うん、国立病院機構霞ヶ浦医療センターへ行ってきた。
うん、自主的なお勉強である。
友達に戦跡博士がいる。
その方のデータを頼りに遺構を探す。
こんなのが残っていたんだ。
そういうのがたくさん見つかった。
こういう水栓がいくつか残されている。 → Map
波に錨のマーク。
そう海軍の印だ。
これは消火栓。
いつ責められて、火災になるかを考えていたんだね。
これ一つ見れただけで、ここにきて良かった。
うん、国立病院機構霞ヶ浦医療センターへ行ってきた。
うん、自主的なお勉強である。
友達に戦跡博士がいる。
その方のデータを頼りに遺構を探す。
こんなのが残っていたんだ。
そういうのがたくさん見つかった。
こういう水栓がいくつか残されている。 → Map
波に錨のマーク。
そう海軍の印だ。
これは消火栓。
いつ責められて、火災になるかを考えていたんだね。
これ一つ見れただけで、ここにきて良かった。
松戸は軍都だった。
現在、相模台と呼ばれるところは、裁判所、大学、小学校、中学校、大きな公園と隣接しており、文教都市の様相を呈している。
ところが、ここはその昔陸軍工兵学校と言って、兵隊のエリートを育てていたのである。
まぁ、標高の高い良い部分を軍が使っていたのだな。
で、今日の話。
ゆきたんくは行きつけのガソリンスタンドで給油をしていた。
終わって自宅のある南に出ようとしたら、車の並んでいること。
左に出てすぐ曲がり、狭い道で自宅に戻ることにした。
途中で見慣れたものに遭遇した。
なんかある。(奥の方には給油したコスモスタンドが見える。)
ここは低地なので、軍の施設があったということは今までの調べでは出てこなかった。
車を降りて近づいてみる。
材質、形状、サイズ。
どう見ても陸軍の境界標柱にしか見えないが、彫られている字を読まないとはっきりはしないな。
どれをとっても陸軍の境界標柱である。
2/12(土)の投稿にも、境界標柱の写真を載せてある。
それではアップの写真を公開する。
字がはっきりと見えないが、暗くなってから懐中電灯を当てれば字が浮き出るだろう。
うん、職場で流山市のことに詳しい人と話をすることができた。
そこで得た情報で、ゆきたんくが反応したものは。
うん、「陸軍」関係の遺構のことである。
現在、流山市のイトーヨーカドーや流山南高等学校、角上魚類があるところは、陸軍の糧秣廠流山出張所のあとである。
当時のもので残されているものは「千草稲荷」と糧秣廠の碑である。
陸軍を示すものが見当たらなかったのである。
そう、話を戻すと千草稲荷の中に陸軍の文字を見つけた時には逮捕編感激したという話である。
さっそく行ってみた。
もう何度となく「千草稲荷」には足を運んだゆきたんくであるが、今まで全く気付かなかったことなのである。
千草稲荷の鳥居。奥にケーズ電気が見える。
お稲荷さんの狐が乗っている石の台座にそれはあった。
かつてのように時間がたっぷりとあるゆきたんくではない。
情報を得たら、早いうちの取材を心がけるようにしたい。
かつて荒川区に官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
もっとも、その当時は荒川区ではなかったけれどね。
ゆきたんくが小さい頃、父親に連れられて初めて行った球場が「東京スタジアム」だった。そこが千住製絨所の一部だっと知ったのは最近のことだ。
そこが陸軍省管轄となったということで、日露戦争の時にも、ここで作られた服などが厳寒の地であるロシアの地で活躍したことは想像できる。
現在は東京都立荒川高等学校の周囲の一部を当時の煉瓦塀が囲んでいる。
多分関東大震災の際に崩れた所を、鉄板とボルトで補修してあるのだろう。そしてスーパー「ライフ」の角地にも、状態の良い塀が立っている。
当時を偲ぶことのできる煉瓦塀 → Map
説明板 → Map
ライフ側の塀 → Map 2021.10.02取材
このように、自治体で残してくれるのは非常にありがたいことだと思う。
それでなくても、負の遺産扱いでどんどん消えていくのであるから。
さて、今週の土曜日は何のお勉強をしようか。
小学生時代の自分が聴いたら、驚くような言葉を言って調べもののゆきたんくである。
