yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.4 祇園の町屋で昼会席後、桂離宮へ→古書院は初代、中書院は2代、新御殿は3代の造営

2018年08月21日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ⑤祇園の町屋で昼会席→桂離宮へ

 

町屋風の食事処で昼会席、八坂神社参拝
 北門を出て花見小路通を歩く。古びた町屋を改造した食事処を探すが、観光客、修学旅行生で混み合っていた。花見小路通の1本東の細道から1本西の細道までぐるりと歩き、いくつか町屋の雰囲気を楽しめる食事処を見つけた。
 その一軒を格子戸からのぞくと雰囲気も良し、外に置かれたメニューの値段も手ごろ、ちょうど中庭に面した席が空いたばかりの食事処を見つけた(写真)。
 昼会席を頼む。花見小路通は賑わっていたが、1本奥に入ると喧騒は聞こえない。

 この食事処は、間口が4間ほど、奥行きが中庭を含めて6間ほどだった。1994年8月、京都・中京区の百足屋町で京町家の住み方を調べた・・http://www12.plala.or.jp/yoosan/調査研究・論文報告参照・・。平安京の町割りでは1戸主は15m×30mが単位だったがそれから1200年経った京町家の住み方に着目した調査である。
 そのときの記憶に照らしてもこの食事処は狭い。平安京の町割りの間口は1/2、奥行きは1/3ほどである。祇園だから、大いにはやった店は周りを買い取り構えを大きくしただろうが、個人経営では間口1/2、奥行き1/3ほどがこなしやすいのかも知れない。
 1階には4人掛けテーブル席が4つとカウンター席だけとこぢんまりしている。私はこぢんまりしている方が落ち着く。壁、床を白く仕上げ、床、柱、格子窓に木目を表したつくりも落ち着きを演出している。

 まず八寸をいただく。八寸は8寸角≒24cm角のお盆、あるいはそのお盆に載った料理のことである。
 和食は、洋食もそうだが、見た目の形、色合い、香り、盛りつけられた器を楽しむことから始まる。次に、口に入れたときの味、堅さ柔らかさ、乾湿の度合い、歯ごたえ楽しむ。どちらかといえばそれぞれの量を少なくし、さまざまな食材の料理を楽しみたい、と思う。
 値段が手ごろながらここでは八寸に続いて、小さな器に見た目も良く食欲をそそる盛りつけで、京丹波産黒豆、厚焼き玉子、ホタルイカ酢味噌和え、蕗の薹天ぷら、そら豆旨煮、小鯛笹漬け棒寿司、鯖生酢、甘海老などが出た。一つ一つ、この食材は?、どんな味?、器がいいねなどと楽しみながら箸を進めた。

 次に、鰆柚子庵煎り胡麻焼き、水菜・春キャベツ・お揚げ、白うどの土佐酢和え、筍・わかめ・蕗の炊き合わせをいただき、胡瓜と大根の糠漬け、焼き厚揚げと切り干し大根の赤味噌仕立て、蕗の薹とちりめんじゃこの炊いたんでご飯を食べた(写真)。
 最後の桜風味の白玉団子も完食した。昼会席とは思えないほど多彩だった。

 炊いたんは始めて聞く。スタッフに聞いたら、だし汁などに具を入れ弱火で炊き込んだ料理=「炊いたもの」が「炊いたん」に変化したそうだ。
 とすると、おばんざいなどの京料理の多くは炊いたんということになる。「煮物」とか「炊き合わせ」よりも、「炊いたん」の方が異文化に感じ、食欲をそそる。

 ゆったり食事を終えたあと、四条通に出る。右手に八坂神社の朱塗りの楼門が見えた(写真)。八坂神社は祇園さんとも呼ばれる祇園の氏神であり、祇園祭も八坂神社の祭礼である。八坂神社に参拝してから、鴨川を渡り、阪急京都線河原町駅から桂駅に向かう。

 

