風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

小さな旅をする

2018年12月08日 | 「新エッセイ集2018」

そヾろ神の物につきて心をくるはせ……
なんと、わけもなく人の心をそそのかす神がいるという。
そんな神にとり憑かれたように、白河の関を越えたいと旅を思い立ったのは、俳人の松尾芭蕉だった。
年の瀬のいま、ぼくもまた、ひとつ関を越えなければならない思いが強くしている。
おまえも越えよという、そヾろ神の声に急かされている。

ひとは同じようなことを考え、同じようなことを繰り返すのだろうか。
1年という時のサイクルの速さに驚きながら、過去の年末はどうだっただろうかと振り返って、ブログなどの記事を読み返してみたら、やはり今と同じようなことを考えていたようだ。

過去の自分は、すでに他人になっている。それでも、すこしだけ振り返って近づいてみたいと思ったりする。
なかなか旅を思い立つこともできないままでいると、旅のように思わぬところで、自分で書いた古い詩に出会い、振り返って言葉の旅をしてしまうことがある。
そしてまた、そヾろ神の声を聞きたいと思い、もういちどまた、言葉をたどる小さな旅をしてしまう。

      サーカス

   そこに
   風の道はなかったけれど
   風を運ぶものはあった
   見えない軌跡を引きながら
   空のブランコが近づいてくる
   宙を満たしているのは闇で
   伸びてくる手だけに光がある
   指と指をからめ
   その一瞬に風景がかわる
   生きることのバランスを
   ひとは危うい遊戯とみるだろう
   近づいたり離れたり
   手と手が触れ合うのは一瞬だけど
   その一瞬にかけて
   ひとは遠心力を生きる
   ひとつになろうとする重力がある
   終わりから始まる
   大きく風景は反転して
   空のざわめきが近づいてくる
   その緩やかな速度で
   風にのり風になる

 

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爪を切る

2018年12月04日 | 「新エッセイ集2018」

 

きょうも終わったと思う、夜は一日の終わり。
爪を切る。
切るたびに頭に浮かぶ言葉がある。
「夜に爪を切ったら親の死に目に会えない」と。
すこしためらいがあり、すこしほっとする。
もはや両親とも、この世には居なかったのだ、と。

親父は夜中に眠ったまま、誰にも気づかれずに死んだ。
おふくろの死は、会いに行く途中で、フェリーを降りたところで知らされた。
だから、どちらの死にも立ちあうことはできなかった。
いつも夜に爪を切っていたからか。
いまも爪を切りながら、親のことが頭をかすめる。

ずっとのちに田舎の家で、親父の遺品から爪切りを見つけたので、爪を切ろうとしたら、ぽとりとこぼれたものがある。
大きな爪の欠片だった。
生前の親父の爪にちがいなかった。
親父が切った、たぶん最後の爪がそこにあったのだ。
そのときも夜だったけれど、夜だったのでことさらに、久しぶりに親父に会ったみたいだった。

 

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かま猫(竈猫)と猫の事務所と

2018年11月30日 | 「新エッセイ集2018」

 

その後の野良の子ネコたちは、小さいながらもそれぞれに個性らしいものを現わし始めている。
ヒトの気配がすると木の陰に隠れてしまう臆病な奴や、さかんに木登りをする活発な奴もいる。草の中でじゃれあうのが好きな奴もいて、草むらの中でもがいている小さな足が忙しく宙を蹴っていたりする。
その近くでは、相変わらず親ネコが警戒してぼくの方を睨んでいるので、ゆっくり観察することもできず、ただ遠目で眺めながら通り過ぎることにしているのだが。

最近読んだ宮沢賢治の童話『猫の事務所』の、猫のイメージを引きずっているので、ぼくはネコの世界とヒトの世界との境界がすこし曖昧になってきている。
猫の事務所には、事務長の黒猫と4匹の猫の書記がいる。事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしているが目が銅線を張ったように立派だという。
4人の書記にはランクがあって、一番書記の白猫から順に虎猫と三毛猫、そして四番書記の竈猫(かまねこ)となっている。竈猫はいちばん下っ端ということになる。

竈猫(かまねこ)というのは、夜は竈(かまど)に入って眠る癖があるので体が煤で汚れている。鼻が黒くて狸みたいなのでほかの猫からは嫌われている。
竈猫はまじめに仕事をこなし、みんなに好かれようと努めるのだけれどうまくいかない。寒がりなので竈(かまど)で眠ることもやめられない。竈猫は土用に生まれたので皮が薄くて寒がりなのだという。
猫も事務所も、どうみても人間世界の風刺にみえてしまうのが、おかしくて切ない。

以前はネコのことなど全く関心がなかったけれど、最近は寒い夜など、野良たちはどこでどう凌いでいるのだろうかなどと、野良たちへのシンパシーが強くなったような気がする。きっと野良の子ネコたちのせいだろう。
いまは無垢で可愛い野良の子ネコたちも、それぞれに白猫や虎猫や三毛猫や竈猫などに育っていくのだろうか。
公園がますますネコだらけになって、そのうちネコの公園になってしまったら、猫の事務所もできるかもしれない。
猫の事務所がどんな仕事をするのかについては、宮沢賢治の「猫の事務所」を訪ねてほしい。

 