ネットサーフィン(死語か?)をしている時に目に飛び込んできたニュース。
「一式双発高等練習機 一般公開」
の文字である。
国内現存、唯一の機体である。
秋田県の十和田湖に69年間沈んでいたために、壊されなかったのである。
その機体が生まれたのが、この立川にある立飛ホールディングズである。
その敷地内で公開されたのだ。
機種部分。
模型。
懐かしいノコギリ型の採光できる屋根。
消防法の関係で、屋内展示が許されるのが4日間ということで行ってきたのである。
この機体の乗員4名のうち助かったのは1名で、その当時の技術では湖底から引き揚げることは無理だったそうである。
待っている時間に、見た動画。
ゆきたんくは2006年8月6日に十和田湖にいた。
東北の旅を家族としていて、途中で熱中症にかかり休み休み移動していたのである。
具合が悪いのに毛馬内(けまない)に行きたいと我儘を言った。
それは、ゆきたんくに東京都の立川競技場でハンマー投げを手ほどきしてくださった「菅原武男(すがわらたけお…メキシコオリンピックでハンマー投げ4位に入賞)」さんの母校が毛馬内高等学校だったからだ。
話がずれたが、その途中で立ち寄ったのが十和田湖だった。
南岸の生出(おいで)という所だった。
生出キャンプ場があり、そこの公衆トイレにより休憩もしたのである。
湖の方に降りていく場所があった。
生出(おいで)の標柱
水はこの通り綺麗だ。
何気なく取った十和田湖北東方面の写真。
手前が中山半島で、奥に少しかすんでいるのが、御蔵半島。
動画を見ている時に、この写真の景色の場所に行ったことを思い出した。
平成24年9月に69年ぶりに引き上げらたれ飛行機のことは全く知らなかった。
ゆきたんくは引き上げ時の6年前にここにいた。
ゆきたんくが見たこの景色の中で、一式双発高等練習機は沈んでいたのである。
動画視聴の後、実際に機体に会った時に「久しぶりだね。」という感覚に浸った。
もう、感情移入の激しい男は嫌だなぁ。
先日の話である。
13日ね。
いし変に楽しいと書いて「れき」、川を付けて「礫川公園(れきせんこうえん)」に行った。
礫(れき)は小石のことなので、れきせんで、小石川という地名になる。
ここにあるのが、
東京都戦没者霊苑 → Map
である。
併設している遺品展示室にも入った。
国のために、命をかけておられた方々に頭が下がる思いで接してきた。
なんでこれを子供たちに伝えないのだろうか・・・
ずっと知っていた。
会いたかった。
でも、機会を作らなかった自分がいた。
ただの煉瓦君なんだけれどね。
旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ → Map
戦争遺跡オタクとしては、押さえておきたい一品というところか。
関東大震災での被害によって閉所されるまで、66年間陸軍工廠として小銃の製造にあたった。
跡地は、球場、遊園地、競輪場などレジャー施設なり、現在の形に変遷した。
小石川後楽園も名園として残っている。
そして、跡地のレンガは後楽園球場時代はその強固さから取り除くを見合わせたそうである。
先日もお出かけした。
東京大空襲・戦災資料センターである。
当時の写真や遺品などが展示・説明がされているところである。
そのところどころに資料が置いてある。
無料のもの、販売されているもの。
その場所でしか手に入れられないものは買うことにしている。
この歳になって、「近くでいつでも行けるところは行けばいい。」という考えがなくなってきたからだ。
「一期一会」とはよく言ったものである。
目の前の過ごしている時間というものは、その時だけのものであることを自覚してきたようである。
この封筒の中には、「図説 東京大空襲」が入っている。
うん、江戸川区の小松川さくらホールの隣にある。
江戸川区役所旧文書庫。
昭和20年(1945年)の東京大空襲の時に、江戸川区役所は火災で全焼している。
その隣にあった文書庫は火災を免れたという。
そして恒久の平和をテーマに、残されることが決まったという。
当時を伝える貴重な戦争遺跡である。