桂離宮古書院は初代、中書院は2代、新御殿は3代の造営
 14:30ごろ桂駅に着く。参観は15:30~なので歩くことにした。桂川街道を渡った少し先に障がい者自立支援施設があり、カフェ桂の泉も経営していた。30分ほど時間にゆとりがあるので、前庭のオープン席でコーヒーをいただいた。桂川の上流の一つは高山寺、西明寺、神護寺を流れる清滝川で、水質はAAと良好である。桂川も水質Aが保持されている。桂川流域には良好な水が流れていたようだ。前庭に井戸がある。カフェの名はこの井戸に由来したのかも知れない。
 桂離宮表門を回る。受付前に参観者が集まっていて、10分ほど前になると係が受付順に案内してくれた。
 午前中に配布された参観許可証と身分証=運転免許証を見せ、待合室に入る。待合室には大小の無料ロッカーが用意されていて、見学に必要のないものは預けるようになっている。セキュリティ対策も兼ねているようだ。

 待合室にはモニター画面があり、動画で桂離宮の見どころが紹介されていた。受け付けでくれたパンフレットと照合しながら予習ができる。
 web情報と合わせると、1615年、後陽成天皇の弟である八条宮初代智仁親王(1579-1629)が別荘としてここに桂山荘を創建したのが始まりになる。古書院が建てられた。あわせて大池、築山、茶屋などがつくられた。

 智仁親王没後、後を継いだ八条宮2代智忠親王(1619-1662)はまだ9才だったため、桂山荘は荒廃してしまう。
 幸い、智忠親王は加賀藩2代目前田利常(1594-1658)の娘富姫と結婚して、財政的に豊かになる。さらに、富姫の母=利常夫人は徳川秀忠の娘珠子であり、後水尾上皇皇妃和子の姪だったため、政治的な後ろ盾もつき、山荘の復興、増築を進めることができた。古書院を改築して中書院を増築し、月波楼、松琴亭、賞花亭、園林堂などが建てられた。

 智忠親王は44才で没する。子どもがいなかったため、後水尾上皇第11皇子幸宮を養子にしていて、第3代隠仁親王として後を継いだ。
 1663年の後水尾上皇の桂山荘行幸にあわせ、古書院・中書院に雁行して新御殿を増築し、庭園も改修された。

 複雑に入り組んだ池、大小5つの島、土橋、板橋、石橋、船着場、灯籠や手水鉢、築山、州浜、造園などは初代智仁親王が手がけ、2代智忠親王、3代隠仁親王がいまに残る形に仕上げたようだ。八条宮家は明治時代に途絶え、宮内庁所管となり、桂離宮と称されることになった。
 宮家の優雅な生活は棚に上げ、大勢の匠たちが追求した日本美の鑑賞に集中することにする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018.4 建仁寺法堂の天井の阿吽の双龍図は迫力あり→浴室・勅使門・三門を歩く

2018年08月19日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ④建仁寺 法堂・双龍図 浴室・勅使門・三門

建仁寺法堂は江戸期の禅宗様、天井の双龍図は平成
 方丈の南に仏殿と講堂を兼ねた法堂が建っている(写真)。1765年建立で、入母屋・瓦葺き屋根に裳階を付けた、荘重な構えの禅宗様建築である。
 堂内は広々とした土間になっている。講堂を兼ねているためであろう。中央の須弥壇に本尊釈迦如来座像と脇侍の迦葉カショウ尊者、阿難アナン尊者が祀られている(写真)。
 迦葉、阿難ともに釈迦の十大弟子だそうだ。堂内はガランとしているが、法会や仏事のとき、大勢の僧侶が読経すると響き渡りそうである。

天井には、いまにも降りてきそうな「双龍図」が描かれている(写真)。2002年、創建800年を記念して小泉淳作氏が描いた双龍で、11.4×15.7m≒108帖の大きさがある。小泉氏は北海道の空き小学校に108帖の和紙を広げ、双龍を描いたそうだ。
 龍は仏法を守護し、水を司る=火除けとして、禅寺の天井に描かれることが多い。2016年5月、京都・相国寺でも法堂の天井に描かれている狩野光信画「蟠龍図」を見た。このときは仏法を守護し、仏法の雨を降らすと説明された、大同小異であろう・・http://www12.plala.or.jp/yoosan/・日本の旅・京都2016年5月参照・・。蟠龍図は天井板に直接描かれていて、真下で手を鳴らすとこだますることから鳴き龍とも呼ばれる。

