風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

16歳の日記より(4)チビ

2021年02月25日 | 「新エッセイ集2021」

 

チビが死んだ。悲しい。
死んだ時はもうちび犬ではなく成犬だった。激しい雷雨の夜、わが家に迷い込んできた時は小さな子犬だった。始めのうち動物嫌いの母に内緒で、僕はチビを縁の下に囲って餌をやっていたが、そのうち公然とわが家の家族になった。
耳の垂れた雌犬で、どんどん大きくなり、茶色の毛並みが磨いたように艶がよくなった。と思っていたら、どこからともなく雄犬が集まってきた。追い払っても追い払っても集まってくる。子犬のような小さな犬までチビの尻にぶら下がっている。チビは恨めしそうな眼をして僕を見ている。僕は交尾しようとする雄犬どもを、渾身の憎しみをこめて棒切れで叩きつけながら追い払う。そんな日が幾日かつづいた。
やがて、チビは5匹の子犬を生んだ。縁の下を覗くと小さな生き物が母犬の腹に群がっていた。3匹は茶色で1匹はまっ黒、あとの1匹は白と黒の斑(ぶち)で、この子犬は他より食い気も勝っていて、ひと回り育ちも早かった。そのせいか他の子犬は早々に貰われていったが、最後にぶちだけが残った。ブウと名付けた。僕はブウが一番好きだったので残ってよかったと思った。
ブウは僕が行くところどこへでもくっついてきた。僕が疎水の溝を飛び越えたとき、同じように越えようとして疎水に落ちてしまったこともある。
ブウは成長につれて黒い部分が茶色になった。いちばん母犬に似ていた。いつのまにかわが家の一員になりかかっていたところで、譲ってくれというひとが現れた。麻の大きな袋に入れられてもがいているブウを袋の上から触った。もはやブウとの間に距離があった。大切なものを突然失った虚しさをどうしていいか分からなかった。もうブウに触れることはできない。袋を通して残ったブウの感触だけが僕の手を苦しめた。
再び母犬だけが残った。チビにとっての賑やかだった数日間はあっという間に終わった。子犬たちが居なくなっても平気なようにみえるのが信じられなかった。
秋になってチビの顔に腫瘍が出来た。次第に体中に拡がっていくと、食欲がなくなり、どんどんやせ細り、顔中に広がった腫瘍で眼も開けにくそうになった。やがて寝たきりになり、眼も開かなくなった。ときどき発作が起きて急に走り出してはばったり倒れる。そんな力が残っていたことに一縷の望みを繋いだ。何も口にしなくなっても牛乳だけは飲んだ。それも横になったままで舌を伸ばして舐めるような飲み方だった。なるべく陽の当たるところに寝かしてやった。突然立ち上がる発作をいくどか繰り返していたが、まもなく動かなくなってチビの命は尽きた。
熱い炎が燃え尽きた跡のような、やせ細って小さくなった一個の死骸は、どうすることもできない僕自身の残骸を見ているようでもあった。短い期間だったが、チビとの関わりは大きかった。僕の生活の大きな部分を失った気がした。
夜、便所に入って一人になったら泣けてきた。涙が止まらない。声まで喉から突き上げてくるのが抑えられない。ほんとに僕が泣いているんだ。僕が僕をどうすることもできなかった。

 

 

 


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