野に生きる

2018年11月26日 | 「新エッセイ集2018」

 

ネコは、生き方が上手な生き物なのかもしれない。
公園の野良ネコを見るたびに、そう思う。
いつのまにか、公園を自分らの住処にしてしまっている。冬は丸々と太り、夏はスマートに痩せ、季節と自然に順応して生きている。ヒトとの距離も適度に保ちながら、野生の営みでそっと生きつづけている。
イヌのように吠えたり噛みついたりもしない。ヒトにすり寄ってくることもない。近づくと雑草の中に隠れてしまう。冬は枯草のなかで生き、温かい季節は花のなかで生きている。

ぼくは毎日、近くの公園を歩いているが、ネコには完全に無視されている。ぼくもネコを無視しているのでお互いさまだ。ネコとぼくとの間には、あえて触れ合わない一定の距離がある。
だが、ネコと深いコンタクトをとろうとするヒトもいる。それぞれのネコに名前をつけて親しげに呼びかけている。毎日きちんとエサやりをする優しいヒトには、ネコも近寄っていく。尻尾をぴんと立てたその近づき方は、いかにも悠然としているので、ヒトの方がネコにすり寄っているようにもみえてしまう。

ある日、タンポポの白い綿毛が激しく揺れているところがあった。
草のあいだを見え隠れして白いものが動いている。見ると子ネコだった。4匹がじゃれあっている。その勢いで、あたりのタンポポの綿毛をまき散らしている。普段は静かな野良ネコの世界が、新しい生命で活気づいているのだった。
まるで草むらから生まれたばかりのような可愛さだ。いつもの見慣れた野良ネコの風景が、そこだけ一変したような感じだった。ぼくはすこしだけネコに関心をもった。

2日目の朝も、4匹の子ネコは同じ場所にいて、草を揺らして隠れたり飛び跳ねたりしていた。
すこし近づいてみたい誘惑にかられたが止めた。すぐそばに母ネコらしいのがいて、まん丸な目がぼくの姿をじっと捉えていた。いつもの無関心なネコの目とちがう。少しでも子ネコに近づいたら跳びかかってやる。そんな殺気だった構えにみえた。

3日目の朝、子ネコたちの姿は見えなくなっていた。
親ネコだけが、いつものようにぼくのことなど無視する風で寝そべっていた。ぼくのような怪しい人間が現れる前に、子ネコたちをどこか安全な場所にかくまったのかもしれない。そんな知らんぷりの仕方だった。
だれかに連れ去られたりとか、イタチかカラスに襲われたりとか、あるいは公園の管理者に保護されたりとか、親ネコの様子からはそんな雰囲気は感じられなかった。

だが、それから数日後、なんということはない。子ネコたちはまた元の草むらでじゃれ合っていた。無邪気にあそぶ子ネコたちと、外敵を警戒するように見守る親ネコ。いつかの風景がそっくり戻っていた。
野良ネコの世界では、何事も起きてはいなかったのだ。その後、子ネコたちは草むらを駆け抜けたり木登りをしたりして、すこしずつ逞しくなっていくようだった。
陽がふんだんに降りそそぐ原っぱがあり、雑木林があり水場もある。食い物にも不自由しない。野良として野に生きる、野生の歓びさえも確保したようにみえる。

 


空には鳥のかなしみ

2018年11月21日 | 「新エッセイ集2018」

 

公園のベンチで瞑想をする。雑念だらけの瞑想だから、ときどき周りの気配が気になって目を開ける。
眼前の草むらを、白いものが動きまわっている。ときどき芝を水平に切るように、素早い動きをしている。
いつも居る2羽のセキレイだ。1羽は顔から腹にかけての白がくっきりしている。もう1羽は体全体の模様が曖昧にぼやけている。雄と雌のつがいだろうか、たいがい2羽で居る。セキレイは夫婦仲のいい鳥なんだろう。

昨年の今頃、足が1本しかないセキレイが居た。
動きがぎこちなく、それでも、1本足で小さく跳ぶようにして餌を啄ばんでいた。傍らにはやはり、もう1羽の相棒らしいのがいて、付かず離れずに見守っているようにみえた。
今年はもう、その1本足のセキレイは見かけない。あれから、冬を越せずに死んでしまったのかもしれない。
鳥には羽があるから、足が1本しかなくても、空を飛ぶには不自由はないだろう。けれども、枝に止まることはできたのだろうか。片足でしっかり枝をつかめたのだろうか。

鳥は飛びながら死ぬことはない、と書かれた本を読んだことがある。
けれども、中学生の頃、野道を歩いていたら目の前にとつぜん、空から小鳥が落ちてきたことがある。
名前は知らないが綺麗な鳥だった。拾ってみると、まだ温かかった。でも、すでに死んでいた。空を飛んでいる最中に心臓が止まり、そのまま落ちてきたのだろうか。
小さな目は見開いたままで、いっぱい涙をためていた。

1本足のセキレイのことは1年前。小鳥が空から落ちてきたのは、遠い昔のこと。時空を超えて小鳥たちが、瞑想の空を飛び交っている。
呼吸を整えても、なかなか心は鎮まらないものだ。
空を飛びながら死んだら、鳥は地上に落下するしかないのか。空にはなにも残すことはできないのか。妄想の空には、鳥のかなしみばかりが広がっていく。