 相国寺の龍は一頭だが、建仁寺は阿吽の双龍である。二頭が108帖の大きさで絡み合っていて、仏法に逆らえば飛びかかるぞ、といった迫力を感じた。

茶の碑・桑の碑、浴室、勅使門、三門を巡る
 法堂参拝後、本坊に戻り、境内を南に歩く。日射しが出てきた。境内には広葉樹、針葉樹が少なくないが、境内が広いため日が通り明るい。
 左=東に白壁に花頭窓が目に付く小さな鐘撞き堂があった。木々の向こうに白壁、瓦屋根が続く。塔頭寺院のようだ。

 栄西は宋から茶種を持ち帰ったあと、茶の効用や製造法、桑の効用を喫茶養生記として著したそうだ。栄西の功績を顕彰する茶の碑桑の碑が据えられていた。
 小さな池を過ぎた左=東に、白壁に花頭窓、切り妻瓦葺き屋根の浴室が建っている(写真、web転載)。
 1658年建立の蒸し風呂で、待合、浴室、火炊き場に分かれているそうだ。禅寺では入浴も修行で、厳しい作法があるらしいが、閉じられていて見学はできなかった。
 2010年1月に妙心寺を訪ねたときは同じく浴室があり、蒸し風呂の仕組みを見学した。蒸し風呂を見たい方は妙心寺を訪ねるといい。
 ついでながら妙心寺法堂の天井には狩野探幽の雲龍図が描かれている・・http://www12.plala.or.jp/yoosan/日本の旅・京都2010年1月参照・・。

 浴室の先を右=西に折れると、左=南に重要文化財の勅使門が建つ(写真、web転載)。鎌倉時代後期、平重盛または平敦盛の館の門を移築したと伝えられている。
 切り妻銅板葺き屋根の四脚門形式である。四脚門とは、主柱の前後に控柱が立つ格式の高い門形式である。4は控柱の数で、実際には6本の柱が立っている。主柱が左右2本、計4本で、主柱の前後に控え柱が立つ最上位の門は、実際には12本の柱だが控柱が8本なので八脚門と呼ぶ。

 勅使門~三門~法堂~方丈は南北軸上に配置されている。境内が平地で広々しているためであろう。
 勅使門の北に三門が建つ(写真)。1923年、静岡県の安寧寺から移築された。
 仏国土に至るには空門・無相門・無願門の三境地を経ることから三解脱門とも呼ばれる。建仁寺パンフレットには空門・無相門・無作門と書かれている。仏教に疎いが、同じ意味であろう。
 楼上から御所が望めることから望闕楼と名付けられていて、軒下に望闕楼と書かれている。しかし、ここも柵が閉じていて、外観を眺めるだけである。

 ここらあたりで13時近くなったので食事に向かうことにし、建仁寺をあとにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018.4 建仁寺方丈の庭は枯山水の大雄苑→襖絵雲龍図→○△□乃庭

2018年08月17日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ③建仁寺 大雄苑・雲龍図・○△□乃庭

方丈で枯山水の大雄苑を眺め、海北友松画「雲龍図」を見る
 「風神雷神図屏風」の部屋を出て、方丈の広縁に進む。
 方丈は1599年に安芸の安国寺から移築された建物で、国の重要文化財の指定を受けている。入母屋造りでもともとは柿葺きだったが、銅板葺きに改修されていたらしい。1934年の室戸台風で建仁寺も被害を受け、復旧された。その際、柿葺きが復元されたそうだ。外観は法堂から見ることができる。
 方丈南庭は大雄苑と名付けられた枯山水に仕立てられている(写真、左手は法堂)。
 建仁寺の伽藍は南から勅使門~三門~法堂~方丈が南北一直線上に配置されていて、以前は法堂~方丈を結ぶ石敷通路が南庭を通っていた。室戸台風後の改修で、庭師・加藤熊吉によりいまの枯山水に仕立てられた・・加藤熊吉は始めて聞く・・。

 中国江西省に百丈山=別名大雄山という山があり・・大雄苑は大雄山に由来・・、ここに禅宗の百丈寺があった・・いまもあるかは不明・・。
 宋から帰国した栄西は、百丈寺を模して建仁寺を開山したそうで、加藤熊吉は、荒波を乗り越え、島を過ぎ、大陸にたどり着いて修行した栄西の世界を枯山水の庭に凝縮したようだ。
 白砂利が波を打っている。波に巨石が浮かぶ。対岸に緑豊かな大地がある。広縁に座って瞑想し、波を乗り切り緑豊かな楽園にたどり着ければ、悟りの境地に近づき、心が平らかになる、ということであろうか。庭園は感じるままに感じればいいので、人それぞれ答えは異なる。枯山水も解釈も自由であろう。


