2018.4 京都を歩く 2日目 ⑤祇園の町屋で昼会席→桂離宮へ
町屋風の食事処で昼会席、八坂神社参拝
北門を出て花見小路通を歩く。古びた町屋を改造した食事処を探すが、観光客、修学旅行生で混み合っていた。花見小路通の1本東の細道から1本西の細道までぐるりと歩き、いくつか町屋の雰囲気を楽しめる食事処を見つけた。
その一軒を格子戸からのぞくと雰囲気も良し、外に置かれたメニューの値段も手ごろ、ちょうど中庭に面した席が空いたばかりの食事処を見つけた(写真)。
昼会席を頼む。花見小路通は賑わっていたが、1本奥に入ると喧騒は聞こえない。
この食事処は、間口が4間ほど、奥行きが中庭を含めて6間ほどだった。1994年8月、京都・中京区の百足屋町で京町家の住み方を調べた・・http://www12.plala.or.jp/yoosan/調査研究・論文報告参照・・。平安京の町割りでは1戸主は15m×30mが単位だったがそれから1200年経った京町家の住み方に着目した調査である。
そのときの記憶に照らしてもこの食事処は狭い。平安京の町割りの間口は1/2、奥行きは1/3ほどである。祇園だから、大いにはやった店は周りを買い取り構えを大きくしただろうが、個人経営では間口1/2、奥行き1/3ほどがこなしやすいのかも知れない。
1階には4人掛けテーブル席が4つとカウンター席だけとこぢんまりしている。私はこぢんまりしている方が落ち着く。壁、床を白く仕上げ、床、柱、格子窓に木目を表したつくりも落ち着きを演出している。
まず八寸をいただく。八寸は8寸角≒24cm角のお盆、あるいはそのお盆に載った料理のことである。
和食は、洋食もそうだが、見た目の形、色合い、香り、盛りつけられた器を楽しむことから始まる。次に、口に入れたときの味、堅さ柔らかさ、乾湿の度合い、歯ごたえ楽しむ。どちらかといえばそれぞれの量を少なくし、さまざまな食材の料理を楽しみたい、と思う。
値段が手ごろながらここでは八寸に続いて、小さな器に見た目も良く食欲をそそる盛りつけで、京丹波産黒豆、厚焼き玉子、ホタルイカ酢味噌和え、蕗の薹天ぷら、そら豆旨煮、小鯛笹漬け棒寿司、鯖生酢、甘海老などが出た。一つ一つ、この食材は?、どんな味?、器がいいねなどと楽しみながら箸を進めた。
次に、鰆柚子庵煎り胡麻焼き、水菜・春キャベツ・お揚げ、白うどの土佐酢和え、筍・わかめ・蕗の炊き合わせをいただき、胡瓜と大根の糠漬け、焼き厚揚げと切り干し大根の赤味噌仕立て、蕗の薹とちりめんじゃこの炊いたんでご飯を食べた(写真)。
最後の桜風味の白玉団子も完食した。昼会席とは思えないほど多彩だった。
炊いたんは始めて聞く。スタッフに聞いたら、だし汁などに具を入れ弱火で炊き込んだ料理=「炊いたもの」が「炊いたん」に変化したそうだ。
とすると、おばんざいなどの京料理の多くは炊いたんということになる。「煮物」とか「炊き合わせ」よりも、「炊いたん」の方が異文化に感じ、食欲をそそる。
ゆったり食事を終えたあと、四条通に出る。右手に八坂神社の朱塗りの楼門が見えた(写真)。八坂神社は祇園さんとも呼ばれる祇園の氏神であり、祇園祭も八坂神社の祭礼である。八坂神社に参拝してから、鴨川を渡り、阪急京都線河原町駅から桂駅に向かう。
桂離宮古書院は初代、中書院は2代、新御殿は3代の造営
14:30ごろ桂駅に着く。参観は15:30~なので歩くことにした。桂川街道を渡った少し先に障がい者自立支援施設があり、カフェ桂の泉も経営していた。30分ほど時間にゆとりがあるので、前庭のオープン席でコーヒーをいただいた。桂川の上流の一つは高山寺、西明寺、神護寺を流れる清滝川で、水質はAAと良好である。桂川も水質Aが保持されている。桂川流域には良好な水が流れていたようだ。前庭に井戸がある。カフェの名はこの井戸に由来したのかも知れない。
桂離宮表門を回る。受付前に参観者が集まっていて、10分ほど前になると係が受付順に案内してくれた。
午前中に配布された参観許可証と身分証=運転免許証を見せ、待合室に入る。待合室には大小の無料ロッカーが用意されていて、見学に必要のないものは預けるようになっている。セキュリティ対策も兼ねているようだ。
待合室にはモニター画面があり、動画で桂離宮の見どころが紹介されていた。受け付けでくれたパンフレットと照合しながら予習ができる。
web情報と合わせると、1615年、後陽成天皇の弟である八条宮初代智仁親王(1579-1629)が別荘としてここに桂山荘を創建したのが始まりになる。古書院が建てられた。あわせて大池、築山、茶屋などがつくられた。
智仁親王没後、後を継いだ八条宮2代智忠親王(1619-1662)はまだ9才だったため、桂山荘は荒廃してしまう。
幸い、智忠親王は加賀藩2代目前田利常(1594-1658)の娘富姫と結婚して、財政的に豊かになる。さらに、富姫の母=利常夫人は徳川秀忠の娘珠子であり、後水尾上皇皇妃和子の姪だったため、政治的な後ろ盾もつき、山荘の復興、増築を進めることができた。古書院を改築して中書院を増築し、月波楼、松琴亭、賞花亭、園林堂などが建てられた。
智忠親王は44才で没する。子どもがいなかったため、後水尾上皇第11皇子幸宮を養子にしていて、第3代隠仁親王として後を継いだ。
1663年の後水尾上皇の桂山荘行幸にあわせ、古書院・中書院に雁行して新御殿を増築し、庭園も改修された。
複雑に入り組んだ池、大小5つの島、土橋、板橋、石橋、船着場、灯籠や手水鉢、築山、州浜、造園などは初代智仁親王が手がけ、2代智忠親王、3代隠仁親王がいまに残る形に仕上げたようだ。八条宮家は明治時代に途絶え、宮内庁所管となり、桂離宮と称されることになった。
宮家の優雅な生活は棚に上げ、大勢の匠たちが追求した日本美の鑑賞に集中することにする。