエ村旧地で、南北の道を挟んで西側を第一パルテノン、東側を第二パルテノンと呼んでいた。四つ角を少し西に行くと、左側の小公園に長崎アトリエ村の説明版が置かれているが、当時のアトリエ村の跡らしきものは見当たらない。さくらが丘パルテノン(アトリエ村)は1935年頃から建てられ始めており、原爆の図で知られる丸木位里も、ここに住んでいたという。小公園から先に進み、次の角を右に行くと、右側に西向不動の祠がある。今は存在しないが、ここには不動湯という公衆浴場があり、その東側には第三パルテノンと呼ばれたアトリエ村があった。アトリエ村が建てられた当時、この辺りは湿地で周辺には田圃があったという。

北に向かって進み変電所を過ぎて信号を渡り二つ目の四つ角を右に行くと、熊谷守一美術館に出る。熊谷守一は単純化した独自の画風を築いた画家で、文化勲章を辞退したという逸話があり仙人とも呼ばれていた。熊谷守一は1932年にこの地に住むようになったが、当時は一面の大根畑で所々に農家が見えるような場所だったという。その住居あとに建てられたのがこの美術館で、現在は区立の美術館になっている。

熊谷守一美術館から東へ行き、二つ目の四つ角を左に折れて北に進む。以前は谷端川が流れていた道を進めば、左側に峯孝作品展示館があり、つつじが丘アトリエ村跡の表示がある。峯孝は彫刻家で1937年にさくらが丘のアトリエ村に入居しているが、1938年に建てられたつつじが丘アトリエ村に仕事場を移している。峯孝作品展示館の北側に西部区民事務所があるが、もともとは平和小学校の敷地だったところで、廃校後の校舎に西部区民事務所のほかアトリエ村資料室も開設されていた。校舎が取り壊されたあと、区民事務所は新しい建物になったが、アトリエ村資料室は休室になっている。

西部区民事務所を過ぎて北に進み、谷端川の水源の池があった粟島神社の横を通り、先に進むと要町通りに出る。ここを渡って東に行くと千川彫刻公園がある。彫刻家の中野素昻は1930年からこの地に住んだが、その旧宅跡を公園としたもので、中野素昻のほか峯孝や中野蒋の作品が設置されている。

千川彫刻公園から東に行き、信号のある交差点を右に曲がり、南に進んで次の信号のある交差点を左に曲がる。突き当りの道は南に突き出た舌状台地の稜線部分を通る江戸時代からの道で、左へ行けば富士塚の横を通り大山の辺りへ、右へ行けば要町通りを渡り城西学園、長崎神社を経て目白通りへ向かう道となる。ここを右に行き次の角を左に折れて進むと、左側に培風寮跡の表示がある。培風寮は詩人で書店主でもあった花岡謙二が1923年に賄い付き学生寮として建てたものらしいが、下宿として使われ画家の靉光などが住んでいたという。

培風寮跡から東側の突き当りを左に折れ次の角を右に入るが、この先は曲がりくねった細い道が続くので、へび道と呼ばれている。道は天理教の前を通り右に曲がって直ぐ左に折れるが、その先の塀に、少々汚れているが、すずめが丘アトリエの表示が架かっている。すずめが丘アトリエ村が建てられたのは1931年で、最初のアトリエ村ということになる。建物は培風寮の南側や、へび道の周辺にあったようである。へび道を下って、えびす通りに出るが、この辺りは戦災の被害が少なく、区画整理も行われなかったらしく、道は少々わかりにくい。

えびす通りを北に行く。えびす通りは江戸時代からの道の形を残しているようで、曲がりくねった道になっている。延命地蔵を過ぎ、庚申塔の先の丁字路を右に進むと山手通りに出る。ここを右に行き次の信号で山手通りを渡って直進すると、暗渠化された谷端川の緑道に出る。ここからは南に向かって緑道の上を歩いて行く。緑道の右手の辺りはアトリエ村があった場所で、みどりが丘アトリエ村(1935年頃)は北側に、光が丘アトリエ村(1937年頃)は南側にあった。なお、この二カ所のアトリエ村は板橋区で、他は豊島区に属している。