  方丈南側最初の部屋・礼の間は、安土桃山~江戸期の絵師・海北友松の重要文化財「雲龍図」デジタル複製が8面の襖に描かれている(写真)。襖2面に渡る龍の顔は猛り狂っているようで、墨は黒々とし、全体に荒々しい迫力に覆われている。

 南側中央の室中の間の襖絵は、同じく海北友松による重要文化財「竹林七賢図」デジタル複製である。16面の襖に墨で描かれた七賢人の顔は和やかで体つきは丸みを帯び、部屋全体は穏やかな印象になる。
 次の檀那の間には海北友松画「山水図」8面、北側最初の依鉢の間に海北友松画「琴棋書画図」10面、裏の間を通り過ぎ、最後の書院の間に海北友松画「花鳥図」8面の襖絵が描かれている。

 海北友松に疎かったが、最初の「雲龍図」の迫力には圧倒された。禅寺のためか、海北友松の襖絵は、墨を基調としている。襖に向き合っていると、その黒に同化してしまいそうである。海北友松の力量であろう。

茶席「東陽坊」「○△□乃庭」「潮音庭」
 方丈の北西、衣鉢の間の縁先に履き物が用意されている。庭に降りると、北庭を散策しながら茶席「東陽坊」を見学できる。
 説明坂には、利休高弟の一人、真如堂長盛が、豊臣秀吉が催した北野大茶会(1587年)の際に建てた二畳台目の小さな庵と書かれている。
 戸は閉まっていたが、小動物・鳥などの侵入を防ぐ金網の張ってある小窓からのぞくと、奥に横向きの台目畳、手前に縦向きの2畳が並び、左の畳に炉が切ってあった。
 台目畳と2畳の中央に形のいい曲げ柱が立ち、上が小壁になっている。座してみないと実感がわかないが、非日常的な空間で茶を点てる様子を想像するだけでも風流な気分になる。

 方丈に戻る。方丈の東、本坊と小書院に囲まれた中庭は「○△□乃庭」と書かれた札が立っている。
 禅問答のような中庭と思ったが、まさに禅の思想で、○△□の形は宇宙の根源的形態を表し、水を○、火を△、地を□として象徴した中庭だそうだ(写真)。中央のツバキの足下の苔むした緑が○、向こうの井戸が□、手前の一段高い白砂利が△になっている。この中庭を囲む回廊には参拝客、観光客の人通りが多く、○△□を瞑想できなかった。

 小書院とさらに北の書院に挟まれた中庭は「潮音庭」と呼ばれる。紅葉が見事そうな木々、苔むした緑の中ほどに三尊石と呼ばれる石が据えられていて、そばの石は座禅石と名付けられている。法堂の三尊仏の前で座禅する修行僧をイメージした庭であろうか。
 書院にも「風神雷神図屏風」デジタル複製が飾られていた。
 小書院に戻り、襖絵を見る。染色画家の鳥羽美花氏が奉納した襖絵で、鮮やかな青で仕上げられている。禅の新たな境地かも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018.4 栄西開山の臨済宗大本山建仁寺へ、俵屋宗達画国宝「風神雷神図屏風」に息を飲む

2018年08月15日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ②建仁寺 風神雷神図屏風

臨済宗大本山建仁寺の開基は源頼家、開山は栄西
 正伝永源院と建仁寺土塀に挟まれた道は団栗通と呼ばれる。突き当たりが花見小路通で、南に折れると建仁寺の北門が見える(写真)。
 花見小路あたりは、京都市が歴史的景観保全修景地区に指定するほど歴史的な佇まいを残した町屋が連なっている。
 そのせいか、修学旅行生や観光客が行き交い、町屋を背景に写真を取り合っている。食事処、カフェの店構えも古都らしい。11時半ぐらいなので、食事処のメニューをにらんでいる人も多い。

 建仁寺北門を入る。建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で、開基は源頼朝(1147-1199)の嫡男・第2代将軍源頼家(1182-1204)、開山は明菴栄西(1141-1215)である。
 栄西は比叡山で得度したのち、2回、南宋に渡り、臨済宗を日本に始めて伝えた。そのとき、京都を歩く・初日=三尾めぐりの高山寺で紹介したように、宗から茶種を持ち帰り、高山寺中興の明恵上人に贈ったことから高山寺で茶の栽培が始まったので、栄西が茶祖、高山寺が日本最古の茶園とされる。