1924年(大正13年)に建てられた、当時の郡役所の倉庫。 → Map
今日は千鳥ヶ淵へ。
仕事の下見でたまたま見つけたのが2003年のこと。
ベンチがある。
そう思ったのだが、形が不自然だなと思って1枚写真を撮っておいたのだ。
後にそれが戦争遺跡で、高射砲の台座跡だったことを知る。
防衛のために、いろいろと考えていた当時のことを勉強せねばと思ったのはずっとあとのこと。
早くしないと、戦争遺跡がどんどん数を減らしていくことも考えなくてはならない。
ということで再訪した。
「千鳥ヶ淵さんぽみち」の一部として残っている台座。ありがたいことである。→ Map
2021年1月1日。
ゆきたんくの義父の墓参りに行った帰りに、たまたま目にしたものがあった。
板橋区立加賀公園の近くを通った時のことである。
いかにも戦跡と言った風情の建物が目に入った。
奥方のりたんに5分時間をもらい、写真撮影に出かけた。
帰宅してから調べたら、「陸軍板橋火薬製造所跡」だということが分かった。
それから10か月後に再訪することができた。
かつての軍需施設がきれいな形で残っているのである。
取り壊されるか、残されるのかは戦跡好きとしては気になることである。
嬉しいことに、板橋区ではこのような計画があることが分かった。
板橋区史跡公園(仮称)基本構想(平成 29 年 8 月策定)
本計画に先立ち、旧東京第二陸軍造兵廠内火薬研究所等近代化遺産群調査団による
学術調査、史跡、近代化遺産としての評価、国史跡の指定に向けた意見具申といった
経過の中で、当地を史跡公園として保存、活用するための基本方針として策定された。
この基本構想では整備の前提となる考え方、基本コンセプト、基本方針が定められ
ており、本計画はこの構想を基に策定される。( 以下引用文 )
○前提となる考え方
近代化・産業遺産を保存・活用した都内初となる史跡公園を整備します
公園になれば、中に入ることができるだろう。 → Map
先日の北区探訪のおり、寄ったところがある。
現在では、住人の倉庫に使われているのでは思う物件である。
かつては東京陸軍砲兵工廠の中で滝野川雷汞場(たきのがわらいこうば)として使われていた。
雷汞場については、戦跡に詳しい友達のサイトから引用をする。
リンクをクリックしてご覧ください。
街中にこのような戦争遺跡が残っている。
このようなものがいくつもあったのだろうが、壊されないでその姿を見れるのは戦跡好きにとってはたまらないものがある。
戦争が好きなのではない。
歴史の証人として、自治体が保存すべき貴重な資料だと思うのだ。
滝野川雷汞場跡 → Map
今日は北区へお出かけ。
北区立中央公園文化センターである。
白亜の素敵な建物である。
かつては、「東京陸軍砲兵工廠十条鉄砲製造所」という軍需工場であった。
であれば、近くに陸軍境界標柱があるだろう。
ということで散策した。
3本見つけた。
塀の一部になっているものが2つ、状態の良いものが一つ。
現在は文化センターの周囲の土盛り部分がある所、普段人が通らない所に1本隠れていた。
「陸軍用地」と刻まれている。奥の白い建物が文化センターである → Map
先日の投稿で、旧川光倉庫跡の陸軍境界標柱について触れた。
その境界標柱から115mの場所に陸軍歩兵学校門柱があった。
随分と前から知ってはいたのだが、川光倉庫のこんなに近くにあるとは思わなかった。
煉瓦の上からコンクリートが塗られているが、劣化してはがれている。 → Map
軍都千葉にあった陸軍学校の正門跡だ。
しっかり遺していただけるとありがたい。
うん、友人に教えてもらった。
千住製絨所跡(日本羊毛工業発祥の地)
何が戦争と関係があるのかって?
この地にあった製絨所は明治21年(1888)に陸軍省管轄となった。
軍用被覆の製造所だったのだ。
戦後民間に払い下げられ、昭和37年、広大な敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。ちなみにゆきたんくがはじめて行った球場は東京スタジアムである。
煉瓦米。このように残してくれるのはありがたい。
さて、建物をはさんで反対側にも塀はあるという。
再訪だ。