谷端川は粟島神社の池を水源とし千川上水からの助水を入れて南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北上し、下板橋駅を回り込むようにして南東に流れていたが、現在はすべて暗渠になり、西武池袋線の線路際から下板橋駅までの間が緑道になっている。緑道を南に進み立教通りを渡った先の谷端川の周辺にはアトリエが幾つか建てられていたようである。緑道を南に進み、線路の手前で右に行き山手通りの下をくぐると椎名町駅に出る。

<参考資料>「池袋モンパルナスそぞろ歩き」「豊島区史地図編」


落語散歩「道灌・怪談乳房榎・高田馬場・紀州」

2017-05-06 07:52:25 | 散歩道あれこれ

雑司ヶ谷から東新宿まで、落語の「道灌」のほか、「怪談乳房榎」、「高田馬場」、「紀州」にゆかりのある場所を歩いてみた。今回は、池袋から鬼子母神に行き欅の参道を通って、都電荒川線の踏切を渡ったが、副都心線の雑司が谷駅か都電の鬼子母神前を起点としてもよい。

踏切を渡って郵便局を過ぎ、二番目の左に入る道を進んで雑司ヶ谷公園を過ぎると、程なく目白通りに出る。目白通りを渡って富士見坂を進むと、直ぐ左側に細い坂道が分かれていく。この坂を日無坂と言い江戸時代からの古い道で豊島区と文京区の境界になっている。石段もある急坂を下って突き当りを左に行くと、豊川浴泉という都内では数少ない銭湯がある。ここを過ぎ次の角を右に入り、二つ目の角を左に行くと豊島区立・山吹の里公園に出る。この辺りが“やまぶき村”と呼ばれていた事から、道灌ゆかりの山吹の里を公園の名にしたようで、山吹の里の説明版も置かれている。公園で一休みしてから、豊川浴泉まで戻る。

豊川浴泉の前の道を西に進むと、右からくる富士見坂の道と合し、その先で宿坂から下ってくる古道に出る。左側には南蔵院があるが、ここは三遊亭圓朝の「怪談乳房榎」の舞台となった場所で、絵師の菱川重信が龍の絵を描いていた寺ということになっている。

南蔵院から面影橋に向かうと、橋の手前のオリジン電気跡の工事現場の角に、供養塔を再利用した山吹の里之碑が置かれている。なお、この碑は豊島区側に位置している。

神田川を面影橋で渡り、新目白通りを渡って左へ。水稲荷への道に入って甘泉園公園に行く。江戸名所図会の記述からすると、山吹の里は、神田川南側の新宿区側にあった事になるが、現在の甘泉園の門も、江戸名所図会の“山吹の里”の挿絵に描かれた門にどこか似ている。

甘泉園から水稲荷に行くと、叔父の決闘に助太刀した堀部安兵衛の碑が立っている。ここの一つ南側の東西の道を茶屋町通りと呼び、高田馬場の北側に沿って茶屋が並んでいたという。ここは、仇討ちがあると聞いて大勢の人が集まったが、いつまで待っても始まらない。実は、茶屋に頼まれて人集めをしただけだったという、落語の「高田馬場」の舞台でもある。

西早稲田の交差点を渡り、坂を下って馬場下町の交差点に出る。江戸名所図会では、道灌が鷹を放したのは戸塚の金川の辺としているが、金川は交差点の近くを流れていた蟹川と考えられる。交差点を右に行き戸山公園に行く。この公園は、尾張徳川家下屋敷の戸山荘の跡で、今は藤の花が盛りになっている。落語の「紀州」は、将軍の跡目を紀州候と争って敗れた尾州候の話である。

戸山公園の箱根山南口を出て大久保通りを渡り、統計局の西側の道に入る。抜弁天北公園を過ぎ、南に真直ぐの道を進むと抜弁天通りに出る。交差点を渡って西に、次の角を左に新宿センター通りを進み、次の角で左に行くと大聖院の下に出る。駐車場への坂を上がると、右手の駐車場の隅に紅皿の墓がある。太田道灌に山吹を差し出した少女を紅皿とする話によるもので、中世の十三仏板碑を用いて墓としている。今回の落語散歩のコースはここまで。最寄り駅は東新宿駅である。

 

(注)この記事を投稿するにあたり、“散歩道あれこれ”というカテゴリーを新設した。