沖縄県糸満市伊敷にあるガマ。
名前を「轟(とどろき)の壕…トドロンガマ」という。
沖縄県民の憩いの場所であったガマ(鍾乳洞)が,戦時中は避難場所になったことがある。
その時,様々な名前が付けられて機能してきた。
有名な所では,伊原第三外科壕である。
映画ひめゆりの塔で,有名になった場所である。
同じようなガマで,その歴史があまり外に出されていないところも多々ある。
今回は再訪を考えている「轟の壕」の写真について。
高い場所から設けられた階段を降りていくゆきたんく。 → Map
ここに来る前に見学の学生がいたのだろう。前方の穴から声が聞こえてくる。
とても小さい穴だ。ピンボケで申し訳ない。
階段を降りる前に,ガイドのものだろう一式が置いてあったので,学生たちはガイド付きで中に入ったと思われる。
ゆきたんくは同行のY氏と,糸数アブチラガマで予約が必要なこと,ガイドが付かないと入れないことを知った。
ここも同様だと思い,中にまでは入らなかった。
ということで再訪が必要だと考えているのである。
ところで日本兵というのは,世界の中でも規律正しく,誠実な人間が多いと聞く。
ただ,エラ―はあるもので大人数の組織の中には様々な人が存在する。
教師でも犯罪を犯す人,政治家でも過ちを犯す人・・・
まして,当時の条理で考えたら自分は耐えられるのだろうかという環境の中で時間が過ぎていたのだ。
ここ轟の壕での日本兵は善人ではなかったように思う。
石原昌家氏著の「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕: 国内が戦場になったとき」を読んだ。
ここでは,日本兵による住民追い出し、脅迫等が行われた。日本兵は自分の都合によって、住民を壕の奥に閉じ込めたり、入口付近に置いたりしてわが身を守っていた。米軍に投降した時、米兵が「この人達殺しますか。殺しませんか」と聞いた時、住民が一斉に「殺せ」といったという。それほど、日本兵による虐待は酷かったという。
ということ,
「阪神タイガース松木一等兵の沖縄捕虜記」にも,沖縄の墓(大きな造りになっている)に避難した住民を追い出して,危険にさらしたり,命を落とす危険な目に遭わせたりする行為を働いたことが書かれている。
どこの墓のことを指しているかは本文からは分からなかった。
せめて分かる場所については,現地で見聞を深めたいと思う。
様々な角度から見て,検証する姿勢を持つことが大切だと思う。まして先に大戦においてではある。