 栄西が帰国した当時、比叡山延暦寺の勢力が強く禅寺を開くことができなかったので、まず博多で聖福寺を建て、のちに鎌倉に移り、源頼朝夫人北条政子の援助で1200年、鎌倉に寿福寺を開いた・・開基・北条政子、開山・栄西・・。
 建仁2年1202年、源頼家の援助でようやく京都に建仁寺を開くことができ、臨済宗の拠点とした。
 しかし、応仁の乱やたびたびの大火で当初の伽藍を焼失し、創建時の建物は現存しない。建仁寺のパンフレットによれば、勅使門は鎌倉時代後期の移建、方丈は1599年の移建、法堂は1765年上棟、三門は1923年の移建となっている。

俵屋宗達画国宝「風神雷神図屏風」デジタル複製 
 北門右手の本坊で拝観料500円を払い、入場する。
 最初の部屋に飾られていたのが「風神雷神図屏風」のデジタル複製である。教科書でも習った。独特の構図、色彩の見事な対比はしっかり記憶に刻まれている。
 それでも実物そっくりの複製を見ると引き込まれる。本物は京都国立博物館に寄託されているが、デジタル複製だと拡大縮小、照明も明るくできるし、温湿度調整や防犯上も管理がしやすいのではないだろうか。
 見学者も自由に写真を撮ることもできるから、デジタル複製はもっと活用されていいと思う。

 作者は尾形光琳(1658-1716)と並ぶ江戸時代の大画家、俵屋宗達(1570-1643)である。
 屏風はくの字型にすることで自立するから、本物だと中ほどが折れて左右が少し短くなるが、デジタル複製はもとの大きさに広げられていて、全体の構図が理解しやすい利点もある。
 屏風はくの字型に折れた一つの面を「セン」と呼び、「扇」が2つで構成された屏風は「二曲キョク」、4つで構成された屏風は「四曲」と呼ぶそうだ。また2つの屏風が左右で対になる場合は「ソウ」、対にならない場合は「セキ」と呼び、向かって右側が「右隻」、左側が「左隻」、右隻、左隻とも右側から「第一扇」「第二扇」・・と呼んでいく、というのを復習した。
 国宝複製「風神雷神図屏風」は右隻に風神、左隻に雷神が描かれている。風神と雷神は対になるから、二曲一双であり、右隻、左隻とも第一扇と第二扇は対にならないからそれぞれ二曲一隻と呼ぶことになるらしい。

 右隻、左隻とも縦154.5cm×横 169.8cmだそうで、二曲一双を並べたデジタル複製の横幅は340cmに近く、風神、雷神とも迫力がある。
 風神は風の袋を背にし、身体は緑色、風袋は白色に彩色されている。
 雷神は雷鳴を打ち鳴らす太鼓を背にし、身体は白色、たなびく布地が緑色で、風神と同色を使い分けていて、風神、雷神の動きをさらに躍動的にしている。
 右隻・第一扇と左隻の第二扇に風神、雷神を配し、右隻・第二扇と左隻・第一扇の余白を包み込むような構図も躍動感を強調している。

 いまにも画面から大風が吹き、雷鳴が響きそうに感じる。俵屋宗達の凄腕にしばらく吸い付けられた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018.4 桂離宮当日参観申し込み→織田有楽斎の墓地のある正伝永源院を過ぎる

2018年08月13日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ①桂離宮当日参観申し込み・織田有楽斎の墓地

桂離宮 当日参観申し込み
 四条烏丸の交叉点で地下に降り、阪急京都本線・烏丸駅から桂駅に向かう。
 桂離宮、修学院離宮は、それぞれ事前予約15名+当日受付20名、計35名、事前予約15名+当日受付35名、計50名のグループ単位で参観する。
 1ヶ月以上前に宮内庁オンラインシステムで桂離宮と修学院離宮の事前申し込みをしたが、許可が取れた予約日が離れ過ぎてしまった。そこでどちらかを予約日に参観し、他方を当日受付で参観することにした。
 まず桂離宮と修学院離宮の道のりを調べた。ホテルの位置も関係する。京の北東に位置する修学院離宮の乗り換えと京の南西に位置する桂離宮の乗り換えを比較する。いくつかのモデルコースをつくって比べた。
 その結果、ホテルを四条烏丸あたりで探し、修学院離宮を事前予約通りに4月27日午後参観、桂離宮参観は4月26日の当日申し込みにした。事前のweb情報では桂離宮の当日受け付け参観は13:30、14:30、15:30の3回、各回20名なので、受付開始時間11時より早ければ早いほど参観の可能性が高いらしい。

 というわけで、いま、阪急京都線で桂駅に向かっている。烏丸駅から桂駅は5分ほどと近い。
 桂離宮の印象から勝手に駅も古都のイメージだろうと想像していたが、現代的なビルだった(写真、ホームページ参照)。どこもかしこも古都のイメージにすることもないが、逆にどこもかしこも現代的なビルになっては地域の歴史が見えてこないと思う。桂という主張が欲しい。

 桂離宮を通るバスもあるが、歩く時間を確認しながら、古都の雰囲気を感じようと歩いた。駅前の案内図では道なり一直線に進むと桂川があり、左に折れると桂離宮である。分かりやすい。
 バス通りに面してビル、マンションが並ぶ。やはり古都の雰囲気は感じない。四条烏丸まで5分の近さが、町を市街化させたようだ。
 10数分歩き、桂川に沿って左折して桂離宮の庭を大きく回り込むと参観者入口、受付がある。9:40ごろ着いたが、すでに10数人が折りたたみベンチに座って受け付けを待っていた。

 15~16番目ぐらいなので、13:30、14:30、15:30のどれでも参観できそうである。11時過ぎに受け付けが終わるから、15:30参観だと、桂駅まで歩き、阪急京都本線で河原町に向かい、建仁寺を見学して昼食を取って戻ってくるとちょうど良さそうである。
 方針が決まったが、ベンチは桂離宮の北側で日が当たらず、座っていると冷えてくる。桂川あたりを歩いたりして11時を待った。
 11時の受け付け開始ごろでも待っている人は30数人だったから、11時前後に着いても当日参観はできそうである。

 私たちは予定通り15:30参観証を受け取り、15分ほど歩いて桂駅に戻った。
 
正伝永源院に織田有楽斎の墓地
 桂駅から阪急京都線・急行に乗り、終点の河原町駅で降りた。桂駅から10分もかからない。京都はバスも鉄道も縦横に走っているから、バス路線、鉄道路線を上手に利用すると観光に便利である。
 河原町駅から地上に出る。四条通は、修学旅行なのか高校生のグループが地図やパンフレットを見ながら忙しげに行き交っている。私たちのような日本人の観光客も多いが、外国人旅行者も負けず多い。
 人混みを縫って四条通を東に歩き、鴨川を渡る。目指すは建仁寺で、祇園四条から大和大路通に折れる。
 土塀を見つけ、建仁寺と見当をつけて左に曲がると、左手に正伝永源院が瓦葺きの門を構えていた。門の横に織田有楽斉の墓と彫られた石柱が立っている。
 およそ一ヶ月前の3月に名古屋城~岐阜城~犬山城を訪ねた。犬山で織田有楽斎が手がけた茶室・国宝如庵を見学した。
 その旅行記をまとめたのが京都旅行のあとだったため、国宝如庵で茶を楽しんだ織田有楽斎の墓地は正伝永源院だったようだ、ていどしか思わなかった。不学だといい加減な理解で終わってしまう。猫に小判、馬の耳に念仏である。
 京都旅行のあと、犬山旅行記をまとめて・・ホームページ日本の旅・愛知の旅・2018.3犬山を歩く・・織田有楽斎は織田信長の弟で、利休十哲の一人でもあり、祇園花見小路の正伝院を再興し、茶室如庵を建て、明治後、如庵は三井家に移され、正伝院は建仁寺塔頭の永源庵に移されて正伝永源院と名を改め、後に有楽斎の墓が正伝永源院に移され、如庵は犬山に移築されたことを学んだ。
 織田有楽斎は花見小路の正伝院に茶室如庵を建て、やがて生涯を閉じたから、このあたりは有楽斎、如庵ゆかりの地だったのである。このときは不勉強のうえ建仁寺に急いだので、通り過ぎてしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする